銀狼伯爵と噛み痕のない花嫁

 居場所がないのなら、せめて手を動かしていよう。

  嫁いで十日。
 離縁の道を探すにしても、すぐにどうこうできるものではない。
 ならばその日が来るまで、ただ座って哀れな顔をしているつもりはなかった。

 庭先の雑草を抜き、枯れかけた木に水をやり、障子の破れを自分で繕う。

  侍女たちはそれを見て笑い、渚子は聞こえないふりをした。
 聞こえないふりには、もう慣れている。

 ある日、渡り廊下の脇に帳面の束が雨ざらしで積まれているのを見つけた。
 屋敷の古い出納記録らしい。離れに持ち帰り、乾かし、一冊ずつ目を通し始める。

 そんな日々の中で、渚子がただ一人だけ、奇妙に思っている男がいた。

 ――犬塚壮介。
  屋敷の警護と銀の身辺護衛を兼ねる男だと聞いている。
 がっしりとした体躯に無骨な顔立ち。およそ華族の屋敷には似つかわしくない、武骨な男だった。
 この男だけは、渚子をきちんと「奥方様」と呼ぶ。

 「奥方様。犬塚壮介と申します。屋敷の警護と棟梁の護衛を務めております。何かお困りのことがあれば、お申し付けください」

 それだけ告げて、頭を下げる。深くはないが、誠実な礼だった。

 それからも犬塚は時折、離れの近くに姿を見せた。
 話しかけてくることは少ないが、渚子が廊下を歩く時には、いつの間にかどこかにいる。

  警護の一環なのだろう。それ以上の意味は、見出さないようにした。
 自分はこの家で冷遇されている。それは疑いようがない。

  けれど少しずつ、この冷遇に妙な「穴」があることに気づき始めていた。

 食事に小石を混ぜた膳番が三日後にいなくなり、洗濯物を泥水に浸けた下女がその週のうちに姿を消した。
 いずれも静かに、ただ消えたのだ。

 それだけではなかった。
  冬が近づく頃には、離れの火鉢がいつの間にか二つに増え、風邪をひいて寝込んだ朝には枕元に薬包みが置かれていた。
 上等な漢方薬だった。眠っている間に、誰かがこの部屋に入ったとしか思えない。

 薬包みを手に取ると、かすかに鈴蘭の香りがした。
 文机に置かれていた一輪挿しと同じ香りだった。

 顔も名前も知らない。
 けれど小さな温もりを届けて、何も言わずに消える誰かが、この屋敷のどこかにいる。

 ブンブンと首を振る。そんなのは都合のいい空想は捨てるべきだ。
 期待すれば、裏切られる。それは志波の家でとうに学んだことだった。

 帳面を読み解くうちに、母屋の東棟に海外から取り寄せた書物を収める書庫があることを知った。
 この屋敷に洋書があるとは思わなかった。

 翌日、東棟へ足を向ける。
 重い樫の扉の奥、格子越しに革表紙が幾列も並んでいるのが見えたが、鍵がかかっていた。

  しばらく扉の前に立った末、渚子は踵を返す。
 当たり前のことだ。この家で自分には何の権限もない。

 しかし翌朝、離れの文机の上に鍵がひとつ置かれていた。
 薄手の布に包まれた古い真鍮の鍵で、書き置きはない。
 手に取ると、布にはまた鈴蘭の香りが残っていた。

 また、あの人だ。
 渚子が書庫を見つけたことを知っていて、わざわざ鍵を届けてくれたのだ。

  その鍵は、書庫の扉にぴたりと合った。
 足を踏み入れた瞬間、渚子は息を呑んだ。
 想像よりも遥かに広い。天井まで届く書架が幾列も並び、和装の巻物から洋装の革表紙まで、あらゆる書物が詰まっている。

 そして――英語の書物が、一棚まるごと。
 この屋敷の誰も読めずに放置していたのだろう。背表紙に積もった埃がそれを物語っている。

 その日から、書庫に通い始めた。一冊ずつ埃を払い、目録を作り、英語の文書は翻訳し、要点をまとめる。
  侍女たちはまた笑ったが、聞こえないふりをした。

      *
 その日は珍しく母屋の近くまで歩いていた。
  廊下を曲がった時、足が止まる。廊下の隅で、小さな影がうずくまっていた。

 幼い女の子だった。十にもならないだろう。継ぎ当てだらけの色褪せた木綿を着て、膝を抱え、泣いていた。
 渚子の足音に気づいて、びくりと体を震わせる。

 額の両端に、小さな瘤のようなものがある。必死に前髪で隠しているが、隠しきれていない。
 角だ。まだ芽のように未熟な、小さな角。鬼の子だった。

 妖の社会では、鬼は最も低い格に置かれている。
 個体では最強でありながら群れを成せぬゆえに将にはなれず、その恨みが暗殺や反乱として噴き出すことも珍しくない。
  とりわけ身寄りのない鬼の女子供は、上位の妖の屋敷で人間の使用人よりも下に置かれることすらあるという。

 けれど今、目の前にいるのは、ただの小さな子供だった。

 「ごっ、ごめんなさい! すぐにどきます」

 慌てて立ち上がろうとして、よろめいた。
 膝に擦り傷。腕には、掴まれたような痣。
 渚子はしゃがんだ。

 「怪我をしているの?」
 「あ、あの……奥方、様……?」
 「いいから、見せて」
 離れに戻り、薬箱から軟膏と晒を持ってきた。
 小梅の膝の傷を丁寧に洗い、軟膏を塗り、晒で巻く。

