季節が、三つ変わった。
山葵沢に、春が来て、夏が来て、秋が来た。
柊はその全てを、ここで過ごした。
春。
土が柔らかくなった頃、朧が黒い土に手を触れた。
力を込めた。
光が、土に染み込んでいった。
翌朝、草の間から──小さな芽が出ていた。
柊はその芽を見て、声を上げた。
「出た」
「ああ」
「本当に出た」
「出ると言った」
「言ってたね。でも──見ると、また違う」
「どう違う」
「嬉しさが、倍になる」
朧はその芽を見た。
「倍か」
「うん。知ってたことが、本当になる瞬間が──一番嬉しい」
朧は柊を見た。
「それは──期待が、現実になるということか」
「そう。約束が、叶うということ」
「……そうか」
朧は芽を見た。
その目に、柊が初めて見る表情があった。
何かが、満ちているような──静かな表情。
「朧、今──どんな気持ち?」
「名前がわからない」
「どんな感じ?」
朧はしばらく考えた。
「ここにいていい、と──思えている」
柊の目が、細くなった。
「それは──安心、かもしれない」
「安心」
「うん。自分の居場所が、ここにある、と思える感情」
朧はその言葉を、静かに転がした。
「……安心」
「ある?」
「ある」
柊は笑った。
朧も──笑った。
芽が、朝の光を受けて、きらきらと輝いていた。
夏。
川へ行った。
約束通り。
山葵沢から少し下りた場所に、清流があった。
水は透明で、底の石まで見えた。
朧が水に足を入れた。
「冷たい」
「夏でも、山の川は冷たいんだよ」
「気持ちいい、という感覚が──今、ある」
「そうでしょう」
「涼しい、とも言うか」
「どちらでも」
朧はしばらく、川に足を浸けていた。
「柊」
「うん?」
「お前は──入らないのか」
「入るよ。ちょっと待って」
柊は草履を脱いで、川に入った。
冷たかった。
でも、気持ちよかった。
「冷たい」
「言ったとおりだ」
「でも気持ちいい」
「ああ」
二人で、川に立っていた。
水が、足の間を流れていった。
光が、水面に揺れていた。
「朧」
「ん」
「これが幸せだと思う」
「これが?」
「うん。川に入って、冷たくて、気持ちよくて──隣にあなたがいる。それが、幸せだと思う」
朧は水面を見た。
「大きな話ではないな」
「大きくなくていい。幸せは、大きくなくていいんだよ」
朧はその言葉を、静かに受け取った。
「……そうか」
「うん」
「では──今の俺にも、ある」
「何が?」
「幸せ、という感情が」
柊は朧を見た。
その横顔が、夏の光を受けて──穏やかだった。
記憶を失っていた頃の、空虚な顔とは、全然違っていた。
今ここにいる、という顔だった。
「よかった」
「また、よかった、か」
「何度でも言う」
「知っている。だから──言い続けていい」
川が、静かに流れていった。
光が、揺れていた。
秋。
山が赤くなった。
約束通り、紅葉を見た。
山葵沢から少し高い場所に登ると、谷全体が見渡せた。
赤と橙と金が、入り混じっていた。
朧はその景色を、長い間、見ていた。
「きれい、か?」柊が聞いた。
「きれい、という言葉では足りない気がする」
「じゃあ、どんな言葉?」
朧は少し考えた。
「……わからない。でも──きれい、以上のものが、今ある」
「それは──感動、かもしれない」
「感動」
「きれいを、超えた感情。心が、大きく動く感じ」
朧はその言葉を、静かに転がした。
「感動」
「うん」
「それが──今、ある」
「よかった。朧に感動してほしかった」
「なぜ」
「感動できる、ということは──深く感じているということだから。朧が、深く感じられるようになったことが──嬉しい」
朧は柊を見た。
「お前は──俺の感情を、いつも喜ぶ」
「だって──嬉しいんだもん」
「なぜ嬉しい」
「感情を覚えるたびに、朧がここに来ている気がするから」
「ここに?」
「この世界に。ちゃんと根付いている気がする」
朧はしばらく、柊を見た。
それから──谷を見た。
赤い山を、長い間見た。
「……根付いている、か」
「そう思う」
「俺が──ここに根付いている」
「うん」
朧は静かに言った。
「それは──安心だ」
「うん。安心だね」
「また、覚えた」
「何を?」
「根付くことが──安心だということを」
柊は笑った。
紅葉が、風に揺れた。
赤い葉が、二人の周りを舞った。
そして冬が近づいてきた。
山葵沢に、少しずつ人が戻り始めていた。
久瀬が連れてきた、廃村再生の担当者が来た。
