志波の家には、昔から不思議な力を持つ女が生まれる。
「巫力」と呼ばれるその力は、妖の力に干渉し、制御するもの。
強大な妖の荒ぶる妖力を鎮め、制し、あるいは打ち砕く――それができるのは、巫力を持つ人間の女だけであった。
今日の日本で、そのような血筋の家は三つ。
世に「御三家」と呼ばれるこの三家の娘たちは、
妖の名家にとって喉から手が出るほど欲しい花嫁である。
しかも巫力は、番いとなった妖に対して最も強く働く。
灼の娘が嫁げば、夫に仇なす者を誰よりも激しく灼き伏せる。
縛の娘が嫁げば、夫を狙う敵を誰よりも堅い結界で退けられる。
視の娘が嫁げば、夫を裏切る者を誰よりも早く見破る。
巫力とは、番いとなって初めて真の力を発揮するものなのだ。
だからこそ、妖の名家は御三家の娘を欲しがる。
御三家の娘は引く手数多で、華やかな縁談が舞い込み、妖の名家に嫁いで華族夫人として何不自由のない暮らしを送る。
それが当たり前の世界だった。
――少なくとも、渚子以外の娘にとっては。
志波渚子は、縛の力を持たずに生まれた。
志波家の女は縛の巫力を受け継ぐ。
姉の志乃は強力な縛の使い手として龍神の子爵家に嫁ぎ、もう一人の姉の千鶴も縛の力で天狗の名家に迎えられている。
渚子だけが、違った。
渚子に宿ったのは「鎮」。
灼のように焼き伏せるわけでも、縛のように封じ込めるわけでも、視のように見抜くわけでもない。
渚子が妖に触れると、その妖はほんの少しだけ、眠たそうな顔をする。それだけだった。
幼い頃、父が試しにと連れてきた妖に渚子が触れた時のことは、今でも覚えている。
その妖はふわりと瞼を重くし、こくりこくりと気持ちよさそうに舟を漕ぎ始めた。
父は長い溜息をついて、こう言った。
「……お前の力では、嫁ぎ先も選べん」
あの溜息の重さを、渚子は忘れていない。
姉たちが華やかな婚礼の支度を整えていく横で、渚子はいつも襖の影にいた。
それでも泣かなかった。泣いたところで、鎮が縛に変わるわけでもない。
代わりに本を読んだ。漢籍を、英語を、独りで学んだ。巫力で価値を示せぬなら、別の何かで自分の足で立てるようにと。
最初に手にした洋書は、母の遺品の中にあった英語の植物図鑑だった。
見たこともない花の細密画。日本の絵師とはまるで違う手つきで描かれた、知らない国の原っぱ。
巫力の稽古場から締め出された午後、渚子はその図鑑を繰り返し開いていた。
やがて文字を拾い、辞書を引き、一文ずつ意味を解くようになる。
英語が読めるようになると、世界が変わった。
帝都の古書店で洋書を買い、西洋の歴史を知り、異国の暮らしに胸を躍らせる。
蒸気機関、電信、万国博覧会。
この国の外には、巫力などなくても自分の力で道を切り拓いている人々がいる。
姉たちが巫力の格を競い合っている間に、渚子の目は海の向こうを見ていた。
――いつか異国を旅してみたい。
それが渚子の夢だった。
ある日、こっそり貯めた小遣いで、帝都の洋品店から小さな帽子を買った。
深い紺色の、リボンのついた西洋帽。
店先に並んでいるのを見かけた時から、足が止まってしまって動けなかったのだ。
見つけたのは、上の姉の志乃だった。
「まあ、何ですのこれ。異人の帽子?」
汚いものでもつまむように志乃が指先でぶら下げると、下の姉の千鶴が帽子を取り上げた。
「巫力の稽古もろくにできないくせに、西洋かぶれだけは一人前ね。お父様に申し上げますから」
父の反応は、もっと端的だった。
帽子は渚子の目の前で、外の葛箱に投げ捨てられた。
「御三家の娘が異人の真似事など、恥を知りなさい!! お前はただでさえ鎮しか使えぬ身だ。これ以上家の恥を増やすな」
