三日目の朝は、雨だった。
細い雨が、庭の梅の木を濡らしていた。白い花びらが雨粒の重みに耐えかねて、一枚、また一枚と落ちていく。縁側から眺めながら、柊は温かい茶を両手で包んでいた。
隣に、朧がいた。
今朝はいつになく、朧が先に起きていた。柊が目を覚ますと、朧はすでに縁側に座って、雨の庭を見ていた。
「おはようございます」
「ああ」
それだけだった。でもそれだけで、柊は十分だと思っていた。
三日間、一緒にいた。ごはんを食べ、縁側に座り、夜はそれぞれ別の部屋で、朧なりの方法で夜を明かした。言葉は少なく、笑いもなく、それでも不思議と息苦しくなかった。
今日、両親が帰ってくる。
柊は茶を一口飲んだ。
「朧さん」
「なんだ」
「今日、父と母が戻ります」
雨の音だけが、しばらく続いた。
「出ていく」
「……そう、ですね。このままここにいるわけには」
「わかっている」
朧は静かに答えた。責める様子も、困惑する様子もなかった。最初からそのつもりだったように、あっさりと。
柊はその横顔を見た。
「行くあてはありますか」
「ない」
「どうするんですか」
「適当に、どこかにいる」
適当に、どこかに。記憶もなく、行き場もなく、それでもそんなふうに言える朧が、柊には不思議だった。怖くないのか、と聞こうとして、やめた。朧には恐怖という感覚もわからないのかもしれない。
「……近くにいてもらえますか」
口をついて出た言葉だった。
「命が繋がっているから、あなたが遠くへ行ってしまったら困ります。この辺りで、どこか身を隠せる場所を探します。昼間は誰もいない場所で、私が食事を届けに行きます」
「なぜそこまでする」
「打算です」
三度目の、その言葉。
今度は朧も、柊が本気で打算と思っていないことをわかっているだろうと、柊は思った。言いながら、自分でもそれを知っていた。
朧は雨の庭に目を戻した。
「廃社がある」
「あの、先日の任務の?」
「あやかしは既に祓われた。人も来ないだろう。あそこでいい」
「あんな荒れた場所では……」
「雨露がしのげれば十分だ。寒くもない」
柊は思い出した。朧は痛みも空腹も、感覚があやふやだ。寒さもそうかもしれない。
でも。
「それは嫌です」
「なぜ」
「なんとなく」
朧は柊を見た。
「なんとなく、は理由にならない」
「理由はうまく言えないんですが」
柊は膝に視線を落とした。
「荒れ果てた場所に一人でいるのを想像すると、嫌な気持ちになります。それだけです」
沈黙が落ちた。
雨が少し強くなった。庭の砂利が、雨粒に叩かれてぱらぱらと音を立てた。
「……ならどこがいい」
朧が言った。
柊は顔を上げた。折れた、というわけでもないだろう。ただ、柊の言葉を受け取った。そういう声だった。
「少し考えます。今日中に見つけます」
「わかった」
茶が冷めていた。柊は立ち上がり、温め直しに行こうとして、ふと立ち止まった。
「朧さん」
「なんだ」
「その名前、気に入ってもらえていますか」
朧はしばらく黙っていた。
「気に入るという感覚がわからない」
「そうですよね」
「ただ」
続きがあった。柊は振り返った。
「呼ばれると、返したくなる。それだけはわかる」
朧は雨を見ていた。柊の方は見ていなかった。でもその横顔が、いつもより少しだけ、柔らかく見えた。気のせいかもしれない。
柊は小さく笑った。
「それで十分です」
午前中のうちに、柊は場所を見つけた。
家から山道を十分ほど登った先に、使われなくなった番小屋がある。もとは山の見張り番が使っていたもので、今は物置代わりだが、屋根はしっかりしていて、雨漏りもない。父の管理する土地なので、他人が入ってくることもなかった。
昼前に朧を連れて確認しに行くと、朧は中を一度見渡し、「問題ない」と言った。
「布団を持ってきます。食事も、一日一回は届けます」
「手間をかける」
「いいんです」
番小屋の小さな窓から、山の斜面が見えた。雨の中、木々が静かに濡れている。
「景色は悪くないですね」
「そうか」
「雨の山も、きれいでしょう」
「きれいか」
朧は窓の外を見た。柊も並んで見た。
「きれいという感覚がわからなくても、見ていたくなることはありますか」
「……ある」
「それがきれいということだと思います」
朧は少し黙っていた。
「月を見ているとき、目を離したくなくなる」
「じゃあ朧さんにとって、月はきれいなんですね」
「そうなのかもしれない」
不思議なことを言う人だ、と柊は思った。感情がわからないと言いながら、感じていることを丁寧に言葉にする。ただその言葉と感覚の間に、人間なら当たり前に持っているはずの名前が、朧には欠けているだけで。
