月喰いと契りの巫女

 六日目の夜、柊は眠れなかった。

 布団の中で天井を見つめながら、昨日の朧の言葉を何度も反芻していた。

  ──消えてほしくないと思う。お前が。

 感情の名前を知らない男が、自分で選んだ言葉。飾りもなく、照れもなく、ただまっすぐに言った。だからこそ、重かった。柊の胸の奥に、静かに沈んでいった。

 これは何だろう、と柊は思った。

 胸が温かい。でも同時に、少し苦しい。誰かを大切に思うとき、人はこんな気持ちになるのだろうか。

 答えが出ないまま、夜が深くなった。
    


 翌朝、山道を登りながら、柊は自分の足元を見ていた。

 いつもは朧の顔を見るのが楽しみで、自然と足が速くなる。でも今朝は、少し緊張していた。昨日のことを、どんな顔で会えばいいかわからなくて。

 番小屋の前に着くと、朧はいつものように外に出ていた。

「おはようございます」

「ああ」

 朧はいつもと変わらなかった。昨日のことなど何もなかったように、無表情でそこに立っている。

 それが、妙に柊を安心させた。

「今日も練習をしますか」

「食事の後で」

「はい」

 番小屋に入り、竹籠を開ける。今朝は卵焼きを作ってきた。少し甘めに味付けしたものを。

「これは何だ」

「卵焼きです。甘いですよ」

 朧は一切れ口に入れて、止まった。

「……饅頭に似ている」

「甘さが?」

「口の中が、穏やかになる」

 柊は笑った。

「それ、すごくいい表現ですね」

「おかしいか」

「おかしくないです。素直で、きれいな言い方だと思います」

 朧は黙ってもう一切れ食べた。柊はその横顔を見ながら、昨夜からの胸のざわめきが、今朝は少し静まっていることに気づいた。

 こうして一緒に朝ごはんを食べているだけで、十分な気がした。
    


 気配の練習を終えた頃、山の下から人の気配がした。

 今度は柊が先に気づいた。

「誰か来ます」

「ああ。ひとりだ」

「蒼真さんじゃないですね。気配が違う」

「お前の家の者か」

 柊は少し考えて、思い当たった。

「父かもしれない」

 朧に番小屋の中で待つよう言い、柊は山道を下りた。

 果たして、途中で父と鉢合わせた。柊家の当主、柊宗一郎(ひいらぎそういちろう)。五十がらみの、目の鋭い男だった。退魔師としての腕は確かで、この地域の要職も担っている。