雨に濡れた紺色のリボンを、渚子は縁側からじっと見ていた。
拾いに行くことはできなかった。拾えばもう一度取り上げられる。それが分かっていたから。
それ以来、異国への想いを誰にも見せなくなった。
――欲しいと思うから、奪われる。ならば最初から、欲しがらなければいい。
そうやって自分の輪郭を少しずつ削っていった末に、ある日突然、縁談が降ってきた。
相手は、鷹城銀。
人狼一族の棟梁にして伯爵、陸軍少将の位を持つ男。
銀の髪に琥珀の瞳を持ち、戦場では「銀狼」の異名で敵味方に恐れられた――と、噂では聞いている。
華族の夜会に姿を見せれば女たちが息を呑み、軍議に立てば歴戦の将校が口をつぐむのだとも。
しかし本人は写真を嫌い、肖像の類も一切残さないという。
渚子は夫となる男の顔を、まだ一度も見たことがなかった。
人狼の棟梁といえば、妖の中でも最上の格。
その花嫁にと望まれるのは、御三家の中でもとりわけ力の強い娘のはずだ。
それが、なぜ。よりにもよって、鎮しか持たぬ自分に。
「鷹城の棟梁が、うちの……お前を? こりゃあすごいぞ」
父の顔に浮かんでいたのは、疑念ではなく歓喜だった。
なぜ渚子なのか。そんな問いは父の中にはない。天から降ってきた幸運に、なぜと問う愚か者はいないのと同じだ。
姉たちは、もっと正直だった。
「あなたで務まるのかしら。鎮では、お役に立てることなど何もないでしょうに」
「でもよかったじゃない。あなたがここにいても、お父様の負担が増えるだけだったもの」
飾らずに言えば厄介払いだ。渚子には分かっている。
嫁入りの支度は大したものにならず、母が遺した着物を仕立て直し、わずかな身の回りの品を葛籠に詰める。
洋書を数冊と、帳面と、英語の辞書。
他に持っていけるようなものも、なかった。
見送りの日、姉たちは誰も来なかった。父だけが玄関先に立っていたが、その目が見ているのは渚子ではない。
鷹城の使いだ。他家への借金の証文を消すと約束してもらったことを、確かめたいのだろう。
「行ってまいります」
父は頷いた。渚子にではなく、使いに向かって。
振り返らなかった。振り返ったところで、見送る目はひとつもないのだから。
鷹城の屋敷は、帝都の外れにあった。
迎えの馬車は煉瓦の街並みを抜け、ガス灯の途絶えた坂道を登っていく。
窓から見える景色が、文明開化の帝都から少しずつ遠ざかっていった。
大通りを折れる手前で、ふと目を奪われる。
煉瓦造りの洋館の前に、西洋の帽子を被った女性が立っている。淡い色のドレスに日傘。
秋の陽射しの中で、異国の花のように華やかだった。
綺麗だと思った自分に気づいて、ブンブンと首を振る。
帽子を庭に投げ捨てられた日から、こういうものを欲しいと思う回路を、意識して閉じてきたのだ。
煉瓦が木に変わり、木が森に変わり、やがて人家が途絶える。
丘の上に、その屋敷は建っていた。
鬱蒼とした森に囲まれた、異様に広い敷地。
黒い鉄の門扉には蔦が絡みつき、門をくぐると白砂利の前庭が続く。
その先に、和洋折衷の邸宅が暗く聳えている。
灯りの少ない窓が、丘の上から帝都を見下ろしていた。
世間がこの屋敷を何と呼んでいるか、渚子は知っている。
――狼の館。
馬車が門の前で止まった時、ふと邸宅の三階の窓に目がいった。
一瞬だけ、カーテンの隙間に影が動いた。けれどすぐに消えた。
馬車を降りても、迎える者はほとんどいなかった。
案内の女中に導かれ、母屋の中を歩く。
広い屋敷だった。渡り廊下が幾筋にも分かれ、いくつもの部屋の前を通る。
その中で、一際異様な気配を放つ扉が目についた。
あの部屋は、何だろう?
