朝靄の中、山道を登りながら、柊は竹籠を抱えていた。
中には握り飯が三つと、魚の塩焼き、それから昨夜の残りの煮物が入っている。父も母も、柊が早起きして山に散歩に行くと言ったことを特に疑わなかった。退魔師の修行の一環だと思ったのかもしれない。
番小屋の戸を、柊は軽く叩いた。
「朧さん、柊です」
しばらくして、戸が開いた。
朧が立っていた。昨夜と同じ着物のまま、髪がほんの少し乱れていた。それ以外は、昨日と変わらない。
「おはようございます」
「ああ」
「眠れましたか」
「昨夜も、わからなかった」
柊は中に入り、竹籠を小さな卓に置いた。番小屋の中は、思ったより落ち着いていた。持ってきた毛布が端正に畳まれ、替えの着物も几帳面に折りたたまれて隅に置かれている。
「きちんとしているんですね」
「そうか」
「几帳面な人だと思います」
「几帳面という意味がわからない」
柊は握り飯を広げながら、朧の言葉を反芻した。几帳面の意味がわからない。でも行動は几帳面だ。言葉と感覚が、いつもどこかでずれている。
「丁寧にものを扱う、という意味です。朧さんは、道具でも着物でも、乱暴に扱わないでしょう」
「……そうか」
朧は卓の前に座り、握り飯を手に取った。昨日より迷いのない動作だった。
「冷めていますが、すみません」
「温かさが残っている」
一口食べて、朧は静かに咀嚼した。柊も向かいに座り、自分の分を食べる。
朝の山は静かだった。鳥の声が遠くから届いて、木々が風に揺れる音がする。番小屋の小さな窓から、朝靄に霞む山の稜線が見えた。
「ひとつ聞いてもいいですか」
「答えられるものなら」
「昨夜、眠れなかったとき、何を考えていましたか」
朧は手を止めた。
少し間があって、また食べ始めた。
「考える、というのがどういうことかわからない。ただ、いろいろなものが頭の中を通り過ぎた」
「どんなものが」
「月。廃社の夜。お前の声」
柊は顔を上げた。
「私の、声?」
「名前を付けると言ったときの声だ。朧、と呼ぶときの。頭の中で何度も、繰り返した」
朧は平然と言った。恥ずかしげもなく、かといって誇るでもなく、ただ事実として。
柊の方が、耳が熱くなった。
「それは……その、眠れない間の暇つぶしみたいなものですか」
「暇という感覚もわからない。ただ、繰り返すと、何かが静まる気がした」
「静まる」
「胸の奥が、ざわついていた。あの声を思い出すと、それが収まった」
柊は握り飯を膝に置いた。
朧の言葉を、ゆっくりと飲み込む。感情の名前を知らない男が、自分の内側で起きていることを、こんなにも丁寧に言葉にする。
胸の奥が静まる。
それはきっと、安心という名前だ。
「朧さん」
「なんだ」
「それは、安心という感覚だと思います」
朧は柊を見た。
「安心」
「誰かのそばにいて、怖くなくなること。緊張がほぐれること。胸が静まること。それを安心と言います」
朧はしばらく、その言葉を噛みしめるように黙っていた。
「安心」
もう一度繰り返した。自分のものにしようとするように。
「お前の声で、安心するのか」
「そうみたいですね」
「……そうか」
朧は窓の外を見た。
柊も窓の外を見た。朝靄が少しずつ晴れて、山の緑が鮮やかになってきていた。
ふたりで黙って、それを見た。
食事を終えて、柊が竹籠を片付けていると、朧が言った。
「柊」
名前を、呼ばれた。
いつもは「お前」と言う。「柊」と呼んだのは、これが初めてだった。
柊は振り返った。
「はい」
「昨日、蒼真という男が言っていた。強くなりたいなら鍛えろ、と」
「……直接そうは言っていないですが、まあそういうことですね」
「俺に教えられることがあるかわからない。だが、お前があやかしと対峙するとき、判断が遅い」
柊は少し、虚を突かれた。
「判断が遅い、というのは」
