緋鶴の声が、耳に残っている。
――何が聞こえても。
離れで帳面を開いてみても、今夜に限って英語の文書を訳す手が進まない。
ペン先は紙の上で止まったまま、渚子は何度も耳を澄ませていた。
屋敷が、静かすぎるのだ。
まるで屋敷じゅうが息を潜め、何かを待っているような、重たい静けさだった。
その静寂を破ったのは、侍女たちの甲高い笑い声だ。
「やっぱり鬼は鬼よね。あの角、気味が悪いったらないわ」
「下働きのくせに生意気なのよ、あいつ。今日はどこで“遊んで”あげたの?」
「裏庭の井戸のそば」
「ほら、早く戻るわよ。満月なんだから、見回りに見つかったら面倒でしょ」
複数の足音が遠ざかっていく。
(小梅っ!)
満月の夜は妖の力が不安定になる。幼い鬼の子は、角がどうしても表に出てしまう。
帳面を閉じ、障子を開けた。月は高く昇り、庭は昼のように明るい。
井戸の傍らに、小さな影がうずくまっていた。着物は泥だらけで、膝から血が滲み、角はいつもより大きく出てしまっている。
「奥方様……ごめんなさい。角が……今日は隠せなくて……」
「いいから。見せて」
膝の傷は深く、着物の下にも新しい傷がいくつもあった。足を挫いたらしく、ひとりでは立ち上がれない。
「おぶっていくわ。少しだけ我慢してね」
渚子は小梅を背負った。背中に伝わる体は驚くほど軽い。
運び込んだ台所裏の下働き部屋は、土間の隅に薄い布団が敷かれているだけの粗末な部屋だった。傷を確かめると、手元の軟膏だけでは足りない。
「少し待っていて。母屋の蔵から、薬と包帯を取ってくるから」
「奥方様、駄目です、今夜は……」
小梅の額に手を触れると、目がとろんと重くなる。角が少しだけ小さくなり、やがて瞼が落ちた。
寝入った小梅の頭を撫でた時、遠い記憶がふいに胸をかすめた。幼い頃、山の中で銀色の大きな犬を見つけたことがあった。泥と血にまみれたその犬にも、こうして額に手を置いたのだった。
「……すぐ戻るから」
囁いて部屋を出る。母屋の奥の蔵で晒と軟膏の壺を見つけ、腕に抱えて戻ろうとした、その時だった。
渡り廊下の向こうから、唸り声が響いてきた。
苦しげな獣の声に、鎖の軋む音が重なる。
(注連縄のある、あの扉の方角だ)
決して近づくなと皆が口を揃えて言った部屋。
けれど、唸り声の合間に漏れる短い息は、何かと戦っている息だった。
(ひどく苦しんでいるように聞こえるけど……)
誰かが閉じ込められているのだろうか。近づくなと言われた部屋だ。けれど、小梅の痣だらけの腕が頭をよぎる。
――私もそうだった。
帽子を捨てられた日も、姉たちに笑われた日も、一人きりの婚礼の夜も。苦しくても、誰も来なかった。
(苦しんでいる人があそこにいるのなら。見て見ぬふりなんてできない!)
足が動いていた。
注連縄の前に立つと、五枚の封じの札はどれも端から焼け焦げていた。扉は軋みながらも開き、石造りの螺旋階段が地下へ続いている。壁に灯る妖術の青白い炎が揺れ、札も注連縄も、もう限界を越えているのが分かった。
降りきった先は、想像していた場所とはまるで違った。
地下には広い空間が開け、巨大な石のアーチが天井を支え、岩肌から清水が流れ落ち、中央には泉が湧いている。
「あの……誰かいますか?」
妖術の灯がそのすべてを淡く照らしていた。
その時、奥で鎖の音がした。
石柱から伸びた黒い鉄の鎖。
その先に繋がれた男が、石柱にもたれていた。着物は裂け、乱れた髪が顔にかかっている。
その髪の色に、渚子は目を奪われた。
(綺麗な、銀……)
灯りを受けて淡く光るそれは、息を呑むほど美しかった。
髪の隙間から覗く瞳は、琥珀が溶けたような金色をしている。写真すら残さぬと聞いていた夫の姿が、噂のままそこにあった。
だが、その姿は人のままではなかった。
爪が伸び、耳が尖り、銀色の体毛が腕を覆い始めている。完全な獣にも、人にもなりきれない狭間の姿だった。
石柱の根元には、空の薬瓶がいくつも転がっている。
あんなに何本も。それでも、足りなかったの?
