銀狼伯爵と噛み痕のない花嫁

 志波(しなみ)の家には、昔から不思議な力を持つ女が生まれる。
 「巫力(ふりょく)」と呼ばれるその力は、妖の力に干渉し、制御するもの。

 強大な妖の荒ぶる妖力を鎮め、制し、あるいは打ち砕く――それができるのは、巫力を持つ人間の女だけであった。
 今日の日本で、そのような血筋の家は三つ。

 世に「御三家」と呼ばれるこの三家の娘たちは、
 妖の名家にとって喉から手が出るほど欲しい花嫁である。

 しかも巫力は、番いとなった妖に対して最も強く働く。

 (しゃく)の娘が嫁げば、夫に仇なす者を誰よりも激しく灼き伏せる。
 (ばく)の娘が嫁げば、夫を狙う敵を誰よりも堅い結界で退けられる。
 ()の娘が嫁げば、夫を裏切る者を誰よりも早く見破る。

 巫力とは、番いとなって初めて真の力を発揮するものなのだ。

 だからこそ、妖の名家は御三家の娘を欲しがる。
 御三家の娘は引く手数多で、華やかな縁談が舞い込み、妖の名家に嫁いで華族夫人として何不自由のない暮らしを送る。

 それが当たり前の世界だった。

 ――少なくとも、渚子(なぎさこ)以外の娘にとっては。

 志波渚子は、縛の力を持たずに生まれた。

 志波家の女は縛の巫力を受け継ぐ。
 姉の志乃は強力な縛の使い手として龍神の子爵家に嫁ぎ、もう一人の姉の千鶴も縛の力で天狗の名家に迎えられている。

 渚子だけが、違った。

 渚子に宿ったのは「(しずめ)」。
 灼のように焼き伏せるわけでも、縛のように封じ込めるわけでも、視のように見抜くわけでもない。
 渚子が妖に触れると、その妖はほんの少しだけ、眠たそうな顔をする。それだけだった。

 幼い頃、父が試しにと連れてきた妖に渚子が触れた時のことは、今でも覚えている。
 その妖はふわりと瞼を重くし、こくりこくりと気持ちよさそうに舟を漕ぎ始めた。

 父は長い溜息をついて、こう言った。
 「……お前の力では、嫁ぎ先も選べん」
 あの溜息の重さを、渚子は忘れていない。

 姉たちが華やかな婚礼の支度を整えていく横で、渚子はいつも襖の影にいた。

 それでも泣かなかった。泣いたところで、鎮が縛に変わるわけでもない。

 代わりに本を読んだ。漢籍を、英語を、独りで学んだ。巫力で価値を示せぬなら、別の何かで自分の足で立てるようにと。
 最初に手にした洋書は、母の遺品の中にあった英語の植物図鑑だった。

 見たこともない花の細密画。日本の絵師とはまるで違う手つきで描かれた、知らない国の原っぱ。
 巫力の稽古場から締め出された午後、渚子はその図鑑を繰り返し開いていた。
 やがて文字を拾い、辞書を引き、一文ずつ意味を解くようになる。

 英語が読めるようになると、世界が変わった。
 帝都の古書店で洋書を買い、西洋の歴史を知り、異国の暮らしに胸を躍らせる。
 蒸気機関、電信、万国博覧会。
 この国の外には、巫力などなくても自分の力で道を切り拓いている人々がいる。

 姉たちが巫力の格を競い合っている間に、渚子の目は海の向こうを見ていた。

 ――いつか異国を旅してみたい。
 それが渚子の夢だった。

 ある日、こっそり貯めた小遣いで、帝都の洋品店から小さな帽子を買った。
 深い紺色の、リボンのついた西洋帽。
 店先に並んでいるのを見かけた時から、足が止まってしまって動けなかったのだ。

 見つけたのは、上の姉の志乃だった。

 「まあ、何ですのこれ。異人の帽子?」

 汚いものでもつまむように志乃が指先でぶら下げると、下の姉の千鶴が帽子を取り上げた。

 「巫力の稽古もろくにできないくせに、西洋かぶれだけは一人前ね。お父様に申し上げますから」

 父の反応は、もっと端的だった。

 帽子は渚子の目の前で、外の葛箱に投げ捨てられた。

 「御三家の娘が異人の真似事など、恥を知りなさい!! お前はただでさえ鎮しか使えぬ身だ。これ以上家の恥を増やすな」

 雨に濡れた紺色のリボンを、渚子は縁側からじっと見ていた。
 拾いに行くことはできなかった。拾えばもう一度取り上げられる。それが分かっていたから。

 それ以来、異国への想いを誰にも見せなくなった。

 ――欲しいと思うから、奪われる。ならば最初から、欲しがらなければいい。

 そうやって自分の輪郭を少しずつ削っていった末に、ある日突然、縁談が降ってきた。

 相手は、鷹城銀(たかしろぎん)
 人狼一族の棟梁にして伯爵、陸軍少将の位を持つ男。

 銀の髪に琥珀の瞳を持ち、戦場では「銀狼」の異名で敵味方に恐れられた――と、噂では聞いている。
 華族の夜会に姿を見せれば女たちが息を呑み、軍議に立てば歴戦の将校が口をつぐむのだとも。

