Scene 17.
FLASHBACK
幼い小学生くらいに見えた知暎(ジヨン)が、まだよそよそしい以心(イシム)の車の助手席に座って、じっと自分の手を見下ろしていた。深い夜だった。道路の上はさほど多くの車が行き交ってはいなかった。幼い知暎と同じく、以心もさほど歳を重ねていなかった頃だった。以心が夜間の運転に疲労を感じるほど長い時間を走ってきた道のりだった。知暎がまだずいぶんぎこちない空気に打ち勝てないまま、ぽっちゃりとした自分の手を見下ろしていた。以心がじっと座っているだけだった知暎に、そっと訊いた。
以心 : 知暎。お腹空いてない?
知暎 : ……はい。
ためらいがちな返事の意味を読めぬはずがなかった。問いかけた理由も、知暎の小さなお腹から聞こえていたかすかな音のせいだった。だが知暎は進んで何かを食べられる状態でも、その気もなさそうだった。以心が市街地の近くに入り、かなり増え始めた車列が目に映った。以心が軽い溜息を吐きながら、ハンドルをやや急に切って、隣に位置していたコンビニの前に一時車を停めた。
以心 : 私はお腹空いてるんだけど。私、食べるもの一緒に選んでくれない? 選びながら、知暎が食べたいものがあったら、一緒に選んで。
以心が伝えた好意に、知暎が遅れて空腹を感じた。愛らしい色継ぎの赤古里(チョゴリ)を着ていた小さなお腹からは、しきりにぐうぐうと音が聞こえていた。今の知暎の姿を思い浮かべるのが難しいほど、小さな知暎はすっかり萎縮したまま、以心の顔色を窺うのに精一杯に見えた。以心が先にシートベルトを外した。助手席に座っていた知暎も以心に倣ってシートベルトを外した。以心が動く前に自分から動くまいとしていた。以心の動作を見て真似するのに必死だった。以心が運転席のドアを開けてコンビニへ歩こうとした。知暎がチョゴリをきちんと合わせきれないまま、以心を慌てて追いかけようとした足取りに、長い裳裾に引っかかって転んでしまった。以心がさも驚いたように、うつ伏せに倒れた知暎に駆け寄った。転んだ知暎の手を取りながら、以心が知暎の傷を確かめようとした。
以心 : 怪我してない? ゆっくり来ていいのよ。
知暎は何も言わなかった。頷いてから、以心が、知暎の手を取ったそのままに、知暎の裳裾に付いた土埃を払ってやった。知暎が泣きそうになった。今にも涙がこぼれ落ちそうな悲しみがこみ上げてきた。以心が驚いた目で知暎の目の高さに合わせて座り、知暎を見つめた。
以心 : 知暎、ひどく怪我した? どうして泣くの?
知暎は本心を明かすまいとした。しゃくり上げるように泣くのを堪えながら、悲しみを何とか持ち堪えようともがいていた。
以心 : 私に言ってくれない?
知暎が首をぶんぶんと横に振った。
知暎 : また、ひとりになっちゃうんじゃないかって。
知暎の言葉に、以心が少なからず驚いた面持ちで、知暎を痛ましげに見つめた。
以心 : どうしてそんなこと思ったの?
知暎 : 住んでたところから遠くに来たから。お母さんも、元々住んでたところで急にどこかに行こうって言って、いなくなったの。
知暎の歳は、死を知る歳ではあったが、認めたくなかった。懸命に「いなくなった」という言葉だけを繰り返していた。
知暎 : いなくなったら会えないじゃないですか。あそこで人がみんないなくなったじゃないですか。
以心が知暎を落ち着かせようと、急いで小さな知暎の身体を抱きしめた。以心のあたたかな胸に、知暎がとうとう堪えていた悲しみを溢れさせた。
以心 : ごめんね。私が、私が至らないからそう思わせたのよ。ごめんね。知暎。
知暎はお母さんに会いたいという言葉を最後まで口にしなかった。うっかり嫌われたら、それすらも一人になってしまうのが怖かった。知暎のしゃくり上げる悲しい泣き声が次第に収まっていった。以心が知暎をそっと離してやりながら、鼻水と涙でぐしゃぐしゃになった知暎の顔を見つめた。
以心 : おばさんが、知暎に全部あげるから。あとで、知暎が大きくなってから選べばいい。やりたかったらやって、やりたくなかったらやらなくて。それまで、おばさんは知暎に全部あげるの。教えてあげて、導いてあげて、助けてあげる。そうするには、おばさんが知暎と一緒にいなくちゃいけないんじゃないかな? おばさん一人じゃできないことだもの。
知暎がじっと考え込んだ。以心がなだめようとして言っているのかそうでないのか、見分けられるだけの歳にはなっていた知暎だった。
以心 : 知暎は、今いくつ?
