あの満月の夜から、数日が過ぎた。
渚子の日常は何も変わらない……はずだった。
書庫に通い、帳面を整理し、小梅と過ごす。
やっていることは同じなのに、胸の内だけが少しも元に戻らない。
翻訳をしていても、気づけばあの夜のことを思い出している。
覆いかぶさってきた体の熱。首筋に触れた牙の震え。あの琥珀の、まっすぐな瞳。
――あの人は、なぜ私を妻にしたのだろう。
あの熱にも、あの目にも、なにか意味があったのではないか。そう思うたび、最後に聞いた「出ていけ」の一言が胸に刺さる。
分からない。あの人のことが、何も分からない。
分からないのに、考えることをやめられない。
「はあ……」
もう一度あの人の顔が見たい。
そんなことを思っている自分がいる。
ある日、書庫で見つけた洋書の中に、服飾の図版を集めた一冊があった。
異国のドレス、帽子、手袋。頁をめくる指が、紺色のリボンのついた帽子の絵で止まる。
あの日、庭に投げ捨てられた帽子の色が蘇り、慌てて本を閉じた。
欲しいと思うから、奪われる。
そう言い聞かせてきたはずなのに、閉じた頁の上に置いた指先は、まだ名残惜しそうにしていた。
「奥方様、今日はお顔が赤いです。お体の具合でも悪いのですか?」
小梅が不思議そうに覗き込んでくる。
「きっ、気のせいじゃない!?」
本を持ち上げて顔を隠す。耳の先まで熱くなっているのが自分でも分かった。
*
同じ頃、母屋の執務室にも、仕事の手につかない男がひとりいた。
書類を読んでいるはずなのに、頭は一行も拾っていない。思い出すのは、渚子が巻いてくれた晒の感触ばかりだった。
――もう一度、触れたい。
その想いと、あんなことをした自分への嫌悪が、同じ強さで胸の中にある。
犬塚が報告に来るたび、銀が口にするのは渚子のことばかりだった。
「あの人は今日も書庫に?」
「はい。小梅と離れの庭で話もしておいででした。お顔の色もよろしいようです」
銀の手元で、ペンが止まる。
「……他には」
「書庫で洋書の服飾の頁を熱心にご覧でした。すぐに閉じておいででしたが」
銀は何も言わなかった。けれどペンを持つ指先が、わずかに力を込めた。
*
緋鶴が異変を知ったのは、満月の翌朝のことだった。
志波の女が、満月の夜に西の部屋から出てきた――そう聞いた時、緋鶴は一瞬、その意味を飲み込めなかった。
鎮しか使えぬ女が、なぜ。
分からない。分からないからこそ、胸の奥で冷たいものが動いた。
もし渚子が、棟梁にとってなくてはならない存在になったら。
その瞬間、自分の十年は崩れる。
銀の従妹として隣に立ち続け、いつか正式に番いとなる日を待ってきた十年だった。
(あの女を、この屋敷から追い出さなければ)
*
翌日、緋鶴は渚子の離れを訪れた。
手には一通の書状。鷹城家の家紋入りの封書だった。
中身は離縁を通達する文面である。
もちろん、本物ではない。銀の筆跡を真似、家紋の印を押した。緋鶴には、それができるだけの立場と十年かけて築いた力があった。
「棟梁より、お達しです」
渚子は書状を受け取り、静かに封を切った。
中を読み、一度だけ目を閉じる。
――ああ、やっぱり。
薬のことも、鍵のことも、あの夜の牙の感触も。何か意味があるのではないかと、どこかで期待していた自分が恥ずかしかった。
欲しいと思うから、奪われる。ならば最初から、欲しがらなければよかった。
「……承知いたしました」
緋鶴は一瞬、拍子抜けしたような顔をした。泣くか、取り乱すかと思っていたのかもしれない。
けれど渚子は泣かず、静かに荷物をまとめ始めた。
葛籠に帳面と洋書を詰め、最後に書庫の鍵を文机の上に置く。
真鍮の鍵に触れた途端、鈴蘭の香りを思い出し、指先が一瞬だけ止まる。けれど、そのまま置いた。
――未練がましくは、ないのだ。
自分に言い聞かせて、葛籠の蓋を閉じた。
*
準備が整ったところで、小梅の部屋に向かった。
荷物を持った渚子の姿を見た瞬間に、何かを察したのだろう。すぐに駆け寄り、袖を掴んだ。
「奥方様! どこかへお出かけですか?」
「小梅。今までありがとう。少し事情があって……ここを離れることになったの」
「そっ、そんなの嫌です……。行かないでください!」
渚子はしゃがみ込み、両手で小梅の頬を包んだ。指先が角に触れる。
「大丈夫。あなたは強い子よ」
額に手を触れているうちに、小梅の瞼がゆっくり重くなっていく。
角が少しずつ小さくなり、やがてこくりと舟を漕いだ。眠った小梅の頭を撫で、薄い布団をかけ直す。
ごめんね、と唇だけが動いた。けれどその声は、音にはならなかった。
*
夜の森は冷える。月は細い三日月で、満月の夜とは違う暗さがある。
緋鶴には、森を抜けた先に馬車を待たせてあると言われていた。
葛籠を背負った肩が軋む。
しばらく歩いた先、後ろでがさっと音がした。
(誰かにつけられてる?)
