胡蝶別曲 (나비별곡) : 乱れ蝶の詩 (みだれちょうのうた)

Scene 19.
FLASHBACK

血に塗れた部屋が散らかったまま広がっていた。既に冷たく冷え切った数人が床に転がっていた。外からは投降を勧める警察の拡声器の音が聞こえていたが、病院着姿の数人は中でへらへらと笑いながら、自分たちが犯したことすら覚えていないかのように、テレビを点けてバラエティ番組を観ていた。その中で、辛うじてまともに見える人間が、ガスコンロのバルブを開けていた。別の人間は綺麗な平屋の食卓に座り、とうに空になっていた料理を食べ続けながら、震える手で口を拭いていた。くんくんと鼻を鳴らした。初めて嗅ぐ匂いだった。気にも留めず、目の前に置かれた料理を食べ続けようとした。何人がいるのか分からないほど、ある民家の中に患者着を着たまま、狂った言葉を呟く人間が溢れかえっていた。固く閉ざされているように見える木の扉を爪で引っ掻きながら、どうにか開けようともがいている人間もいた。自分の爪が砕けて血が出ても、その者は止まることなく木の扉を引っ掻き続けていた。かなりの進展があったようで、木の扉に付いた取っ手ががたがたと揺れ始めた。揺れる取っ手に歓喜に満ちた表情とともに、さらに力を込めて扉を抉り始めた。十数名はいると見られる患者たちだった。最もまともに見える人間が、リビングも寝室も浴室も全てガスで満たされつつある頃だった。外で対峙を続けていた警察が突入部隊を送り込もうとしているらしく、息を殺して動く軍靴の音が聞こえ始めた。ガスのバルブを全て開けてから、新品のように見える電子レンジに、金属の食器を全て叩き込んだ。扉を絶えず引っ掻いていた患者の手から、ドアノブがぼろぼろになり、やがて砕け落ちたとき、木枠のガラス窓が開く音を立てた。開いた部屋の中へ、まるで一匹の獣のように四つ足で飛び込んだ患者に続き、他の数人の患者も歓声を上げるように飛び込んでいった。血の付いていない小さな部屋には誰もいなかった。電子レンジの電源が入り、ボタンが押される頃。寝室と小部屋を除いた他の部屋の窓ガラスが割れ、見知らぬ人の気配が踏み入った。四方が血に塗れた有様を確かめる余裕もなかった。家に入った以心(イシム)が、急いで鼻を塞いだ。ガスの匂いだった。患者の一人が踏み入った以心に向かって、怯えるように震えながら身を退いた。知っている人間ではなかったが、幸いだと思った。わざわざ自分に逆らわないのなら、目的だけ果たして出るつもりだった。だがそんな以心の考えは長くは続かなかった。最もまともに見えた人間が、台所から出刃包丁を引き抜き、以心に向かって力いっぱい振り下ろした。以心が腕輪を振って刃を弾こうとしたが、いつもと違い手首は空だった。とはいえ、たかが正気を失った人間相手に以心が怯む必要はなかった。殺さなければ問題になることもなかった。以心が手を軽く回すように捌いて、目前にまで迫った刃を軽くいなした。テレビのバラエティ番組を観ていた人間は構うことなく、依然としてテレビ画面に全ての注意を注いでいた。刃物沙汰を軽くいなしたあと、以心が雲鞋(ウンヘ)を振るうように中にいた人間の一人を踏み台にし、身体を軽く持ち上げた。一羽の蝶が風の筋を縫うように、以心は狂気に満ちた人間たちを軽くかわしながら制圧した。既に死んでいるように見える大人の胸に抱かれた一人の子供の手が、以心の目に入った。最もまともに見える人間が、電子レンジの作動ボタンを押してから別の刃物まで引き抜いて、以心に飛びかかった。以心がガスの匂いとともに電子レンジを見やった。あの電源を早く切らなければ、一帯が吹き飛ぶ状況だった。以心が急いで足を踏み出し、電子レンジへ身を投げようとしたが、ある正気を失った人間の荒い手が以心の足首を引っ掴んだ。荒い風浪に攫われた一羽の蝶がよろめいた。別の患者着姿の人間が以心に飛びかかった。以心はたたらを踏んだ瞬間にも最後まで倒れず、自分に向かって飛びかかった人間を横に躱した。刃を引き抜いたまま、最もまともな人間が以心の肩に小さなペティナイフを突き入れた。以心が傷にも止まらず、自分を刺した患者の胸倉を掴んで脚を掛け、床に力いっぱい叩きつけた。倒れながらも最後まで敵意を隠さなかった。倒れながらもとうとう以心の脇腹に大ぶりの出刃包丁を突き入れた。にやにやと笑いながら以心に言った。

患者_01 : ガキとお前さえいなくなればいいって言われたんだ。そうすりゃ自由だって言ったんだよ!!

