その夜、あやかしが出た。
柊が気づいたのは、夕食の片付けを終えた頃だった。庭の結界石が、かすかに軋む音がした。硝子越しに外を見ると、梅の木の影が不自然に揺れている。風のない夜だった。
「朧さん」
振り返ると、朧はすでに立っていた。
目が、庭の方を向いている。
「来ている」
「複数、ですか」
「三。全部、下位だ」
霊力の乏しい柊には感知できない数と種別を、朧は即座に答えた。昨夜の鴉天狗とは格が違うが、柊が単独で三体を相手にするのは、やはり厳しい。
「私が行きます。朧さんは」
「行く」
「でも、体は」
「問題ない」
朧は縁側に出た。草履を履く動作が、昨日より迷いなかった。柊も式紙を懐に収め、後に続く。
庭に出た瞬間、瘴気が肌を刺した。
三体は木々の影に潜んでいた。狐に似た形をしているが、目が三つあり、尾が腐っている。怨狐と呼ばれる類のあやかしで、単体では弱いが、群れると厄介だった。
「柊」
朧が低く言った。
「お前は右を見ていろ。そちらに一体、隠れている」
言われた方向を見る。確かに気配がある。木の陰に溶け込んでいるが、よく目を凝らすと輪郭が滲んでいた。
「わかりました」
式紙を構える。柊の霊力では完全に祓い切れないかもしれないが、足止めくらいはできる。
朧は残り二体の方へ、無言で歩いていった。
右の一体に向かって、柊は式紙を投じた。
命中した。怨狐が甲高い声を上げ、動きを止める。霊力を込めた式紙は、あやかしの動きを一時的に封じる効果がある。完全な祓いには足りなくても、拘束くらいはできた。
隙を突いて、追加の式紙を重ねる。二枚、三枚。
怨狐が地に伏した。瘴気が薄れ、形が崩れる。完全に消滅はしていないが、今夜中に自力で回復するほどの力はないだろう。
「……できた」
息をついたとき、背後で音がした。
振り返ると、四体目がいた。
報告になかった一体。柊の背後に回り込んでいた怨狐が、低く唸りながらじりじりと近づいてくる。式紙を構えようとしたが、三体分を使ってほとんど残っていなかった。
懐を探る。二枚。霊力も消耗している。
狙いを定めて投じた。しかし焦りがあったか、狙いが外れた。式紙は怨狐の肩を掠めただけで、効果が薄い。怨狐が跳んだ。
──間に合わない。
そう思った瞬間、横から風が来た。
朧だった。
柊の前に立ち、片腕を怨狐に向ける。青白い光が滲んだ。それだけで、怨狐が止まった。呻き声を上げ、後退し、そのまま霧のように散った。
静寂が戻った。
朧は柊を振り返った。
「怪我は」
「……ないです。ありがとうございます」
「式紙が足りなかった」
「はい。四体いるとわかっていれば、もう少し持ってきたんですが」
「俺が三と言ったのは誤りだった。気配を読み違えた」
謝罪ではなかった。事実の報告だった。でもその言葉の中に、柊には微かな何かが聞こえた気がした。
「朧さんのせいじゃないです。私が確認を怠りました」
「お前は自分を責めすぎる」
唐突な言葉に、柊は目を瞬かせた。
「……そうですか?」
「任務の失敗も、今夜のことも、まず自分に非があると結論付ける。なぜだ」
柊は答えに詰まった。
なぜ、と言われても。それが当たり前だと思っていた。力のない自分が失敗するのは、努力が足りないからだと。
「考えたことがなかったです」
「そうか」
朧はそれ以上追わなかった。庭を一度見渡し、残滓がないことを確認してから、縁側へ戻っていく。
柊はその背中を見ながら、胸の中に小さな棘が刺さったような感覚を覚えた。痛くはない。でも確かにそこにある。
縁側で、柊は膝の擦り傷に気づいた。
怨狐に跳びかかられた瞬間、とっさに体勢を低くしたときについたのだろう。大した傷ではないが、着物の膝が薄く汚れていた。
「また怪我した」
苦笑しながら立ち上がろうとすると、朧が隣に腰を下ろしてきた。
「見せろ」
「え」
「傷だ」
有無を言わさず、膝に手が伸びてきた。
着物の裾をめくり、傷を確認する。朧の指が、傷の周囲をそっと触れた。
「深くはない」
「はい。大丈夫です」
「大丈夫という言葉も、お前はよく使う」
「……使いますか」
「大丈夫じゃないときでも使う」
柊は言葉に詰まった。朧は表情一つ変えずに傷を見ていたが、その指の動きは丁寧だった。痛みに気を使うような、静かな触れ方。
「朧さん、その……昨夜の手当て、覚えていましたか」
「お前がしていた手順を見た。それだけだ」
「一度見ただけで覚えられるんですか」
「わからない。自然にそうなった」
朧は立ち上がり、救急箱を取りに行った。柊は少し呆然としたまま、縁側に座っていた。
戻ってきた朧は、消毒液と絆創膏を手に、再び隣に座った。昨夜柊がしたのと同じように、傷に消毒液を当てる。
「……痛くないですか、というのは聞けないですね」
「感じないと言った」
