志波の家には、昔から不思議な力を持つ女が生まれる。
「巫力」と呼ばれるその力は、妖の力に干渉し、制御するもの。
強大な妖の荒ぶる妖力を鎮め、制し、あるいは打ち砕く――それができるのは、巫力を持つ人間の女だけであった。
今日の日本で、そのような血筋の家は三つ。
世に「御三家」と呼ばれるこの三家の娘たちは、
妖の名家にとって喉から手が出るほど欲しい花嫁である。
しかも巫力は、番いとなった妖に対して最も強く働く。
灼の娘が嫁げば、夫に仇なす者を誰よりも激しく灼き伏せる。
縛の娘が嫁げば、夫を狙う敵を誰よりも堅い結界で退けられる。
視の娘が嫁げば、夫を裏切る者を誰よりも早く見破る。
巫力とは、番いとなって初めて真の力を発揮するものなのだ。
だからこそ、妖の名家は御三家の娘を欲しがる。
御三家の娘は引く手数多で、華やかな縁談が舞い込み、妖の名家に嫁いで華族夫人として何不自由のない暮らしを送る。
それが当たり前の世界だった。
――少なくとも、渚子以外の娘にとっては。
*
幼い頃、父が試しにと連れてきた妖に、渚子は手を伸ばした。
触れた瞬間、その妖はふわりと瞼を重くし、こくりこくりと舟を漕ぎ始める。
その時耳にした父の長い溜息は今でも忘れられない。
「……お前の力では、嫁ぎ先も選べん」
志波家の女は、縛の巫力を受け継ぐ。
上の姉の志乃は龍神の子爵家に嫁ぎ、下の姉の千鶴も天狗の名家に迎えられた。どちらも強力な縛の使い手として。
渚子に宿ったのは「鎮」。触れた妖が、ほんの少しだけ眠たくなる。それだけの力だ。
姉たちが華やかな婚礼の支度を整える横で、渚子はいつも襖の影にいた。泣いたところで、鎮が縛に変わるわけではないのだから。
その代わりに、本を読んだ。
最初に手にした洋書は、母の遺品の英語の植物図鑑だった。見たこともない花の細密画、知らない国の広い原っぱ。
巫力の稽古場から締め出された午後、渚子はその図鑑を繰り返し開いた。毎日少しずつ文字を拾い、辞書を引き、一文ずつ意味を解く。
英語が読めるようになると、世界が変わった。
蒸気機関、電信、万国博覧会。
この国の外には、巫力などなくても自分の力で道を切り拓いている人々がいる。
(いつか私も、異国を旅してみたい)
それは、渚子のたった一つの夢だった。
ある日、こっそり貯めた小遣いで、帝都の洋品店から小さな帽子を買った。
深い紺色の、リボンのついた西洋帽。
しかし家に帰ると、志乃の目が意地悪く光った。
「まあ、何ですのこれ。異人の帽子?」
汚いものでもつまむように指先でぶら下げる。
「か、返してください!」
「あら怖い。そんなに大事なものなの、こんなものが」
渚子が手を伸ばすと、志乃はひょいと帽子を高く上げた。千鶴が横からそれを取り上げる。
「西洋かぶれだけは一人前ね。お父様に申し上げますから」
「お姉様、お願いです。お父様には……それだけは」
千鶴は振り返りもしなかった。
父の反応は、もっと端的だった。
帽子は渚子の目の前で、外の葛箱に投げ捨てられた。
「御三家の娘が異人の真似事など、恥を知りなさい!! お前はただでさえ鎮しか使えぬ身だ。これ以上家の恥を増やすな」
「……はい。申し訳ありません」
雨に濡れた紺色のリボンを、渚子は縁側からじっと見ていた。拾いに行けば、また取り上げられる。
(欲しいと思うから、奪われる。なら最初から、欲しがらなければいいんだ)
それ以来、渚子は異国への想いを誰にも見せなくなった。
*