知暎 : 八歳です。
以心がぱっと笑いながら、知暎の鼻水を以心の袖口で拭いてやった。
以心 : もう大きくなったね。知暎も。おばさんの話、どういうことか分かるでしょ?
知暎がかろうじて頷いた。最初の患難を直に目撃した幼い知暎にとっては、重すぎる記憶であり傷だった。生みの母が死んだという事実を目の前で見たにもかかわらず、知暎自身は認めることのできない記憶だと思っていた。もう二度と、こんな子が生まれないことを願っていた。
以心 : たくさん泣いたから、お腹空いたでしょう。ね?
以心の笑みを含んだ問いかけに、知暎がそっと頷いた。反対側の綺麗な袖口で知暎の涙まで拭い取った以心が、知暎の手を取ってから再び身を起こしてコンビニへ向かった。コンビニのテーブルに置かれた大きなブラウン管テレビでは、近隣で起きた凄惨な事件が立て続けに速報で流れていた。以心が知暎に品物を選ぶよう伝えたあと、茫然とした目でブラウン管を見つめていた。知暎は品物を選ぶ最中にも以心を窺うのに必死だった。本当に一人になるのが怖かった子供の顔色だったが、以心はしばし知暎の視線に気づけないまま、狼狽えた目のままポケットに入っていた電話機を取り出した。さほど小さな電話機ではなかったが、文字メッセージくらいは確認できる旧い携帯電話だった。絶対に失くすまいと保存していたメッセージを開いて内容を確かめた。一家を凄惨に殺害したある精神異常者の立てこもりだった。一人や二人ではない複数人の集団狂気が、一家を無残に踏みにじったまま、警察と対峙を続けているという速報だった。
-次期 案內者(アンナイシャ)。一家殺害事件 生存者。趙所姬。-
品物を全て選び終え、以心の顔色を窺っていた知暎の気配に以心がようやく気づいた。いくらか慌ただしくなった手つきでカードを出して会計を済ませた以心が、袋に入った品物を急いで受け取り、知暎の手を取って外へ出た。寒さの厳しいある冬の初めだった。知暎の頭には阻風帽(チョバウィ)と頬衣(ポルッキ)が巻かれていた。急ぐ以心の手を握ったまま、知暎を急いで車に乗せた。シートベルトまで締めてやったあと、運転席に戻った以心が、荒くなった運転を続けていった。
Scene 18.
FLASHBACK
びっしりと並んだ車道を見ては、渋滞しない道を探そうともがいた。まともなナビゲーションもなく、道路の標識だけで辿らなければならなかった。仕方がなかった。おおよその住所程度しか分かっていなかったため、その方角へ車の頭を向けたあと、力の限りアクセルを踏んだ。知暎(ジヨン)が驚いた目で助手席のグリップをそっと握った。
以心(イシム) : 知暎。
知暎 : ……はい……。
以心 : ごめんね、寒くてもちょっとだけ我慢してくれる?
