銀狼伯爵と噛み痕のない花嫁

 志波(しなみ)の家には、昔から不思議な力を持つ女が生まれる。
 「巫力(ふりょく)」と呼ばれるその力は、妖の力に干渉し、制御するもの。

 強大な妖の荒ぶる妖力を鎮め、制し、あるいは打ち砕く――それができるのは、巫力を持つ人間の女だけであった。
 今日の日本で、そのような血筋の家は三つ。

 世に「御三家」と呼ばれるこの三家の娘たちは、
 妖の名家にとって喉から手が出るほど欲しい花嫁である。

 しかも巫力は、番いとなった妖に対して最も強く働く。

 (しゃく)の娘が嫁げば、夫に仇なす者を誰よりも激しく灼き伏せる。
 (ばく)の娘が嫁げば、夫を狙う敵を誰よりも堅い結界で退けられる。
 ()の娘が嫁げば、夫を裏切る者を誰よりも早く見破る。

 巫力とは、番いとなって初めて真の力を発揮するものなのだ。

 だからこそ、妖の名家は御三家の娘を欲しがる。
 御三家の娘は引く手数多で、華やかな縁談が舞い込み、妖の名家に嫁いで華族夫人として何不自由のない暮らしを送る。

 それが当たり前の世界だった。

 ――少なくとも、渚子(なぎさこ)以外の娘にとっては。

 *

 幼い頃、父が試しにと連れてきた妖に、渚子は手を伸ばした。

 触れた瞬間、その妖はふわりと瞼を重くし、こくりこくりと舟を漕ぎ始める。
 その時耳にした父の長い溜息は今でも忘れられない。

 「……お前の力では、嫁ぎ先も選べん」

 志波家の女は、(ばく)の巫力を受け継ぐ。
 上の姉の志乃は龍神の子爵家に嫁ぎ、下の姉の千鶴も天狗の名家に迎えられた。どちらも強力な縛の使い手として。

 渚子に宿ったのは「(しずめ)」。触れた妖が、ほんの少しだけ眠たくなる。それだけの力だ。
 姉たちが華やかな婚礼の支度を整える横で、渚子はいつも襖の影にいた。泣いたところで、鎮が縛に変わるわけではないのだから。

 その代わりに、本を読んだ。
 最初に手にした洋書は、母の遺品の英語の植物図鑑だった。見たこともない花の細密画、知らない国の広い原っぱ。
 巫力の稽古場から締め出された午後、渚子はその図鑑を繰り返し開いた。毎日少しずつ文字を拾い、辞書を引き、一文ずつ意味を解く。

 英語が読めるようになると、世界が変わった。

 蒸気機関、電信、万国博覧会。
 この国の外には、巫力などなくても自分の力で道を切り拓いている人々がいる。

 (いつか私も、異国を旅してみたい)

 それは、渚子のたった一つの夢だった。

 ある日、こっそり貯めた小遣いで、帝都の洋品店から小さな帽子を買った。
 深い紺色の、リボンのついた西洋帽。

 しかし家に帰ると、志乃の目が意地悪く光った。

 「まあ、何ですのこれ。異人の帽子?」

 汚いものでもつまむように指先でぶら下げる。

 「か、返してください!」
 「あら怖い。そんなに大事なものなの、こんなものが」

 渚子が手を伸ばすと、志乃はひょいと帽子を高く上げた。千鶴が横からそれを取り上げる。

 「西洋かぶれだけは一人前ね。お父様に申し上げますから」
 「お姉様、お願いです。お父様には……それだけは」

 千鶴は振り返りもしなかった。
 父の反応は、もっと端的だった。

 帽子は渚子の目の前で、外の葛箱に投げ捨てられた。

 「御三家の娘が異人の真似事など、恥を知りなさい!! お前はただでさえ鎮しか使えぬ身だ。これ以上家の恥を増やすな」
 「……はい。申し訳ありません」

 雨に濡れた紺色のリボンを、渚子は縁側からじっと見ていた。拾いに行けば、また取り上げられる。

 (欲しいと思うから、奪われる。なら最初から、欲しがらなければいいんだ)

 それ以来、渚子は異国への想いを誰にも見せなくなった。

 *

 そうやって自分の輪郭を少しずつ削っていった末に、ある日突然、縁談が降ってきた。

 「鷹城の棟梁が、うちの……お前を? こりゃあすごいぞ!」

 父の顔には、疑念ではなく歓喜が浮かんでいた。
 鷹城銀(たかしろぎん)。人狼一族の棟梁にして伯爵、陸軍少将。
 銀の髪に琥珀の瞳を持ち、戦場では「銀狼」の異名で恐れられた男。