「銀様、なのですか?」
小さく問いかけると、男はほんのわずかに頷いた。
「近づくな……!」
声は半分、獣のものだった。
怖い。けれど渚子の目が捉えたのは、鎖を握りしめた手の爪が、自分の掌を切って血を流していることだった。
(……自分の手を、傷つけてまで)
気づけば、歩き出していた。
泉の縁を回り、銀の前にしゃがみ込む。薬と晒を石の床に置いた。
「来るなと……」
掠れた声に答えず、渚子は銀の頬に手を伸ばした。
汗と熱に濡れた肌の下で、暴れる妖力の振動が指先に伝わってくる。
次の瞬間、空間を満たしていた殺気が、すっと引いた。
銀の体から獣の毛が消えていく。伸びていた爪が縮み、尖った耳が人の形に戻り、金色だった瞳に琥珀の色が戻っていく。
渚子は自分の手を見つめた。
(嘘。だって私の鎮は、小梅の角を少し縮ませるのがやっとで――)
それでも今、この手が、鎖で繋いでもなお暴れる獣を鎮めている。
けれど今は、自分のことよりも先に見えてしまったものがあった。
石柱の表面には幾重にも爪で引っ掻いた痕が刻まれ、鎖の根元の石畳は何度も血を拭った痕で黒く変色していた。
(毎月、ひとりで。ずっと、ここで)
誰にも触れられず、誰にも見つけてもらえず、自分の体を傷つけながら朝を待っていた。
気づけば頬を涙が伝っていた。そのまま両腕を銀の首に回す。
「……何を」
「辛かったでしょう」
わずかに抵抗したあと、銀はそれを受け入れた。揺れた瞳は、もう獣の目ではなく人の目だった。
そっと体を離した時、銀の手が目に入る。
鎖を握りしめた掌が切れ、爪で引っ掻いた傷が腕にも走っていた。
「手を見せてください」
「……要らん」
「見せてください」
銀の手を取ると、わずかに息を呑む音がした。
渚子は何も言わず、掌の傷を洗い、軟膏を塗り、晒を巻いていく。泉の水音だけが石の壁に反響していた。
「……なぜ来た」
「声が……聞こえたので」
「来るなと言われたはずだ」
「苦しそうでしたから」
沈黙が落ちた。けれど渚子の手は止まらない。
「俺が、怖くないのか」
「……少し、驚きました。でも、この邸で私にまともに口を聞いてくださったのは、あなたが初めてですから」
もう片方の手に晒を巻きながら、続ける。
「昼間、みなさんがお薬を飲んでいるのを見ました。あれを飲めば、満月の夜も何ともないのだと。……あなたは、どうして」
銀はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「棟梁の血には、代々の妖力が積もる。俺の代で、薬で鎮められる量を超えたんだ。蘭方医にも漢方にも祈祷師にも診せたが、三年目には手段が尽きた。今はもう、鎖で繋いで朝を待つしかない」
すべての傷に手当てを終え、渚子は両手を膝の上に置いた。
その時、ふと空間に満ちるかすかな香りに気づく。
鈴蘭の香りだった。
薬包みと、書庫の鍵と、あの一輪挿しと同じ。
(もしかして、今までのは全部――)
「……以前、私が風邪をひいた時。薬を届けてくださったのは、銀様だったのでしょうか?」
銀は気まずそうに目を逸らした。
「書庫の鍵も。初日にお花をくれたのも」
「別に、大したことじゃない」
否定はしなかった。
視線はそれたままだったが、耳の先がほんのり赤い。何より、背後でふわふわの銀色の尾が大きく揺れている。本人は気づいていないらしい。
(……あ)
胸の奥がじわりと熱くなった。
一輪挿しの鈴蘭も。火鉢が増えていたのも。庭の手入れが先回りされていたのも。全部、銀の行動だったのだ。
「ありがとう、ございます」
銀の尾がぴたりと止まり、それからまた、ゆっくり揺れ始めた。
(か、可愛い……!)