やがて木の後ろから、複数の気配がにじみ出る。ひとつ、ふたつ。やがて五つ。
いずれも額に角がある男だった。鬼だ。軍服も着ていない、妖籍も持たぬはぐれ者たちである。
先頭の男は太い二本角を生やし、手には鉈を持っていた。
男が薄く笑う。
「あんたをここから追い出した奴と、俺たちの依頼人が繋がっててな。あんたの嫁ぎ先の身内に、裏切り者がいるってこった」
追い出した奴とは、緋鶴のことだろうか。なら、身内の裏切り者とは――。
そこまで考える余裕はなかった。
先頭の鬼が一歩を踏み出した瞬間、渚子は走り出していた。
葛籠を投げ捨てる。帳面が地面に散り、その中に母の植物図鑑の革表紙が一瞬だけ見えた。
胸が痛むほど拾いたかった。けれど、今はそんなことを言っている場合ではない。
木の根を跨ぎ、枝を掻き分け、暗い森の中をただ走る。
「へえ、追いかけっこかい」
笑い声がすぐ後ろで弾む。枝が頬を切り、着物の裾が破けた。
だが、人間の足で鬼から逃げ切れるはずがなかった。
斜面を登りきった先で、渚子の足は止まった。
地面が、なかった。
崖から下を覗くと、鬱蒼とした森が広がっている。
この高さから落ちれば、助からないだろう。
振り返ると、五つの影が扇状に道を塞いでいる。
「追いかけっこは終わりだ。まあ、あんたに恨みはねえよ。だがお頭の頼みは絶対でな。断れば俺たちの居場所もなくなる」
崖の縁に立っていた。背中に夜風が吹き上がる。
足元の小石が崩れ、闇の底へ落ちていく。
――ここで終わりなの?
鬼の腕が振り上げられた。鉈の刃が三日月の光を一筋だけ拾って光る。
その瞬間だった。
森の闇が、銀色に裂けた。
鉈を振り上げていた男の体が吹き飛び、樹の幹に叩きつけられる。
渚子の前に立ちはだかる、巨大な影の持ち主は――銀色の獣だった。
人の背丈ほどもある四肢が大地を踏みしめ、その毛並みは月明かりに淡く光っている。
あまりにも巨大で、あまりにも美しい、銀色の狼だった。
残った四人の顔から、血の気が引いていく。
「ぎ、銀狼……」
「馬鹿な、なんで――」
獣が咆哮した。
森そのものを震わせるような大気の振動に、鬼のひとりが膝から崩れる。
「逃げろッ! 退け、退けェッ!」
銀色の獣が前脚で地を叩く。
それだけで、立っていた鬼たちの体が後方へ弾かれた。
最後のひとりが仲間を引きずるようにして闇の中へ消えていく。
森が、静かになった。
渚子は崖の縁に座り込んだまま動けなかった。膝が笑って、立てない。
銀色の獣が振り返る。
金の瞳が、渚子を見ていた。あの地下で見た琥珀と同じ色。見間違えようもない、あの目だった。
「助けに来てくれたの……?」
獣の額に触れる。銀色の毛並みは、思ったよりもずっと柔らかかった。
指を通すと、温かい。獣が目を細める。大きな喉の奥から低く震える音が、掌に伝わってきた。
この感触を、知っている。
指が覚えていた。あの毛並みの手触りも、額に触れた時の、力が抜けていくこの感覚も。
幼い日の山の中。傷だらけで横たわっていた、銀色の大きな犬。
ゆっくりと狼を撫でると、前脚のあたりで、かすかにちりんと音がした。
古い紐に結ばれた、煤けた鈴だった。
息が止まる。
「やっぱり、あなたは――」
自分でも思っていた以上に、助けが来たことに安心したのだろう。
張り詰めていた緊張が解けて、渚子の意識は闇へ落ちた。
*
あれは、戊辰の戦が終わりかけの頃のことだった。
渚子はまだ五つか六つで、戦火を避けて北の山あいの村に身を寄せていた。
その日、山菜を採りに裏山へ入ると、沢のそばで銀色の大きな犬を見つけた。泥と血にまみれ、脇腹には深い傷がある。けれど怖くはなかった。ただ、痛そうだと思った。
渚子は犬のそばにしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
薄く開いた金色の瞳は、大人にはただの獣ではない何かを思わせただろうが、幼い渚子にはただ綺麗に見えた。
着物の裾を破り、沢の水で濡らした布で傷を拭う。
「じっとしてて。すぐ終わるから」
傷口を洗い、布を巻く。幼い手ではうまく結べず、何度もやり直した。犬はその間、金色の目で渚子をじっと見ていた。
「へへへっ、これでよしっと! ちょっと不格好だけど、傷はちゃんと覆えてるから!」
手当てを終えると、渚子は犬の額に手を置いた。荒い呼吸は少しずつ穏やかになり、低い唸りも止んでいく。
「飼い主さんとはぐれちゃったの?」
懐から、母にもらった小さな鈴を取り出す。お守りだと言って、着物の紐に結んでくれたものだ。
それを犬の前脚にそっと結んだ。
「これをつけていれば、大切な人が見つけてくれるよ。だから大丈夫。きっと飼い主さんが迎えに来るから」