知暎 : ……はい。
以心が運転席の窓を下ろし、手首に嵌めていた黒い腕輪を振った。澄んだ音を四方に撒きながら、見えないほど細かく砕けた鉄線が黒い腕輪から伸び出て四方へ散った。以心が運転席の窓越しに掛けた手首をあちこちへ回した。指を弾くように鉄線の糸を撫でながら、はためく黒い鉄線を操った。まだ、求める情報は鉄線の向こうから伝わってこなかった。急いでニュースで見た鳳神洞の標識が目に入った。信号が変わろうとするように黄色の灯を映していたが、以心は止まるつもりがなかった。速度を示していた計器盤の数字は三桁を超えて久しかった。雑踏する都心でも以心は急いで運転を続けながら、どこかへ向かっていた。果てがどこか分からないほど繰り出されていった鉄線が、以心の待っていた知らせを伝え始めた。対峙中だった警察の足首を僅かに刺し入った鉄線を通じて、以心が状況を把握し始めた。狭い道を構わず力いっぱい駆け抜けた。開発の及んでいない丘道を登りながら、車の底が大きく跳ね上がるようにぶつかった。警察のパトランプが四方の遠い空を染めていた。住民たちの騒ぎが続いていた。車では行けない場所まで向かった。民家のなかったある丘まで車を走らせた以心が、腕輪から溢れ出ていた鉄線を全て収め、車を停めた。急く心で急いで降りようとドアを開けて足を踏み出したとき。以心をぽかんと見つめる知暎が目に入った。知暎がつい先ほどした言葉が蘇った。かといって連れていくわけにもいかなかった。険しいことが再び起こるかもしれなかった。時間がさほど残されていないことも明らかだった。以心が固く心を決め、知暎に落ち着いた、だがやや早口で説明した。
以心 : 知暎。おばさんの言うこと、よく聞いて。
知暎は何の反応も示さなかった。
以心 : 今、おばさんがあなたのお友達を連れてくるから。そのお友達も、少し前の知暎みたいに危ないの。
知暎が大きな目で以心をじっと見ているだけだった。何を言っているのか分からないように見えた知暎を見つめながら、以心が固い決意をしたように、自分の手首に嵌めていた腕輪を外し、知暎の小さな手に握らせた。
以心 : これ、おばさんにとって本当に大事なものなの。何かあったら、これがあなたを守ってくれるから。だから、必ず。ここにいて。
知暎 : え。ええ。じゃあ、また。
以心が潤み始めた知暎の目を見て、急いで首を振った。
以心 : 違うの。たった五分だけ待って。ここの車にある時計、見えるでしょう? 五分よ。それまでに戻ってくるから。ここ。
知暎が抱えていた袋の中の食べ物を取り出し、知暎の膝に載せてやった。
以心 : これ食べながら待ってて。分かった?
知暎の返事を待つことはできなかった。以心が素早く身を降ろし、丘から急いで駆け下りていった。
FLASHBACK
幼い小学生くらいに見えた知暎(ジヨン)が、まだよそよそしい以心(イシム)の車の助手席に座って、じっと自分の手を見下ろしていた。深い夜だった。道路の上はさほど多くの車が行き交ってはいなかった。幼い知暎と同じく、以心もさほど歳を重ねていなかった頃だった。以心が夜間の運転に疲労を感じるほど長い時間を走ってきた道のりだった。知暎がまだずいぶんぎこちない空気に打ち勝てないまま、ぽっちゃりとした自分の手を見下ろしていた。以心がじっと座っているだけだった知暎に、そっと訊いた。
以心 : 知暎。お腹空いてない?
知暎 : ……はい。
ためらいがちな返事の意味を読めぬはずがなかった。問いかけた理由も、知暎の小さなお腹から聞こえていたかすかな音のせいだった。だが知暎は進んで何かを食べられる状態でも、その気もなさそうだった。以心が市街地の近くに入り、かなり増え始めた車列が目に映った。以心が軽い溜息を吐きながら、ハンドルをやや急に切って、隣に位置していたコンビニの前に一時車を停めた。
以心 : 私はお腹空いてるんだけど。私、食べるもの一緒に選んでくれない? 選びながら、知暎が食べたいものがあったら、一緒に選んで。
以心が伝えた好意に、知暎が遅れて空腹を感じた。愛らしい色継ぎの赤古里(チョゴリ)を着ていた小さなお腹からは、しきりにぐうぐうと音が聞こえていた。今の知暎の姿を思い浮かべるのが難しいほど、小さな知暎はすっかり萎縮したまま、以心の顔色を窺うのに精一杯に見えた。以心が先にシートベルトを外した。助手席に座っていた知暎も以心に倣ってシートベルトを外した。以心が動く前に自分から動くまいとしていた。以心の動作を見て真似するのに必死だった。以心が運転席のドアを開けてコンビニへ歩こうとした。知暎がチョゴリをきちんと合わせきれないまま、以心を慌てて追いかけようとした足取りに、長い裳裾に引っかかって転んでしまった。以心がさも驚いたように、うつ伏せに倒れた知暎に駆け寄った。転んだ知暎の手を取りながら、以心が知暎の傷を確かめようとした。
以心 : 怪我してない? ゆっくり来ていいのよ。
知暎は何も言わなかった。頷いてから、以心が、知暎の手を取ったそのままに、知暎の裳裾に付いた土埃を払ってやった。知暎が泣きそうになった。今にも涙がこぼれ落ちそうな悲しみがこみ上げてきた。以心が驚いた目で知暎の目の高さに合わせて座り、知暎を見つめた。
以心 : 知暎、ひどく怪我した? どうして泣くの?
