胡蝶別曲 (나비별곡) : 乱れ蝶の詩 (みだれちょうのうた)

Scene 08.

粹廷(スジョン)が深い夜。自らの個人執務室で読んでいた書類を片付けていた。粹廷の執務室の外で、白い煙が立ち昇った。粹廷が煙を確認したあと、鏡を背後に落とし置いた。しばらくして、固く閉ざされた扉が開いた気配もなく、不意に影が一つ中へ入り込んだ。

假先知者(コジッ・センチシャ) : 事は。どの程度、片付いたか。

影の問いに、粹廷が座ったまま頷いた。気配が黒い影をもう一段深く引き入れ、粹廷の執務室の奥深くに据わったとき、粹廷が入口を大きな鏡で下ろし、音が漏れぬよう堅く塞いだ。黒い影がしとやかな歩みを滑るように運び、小さな粹廷の執務室の中央に置かれたソファに身を預けるように腰を下ろした。

假先知者 : 約したものを取り立てるには、さしたる障りもあるまい。どのみち、あやつらの脅しに屈した体を装うたのだからな。あやつらと共にしばし志を交わしたところで、あの者どもは何の気色も示せぬであろう。その間に、あやつらの中から、最も容易いものより一つずつ除いていこうぞ。

粹廷 : 誰から除くのがよろしゅうございましょうか。

假先知者 : ふむ。調べたきことが一つあるゆえ、いかがするか。従うてみるか。


Scene 09.

閑散とした遊び場へ、なかなかに冷たい風が吹いていた。夜に訪れていた熱帯夜がもはや感じられなくなっていた。涼しい気候の中、いつかのように壊れかけたブランコに腰掛けた所姬(ソヒ)は、薄い上着を羽織っていた。始緣(シヨン)が手にした小さな酒瓶を口へやっとのことで注ぎ入れた。所姬の手にも始緣のものと変わらぬ酒瓶が一つ握られていた。

始緣 : さっき、オンニといろいろ話をしたんだ。

所姬 : オンニって呼ぶようになったんだ。

始緣 : まだ、口に馴染まないけどね、あの言葉はほぼ何年もの間、安物扱いしてきたから。オンニ、オッパ。ただあたしが客引きしながら口癖にしてた汚い言葉だったから。

始緣の自嘲的な言葉に、所姬が宙に留めていた視線を戻して始緣を見つめた。

始緣 : まだましだよ。まだあたしにとって「お母さん」って言葉は、ただあたしを捨てた血筋、記憶にすらない、そんな人間を指すものに過ぎないから。まだ、ね。

始緣はブランコを支える柱に寄りかかり、土の地面にそのまま身を下ろしたまま酒瓶を持っていた。揺れる酒瓶の向こうで、始緣の視線の先にある澄んだ空もたゆたうように揺れていた。

所姬 : だからって、オンニをその意味で呼んでるわけじゃないでしょ。お母さんもそうだけど。

始緣 : それはそうだけど。でも、ほんとにあたしとそっくりな顔で、声もそっくりな人にオンニって言おうとしたら、余計に申し訳なくて。あたしがあんたみたいないい人間でもないし、あたしみたいなのが何の妹になれるのかって思うし。

所姬 : ふーん。

始緣 : 知暎オンニも、ナイフ喰らって上に戻ってきた途端、あたしとあんたから先に心配してた。不思議だよ。そうしてたら、あたしの話が出てきたんだ。あのポリ公が知暎オンニに暴力振るってるときにこぼしたみたいで。まあ、あいつ的にはあたしに似てるからあたしに言ったつもりだろうけど……。

所姬が口が渇いたのか、酒瓶を持ち上げて唇を湿らせた。始緣も所姬の酒に合わせて自分の口へ酒を運んだ。始緣の惨めな声に、所姬が黙ったまま始緣の言葉が続くのを待った。急かさず、じっと始緣の話を聞いていた。