感情がないのではなく、感情の名前を知らないだけなのかもしれない。
柊はそう思った。
夕方、両親が帰る前に、朧は番小屋に移った。
柊は毛布と替えの着物を抱えて、一緒に山道を歩いた。雨は昼過ぎに上がり、濡れた葉が夕陽を反射してきらきらしていた。
番小屋の前で、柊は荷物を渡した。朧はそれを受け取り、中に入れた。
「何かあれば、ここに来ます」
「わかった」
「困ったことがあれば、何でも言ってください」
「困るという感覚がわかれば、そうする」
柊は苦笑した。
「朧さん」
「なんだ」
「明日の朝、朝ごはんを持ってきてもいいですか」
朧は一瞬、間を置いた。
「好きにしろ」
柊は笑った。今度は苦笑ではなく、自然に笑えた。
「じゃあ、おやすみなさい」
「……ああ」
山道を下りながら、柊は振り返った。
番小屋の入口に、朧が立っていた。こちらを見ていた。夕陽の逆光の中で、その輪郭が少し滲んで見えた。
柊は手を振った。
朧は、動かなかった。
でも視線はついてきた。柊が木々の間に入って見えなくなるまで、ずっと。
夜、柊は書棚の前に座った。
昼間に見つけた黒い本を、再び開く。
崩し字を辿りながら、続きを読んだ。月喰い、という言葉が繰り返し出てきた。
──月を喰らうものは、災厄の象徴なり。かつて人里に現れ、月光を操りて多くを滅ぼしたという。その力は霊力にも妖力にも属さず、月そのものを源とする。
柊は頁をめくった。
──討伐叶わず、ある一族の手により封印されたという記録あり。その一族の名は──
そこで文字が滲んでいた。
水に濡れたのか、あるいは意図的に消されたのか、一族の名だけが読めなかった。
柊は本を閉じた。
胸の中に、ざわめきが生まれた。
月喰い。月光を操る力。記憶がなく、感情がなく、月を見ると目を離せなくなる男。
まだ確かなことは何もない。
でも夜の静寂の中で、柊はひとつだけ、はっきりしていることを確かめた。
朧、と呼べば、返ってくる。
それだけでいいと、思っていた。
少なくとも今夜は、まだ。
柊は本を書棚に戻し、行燈の灯りを落とした。
山の方角を向いて、目を閉じた。
番小屋で、朧は今夜も眠れない夜を過ごしているだろう。月を見ながら、目を離せないでいるだろう。
──おやすみなさい、朧さん。
声に出さずに呟いて、柊は眠りについた。
雨上がりの夜空に、月がゆっくりと昇っていった。
細い雨が、庭の梅の木を濡らしていた。白い花びらが雨粒の重みに耐えかねて、一枚、また一枚と落ちていく。縁側から眺めながら、柊は温かい茶を両手で包んでいた。
隣に、朧がいた。
今朝はいつになく、朧が先に起きていた。柊が目を覚ますと、朧はすでに縁側に座って、雨の庭を見ていた。
「おはようございます」
「ああ」
それだけだった。でもそれだけで、柊は十分だと思っていた。
三日間、一緒にいた。ごはんを食べ、縁側に座り、夜はそれぞれ別の部屋で、朧なりの方法で夜を明かした。言葉は少なく、笑いもなく、それでも不思議と息苦しくなかった。
今日、両親が帰ってくる。
柊は茶を一口飲んだ。
「朧さん」
「なんだ」
「今日、父と母が戻ります」
雨の音だけが、しばらく続いた。
「出ていく」
「……そう、ですね。このままここにいるわけには」
「わかっている」
朧は静かに答えた。責める様子も、困惑する様子もなかった。最初からそのつもりだったように、あっさりと。
柊はその横顔を見た。
「行くあてはありますか」
「ない」
「どうするんですか」
「適当に、どこかにいる」
適当に、どこかに。記憶もなく、行き場もなく、それでもそんなふうに言える朧が、柊には不思議だった。怖くないのか、と聞こうとして、やめた。朧には恐怖という感覚もわからないのかもしれない。
「……近くにいてもらえますか」
口をついて出た言葉だった。
「命が繋がっているから、あなたが遠くへ行ってしまったら困ります。この辺りで、どこか身を隠せる場所を探します。昼間は誰もいない場所で、私が食事を届けに行きます」
「なぜそこまでする」
「打算です」
三度目の、その言葉。
今度は朧も、柊が本気で打算と思っていないことをわかっているだろうと、柊は思った。言いながら、自分でもそれを知っていた。
朧は雨の庭に目を戻した。
「廃社がある」
「あの、先日の任務の?」
「あやかしは既に祓われた。人も来ないだろう。あそこでいい」
「あんな荒れた場所では……」
「雨露がしのげれば十分だ。寒くもない」
柊は思い出した。朧は痛みも空腹も、感覚があやふやだ。寒さもそうかもしれない。
でも。
「それは嫌です」
「なぜ」
「なんとなく」
朧は柊を見た。
「なんとなく、は理由にならない」
「理由はうまく言えないんですが」