土を見て、芽を見て、花を見て──驚いた顔をした。
「本当に育っている」
「ああ」朧は言った。
「月喰いの力で、土を?」
「少しずつ。急には変わらない」
「それでも──ここまで変わるとは」
久瀬が隣に立っていた。
「信じられるか」と久瀬は担当者に言った。
「信じます」担当者は言った。「目で見たから」
久瀬は朧を見た。
「来年の春、最初の家が建つかもしれない」
「そうか」
「お前が──最初の住人になるか」
朧は少し考えた。
「俺は──住人ではなく、橋だ」
「橋?」
「住人が来るまでの間、橋を架け続ける。住人が来てからも、橋として──ここにいる」
久瀬はしばらく朧を見た。
「……月喰いが、橋か」
「おかしいか」
「おかしくない」久瀬は静かに言った。「似合っている」
朧は久瀬を見た。
「久瀬」
「なんだ」
「お前も──橋になっている」
「俺が?」
「連合と、俺たちの間の橋だ。それは──簡単なことではない」
久瀬は少し目を細めた。
「月喰いに言われると、複雑だ」
「複雑でも、事実だ」
久瀬は小さく笑った。
「……そうかもしれないな」
柊はその二人を見ていた。
退魔師と月喰いが、並んで山を見ている。
それが──今は、当たり前の光景だった。
奇跡ではなく、当たり前。
それが、一番大きな変化だと柊は思った。
蒼真が来たのは、木の葉が最後に散る頃だった。
久瀬から少し遅れて、一人で山葵沢に来た。
柊は遠くから気配を感じて、迎えに出た。
「蒼真」
「久しぶりだ」
「久しぶり。連合は、どうだった?」
「討伐命令が、正式に取り消しになった」
柊は止まった。
「本当に?」
「桐生さんが、最後まで粘った。久瀬の報告も大きかった。今日、正式に」
「朧に──」
「言いに来た」
蒼真は山葵沢の入口に立って、谷の奥を見た。
白い花が、まだ少し残っていた。
芽が出た場所に、草が育っていた。
「変わったな」
「変わったよ。春から、少しずつ」
「朧の力か」
「朧の力と、毎日の積み重ねで」
「毎日」
「毎日、土に触れて、水を引いて、草を育てて。一日では変わらないけど──続けたら、変わった」
蒼真はその言葉を聞いて、小さく頷いた。
「そういうものだな」
「蒼真も?」
「連合も──一夜では変わらなかった。でも、少しずつ、変わってきた」
「よかった」
「よかった、か」蒼真は少し笑った。「お前はまだ、それを言うのか」
「何度でも言う。本当のことだから」
蒼真は柊を見た。
その目が──穏やかだった。
連合に戻る前より、少し──柔らかかった。
「蒼真、顔が変わった」
「変わったか」
「うん。最初に会ったときより、ずっと柔らかい」
「それは──老けたということか」
「違う。生きてる顔になった」
蒼真は少し間を置いた。
「……生きてる顔、か」
「うん」
「それが──良いことなのか」
「最高にいいことだよ」
蒼真は目を逸らした。
「……うるさい」
でも──その声は、温かかった。
三人で、夕餉を食べた。
久しぶりの三人だった。
宿でも、隠れ里でも、山の中でもなく──山葵沢の小さな小屋で。
朧が火を起こした。
柊が飯を作った。
蒼真が、持ってきた酒を出した。
「討伐命令の取り消しを祝って」
「蒼真が、酒を持ってきた」
「たまには持ってくる」
「そういう気持ちもあるんだね」
「あたりまえだ」
朧は酒を受け取った。
一口飲んだ。
「……辛い」
「酒は辛いものだ」
「これが──良いものか」
「人それぞれだ。俺は好きだ」
「俺には──甘いものの方がいい」
「好みが出てきたな」
「感情が増えると、好みも増えるらしい」
「それは人間と同じだ」
「ますます人間に近くなっている」
「悪いことではない」
「そうか」
柊は二人を見ていた。
朧と蒼真が、普通に話している。
当たり前のように、話している。
それが──嬉しかった。
「柊」蒼真が言った。
「うん?」
「いい顔をしている」
「そう?」
「さっき、朧に生きてる顔と言ったが──お前もだ」
柊は少し照れた。
「蒼真も、さっき言ったよ」
「言ったか」
「言った」
「俺も──変わったな」
「変わったね。いい方向に」
「お前たちのせいだ」
「私たちのおかげ?」
「せいだ」
「どっちでも同じだよ」
「……違う」
「どう違うの」
「おかげ、と言うと──俺が感謝していることになる」
「してるんじゃないの?」
蒼真は少し黙った。
「……している」
「じゃあ、おかげでいい」