渡り廊下の突き当たり。扉の前に注連縄が渡され、真新しい札が何枚も貼られている。
渚子が足を緩めると、女中が振り返った。
「あちらには近づかないでくださいませ」
それだけだった。
そのまま離れに通される。
小さくはないが、母屋とは明らかに格が違う。調度品は最低限で、花の一輪も飾られていない。
「こちらが、お部屋になります」
女中はそう言って、踵を返しかけた。それから思い出したように立ち止まる。
「念のためにもう一度だけ。渡り廊下の突き当たり、注連縄のある西の部屋。あちらには決して近づかないでくださいませ」
「……あの部屋には、何が」
答えはなかった。ただ一礼して、足早に去っていく。
婚礼は、その夜のうちに済まされた。
済まされた、としか言いようがない。
三々九度の盃は離れの小さな座敷に運ばれ、渚子は一人で杯を傾けた。
新郎の席は空だった。媒酌人も仲人もおらず、女中が盃を置き、下げ、それで終わり。
鷹城の名と志波の名を記した婚姻届に判を押しただけの、書類上の婚礼。
花嫁衣裳すら着ていない。母の着物を仕立て直した、白でも赤でもないただの小紋。
これが人狼の棟梁の婚礼かと思えば、笑うしかなかった。
婚礼の夜に、夫は姿を見せなかった。翌日も。その次の日も。
同じ屋敷にいるはずなのに、気配すらない。
噂に聞いた銀の髪も琥珀の瞳も、嫁いでなお目にしていない。妻にすら顔を見せる気がないのだ。
幾日かの冷遇で、答えの輪郭が見えてきた。
棟梁には、他に想い人がいるのだろう。地位のある妖が愛人を持つことは珍しくもない。
華族の夜会で彼の隣に立つ、美しい女人狼がいるとも聞く。すでに事実上の伴侶がいるのかもしれなかった。
けれど棟梁ともなれば、体裁として正室は要る。
形だけの妻、飾りの花嫁。ならばまともな御三家の娘では都合が悪い。
名家から力ある娘を迎えておいて噛み痕もつけず放置すれば、妻の実家が黙っていまい。
けれど、もし相手が、没落した家の力もない娘であれば。
文句を言える立場にない家の、値のつかない末娘であれば。
どれだけ冷遇しようと、誰も何も言わない。
借金を肩代わりするだけで手に入る、文句の出ない飾りの妻。
父が大喜びしたのも道理だ。鷹城の側からすれば、あの借金など端金だったのだろう。
分かっていたではないか。
鎮しか持たぬ自分にそれ以上の値がつくはずもないと、とうに知っていたはずだ。
侍女たちの態度が、その答えを裏づけた。
彼女たちは人狼の一族に仕える者たちだった。
人間もいれば、人狼の端くれもいる。
いずれにしても、渚子を「奥方様」と認める気はないらしい。
「志波のお嬢様は、巫力は縛でいらっしゃるの?」
ある日、侍女の一人がわざとらしく尋ねてきた。知っていて聞いているのだ。
「いいえ」
「まあ。では何をお持ちなの?」
「……鎮を」
薄い笑いが広がっていく。
「鎮? ああ、あの……触れた妖が眠たくなるという? 御三家のお嬢様なのに」
ひそひそ声は、聞こえよがしに渚子の耳に届く。
「灼なら敵を焼き、縛なら結界を張れる。鎮は……ねえ、何に使えばよろしいの?」
「触れたら眠たくなるんですって。子守唄の巫力ですわね。棟梁の寝かしつけ係?」
「何を。寝かしつけ専門なら、せめてもう少し色っぽい方を選ぶでしょうに」
黙って聞いていた。言い返せないのではない。全て事実だから、言い返す必要がなかった。
とどめを刺したのは、銀の従妹の鷹城緋鶴だった。
艶やかな黒髪に、人狼特有の金の瞳。纏う着物は最上の絹で、母屋を我が物顔で歩いている。
華族の夜会では銀の隣に立つのは常にこの女であり、世間は緋鶴こそ鷹城の女主人だと思っているらしい。
