胡蝶別曲 (나비별곡) : 乱れ蝶の詩 (みだれちょうのうた)

Scene 05_01.

薄暗い路地で大きなワゴン車に身を収めていた智胤(ジユン)が、疲労に塗れた目をようやく開け、懐に入れていた銃を一丁取り出した。運転席に座っていた強面の男が振り向いて智胤に訊いた。

用役_01 : なんでこんな早く出てきたんですか。おっしゃってた時間とだいぶ違う気がしますけど。

智胤 : うるさい。

疑問をたった一言で一蹴したあと、智胤が短い散弾銃の薬室を詰めながら、残りのゲージ弾を前に掛けた鞄に適当に放り込んだ。寝起きの苛立ちにたっぷりと沈んだ智胤の声にも、前に座った二人は声一つ上げられなかった。

智胤 : ぺちゃくちゃうるさいのよ。

整備を終えた智胤が先に車を降りた。薄暮の夕刻になりつつあった。一つまた一つと灯りが点き、大きなビルが立ち並ぶ都心の帰宅ラッシュが始まっていた。ビルの駐車場から出ようとする車両が広い大通りを埋めていった。交差点の信号制御器の脇に立ち、一台また一台と増えていく車両をじっと見つめていた智胤。長いコートの内に隠した短い散弾銃がもたついた。そんな智胤を見守るかのように路肩に停めたワゴン車は一向に動く気配を見せなかった。右折通行の妨げだとばかりに四方から鳴り響くクラクションにも、ハザードランプすら点けていないワゴン車はエンジンまで切っていた。車内には依然として二人が座っていた。智胤がちらりと車内を覗いたが、変わったものは何もなく、浅い溜息を漏らした。しとやかな手つきがごそりと動いた。車内には二人のほかに、堂々と連曦(ヨンヒ)が座っていた。白い砂(白砂:フィンモレ)が連曦の手の中で練り上げられていた。後ろでひっきりなしにクラクションを鳴らす車を見ようと運転手が振り返ったときも、連曦の姿は映り込んでいなかった。だが連曦は確かに後部座席に座っていた。見えないだけだった。指を閉じるように向かい合わせにして擦り合わせていた。その間から微かに漏れ出す白い砂が、車内にいた者たちの認知を歪めていた。永敏(ヨンミン)が智胤に近づいてきた。永敏の現代風韓服姿は都心の中でもなかなか目を引く姿だった。永敏と智胤が手短に言葉を交わす様子を車内で確認したあと、連曦が車のドアを開けて外へ出た。車が僅かに揺れたが、開閉するドアの音すら感じ取れていなかった。

智胤 : なんで早く来いって言ったの。

永敏 : やらせたいことがもう一つあってな。

智胤 : 金もらえる?

永敏 : 次第で?

智胤 : 何なの。

永敏 : ちょっと裏切れ。

智胤 : 誰を?

永敏 : おどれの主人?

智胤が大きく笑いながら、嘲笑を超えた爆笑を唐突に弾けさせた。永敏が智胤の嘲笑に答えなかった。笑いをかろうじて堪えた智胤が、苦しげながらも自分の声を取り戻し、ようやく永敏に訊いた。

智胤 : おどれの主人って誰なのよ??

永敏 : 聞いたところによると。

永敏が上品な佇まいで智胤を値踏みするように見下ろした。

永敏 : 事務長(ジムチョウ)が策士(サクシ)にやらせてお前を作ったんだってな。死をもって手配を免れさせてやってよ。策士が教えてくれたわ。

智胤 : じゃあ、事務長様を裏切れってことでしょ? そう? なら聞くだけ聞いてやるわ。どう裏切れってのか。

永敏 : いやあ、確信がなきゃ俺も言いにくいんだよ。下手に事務長の野郎に嗅ぎつかれたら、俺の首だけ飛ぶだろうが。

智胤 : ちょっと、仕事まで任されたのに、万一鍵まで殺しちゃったら、その褒賞、オンニと正賢オンニが全部独り占めするんじゃないの? 策士や事務長はただの助っ人で、実際やったのはオンニたちなのに。何がそんなに急いでるわけ? どうせ独り占めもでき——

永敏 : 最後の名前。ないだろ。

智胤 : それがなに。

永敏 : 俺らが、しくじったらこれまで走り回った分が全部無駄になるんじゃねえのか? 罰はないにしても、手間賃すらもらえねえ。最後の名前がない理由が何だと思う。独り占めだろうよ。それが本物の鍵で。俺らはどのみちしくじる仕事を押し付けられただけだ。まあ、そこに加えて、理由は分からんが策士がちょうど横槍を入れたみたいでな。おどれの主人と一緒に動く気はないらしい。

智胤 : なんで?

永敏 : 知らんよ。いや、知ってるけどちょっとややこしくてな。とにかく、あの野郎は全部分かってるわけだろ。特定の日に明かすだろうさ。「これが鍵でした。ご存じなかったんですか? あらまあ。お気の毒に。ご苦労様でした。それでは」ってなるところを、俺らは最後まで誰だか分からんまま空振り続けるわけだ。関係ない候補のアマだけ死んでいくだろうよ。

智胤 : じゃあどうするの?