 写真を嫌い、肖像も一切残さないという。
 渚子は夫となる男の顔を、まだ一度も見たことがなかった。

 人狼の棟梁といえば、妖の中でも最上の格。その花嫁に望まれるのは、御三家の中でもとりわけ力の強い娘のはずだ。

 (どうして、私なんかに)

 「よかったじゃない。あんたがここにいても、お父様の負担が増えるだけだったもの」

 姉たちは激しい嫉妬を見せなかった。きっと、事情のある婚姻だと察していたのだろう。人狼の棟梁が、鎮しか持たぬ末娘をまともな花嫁として望むはずがないと。

 志乃が扇子の先で渚子の顎をくいと持ち上げた。

 「全く。鎮では、お役に立てることなど何もないでしょうに」
 「……精一杯つとめます」
 「はっ! 精一杯ねえ、笑わせる」

 志乃は渚子の顔をしばらく眺めてから、ふっと手を離した。

 「そうそう、人狼は鼻が利くんですってね。あんたみたいに陰気な匂いのする女、一晩で追い出されてしまうんじゃないかしら」
 千鶴がくすりと笑った。
 「余計なことをして鷹城のお家に恥をかかせたら……食べられちゃうかもしれないわよ? 人狼のお食事って、骨も残さないんですって。あの大きなお口で、ばくっ……とね」

 おどかすような大袈裟な動きに渚子がびくりと肩を振るわせると、二人の姉は目を見合わせてくすくすと笑った。

 「あんたみたいな貧相で大した能力もない娘なんて、食われたところでなんの足しにもなりゃしないわ」
 「さっさと荷物をまとめて失せなさい……この西洋かぶれが」

 嫁入りの支度は大したものにならなかった。
 母の遺した着物を仕立て直し、わずかな身の回りの品を葛籠に詰める。洋書を数冊と、帳面と、英語の辞書。

 見送りの日、姉たちは誰も来なかった。
 父だけが玄関先に立っていたが、その目が見ているのは渚子ではない。鷹城の使いだ。

 「行ってまいります、お父様」
 「ああ。くれぐれも粗相のないように」

 それだけだった。

 (……分かっていたけど、やっぱり少しだけ、寂しいな)

 振り返らなかった。振り返ったところで、見送る目はひとつもない。

 *

 鷹城の屋敷は、帝都の外れにあった。
 迎えの馬車が煉瓦の街並みを抜け、ガス灯の途絶えた坂道を登っていく。
 大通りを折れる手前で、ふと目を奪われた。

 煉瓦造りの洋館の前に、西洋の帽子を被った女性が立っている。
 淡い色のドレスに日傘。秋の陽射しの中で、異国の花のように華やかだった。

 (綺麗……)

 そう思って、すぐに目を伏せた。

 (こういうものを「いいな」って思っちゃ、いけないんだった)

 煉瓦が木に変わり、木が森に変わり、やがて人家が途絶える。

 丘の上に、その屋敷は建っていた。

 鬱蒼とした森に囲まれた、異様に広い敷地。
 黒い鉄の門扉には蔦が絡みつき、門をくぐると白砂利の前庭が続く。

 和洋折衷の邸宅が暗く聳え、灯りの少ない窓が帝都を見下ろしている。
 世間がこの屋敷を何と呼んでいるか、渚子は知っている。

 ――狼の館。

 馬車が門の前で止まった時、三階の窓にふと目がいった。カーテンの隙間に影が動いたが、すぐに消えた。
 馬車を降りても、迎える者はほとんどいなかった。

 案内の女中に導かれ、母屋の中を歩く。
 その中で、一際異様な気配を放つ扉が目についた。渡り廊下の突き当たり。扉の前に注連縄(しめなわ)が渡され、真新しい札が何枚も貼られている。

 「あの……あの部屋は?」

 足を緩めると、女中が振り返った。

 「あちらには近づかないでくださいませ」

 それだけだった。
 離れに通される。小さくはないが、母屋とは明らかに格が違う。調度品は最低限で、花の一輪も飾られていない。

 「こちらが、お部屋になります」
 「ありがとうございます。あの、旦那様にはいつお目にかかれますか?」

 女中はほんの一瞬だけ目を伏せた。

 「それは、私には」
 「そう、ですか。……すみません、変なことをお聞きして」

 女中はそう言って踵を返しかけ、それから思い出したように立ち止まった。

 「念のためにもう一度だけ。渡り廊下の突き当たり、注連縄のある西の部屋。あちらには決して近づかないでくださいませ」
 「……わかりました」

 去っていく女中の背中を見送りながら、渚子はもう一度扉の方向を振り返った。

 (あの部屋には、何があるのだろう)

 *

 婚礼は、その夜のうちに済まされた。

 三々九度の盃は離れの小さな座敷に運ばれ、渚子は一人で杯を傾けた。新郎の席は空。媒酌人も仲人もいない。
 花嫁衣裳すら着ていない。母の着物を仕立て直した、白でも赤でもないただの小紋だった。