そうやって自分の輪郭を少しずつ削っていった末に、ある日突然、縁談が降ってきた。
「鷹城の棟梁が、うちの……お前を? こりゃあすごいぞ!」
父の顔には、疑念ではなく歓喜が浮かんでいた。
鷹城銀。人狼一族の棟梁にして伯爵、陸軍少将。
銀の髪に琥珀の瞳を持ち、戦場では「銀狼」の異名で恐れられた男。
写真を嫌い、肖像も一切残さないという。
渚子は夫となる男の顔を、まだ一度も見たことがなかった。
人狼の棟梁といえば、妖の中でも最上の格。その花嫁に望まれるのは、御三家の中でもとりわけ力の強い娘のはずだ。
(どうして、私なんかに)
「よかったじゃない。あんたがここにいても、お父様の負担が増えるだけだったもの」
姉たちは激しい嫉妬を見せなかった。きっと、事情のある婚姻だと察していたのだろう。人狼の棟梁が、鎮しか持たぬ末娘をまともな花嫁として望むはずがないと。
志乃が扇子の先で渚子の顎をくいと持ち上げた。
「全く。鎮では、お役に立てることなど何もないでしょうに」
「……精一杯つとめます」
「はっ! 精一杯ねえ、笑わせる」
志乃は渚子の顔をしばらく眺めてから、ふっと手を離した。
「そうそう、人狼は鼻が利くんですってね。あんたみたいに陰気な匂いのする女、一晩で追い出されてしまうんじゃないかしら」
千鶴がくすりと笑った。
「余計なことをして鷹城のお家に恥をかかせたら……食べられちゃうかもしれないわよ? 人狼のお食事って、骨も残さないんですって。あの大きなお口で、ばくっ……とね」
おどかすような大袈裟な動きに渚子がびくりと肩を振るわせると、二人の姉は目を見合わせてくすくすと笑った。
「あんたみたいな貧相で大した能力もない娘なんて、食われたところでなんの足しにもなりゃしないわ」
「さっさと荷物をまとめて失せなさい……この西洋かぶれが」
嫁入りの支度は大したものにならなかった。
母の遺した着物を仕立て直し、わずかな身の回りの品を葛籠に詰める。洋書を数冊と、帳面と、英語の辞書。
見送りの日、姉たちは誰も来なかった。
父だけが玄関先に立っていたが、その目が見ているのは渚子ではない。鷹城の使いだ。
「行ってまいります、お父様」
「ああ。くれぐれも粗相のないように」
それだけだった。
(……分かっていたけど、やっぱり少しだけ、寂しいな)
振り返らなかった。振り返ったところで、見送る目はひとつもない。
*
鷹城の屋敷は、帝都の外れにあった。
迎えの馬車が煉瓦の街並みを抜け、ガス灯の途絶えた坂道を登っていく。
大通りを折れる手前で、ふと目を奪われた。
煉瓦造りの洋館の前に、西洋の帽子を被った女性が立っている。
淡い色のドレスに日傘。秋の陽射しの中で、異国の花のように華やかだった。
(綺麗……)
そう思って、すぐに目を伏せた。
(こういうものを「いいな」って思っちゃ、いけないんだった)
煉瓦が木に変わり、木が森に変わり、やがて人家が途絶える。
丘の上に、その屋敷は建っていた。
鬱蒼とした森に囲まれた、異様に広い敷地。
黒い鉄の門扉には蔦が絡みつき、門をくぐると白砂利の前庭が続く。
和洋折衷の邸宅が暗く聳え、灯りの少ない窓が帝都を見下ろしている。
世間がこの屋敷を何と呼んでいるか、渚子は知っている。
――狼の館。
馬車が門の前で止まった時、三階の窓にふと目がいった。カーテンの隙間に影が動いたが、すぐに消えた。
馬車を降りても、迎える者はほとんどいなかった。
案内の女中に導かれ、母屋の中を歩く。
その中で、一際異様な気配を放つ扉が目についた。渡り廊下の突き当たり。扉の前に注連縄が渡され、真新しい札が何枚も貼られている。