「昨夜も、四体目に気づいたとき、体が固まっていた。気配を察知してから式紙を構えるまでに、間があった」
的確だった。言われれば確かにそうだ。気配に気づいてから、柊は一瞬躊躇する癖があった。自分の判断に自信がないから、もう一度確かめようとする。
「鍛えるというより、慣れの問題だ。毎朝少し、気配の読み方を練習するか」
「……朧さんが、教えてくれるんですか」
「できることとできないことがある。霊力を高めることはできない。だが、感覚を研ぎ澄ます手助けくらいはできるかもしれない」
柊は朧を見た。
昨日、任務のことで自分を責めすぎると言った。今日は、練習を提案した。
感情がわからないと言いながら、この人は。
「……嬉しいです」
「嬉しい?」
「誰かに助けてもらえると思うと、嬉しくなります。それが嬉しいという感覚です」
朧は少し、考えるように間を置いた。
「俺に、教えるつもりか」
「お互い様です。朧さんに感情の名前を教えて、朧さんに気配の読み方を教えてもらう」
朧はそれを聞いて、何も言わなかった。
でも、視線が少しだけ変わった気がした。いつもの無表情の中に、何か微かなものが滲んだ。
柊はそれに名前をつけようとして、やめた。
まだ早い、と思った。
その日の夕方、柊は夕食を届けに番小屋に戻った。
戸を開けると、朧は窓際に座っていた。膝の上に、何かを置いている。
近づいてみると、小さな木切れだった。
「それは?」
「拾った。形が面白かった」
柊は木切れを覗き込んだ。確かに、ちょうど鳥のような形をしていた。偶然そうなった流木のようなもので、翼を広げた鳥に見える。
「かわいいですね」
「かわいい、か」
「小さくて、愛らしいものをかわいいと言います。朧さんはどう感じましたか」
「面白い、と言った」
「面白いと、かわいいは少し違います」
「どう違う」
柊は少し考えた。
「面白いは、頭で思うことで、かわいいは、胸で感じることです」
「胸で感じる」
「何かを見て、大切にしたくなる気持ち。守りたくなる気持ち。そういうのがかわいいに近いです」
朧は木切れを見た。
しばらくして、言った。
「……ならかわいい、かもしれない」
大切にしたくなった、ということか。
柊は笑った。朧が感情の言葉を自分で選んだのは、これが初めてだった。教えた言葉をそのまま使うのではなく、自分で考えて、選んだ。
「笑うな」
「笑ってないです」
「笑っている」
「……少しだけ」
朧は木切れを手の中で転がした。
「これは、何に見える」
「鳥です。翼を広げた鳥」
「そうか」
「朧さんには何に見えましたか」
「最初は、わからなかった。ただ手に取りたくなった」
手に取りたくなった。
柊はそれを聞いて、また笑いそうになるのをこらえた。
感情の名前は知らなくても、朧の体はちゃんと感じている。引き寄せられるものがある。美しいと思うものがある。大切にしたいものがある。
それは確かに、心の動きだ。
「朧さん」
「なんだ」
「今日、初めて私の名前を呼んでくれましたね」
朧は少し間を置いた。
「そうだったか」
「気づいていなかったんですか」
「……自然にそうなった」
柊は夕食の包みを卓に置きながら、小さく笑った。
「嬉しかったです」
朧は木切れを窓際に置いた。鳥が飛び立つように翼を向けて、そこに飾るように。
「そうか」
短い返事だった。
でも今夜の朧の声は、昨日より少しだけ温かく聞こえた。気のせいかもしれない。でも柊の耳には、確かにそう届いた。
山を下りながら、柊は夕陽の中を歩いた。
今日、朧は安心という言葉を覚えた。かわいいという言葉を自分で選んだ。そして柊の名前を、自然に呼んだ。
小さなことだ。
でも柊にとっては、小さくなかった。
胸の奥に、じわりと温かいものが広がっていた。それが何なのか、柊はまだ名前をつけなかった。
ただ、夕陽が今日はいつもより少しきれいに見えた。
