銀狼伯爵と噛み痕のない花嫁

 あの満月の夜から、数日が過ぎた。
 渚子の日常は何も変わらない……はずだった。

 書庫に通い、帳面を整理し、小梅と過ごす。
 やっていることは同じなのに、胸の内だけが少しも元に戻らない。

 翻訳をしていても、気づけばあの夜のことを思い出している。
 覆いかぶさってきた体の熱。首筋に触れた牙の震え。あの琥珀の、まっすぐな瞳。

 ――あの人は、なぜ私を妻にしたのだろう。

 あの熱にも、あの目にも、なにか意味があったのではないか。そう思うたび、最後に聞いた「出ていけ」の一言が胸に刺さる。

 分からない。あの人のことが、何も分からない。
 分からないのに、考えることをやめられない。

 「はあ……」

 もう一度あの人の顔が見たい。
 そんなことを思っている自分がいる。

 ある日、書庫で見つけた洋書の中に、服飾の図版を集めた一冊があった。
 異国のドレス、帽子、手袋。頁をめくる指が、紺色のリボンのついた帽子の絵で止まる。
 あの日、庭に投げ捨てられた帽子の色が蘇り、慌てて本を閉じた。

 欲しいと思うから、奪われる。
 そう言い聞かせてきたはずなのに、閉じた頁の上に置いた指先は、まだ名残惜しそうにしていた。

 「奥方様、今日はお顔が赤いです。お体の具合でも悪いのですか?」

 小梅が不思議そうに覗き込んでくる。

 「きっ、気のせいじゃない!?」

 本を持ち上げて顔を隠す。耳の先まで熱くなっているのが自分でも分かった。

       *

 同じ頃、母屋の執務室にも、仕事の手につかない男がひとりいた。
 書類を読んでいるはずなのに、頭は一行も拾っていない。思い出すのは、渚子が巻いてくれた晒の感触ばかりだった。

 ――もう一度、触れたい。

 その想いと、あんなことをした自分への嫌悪が、同じ強さで胸の中にある。
 犬塚が報告に来るたび、銀が口にするのは渚子のことばかりだった。

 「あの人は今日も書庫に?」
 「はい。小梅と離れの庭で話もしておいででした。お顔の色もよろしいようです」

 銀の手元で、ペンが止まる。

 「……他には」
 「書庫で洋書の服飾の頁を熱心にご覧でした。すぐに閉じておいででしたが」

 銀は何も言わなかった。けれどペンを持つ指先が、わずかに力を込めた。

       *

 緋鶴が異変を知ったのは、満月の翌朝のことだった。
 志波の女が、満月の夜に西の部屋から出てきた――そう聞いた時、緋鶴は一瞬、その意味を飲み込めなかった。

 鎮しか使えぬ女が、なぜ。
 分からない。分からないからこそ、胸の奥で冷たいものが動いた。

 もし渚子が、棟梁にとってなくてはならない存在になったら。
 その瞬間、自分の十年は崩れる。
 銀の従妹として隣に立ち続け、いつか正式に番いとなる日を待ってきた十年だった。

 (あの女を、この屋敷から追い出さなければ)

       *

 翌日、緋鶴は渚子の離れを訪れた。
 手には一通の書状。鷹城家の家紋入りの封書だった。

 中身は離縁を通達する文面である。
 もちろん、本物ではない。銀の筆跡を真似、家紋の印を押した。緋鶴には、それができるだけの立場と十年かけて築いた力があった。

 「棟梁より、お達しです」

 渚子は書状を受け取り、静かに封を切った。
 中を読み、一度だけ目を閉じる。

 ――ああ、やっぱり。

 薬のことも、鍵のことも、あの夜の牙の感触も。何か意味があるのではないかと、どこかで期待していた自分が恥ずかしかった。

 欲しいと思うから、奪われる。ならば最初から、欲しがらなければよかった。

 「……承知いたしました」

 緋鶴は一瞬、拍子抜けしたような顔をした。泣くか、取り乱すかと思っていたのかもしれない。
 けれど渚子は泣かず、静かに荷物をまとめ始めた。

 葛籠に帳面と洋書を詰め、最後に書庫の鍵を文机の上に置く。
 真鍮の鍵に触れた途端、鈴蘭の香りを思い出し、指先が一瞬だけ止まる。けれど、そのまま置いた。

 ――未練がましくは、ないのだ。

 自分に言い聞かせて、葛籠の蓋を閉じた。

       *

 準備が整ったところで、小梅の部屋に向かった。
 荷物を持った渚子の姿を見た瞬間に、何かを察したのだろう。すぐに駆け寄り、袖を掴んだ。

 「奥方様! どこかへお出かけですか?」
 「小梅。今までありがとう。少し事情があって……ここを離れることになったの」
 「そっ、そんなの嫌です……。行かないでください!」