嫁いで七日目のこと。
離れの庭先で風に当たっていると、渡り廊下の向こうから緋鶴がゆっくりと歩いてくる。
侍女を三人従え、渚子の前に立った。
人間離れした美貌が、渚子を値踏みするようにゆっくりと見下ろす。
「あなたが、志波の」
名前は呼ばない。
「噛み痕がないのですってね。つまりあなたは奥方でもなければ、番いでもない。ただ屋敷の隅に転がっているだけの、値のつかない器と同じ」
小さく笑った。嘲りですらない。事実を教えてやっているという顔だった。
「あなたの居場所は、この家にはないわ」
それだけ言って踵を返した。
侍女たちがその背に従い、渡り廊下の向こうに消えていく。
居場所がないことなら、とうに知っている。志波の家にも、なかったのだから。
悔しくないと言えば嘘になるけれど、涙は出なかった。その代わりに、ひとつだけ決めた。
待つのはもうやめよう。
この家に自分の場所がないのなら、自分の足で出ていくしかない。
離れに戻り、葛籠の底に隠しておいた帳面を取り出した。
嫁ぐ前から少しずつ書き溜めてきたもの。
英語の翻訳、漢籍の写し。いつか自分の力で生きるための、ささやかな備え。
離縁の道を探そう。
誰にも乞わず、誰にも縋らず。自分の足で、この家を出るために。
ふと、文机の隅に目が止まった。
小さな一輪挿しに、白い花が一輪。鈴蘭だった。朝にはなかったはずだ。
鈴のような花弁から、甘くやわらかな香りが漂っている。
花の一輪も飾られていないと思っていた、この部屋に。
誰が、とは思った。けれどそれ以上は考えなかった。
たまたま誰かが間違えて置いたのかもしれない。
渚子のために用意されたものだと思うほど、自惚れてはいない。
それでも甘い鈴蘭の香りだけは、しばらく指先に残っていた。
「巫力」と呼ばれるその力は、妖の力に干渉し、制御するもの。
強大な妖の荒ぶる妖力を鎮め、制し、あるいは打ち砕く――それができるのは、巫力を持つ人間の女だけであった。
今日の日本で、そのような血筋の家は三つ。
世に「御三家」と呼ばれるこの三家の娘たちは、
妖の名家にとって喉から手が出るほど欲しい花嫁である。
しかも巫力は、番いとなった妖に対して最も強く働く。
灼の娘が嫁げば、夫に仇なす者を誰よりも激しく灼き伏せる。
縛の娘が嫁げば、夫を狙う敵を誰よりも堅い結界で退けられる。
視の娘が嫁げば、夫を裏切る者を誰よりも早く見破る。
巫力とは、番いとなって初めて真の力を発揮するものなのだ。
だからこそ、妖の名家は御三家の娘を欲しがる。
御三家の娘は引く手数多で、華やかな縁談が舞い込み、妖の名家に嫁いで華族夫人として何不自由のない暮らしを送る。
それが当たり前の世界だった。
――少なくとも、渚子以外の娘にとっては。
志波渚子は、縛の力を持たずに生まれた。
志波家の女は縛の巫力を受け継ぐ。
姉の志乃は強力な縛の使い手として龍神の子爵家に嫁ぎ、もう一人の姉の千鶴も縛の力で天狗の名家に迎えられている。
渚子だけが、違った。
渚子に宿ったのは「鎮」。
灼のように焼き伏せるわけでも、縛のように封じ込めるわけでも、視のように見抜くわけでもない。
渚子が妖に触れると、その妖はほんの少しだけ、眠たそうな顔をする。それだけだった。
幼い頃、父が試しにと連れてきた妖に渚子が触れた時のことは、今でも覚えている。
その妖はふわりと瞼を重くし、こくりこくりと気持ちよさそうに舟を漕ぎ始めた。
父は長い溜息をついて、こう言った。
「……お前の力では、嫁ぎ先も選べん」
あの溜息の重さを、渚子は忘れていない。