以心に怪しい言葉を吐いたが、以心はそんな男を相手にする余裕がなかった。傷から血を溢れさせる以心が、電子レンジを見やった。中では火花が散り始めていた。ガスの匂いは依然として家中を満たしていた。選ばなければならなかった。


Scene 20.
FLASHBACK

五分をとうに過ぎていた。信じていたのに。必ず来ると言ったのに。知暎(ジヨン)がこの世を失ったかのように、涙をぽたぽたと流し始めた。手に持ったパンの袋に、太い涙がぽたぽたと落ちた。すすり泣きながらシートベルトを外した知暎が、手にパンを持ったまま、車のドアを開けて外に出た。かろうじて知っている人間だった以心を探そうと、以心が下りていった方角へ小さな歩を踏み出した。背の低い知暎にとっては険しい丘道だった。人の通る道には見えなかった。手にパンとともに黒い腕輪をしっかりと握ったまま、慎重に丘を下りていった。愛らしい色継ぎの赤古里(チョゴリ)には汚い土がべったりと付き始めていた。最後まで慎重に下りた知暎の目に、間もなく広がるであろう平地が見えた。知暎が自分の背丈ほどの石段さえ下りれば終わるところだった。大きな爆発がさほど遠くない場所で起こった。知暎がとうとう足を踏み外し、小さな身体を下へ倒した。さほど高くない場所から転んだおかげで大きな傷はなかったが、あの爆発は以心が向かったある家で起こったという事実が真っ先に頭に入ってきた。転んで擦りむいた傷が感じられた。だが歩いていこうとした。一人で残りたくなかった。単純な考え一つだけを抱いて、知暎が小さな歩を運んだ。炎が猛々しく噴き上がっていた。知暎が生きてきた中で目にした二度目の大きな火だった。大きな火は、恐ろしいほどに知暎の頭を重く圧し潰していた。とても踏み出せない足取りを辛うじて運んだ。潤んでいた涙のせいで視界がぼやけていた知暎が、自分のほうへ駆けてくる何かを、揺らめく何かが近づいてくるのをようやく気づいた。


Scene 21.
FLASHBACK

以心(イシム)が血に塗れた身体を辛うじて起こした。開いていた小さな部屋に飛び込んで、かろうじて命を拾うことができた。だが急いで身を伏せた拍子に、刃はさらに深く突き刺さり、あちこちに負った火傷も酷く痛んだ。焦げたまま顔を歪め、肩に刺さっていた刃をまず引き抜いた。急いで身を起こし、足を引きずりながら大人の下にいた子供をまず確かめようとした。すっかり焦げて焼けてしまった大人をそっと退かしたあと、下に敷かれていた子供を確かめた。だが、既にひどく焼けてしまった子供は息の音も、脈拍すらも立てていなかった。以心が自責するように目をじっと閉じた。既に、子供が死んでから長い時間が経っているように見えた。爆発のあとも残り火が広がり始めた民家の中。嗚咽していた以心の背後から、風が吹き入った。炎に包まれた家から吹き込む風ではなかった。以心がかろうじて感情を収めたあと、開いた窓を見やった。さほど遠くない場所から聞こえてくる幼い知暎の悲鳴が感じられた。

お母さん!!!