 渚子はしゃがみ込み、両手で小梅の頬を包んだ。指先が角に触れる。

 「大丈夫。あなたは強い子よ」

 額に手を触れているうちに、小梅の瞼がゆっくり重くなっていく。
 角が少しずつ小さくなり、やがてこくりと舟を漕いだ。眠った小梅の頭を撫で、薄い布団をかけ直す。
 ごめんね、と唇だけが動いた。けれどその声は、音にはならなかった。

       *

 夜の森は冷える。月は細い三日月で、満月の夜とは違う暗さがある。
 緋鶴には、森を抜けた先に馬車を待たせてあると言われていた。
 葛籠を背負った肩が軋む。

 しばらく歩いた先、後ろでがさっと音がした。

 (誰かにつけられてる?)

 やがて木の後ろから、複数の気配がにじみ出る。ひとつ、ふたつ。やがて五つ。

 いずれも額に角がある男だった。鬼だ。軍服も着ていない、妖籍も持たぬはぐれ者たちである。

 先頭の男は太い二本角を生やし、手には鉈を持っていた。
 男が薄く笑う。

 「あんたをここから追い出した奴と、俺たちの依頼人が繋がっててな。あんたの嫁ぎ先の身内に、裏切り者がいるってこった」

 追い出した奴とは、緋鶴のことだろうか。なら、身内の裏切り者とは――。
 そこまで考える余裕はなかった。

 先頭の鬼が一歩を踏み出した瞬間、渚子は走り出していた。
 葛籠を投げ捨てる。帳面が地面に散り、その中に母の植物図鑑の革表紙が一瞬だけ見えた。
 胸が痛むほど拾いたかった。けれど、今はそんなことを言っている場合ではない。

 木の根を跨ぎ、枝を掻き分け、暗い森の中をただ走る。
 「へえ、追いかけっこかい」
 笑い声がすぐ後ろで弾む。枝が頬を切り、着物の裾が破けた。

 だが、人間の足で鬼から逃げ切れるはずがなかった。
 斜面を登りきった先で、渚子の足は止まった。

 地面が、なかった。

 崖から下を覗くと、鬱蒼とした森が広がっている。
 この高さから落ちれば、助からないだろう。

 振り返ると、五つの影が扇状に道を塞いでいる。

 「追いかけっこは終わりだ。まあ、あんたに恨みはねえよ。だがお頭の頼みは絶対でな。断れば俺たちの居場所もなくなる」

 崖の縁に立っていた。背中に夜風が吹き上がる。
 足元の小石が崩れ、闇の底へ落ちていく。

 ――ここで終わりなの?

