五日目の朝、朧は番小屋の前で待っていた。
柊が山道を登ってくるのを見て、朧は立ち上がりもせず、ただそこに座っていた。でも視線は、柊が木々の間から姿を現した瞬間から、ずっとこちらを向いていた。
「おはようございます」
「ああ」
「外で待っていたんですか。寒くなかったですか」
「感じない」
「そうでした」
柊は竹籠を抱え直した。今朝は少し重い。昨夜、煮物を多めに作ったのと、父が土産に買ってきた饅頭を二つ、こっそり包んできた。
「今日は気配の練習をすると言っていましたね」
「食事の後でいい」
番小屋の中に入り、いつものように卓を挟んで向かい合う。朧は今日も几帳面に毛布を畳み、着物の乱れもなかった。
「昨夜は?」
「月を見ていた」
「一晩中?」
「そうなる」
柊は饅頭を取り出した。朧の前に置くと、朧は少し目を向けた。
「今日は違うものがある」
「饅頭です。甘いものは食べたことがありますか」
「わからない」
「食べてみてください」
朧は饅頭を手に取り、一口かじった。
止まった。
咀嚼が、一瞬遅くなった。
「……甘い」
「おいしいですか」
少し間があった。
「わからない。ただ、もう一口食べたくなる」
柊は笑った。
「それがおいしいということです」
朧は黙ってもう一口食べた。その動作が、心なしかいつもより早かった。柊はそれを見て、また笑いそうになるのをこらえた。
感情がわからないと言いながら、朧の体は正直だった。
食事の後、番小屋の前の開けた場所に出た。
朧は柊の前に立ち、少し距離を置いた。
「目を閉じろ」
「はい」
「俺がどこから近づくか、気配で判断する。感じたら声を出せ」
「わかりました」
目を閉じた。
山の音が広がった。葉擦れの音、遠くの鳥の声、土の匂い。普段は意識しない感覚が、前に出てくる。
しばらくして、何かが動いた気がした。
左。
「左」
「正解だ」
目を開けると、朧が左から近づいていた。
「もう一度」
また目を閉じる。今度は気配が、読めなかった。全く感知できないまま、急に右から声がした。
「右だ」
「全然わかりませんでした」
「俺が気配を消したからだ。今のは参考でいい。まずは消さない状態で感じることを練習する」
何度か繰り返した。五回やって、当たったのは三回だった。
「柊」
「はい」
「お前の霊力が低いのは事実だ。だがそれは感知能力の低さとは別の話だ」
「どういうことですか」
「霊力は攻撃や祓いに使う力だ。気配を感じるのは、霊力ではなく、本来人間が持っている感覚に近い。研ぎ澄ませば、霊力に依存しなくても感知できるようになる」
柊はその言葉を、ゆっくりと咀嚼した。
力がないから感じられない、と思っていた。ずっとそう思っていた。霊力の低さが、退魔師として致命的な欠陥だと。
「本当ですか」
「確かなことは言えない。ただ、お前は昨夜の怨狐のとき、俺が言う前に右の一体に気づいていた」
「そうでしたっけ」
「顔が向いていた。言葉にする前に、体が反応していた」
柊は思い出した。確かに、あのとき右に何かいると感じた。霊力で感知したのではなく、もっと本能的に。
「練習する価値はある」
「……ありがとうございます」
「礼を言うことか」
「朧さんが私の可能性を信じてくれているから」
朧は少し黙った。
「信じるというより、見たものを言っただけだ」
「それでも、嬉しいです」
朧は答えなかった。でも視線が、柊から少し外れた。照れているのか、と思ったが、朧に照れという感覚があるかどうかは、まだわからなかった。
昼前に、蒼真が来た。
山道を上ってくる気配に、柊が気づいたのは朧よりわずかに遅れてだった。でも気づいた。練習の成果かもしれないと、柊は思った。
「隠れてください」
「隠れる必要があるか」
「蒼真さんに見つかると、ややこしくなります」
「お前が判断するなら従う」
朧は番小屋の中に入り、戸を閉めた。
柊は山道の入口に向かった。蒼真はすぐに姿を現した。
「こんなところで何をしている」
「散歩です」
「嘘をつくな。ここは父上の管理地だろう。何かあるのか」
さすがに鋭い。柊は内心で舌を巻きながら、蒼真の前に立った。