「あの……あの部屋は?」
足を緩めると、女中が振り返った。
「あちらには近づかないでくださいませ」
それだけだった。
離れに通される。小さくはないが、母屋とは明らかに格が違う。調度品は最低限で、花の一輪も飾られていない。
「こちらが、お部屋になります」
「ありがとうございます。あの、旦那様にはいつお目にかかれますか?」
女中はほんの一瞬だけ目を伏せた。
「それは、私には」
「そう、ですか。……すみません、変なことをお聞きして」
女中はそう言って踵を返しかけ、それから思い出したように立ち止まった。
「念のためにもう一度だけ。渡り廊下の突き当たり、注連縄のある西の部屋。あちらには決して近づかないでくださいませ」
「……わかりました」
去っていく女中の背中を見送りながら、渚子はもう一度扉の方向を振り返った。
(あの部屋には、何があるのだろう)
*
婚礼は、その夜のうちに済まされた。
三々九度の盃は離れの小さな座敷に運ばれ、渚子は一人で杯を傾けた。新郎の席は空。媒酌人も仲人もいない。
花嫁衣裳すら着ていない。母の着物を仕立て直した、白でも赤でもないただの小紋だった。
(せめてお顔だけでも見られたら、ご挨拶くらいはできたのに)
婚礼の夜にも、夫は姿を見せなかった。翌日も、その次の日も。
同じ屋敷にいるはずなのに、気配すらない。噂に聞いた銀の髪も琥珀の瞳も、嫁いでなお目にしていない。
幾日かの冷遇で、答えの輪郭が見えてきた。
棟梁には他に想い人がいるのだろう。華族の夜会で隣に立つ、美しい女人狼がいるとも聞く。けれど棟梁ともなれば、体裁として正室は要る。
もし相手が没落した家の力もない末娘であれば。
借金を肩代わりするだけで手に入る、文句の出ない飾りであれば。
(私は、そのために選ばれたんだ)
分かっていたはずなのに、胸の奥が小さく痛んだ。
*
「本日よりここでお世話になります、志波渚子と申します。よろしくお願いいたします」
深く頭を下げた渚子に、侍女たちは目を合わせなかった。
ある日、その一人が尋ねてきた。
「志波のお嬢様は、巫力は縛でいらっしゃるの?」
知っていて聞いている。顔を見れば分かる。
「いいえ」
「まあ。では何をお持ちなの?」
「……鎮を」
「鎮? ああ、あの……触れた妖が眠たくなるという?」
ひそひそ声が、聞こえよがしに耳に届く。
「灼なら敵を焼き、縛なら結界を張れる。鎮は……ねえ、何に使えばよろしいの?」
「触れたら眠たくなるんですわね。子守唄の巫力ですわ」
「何を。寝かしつけ専門なら、せめてもう少し色っぽい方を選ぶでしょうに」
黙って聞いていた。笑い声が遠ざかるまで、膝の上で手を握っていた。
(全部、本当のことだもの。怒ったって仕方がない)
*
嫁いで七日目。渚子はついに、銀の従妹の鷹城緋鶴と対面を果たした。
離れの庭先で風に当たっていると、渡り廊下の向こうから緋鶴がゆっくりと歩いてきたのだった。
侍女を三人従え、渚子の前で足を止める。
艶やかな黒髪に、人狼特有の金の瞳。纏う着物は最上の絹で、母屋を我が物顔で歩いている。華族の夜会では銀の隣に立つのは常にこの女だという。
「……ご挨拶が遅れて申し訳ありません。志波渚子と申します」
緋鶴は一瞬だけ目を細めた。それから鼻先で笑うように息をつき、踵を返す。
「あなたが、志波の」
名前は呼ばない。
緋鶴が目配せすると、左右の侍女が渚子の腕を押さえた。