 しかし本人は写真を嫌い、肖像の類も一切残さないという。
 渚子は夫となる男の顔を、まだ一度も見たことがなかった。

 人狼の棟梁といえば、妖の中でも最上の格。
 その花嫁にと望まれるのは、御三家の中でもとりわけ力の強い娘のはずだ。

 それが、なぜ。よりにもよって、鎮しか持たぬ自分に。

 「鷹城の棟梁が、うちの……お前を? こりゃあすごいぞ」

 父の顔に浮かんでいたのは、疑念ではなく歓喜だった。
 なぜ渚子なのか。そんな問いは父の中にはない。天から降ってきた幸運に、なぜと問う愚か者はいないのと同じだ。

 姉たちは、もっと正直だった。

 「あなたで務まるのかしら。鎮では、お役に立てることなど何もないでしょうに」
 「でもよかったじゃない。あなたがここにいても、お父様の負担が増えるだけだったもの」

 飾らずに言えば厄介払いだ。渚子には分かっている。
 嫁入りの支度は大したものにならず、母が遺した着物を仕立て直し、わずかな身の回りの品を葛籠に詰める。
 洋書を数冊と、帳面と、英語の辞書。
 他に持っていけるようなものも、なかった。

 見送りの日、姉たちは誰も来なかった。父だけが玄関先に立っていたが、その目が見ているのは渚子ではない。
 鷹城の使いだ。他家への借金の証文を消すと約束してもらったことを、確かめたいのだろう。

 「行ってまいります」

 父は頷いた。渚子にではなく、使いに向かって。
 振り返らなかった。振り返ったところで、見送る目はひとつもないのだから。
 鷹城の屋敷は、帝都の外れにあった。

 迎えの馬車は煉瓦の街並みを抜け、ガス灯の途絶えた坂道を登っていく。
 窓から見える景色が、文明開化の帝都から少しずつ遠ざかっていった。

 大通りを折れる手前で、ふと目を奪われる。
 煉瓦造りの洋館の前に、西洋の帽子を被った女性が立っている。淡い色のドレスに日傘。
 秋の陽射しの中で、異国の花のように華やかだった。

 綺麗だと思った自分に気づいて、ブンブンと首を振る。
 帽子を庭に投げ捨てられた日から、こういうものを欲しいと思う回路を、意識して閉じてきたのだ。

 煉瓦が木に変わり、木が森に変わり、やがて人家が途絶える。
 丘の上に、その屋敷は建っていた。

 鬱蒼とした森に囲まれた、異様に広い敷地。
 黒い鉄の門扉には蔦が絡みつき、門をくぐると白砂利の前庭が続く。
 その先に、和洋折衷の邸宅が暗く聳えている。
 灯りの少ない窓が、丘の上から帝都を見下ろしていた。

 世間がこの屋敷を何と呼んでいるか、渚子は知っている。

 ――狼の館。

 馬車が門の前で止まった時、ふと邸宅の三階の窓に目がいった。
 一瞬だけ、カーテンの隙間に影が動いた。けれどすぐに消えた。

 馬車を降りても、迎える者はほとんどいなかった。

 案内の女中に導かれ、母屋の中を歩く。
 広い屋敷だった。渡り廊下が幾筋にも分かれ、いくつもの部屋の前を通る。
 その中で、一際異様な気配を放つ扉が目についた。

 あの部屋は、何だろう?

 渡り廊下の突き当たり。扉の前に注連縄(しめなわ)が渡され、真新しい札が何枚も貼られている。

 渚子が足を緩めると、女中が振り返った。
 「あちらには近づかないでくださいませ」
 それだけだった。

 そのまま離れに通される。
 小さくはないが、母屋とは明らかに格が違う。調度品は最低限で、花の一輪も飾られていない。

 「こちらが、お部屋になります」

 女中はそう言って、踵を返しかけた。それから思い出したように立ち止まる。

 「念のためにもう一度だけ。渡り廊下の突き当たり、注連縄のある西の部屋。あちらには決して近づかないでくださいませ」
 「……あの部屋には、何が」

 答えはなかった。ただ一礼して、足早に去っていく。

 婚礼は、その夜のうちに済まされた。
 済まされた、としか言いようがない。
 三々九度の盃は離れの小さな座敷に運ばれ、渚子は一人で杯を傾けた。
 新郎の席は空だった。媒酌人も仲人もおらず、女中が盃を置き、下げ、それで終わり。
 鷹城の名と志波の名を記した婚姻届に判を押しただけの、書類上の婚礼。