 鬼の腕が振り上げられた。鉈の刃が三日月の光を一筋だけ拾って光る。

 その瞬間だった。

 森の闇が、銀色に裂けた。
 鉈を振り上げていた男の体が吹き飛び、樹の幹に叩きつけられる。

 渚子の前に立ちはだかる、巨大な影の持ち主は――銀色の獣だった。

 人の背丈ほどもある四肢が大地を踏みしめ、その毛並みは月明かりに淡く光っている。
 あまりにも巨大で、あまりにも美しい、銀色の狼だった。

 残った四人の顔から、血の気が引いていく。

 「ぎ、銀狼……」
 「馬鹿な、なんで――」

 獣が咆哮した。
 森そのものを震わせるような大気の振動に、鬼のひとりが膝から崩れる。

 「逃げろッ! 退け、退けェッ!」

 銀色の獣が前脚で地を叩く。
 それだけで、立っていた鬼たちの体が後方へ弾かれた。
 最後のひとりが仲間を引きずるようにして闇の中へ消えていく。

 森が、静かになった。

 渚子は崖の縁に座り込んだまま動けなかった。膝が笑って、立てない。

 銀色の獣が振り返る。
 金の瞳が、渚子を見ていた。あの地下で見た琥珀と同じ色。見間違えようもない、あの目だった。

 「助けに来てくれたの……?」

 獣の額に触れる。銀色の毛並みは、思ったよりもずっと柔らかかった。
 指を通すと、温かい。獣が目を細める。大きな喉の奥から低く震える音が、掌に伝わってきた。

 この感触を、知っている。
 指が覚えていた。あの毛並みの手触りも、額に触れた時の、力が抜けていくこの感覚も。

 幼い日の山の中。傷だらけで横たわっていた、銀色の大きな犬。

 ゆっくりと狼を撫でると、前脚のあたりで、かすかにちりんと音がした。
 古い紐に結ばれた、煤けた鈴だった。
 息が止まる。

 「やっぱり、あなたは――」

 自分でも思っていた以上に、助けが来たことに安心したのだろう。
 張り詰めていた緊張が解けて、渚子の意識は闇へ落ちた。

       *

 あれは、戊辰の戦が終わりかけの頃のことだった。
 渚子はまだ五つか六つで、戦火を避けて北の山あいの村に身を寄せていた。

 その日、山菜を採りに裏山へ入ると、沢のそばで銀色の大きな犬を見つけた。泥と血にまみれ、脇腹には深い傷がある。けれど怖くはなかった。ただ、痛そうだと思った。

 渚子は犬のそばにしゃがみ込んだ。

 「大丈夫?」

 薄く開いた金色の瞳は、大人にはただの獣ではない何かを思わせただろうが、幼い渚子にはただ綺麗に見えた。

 着物の裾を破り、沢の水で濡らした布で傷を拭う。

 「じっとしてて。すぐ終わるから」

 傷口を洗い、布を巻く。幼い手ではうまく結べず、何度もやり直した。犬はその間、金色の目で渚子をじっと見ていた。

 「へへへっ、これでよしっと! ちょっと不格好だけど、傷はちゃんと覆えてるから!」

 手当てを終えると、渚子は犬の額に手を置いた。荒い呼吸は少しずつ穏やかになり、低い唸りも止んでいく。

 「飼い主さんとはぐれちゃったの?」

 懐から、母にもらった小さな鈴を取り出す。お守りだと言って、着物の紐に結んでくれたものだ。
 それを犬の前脚にそっと結んだ。

 「これをつけていれば、大切な人が見つけてくれるよ。だから大丈夫。きっと飼い主さんが迎えに来るから」

 犬は目を閉じたまま、かすかに耳を動かした。

 「明日もまた来るね!」

 翌朝、握り飯を持って沢へ走ったが、犬はもういなかった。血の滲んだ石と、巻いた布の端切れだけが草の上に残されている。

 きっと飼い主が見つけてくれたのだ。鈴をつけたから、きっと大丈夫だと信じた。
 握り飯は、ひとりで食べた。

 いつかまた、会えるといいな。
 それだけを思って、渚子は山を下りた。

       *

 目を開けると、暖炉の火が揺れていた。

 見覚えのない部屋だった。いつもの離れではない。
 もっと広く、天井も高い。調度には品があり、炉の火が壁を静かな橙色に染めている。
 文机には書類が積まれ、筆と硯が並んでいた。

 体を起こそうとして、全身が軋む。崖まで走った足の裏が焼けるように痛かった。長椅子の上に横たえられていたらしい。誰かが毛布をかけてくれていた。

 暖炉の前に、人の姿に戻った銀がいた。
 白いシャツに袴という簡素な出で立ちだった。炉の灯りに照らされた銀色の髪が、あの地下で初めて見た時と同じように淡く光っている。

 椅子に腰を下ろし、渚子が目を覚ますのをずっと待っていたのだ。

 「……なぜ森にいた」
 「離縁の書状が届きましたので」
 「俺はそんなものを書いていない」

 銀の声が、低く硬くなった。

 「犬塚から、お前がいなくなったと報告を受けた。離れはもぬけの殻で、書庫の鍵が文机に置かれていた。すぐに追った」

 書状を書いたのは、おそらく緋鶴だろう。
 だが緋鶴の狙いは渚子を追い出すことで、その先に鬼がいることまでは想定していなかったのではないか。
 つまり、緋鶴の嫉妬を利用し、渚子を屋敷の外へ追い出させ、その先に鬼を用意した者がいるということだ。