知暎がなぜその言葉を叫んだのか、以心自身がなぜその言葉に反応したのかは、重要ではなかった。以心が傷ついた身体も構わず、開いた窓から急いで駆け出していった。


Scene 22.
FLASHBACK

地面に倒れた幼い所姬(ソヒ)の胸には、火に焦げた残骸が突き刺さっていた。幼い所姬と同じくらい幼かった知暎(ジヨン)が、血に汚れた手で自分より小さな所姬を深く抱いたまま、声の限りに叫んでいた。血に塗れた患者の一部が、家から逃げ出していた子供を追ってきたのだった。知暎が死にかけている所姬を抱いたまま、声を振り絞って以心(イシム)を呼んだ。おばさんという言葉より、お母さんのほうが短かった。おばさんという言葉より、お母さんと呼びたかった。既に頭の中に残った深い傷だったが、いざ、切迫した叫びから飛び出した呼び名は、おばさんではなくお母さんだった。それが以心を呼ぶ声なのか、少し前に死んでしまった知暎の生みの母を呼んでいるのかは、叫んでいた知暎にも分からぬことだった。知暎の周りを囲んだ三人の患者が、知暎を見て笑った。正気を失った人間の笑いは、幼い知暎が初めて目にしたもう一つの恐怖だった。患者たちが幼い知暎と幼い所姬に危害を加えようと手を伸ばしたとき、知暎がひたむきにも握りしめていた黒い腕輪が、澄んだ音を四方に広げた。黒い光を四方にはためかせながら、鉄線が小さな風の音を立てた。患者着姿の人間たちがその場にそのまま立ち止まった。かすかな風の音だけを残した鉄線の静寂があとに続いた。かすかな風の音が過ぎた肌に、薄い血筋が浮かんだ。知暎が自分より小さな所姬を抱いたまま、依然としてお母さんを呼んでいた。三人の患者の身体が断片に分かれ、皮膚と肉と骨が分離し始めるとき、見慣れた韓服姿の誰かが一瞬のうちに駆けつけた。知暎と所姬を急いで抱きしめながら、他人の骨と肉が四方に弾け飛ぶ惨たらしい光景をかろうじて覆い隠してやった。


Scene 23.
FLASHBACK

小さな子供が目を開けた。初めて見る家だった。慣れ親しんだ家の匂いではない、見知らぬ匂いだった。驚いた目で金縛りから逃れるように起き上がった子供が、すぐに泣き出した。そんな子供の目に、ふいに、不器用な慰めを込めたパンが差し出された。

知暎 : 食べる?

子供は自分の身に起きたことに衝撃を受けずにはいられなかった。子供が正気を取り戻し始めると、過ぎた出来事を思い出しながら太い涙をぽたぽたと流した。泣き出してからしばらく経ったとき、ずっと自分の隣に立っていた知暎の気配にようやく気づいた。ぽかんと立っていたそのままで、自分にパンを差し出した知暎を見つめた。しばし無言だった子供たちが互いを見つめた。前に食べたものと同じパンを口に咥えた知暎が、自分が食べていたものと同じ新しいパンを子供に差し出した。パンを受け取れとばかりに、何事もなかったかのように。大きな目を丸く見開いた幼い知暎が、泣くことすらためらっていた子供にパンを差し出しながら訊いた。

知暎 : あんた、名前なに?

所姬 : ソヒ。です。

知暎 : あたしは강지영(姜知暎:カン・ジヨン)。早くパン食べて。あたし腕痛い。おばさんが、あんたお腹空いてるだろうって。


Scene 24.

所姬(ソヒ)が過ぎし日を溜息混じりに、堰を切るように伝えた。知暎の幼い姿がそのまま頭に残っていた所姬が、なかなか大きな笑いを弾けさせた。

所姬 : 不思議。あの頃もオンニは食べるの本当に好きだった。あたしを見て最初に言った言葉が「食べる?」だなんて、たぶん死ぬまで忘れないと思う。

所姬の笑いに、始緣(シヨン)も心なしか気分が上向いたようで、深刻な話の最中でも二人は笑みを浮かべていた。

所姬 : 毎日毎日クッパばっかり探してるあんたも、口にお菓子がないと生きていけないオンニも。鏡ってのは合ってるみたいだよ。

始緣 : おい。食い物でからかう気?? せこいな。

所姬 : 違うよ。あたしも好きだよ。食べるの。食べるの嫌いな人間がこの世のどこにいるのさ。

始緣 : 自分は毎回残すくせに。

唇をひくひくさせながら呟いた始緣が、座っていた身体を起こした。

所姬 : そういうあんたは酒残すの?

始緣 : もうやめとく。冷蔵庫に入れといてあとで飲めばいいし。

所姬 : 気が抜けるよ。

始緣が大したことないとばかりに、起こした身体のまま思い切り伸びをした。晴れ晴れとした様子で腕を下ろし、しばし酒瓶を見やった。中に入った酒がかなり残っている様子だった。始緣が手に持っていた栓で、酒瓶の口を塞いだ。

始緣 : そういうのもよく飲むよ。ないから飲めないだけで。

所姬 : もうお金もいっぱいあるのに。

始緣 : 人殺して稼いだ金なんか何が大したことあるってのよ。

所姬 : 本当に殺したわけでもないのに。

始緣 : まあね。

始緣が立ち上がったあと、土の地面に座っていた尻を払った。所姬が座っていた場所の空き瓶とティッシュの切れ端を片付けてから、先に立ち上がっていた始緣が差し出した、冷たい始緣の手を取りながらブランコから立ち上がった。