「……うるさい」
朧が小声で言った。
「照れている」
「知ってる」柊も小声で言った。
蒼真は聞こえていたが、今回は何も言わなかった。
ただ──酒を一口飲んで、火を見た。
その横顔が、穏やかだった。
夜が更けて、蒼真は「先に寝る」と言って奥に引っ込んだ。
朧と柊だけが、火のそばに残った。
「蒼真が来てくれてよかった」
「ああ」
「また来るかな」
「来る」
「どうしてわかるの?」
「来ると言ったから」
「言ってたっけ」
「今夜、また来ると言っていた」
「そうだったかな」
「言っていた。お前が聞いていなかっただけだ」
「蒼真らしい」
「ああ」
柊は火を見た。
「朧」
「ん」
「春から今まで──ここで過ごして、どうだった?」
「どうだった、とは」
「楽しかった?つらかった? どんな感じだった?」
朧は少し考えた。
「全部、あった」
「全部?」
「楽しいことも、つらいことも、悲しいことも、嬉しいことも──全部あった」
「それが──良い?」
「良い」朧は静かに言った。「全部あることが──生きているということだから」
柊は朧を見た。
「それは──私が最初に言ったことだよ」
「そうか」
「うん。感情を持つことは、時に重い。でも、その重さを持てることが──生きているということだって」
「覚えていた」
「覚えてたんだ」
「全部、覚えている。お前が言ったことは」
柊の胸が、温かくなった。
「私も──全部、覚えてる」
「そうか」
「うん。朧が初めて笑ったこと。初めて怖いって言ったこと。初めて好きって言ったこと。全部」
「全部か」
「全部」
朧は火を見た。
「それは──大切なことだ」
「大切なこと?」
「誰かに、全部を覚えていてもらえることは──大切なことだ」
柊はその言葉を、胸の中で転がした。
「朧も──私のことを、全部覚えてる?」
「全部」
「どんなことを?」
「最初に会ったとき、怖いのに踏み込んできたこと。毎朝、弁当を持ってきたこと。光の中に踏み込んできたこと。手紙を読んで、追いかけてきたこと。泉のそばで笑っていたこと」
「全部、覚えてるんだ」
「全部、覚えている」
柊の目が、熱くなった。
今夜は──泣かないようにしようと思っていたが、無理だった。
一粒、落ちた。
「泣くな」
「泣いてない」
「泣いている」
「少しだけ」
「なぜ」
「嬉しいから。覚えていてくれることが」
朧は柊を見た。
しばらく見た。
それから──柊の頭に、手を置いた。
そっと、置いた。
大きな手だった。
温かかった。
「泣いていい」
低い声だった。
「泣いていい、と──俺が言う」
柊は少しの間、朧を見た。
それから──また、一粒落ちた。
「ありがとう」
「礼はいい」
「言いたいから言う」
「……知っている」
火が、静かに燃えていた。
夜が、深くなっていった。
翌日の夜。
空が、澄んでいた。
星が多かった。
そして──東の空に、満月が昇り始めた。
柊はそれを、小屋の外で見ていた。
「満月だ」
朧が隣に来た。
「ああ」
「一年前──満月の夜に出会ったね」
「そうだ」
「あの夜のことを、覚えてる?」
「全部」
「どんなふうに覚えてる?」
朧は少し考えた。
「暗かった。お前が倒れていた。俺は何も知らなかった。何もわからなかった」
「そうだったね」
「だが──お前の気配が、何かを引いた」
「引いた?」
「記憶がなくて、感情がなくて、何もなかった俺の中で──お前の気配が、何かを引いた。それが何かは、今もわからない」
「今も、わからないの?」
「感情の名前は、たくさん覚えた。だが──あの瞬間に引かれたものの名前は、まだわからない」
柊は少し考えた。
「縁、というかもしれない」
「縁」
「運命、とも言うかもしれない。あるいは──必然」
「どれが正しい」
「どれも正しいかもしれない。どれも違うかもしれない」
朧は月を見た。
「お前は──どう思う」
「私は──」柊は月を見た。「あなたに引き寄せられた気がする。同じように」
「俺に?」
「うん。あの夜、怖かった。でも──朧のそばにいたいと思った。それは──縁だったんだと思う」
「縁は──選ぶものではないのか」
「縁は出会いで、選ぶのは──その後のことだよ。出会いは縁。続けることは選択」
朧はその言葉を、静かに転がした。
「……そうか」
「うん」
「では──俺たちは、縁で出会って、選んで、ここにいる」
「そう」
「それは──良いことだ」
「最高にいいことだよ」