そう思った自分に驚いて、慌てて目を伏せる。
「あの――」
言いかけた、その時だった。
立ち上がろうとした膝が笑い、石畳についた手が滑る。泉の縁の石組みで掌をざらりと擦った。
「っ!」
浅い傷だった。
けれど切れた掌から赤い筋がひとつ、手首へ伝い落ちる。血の匂いが空間に広がっていく。
気づいた時には、銀の顔はもう目の前にあった。
手首を掴まれたと思えば、声を出す間もなく背中が石畳につき、大きな体が覆いかぶさってくる。
冷たい石の床の上で感じたのは、人よりも高い、灼けるような獣の体温だった。
さらりと垂れた銀色の髪の間から、金の瞳がこちらを見下ろしている。
(怖い)
そう思ったのは事実だ。
なのに、石の冷たさよりも銀の熱のほうがずっと強くて、頭がうまく働かない。
銀の両腕が逃げ場を塞ぐ。着物の裂け目から覗く鎖骨に、汗がひと筋伝っていた。
(それどころじゃないのにっ! なんで私、こんなところ見て……っ)
銀の視線が掌の血を追い、そのまま首筋へ落ちる。
この女の首筋に牙を立てて、生涯消えない痕を刻みたい。
この女は俺の番いだと、世界のすべてに知らしめたい。
そんな獣の渇きが、血の匂いに焚きつけられて形を失っていくのだと、本能で分かった。
掴まれた手首の内側で、渚子の脈が速く打っている。銀の唇が首筋へ降りていく。
(――っ!)
吐息が首筋に落ちる。
熱い。耳の下から鎖骨へ、吐息がゆっくり肌を辿っていく。
「……んっ」
背筋をぞわりと甘いものが駆け上がり、小さく声が漏れた。
牙の先が薄い皮膚をなぞるように触れる。
怖い。怖いのに逃げたくない。
銀の髪が頬に触れるたび、鈴蘭の残り香がする。
(だめ、逃げなきゃ、いけないのに――)
長い数秒ののち、銀は手首を離した。
弾かれたように身を起こし、石柱に背をぶつけるほどの勢いで後ずさる。
「……出ていけ! 今すぐ」
渚子は石畳に横たわったまま、銀を見上げていた。銀は顔を背けている。拳を握りしめた手から、晒に赤い染みが広がっていた。
ゆっくりと体を起こす。手首には銀の指の圧が、首筋には牙の震えが、掌には吐息の温度が残っている。
「……おやすみなさい」
それだけが、やっと言えたすべてだった。
*
螺旋階段を上り、扉を閉める。
小梅のところへ戻り、膝の傷に薬を塗り、包帯を巻く。小梅は半分眠りながら、「ありがとうございます」と小さく呟いた。
離れに戻っても、眠れなかった。
布団に入っても、心臓がまだ鳴っている。
(怖かった。本当に怖かった)
なのに、首筋にかかった吐息の熱さを、まだ覚えている。
鈴蘭の香りが、まだ着物に残っている。
(……なんで、こんな風にドキドキしてるの)
渚子は布団を頭まで引き上げ、袖を鼻先に寄せたまま目を閉じた。
*
渚子が去ったあとも、銀はしばらく石柱にもたれていた。
渚子の掌から滴る血を見た。たったそれだけのことで、なけなしの理性はあっという間に崩れた。
所詮、自分は獣なのだ。
(でも、噛み痕をつけたい本当の理由は。鎮が効くからでも、一族に必要だからでもない)
ただ、好きだからだ。あの山で鈴を結んでくれた時から、ずっと。
だが、いくら本能が暴れたとはいえ、好いた女にあんなやり方は許されるものではない。
血の匂いひとつで渚子を石の床に組み敷いた自分に、嫌悪しか湧かなかった。
「くそっ!」
自分自身への苛立ちを込めた拳を、石柱に叩きつける。
ちりん、と音がして視線を落とす。腕に巻かれているのは、古い紐に結ばれた煤けた鈴だった。
「……『これをつけてると、大切な人が見つけてくれる』、か」
幼い娘の声が耳の奥に残っている。
あの山の中で、傷だらけの獣の前脚に鈴を結びながら、あの娘はそう言ったのだ。
鈴を握りしめたまま、目を閉じる。
泉の水音だけが、石の壁に静かに反響していた。
――何が聞こえても。
離れで帳面を開いてみても、今夜に限って英語の文書を訳す手が進まない。
ペン先は紙の上で止まったまま、渚子は何度も耳を澄ませていた。
屋敷が、静かすぎるのだ。
まるで屋敷じゅうが息を潜め、何かを待っているような、重たい静けさだった。
その静寂を破ったのは、侍女たちの甲高い笑い声だ。
「やっぱり鬼は鬼よね。あの角、気味が悪いったらないわ」
「下働きのくせに生意気なのよ、あいつ。今日はどこで“遊んで”あげたの?」
「裏庭の井戸のそば」
「ほら、早く戻るわよ。満月なんだから、見回りに見つかったら面倒でしょ」
複数の足音が遠ざかっていく。
(小梅っ!)