犬は目を閉じたまま、かすかに耳を動かした。
「明日もまた来るね!」
翌朝、握り飯を持って沢へ走ったが、犬はもういなかった。血の滲んだ石と、巻いた布の端切れだけが草の上に残されている。
きっと飼い主が見つけてくれたのだ。鈴をつけたから、きっと大丈夫だと信じた。
握り飯は、ひとりで食べた。
いつかまた、会えるといいな。
それだけを思って、渚子は山を下りた。
*
目を開けると、暖炉の火が揺れていた。
見覚えのない部屋だった。いつもの離れではない。
もっと広く、天井も高い。調度には品があり、炉の火が壁を静かな橙色に染めている。
文机には書類が積まれ、筆と硯が並んでいた。
体を起こそうとして、全身が軋む。崖まで走った足の裏が焼けるように痛かった。長椅子の上に横たえられていたらしい。誰かが毛布をかけてくれていた。
暖炉の前に、人の姿に戻った銀がいた。
白いシャツに袴という簡素な出で立ちだった。炉の灯りに照らされた銀色の髪が、あの地下で初めて見た時と同じように淡く光っている。
椅子に腰を下ろし、渚子が目を覚ますのをずっと待っていたのだ。
「……なぜ森にいた」
「離縁の書状が届きましたので」
「俺はそんなものを書いていない」
銀の声が、低く硬くなった。
「犬塚から、お前がいなくなったと報告を受けた。離れはもぬけの殻で、書庫の鍵が文机に置かれていた。すぐに追った」
書状を書いたのは、おそらく緋鶴だろう。
だが緋鶴の狙いは渚子を追い出すことで、その先に鬼がいることまでは想定していなかったのではないか。
つまり、緋鶴の嫉妬を利用し、渚子を屋敷の外へ追い出させ、その先に鬼を用意した者がいるということだ。
暖炉の火が爆ぜる音だけが部屋を満たしていた。
先に口を開いたのは渚子だった。膝の上の手が小さく震えている。
「書状が届いた時、ああやっぱりって。早くお暇したほうがご迷惑にならないかと思って」
銀は椅子から立ち上がると渚子の前まで歩き、そのまま膝をついた。
「済まなかった」
「お……お顔を上げてください!!」
銀は動かなかった。
「お願いです、顔を上げてください!」
渚子は身を起こし、両手で銀の頬を挟んだ。
無理やり顔を持ち上げると、琥珀の瞳が揺れていた。
「決して書状は書いていない。あの夜、お前を突き放したのは……あのまま傍にいたら、もう止まれなくなると思ったからだ。俺自身の手で、お前を傷つけてしまうかもしれないことが、恐ろしかった」
あの「出ていけ」は、渚子を拒んだのではなかった。
銀は渚子を守りたくて、自分自身から引き剥がしたのだ。
「……そう、だったんですか」
渚子の手が、銀の頬からゆっくりと離れた。
「あの……私、勘違いをしていたみたいで。すみません。お薬のことも、書庫の鍵のことも。勝手にいろいろ考えて、勝手に期待して……ご迷惑でしたよね」
離れかけた手を、銀が掴んだ。
「勘違いなんかじゃない」
「え……」
「薬を届けたのも、書庫の鍵も。勘違いなんかじゃない。全部……俺がやりたくてやったことだ」
ふいに掴まれた手の熱に、あの日のことを思い出してしまう。
「……あの後、離れに帰って、眠れませんでした」
渚子は掠れた声で言った。
「怖かったから、ではなくて。……あなたのことを、もっと知りたいと思ったから」
やがて銀が立ち上がり、長椅子の縁に腰を下ろした。
渚子の頬に手を伸ばし、枝で切れた傷のすぐ横を、指の背でそっと撫でる。
地下で牙を突き立てかけたのと同じ手が、今は壊れものに触れるようにかすかに震えていた。
「ずっと会いたかった。鎮の力は関係ない。お前でなければ駄目だった」
「……お前が、好きだからだ」
頭が真っ白になる。好き、と。銀が、自分を。
「なぜ、私なのですか。私には何もありません。御三家の名に値せず、実家にも――」
「渚子」
名前を呼ばれた。この屋敷に来て、初めて。
銀の手が、渚子の頬を包んだ。
「あの山で、お前は俺に触れた。……戊辰の戦で、俺は官軍の先陣にいた。戦闘力の高い人狼の部隊は、いつだって最前線に送られる。あの日、敵の奇襲を受けて隊は壊滅し、俺は獣の姿のまま山に逃げ込んだ。人の形に戻る力も残っていなかった」
声が、わずかに揺れる。
「傷ついた獣は何をするか分からない。仲間同士でも、近づけば噛み殺されることだってある。なのにお前は傍に座って、傷を洗って、布を巻いてくれた」
沢のそばの銀色の犬が、記憶の中でひとつに重なっていく。
「鈴を結んでくれた時、お前は言ったな。『これをつけてると、大切な人が見つけてくれる』と」
「あの日から、ずっとお前を探していた」
「そんなはず……」