朧は少し笑った。
満月の光が、二人に降り注いでいた。
一年前と同じ光だった。
でも──二人は全然違っていた。
あの夜、朧には何もなかった。
今は──ある。
感情があった。居場所があった。名前があった。そばにいる人がいた。
柊は──あの夜、何もできないと思っていた。
今は──選べる人になっていた。
「朧」
「ん」
「あの夜から、一年経った」
「ああ」
「色々あったね」
「ある」
「でも──全部、良かったと思う」
「全部か」
「全部。つらかったことも、怖かったことも──全部、ここに繋がってたから」
朧は柊を見た。
「お前は──何度も、全部と言う」
「全部、本当のことだから」
「……そうか」
「朧は?」
「俺も」朧は静かに言った。「全部──良かったと思っている」
「つらかったことも?」
「つらかったことが──今の俺を作った。感情を知ったことが。白面と向き合ったことが。久瀬の話を聞いたことが。山葵沢に花を咲かせたことが。全部─今の俺に繋がっている」
「うん」
「だから──全部、良かった」
柊は朧を見た。
その銀色の瞳に、満月の光が映っていた。
一年前も、その瞳に月が映っていた。
でも──今の瞳は、全然違っていた。
今の瞳には──感情があった。
ここにいる、という感情が。
「朧」
「ん」
「一つだけ、言っていい?」
「言え」
「好きだよ」
朧は少し間を置いた。
それから──静かに言った。
「俺も」
「好き?」
「好きだ」
「嬉しい」
「また、嬉しい、か」
「何度でも言う。本当のことだから」
朧は柊を見た。
「知っている」朧は言った。「だから──何度でも言っていい」
柊は笑った。
月の光の中で、笑った。
朧も笑った。
満月が、二人を照らしていた。
小屋の中から、蒼真が出てきた。
「うるさい」
「寝てたんじゃないの?」
「眠れなかった」
「なんで」
「お前たちの笑い声がするから」
「ごめん」
「謝らなくていい」蒼真は言った。「眠れなかったが──悪い理由ではなかった」
「どういう意味?」
蒼真は空を見た。
満月が、静かに輝いていた。
「眠れない夜に──こういう月が出ていると、悪くない気持ちになる」
「蒼真も、きれいと思う?」
「思う」
「よかった」
「何がよかった」
「蒼真が、きれいと思えていることが」
蒼真は少し間を置いた。
「……お前は、本当に変なところで喜ぶ」
「そうかな」
「そうだ」
朧が蒼真を見た。
「蒼真」
「なんだ」
「今夜──ここにいてよかったか」
蒼真は少しの間、朧を見た。
それから月を見た。
「……よかった」
「そうか」
「珍しく、素直に言えた」
「そうだな」
「お前たちのせいだ」
「おかげだろう」
「……おかげだ」
三人は並んで、月を見た。
満月の光が、谷全体に降り注いでいた。
白い花が、月の光を受けて、静かに輝いていた。
風が吹いた。
草が揺れた。
どこかで、虫が鳴いていた。
静かだった。
穏やかだった。
これが──日常だと、柊は思った。
特別なことは、何もない夜だった。
でも──全部が、ここにあった。
朧がいた。
蒼真がいた。
月があった。
花があった。
それで──十分だった。
十分すぎるほど、十分だった。
しばらくして、蒼真が言った。
「俺は──来年の春、また来る」
「約束?」
「約束だ」
「よかった」
「そのとき、山葵沢に最初の家が建っていたら──俺にも教えてくれ」
「もちろん」
「久瀬も来るかもしれない」
「来てほしい」
「あの男は──変わったな」
「そうだね」
「人は変わる」
「うん」
「あやかしも変わる」
「うん」
「世界も──少しずつ、変わっていく」
蒼真は月を見たまま言った。
「俺が退魔師になったとき、こういう世界になるとは──思っていなかった」
「どんな世界だと思ってた?」
「人があやかしを斬って、あやかしが人を脅かして──それが続く世界だと思っていた」
「今は?」
「今は──違う世界を見ている気がする」
「それが、蒼真の変化だね」
「そうかもしれない」蒼真は静かに言った。
「俺の変化は──お前たちから始まった」
「私たちから?」
「お前が、怖くても信じることを選んだ。朧が、感情を持ちながら向き合った。それを──俺は見ていた。見ながら、考えた。それが──変化になった」
朧は蒼真を見た。
「蒼真」
「なんだ」
「お前は──いい人間だ」と、また言った。
蒼真は目を逸らした。
「何度言うんだ」
「何度でも言う。本当のことだから」