知暎は本心を明かすまいとした。しゃくり上げるように泣くのを堪えながら、悲しみを何とか持ち堪えようともがいていた。
以心 : 私に言ってくれない?
知暎が首をぶんぶんと横に振った。
知暎 : また、ひとりになっちゃうんじゃないかって。
知暎の言葉に、以心が少なからず驚いた面持ちで、知暎を痛ましげに見つめた。
以心 : どうしてそんなこと思ったの?
知暎 : 住んでたところから遠くに来たから。お母さんも、元々住んでたところで急にどこかに行こうって言って、いなくなったの。
知暎の歳は、死を知る歳ではあったが、認めたくなかった。懸命に「いなくなった」という言葉だけを繰り返していた。
知暎 : いなくなったら会えないじゃないですか。あそこで人がみんないなくなったじゃないですか。
以心が知暎を落ち着かせようと、急いで小さな知暎の身体を抱きしめた。以心のあたたかな胸に、知暎がとうとう堪えていた悲しみを溢れさせた。
以心 : ごめんね。私が、私が至らないからそう思わせたのよ。ごめんね。知暎。
知暎はお母さんに会いたいという言葉を最後まで口にしなかった。うっかり嫌われたら、それすらも一人になってしまうのが怖かった。知暎のしゃくり上げる悲しい泣き声が次第に収まっていった。以心が知暎をそっと離してやりながら、鼻水と涙でぐしゃぐしゃになった知暎の顔を見つめた。
以心 : おばさんが、知暎に全部あげるから。あとで、知暎が大きくなってから選べばいい。やりたかったらやって、やりたくなかったらやらなくて。それまで、おばさんは知暎に全部あげるの。教えてあげて、導いてあげて、助けてあげる。そうするには、おばさんが知暎と一緒にいなくちゃいけないんじゃないかな? おばさん一人じゃできないことだもの。
知暎がじっと考え込んだ。以心がなだめようとして言っているのかそうでないのか、見分けられるだけの歳にはなっていた知暎だった。
以心 : 知暎は、今いくつ?
知暎 : 八歳です。
以心がぱっと笑いながら、知暎の鼻水を以心の袖口で拭いてやった。
以心 : もう大きくなったね。知暎も。おばさんの話、どういうことか分かるでしょ?
知暎がかろうじて頷いた。最初の患難を直に目撃した幼い知暎にとっては、重すぎる記憶であり傷だった。生みの母が死んだという事実を目の前で見たにもかかわらず、知暎自身は認めることのできない記憶だと思っていた。もう二度と、こんな子が生まれないことを願っていた。
以心 : たくさん泣いたから、お腹空いたでしょう。ね?
以心の笑みを含んだ問いかけに、知暎がそっと頷いた。反対側の綺麗な袖口で知暎の涙まで拭い取った以心が、知暎の手を取ってから再び身を起こしてコンビニへ向かった。コンビニのテーブルに置かれた大きなブラウン管テレビでは、近隣で起きた凄惨な事件が立て続けに速報で流れていた。以心が知暎に品物を選ぶよう伝えたあと、茫然とした目でブラウン管を見つめていた。知暎は品物を選ぶ最中にも以心を窺うのに必死だった。本当に一人になるのが怖かった子供の顔色だったが、以心はしばし知暎の視線に気づけないまま、狼狽えた目のままポケットに入っていた電話機を取り出した。さほど小さな電話機ではなかったが、文字メッセージくらいは確認できる旧い携帯電話だった。絶対に失くすまいと保存していたメッセージを開いて内容を確かめた。一家を凄惨に殺害したある精神異常者の立てこもりだった。一人や二人ではない複数人の集団狂気が、一家を無残に踏みにじったまま、警察と対峙を続けているという速報だった。
-次期 案內者(アンナイシャ)。一家殺害事件 生存者。趙所姬。-
品物を全て選び終え、以心の顔色を窺っていた知暎の気配に以心がようやく気づいた。いくらか慌ただしくなった手つきでカードを出して会計を済ませた以心が、袋に入った品物を急いで受け取り、知暎の手を取って外へ出た。寒さの厳しいある冬の初めだった。知暎の頭には阻風帽(チョバウィ)と頬衣(ポルッキ)が巻かれていた。急ぐ以心の手を握ったまま、知暎を急いで車に乗せた。シートベルトまで締めてやったあと、運転席に戻った以心が、荒くなった運転を続けていった。
Scene 18.