「縁談を持ちかけたのは、お前を迎えに行くためだ。借金の肩代わりなど口実に過ぎない。ただ、あの山で鈴をくれた娘に、もう一度会いたかった。それだけだ」
「そんなこと、言われたら。出ていけなくなるじゃないですか」
涙で濡れたままの手を持ち上げ、銀の頬に触れる。
「私も、あの山でのことはずっと覚えていました。翌朝いなくなっていた時、飼い主さんが見つけてくれたのだと思って……よかったと思って……」
声が途切れる。鼻の奥が痛い。
「……でも本当は、寂しかった。また会いたかった」
袖で涙を拭おうとして、うまくいかない。次から次に溢れてくる。
「夕暮れに山の向こうが赤く染まると、いつも思い出していたんです。あの子は元気かなって。ちゃんとご飯を食べているかなって」
自分でも笑ってしまうくらい、ずっと犬だと思っていた。
「お庭で銀色の蝶を見た時も、雨上がりの水たまりが光っている時も。銀色のものを見ると、ついそれだけで、なんだか嬉しくなって。だから、あなただったと知った時――」
銀の手が、渚子の手の上に重なった。
掌を、自分の頬に押し当てるように。
「もう二度と、お前をひとりにしない」
強い力で、体が引き寄せられる。
腕が背中に回り、胸元へ抱き込まれた。
地下の夜の獣の熱とは違う、人の温度だった。
銀の胸に顔を埋めると、鈴蘭の香りがした。
薬包みと同じ。書庫の鍵と同じ。あの甘くて優しい匂いが、すぐ近くにある。
顎にそっと指が触れ、顔を上げさせられる。
「……渚子」
頷くより先に、銀の唇が降りてきた。
触れるだけの、静かな口づけだった。
けれど体の奥が、あの地下の夜と同じようにぞわりと甘く震える。
「……もう一度」
答える代わりに、渚子は銀の襟を掴んだ。
二度目の口づけは、少しだけ深い。
後頭部を支える手と、背中を抱き寄せる手。銀の襟を握りしめた指が、もう離せなくなっていた。
唇が離れた時、銀の額が渚子の額にそっと重なった。
「噛み痕もつけず、顔も合わせなかったのは、お前を守るためだった。無関心を装えば、お前だけは安全だと思った。その結果がこれだ。守るつもりで遠ざけて……寂しい思いを、させた」
「……いいんです。私の行く先には、いつも鈴蘭の香りがありましたから」
銀の腕に力がこもる。
「崖の上で死ぬかもしれないと思った時、一番怖かったのは――あなたの顔をもう見られないことでした。本当は……」
銀の手が渚子の後頭部に回り、自分の胸元に引き寄せた。
「帰りたくありません。私は、あなたの隣にいたい」
「渚子」
耳を押し当てた先で、銀の心臓が速く打っているのが聞こえる。
「俺も同じだ。お前がいない夜を、もう過ごしたくない」
銀の唇が、もう一度降りてきた。
今度は額でも頬でもなく、渚子の唇に。
さっきよりも長く、さっきよりも深く。
目を閉じる。暖炉の火の温もりと、銀の腕の温もりと、唇の温もりが、ひとつに溶けていく。
このまま、時が止まればいいのに、と生まれて初めて思った。
*
翌朝。母屋の奥、銀の執務室。
窓から差し込む朝日の中で、銀は書類には目もくれず、犬塚の報告を聞いていた。
銀は拳を組み、こきりと机の上で小さく鳴らした。静かな音だったが、犬塚の背筋がすっと伸びる。
鬼を使い渚子を危険に晒した相手の目処は、もうおおよそついている。
「偽の離縁状は、やはり緋鶴様の筆跡でした。棟梁の書状箱から家紋の印を持ち出した形跡もございます」
犬塚が一呼吸置く。
「ただし、崖で取り押さえた鬼の一人を尋問したところ、依頼主は鋼一郎様でした」
「やはりな」
鷹城鋼一郎。銀の父の弟であり、緋鶴の父。
一族の重鎮として三十年にわたり幹部会を仕切り、表向きは銀に忠実な様を演じてきた。
だがこの男には裏がある。鬼は人狼社会の最下層に置かれ、正規の手段では動かせない汚れ仕事を引き受ける者が多い。
鋼一郎はそこに目をつけ、長年にわたって鬼のはぐれ者たちに金を流し、私兵のように使ってきた。
証拠を掴ませず、手を汚さず、穏やかな笑みの裏で糸を引く。それがこの男のやり方だ。
だが今夜、その糸が一本、表に出た。
緋鶴も、鋼一郎も。どちらも、許すつもりはない。
「遠ざけていれば守れると思っていた。だが、俺が甘かったな」
しばしの沈黙ののち、銀は立ち上がった。窓の外に目を向ける。
靄の向こうに、離れの屋根が見えた。
「次の夜会に、渚子を連れていく」
犬塚が顔を上げる。
「……よろしいのですか」
「ああ」
銀は窓から目を離し、犬塚を見た。
琥珀の瞳に、昨夜までの迷いはない。
「緋鶴だけでなく。人狼のすべてに――渚子は俺の女だと、思い知らせてやる」
渚子の日常は何も変わらない……はずだった。
書庫に通い、帳面を整理し、小梅と過ごす。