それだけが、今夜の柊の、正直なところだった。
中には握り飯が三つと、魚の塩焼き、それから昨夜の残りの煮物が入っている。父も母も、柊が早起きして山に散歩に行くと言ったことを特に疑わなかった。退魔師の修行の一環だと思ったのかもしれない。
番小屋の戸を、柊は軽く叩いた。
「朧さん、柊です」
しばらくして、戸が開いた。
朧が立っていた。昨夜と同じ着物のまま、髪がほんの少し乱れていた。それ以外は、昨日と変わらない。
「おはようございます」
「ああ」
「眠れましたか」
「昨夜も、わからなかった」
柊は中に入り、竹籠を小さな卓に置いた。番小屋の中は、思ったより落ち着いていた。持ってきた毛布が端正に畳まれ、替えの着物も几帳面に折りたたまれて隅に置かれている。
「きちんとしているんですね」
「そうか」
「几帳面な人だと思います」
「几帳面という意味がわからない」
柊は握り飯を広げながら、朧の言葉を反芻した。几帳面の意味がわからない。でも行動は几帳面だ。言葉と感覚が、いつもどこかでずれている。
「丁寧にものを扱う、という意味です。朧さんは、道具でも着物でも、乱暴に扱わないでしょう」
「……そうか」
朧は卓の前に座り、握り飯を手に取った。昨日より迷いのない動作だった。
「冷めていますが、すみません」
「温かさが残っている」
一口食べて、朧は静かに咀嚼した。柊も向かいに座り、自分の分を食べる。
朝の山は静かだった。鳥の声が遠くから届いて、木々が風に揺れる音がする。番小屋の小さな窓から、朝靄に霞む山の稜線が見えた。
「ひとつ聞いてもいいですか」
「答えられるものなら」
「昨夜、眠れなかったとき、何を考えていましたか」
朧は手を止めた。
少し間があって、また食べ始めた。
「考える、というのがどういうことかわからない。ただ、いろいろなものが頭の中を通り過ぎた」
「どんなものが」
「月。廃社の夜。お前の声」
柊は顔を上げた。
「私の、声?」
「名前を付けると言ったときの声だ。朧、と呼ぶときの。頭の中で何度も、繰り返した」
朧は平然と言った。恥ずかしげもなく、かといって誇るでもなく、ただ事実として。
柊の方が、耳が熱くなった。
「それは……その、眠れない間の暇つぶしみたいなものですか」
「暇という感覚もわからない。ただ、繰り返すと、何かが静まる気がした」
「静まる」
「胸の奥が、ざわついていた。あの声を思い出すと、それが収まった」
柊は握り飯を膝に置いた。
朧の言葉を、ゆっくりと飲み込む。感情の名前を知らない男が、自分の内側で起きていることを、こんなにも丁寧に言葉にする。
胸の奥が静まる。
それはきっと、安心という名前だ。
「朧さん」
「なんだ」
「それは、安心という感覚だと思います」
朧は柊を見た。
「安心」
「誰かのそばにいて、怖くなくなること。緊張がほぐれること。胸が静まること。それを安心と言います」
朧はしばらく、その言葉を噛みしめるように黙っていた。
「安心」
もう一度繰り返した。自分のものにしようとするように。
「お前の声で、安心するのか」
「そうみたいですね」
「……そうか」
朧は窓の外を見た。
柊も窓の外を見た。朝靄が少しずつ晴れて、山の緑が鮮やかになってきていた。
ふたりで黙って、それを見た。
食事を終えて、柊が竹籠を片付けていると、朧が言った。
「柊」
名前を、呼ばれた。
いつもは「お前」と言う。「柊」と呼んだのは、これが初めてだった。
柊は振り返った。
「はい」
「昨日、蒼真という男が言っていた。強くなりたいなら鍛えろ、と」
「……直接そうは言っていないですが、まあそういうことですね」
「俺に教えられることがあるかわからない。だが、お前があやかしと対峙するとき、判断が遅い」
柊は少し、虚を突かれた。
「判断が遅い、というのは」
「昨夜も、四体目に気づいたとき、体が固まっていた。気配を察知してから式紙を構えるまでに、間があった」