始緣 : あたしは、鏡ってのが何なのかよく分からない。いや、そもそもあんたたちがやってることが何なのかよく分からない。あたしがどうなったのかもさっぱり分からないし。でも、あたしもオンニみたいになりたいって思いがふっと湧いたんだ。格好よくて切なくて、すごくて申し訳なかったから。あの荷物、あたしにも軽くしてやれるんじゃないかって思った。正確には何の荷物かも分からないけど。まあ、今でもあたしは自分が何になったのかよく分かんない。馬鹿だから。でも。晶善と一緒にあの冥土(ジョスン)だか何だかに行った日。聞こえてきたあんたの声を思い出したんだ。

とても口にできなかった。始緣の声はしばらく続かなかった。酒も飲まなかった。吹く風にはためく髪がなければ、時間が止まったと錯覚するほどに、二人は動きもせず、言葉も発さずにいた。かつての幼い日、深い悩みを抱えた始緣が、所姬の深かった声を思い返していた。ある夜のこと。冥土で犯しかけた過ちを、所姬の声が引き止めてくれた記憶があった。所姬の声が深く届いた最初だった。始緣は所姬に話がしたかった。所姬なら始緣の深い時間を聞いてくれると確信していた。だが口下手な始緣は、どこからどう話せばいいのか分からないだけだった。

始緣 : あたしには。

からからに乾いた口をもう一度湿らせた始緣が、おぼつかなく、ゆっくりと口を開いた。所姬が始緣のたどたどしい言葉を尊重して聞こうと、視線を始緣へ移した。

始緣 : ほんとにクソ可愛い妹がいたんだ。


Scene 10.
FLASHBACK

小学三年生の始緣(シヨン)が、大きな瞳を悲しげに伏せたまま、妹を抱いて誰かと向き合っていた。酒に浸った父親が何でもないように振り下ろす手打ちに、始緣が幼い妹を抱えたまま黙って手打ちを受け入れていた。

强宇(カンウ) : 俺が!! お前の妹を!! ちゃんと!! 見とけって言っただろ!!

始緣は怒りもしなかった。続く殴打に目をきつく瞑りながら、妹の始雅(シア)が傷つかないほど深く胸に抱きしめてやった。

强宇 : どうしたら!! こんな!! ロクデナシの!! アマどもが!! 明けても暮れても!! 問題起こして!! 教師のアマに!! 俺を呼ばせ!! やがる!!!

さんざん殴りつけたあと、怒りの収まらないよろめきで酒瓶を取り出してきた。慣れた所業とばかりに、始緣も始雅も泣きもせず静かに息を殺していた。瓶ごとあおった酒。口元に流れる酒を雑に拭ったあと、狭い部屋から歩み出した强宇が外へ出ていってしまった。

始雅 : オンニ、あたし子たちとケンカなんかしてない、ほんとに殴られてただけだよ。

始緣 : 分かってる。あたしが代わりに先生に会いに行くから。

始雅 : 今回はお父さんが来ないとダメだって言われたんだけど。

始緣 : 来なさそうだから、しょうがないでしょ。何があったかだけ教えて。オンニが先生にちゃんと話してみるから。


Scene 11.

始緣 : 初めて分かったんだ。あの頃に。ガキどもだってシバルアマになるのは、何でもないことなんだって。いや違う。うん。違うな、ただ人間がシバルなんだって。息してるだけで口開けば犬みたいなことばっかしでかすシバルアマ、シバル野郎になるのは、年齢なんか関係ないんだって。ただ、何でもないことなんだって。それが当たり前なんだって。そもそも、そうだよ。あたしが出しゃばらなかったら、あの子の担任が保育指導も兼ねて、警察連れてきてあのクソ親父をしょっ引いてたかもしれない。でも、あたしがそんなこと分かるわけないだろ。ただ、あのときは始雅が怒られないようにするのがあたしには精一杯だったんだよ。

始緣が荒れ果てた廃遊び場で酒瓶を再び傾けた。始緣の隣で始緣を見つめたまま黙って話を聞いていた所姬(ソヒ)は、酒がまともに喉を通りもしなかった。

始緣 : ちょうど、代行バイト? みたいなチラシを一枚見つけたんだ。あ、金さえあれば。いっそ小綺麗なおじさんでも呼んでお父さん役をやらせればいいんじゃないか? って思ったんだよ。うん。じゃあ。金がいるな? どこで稼ぐ? 金ってどうやって手に入れるんだ?