やっていることは同じなのに、胸の内だけが少しも元に戻らない。
翻訳をしていても、気づけばあの夜のことを思い出している。
覆いかぶさってきた体の熱。首筋に触れた牙の震え。あの琥珀の、まっすぐな瞳。
――あの人は、なぜ私を妻にしたのだろう。
あの熱にも、あの目にも、なにか意味があったのではないか。そう思うたび、最後に聞いた「出ていけ」の一言が胸に刺さる。
分からない。あの人のことが、何も分からない。
分からないのに、考えることをやめられない。
「はあ……」
もう一度あの人の顔が見たい。
そんなことを思っている自分がいる。
ある日、書庫で見つけた洋書の中に、服飾の図版を集めた一冊があった。
異国のドレス、帽子、手袋。頁をめくる指が、紺色のリボンのついた帽子の絵で止まる。
あの日、庭に投げ捨てられた帽子の色が蘇り、慌てて本を閉じた。
欲しいと思うから、奪われる。
そう言い聞かせてきたはずなのに、閉じた頁の上に置いた指先は、まだ名残惜しそうにしていた。
「奥方様、今日はお顔が赤いです。お体の具合でも悪いのですか?」
小梅が不思議そうに覗き込んでくる。
「きっ、気のせいじゃない!?」
本を持ち上げて顔を隠す。耳の先まで熱くなっているのが自分でも分かった。
*
同じ頃、母屋の執務室にも、仕事の手につかない男がひとりいた。
書類を読んでいるはずなのに、頭は一行も拾っていない。思い出すのは、渚子が巻いてくれた晒の感触ばかりだった。
――もう一度、触れたい。
その想いと、あんなことをした自分への嫌悪が、同じ強さで胸の中にある。
犬塚が報告に来るたび、銀が口にするのは渚子のことばかりだった。
「あの人は今日も書庫に?」
「はい。小梅と離れの庭で話もしておいででした。お顔の色もよろしいようです」
銀の手元で、ペンが止まる。
「……他には」
「書庫で洋書の服飾の頁を熱心にご覧でした。すぐに閉じておいででしたが」
銀は何も言わなかった。けれどペンを持つ指先が、わずかに力を込めた。
*
緋鶴が異変を知ったのは、満月の翌朝のことだった。
志波の女が、満月の夜に西の部屋から出てきた――そう聞いた時、緋鶴は一瞬、その意味を飲み込めなかった。
鎮しか使えぬ女が、なぜ。
分からない。分からないからこそ、胸の奥で冷たいものが動いた。
もし渚子が、棟梁にとってなくてはならない存在になったら。
その瞬間、自分の十年は崩れる。
銀の従妹として隣に立ち続け、いつか正式に番いとなる日を待ってきた十年だった。
(あの女を、この屋敷から追い出さなければ)
*
翌日、緋鶴は渚子の離れを訪れた。
手には一通の書状。鷹城家の家紋入りの封書だった。
中身は離縁を通達する文面である。
もちろん、本物ではない。銀の筆跡を真似、家紋の印を押した。緋鶴には、それができるだけの立場と十年かけて築いた力があった。
「棟梁より、お達しです」
渚子は書状を受け取り、静かに封を切った。
中を読み、一度だけ目を閉じる。
――ああ、やっぱり。
薬のことも、鍵のことも、あの夜の牙の感触も。何か意味があるのではないかと、どこかで期待していた自分が恥ずかしかった。
欲しいと思うから、奪われる。ならば最初から、欲しがらなければよかった。
「……承知いたしました」
緋鶴は一瞬、拍子抜けしたような顔をした。泣くか、取り乱すかと思っていたのかもしれない。
けれど渚子は泣かず、静かに荷物をまとめ始めた。
葛籠に帳面と洋書を詰め、最後に書庫の鍵を文机の上に置く。
真鍮の鍵に触れた途端、鈴蘭の香りを思い出し、指先が一瞬だけ止まる。けれど、そのまま置いた。
――未練がましくは、ないのだ。
自分に言い聞かせて、葛籠の蓋を閉じた。
*
準備が整ったところで、小梅の部屋に向かった。
荷物を持った渚子の姿を見た瞬間に、何かを察したのだろう。すぐに駆け寄り、袖を掴んだ。
「奥方様! どこかへお出かけですか?」
「小梅。今までありがとう。少し事情があって……ここを離れることになったの」
「そっ、そんなの嫌です……。行かないでください!」
渚子はしゃがみ込み、両手で小梅の頬を包んだ。指先が角に触れる。
「大丈夫。あなたは強い子よ」
額に手を触れているうちに、小梅の瞼がゆっくり重くなっていく。
角が少しずつ小さくなり、やがてこくりと舟を漕いだ。眠った小梅の頭を撫で、薄い布団をかけ直す。
ごめんね、と唇だけが動いた。けれどその声は、音にはならなかった。
*
夜の森は冷える。月は細い三日月で、満月の夜とは違う暗さがある。
緋鶴には、森を抜けた先に馬車を待たせてあると言われていた。
葛籠を背負った肩が軋む。
しばらく歩いた先、後ろでがさっと音がした。
(誰かにつけられてる?)