柊は膝に視線を落とした。
「荒れ果てた場所に一人でいるのを想像すると、嫌な気持ちになります。それだけです」
沈黙が落ちた。
雨が少し強くなった。庭の砂利が、雨粒に叩かれてぱらぱらと音を立てた。
「……ならどこがいい」
朧が言った。
柊は顔を上げた。折れた、というわけでもないだろう。ただ、柊の言葉を受け取った。そういう声だった。
「少し考えます。今日中に見つけます」
「わかった」
茶が冷めていた。柊は立ち上がり、温め直しに行こうとして、ふと立ち止まった。
「朧さん」
「なんだ」
「その名前、気に入ってもらえていますか」
朧はしばらく黙っていた。
「気に入るという感覚がわからない」
「そうですよね」
「ただ」
続きがあった。柊は振り返った。
「呼ばれると、返したくなる。それだけはわかる」
朧は雨を見ていた。柊の方は見ていなかった。でもその横顔が、いつもより少しだけ、柔らかく見えた。気のせいかもしれない。
柊は小さく笑った。
「それで十分です」
午前中のうちに、柊は場所を見つけた。
家から山道を十分ほど登った先に、使われなくなった番小屋がある。もとは山の見張り番が使っていたもので、今は物置代わりだが、屋根はしっかりしていて、雨漏りもない。父の管理する土地なので、他人が入ってくることもなかった。
昼前に朧を連れて確認しに行くと、朧は中を一度見渡し、「問題ない」と言った。
「布団を持ってきます。食事も、一日一回は届けます」
「手間をかける」
「いいんです」
番小屋の小さな窓から、山の斜面が見えた。雨の中、木々が静かに濡れている。
「景色は悪くないですね」
「そうか」
「雨の山も、きれいでしょう」
「きれいか」
朧は窓の外を見た。柊も並んで見た。
「きれいという感覚がわからなくても、見ていたくなることはありますか」
「……ある」
「それがきれいということだと思います」
朧は少し黙っていた。
「月を見ているとき、目を離したくなくなる」
「じゃあ朧さんにとって、月はきれいなんですね」
「そうなのかもしれない」
不思議なことを言う人だ、と柊は思った。感情がわからないと言いながら、感じていることを丁寧に言葉にする。ただその言葉と感覚の間に、人間なら当たり前に持っているはずの名前が、朧には欠けているだけで。
感情がないのではなく、感情の名前を知らないだけなのかもしれない。
柊はそう思った。
夕方、両親が帰る前に、朧は番小屋に移った。
柊は毛布と替えの着物を抱えて、一緒に山道を歩いた。雨は昼過ぎに上がり、濡れた葉が夕陽を反射してきらきらしていた。
番小屋の前で、柊は荷物を渡した。朧はそれを受け取り、中に入れた。
「何かあれば、ここに来ます」
「わかった」
「困ったことがあれば、何でも言ってください」
「困るという感覚がわかれば、そうする」
柊は苦笑した。
「朧さん」
「なんだ」
「明日の朝、朝ごはんを持ってきてもいいですか」
朧は一瞬、間を置いた。
「好きにしろ」
柊は笑った。今度は苦笑ではなく、自然に笑えた。
「じゃあ、おやすみなさい」
「……ああ」
山道を下りながら、柊は振り返った。
番小屋の入口に、朧が立っていた。こちらを見ていた。夕陽の逆光の中で、その輪郭が少し滲んで見えた。
柊は手を振った。
朧は、動かなかった。
でも視線はついてきた。柊が木々の間に入って見えなくなるまで、ずっと。
夜、柊は書棚の前に座った。
昼間に見つけた黒い本を、再び開く。
崩し字を辿りながら、続きを読んだ。月喰い、という言葉が繰り返し出てきた。
──月を喰らうものは、災厄の象徴なり。かつて人里に現れ、月光を操りて多くを滅ぼしたという。その力は霊力にも妖力にも属さず、月そのものを源とする。
柊は頁をめくった。
──討伐叶わず、ある一族の手により封印されたという記録あり。その一族の名は──
そこで文字が滲んでいた。
水に濡れたのか、あるいは意図的に消されたのか、一族の名だけが読めなかった。
柊は本を閉じた。
胸の中に、ざわめきが生まれた。
月喰い。月光を操る力。記憶がなく、感情がなく、月を見ると目を離せなくなる男。
まだ確かなことは何もない。
でも夜の静寂の中で、柊はひとつだけ、はっきりしていることを確かめた。
朧、と呼べば、返ってくる。
それだけでいいと、思っていた。
少なくとも今夜は、まだ。
柊は本を書棚に戻し、行燈の灯りを落とした。
山の方角を向いて、目を閉じた。
番小屋で、朧は今夜も眠れない夜を過ごしているだろう。月を見ながら、目を離せないでいるだろう。
──おやすみなさい、朧さん。
声に出さずに呟いて、柊は眠りについた。
雨上がりの夜空に、月がゆっくりと昇っていった。