満月の夜は妖の力が不安定になる。幼い鬼の子は、角がどうしても表に出てしまう。
帳面を閉じ、障子を開けた。月は高く昇り、庭は昼のように明るい。
井戸の傍らに、小さな影がうずくまっていた。着物は泥だらけで、膝から血が滲み、角はいつもより大きく出てしまっている。
「奥方様……ごめんなさい。角が……今日は隠せなくて……」
「いいから。見せて」
膝の傷は深く、着物の下にも新しい傷がいくつもあった。足を挫いたらしく、ひとりでは立ち上がれない。
「おぶっていくわ。少しだけ我慢してね」
渚子は小梅を背負った。背中に伝わる体は驚くほど軽い。
運び込んだ台所裏の下働き部屋は、土間の隅に薄い布団が敷かれているだけの粗末な部屋だった。傷を確かめると、手元の軟膏だけでは足りない。
「少し待っていて。母屋の蔵から、薬と包帯を取ってくるから」
「奥方様、駄目です、今夜は……」
小梅の額に手を触れると、目がとろんと重くなる。角が少しだけ小さくなり、やがて瞼が落ちた。
寝入った小梅の頭を撫でた時、遠い記憶がふいに胸をかすめた。幼い頃、山の中で銀色の大きな犬を見つけたことがあった。泥と血にまみれたその犬にも、こうして額に手を置いたのだった。
「……すぐ戻るから」
囁いて部屋を出る。母屋の奥の蔵で晒と軟膏の壺を見つけ、腕に抱えて戻ろうとした、その時だった。
渡り廊下の向こうから、唸り声が響いてきた。
苦しげな獣の声に、鎖の軋む音が重なる。
(注連縄のある、あの扉の方角だ)
決して近づくなと皆が口を揃えて言った部屋。
けれど、唸り声の合間に漏れる短い息は、何かと戦っている息だった。
(ひどく苦しんでいるように聞こえるけど……)
誰かが閉じ込められているのだろうか。近づくなと言われた部屋だ。けれど、小梅の痣だらけの腕が頭をよぎる。
――私もそうだった。
帽子を捨てられた日も、姉たちに笑われた日も、一人きりの婚礼の夜も。苦しくても、誰も来なかった。
(苦しんでいる人があそこにいるのなら。見て見ぬふりなんてできない!)
足が動いていた。
注連縄の前に立つと、五枚の封じの札はどれも端から焼け焦げていた。扉は軋みながらも開き、石造りの螺旋階段が地下へ続いている。壁に灯る妖術の青白い炎が揺れ、札も注連縄も、もう限界を越えているのが分かった。
降りきった先は、想像していた場所とはまるで違った。
地下には広い空間が開け、巨大な石のアーチが天井を支え、岩肌から清水が流れ落ち、中央には泉が湧いている。
「あの……誰かいますか?」
妖術の灯がそのすべてを淡く照らしていた。
その時、奥で鎖の音がした。
石柱から伸びた黒い鉄の鎖。
その先に繋がれた男が、石柱にもたれていた。着物は裂け、乱れた髪が顔にかかっている。
その髪の色に、渚子は目を奪われた。
(綺麗な、銀……)
灯りを受けて淡く光るそれは、息を呑むほど美しかった。
髪の隙間から覗く瞳は、琥珀が溶けたような金色をしている。写真すら残さぬと聞いていた夫の姿が、噂のままそこにあった。
だが、その姿は人のままではなかった。
爪が伸び、耳が尖り、銀色の体毛が腕を覆い始めている。完全な獣にも、人にもなりきれない狭間の姿だった。
石柱の根元には、空の薬瓶がいくつも転がっている。
あんなに何本も。それでも、足りなかったの?