姉たちが華やかな婚礼の支度を整えていく横で、渚子はいつも襖の影にいた。
それでも泣かなかった。泣いたところで、鎮が縛に変わるわけでもない。
代わりに本を読んだ。漢籍を、英語を、独りで学んだ。巫力で価値を示せぬなら、別の何かで自分の足で立てるようにと。
最初に手にした洋書は、母の遺品の中にあった英語の植物図鑑だった。
見たこともない花の細密画。日本の絵師とはまるで違う手つきで描かれた、知らない国の原っぱ。
巫力の稽古場から締め出された午後、渚子はその図鑑を繰り返し開いていた。
やがて文字を拾い、辞書を引き、一文ずつ意味を解くようになる。
英語が読めるようになると、世界が変わった。
帝都の古書店で洋書を買い、西洋の歴史を知り、異国の暮らしに胸を躍らせる。
蒸気機関、電信、万国博覧会。
この国の外には、巫力などなくても自分の力で道を切り拓いている人々がいる。
姉たちが巫力の格を競い合っている間に、渚子の目は海の向こうを見ていた。
――いつか異国を旅してみたい。
それが渚子の夢だった。
ある日、こっそり貯めた小遣いで、帝都の洋品店から小さな帽子を買った。
深い紺色の、リボンのついた西洋帽。
店先に並んでいるのを見かけた時から、足が止まってしまって動けなかったのだ。
見つけたのは、上の姉の志乃だった。
「まあ、何ですのこれ。異人の帽子?」
汚いものでもつまむように志乃が指先でぶら下げると、下の姉の千鶴が帽子を取り上げた。
「巫力の稽古もろくにできないくせに、西洋かぶれだけは一人前ね。お父様に申し上げますから」
父の反応は、もっと端的だった。
帽子は渚子の目の前で、外の葛箱に投げ捨てられた。
「御三家の娘が異人の真似事など、恥を知りなさい!! お前はただでさえ鎮しか使えぬ身だ。これ以上家の恥を増やすな」
雨に濡れた紺色のリボンを、渚子は縁側からじっと見ていた。
拾いに行くことはできなかった。拾えばもう一度取り上げられる。それが分かっていたから。
それ以来、異国への想いを誰にも見せなくなった。
――欲しいと思うから、奪われる。ならば最初から、欲しがらなければいい。
そうやって自分の輪郭を少しずつ削っていった末に、ある日突然、縁談が降ってきた。
相手は、鷹城銀。
人狼一族の棟梁にして伯爵、陸軍少将の位を持つ男。
銀の髪に琥珀の瞳を持ち、戦場では「銀狼」の異名で敵味方に恐れられた――と、噂では聞いている。
華族の夜会に姿を見せれば女たちが息を呑み、軍議に立てば歴戦の将校が口をつぐむのだとも。
しかし本人は写真を嫌い、肖像の類も一切残さないという。
渚子は夫となる男の顔を、まだ一度も見たことがなかった。
人狼の棟梁といえば、妖の中でも最上の格。
その花嫁にと望まれるのは、御三家の中でもとりわけ力の強い娘のはずだ。
それが、なぜ。よりにもよって、鎮しか持たぬ自分に。
「鷹城の棟梁が、うちの……お前を? こりゃあすごいぞ」
父の顔に浮かんでいたのは、疑念ではなく歓喜だった。
なぜ渚子なのか。そんな問いは父の中にはない。天から降ってきた幸運に、なぜと問う愚か者はいないのと同じだ。
姉たちは、もっと正直だった。
「あなたで務まるのかしら。鎮では、お役に立てることなど何もないでしょうに」
「でもよかったじゃない。あなたがここにいても、お父様の負担が増えるだけだったもの」
飾らずに言えば厄介払いだ。渚子には分かっている。
嫁入りの支度は大したものにならず、母が遺した着物を仕立て直し、わずかな身の回りの品を葛籠に詰める。
洋書を数冊と、帳面と、英語の辞書。
他に持っていけるようなものも、なかった。