 「……奥方様は、怖くないのですか。その、私……鬼…で」
 「怪我をしているのに、鬼かどうかは関係ないわ」

 小梅の目が、大きく見開かれた。

 「……奥方様は、優しいのですね」
 「そんなことはないわ」

 小梅の頭に、そっと手を置いた。
 小さな角に、指が触れる。びくりとした。けれど渚子の手は、角を避けなかった。

 「素敵な角」
 小梅の目から、涙がぽろぽろとこぼれた。声も出さず、ただ静かに泣いている。

 翌日から、小梅は時折、離れの近くに姿を見せるようになった。
 庭の手入れを手伝い、帳面の墨を擦り、書庫へ通う渚子の後ろを小さな影がついてくる。
  小梅は渚子のそばにいる時だけ、角を隠さなかった。

 「奥方様のそばにいると、なんだか……眠たくなるんです」

 不思議そうに首を傾げる小梅に、小さく笑った。
 子守唄の巫力と馬鹿にされてきた力が、この小さな鬼の子の怯えをほんの少しだけ解いている。
 たったそれだけのことなのに、胸の奥で長いこと灯の消えていた場所がほのかに温かくなった。

      *

 小梅と過ごすようになってしばらく経った頃のことだった。
 台所の裏手を通りかかると、人狼の一族に仕える者たちが数人、小さな薬瓶から液体を飲んでいる。
 隣にいた小梅が小声で教えてくれた。

 「人狼の方々は、満月が近づくとお体の奥の獣が騒ぐんだそうです。ああしてお薬を飲んで、獣を眠らせていらっしゃるの」

 薬を飲んだ者たちは、談笑しながら持ち場に戻っていく。
 この屋敷の人狼たちにとっては朝餉の前に茶を飲むのと変わらぬ日課らしい。

 さらに数日後、渡り廊下で犬塚が背後に立った。

 「奥方様。近く満月でございます。その夜は、離れからお出にならぬようお願い申し上げます」
  「なぜでしょう。お薬があるのなら……」
  「お願いでございます」

 理由は言わなかった。穏やかな声だったが、有無を言わせぬものがある。
 それ以上は問わなかったが、胸の隅に引っかかりは残った。

 犬塚は渚子が離れに戻るのを見届けてから、母屋の奥へ向かった。銀の執務室の前で襟を正し、戸を叩く。

 「――渚子様の風邪の件、ご指示の通りお薬は枕元にお届けしました。体調は快復されたようです」
  「そうか。あの人は、洋書が読めるのか」

 執務机の向こうに座る鷹城銀は、書類に目を落としたまま顔を上げない。
 銀色の髪が、行灯の灯りにぼんやりと光っている。

 「はい。英国の民俗学の書物を訳しておいででした」

 しばしの沈黙。ペンを持つ指が、わずかに力を込めた。

 「……書庫の西棟も開けておけ。それと、離れの庭の手入れをしているそうだな。あの人の手が荒れる……先回りしてやっておくよう伝えろ」
  「承知しました。……棟梁。お薬は俺が届けましたが、あれをお選びになったのは棟梁ご自身でしょう。わざわざ帝都の漢方問屋まで足を運ばれて。お顔を見せておやりになれば、奥方様も少しは安心なさるかと」
 「……会えば、欲が出る」

 犬塚は口を閉じた。それから一つ咳払いをして、声を改めた。
 「それと。満月の件でございます。先月の倍量を手配いたしましたが……先月は二刻も持ちませんでした。札も三重に張りましたが朝までに全て破れております。一族の者は鎮静薬で問題なく過ごしておりますが、棟梁のお体には――」
 「……分かっている。俺のことはいい。引き続き、あの人を頼む」

 犬塚は「承知いたしました」と頭を下げ、執務室を出た。

 一人残された銀は、懐から小さなものを取り出す。
 紐に結ばれた、小さな鈴。もう古い。
 紐は色褪せ、鈴の表面も煤けている。

 会いたかった。本当は今すぐにでも、あの手に触れたかった。

 けれど鈴を握ったまま、机の上の書類に目を落とす。
 陸軍内部の動向をまとめた報告書。そこに並ぶ、いくつもの不穏な名前。

 皆、銀の弱点を探している。
 鬼の一族は裏で絶えず棟梁の首を狙い、一族の内側では銀の叔父が座を奪おうと暗躍している。
 龍神の一派とも利権を巡る暗い駆け引きが絶えない。

 噛み痕をつければ、妖力を帯びたその痕を妖たちは感知する。
 「銀狼の番いは、あの人間の女だ」と。
 そうなれば渚子は、銀を殺したい者にとって最も手軽な道具になる。

 だから、無関心を装う。
 噛み痕をつけず、顔も合わせず、あの人とは何の関係もないのだと、全ての敵の目に映るように。

 全ての敵を潰し終えるまで。渚子の傍に、誰の影も届かなくなるまで。
 それでいいのだと、自分に言い聞かせた。

      *

 犬塚に告げられた満月の夜が来た。
 離れに戻ろうとした時、渡り廊下で緋鶴と鉢合わせた。

 いつもと違う。あの余裕のある表情が消え、金の瞳が鋭く辺りを見回している。

 「――志波の。今夜は絶対に部屋から出るな」
 いつもの嘲りはない。命じるような声だった。

 「……どうしてですか」
 「お前には関係のないこと。離れから一歩も出るな。障子も閉めておけ。何が聞こえても、だ」

 その背を見送る間もなく、屋敷が慌ただしくなった。
 侍女たちが小走りに廊下を行き交い、重い戸が次々と閉まる。全員が何かを恐れている顔をしている。
 渚子だけが、何も知らされぬまま取り残されていた。

 離れへ急ぐ途中、突然生温い風が吹き、屋敷の裏手の森から烏が一斉に飛び立った。
 何十羽もの黒い影が、鳴き叫びながら夜空に散っていく。

 その行方を目で追った先に――恐ろしいほど美しい満月が、夜空に浮かんでいた。