「銀様、なのですか?」
小さく問いかけると、男はほんのわずかに頷いた。
「近づくな……!」
声は半分、獣のものだった。
怖い。けれど渚子の目が捉えたのは、鎖を握りしめた手の爪が、自分の掌を切って血を流していることだった。
(……自分の手を、傷つけてまで)
気づけば、歩き出していた。
泉の縁を回り、銀の前にしゃがみ込む。薬と晒を石の床に置いた。
「来るなと……」
掠れた声に答えず、渚子は銀の頬に手を伸ばした。
汗と熱に濡れた肌の下で、暴れる妖力の振動が指先に伝わってくる。
次の瞬間、空間を満たしていた殺気が、すっと引いた。
銀の体から獣の毛が消えていく。伸びていた爪が縮み、尖った耳が人の形に戻り、金色だった瞳に琥珀の色が戻っていく。
渚子は自分の手を見つめた。
(嘘。だって私の鎮は、小梅の角を少し縮ませるのがやっとで――)
それでも今、この手が、鎖で繋いでもなお暴れる獣を鎮めている。
けれど今は、自分のことよりも先に見えてしまったものがあった。
石柱の表面には幾重にも爪で引っ掻いた痕が刻まれ、鎖の根元の石畳は何度も血を拭った痕で黒く変色していた。
(毎月、ひとりで。ずっと、ここで)
誰にも触れられず、誰にも見つけてもらえず、自分の体を傷つけながら朝を待っていた。
気づけば頬を涙が伝っていた。そのまま両腕を銀の首に回す。
「……何を」
「辛かったでしょう」
わずかに抵抗したあと、銀はそれを受け入れた。揺れた瞳は、もう獣の目ではなく人の目だった。
そっと体を離した時、銀の手が目に入る。
鎖を握りしめた掌が切れ、爪で引っ掻いた傷が腕にも走っていた。
「手を見せてください」
「……要らん」
「見せてください」
銀の手を取ると、わずかに息を呑む音がした。
渚子は何も言わず、掌の傷を洗い、軟膏を塗り、晒を巻いていく。泉の水音だけが石の壁に反響していた。
「……なぜ来た」
「声が……聞こえたので」
「来るなと言われたはずだ」
「苦しそうでしたから」
沈黙が落ちた。けれど渚子の手は止まらない。
「俺が、怖くないのか」
「……少し、驚きました。でも、この邸で私にまともに口を聞いてくださったのは、あなたが初めてですから」
もう片方の手に晒を巻きながら、続ける。
「昼間、みなさんがお薬を飲んでいるのを見ました。あれを飲めば、満月の夜も何ともないのだと。……あなたは、どうして」
銀はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「棟梁の血には、代々の妖力が積もる。俺の代で、薬で鎮められる量を超えたんだ。蘭方医にも漢方にも祈祷師にも診せたが、三年目には手段が尽きた。今はもう、鎖で繋いで朝を待つしかない」
すべての傷に手当てを終え、渚子は両手を膝の上に置いた。
その時、ふと空間に満ちるかすかな香りに気づく。
鈴蘭の香りだった。
薬包みと、書庫の鍵と、あの一輪挿しと同じ。
(もしかして、今までのは全部――)
「……以前、私が風邪をひいた時。薬を届けてくださったのは、銀様だったのでしょうか?」
銀は気まずそうに目を逸らした。
「書庫の鍵も。初日にお花をくれたのも」
「別に、大したことじゃない」
否定はしなかった。
視線はそれたままだったが、耳の先がほんのり赤い。何より、背後でふわふわの銀色の尾が大きく揺れている。本人は気づいていないらしい。
(……あ)
胸の奥がじわりと熱くなった。
一輪挿しの鈴蘭も。火鉢が増えていたのも。庭の手入れが先回りされていたのも。全部、銀の行動だったのだ。
「ありがとう、ございます」
銀の尾がぴたりと止まり、それからまた、ゆっくり揺れ始めた。
(か、可愛い……!)