もう一人が後ろから項をつかみ、頭を無理やりぐっと下げさせる。
「痛っ……」
襟元がわずかに乱れた。緋鶴の指先が、渚子のうなじのあたりをなぞるように止まる。
「噛み痕がないというのは、本当だったのですね」
人狼の花嫁は、首の後ろに番いの証である噛み痕を刻まれる。
その痕を持たぬ女は一族に認められないというのは、聞いたことがあった。
「つまりあなたは奥方でもなければ、番いでもない。ただ屋敷の隅に転がっているだけの、値のつかない器と同じ」
緋鶴は扇子で口元を隠し、小さく笑った。
「あなたの居場所は、この家にはないわ」
渚子は襟元を押さえながら、小さく頭を下げた。
項をつかんでいた手が離れる。よろめきかけた渚子を一瞥することもなく、侍女たちもその背に従った。
(居場所がないことなら、もう、分かってる)
悔しくないと言えば嘘だ。でも涙は出なかった。
泣いても誰も来ないことを、渚子はずっと昔から知っている。
その代わりに、ひとつだけ決めた。
(待つのは、もうやめよう)
離れに戻り、葛籠の底から帳面を取り出す。
嫁ぐ前から少しずつ書き溜めてきたもの。英語の翻訳、漢籍の写し。
これを持って職を探せば、語学を活かしてどこかで雇ってもらえるかもしれない。
(離縁の道を探そう。誰にも乞わず、誰にも縋らず。自分の足で、この家を出るんだ)
ふと、文机の隅に目が止まった。
「……花?」
小さな一輪挿しに、白い花が一輪。鈴蘭だった。朝にはなかったはずだ。
鈴のような花弁から、甘くやわらかな香りが漂っている。
「一体、誰が……」
(いや、たまたま誰かが間違えて置いていっただけ。私のために用意されたものだなんて、そんなわけない)
それでも、その花を捨てることはできず。
甘い鈴蘭の香りが、しばらく指先に残っていた。
「巫力」と呼ばれるその力は、妖の力に干渉し、制御するもの。
強大な妖の荒ぶる妖力を鎮め、制し、あるいは打ち砕く――それができるのは、巫力を持つ人間の女だけであった。
今日の日本で、そのような血筋の家は三つ。
世に「御三家」と呼ばれるこの三家の娘たちは、
妖の名家にとって喉から手が出るほど欲しい花嫁である。
しかも巫力は、番いとなった妖に対して最も強く働く。
灼の娘が嫁げば、夫に仇なす者を誰よりも激しく灼き伏せる。
縛の娘が嫁げば、夫を狙う敵を誰よりも堅い結界で退けられる。
視の娘が嫁げば、夫を裏切る者を誰よりも早く見破る。
巫力とは、番いとなって初めて真の力を発揮するものなのだ。
だからこそ、妖の名家は御三家の娘を欲しがる。
御三家の娘は引く手数多で、華やかな縁談が舞い込み、妖の名家に嫁いで華族夫人として何不自由のない暮らしを送る。
それが当たり前の世界だった。
――少なくとも、渚子以外の娘にとっては。
*
幼い頃、父が試しにと連れてきた妖に、渚子は手を伸ばした。
触れた瞬間、その妖はふわりと瞼を重くし、こくりこくりと舟を漕ぎ始める。
その時耳にした父の長い溜息は今でも忘れられない。
「……お前の力では、嫁ぎ先も選べん」
志波家の女は、縛の巫力を受け継ぐ。
上の姉の志乃は龍神の子爵家に嫁ぎ、下の姉の千鶴も天狗の名家に迎えられた。どちらも強力な縛の使い手として。
渚子に宿ったのは「鎮」。触れた妖が、ほんの少しだけ眠たくなる。それだけの力だ。
姉たちが華やかな婚礼の支度を整える横で、渚子はいつも襖の影にいた。泣いたところで、鎮が縛に変わるわけではないのだから。
その代わりに、本を読んだ。
