銀狼伯爵と噛み痕のない花嫁

 明治――それは、古い時代が終わり、新しい時代が始まった激動の幕開けであった。

 黒船が来航し、幕府が倒れ、戊辰の戦火が国を焼いた。
 けれど、あの戦乱を戦ったのは人間だけではない。

 人の世の片隅に古くから息を潜め、影の中で生きてきた者たちもまた、時代のうねりに巻き込まれていた。

 妖である。

 彼らもまた、あの動乱の中で二つに割れた。

 官軍の側につき、ともに血を流した妖の一族は、その功を新政府に認められ、「妖籍」を与えられることとなる。
 人の姿を取り、名を持ち、華族の列に加わり、軍服に袖を通す。
 文明開化の光の中へ、妖たちは静かに歩み出したのである。

 もちろん、人と妖が心から手を取り合ったわけではない。
 人は妖の力を恐れながら利用し、妖は人の世の名誉と地位を必要とした。信頼はなくとも、切り離すことはできない。
 明治の日本は、そんな危うい均衡の上に成り立っていた。

 妖の中にも、格というものがある。
 最も強き妖は鬼。一対一であれば、いかなる妖も鬼には敵わぬと言われる。
 けれど鬼は群れない。孤高の獣は、刃にはなれても将にはなれぬ。

 妖の頂に立ったのは、人狼である。

 知略に長け、冷徹で、何より群れとして統率された彼らの力は、近代の軍にあまりにもよく馴染んだ。
 軍部の裏、政界の影、華族の頂。そのすべてに、人狼の一族は静かに根を張っていた。

 そんな妖たちには、花嫁が必要だった。妖の力に干渉する「巫力(ふりょく)」を持つ、特別な血筋の娘たちである。
 世に「御三家」と呼ばれる名家の娘たちは、妖の花嫁として迎えられる宿命を負っていた。

 中でも、人狼の棟梁に嫁ぐことは最高の栄誉とされる。
 棟梁の番いに選ばれた女は、一族のすべてに敬われ、守られ、生涯をかけて愛される。

 その証こそが、「噛み痕」だった。

 棟梁が自らの牙で花嫁に刻む、生涯消えることのない痕。
 番いであると、一族に、そして世界に示すための印である。

 けれど。

 もし、花嫁に選ばれたはずなのに、その痕を持たぬ女がいたとしたら――
 これは、そんなひとりの女の物語である。