そう思った自分に驚いて、慌てて目を伏せる。
「あの――」
言いかけた、その時だった。
立ち上がろうとした膝が笑い、石畳についた手が滑る。泉の縁の石組みで掌をざらりと擦った。
「っ!」
浅い傷だった。
けれど切れた掌から赤い筋がひとつ、手首へ伝い落ちる。血の匂いが空間に広がっていく。
気づいた時には、銀の顔はもう目の前にあった。
手首を掴まれたと思えば、声を出す間もなく背中が石畳につき、大きな体が覆いかぶさってくる。
冷たい石の床の上で感じたのは、人よりも高い、灼けるような獣の体温だった。
さらりと垂れた銀色の髪の間から、金の瞳がこちらを見下ろしている。
(怖い)
そう思ったのは事実だ。
なのに、石の冷たさよりも銀の熱のほうがずっと強くて、頭がうまく働かない。
銀の両腕が逃げ場を塞ぐ。着物の裂け目から覗く鎖骨に、汗がひと筋伝っていた。
(それどころじゃないのにっ! なんで私、こんなところ見て……っ)
銀の視線が掌の血を追い、そのまま首筋へ落ちる。
この女の首筋に牙を立てて、生涯消えない痕を刻みたい。
この女は俺の番いだと、世界のすべてに知らしめたい。
そんな獣の渇きが、血の匂いに焚きつけられて形を失っていくのだと、本能で分かった。
掴まれた手首の内側で、渚子の脈が速く打っている。銀の唇が首筋へ降りていく。
(――っ!)
吐息が首筋に落ちる。
熱い。耳の下から鎖骨へ、吐息がゆっくり肌を辿っていく。
「……んっ」
背筋をぞわりと甘いものが駆け上がり、小さく声が漏れた。
牙の先が薄い皮膚をなぞるように触れる。
怖い。怖いのに逃げたくない。
銀の髪が頬に触れるたび、鈴蘭の残り香がする。
(だめ、逃げなきゃ、いけないのに――)
長い数秒ののち、銀は手首を離した。
弾かれたように身を起こし、石柱に背をぶつけるほどの勢いで後ずさる。
「……出ていけ! 今すぐ」
渚子は石畳に横たわったまま、銀を見上げていた。銀は顔を背けている。拳を握りしめた手から、晒に赤い染みが広がっていた。
ゆっくりと体を起こす。手首には銀の指の圧が、首筋には牙の震えが、掌には吐息の温度が残っている。
「……おやすみなさい」
それだけが、やっと言えたすべてだった。
*
螺旋階段を上り、扉を閉める。
小梅のところへ戻り、膝の傷に薬を塗り、包帯を巻く。小梅は半分眠りながら、「ありがとうございます」と小さく呟いた。
離れに戻っても、眠れなかった。
布団に入っても、心臓がまだ鳴っている。
(怖かった。本当に怖かった)
なのに、首筋にかかった吐息の熱さを、まだ覚えている。
鈴蘭の香りが、まだ着物に残っている。
(……なんで、こんな風にドキドキしてるの)
渚子は布団を頭まで引き上げ、袖を鼻先に寄せたまま目を閉じた。
*
渚子が去ったあとも、銀はしばらく石柱にもたれていた。
渚子の掌から滴る血を見た。たったそれだけのことで、なけなしの理性はあっという間に崩れた。
所詮、自分は獣なのだ。
(でも、噛み痕をつけたい本当の理由は。鎮が効くからでも、一族に必要だからでもない)
ただ、好きだからだ。あの山で鈴を結んでくれた時から、ずっと。
だが、いくら本能が暴れたとはいえ、好いた女にあんなやり方は許されるものではない。
血の匂いひとつで渚子を石の床に組み敷いた自分に、嫌悪しか湧かなかった。
「くそっ!」
自分自身への苛立ちを込めた拳を、石柱に叩きつける。
ちりん、と音がして視線を落とす。腕に巻かれているのは、古い紐に結ばれた煤けた鈴だった。
「……『これをつけてると、大切な人が見つけてくれる』、か」
幼い娘の声が耳の奥に残っている。
あの山の中で、傷だらけの獣の前脚に鈴を結びながら、あの娘はそう言ったのだ。
鈴を握りしめたまま、目を閉じる。
泉の水音だけが、石の壁に静かに反響していた。