 花嫁衣裳すら着ていない。母の着物を仕立て直した、白でも赤でもないただの小紋。
 これが人狼の棟梁の婚礼かと思えば、笑うしかなかった。

 婚礼の夜に、夫は姿を見せなかった。翌日も。その次の日も。
 同じ屋敷にいるはずなのに、気配すらない。
 噂に聞いた銀の髪も琥珀の瞳も、嫁いでなお目にしていない。妻にすら顔を見せる気がないのだ。

 幾日かの冷遇で、答えの輪郭が見えてきた。

 棟梁には、他に想い人がいるのだろう。地位のある妖が愛人を持つことは珍しくもない。
 華族の夜会で彼の隣に立つ、美しい女人狼がいるとも聞く。すでに事実上の伴侶がいるのかもしれなかった。

 けれど棟梁ともなれば、体裁として正室は要る。
 形だけの妻、飾りの花嫁。ならばまともな御三家の娘では都合が悪い。
 名家から力ある娘を迎えておいて噛み痕もつけず放置すれば、妻の実家が黙っていまい。

 けれど、もし相手が、没落した家の力もない娘であれば。
 文句を言える立場にない家の、値のつかない末娘であれば。
 どれだけ冷遇しようと、誰も何も言わない。

 借金を肩代わりするだけで手に入る、文句の出ない飾りの妻。
 父が大喜びしたのも道理だ。鷹城の側からすれば、あの借金など端金だったのだろう。

 分かっていたではないか。
 鎮しか持たぬ自分にそれ以上の値がつくはずもないと、とうに知っていたはずだ。

 侍女たちの態度が、その答えを裏づけた。
 彼女たちは人狼の一族に仕える者たちだった。
 人間もいれば、人狼の端くれもいる。
 いずれにしても、渚子を「奥方様」と認める気はないらしい。

 「志波のお嬢様は、巫力は縛でいらっしゃるの?」

 ある日、侍女の一人がわざとらしく尋ねてきた。知っていて聞いているのだ。

 「いいえ」
 「まあ。では何をお持ちなの?」
 「……鎮を」

 薄い笑いが広がっていく。

 「鎮? ああ、あの……触れた妖が眠たくなるという? 御三家のお嬢様なのに」

 ひそひそ声は、聞こえよがしに渚子の耳に届く。

 「灼なら敵を焼き、縛なら結界を張れる。鎮は……ねえ、何に使えばよろしいの?」
 「触れたら眠たくなるんですって。子守唄の巫力ですわね。棟梁の寝かしつけ係?」
 「何を。寝かしつけ専門なら、せめてもう少し色っぽい方を選ぶでしょうに」

 黙って聞いていた。言い返せないのではない。全て事実だから、言い返す必要がなかった。

 とどめを刺したのは、銀の従妹の鷹城緋鶴(たかしろひづる)だった。

 艶やかな黒髪に、人狼特有の金の瞳。纏う着物は最上の絹で、母屋を我が物顔で歩いている。
 華族の夜会では銀の隣に立つのは常にこの女であり、世間は緋鶴こそ鷹城の女主人だと思っているらしい。

 嫁いで七日目のこと。
 離れの庭先で風に当たっていると、渡り廊下の向こうから緋鶴がゆっくりと歩いてくる。
 侍女を三人従え、渚子の前に立った。
 人間離れした美貌が、渚子を値踏みするようにゆっくりと見下ろす。

 「あなたが、志波の」

 名前は呼ばない。

 「噛み痕がないのですってね。つまりあなたは奥方でもなければ、番いでもない。ただ屋敷の隅に転がっているだけの、値のつかない器と同じ」

 小さく笑った。嘲りですらない。事実を教えてやっているという顔だった。

 「あなたの居場所は、この家にはないわ」

 それだけ言って踵を返した。
 侍女たちがその背に従い、渡り廊下の向こうに消えていく。

 居場所がないことなら、とうに知っている。志波の家にも、なかったのだから。
 悔しくないと言えば嘘になるけれど、涙は出なかった。その代わりに、ひとつだけ決めた。

 待つのはもうやめよう。
 この家に自分の場所がないのなら、自分の足で出ていくしかない。

 離れに戻り、葛籠の底に隠しておいた帳面を取り出した。
 嫁ぐ前から少しずつ書き溜めてきたもの。
 英語の翻訳、漢籍の写し。いつか自分の力で生きるための、ささやかな備え。

 離縁の道を探そう。
 誰にも乞わず、誰にも縋らず。自分の足で、この家を出るために。

 ふと、文机の隅に目が止まった。

 小さな一輪挿しに、白い花が一輪。鈴蘭だった。朝にはなかったはずだ。
 鈴のような花弁から、甘くやわらかな香りが漂っている。

 花の一輪も飾られていないと思っていた、この部屋に。

 誰が、とは思った。けれどそれ以上は考えなかった。
 たまたま誰かが間違えて置いたのかもしれない。
 渚子のために用意されたものだと思うほど、自惚れてはいない。

 それでも甘い鈴蘭の香りだけは、しばらく指先に残っていた。