「……お前まで、柊みたいなことを言う」
「いいことだ」
「うるさい」
柊が笑った。
蒼真も──今度は、隠さずに笑った。
朧も笑った。
三人の笑い声が、谷に響いた。
満月の光が、降り注いでいた。
深夜、蒼真が先に小屋に戻った。
「おやすみ」と言って。
「おやすみ」と柊と朧が言った。
二人だけが残った。
月が、中天に近づいていた。
「朧」
「ん」
「さっき、蒼真が──世界が変わっていく、と言ったね」
「言った」
「本当に、変わってきてると思う?」
朧は少し考えた。
「少しずつ、は変わっている」
「完全には、変わらない?」
「完全には、変わらないかもしれない。人とあやかしの間には、溝がある。それは──白面が言っていたことも、間違いではなかった」
「そうだね」
「だが──溝があっても、橋は架けられる」
「うん」
「橋が壊れても、また架けられる」
「澄江さんの言葉だね」
「ああ。澄江は正しかった」
柊は月を見た。
「橋を架け続けることが──私たちの仕事かもしれない」
「俺もそう思う」
「長い仕事だね」
「ああ」
「終わらないかもしれない」
「終わらないかもしれない。だが──」
朧は柊を見た。
「続けることに──意味がある」
柊は朧を見た。
その言葉が、胸に落ちた。
「続けることに、意味がある」
「ああ」
「それが──生きていることかな」
「そうかもしれない」
「橋を架け続けることが。約束を守ることが。一緒にいることが。全部──続けることだ」
「うん」
「それに──意味がある」
「意味がある」
二人の言葉が、重なった。
月が、静かに輝いていた。
風が吹いた。
白い花が揺れた。
どこかで、夜の鳥が鳴いた。
「朧」
「ん」
「これからも──続けよう」
「ああ」
「橋を架けることを。感情を覚えることを。約束を作ることを」
「ああ」
「一緒に」
「一緒に」
「約束だよ」
「約束だ」
朧が、柊の手を取った。
そっと、取った。
温かかった。
柊も握った。
月の光が、二人の影を地面に落としていた。
重なった影が、静かに揺れていた。
満月の夜が、更けていった。
谷に、静かな時間が満ちていた。
白い花が、月の光を受けて輝いていた。
春に咲かせた花が、冬を前にしても、まだそこにあった。
土が育ち始めた谷に、静かな夜が降りていた。
どこかで風が吹いた。
木の葉が落ちた。
虫の声が遠くなっていった。
朧と柊は、手を繋いだまま、月を見ていた。
これが──終わりではない。
始まりだ。
ずっと、続いていく始まりだ。
春になれば、花が咲く。
夏になれば、川に行く。
秋になれば、紅葉を見る。
冬になれば、雪を見る。
また春になれば、また花が咲く。
それが──二人の道だった。
長くて、続いていて、一緒に歩いていく道。
どこへ向かうかは、まだわからない。
でも──一緒にいる。
それだけが、確かだった。
それだけで、十分だった。
満月が、静かに輝いていた。
エピローグ
翌朝、霜が降りた。
山葵沢に初めて霜が降りた朝、柊は小屋の外に出て、それを見た。
草の葉の上に、白い粒が光っていた。
「朧」
「ん」
「霜が降りた」
朧が出てきた。
草の葉を見た。
「白い」
「うん。冬が近い証拠だよ」
「きれいだ」
「そうでしょう」
「また、きれいなものが増えた」
「ね」
二人で、霜が降りた草を見た。
朝の光を受けて、白い粒がきらきらと輝いていた。
「朧」
「ん」
「冬になったら、雪が降ったら──一緒に見よう」
「約束した」
「覚えてた」
「全部、覚えている」
柊は笑った。
「じゃあ──雪が降る日を、楽しみにしてる」
「俺も」
「期待?」
「期待している」
「よかった」
蒼真が小屋の中から声をかけた。
「朝餉は、まだか」
「今作る」
「早く」
「蒼真は朝から元気だね」
「腹が減った」
朧が小声で言った。
「人間みたいだ」
「聞こえている」蒼真は言った。
「聞こえていたか」
「小声が下手だと言った」
「そうだったな」
柊は笑いながら、小屋に入った。
朧も続いた。
蒼真が火を起こしていた。
三人で、朝の支度をした。
霜の降りた朝に、小屋の中に温かい煙が立ち上った。
山が、静かに光を受けていた。
白い花が、霜の中でも、揺れていた。
これが──続いていく。
春も夏も秋も冬も。
満月の夜も、細い月の夜も。
雨の日も、晴れの日も。
全部──続いていく。
それが、生きているということだから。
山葵沢に、春が来て、夏が来て、秋が来た。