やがて木の後ろから、複数の気配がにじみ出る。ひとつ、ふたつ。やがて五つ。
いずれも額に角がある男だった。鬼だ。軍服も着ていない、妖籍も持たぬはぐれ者たちである。
先頭の男は太い二本角を生やし、手には鉈を持っていた。
男が薄く笑う。
「あんたをここから追い出した奴と、俺たちの依頼人が繋がっててな。あんたの嫁ぎ先の身内に、裏切り者がいるってこった」
追い出した奴とは、緋鶴のことだろうか。なら、身内の裏切り者とは――。
そこまで考える余裕はなかった。
先頭の鬼が一歩を踏み出した瞬間、渚子は走り出していた。
葛籠を投げ捨てる。帳面が地面に散り、その中に母の植物図鑑の革表紙が一瞬だけ見えた。
胸が痛むほど拾いたかった。けれど、今はそんなことを言っている場合ではない。
木の根を跨ぎ、枝を掻き分け、暗い森の中をただ走る。
「へえ、追いかけっこかい」
笑い声がすぐ後ろで弾む。枝が頬を切り、着物の裾が破けた。
だが、人間の足で鬼から逃げ切れるはずがなかった。
斜面を登りきった先で、渚子の足は止まった。
地面が、なかった。
崖から下を覗くと、鬱蒼とした森が広がっている。
この高さから落ちれば、助からないだろう。
振り返ると、五つの影が扇状に道を塞いでいる。
「追いかけっこは終わりだ。まあ、あんたに恨みはねえよ。だがお頭の頼みは絶対でな。断れば俺たちの居場所もなくなる」
崖の縁に立っていた。背中に夜風が吹き上がる。
足元の小石が崩れ、闇の底へ落ちていく。
――ここで終わりなの?
鬼の腕が振り上げられた。鉈の刃が三日月の光を一筋だけ拾って光る。
その瞬間だった。
森の闇が、銀色に裂けた。
鉈を振り上げていた男の体が吹き飛び、樹の幹に叩きつけられる。
渚子の前に立ちはだかる、巨大な影の持ち主は――銀色の獣だった。
人の背丈ほどもある四肢が大地を踏みしめ、その毛並みは月明かりに淡く光っている。
あまりにも巨大で、あまりにも美しい、銀色の狼だった。
残った四人の顔から、血の気が引いていく。
「ぎ、銀狼……」
「馬鹿な、なんで――」
獣が咆哮した。
森そのものを震わせるような大気の振動に、鬼のひとりが膝から崩れる。
「逃げろッ! 退け、退けェッ!」
銀色の獣が前脚で地を叩く。
それだけで、立っていた鬼たちの体が後方へ弾かれた。
最後のひとりが仲間を引きずるようにして闇の中へ消えていく。
森が、静かになった。
渚子は崖の縁に座り込んだまま動けなかった。膝が笑って、立てない。
銀色の獣が振り返る。
金の瞳が、渚子を見ていた。あの地下で見た琥珀と同じ色。見間違えようもない、あの目だった。
「助けに来てくれたの……?」
獣の額に触れる。銀色の毛並みは、思ったよりもずっと柔らかかった。
指を通すと、温かい。獣が目を細める。大きな喉の奥から低く震える音が、掌に伝わってきた。
この感触を、知っている。
指が覚えていた。あの毛並みの手触りも、額に触れた時の、力が抜けていくこの感覚も。
幼い日の山の中。傷だらけで横たわっていた、銀色の大きな犬。
ゆっくりと狼を撫でると、前脚のあたりで、かすかにちりんと音がした。
古い紐に結ばれた、煤けた鈴だった。
息が止まる。
「やっぱり、あなたは――」
自分でも思っていた以上に、助けが来たことに安心したのだろう。
張り詰めていた緊張が解けて、渚子の意識は闇へ落ちた。
*
あれは、戊辰の戦が終わりかけの頃のことだった。
渚子はまだ五つか六つで、戦火を避けて北の山あいの村に身を寄せていた。
その日、山菜を採りに裏山へ入ると、沢のそばで銀色の大きな犬を見つけた。泥と血にまみれ、脇腹には深い傷がある。けれど怖くはなかった。ただ、痛そうだと思った。
渚子は犬のそばにしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
薄く開いた金色の瞳は、大人にはただの獣ではない何かを思わせただろうが、幼い渚子にはただ綺麗に見えた。
着物の裾を破り、沢の水で濡らした布で傷を拭う。
「じっとしてて。すぐ終わるから」
傷口を洗い、布を巻く。幼い手ではうまく結べず、何度もやり直した。犬はその間、金色の目で渚子をじっと見ていた。
「へへへっ、これでよしっと! ちょっと不格好だけど、傷はちゃんと覆えてるから!」
手当てを終えると、渚子は犬の額に手を置いた。荒い呼吸は少しずつ穏やかになり、低い唸りも止んでいく。
「飼い主さんとはぐれちゃったの?」
懐から、母にもらった小さな鈴を取り出す。お守りだと言って、着物の紐に結んでくれたものだ。
それを犬の前脚にそっと結んだ。