最初に手にした洋書は、母の遺品の英語の植物図鑑だった。見たこともない花の細密画、知らない国の広い原っぱ。
巫力の稽古場から締め出された午後、渚子はその図鑑を繰り返し開いた。毎日少しずつ文字を拾い、辞書を引き、一文ずつ意味を解く。
英語が読めるようになると、世界が変わった。
蒸気機関、電信、万国博覧会。
この国の外には、巫力などなくても自分の力で道を切り拓いている人々がいる。
(いつか私も、異国を旅してみたい)
それは、渚子のたった一つの夢だった。
ある日、こっそり貯めた小遣いで、帝都の洋品店から小さな帽子を買った。
深い紺色の、リボンのついた西洋帽。
しかし家に帰ると、志乃の目が意地悪く光った。
「まあ、何ですのこれ。異人の帽子?」
汚いものでもつまむように指先でぶら下げる。
「か、返してください!」
「あら怖い。そんなに大事なものなの、こんなものが」
渚子が手を伸ばすと、志乃はひょいと帽子を高く上げた。千鶴が横からそれを取り上げる。
「西洋かぶれだけは一人前ね。お父様に申し上げますから」
「お姉様、お願いです。お父様には……それだけは」
千鶴は振り返りもしなかった。
父の反応は、もっと端的だった。
帽子は渚子の目の前で、外の葛箱に投げ捨てられた。
「御三家の娘が異人の真似事など、恥を知りなさい!! お前はただでさえ鎮しか使えぬ身だ。これ以上家の恥を増やすな」
「……はい。申し訳ありません」
雨に濡れた紺色のリボンを、渚子は縁側からじっと見ていた。拾いに行けば、また取り上げられる。
(欲しいと思うから、奪われる。なら最初から、欲しがらなければいいんだ)
それ以来、渚子は異国への想いを誰にも見せなくなった。
*
そうやって自分の輪郭を少しずつ削っていった末に、ある日突然、縁談が降ってきた。
「鷹城の棟梁が、うちの……お前を? こりゃあすごいぞ!」
父の顔には、疑念ではなく歓喜が浮かんでいた。
鷹城銀。人狼一族の棟梁にして伯爵、陸軍少将。
銀の髪に琥珀の瞳を持ち、戦場では「銀狼」の異名で恐れられた男。
写真を嫌い、肖像も一切残さないという。
渚子は夫となる男の顔を、まだ一度も見たことがなかった。
人狼の棟梁といえば、妖の中でも最上の格。その花嫁に望まれるのは、御三家の中でもとりわけ力の強い娘のはずだ。
(どうして、私なんかに)
「よかったじゃない。あんたがここにいても、お父様の負担が増えるだけだったもの」
姉たちは激しい嫉妬を見せなかった。きっと、事情のある婚姻だと察していたのだろう。人狼の棟梁が、鎮しか持たぬ末娘をまともな花嫁として望むはずがないと。
志乃が扇子の先で渚子の顎をくいと持ち上げた。
「全く。鎮では、お役に立てることなど何もないでしょうに」
「……精一杯つとめます」
「はっ! 精一杯ねえ、笑わせる」
志乃は渚子の顔をしばらく眺めてから、ふっと手を離した。
「そうそう、人狼は鼻が利くんですってね。あんたみたいに陰気な匂いのする女、一晩で追い出されてしまうんじゃないかしら」
千鶴がくすりと笑った。
「余計なことをして鷹城のお家に恥をかかせたら……食べられちゃうかもしれないわよ? 人狼のお食事って、骨も残さないんですって。あの大きなお口で、ばくっ……とね」
おどかすような大袈裟な動きに渚子がびくりと肩を振るわせると、二人の姉は目を見合わせてくすくすと笑った。
「あんたみたいな貧相で大した能力もない娘なんて、食われたところでなんの足しにもなりゃしないわ」
「さっさと荷物をまとめて失せなさい……この西洋かぶれが」