 (せめてお顔だけでも見られたら、ご挨拶くらいはできたのに)

 婚礼の夜にも、夫は姿を見せなかった。翌日も、その次の日も。

 同じ屋敷にいるはずなのに、気配すらない。噂に聞いた銀の髪も琥珀の瞳も、嫁いでなお目にしていない。

 幾日かの冷遇で、答えの輪郭が見えてきた。
 棟梁には他に想い人がいるのだろう。華族の夜会で隣に立つ、美しい女人狼がいるとも聞く。けれど棟梁ともなれば、体裁として正室は要る。

 もし相手が没落した家の力もない末娘であれば。
 借金を肩代わりするだけで手に入る、文句の出ない飾りであれば。

 (私は、そのために選ばれたんだ)

 分かっていたはずなのに、胸の奥が小さく痛んだ。

 *

 「本日よりここでお世話になります、志波渚子と申します。よろしくお願いいたします」

 深く頭を下げた渚子に、侍女たちは目を合わせなかった。
 ある日、その一人が尋ねてきた。

 「志波のお嬢様は、巫力は縛でいらっしゃるの?」

 知っていて聞いている。顔を見れば分かる。

 「いいえ」
 「まあ。では何をお持ちなの?」
 「……鎮を」
 「鎮? ああ、あの……触れた妖が眠たくなるという?」

 ひそひそ声が、聞こえよがしに耳に届く。

 「灼なら敵を焼き、縛なら結界を張れる。鎮は……ねえ、何に使えばよろしいの?」
 「触れたら眠たくなるんですわね。子守唄の巫力ですわ」
 「何を。寝かしつけ専門なら、せめてもう少し色っぽい方を選ぶでしょうに」

 黙って聞いていた。笑い声が遠ざかるまで、膝の上で手を握っていた。

 (全部、本当のことだもの。怒ったって仕方がない)

 *

 嫁いで七日目。渚子はついに、銀の従妹の鷹城緋鶴と対面を果たした。
 離れの庭先で風に当たっていると、渡り廊下の向こうから緋鶴がゆっくりと歩いてきたのだった。

 侍女を三人従え、渚子の前で足を止める。
 艶やかな黒髪に、人狼特有の金の瞳。纏う着物は最上の絹で、母屋を我が物顔で歩いている。華族の夜会では銀の隣に立つのは常にこの女だという。

 「……ご挨拶が遅れて申し訳ありません。志波渚子と申します」

 緋鶴は一瞬だけ目を細めた。それから鼻先で笑うように息をつき、踵を返す。

 「あなたが、志波の」

 名前は呼ばない。
 緋鶴が目配せすると、左右の侍女が渚子の腕を押さえた。
 もう一人が後ろから項をつかみ、頭を無理やりぐっと下げさせる。

 「痛っ……」

 襟元がわずかに乱れた。緋鶴の指先が、渚子のうなじのあたりをなぞるように止まる。

 「噛み痕がないというのは、本当だったのですね」

 人狼の花嫁は、首の後ろに番いの証である噛み痕を刻まれる。
 その痕を持たぬ女は一族に認められないというのは、聞いたことがあった。

 「つまりあなたは奥方でもなければ、番いでもない。ただ屋敷の隅に転がっているだけの、値のつかない器と同じ」

 緋鶴は扇子で口元を隠し、小さく笑った。

 「あなたの居場所は、この家にはないわ」

 渚子は襟元を押さえながら、小さく頭を下げた。

 項をつかんでいた手が離れる。よろめきかけた渚子を一瞥することもなく、侍女たちもその背に従った。

 (居場所がないことなら、もう、分かってる)

 悔しくないと言えば嘘だ。でも涙は出なかった。
 泣いても誰も来ないことを、渚子はずっと昔から知っている。
 その代わりに、ひとつだけ決めた。

 (待つのは、もうやめよう)

 離れに戻り、葛籠の底から帳面を取り出す。
 嫁ぐ前から少しずつ書き溜めてきたもの。英語の翻訳、漢籍の写し。
 これを持って職を探せば、語学を活かしてどこかで雇ってもらえるかもしれない。

 (離縁の道を探そう。誰にも乞わず、誰にも縋らず。自分の足で、この家を出るんだ)

 ふと、文机の隅に目が止まった。

 「……花?」

 小さな一輪挿しに、白い花が一輪。鈴蘭だった。朝にはなかったはずだ。
 鈴のような花弁から、甘くやわらかな香りが漂っている。

 「一体、誰が……」

 (いや、たまたま誰かが間違えて置いていっただけ。私のために用意されたものだなんて、そんなわけない)

 それでも、その花を捨てることはできず。
 甘い鈴蘭の香りが、しばらく指先に残っていた。