「修行の場所を探していただけです」
「一人でか」
「はい」
蒼真は柊を見た。それから、番小屋を見た。
「あの小屋に誰かいるか」
「いません」
「気配がある」
「獣かもしれないです」
「獣の気配じゃない」
蒼真が番小屋に向かって歩き出した。柊は咄嗟に前に出た。
「蒼真さん」
「退け」
「退きません」
蒼真が止まった。柊を見る。その目に驚きがあった。柊がこんなに強く言うのは、珍しかった。
「柊」
「私のことを心配してくれているのはわかります。でも、私には私の判断があります」
「その判断が心配なんだ」
「そうかもしれない。でも私は、間違っていないと思っています」
二人の間に、沈黙が落ちた。
蒼真は長い間、柊を見ていた。何かを測るように。何かを確かめるように。
「……その人間がお前を傷つけたら」
「傷つけません」
「どうしてそう言い切れる」
「五日間、一緒にいました。それだけです」
たった五日間、と言われればそれまでだ。柊にもわかっていた。論理的な根拠はない。朧が何者かも、まだわかっていない。
それでも。
「信じています」
蒼真は目を閉じた。
深く息をついて、また開いた。
「……お前は昔から、そうだった」
低く、言った。
「一度信じると決めたら、曲げない。小さい頃から」
「蒼真さん」
「俺はお前を守りたい。それだけだ」
声に、滲むものがあった。柊は胸が痛くなった。蒼真はいつも、こうだ。怒っているようで、心配している。拒絶しているようで、傍にいようとしている。
「……ありがとうございます」
「礼を言うな。俺が勝手にしていることだ」
蒼真は踵を返した。山道を下りながら、一度だけ振り返った。
「何かあれば、すぐ連絡しろ。今度は問答無用で来る」
「はい」
背中が木々の間に消えた。
柊は深く息をついた。
番小屋の戸が、静かに開いた。
「聞こえていましたか」
「聞こえた」
朧が外に出た。
柊の隣に立ち、蒼真が去った方向を見た。
「あの男は、お前のために引いた」
「そうですね」
「それがどれほどのことか、わかるか」
「……蒼真さんは、正しいと思ったことは曲げない人です。私を信じるために、自分の判断を抑えた」
「お前への気持ちが、それだけ強い」
柊は返事をしなかった。
朧は続けた。
「俺は問う資格がないかもしれない。だが、なぜあの男ではなく俺を選んだ」
柊は少し驚いた。朧がそういう問いをするとは、思っていなかった。
「選んだというより」
「俺を信じると言った。あの男に対して」
「……はい」
「なぜだ」
柊は朧を見た。
朧は柊を見ていた。感情の読めない銀色の目。でも今は、その奥に何か問いかけるものがあった。
「朧さんが最初に私を救ったとき、あなたは何も見返りを求めませんでした」
「契りがあったからだ」
「契りを知ったのは、後からでしょう。あのとき、私を抱き止めたのは、契りとは関係ない」
朧は黙った。
「打算でも、義務でもなく、あなたは私を受け止めた。それだけで十分でした」
風が吹いた。山の空気が、二人の間を抜けていった。
朧はしばらく黙っていた。
「俺には、なぜそうしたのかわからない」
「わからなくていいです」
「なぜ」
「わからなくても、あなたがしてくれたことは変わらないから」
朧は柊から目を離し、山の奥を見た。
長い沈黙が続いた。
やがて、朧は言った。
「俺はお前を、守りたいと思っている」
静かな声だった。
感情の名前を覚えたばかりの男が、自分で選んだ言葉。
「それが何から来るのかわからない。契りのせいかもしれない。ただ、消えてほしくないと思う。お前が」
柊は返事ができなかった。
胸の奥が、じわりと熱くなった。さっきまでとは違う、もっと深いところが。
「朧さん」
「なんだ」
「私も同じです」
朧が柊を見た。
「あなたに、消えてほしくない」
風がまた吹いた。山の木々が揺れた。
朧は何も言わなかった。でも視線が、どこか遠くへ行かなかった。柊のところに、留まっていた。
守る理由なんて、最初はなかった。命が繋がっているから、打算だから、そう言い続けた。
でも今この瞬間、柊にはっきりとわかっていた。