「これをつけていれば、大切な人が見つけてくれるよ。だから大丈夫。きっと飼い主さんが迎えに来るから」
犬は目を閉じたまま、かすかに耳を動かした。
「明日もまた来るね!」
翌朝、握り飯を持って沢へ走ったが、犬はもういなかった。血の滲んだ石と、巻いた布の端切れだけが草の上に残されている。
きっと飼い主が見つけてくれたのだ。鈴をつけたから、きっと大丈夫だと信じた。
握り飯は、ひとりで食べた。
いつかまた、会えるといいな。
それだけを思って、渚子は山を下りた。
*
目を開けると、暖炉の火が揺れていた。
見覚えのない部屋だった。いつもの離れではない。
もっと広く、天井も高い。調度には品があり、炉の火が壁を静かな橙色に染めている。
文机には書類が積まれ、筆と硯が並んでいた。
体を起こそうとして、全身が軋む。崖まで走った足の裏が焼けるように痛かった。長椅子の上に横たえられていたらしい。誰かが毛布をかけてくれていた。
暖炉の前に、人の姿に戻った銀がいた。
白いシャツに袴という簡素な出で立ちだった。炉の灯りに照らされた銀色の髪が、あの地下で初めて見た時と同じように淡く光っている。
椅子に腰を下ろし、渚子が目を覚ますのをずっと待っていたのだ。
「……なぜ森にいた」
「離縁の書状が届きましたので」
「俺はそんなものを書いていない」
銀の声が、低く硬くなった。
「犬塚から、お前がいなくなったと報告を受けた。離れはもぬけの殻で、書庫の鍵が文机に置かれていた。すぐに追った」
書状を書いたのは、おそらく緋鶴だろう。
だが緋鶴の狙いは渚子を追い出すことで、その先に鬼がいることまでは想定していなかったのではないか。
つまり、緋鶴の嫉妬を利用し、渚子を屋敷の外へ追い出させ、その先に鬼を用意した者がいるということだ。
暖炉の火が爆ぜる音だけが部屋を満たしていた。
先に口を開いたのは渚子だった。膝の上の手が小さく震えている。
「書状が届いた時、ああやっぱりって。早くお暇したほうがご迷惑にならないかと思って」
銀は椅子から立ち上がると渚子の前まで歩き、そのまま膝をついた。
「済まなかった」
「お……お顔を上げてください!!」
銀は動かなかった。
「お願いです、顔を上げてください!」
渚子は身を起こし、両手で銀の頬を挟んだ。
無理やり顔を持ち上げると、琥珀の瞳が揺れていた。
「決して書状は書いていない。あの夜、お前を突き放したのは……あのまま傍にいたら、もう止まれなくなると思ったからだ。俺自身の手で、お前を傷つけてしまうかもしれないことが、恐ろしかった」
あの「出ていけ」は、渚子を拒んだのではなかった。
銀は渚子を守りたくて、自分自身から引き剥がしたのだ。
「……そう、だったんですか」
渚子の手が、銀の頬からゆっくりと離れた。
「あの……私、勘違いをしていたみたいで。すみません。お薬のことも、書庫の鍵のことも。勝手にいろいろ考えて、勝手に期待して……ご迷惑でしたよね」
離れかけた手を、銀が掴んだ。
「勘違いなんかじゃない」
「え……」
「薬を届けたのも、書庫の鍵も。勘違いなんかじゃない。全部……俺がやりたくてやったことだ」
ふいに掴まれた手の熱に、あの日のことを思い出してしまう。
「……あの後、離れに帰って、眠れませんでした」
渚子は掠れた声で言った。
「怖かったから、ではなくて。……あなたのことを、もっと知りたいと思ったから」
やがて銀が立ち上がり、長椅子の縁に腰を下ろした。
渚子の頬に手を伸ばし、枝で切れた傷のすぐ横を、指の背でそっと撫でる。
地下で牙を突き立てかけたのと同じ手が、今は壊れものに触れるようにかすかに震えていた。
「ずっと会いたかった。鎮の力は関係ない。お前でなければ駄目だった」
「……お前が、好きだからだ」
頭が真っ白になる。好き、と。銀が、自分を。
「なぜ、私なのですか。私には何もありません。御三家の名に値せず、実家にも――」
「渚子」
名前を呼ばれた。この屋敷に来て、初めて。
銀の手が、渚子の頬を包んだ。
「あの山で、お前は俺に触れた。……戊辰の戦で、俺は官軍の先陣にいた。戦闘力の高い人狼の部隊は、いつだって最前線に送られる。あの日、敵の奇襲を受けて隊は壊滅し、俺は獣の姿のまま山に逃げ込んだ。人の形に戻る力も残っていなかった」
声が、わずかに揺れる。
「傷ついた獣は何をするか分からない。仲間同士でも、近づけば噛み殺されることだってある。なのにお前は傍に座って、傷を洗って、布を巻いてくれた」
沢のそばの銀色の犬が、記憶の中でひとつに重なっていく。
「鈴を結んでくれた時、お前は言ったな。『これをつけてると、大切な人が見つけてくれる』と」
「あの日から、ずっとお前を探していた」