柊はその全てを、ここで過ごした。
春。
土が柔らかくなった頃、朧が黒い土に手を触れた。
力を込めた。
光が、土に染み込んでいった。
翌朝、草の間から──小さな芽が出ていた。
柊はその芽を見て、声を上げた。
「出た」
「ああ」
「本当に出た」
「出ると言った」
「言ってたね。でも──見ると、また違う」
「どう違う」
「嬉しさが、倍になる」
朧はその芽を見た。
「倍か」
「うん。知ってたことが、本当になる瞬間が──一番嬉しい」
朧は柊を見た。
「それは──期待が、現実になるということか」
「そう。約束が、叶うということ」
「……そうか」
朧は芽を見た。
その目に、柊が初めて見る表情があった。
何かが、満ちているような──静かな表情。
「朧、今──どんな気持ち?」
「名前がわからない」
「どんな感じ?」
朧はしばらく考えた。
「ここにいていい、と──思えている」
柊の目が、細くなった。
「それは──安心、かもしれない」
「安心」
「うん。自分の居場所が、ここにある、と思える感情」
朧はその言葉を、静かに転がした。
「……安心」
「ある?」
「ある」
柊は笑った。
朧も──笑った。
芽が、朝の光を受けて、きらきらと輝いていた。
夏。
川へ行った。
約束通り。
山葵沢から少し下りた場所に、清流があった。
水は透明で、底の石まで見えた。
朧が水に足を入れた。
「冷たい」
「夏でも、山の川は冷たいんだよ」
「気持ちいい、という感覚が──今、ある」
「そうでしょう」
「涼しい、とも言うか」
「どちらでも」
朧はしばらく、川に足を浸けていた。
「柊」
「うん?」
「お前は──入らないのか」
「入るよ。ちょっと待って」
柊は草履を脱いで、川に入った。
冷たかった。
でも、気持ちよかった。
「冷たい」
「言ったとおりだ」
「でも気持ちいい」
「ああ」
二人で、川に立っていた。
水が、足の間を流れていった。
光が、水面に揺れていた。
「朧」
「ん」
「これが幸せだと思う」
「これが?」
「うん。川に入って、冷たくて、気持ちよくて──隣にあなたがいる。それが、幸せだと思う」
朧は水面を見た。
「大きな話ではないな」
「大きくなくていい。幸せは、大きくなくていいんだよ」
朧はその言葉を、静かに受け取った。
「……そうか」
「うん」
「では──今の俺にも、ある」
「何が?」
「幸せ、という感情が」
柊は朧を見た。
その横顔が、夏の光を受けて──穏やかだった。
記憶を失っていた頃の、空虚な顔とは、全然違っていた。
今ここにいる、という顔だった。
「よかった」
「また、よかった、か」
「何度でも言う」
「知っている。だから──言い続けていい」
川が、静かに流れていった。
光が、揺れていた。
秋。
山が赤くなった。
約束通り、紅葉を見た。
山葵沢から少し高い場所に登ると、谷全体が見渡せた。
赤と橙と金が、入り混じっていた。
朧はその景色を、長い間、見ていた。
「きれい、か?」柊が聞いた。
「きれい、という言葉では足りない気がする」
「じゃあ、どんな言葉?」
朧は少し考えた。
「……わからない。でも──きれい、以上のものが、今ある」
「それは──感動、かもしれない」
「感動」
「きれいを、超えた感情。心が、大きく動く感じ」
朧はその言葉を、静かに転がした。
「感動」
「うん」
「それが──今、ある」
「よかった。朧に感動してほしかった」
「なぜ」
「感動できる、ということは──深く感じているということだから。朧が、深く感じられるようになったことが──嬉しい」
朧は柊を見た。
「お前は──俺の感情を、いつも喜ぶ」
「だって──嬉しいんだもん」
「なぜ嬉しい」
「感情を覚えるたびに、朧がここに来ている気がするから」
「ここに?」
「この世界に。ちゃんと根付いている気がする」
朧はしばらく、柊を見た。
それから──谷を見た。
赤い山を、長い間見た。
「……根付いている、か」
「そう思う」
「俺が──ここに根付いている」
「うん」
朧は静かに言った。
「それは──安心だ」
「うん。安心だね」
「また、覚えた」
「何を?」
「根付くことが──安心だということを」
柊は笑った。
紅葉が、風に揺れた。
赤い葉が、二人の周りを舞った。
そして冬が近づいてきた。
山葵沢に、少しずつ人が戻り始めていた。
久瀬が連れてきた、廃村再生の担当者が来た。
土を見て、芽を見て、花を見て──驚いた顔をした。