 暖炉の火が爆ぜる音だけが部屋を満たしていた。
 先に口を開いたのは渚子だった。膝の上の手が小さく震えている。

 「書状が届いた時、ああやっぱりって。早くお暇したほうがご迷惑にならないかと思って」

 銀は椅子から立ち上がると渚子の前まで歩き、そのまま膝をついた。

 「済まなかった」

 「お……お顔を上げてください!!」

 銀は動かなかった。

 「お願いです、顔を上げてください!」

 渚子は身を起こし、両手で銀の頬を挟んだ。
 無理やり顔を持ち上げると、琥珀の瞳が揺れていた。

 「決して書状は書いていない。あの夜、お前を突き放したのは……あのまま傍にいたら、もう止まれなくなると思ったからだ。俺自身の手で、お前を傷つけてしまうかもしれないことが、恐ろしかった」

 あの「出ていけ」は、渚子を拒んだのではなかった。
 銀は渚子を守りたくて、自分自身から引き剥がしたのだ。

 「……そう、だったんですか」

 渚子の手が、銀の頬からゆっくりと離れた。

 「あの……私、勘違いをしていたみたいで。すみません。お薬のことも、書庫の鍵のことも。勝手にいろいろ考えて、勝手に期待して……ご迷惑でしたよね」

 離れかけた手を、銀が掴んだ。

 「勘違いなんかじゃない」
 「え……」

 「薬を届けたのも、書庫の鍵も。勘違いなんかじゃない。全部……俺がやりたくてやったことだ」

 ふいに掴まれた手の熱に、あの日のことを思い出してしまう。

 「……あの後、離れに帰って、眠れませんでした」

 渚子は掠れた声で言った。

 「怖かったから、ではなくて。……あなたのことを、もっと知りたいと思ったから」

 やがて銀が立ち上がり、長椅子の縁に腰を下ろした。

 渚子の頬に手を伸ばし、枝で切れた傷のすぐ横を、指の背でそっと撫でる。
 地下で牙を突き立てかけたのと同じ手が、今は壊れものに触れるようにかすかに震えていた。

 「ずっと会いたかった。鎮の力は関係ない。お前でなければ駄目だった」

 「……お前が、好きだからだ」

 頭が真っ白になる。好き、と。銀が、自分を。

 「なぜ、私なのですか。私には何もありません。御三家の名に値せず、実家にも――」
 「渚子」

 名前を呼ばれた。この屋敷に来て、初めて。

 銀の手が、渚子の頬を包んだ。

 「あの山で、お前は俺に触れた。……戊辰の戦で、俺は官軍の先陣にいた。戦闘力の高い人狼の部隊は、いつだって最前線に送られる。あの日、敵の奇襲を受けて隊は壊滅し、俺は獣の姿のまま山に逃げ込んだ。人の形に戻る力も残っていなかった」

 声が、わずかに揺れる。

 「傷ついた獣は何をするか分からない。仲間同士でも、近づけば噛み殺されることだってある。なのにお前は傍に座って、傷を洗って、布を巻いてくれた」

 沢のそばの銀色の犬が、記憶の中でひとつに重なっていく。

 「鈴を結んでくれた時、お前は言ったな。『これをつけてると、大切な人が見つけてくれる』と」

 「あの日から、ずっとお前を探していた」
 「そんなはず……」
 「縁談を持ちかけたのは、お前を迎えに行くためだ。借金の肩代わりなど口実に過ぎない。ただ、あの山で鈴をくれた娘に、もう一度会いたかった。それだけだ」
 「そんなこと、言われたら。出ていけなくなるじゃないですか」