「そんなはず……」
「縁談を持ちかけたのは、お前を迎えに行くためだ。借金の肩代わりなど口実に過ぎない。ただ、あの山で鈴をくれた娘に、もう一度会いたかった。それだけだ」
「そんなこと、言われたら。出ていけなくなるじゃないですか」
涙で濡れたままの手を持ち上げ、銀の頬に触れる。
「私も、あの山でのことはずっと覚えていました。翌朝いなくなっていた時、飼い主さんが見つけてくれたのだと思って……よかったと思って……」
声が途切れる。鼻の奥が痛い。
「……でも本当は、寂しかった。また会いたかった」
袖で涙を拭おうとして、うまくいかない。次から次に溢れてくる。
「夕暮れに山の向こうが赤く染まると、いつも思い出していたんです。あの子は元気かなって。ちゃんとご飯を食べているかなって」
自分でも笑ってしまうくらい、ずっと犬だと思っていた。
「お庭で銀色の蝶を見た時も、雨上がりの水たまりが光っている時も。銀色のものを見ると、ついそれだけで、なんだか嬉しくなって。だから、あなただったと知った時――」
銀の手が、渚子の手の上に重なった。
掌を、自分の頬に押し当てるように。
「もう二度と、お前をひとりにしない」
強い力で、体が引き寄せられる。
腕が背中に回り、胸元へ抱き込まれた。
地下の夜の獣の熱とは違う、人の温度だった。
銀の胸に顔を埋めると、鈴蘭の香りがした。
薬包みと同じ。書庫の鍵と同じ。あの甘くて優しい匂いが、すぐ近くにある。
顎にそっと指が触れ、顔を上げさせられる。
「……渚子」
頷くより先に、銀の唇が降りてきた。
触れるだけの、静かな口づけだった。
けれど体の奥が、あの地下の夜と同じようにぞわりと甘く震える。
「……もう一度」
答える代わりに、渚子は銀の襟を掴んだ。
二度目の口づけは、少しだけ深い。
後頭部を支える手と、背中を抱き寄せる手。銀の襟を握りしめた指が、もう離せなくなっていた。
唇が離れた時、銀の額が渚子の額にそっと重なった。
「噛み痕もつけず、顔も合わせなかったのは、お前を守るためだった。無関心を装えば、お前だけは安全だと思った。その結果がこれだ。守るつもりで遠ざけて……寂しい思いを、させた」
「……いいんです。私の行く先には、いつも鈴蘭の香りがありましたから」
銀の腕に力がこもる。
「崖の上で死ぬかもしれないと思った時、一番怖かったのは――あなたの顔をもう見られないことでした。本当は……」
銀の手が渚子の後頭部に回り、自分の胸元に引き寄せた。
「帰りたくありません。私は、あなたの隣にいたい」
「渚子」
耳を押し当てた先で、銀の心臓が速く打っているのが聞こえる。
「俺も同じだ。お前がいない夜を、もう過ごしたくない」
銀の唇が、もう一度降りてきた。
今度は額でも頬でもなく、渚子の唇に。
さっきよりも長く、さっきよりも深く。
目を閉じる。暖炉の火の温もりと、銀の腕の温もりと、唇の温もりが、ひとつに溶けていく。
このまま、時が止まればいいのに、と生まれて初めて思った。
*
翌朝。母屋の奥、銀の執務室。
窓から差し込む朝日の中で、銀は書類には目もくれず、犬塚の報告を聞いていた。
銀は拳を組み、こきりと机の上で小さく鳴らした。静かな音だったが、犬塚の背筋がすっと伸びる。
鬼を使い渚子を危険に晒した相手の目処は、もうおおよそついている。
「偽の離縁状は、やはり緋鶴様の筆跡でした。棟梁の書状箱から家紋の印を持ち出した形跡もございます」
犬塚が一呼吸置く。
「ただし、崖で取り押さえた鬼の一人を尋問したところ、依頼主は鋼一郎様でした」
「やはりな」
鷹城鋼一郎。銀の父の弟であり、緋鶴の父。
一族の重鎮として三十年にわたり幹部会を仕切り、表向きは銀に忠実な様を演じてきた。
だがこの男には裏がある。鬼は人狼社会の最下層に置かれ、正規の手段では動かせない汚れ仕事を引き受ける者が多い。
鋼一郎はそこに目をつけ、長年にわたって鬼のはぐれ者たちに金を流し、私兵のように使ってきた。
証拠を掴ませず、手を汚さず、穏やかな笑みの裏で糸を引く。それがこの男のやり方だ。
だが今夜、その糸が一本、表に出た。
緋鶴も、鋼一郎も。どちらも、許すつもりはない。
「遠ざけていれば守れると思っていた。だが、俺が甘かったな」
しばしの沈黙ののち、銀は立ち上がった。窓の外に目を向ける。
靄の向こうに、離れの屋根が見えた。
「次の夜会に、渚子を連れていく」
犬塚が顔を上げる。
「……よろしいのですか」
「ああ」
銀は窓から目を離し、犬塚を見た。
琥珀の瞳に、昨夜までの迷いはない。
「緋鶴だけでなく。人狼のすべてに――渚子は俺の女だと、思い知らせてやる」