永敏 : いやあ、言えねえっつってんだろ。受けるまでは。

永敏が隣に停まっているワゴン車をちらりと見た。

永敏 : 見たところ、かなり集めたみたいだが、ヤクザの連中なんぞ元から金やりゃいいんだろうが。

智胤 : へえ、その金、オンニが出してくれるとでも?

永敏が自分の名牌を取り出し、智胤にちらりと見せた。

永敏 : 事務処の金だってどうせ財務館(ザイムカン)から流れてくる。俺がやると言えば、やるんだよ。逆に、俺が出さんと言えば、お前はびた一文持っていけねえ。どうだ?

智胤が侮るような笑みを浮かべた。

智胤 : 正直ぜんぜん説得力ないんだけど? でも、最後の名前はちょっと欲しいかな。あれ一発で、ひょっとしたら分からないじゃない? 昇級制で高い点数もらえるかも。オンニたち全員ぶっ殺して。あたしが代わりにもらうってことで。

智胤の気丈な皮肉に、永敏がもう少し血生臭い笑みを浮かべた。

永敏 : シバル。屍のくせに。

永敏が腕組みを解き、萩の木の欠片を振って見せた。

永敏 : とにかく、もう萩はぜんぶ撒いてあるから、勝手に現れたら処理しろ。候補に過ぎないんだから、血だの何だのなくても適当に完了つけといてやる。面倒なことにするなよ。

永敏が手に小さな萩の木の欠片をペンを回すようにくるくると弄びながら、その場を離れた。二人のすぐ後ろで全ての会話を聞いていた連曦が軽い溜息を漏らした。思ったより穏便に事が片付くかもしれないという判断の一方で、どこまで腐り果てているのかも見当がつかないという事実が連曦の胸を重く圧し潰していた。後ろを向いてその場を離れようとした連曦がフィンモレを鮮やかに散らした。四方に広がったフィンモレが、目にも見えないほど細かく散開し、風に乗って四方へ舞った。連曦が道路沿いのCCTVをフィンモレで覆い隠した。その場を離れた連曦が薄暗い路地で鍵の候補者(コウホシャ)が現れるのを先に待った。所姬に案内された場所が、最も早く候補者に出会える位置だった。彼らが気づかぬ近くの路地で、連曦が鍵の候補者と向き合う時刻を窺った。


Scene 05_02_虚像.

しばらくして、正確な時刻に合わせて一人の人間が歩いてきていた。連曦(ヨンヒ)が手のひらほどの卷子(トゥルマリ)を広げ、中に記された内容を改めて確認した。連曦の脇を通り過ぎようとした一人の女に向かって、あらかじめ広げておいたフィンモレが近づいた。フィンモレの一筋が連曦を通り過ぎる女のすぐ脇をおぼろに過ぎ、白い雪のように耳元へそっと降り落ちたフィンモレ。連曦の脇を過ぎて二歩ほど踏み出した女が、力なく身体を床に崩そうとした。連曦が素早く駆け寄り、崩れ落ちる女が怪我をしないよう支えたまま、路地から出られないようにした。意識を失った女を丁寧に座らせたあと、その女の代わりに連曦が歩を進めた。手をそっと振り、自分の頭上へフィンモレを散開するように舞い上げた。連曦の歩みが路地を抜け、候補者が死を迎える場所まで辿り着いた。候補が現れるのを待っていた智胤(ジユン)と連曦が向き合った。だが智胤をたやすく認めた連曦とは異なり、智胤は連曦が自分の目の前を通り過ぎ、智胤の立っていた後方まで歩いていく間も連曦を見ることができなかった。連曦の背後で銃声が轟いた。連曦が大きな音を感じて身を竦ませ、歩いていた足を一瞬止めた。振り返って後ろを見た。何もない、誰もいない地面に向かって、銃を乱射していた。それ以上見る理由はなかった。一瞬止めていた歩みを再び戻し、行く先をそのまま歩いた。


Scene 05_03.

智胤(ジユン)がぼろ切れと化したある女を見ながら、素っ気ない表情でポケットから小さな瓢を一つ取り出した。膝を落とし、四方に流れ出ていた女の血を注いだ。瓢を取り出す際にともに手に握り込んでいた小さな銀色の珠を、既に冷たく死んでしまった屍の上に放った。銀色の珠が小さな爆発を起こし、女の死体を蒼い炎で覆い尽くした。瞬く間に燃え尽きた屍は、血の痕一つ残さず綺麗に片付いていた。その一部始終を見届けた永敏(ヨンミン)配下の者が近づき、智胤の手に握られた小さな瓢を受け取った。

永敏の秘書 : 策士の御宅に来いとのことよ。行きな。皆お集まりになるんだって。

温もりの欠片もない永敏の秘書が、智胤に短い言葉を残しながらポケットから封筒を取り出した。智胤は封筒をひったくるように受け取ると、返事一つ寄越さぬまま、その場を素っ気なく後にした。


Scene 06.