「こんな朝から何をしている」

「修行の場所を探していました」

「番小屋の周りか」

「はい」

 父は柊を一瞥した。その目が、少し奥の方を見た気がした。

「あの番小屋、最近扉の立て付けが悪いらしい。見に来たついでだ」

「私が確認しておきます」

「いい。俺が行く」

 柊の心臓が、跳ねた。

「父上、私に任せてください。修行の一環として、管理の仕方も覚えたいので」

「修行と管理は別物だ」

「それでも」

 父は立ち止まり、柊を見た。

 退魔師として長年培った勘が、何かを感じ取っているかもしれない。父の霊力は高い。朧の気配を、蒼真と同じように察知している可能性があった。

「……最近、お前の顔つきが変わった」

 唐突に、父が言った。

「そうですか」

「目に、力が出てきた。何かあったか」

 柊は少し驚いた。怪しんでいるのではなく、純粋に観察していた。

「練習しているからじゃないですか」

「そうかもしれん」

 父は少し間を置いた。

「番小屋は、お前に任せる。扉の蝶番が緩んでいるはずだ。直しておけ」

「わかりました」

 父は山を下りていった。

 柊は深呼吸をひとつ、して、番小屋に戻った。

「聞こえていましたか」

「聞こえた」

「父が来たのは初めてです。しばらく注意が必要かもしれません」

「俺がここにいることで、お前が父親に嘘をつくことになる」

「仕方ないです」

「仕方なくない」

 朧の声が、少し低くなった。

「お前は家族に嘘をつき、幼なじみに嘘をつき、俺のためにそれを続けている」

「朧さんのためだけじゃないです。私が判断したことです」

「同じことだ」

「違います」

 柊は朧を見た。

「私がここにあなたを置きたいのは、私がそうしたいからです。誰かに強いられているわけじゃない」

「なぜそうしたい」

「それは……」

 言いかけて、止まった。

 なぜそうしたいのか。昨夜から考えていたこと。胸の温かさと苦しさが混ざり合うあの感覚。

「うまく言えないです」

「言えないことは、無理に言わなくていい」

 朧は窓の外を見た。

「ただ、俺はお前に負担をかけたくない」

「負担じゃないです」

「そう感じていないだけかもしれない」

 柊は少し黙った。

「朧さんは、私にここを出ていけと言いたいんですか」

 間があった。

「……言いたくない」

 静かな声だった。

「出ていくべきかもしれないと思う。でも、言いたくない」

 柊の胸が、また温かくなった。さっきとは少し違う、もっと切ない温かさ。

「じゃあ、いてください」

「……それでいいのか」

「よくないことは何もないです」

 朧は答えなかった。でも、その沈黙は否定ではなかった。
    


 夕方、柊が山を下りる前に、蒼真がやってきた。

 今度は山道の途中で、偶然に近い形で鉢合わせた。蒼真は別の任務の帰りらしく、装束のまま山道を歩いていた。

「柊。また山か」

「はい」

「毎日のように来ているな」

「修行です」

「その修行の成果は出ているか」

 意地悪な聞き方ではなかった。蒼真は本当に知りたがっていた。

「少し、気配が読めるようになってきました」

「ほう」

「霊力に頼らなくても、感じられるものがあると気づきました」

 蒼真は少し目を細めた。

「誰かに言われたのか」

「自分で気づきました」

「嘘をつくな。お前はそういうことを自分で気づくタイプじゃない」

 正確だった。柊は苦笑した。

「……助言をもらいました」

「あの男か」

 蒼真の声が、低くなった。責めているのではない。でも何かを抑えているのがわかった。

「蒼真さん」

「俺はお前の敵じゃない」

「わかっています」

「ならなぜ、俺に頼らない」

 柊は蒼真を見た。

 夕陽が山の端に近づき、二人を橙色に染めていた。蒼真の顔に、影が落ちている。その表情に、いつもより柔らかいものがあった。

「頼ることができない、んじゃなくて」

「じゃあ何だ」

「蒼真さんに頼ると、甘えすぎてしまいそうで」

 蒼真が動きを止めた。

「甘えて何が悪い」

「私が弱くなります」

「強くなるためだけに人と関わるわけじゃないだろう」

「そうですけど」

 柊は視線を落とした。

「蒼真さんのそばにいると、安心しすぎてしまう。それが怖いんです。自分で立てなくなりそうで」

 蒼真は少し黙った。

「……俺がお前を、そんなふうに見ていると思っているのか」

「思っていません。蒼真さんがそういう人じゃないのはわかっています」

「なら」

「私の問題です」

 夕陽が、沈んでいく。山の輪郭が、黒く浮かび上がる。

「柊」

 蒼真が、名前を呼んだ。

 いつもと違う声だった。柊は顔を上げた。

「俺は、お前のことが」

 そこで蒼真は止まった。

 何かを言いかけて、飲み込んだ。その目が、柊をまっすぐに見ていた。

 柊はその目の中に、今まで見たことのないものを見た気がした。いつもの心配でも、幼なじみへの気遣いでもない、もっと深いところにあるもの。

「……今は、言わない」

 蒼真は静かに言った。

「タイミングじゃない。ただ、覚えておいてくれ。俺はいつでも、お前の味方だ」

「蒼真さん」

「帰れ。暗くなる前に」

 踵を返した背中が、夕陽の中に遠ざかっていく。

 柊はしばらく、その場に立ち尽くしていた。

 胸が、複雑だった。温かいのに、切ない。嬉しいのに、苦しい。

 蒼真の気持ちが、伝わってきた。言葉にはしなかったけれど、確かに届いた。

 そして柊は、自分がその気持ちに同じように応えられないことも、わかっていた。

 なぜかは、まだうまく言えなかった。

 ただ、朧の顔が頭に浮かんだ。感情の名前を知らない男が、消えてほしくないと言った夜が。
    


 家に帰り、部屋に戻った柊は、行燈の前に座った。

 今日一日で、ありすぎた。父の訪問、朧の言葉、蒼真の目。

 黒い本を取り出して、開いた。

 月喰いの記述を、続きから読む。

  ──その封印は満月の夜に施され、術者の血筋が絶えぬ限り、解けることはないという。しかし封印は完全なる消滅にあらず。月が満ちるたびに、力は蓄積される。いつか器が溢れるとき、月喰いは再び目覚める。

 柊は頁をめくった。

 次のページに、古い絵が描いてあった。

 月を背に立つ人影。白い着流し。乱れた黒髪。

 柊の手が、止まった。

 絵の下に、文字があった。崩し字を辿ると、こう読めた。
 
 ──月喰いは人の形をとる。その瞳は銀色にして、月光を宿す。

 銀色の瞳。

 柊の胸が、冷たくなった。

 本を閉じた。

 手が、震えていた。

 まだわからない。まだ確かではない。でも、点と点が線になっていく感覚が、止められなかった。

 朧の銀色の目が、頭の中に浮かんだ。

 消えてほしくないと言った、あの声が。

 柊は膝を抱えた。

 胸の温かさと冷たさが、今夜初めて、同時に存在していた。

 行燈の灯りが、揺れた。