「でも手当ての仕方は、痛みを感じる前提で丁寧にしてくれていますね」
朧は手を止めた。
少し間があった。
「……そういうものだろう」
「そういうもの、というのは?」
「傷があれば、丁寧に扱う。それだけだ」
なぜそれを知っているのか、とは聞かなかった。聞いても、朧はわからないと答えるだろう。でも彼の手が記憶している動作は、誰かにそうしてもらった経験から来ているのかもしれない。
記憶のない男が、それでも体で覚えていること。
柊は朧の横顔をそっと見た。
絆創膏を貼り終えた朧が、視線に気づいたのか顔を上げた。
「なんだ」
「……朧さんって、不思議ですね」
「不思議」
「感情がわからないって言うのに、こういうことはちゃんとできる」
「こういうことというのは」
「誰かを気にかけること」
朧は柊を見た。
何を考えているのか、表情からは読めない。でも視線は確かに柊のところにあった。
「気にかけているかどうかは、わからない」
「でも手当てしてくれました」
「……契りがあるからだ。お前が死ねば俺も消える」
「そうですね」
柊は小さく笑った。
「最初にそれを言ったとき、すごく怖かったんですよ。命が繋がるなんて、こんなことが本当に起きるのかと思って」
「今は怖くないのか」
「今は……」
夜空を見上げた。月は今夜、薄い雲の向こうに隠れている。
「今は、あなたがそばにいてくれるから、そんなに怖くないです」
言ってから、少し恥ずかしくなった。柊は膝に視線を落とした。
朧は何も言わなかった。
でも立ち上がりもしなかった。縁側に座ったまま、雲の向こうの月を見ていた。
沈黙が続いた。虫の声もない、静かな夜。
柊も月を見た。雲がゆっくり流れ、その隙間から、細い月明かりが差し込んできた。朧の横顔を、白く照らす。
その光の中で、ふと思った。
この人は月が好きなのか、それとも月が彼を呼んでいるのか。
──月を喰らうものは、災厄の象徴なり。
昼間に読んだ一文が、頭の片隅で揺れた。
まだ続きを読んでいない。明日、もう一度確認しなければ。
でも今夜は、その言葉を頭の奥に仕舞った。
月明かりの下で静かに座る朧の隣が、柊には妙に居心地がよかった。正体もわからない、感情もわからない、この男の隣が。
なぜかはわからなかった。でも今はまだ、わからなくていいと思った。
柊はそっと息をついて、目を閉じた。
夜が、深く静かに更けていった。
柊が気づいたのは、夕食の片付けを終えた頃だった。庭の結界石が、かすかに軋む音がした。硝子越しに外を見ると、梅の木の影が不自然に揺れている。風のない夜だった。
「朧さん」
振り返ると、朧はすでに立っていた。
目が、庭の方を向いている。
「来ている」
「複数、ですか」
「三。全部、下位だ」
霊力の乏しい柊には感知できない数と種別を、朧は即座に答えた。昨夜の鴉天狗とは格が違うが、柊が単独で三体を相手にするのは、やはり厳しい。
「私が行きます。朧さんは」
「行く」
「でも、体は」
「問題ない」
朧は縁側に出た。草履を履く動作が、昨日より迷いなかった。柊も式紙を懐に収め、後に続く。
庭に出た瞬間、瘴気が肌を刺した。
三体は木々の影に潜んでいた。狐に似た形をしているが、目が三つあり、尾が腐っている。怨狐と呼ばれる類のあやかしで、単体では弱いが、群れると厄介だった。
「柊」
朧が低く言った。
「お前は右を見ていろ。そちらに一体、隠れている」
言われた方向を見る。確かに気配がある。木の陰に溶け込んでいるが、よく目を凝らすと輪郭が滲んでいた。
「わかりました」
式紙を構える。柊の霊力では完全に祓い切れないかもしれないが、足止めくらいはできる。
朧は残り二体の方へ、無言で歩いていった。
右の一体に向かって、柊は式紙を投じた。
命中した。怨狐が甲高い声を上げ、動きを止める。霊力を込めた式紙は、あやかしの動きを一時的に封じる効果がある。完全な祓いには足りなくても、拘束くらいはできた。
隙を突いて、追加の式紙を重ねる。二枚、三枚。
怨狐が地に伏した。瘴気が薄れ、形が崩れる。完全に消滅はしていないが、今夜中に自力で回復するほどの力はないだろう。
「……できた」
息をついたとき、背後で音がした。
振り返ると、四体目がいた。
報告になかった一体。柊の背後に回り込んでいた怨狐が、低く唸りながらじりじりと近づいてくる。式紙を構えようとしたが、三体分を使ってほとんど残っていなかった。
懐を探る。二枚。霊力も消耗している。
狙いを定めて投じた。しかし焦りがあったか、狙いが外れた。式紙は怨狐の肩を掠めただけで、効果が薄い。怨狐が跳んだ。
──間に合わない。
そう思った瞬間、横から風が来た。
朧だった。
柊の前に立ち、片腕を怨狐に向ける。青白い光が滲んだ。それだけで、怨狐が止まった。呻き声を上げ、後退し、そのまま霧のように散った。