FLASHBACK
びっしりと並んだ車道を見ては、渋滞しない道を探そうともがいた。まともなナビゲーションもなく、道路の標識だけで辿らなければならなかった。仕方がなかった。おおよその住所程度しか分かっていなかったため、その方角へ車の頭を向けたあと、力の限りアクセルを踏んだ。知暎(ジヨン)が驚いた目で助手席のグリップをそっと握った。
以心(イシム) : 知暎。
知暎 : ……はい……。
以心 : ごめんね、寒くてもちょっとだけ我慢してくれる?
知暎 : ……はい。
以心が運転席の窓を下ろし、手首に嵌めていた黒い腕輪を振った。澄んだ音を四方に撒きながら、見えないほど細かく砕けた鉄線が黒い腕輪から伸び出て四方へ散った。以心が運転席の窓越しに掛けた手首をあちこちへ回した。指を弾くように鉄線の糸を撫でながら、はためく黒い鉄線を操った。まだ、求める情報は鉄線の向こうから伝わってこなかった。急いでニュースで見た鳳神洞の標識が目に入った。信号が変わろうとするように黄色の灯を映していたが、以心は止まるつもりがなかった。速度を示していた計器盤の数字は三桁を超えて久しかった。雑踏する都心でも以心は急いで運転を続けながら、どこかへ向かっていた。果てがどこか分からないほど繰り出されていった鉄線が、以心の待っていた知らせを伝え始めた。対峙中だった警察の足首を僅かに刺し入った鉄線を通じて、以心が状況を把握し始めた。狭い道を構わず力いっぱい駆け抜けた。開発の及んでいない丘道を登りながら、車の底が大きく跳ね上がるようにぶつかった。警察のパトランプが四方の遠い空を染めていた。住民たちの騒ぎが続いていた。車では行けない場所まで向かった。民家のなかったある丘まで車を走らせた以心が、腕輪から溢れ出ていた鉄線を全て収め、車を停めた。急く心で急いで降りようとドアを開けて足を踏み出したとき。以心をぽかんと見つめる知暎が目に入った。知暎がつい先ほどした言葉が蘇った。かといって連れていくわけにもいかなかった。険しいことが再び起こるかもしれなかった。時間がさほど残されていないことも明らかだった。以心が固く心を決め、知暎に落ち着いた、だがやや早口で説明した。
以心 : 知暎。おばさんの言うこと、よく聞いて。
知暎は何の反応も示さなかった。
以心 : 今、おばさんがあなたのお友達を連れてくるから。そのお友達も、少し前の知暎みたいに危ないの。
知暎が大きな目で以心をじっと見ているだけだった。何を言っているのか分からないように見えた知暎を見つめながら、以心が固い決意をしたように、自分の手首に嵌めていた腕輪を外し、知暎の小さな手に握らせた。
以心 : これ、おばさんにとって本当に大事なものなの。何かあったら、これがあなたを守ってくれるから。だから、必ず。ここにいて。
知暎 : え。ええ。じゃあ、また。
以心が潤み始めた知暎の目を見て、急いで首を振った。
以心 : 違うの。たった五分だけ待って。ここの車にある時計、見えるでしょう? 五分よ。それまでに戻ってくるから。ここ。
知暎が抱えていた袋の中の食べ物を取り出し、知暎の膝に載せてやった。
以心 : これ食べながら待ってて。分かった?
知暎の返事を待つことはできなかった。以心が素早く身を降ろし、丘から急いで駆け下りていった。