見送りの日、姉たちは誰も来なかった。父だけが玄関先に立っていたが、その目が見ているのは渚子ではない。
鷹城の使いだ。他家への借金の証文を消すと約束してもらったことを、確かめたいのだろう。
「行ってまいります」
父は頷いた。渚子にではなく、使いに向かって。
振り返らなかった。振り返ったところで、見送る目はひとつもないのだから。
鷹城の屋敷は、帝都の外れにあった。
迎えの馬車は煉瓦の街並みを抜け、ガス灯の途絶えた坂道を登っていく。
窓から見える景色が、文明開化の帝都から少しずつ遠ざかっていった。
大通りを折れる手前で、ふと目を奪われる。
煉瓦造りの洋館の前に、西洋の帽子を被った女性が立っている。淡い色のドレスに日傘。
秋の陽射しの中で、異国の花のように華やかだった。
綺麗だと思った自分に気づいて、ブンブンと首を振る。
帽子を庭に投げ捨てられた日から、こういうものを欲しいと思う回路を、意識して閉じてきたのだ。
煉瓦が木に変わり、木が森に変わり、やがて人家が途絶える。
丘の上に、その屋敷は建っていた。
鬱蒼とした森に囲まれた、異様に広い敷地。
黒い鉄の門扉には蔦が絡みつき、門をくぐると白砂利の前庭が続く。
その先に、和洋折衷の邸宅が暗く聳えている。
灯りの少ない窓が、丘の上から帝都を見下ろしていた。
世間がこの屋敷を何と呼んでいるか、渚子は知っている。
――狼の館。
馬車が門の前で止まった時、ふと邸宅の三階の窓に目がいった。
一瞬だけ、カーテンの隙間に影が動いた。けれどすぐに消えた。
馬車を降りても、迎える者はほとんどいなかった。
案内の女中に導かれ、母屋の中を歩く。
広い屋敷だった。渡り廊下が幾筋にも分かれ、いくつもの部屋の前を通る。
その中で、一際異様な気配を放つ扉が目についた。
あの部屋は、何だろう?
渡り廊下の突き当たり。扉の前に注連縄が渡され、真新しい札が何枚も貼られている。
渚子が足を緩めると、女中が振り返った。
「あちらには近づかないでくださいませ」
それだけだった。
そのまま離れに通される。
小さくはないが、母屋とは明らかに格が違う。調度品は最低限で、花の一輪も飾られていない。
「こちらが、お部屋になります」
女中はそう言って、踵を返しかけた。それから思い出したように立ち止まる。
「念のためにもう一度だけ。渡り廊下の突き当たり、注連縄のある西の部屋。あちらには決して近づかないでくださいませ」
「……あの部屋には、何が」
答えはなかった。ただ一礼して、足早に去っていく。
婚礼は、その夜のうちに済まされた。
済まされた、としか言いようがない。
三々九度の盃は離れの小さな座敷に運ばれ、渚子は一人で杯を傾けた。
新郎の席は空だった。媒酌人も仲人もおらず、女中が盃を置き、下げ、それで終わり。
鷹城の名と志波の名を記した婚姻届に判を押しただけの、書類上の婚礼。
花嫁衣裳すら着ていない。母の着物を仕立て直した、白でも赤でもないただの小紋。
これが人狼の棟梁の婚礼かと思えば、笑うしかなかった。
婚礼の夜に、夫は姿を見せなかった。翌日も。その次の日も。
同じ屋敷にいるはずなのに、気配すらない。
噂に聞いた銀の髪も琥珀の瞳も、嫁いでなお目にしていない。妻にすら顔を見せる気がないのだ。
幾日かの冷遇で、答えの輪郭が見えてきた。
棟梁には、他に想い人がいるのだろう。地位のある妖が愛人を持つことは珍しくもない。
華族の夜会で彼の隣に立つ、美しい女人狼がいるとも聞く。すでに事実上の伴侶がいるのかもしれなかった。
けれど棟梁ともなれば、体裁として正室は要る。
形だけの妻、飾りの花嫁。ならばまともな御三家の娘では都合が悪い。