それはもう、打算ではなかった。
柊が山道を登ってくるのを見て、朧は立ち上がりもせず、ただそこに座っていた。でも視線は、柊が木々の間から姿を現した瞬間から、ずっとこちらを向いていた。
「おはようございます」
「ああ」
「外で待っていたんですか。寒くなかったですか」
「感じない」
「そうでした」
柊は竹籠を抱え直した。今朝は少し重い。昨夜、煮物を多めに作ったのと、父が土産に買ってきた饅頭を二つ、こっそり包んできた。
「今日は気配の練習をすると言っていましたね」
「食事の後でいい」
番小屋の中に入り、いつものように卓を挟んで向かい合う。朧は今日も几帳面に毛布を畳み、着物の乱れもなかった。
「昨夜は?」
「月を見ていた」
「一晩中?」
「そうなる」
柊は饅頭を取り出した。朧の前に置くと、朧は少し目を向けた。
「今日は違うものがある」
「饅頭です。甘いものは食べたことがありますか」
「わからない」
「食べてみてください」
朧は饅頭を手に取り、一口かじった。
止まった。
咀嚼が、一瞬遅くなった。
「……甘い」
「おいしいですか」
少し間があった。
「わからない。ただ、もう一口食べたくなる」
柊は笑った。
「それがおいしいということです」
朧は黙ってもう一口食べた。その動作が、心なしかいつもより早かった。柊はそれを見て、また笑いそうになるのをこらえた。
感情がわからないと言いながら、朧の体は正直だった。
食事の後、番小屋の前の開けた場所に出た。
朧は柊の前に立ち、少し距離を置いた。
「目を閉じろ」
「はい」
「俺がどこから近づくか、気配で判断する。感じたら声を出せ」
「わかりました」
目を閉じた。
山の音が広がった。葉擦れの音、遠くの鳥の声、土の匂い。普段は意識しない感覚が、前に出てくる。
しばらくして、何かが動いた気がした。
左。
「左」
「正解だ」
目を開けると、朧が左から近づいていた。
「もう一度」
また目を閉じる。今度は気配が、読めなかった。全く感知できないまま、急に右から声がした。
「右だ」
「全然わかりませんでした」
「俺が気配を消したからだ。今のは参考でいい。まずは消さない状態で感じることを練習する」
何度か繰り返した。五回やって、当たったのは三回だった。
「柊」
「はい」
「お前の霊力が低いのは事実だ。だがそれは感知能力の低さとは別の話だ」
「どういうことですか」
「霊力は攻撃や祓いに使う力だ。気配を感じるのは、霊力ではなく、本来人間が持っている感覚に近い。研ぎ澄ませば、霊力に依存しなくても感知できるようになる」
柊はその言葉を、ゆっくりと咀嚼した。
力がないから感じられない、と思っていた。ずっとそう思っていた。霊力の低さが、退魔師として致命的な欠陥だと。
「本当ですか」
「確かなことは言えない。ただ、お前は昨夜の怨狐のとき、俺が言う前に右の一体に気づいていた」
「そうでしたっけ」
「顔が向いていた。言葉にする前に、体が反応していた」
柊は思い出した。確かに、あのとき右に何かいると感じた。霊力で感知したのではなく、もっと本能的に。
「練習する価値はある」
「……ありがとうございます」
「礼を言うことか」
「朧さんが私の可能性を信じてくれているから」
朧は少し黙った。
「信じるというより、見たものを言っただけだ」
「それでも、嬉しいです」
朧は答えなかった。でも視線が、柊から少し外れた。照れているのか、と思ったが、朧に照れという感覚があるかどうかは、まだわからなかった。
昼前に、蒼真が来た。
山道を上ってくる気配に、柊が気づいたのは朧よりわずかに遅れてだった。でも気づいた。練習の成果かもしれないと、柊は思った。
「隠れてください」
「隠れる必要があるか」
「蒼真さんに見つかると、ややこしくなります」
「お前が判断するなら従う」
朧は番小屋の中に入り、戸を閉めた。
柊は山道の入口に向かった。蒼真はすぐに姿を現した。
「こんなところで何をしている」
「散歩です」
「嘘をつくな。ここは父上の管理地だろう。何かあるのか」
さすがに鋭い。柊は内心で舌を巻きながら、蒼真の前に立った。
「修行の場所を探していただけです」