嫁入りの支度は大したものにならなかった。
母の遺した着物を仕立て直し、わずかな身の回りの品を葛籠に詰める。洋書を数冊と、帳面と、英語の辞書。
見送りの日、姉たちは誰も来なかった。
父だけが玄関先に立っていたが、その目が見ているのは渚子ではない。鷹城の使いだ。
「行ってまいります、お父様」
「ああ。くれぐれも粗相のないように」
それだけだった。
(……分かっていたけど、やっぱり少しだけ、寂しいな)
振り返らなかった。振り返ったところで、見送る目はひとつもない。
*
鷹城の屋敷は、帝都の外れにあった。
迎えの馬車が煉瓦の街並みを抜け、ガス灯の途絶えた坂道を登っていく。
大通りを折れる手前で、ふと目を奪われた。
煉瓦造りの洋館の前に、西洋の帽子を被った女性が立っている。
淡い色のドレスに日傘。秋の陽射しの中で、異国の花のように華やかだった。
(綺麗……)
そう思って、すぐに目を伏せた。
(こういうものを「いいな」って思っちゃ、いけないんだった)
煉瓦が木に変わり、木が森に変わり、やがて人家が途絶える。
丘の上に、その屋敷は建っていた。
鬱蒼とした森に囲まれた、異様に広い敷地。
黒い鉄の門扉には蔦が絡みつき、門をくぐると白砂利の前庭が続く。
和洋折衷の邸宅が暗く聳え、灯りの少ない窓が帝都を見下ろしている。
世間がこの屋敷を何と呼んでいるか、渚子は知っている。
――狼の館。
馬車が門の前で止まった時、三階の窓にふと目がいった。カーテンの隙間に影が動いたが、すぐに消えた。
馬車を降りても、迎える者はほとんどいなかった。
案内の女中に導かれ、母屋の中を歩く。
その中で、一際異様な気配を放つ扉が目についた。渡り廊下の突き当たり。扉の前に注連縄が渡され、真新しい札が何枚も貼られている。
「あの……あの部屋は?」
足を緩めると、女中が振り返った。
「あちらには近づかないでくださいませ」
それだけだった。
離れに通される。小さくはないが、母屋とは明らかに格が違う。調度品は最低限で、花の一輪も飾られていない。
「こちらが、お部屋になります」
「ありがとうございます。あの、旦那様にはいつお目にかかれますか?」
女中はほんの一瞬だけ目を伏せた。
「それは、私には」
「そう、ですか。……すみません、変なことをお聞きして」
女中はそう言って踵を返しかけ、それから思い出したように立ち止まった。
「念のためにもう一度だけ。渡り廊下の突き当たり、注連縄のある西の部屋。あちらには決して近づかないでくださいませ」
「……わかりました」
去っていく女中の背中を見送りながら、渚子はもう一度扉の方向を振り返った。
(あの部屋には、何があるのだろう)
*
婚礼は、その夜のうちに済まされた。
三々九度の盃は離れの小さな座敷に運ばれ、渚子は一人で杯を傾けた。新郎の席は空。媒酌人も仲人もいない。
花嫁衣裳すら着ていない。母の着物を仕立て直した、白でも赤でもないただの小紋だった。
(せめてお顔だけでも見られたら、ご挨拶くらいはできたのに)
婚礼の夜にも、夫は姿を見せなかった。翌日も、その次の日も。
同じ屋敷にいるはずなのに、気配すらない。噂に聞いた銀の髪も琥珀の瞳も、嫁いでなお目にしていない。
幾日かの冷遇で、答えの輪郭が見えてきた。
棟梁には他に想い人がいるのだろう。華族の夜会で隣に立つ、美しい女人狼がいるとも聞く。けれど棟梁ともなれば、体裁として正室は要る。
もし相手が没落した家の力もない末娘であれば。