的確だった。言われれば確かにそうだ。気配に気づいてから、柊は一瞬躊躇する癖があった。自分の判断に自信がないから、もう一度確かめようとする。
「鍛えるというより、慣れの問題だ。毎朝少し、気配の読み方を練習するか」
「……朧さんが、教えてくれるんですか」
「できることとできないことがある。霊力を高めることはできない。だが、感覚を研ぎ澄ます手助けくらいはできるかもしれない」
柊は朧を見た。
昨日、任務のことで自分を責めすぎると言った。今日は、練習を提案した。
感情がわからないと言いながら、この人は。
「……嬉しいです」
「嬉しい?」
「誰かに助けてもらえると思うと、嬉しくなります。それが嬉しいという感覚です」
朧は少し、考えるように間を置いた。
「俺に、教えるつもりか」
「お互い様です。朧さんに感情の名前を教えて、朧さんに気配の読み方を教えてもらう」
朧はそれを聞いて、何も言わなかった。
でも、視線が少しだけ変わった気がした。いつもの無表情の中に、何か微かなものが滲んだ。
柊はそれに名前をつけようとして、やめた。
まだ早い、と思った。
その日の夕方、柊は夕食を届けに番小屋に戻った。
戸を開けると、朧は窓際に座っていた。膝の上に、何かを置いている。
近づいてみると、小さな木切れだった。
「それは?」
「拾った。形が面白かった」
柊は木切れを覗き込んだ。確かに、ちょうど鳥のような形をしていた。偶然そうなった流木のようなもので、翼を広げた鳥に見える。
「かわいいですね」
「かわいい、か」
「小さくて、愛らしいものをかわいいと言います。朧さんはどう感じましたか」
「面白い、と言った」
「面白いと、かわいいは少し違います」
「どう違う」
柊は少し考えた。
「面白いは、頭で思うことで、かわいいは、胸で感じることです」
「胸で感じる」
「何かを見て、大切にしたくなる気持ち。守りたくなる気持ち。そういうのがかわいいに近いです」
朧は木切れを見た。
しばらくして、言った。
「……ならかわいい、かもしれない」
大切にしたくなった、ということか。
柊は笑った。朧が感情の言葉を自分で選んだのは、これが初めてだった。教えた言葉をそのまま使うのではなく、自分で考えて、選んだ。
「笑うな」
「笑ってないです」
「笑っている」
「……少しだけ」
朧は木切れを手の中で転がした。
「これは、何に見える」
「鳥です。翼を広げた鳥」
「そうか」
「朧さんには何に見えましたか」
「最初は、わからなかった。ただ手に取りたくなった」
手に取りたくなった。
柊はそれを聞いて、また笑いそうになるのをこらえた。
感情の名前は知らなくても、朧の体はちゃんと感じている。引き寄せられるものがある。美しいと思うものがある。大切にしたいものがある。
それは確かに、心の動きだ。
「朧さん」
「なんだ」
「今日、初めて私の名前を呼んでくれましたね」
朧は少し間を置いた。
「そうだったか」
「気づいていなかったんですか」
「……自然にそうなった」
柊は夕食の包みを卓に置きながら、小さく笑った。
「嬉しかったです」
朧は木切れを窓際に置いた。鳥が飛び立つように翼を向けて、そこに飾るように。
「そうか」
短い返事だった。
でも今夜の朧の声は、昨日より少しだけ温かく聞こえた。気のせいかもしれない。でも柊の耳には、確かにそう届いた。
山を下りながら、柊は夕陽の中を歩いた。
今日、朧は安心という言葉を覚えた。かわいいという言葉を自分で選んだ。そして柊の名前を、自然に呼んだ。
小さなことだ。
でも柊にとっては、小さくなかった。
胸の奥に、じわりと温かいものが広がっていた。それが何なのか、柊はまだ名前をつけなかった。
ただ、夕陽が今日はいつもより少しきれいに見えた。
それだけが、今夜の柊の、正直なところだった。