早い夕刻だった。知暎(ジヨン)が早退に伴い書類をどっさり抱えたまま、運転席の灯りを点けて書類を検めていた。ワイヤレスイヤホンを嵌め、鼻歌を歌いながら書類の束に目を通した。夕方六時半。覚醒成分の入った飲料をがぶがぶと飲んだ知暎が、グミを袋から取り出して口に運び、もぐもぐと噛んだ。

知暎 : あー、糖分切れた。二年後には三十なのに、あーあ。あたしの運命よ。会社では遅刻すると怒られ、早退は飯を食うように繰り返すと怒られ。罪もないのに警察にナイフまで喰らって夜遅くまで働く。あーあ。あたしの運命よ。

くちゃくちゃと噛みながら、おどけた調子で本気の欠片もない愚痴を垂れ流した知暎。懐に入れていた卷子(トゥルマリ)を取り出し、時刻と名前を確かめた。五分ほど後に現れる人間を待った。知暎が飲料を適当に助手席へ放り投げ、書類の束をグローブボックスに収めた。始緣が普段着ていた服も知暎がいつも着る服と大差なかった。思ったより露出が少なくない、曲線が表れる装いだった。脱ぎ散らかすつもりはなかったが、下がっていく体温に合わせて自然と肌がもう少し露わになり始めていた。知暎が髪をきつく結び上げ、くちゃくちゃと噛んでいたグミをもう少し取り出して口に放り込んだ。知暎がトゥルマリを手にしたまま、腰に銃を据え、運転席のドアを開けて外へ向かった。低くないヒールの靴底が、ある薄暗い土道の上に降りた。周囲をさっと窺ったとき、容易には感知し難い数人の気配が感じられた。あらかじめ張り巡らせた黒い鉄線が隙なく敷かれたまま、その上を踏んで立つ者全てを知暎に余さず伝えていた。ひどく酒に酔った気配が、夜道の恐ろしさも知らずによろめく足取りを運んでいた。片方の靴を脱いで手に持ち、泥酔するまで飲んだ女だった。知暎がトゥルマリを再び開き、近づいてくる女の人相と服装を確認した。手首に巻いた黒い腕輪を長い袖で隠した装いだった。知暎が手振りで鉄線を軽く弾くと、微かな振動を発し始めた鉄線が、鉄線を踏んで立ったまま知暎を注視していた者全員のこめかみを軽く刺し入った。目にも見えぬほどの細い鉄線が入り込んだまま、知暎を観察していた全員の視界を遮り始めた。知暎が酔った女をそのまま見過ごした。何の行動も取らず、通り過ぎるように見送った。


Scene 07_虚像.

遠くから始緣(シヨン)を見守っていた二人が、閃く火花とともに単発の銃声を聞いた。しゃがみ込んで見守っていた身体を起こした。なかなかの長身の正賢(ジョンヒョン)が、その秘書とともに素っ気ない伸びをしながら歩き出した。しばらく歩いて下りたあと、卷子をごしごしと消していた始緣の前でぴたりと立ち止まった。正賢の秘書が地面にたっぷりと溜まった血を瓶に注いでいる間、その場にしばし留まっていた始緣に正賢がぶっきらぼうな声をかけた。

正賢 : お前、人殺しうまいな? 聞いてたのと違って。

始緣は答えなかった。血生臭い笑みを浮かべてその場を離れようとするだけだった。

正賢 : 元から人殺しうまかったの?

始緣 : いいえ。

正賢 : じゃあ?

始緣が答えないまま、靴を踏み出した。遠くに停めた自分の車へ向かう歩みがぐらつき、歩いていた身体を地面に倒した。始緣が苛立ちを滲ませて正賢を睨んだ。正賢が始緣の脚を払って転ばせてから、うつ伏せになった始緣にゆっくりと近づいた。

正賢 : 屍のくせに。人が話しかけたら最後まで聞きやがれ。返事もしろよ。

始緣が土埃にまみれた地面から身を起こそうとしたが、正賢はそんな始緣の首を足で踏みつけ、再び地面に押さえ込んだ。正賢が生意気なこのアマの全てを踏み潰してやりたいとでも言うように、長身で高圧的な空気を纏い始めた。

正賢 : ほどほどにしとけよ。このまま首をへし折る前に。

正賢の秘書が全ての支度を終えたとばかりに、正賢に近づいてきた。因縁をつけようか考えていた正賢が、軽い溜息とともに始緣の首を放した。始緣が土埃にまみれた地面から身を払って立ち上がった。大した言い返しもなくその場を離れようとする始緣に、正賢が素っ気ない嘲笑を送った。後ろを向いた知暎(ジヨン)が、口の端を血生臭く吊り上げるだけで、何も言わなかった。何の死体もなかった道をそのままに、靴を運んでその場を後にした。