借金を肩代わりするだけで手に入る、文句の出ない飾りであれば。
(私は、そのために選ばれたんだ)
分かっていたはずなのに、胸の奥が小さく痛んだ。
*
「本日よりここでお世話になります、志波渚子と申します。よろしくお願いいたします」
深く頭を下げた渚子に、侍女たちは目を合わせなかった。
ある日、その一人が尋ねてきた。
「志波のお嬢様は、巫力は縛でいらっしゃるの?」
知っていて聞いている。顔を見れば分かる。
「いいえ」
「まあ。では何をお持ちなの?」
「……鎮を」
「鎮? ああ、あの……触れた妖が眠たくなるという?」
ひそひそ声が、聞こえよがしに耳に届く。
「灼なら敵を焼き、縛なら結界を張れる。鎮は……ねえ、何に使えばよろしいの?」
「触れたら眠たくなるんですわね。子守唄の巫力ですわ」
「何を。寝かしつけ専門なら、せめてもう少し色っぽい方を選ぶでしょうに」
黙って聞いていた。笑い声が遠ざかるまで、膝の上で手を握っていた。
(全部、本当のことだもの。怒ったって仕方がない)
*
嫁いで七日目。渚子はついに、銀の従妹の鷹城緋鶴と対面を果たした。
離れの庭先で風に当たっていると、渡り廊下の向こうから緋鶴がゆっくりと歩いてきたのだった。
侍女を三人従え、渚子の前で足を止める。
艶やかな黒髪に、人狼特有の金の瞳。纏う着物は最上の絹で、母屋を我が物顔で歩いている。華族の夜会では銀の隣に立つのは常にこの女だという。
「……ご挨拶が遅れて申し訳ありません。志波渚子と申します」
緋鶴は一瞬だけ目を細めた。それから鼻先で笑うように息をつき、踵を返す。
「あなたが、志波の」
名前は呼ばない。
緋鶴が目配せすると、左右の侍女が渚子の腕を押さえた。
もう一人が後ろから項をつかみ、頭を無理やりぐっと下げさせる。
「痛っ……」
襟元がわずかに乱れた。緋鶴の指先が、渚子のうなじのあたりをなぞるように止まる。
「噛み痕がないというのは、本当だったのですね」
人狼の花嫁は、首の後ろに番いの証である噛み痕を刻まれる。
その痕を持たぬ女は一族に認められないというのは、聞いたことがあった。
「つまりあなたは奥方でもなければ、番いでもない。ただ屋敷の隅に転がっているだけの、値のつかない器と同じ」
緋鶴は扇子で口元を隠し、小さく笑った。
「あなたの居場所は、この家にはないわ」
渚子は襟元を押さえながら、小さく頭を下げた。
項をつかんでいた手が離れる。よろめきかけた渚子を一瞥することもなく、侍女たちもその背に従った。
(居場所がないことなら、もう、分かってる)
悔しくないと言えば嘘だ。でも涙は出なかった。
泣いても誰も来ないことを、渚子はずっと昔から知っている。
その代わりに、ひとつだけ決めた。
(待つのは、もうやめよう)
離れに戻り、葛籠の底から帳面を取り出す。
嫁ぐ前から少しずつ書き溜めてきたもの。英語の翻訳、漢籍の写し。
これを持って職を探せば、語学を活かしてどこかで雇ってもらえるかもしれない。
(離縁の道を探そう。誰にも乞わず、誰にも縋らず。自分の足で、この家を出るんだ)
ふと、文机の隅に目が止まった。
「……花?」
小さな一輪挿しに、白い花が一輪。鈴蘭だった。朝にはなかったはずだ。
鈴のような花弁から、甘くやわらかな香りが漂っている。
「一体、誰が……」
(いや、たまたま誰かが間違えて置いていっただけ。私のために用意されたものだなんて、そんなわけない)
それでも、その花を捨てることはできず。
甘い鈴蘭の香りが、しばらく指先に残っていた。