静寂が戻った。
朧は柊を振り返った。
「怪我は」
「……ないです。ありがとうございます」
「式紙が足りなかった」
「はい。四体いるとわかっていれば、もう少し持ってきたんですが」
「俺が三と言ったのは誤りだった。気配を読み違えた」
謝罪ではなかった。事実の報告だった。でもその言葉の中に、柊には微かな何かが聞こえた気がした。
「朧さんのせいじゃないです。私が確認を怠りました」
「お前は自分を責めすぎる」
唐突な言葉に、柊は目を瞬かせた。
「……そうですか?」
「任務の失敗も、今夜のことも、まず自分に非があると結論付ける。なぜだ」
柊は答えに詰まった。
なぜ、と言われても。それが当たり前だと思っていた。力のない自分が失敗するのは、努力が足りないからだと。
「考えたことがなかったです」
「そうか」
朧はそれ以上追わなかった。庭を一度見渡し、残滓がないことを確認してから、縁側へ戻っていく。
柊はその背中を見ながら、胸の中に小さな棘が刺さったような感覚を覚えた。痛くはない。でも確かにそこにある。
縁側で、柊は膝の擦り傷に気づいた。
怨狐に跳びかかられた瞬間、とっさに体勢を低くしたときについたのだろう。大した傷ではないが、着物の膝が薄く汚れていた。
「また怪我した」
苦笑しながら立ち上がろうとすると、朧が隣に腰を下ろしてきた。
「見せろ」
「え」
「傷だ」
有無を言わさず、膝に手が伸びてきた。
着物の裾をめくり、傷を確認する。朧の指が、傷の周囲をそっと触れた。
「深くはない」
「はい。大丈夫です」
「大丈夫という言葉も、お前はよく使う」
「……使いますか」
「大丈夫じゃないときでも使う」
柊は言葉に詰まった。朧は表情一つ変えずに傷を見ていたが、その指の動きは丁寧だった。痛みに気を使うような、静かな触れ方。
「朧さん、その……昨夜の手当て、覚えていましたか」
「お前がしていた手順を見た。それだけだ」
「一度見ただけで覚えられるんですか」
「わからない。自然にそうなった」
朧は立ち上がり、救急箱を取りに行った。柊は少し呆然としたまま、縁側に座っていた。
戻ってきた朧は、消毒液と絆創膏を手に、再び隣に座った。昨夜柊がしたのと同じように、傷に消毒液を当てる。
「……痛くないですか、というのは聞けないですね」
「感じないと言った」
「でも手当ての仕方は、痛みを感じる前提で丁寧にしてくれていますね」
朧は手を止めた。
少し間があった。
「……そういうものだろう」
「そういうもの、というのは?」
「傷があれば、丁寧に扱う。それだけだ」
なぜそれを知っているのか、とは聞かなかった。聞いても、朧はわからないと答えるだろう。でも彼の手が記憶している動作は、誰かにそうしてもらった経験から来ているのかもしれない。
記憶のない男が、それでも体で覚えていること。
柊は朧の横顔をそっと見た。
絆創膏を貼り終えた朧が、視線に気づいたのか顔を上げた。
「なんだ」
「……朧さんって、不思議ですね」
「不思議」
「感情がわからないって言うのに、こういうことはちゃんとできる」
「こういうことというのは」
「誰かを気にかけること」
朧は柊を見た。
何を考えているのか、表情からは読めない。でも視線は確かに柊のところにあった。
「気にかけているかどうかは、わからない」
「でも手当てしてくれました」
「……契りがあるからだ。お前が死ねば俺も消える」
「そうですね」
柊は小さく笑った。
「最初にそれを言ったとき、すごく怖かったんですよ。命が繋がるなんて、こんなことが本当に起きるのかと思って」
「今は怖くないのか」
「今は……」
夜空を見上げた。月は今夜、薄い雲の向こうに隠れている。
「今は、あなたがそばにいてくれるから、そんなに怖くないです」
言ってから、少し恥ずかしくなった。柊は膝に視線を落とした。
朧は何も言わなかった。
でも立ち上がりもしなかった。縁側に座ったまま、雲の向こうの月を見ていた。
沈黙が続いた。虫の声もない、静かな夜。
柊も月を見た。雲がゆっくり流れ、その隙間から、細い月明かりが差し込んできた。朧の横顔を、白く照らす。
その光の中で、ふと思った。
この人は月が好きなのか、それとも月が彼を呼んでいるのか。
──月を喰らうものは、災厄の象徴なり。
昼間に読んだ一文が、頭の片隅で揺れた。
まだ続きを読んでいない。明日、もう一度確認しなければ。
でも今夜は、その言葉を頭の奥に仕舞った。
月明かりの下で静かに座る朧の隣が、柊には妙に居心地がよかった。正体もわからない、感情もわからない、この男の隣が。
なぜかはわからなかった。でも今はまだ、わからなくていいと思った。
柊はそっと息をついて、目を閉じた。
夜が、深く静かに更けていった。