 涙で濡れたままの手を持ち上げ、銀の頬に触れる。

 「私も、あの山でのことはずっと覚えていました。翌朝いなくなっていた時、飼い主さんが見つけてくれたのだと思って……よかったと思って……」

 声が途切れる。鼻の奥が痛い。

 「……でも本当は、寂しかった。また会いたかった」

 袖で涙を拭おうとして、うまくいかない。次から次に溢れてくる。

 「夕暮れに山の向こうが赤く染まると、いつも思い出していたんです。あの子は元気かなって。ちゃんとご飯を食べているかなって」

 自分でも笑ってしまうくらい、ずっと犬だと思っていた。

 「お庭で銀色の蝶を見た時も、雨上がりの水たまりが光っている時も。銀色のものを見ると、ついそれだけで、なんだか嬉しくなって。だから、あなただったと知った時――」

 銀の手が、渚子の手の上に重なった。
 掌を、自分の頬に押し当てるように。

 「もう二度と、お前をひとりにしない」

 強い力で、体が引き寄せられる。
 腕が背中に回り、胸元へ抱き込まれた。

 地下の夜の獣の熱とは違う、人の温度だった。
 銀の胸に顔を埋めると、鈴蘭の香りがした。
 薬包みと同じ。書庫の鍵と同じ。あの甘くて優しい匂いが、すぐ近くにある。
 顎にそっと指が触れ、顔を上げさせられる。

 「……渚子」

 頷くより先に、銀の唇が降りてきた。
 触れるだけの、静かな口づけだった。
 けれど体の奥が、あの地下の夜と同じようにぞわりと甘く震える。

 「……もう一度」

 答える代わりに、渚子は銀の襟を掴んだ。

 二度目の口づけは、少しだけ深い。
 後頭部を支える手と、背中を抱き寄せる手。銀の襟を握りしめた指が、もう離せなくなっていた。

 唇が離れた時、銀の額が渚子の額にそっと重なった。

 「噛み痕もつけず、顔も合わせなかったのは、お前を守るためだった。無関心を装えば、お前だけは安全だと思った。その結果がこれだ。守るつもりで遠ざけて……寂しい思いを、させた」
 「……いいんです。私の行く先には、いつも鈴蘭の香りがありましたから」

 銀の腕に力がこもる。

 「崖の上で死ぬかもしれないと思った時、一番怖かったのは――あなたの顔をもう見られないことでした。本当は……」

 銀の手が渚子の後頭部に回り、自分の胸元に引き寄せた。

 「帰りたくありません。私は、あなたの隣にいたい」

 「渚子」

 耳を押し当てた先で、銀の心臓が速く打っているのが聞こえる。

 「俺も同じだ。お前がいない夜を、もう過ごしたくない」

 銀の唇が、もう一度降りてきた。
 今度は額でも頬でもなく、渚子の唇に。
 さっきよりも長く、さっきよりも深く。

 目を閉じる。暖炉の火の温もりと、銀の腕の温もりと、唇の温もりが、ひとつに溶けていく。

 このまま、時が止まればいいのに、と生まれて初めて思った。

       *

 翌朝。母屋の奥、銀の執務室。
 窓から差し込む朝日の中で、銀は書類には目もくれず、犬塚の報告を聞いていた。

 銀は拳を組み、こきりと机の上で小さく鳴らした。静かな音だったが、犬塚の背筋がすっと伸びる。
 鬼を使い渚子を危険に晒した相手の目処は、もうおおよそついている。

 「偽の離縁状は、やはり緋鶴様の筆跡でした。棟梁の書状箱から家紋の印を持ち出した形跡もございます」
 犬塚が一呼吸置く。
 「ただし、崖で取り押さえた鬼の一人を尋問したところ、依頼主は鋼一郎様でした」
 「やはりな」

 鷹城鋼一郎。銀の父の弟であり、緋鶴の父。
 一族の重鎮として三十年にわたり幹部会を仕切り、表向きは銀に忠実な様を演じてきた。

 だがこの男には裏がある。鬼は人狼社会の最下層に置かれ、正規の手段では動かせない汚れ仕事を引き受ける者が多い。
 鋼一郎はそこに目をつけ、長年にわたって鬼のはぐれ者たちに金を流し、私兵のように使ってきた。

 証拠を掴ませず、手を汚さず、穏やかな笑みの裏で糸を引く。それがこの男のやり方だ。

 だが今夜、その糸が一本、表に出た。
 緋鶴も、鋼一郎も。どちらも、許すつもりはない。

 「遠ざけていれば守れると思っていた。だが、俺が甘かったな」

 しばしの沈黙ののち、銀は立ち上がった。窓の外に目を向ける。
 靄の向こうに、離れの屋根が見えた。

 「次の夜会に、渚子を連れていく」

 犬塚が顔を上げる。

 「……よろしいのですか」
 「ああ」

 銀は窓から目を離し、犬塚を見た。
 琥珀の瞳に、昨夜までの迷いはない。

 「緋鶴だけでなく。人狼のすべてに――渚子は俺の女だと、思い知らせてやる」