Scene 12.
FLASHBACK

幼い始緣(シヨン)が目を開けた。狭い部屋で眠りについていた始緣と始雅(シア)。そして大きな身体を投げ出したまま深い眠りから抜け出せずにいる强宇(カンウ)まで。始緣が、深い夜に身を起こし、壁に掛かった父親のズボンを探った。薄暗い部屋で、手に綺麗な財布を取り出した。見慣れない紙幣だった。どう使えばいいのかも幼い始緣には分からなかったが、手に持った小さなチラシを見ながら、ただ、その金額に合う数字の桁を合わせてみるだけだった。どうしても合わないらしく、チラシに書かれた金額よりも少し多い数を抜き出した。始緣が財布を元に戻し、外へ静かに歩を進めた。チラシに書かれた電話をかけるには電話機が必要だったが、始緣には同じ年頃の子供たちが持ち歩くあのありふれた電話機の一つすらなかった。深い夜。閑散とした路傍に置かれた公衆電話へ歩を進め、小さな背丈でようやく受話器を取り上げた。苦労して番号を押したあと、深夜にもかかわらず電話に出た相手に幼い声を投げかけた。

始緣 : あの、もしかして。


Scene 13.
FLASHBACK

始緣(シヨン)がみすぼらしい身なりの成人男性と向き合うまでさほど長い時間はかからなかった。口に咥えた煙草を揉み消したあと、幼い始緣と向き合った男はしばし始緣をじっと見つめたまま、言葉を発せずにいた。冬の朝日が昇りつつあった。早くはない朝だった。一晩中寒さに震えていた始緣だったので、男は始緣に自分が着てきたくたびれた上着を掛けてやり、始緣の目の高さまで姿勢を落としてから、始緣が望むものを慎重に訊いた。始緣は口下手だったし、考えをまともに整理することもできなかった。ただ、もどかしかった。学校がお父さんを呼んだという話をしていたが、口下手に伝えられた言葉に、男は噛み締めながら考え、幼い始緣の意を遅れて汲み取った。始緣の手に握られたくしゃくしゃの紙幣を見つめた。そもそも受け取るつもりなどなかったとばかりに、男は無精髭だらけの顔でぎこちなく笑って見せた。

学生 : お前のお父さんは何してる人?

始緣はしばらくためらった。答えられなかった。

学生 : これ、下手すると、おじさんもちょっと困ったことになるんだけど。

始緣のうるうると潤んだ大きな瞳が揺れた。寒い日にもスリッパを履いて出てきていた男が、始緣の小さな姿を見ては始緣の意を退けることができなかった。始緣がおじさんに懇願するように、くしゃくしゃの金をそっと押し出した。その金を受け取ることはできなかった。受け取るつもりもなかった。男は始緣の手を丸め、紙幣をしっかり握れるようにしてやった。

学生 : 俺が、いくら金に困ってても。お前の金は受け取れねえよ。

始緣 : でも、お金じゃなかったら、やってくれないでしょ。

幼い始緣の大きな目が今にも泣き出しそうに潤んでいた。最後の望みだった。自分にできる最後の手段だった。手に握った紙幣が始緣自身も知らぬうちに震えるほど、始緣が揺れていた。何としてでも始雅が困ることだけは防ぎたかった。それだけだった。

学生 : それで、一日だけお父さんになってくれってことだろ?

始緣が頷いた。くたびれた服装の男が黙って、始緣が差し出したくしゃくしゃの紙幣を再び幼い始緣の手に握らせた。

学生 : タダでやってやるから、その金でお前の服でも買え。こんな寒いのに薄着で出てきて、あの明け方からずっとここで待ってたんだろ?

始緣と同じ年頃の子供たちが三々五々集まって学校へ歩を運んでいた。始緣が遅れて周りの子供たちを見つめた。自分より幼い子供。始雅と同じ年頃の綺麗な髪が始緣の目に入った。ぼんやりと彼女たちを見ていた始緣が、目の前の男の声に視線を戻した。

学生 : 何時までにどこへ行けばいい?