「本当に育っている」
「ああ」朧は言った。
「月喰いの力で、土を?」
「少しずつ。急には変わらない」
「それでも──ここまで変わるとは」
久瀬が隣に立っていた。
「信じられるか」と久瀬は担当者に言った。
「信じます」担当者は言った。「目で見たから」
久瀬は朧を見た。
「来年の春、最初の家が建つかもしれない」
「そうか」
「お前が──最初の住人になるか」
朧は少し考えた。
「俺は──住人ではなく、橋だ」
「橋?」
「住人が来るまでの間、橋を架け続ける。住人が来てからも、橋として──ここにいる」
久瀬はしばらく朧を見た。
「……月喰いが、橋か」
「おかしいか」
「おかしくない」久瀬は静かに言った。「似合っている」
朧は久瀬を見た。
「久瀬」
「なんだ」
「お前も──橋になっている」
「俺が?」
「連合と、俺たちの間の橋だ。それは──簡単なことではない」
久瀬は少し目を細めた。
「月喰いに言われると、複雑だ」
「複雑でも、事実だ」
久瀬は小さく笑った。
「……そうかもしれないな」
柊はその二人を見ていた。
退魔師と月喰いが、並んで山を見ている。
それが──今は、当たり前の光景だった。
奇跡ではなく、当たり前。
それが、一番大きな変化だと柊は思った。
蒼真が来たのは、木の葉が最後に散る頃だった。
久瀬から少し遅れて、一人で山葵沢に来た。
柊は遠くから気配を感じて、迎えに出た。
「蒼真」
「久しぶりだ」
「久しぶり。連合は、どうだった?」
「討伐命令が、正式に取り消しになった」
柊は止まった。
「本当に?」
「桐生さんが、最後まで粘った。久瀬の報告も大きかった。今日、正式に」
「朧に──」
「言いに来た」
蒼真は山葵沢の入口に立って、谷の奥を見た。
白い花が、まだ少し残っていた。
芽が出た場所に、草が育っていた。
「変わったな」
「変わったよ。春から、少しずつ」
「朧の力か」
「朧の力と、毎日の積み重ねで」
「毎日」
「毎日、土に触れて、水を引いて、草を育てて。一日では変わらないけど──続けたら、変わった」
蒼真はその言葉を聞いて、小さく頷いた。
「そういうものだな」
「蒼真も?」
「連合も──一夜では変わらなかった。でも、少しずつ、変わってきた」
「よかった」
「よかった、か」蒼真は少し笑った。「お前はまだ、それを言うのか」
「何度でも言う。本当のことだから」
蒼真は柊を見た。
その目が──穏やかだった。
連合に戻る前より、少し──柔らかかった。
「蒼真、顔が変わった」
「変わったか」
「うん。最初に会ったときより、ずっと柔らかい」
「それは──老けたということか」
「違う。生きてる顔になった」
蒼真は少し間を置いた。
「……生きてる顔、か」
「うん」
「それが──良いことなのか」
「最高にいいことだよ」
蒼真は目を逸らした。
「……うるさい」
でも──その声は、温かかった。
三人で、夕餉を食べた。
久しぶりの三人だった。
宿でも、隠れ里でも、山の中でもなく──山葵沢の小さな小屋で。
朧が火を起こした。
柊が飯を作った。
蒼真が、持ってきた酒を出した。
「討伐命令の取り消しを祝って」
「蒼真が、酒を持ってきた」
「たまには持ってくる」
「そういう気持ちもあるんだね」
「あたりまえだ」
朧は酒を受け取った。
一口飲んだ。
「……辛い」
「酒は辛いものだ」
「これが──良いものか」
「人それぞれだ。俺は好きだ」
「俺には──甘いものの方がいい」
「好みが出てきたな」
「感情が増えると、好みも増えるらしい」
「それは人間と同じだ」
「ますます人間に近くなっている」
「悪いことではない」
「そうか」
柊は二人を見ていた。
朧と蒼真が、普通に話している。
当たり前のように、話している。
それが──嬉しかった。
「柊」蒼真が言った。
「うん?」
「いい顔をしている」
「そう?」
「さっき、朧に生きてる顔と言ったが──お前もだ」
柊は少し照れた。
「蒼真も、さっき言ったよ」
「言ったか」
「言った」
「俺も──変わったな」
「変わったね。いい方向に」
「お前たちのせいだ」
「私たちのおかげ?」
「せいだ」
「どっちでも同じだよ」
「……違う」
「どう違うの」
「おかげ、と言うと──俺が感謝していることになる」
「してるんじゃないの?」
蒼真は少し黙った。
「……している」
「じゃあ、おかげでいい」
「……うるさい」
朧が小声で言った。
「照れている」