名家から力ある娘を迎えておいて噛み痕もつけず放置すれば、妻の実家が黙っていまい。
けれど、もし相手が、没落した家の力もない娘であれば。
文句を言える立場にない家の、値のつかない末娘であれば。
どれだけ冷遇しようと、誰も何も言わない。
借金を肩代わりするだけで手に入る、文句の出ない飾りの妻。
父が大喜びしたのも道理だ。鷹城の側からすれば、あの借金など端金だったのだろう。
分かっていたではないか。
鎮しか持たぬ自分にそれ以上の値がつくはずもないと、とうに知っていたはずだ。
侍女たちの態度が、その答えを裏づけた。
彼女たちは人狼の一族に仕える者たちだった。
人間もいれば、人狼の端くれもいる。
いずれにしても、渚子を「奥方様」と認める気はないらしい。
「志波のお嬢様は、巫力は縛でいらっしゃるの?」
ある日、侍女の一人がわざとらしく尋ねてきた。知っていて聞いているのだ。
「いいえ」
「まあ。では何をお持ちなの?」
「……鎮を」
薄い笑いが広がっていく。
「鎮? ああ、あの……触れた妖が眠たくなるという? 御三家のお嬢様なのに」
ひそひそ声は、聞こえよがしに渚子の耳に届く。
「灼なら敵を焼き、縛なら結界を張れる。鎮は……ねえ、何に使えばよろしいの?」
「触れたら眠たくなるんですって。子守唄の巫力ですわね。棟梁の寝かしつけ係?」
「何を。寝かしつけ専門なら、せめてもう少し色っぽい方を選ぶでしょうに」
黙って聞いていた。言い返せないのではない。全て事実だから、言い返す必要がなかった。
とどめを刺したのは、銀の従妹の鷹城緋鶴だった。
艶やかな黒髪に、人狼特有の金の瞳。纏う着物は最上の絹で、母屋を我が物顔で歩いている。
華族の夜会では銀の隣に立つのは常にこの女であり、世間は緋鶴こそ鷹城の女主人だと思っているらしい。
嫁いで七日目のこと。
離れの庭先で風に当たっていると、渡り廊下の向こうから緋鶴がゆっくりと歩いてくる。
侍女を三人従え、渚子の前に立った。
人間離れした美貌が、渚子を値踏みするようにゆっくりと見下ろす。
「あなたが、志波の」
名前は呼ばない。
「噛み痕がないのですってね。つまりあなたは奥方でもなければ、番いでもない。ただ屋敷の隅に転がっているだけの、値のつかない器と同じ」
小さく笑った。嘲りですらない。事実を教えてやっているという顔だった。
「あなたの居場所は、この家にはないわ」
それだけ言って踵を返した。
侍女たちがその背に従い、渡り廊下の向こうに消えていく。
居場所がないことなら、とうに知っている。志波の家にも、なかったのだから。
悔しくないと言えば嘘になるけれど、涙は出なかった。その代わりに、ひとつだけ決めた。
待つのはもうやめよう。
この家に自分の場所がないのなら、自分の足で出ていくしかない。
離れに戻り、葛籠の底に隠しておいた帳面を取り出した。
嫁ぐ前から少しずつ書き溜めてきたもの。
英語の翻訳、漢籍の写し。いつか自分の力で生きるための、ささやかな備え。
離縁の道を探そう。
誰にも乞わず、誰にも縋らず。自分の足で、この家を出るために。
ふと、文机の隅に目が止まった。
小さな一輪挿しに、白い花が一輪。鈴蘭だった。朝にはなかったはずだ。
鈴のような花弁から、甘くやわらかな香りが漂っている。
花の一輪も飾られていないと思っていた、この部屋に。
誰が、とは思った。けれどそれ以上は考えなかった。
たまたま誰かが間違えて置いたのかもしれない。
渚子のために用意されたものだと思うほど、自惚れてはいない。
それでも甘い鈴蘭の香りだけは、しばらく指先に残っていた。