「一人でか」
「はい」
蒼真は柊を見た。それから、番小屋を見た。
「あの小屋に誰かいるか」
「いません」
「気配がある」
「獣かもしれないです」
「獣の気配じゃない」
蒼真が番小屋に向かって歩き出した。柊は咄嗟に前に出た。
「蒼真さん」
「退け」
「退きません」
蒼真が止まった。柊を見る。その目に驚きがあった。柊がこんなに強く言うのは、珍しかった。
「柊」
「私のことを心配してくれているのはわかります。でも、私には私の判断があります」
「その判断が心配なんだ」
「そうかもしれない。でも私は、間違っていないと思っています」
二人の間に、沈黙が落ちた。
蒼真は長い間、柊を見ていた。何かを測るように。何かを確かめるように。
「……その人間がお前を傷つけたら」
「傷つけません」
「どうしてそう言い切れる」
「五日間、一緒にいました。それだけです」
たった五日間、と言われればそれまでだ。柊にもわかっていた。論理的な根拠はない。朧が何者かも、まだわかっていない。
それでも。
「信じています」
蒼真は目を閉じた。
深く息をついて、また開いた。
「……お前は昔から、そうだった」
低く、言った。
「一度信じると決めたら、曲げない。小さい頃から」
「蒼真さん」
「俺はお前を守りたい。それだけだ」
声に、滲むものがあった。柊は胸が痛くなった。蒼真はいつも、こうだ。怒っているようで、心配している。拒絶しているようで、傍にいようとしている。
「……ありがとうございます」
「礼を言うな。俺が勝手にしていることだ」
蒼真は踵を返した。山道を下りながら、一度だけ振り返った。
「何かあれば、すぐ連絡しろ。今度は問答無用で来る」
「はい」
背中が木々の間に消えた。
柊は深く息をついた。
番小屋の戸が、静かに開いた。
「聞こえていましたか」
「聞こえた」
朧が外に出た。
柊の隣に立ち、蒼真が去った方向を見た。
「あの男は、お前のために引いた」
「そうですね」
「それがどれほどのことか、わかるか」
「……蒼真さんは、正しいと思ったことは曲げない人です。私を信じるために、自分の判断を抑えた」
「お前への気持ちが、それだけ強い」
柊は返事をしなかった。
朧は続けた。
「俺は問う資格がないかもしれない。だが、なぜあの男ではなく俺を選んだ」
柊は少し驚いた。朧がそういう問いをするとは、思っていなかった。
「選んだというより」
「俺を信じると言った。あの男に対して」
「……はい」
「なぜだ」
柊は朧を見た。
朧は柊を見ていた。感情の読めない銀色の目。でも今は、その奥に何か問いかけるものがあった。
「朧さんが最初に私を救ったとき、あなたは何も見返りを求めませんでした」
「契りがあったからだ」
「契りを知ったのは、後からでしょう。あのとき、私を抱き止めたのは、契りとは関係ない」
朧は黙った。
「打算でも、義務でもなく、あなたは私を受け止めた。それだけで十分でした」
風が吹いた。山の空気が、二人の間を抜けていった。
朧はしばらく黙っていた。
「俺には、なぜそうしたのかわからない」
「わからなくていいです」
「なぜ」
「わからなくても、あなたがしてくれたことは変わらないから」
朧は柊から目を離し、山の奥を見た。
長い沈黙が続いた。
やがて、朧は言った。
「俺はお前を、守りたいと思っている」
静かな声だった。
感情の名前を覚えたばかりの男が、自分で選んだ言葉。
「それが何から来るのかわからない。契りのせいかもしれない。ただ、消えてほしくないと思う。お前が」
柊は返事ができなかった。
胸の奥が、じわりと熱くなった。さっきまでとは違う、もっと深いところが。
「朧さん」
「なんだ」
「私も同じです」
朧が柊を見た。
「あなたに、消えてほしくない」
風がまた吹いた。山の木々が揺れた。
朧は何も言わなかった。でも視線が、どこか遠くへ行かなかった。柊のところに、留まっていた。
守る理由なんて、最初はなかった。命が繋がっているから、打算だから、そう言い続けた。
でも今この瞬間、柊にはっきりとわかっていた。
それはもう、打算ではなかった。