「知ってる」柊も小声で言った。
蒼真は聞こえていたが、今回は何も言わなかった。
ただ──酒を一口飲んで、火を見た。
その横顔が、穏やかだった。
夜が更けて、蒼真は「先に寝る」と言って奥に引っ込んだ。
朧と柊だけが、火のそばに残った。
「蒼真が来てくれてよかった」
「ああ」
「また来るかな」
「来る」
「どうしてわかるの?」
「来ると言ったから」
「言ってたっけ」
「今夜、また来ると言っていた」
「そうだったかな」
「言っていた。お前が聞いていなかっただけだ」
「蒼真らしい」
「ああ」
柊は火を見た。
「朧」
「ん」
「春から今まで──ここで過ごして、どうだった?」
「どうだった、とは」
「楽しかった?つらかった? どんな感じだった?」
朧は少し考えた。
「全部、あった」
「全部?」
「楽しいことも、つらいことも、悲しいことも、嬉しいことも──全部あった」
「それが──良い?」
「良い」朧は静かに言った。「全部あることが──生きているということだから」
柊は朧を見た。
「それは──私が最初に言ったことだよ」
「そうか」
「うん。感情を持つことは、時に重い。でも、その重さを持てることが──生きているということだって」
「覚えていた」
「覚えてたんだ」
「全部、覚えている。お前が言ったことは」
柊の胸が、温かくなった。
「私も──全部、覚えてる」
「そうか」
「うん。朧が初めて笑ったこと。初めて怖いって言ったこと。初めて好きって言ったこと。全部」
「全部か」
「全部」
朧は火を見た。
「それは──大切なことだ」
「大切なこと?」
「誰かに、全部を覚えていてもらえることは──大切なことだ」
柊はその言葉を、胸の中で転がした。
「朧も──私のことを、全部覚えてる?」
「全部」
「どんなことを?」
「最初に会ったとき、怖いのに踏み込んできたこと。毎朝、弁当を持ってきたこと。光の中に踏み込んできたこと。手紙を読んで、追いかけてきたこと。泉のそばで笑っていたこと」
「全部、覚えてるんだ」
「全部、覚えている」
柊の目が、熱くなった。
今夜は──泣かないようにしようと思っていたが、無理だった。
一粒、落ちた。
「泣くな」
「泣いてない」
「泣いている」
「少しだけ」
「なぜ」
「嬉しいから。覚えていてくれることが」
朧は柊を見た。
しばらく見た。
それから──柊の頭に、手を置いた。
そっと、置いた。
大きな手だった。
温かかった。
「泣いていい」
低い声だった。
「泣いていい、と──俺が言う」
柊は少しの間、朧を見た。
それから──また、一粒落ちた。
「ありがとう」
「礼はいい」
「言いたいから言う」
「……知っている」
火が、静かに燃えていた。
夜が、深くなっていった。
翌日の夜。
空が、澄んでいた。
星が多かった。
そして──東の空に、満月が昇り始めた。
柊はそれを、小屋の外で見ていた。
「満月だ」
朧が隣に来た。
「ああ」
「一年前──満月の夜に出会ったね」
「そうだ」
「あの夜のことを、覚えてる?」
「全部」
「どんなふうに覚えてる?」
朧は少し考えた。
「暗かった。お前が倒れていた。俺は何も知らなかった。何もわからなかった」
「そうだったね」
「だが──お前の気配が、何かを引いた」
「引いた?」
「記憶がなくて、感情がなくて、何もなかった俺の中で──お前の気配が、何かを引いた。それが何かは、今もわからない」
「今も、わからないの?」
「感情の名前は、たくさん覚えた。だが──あの瞬間に引かれたものの名前は、まだわからない」
柊は少し考えた。
「縁、というかもしれない」
「縁」
「運命、とも言うかもしれない。あるいは──必然」
「どれが正しい」
「どれも正しいかもしれない。どれも違うかもしれない」
朧は月を見た。
「お前は──どう思う」
「私は──」柊は月を見た。「あなたに引き寄せられた気がする。同じように」
「俺に?」
「うん。あの夜、怖かった。でも──朧のそばにいたいと思った。それは──縁だったんだと思う」
「縁は──選ぶものではないのか」
「縁は出会いで、選ぶのは──その後のことだよ。出会いは縁。続けることは選択」
朧はその言葉を、静かに転がした。
「……そうか」
「うん」
「では──俺たちは、縁で出会って、選んで、ここにいる」
「そう」
「それは──良いことだ」
「最高にいいことだよ」
朧は少し笑った。
満月の光が、二人に降り注いでいた。
一年前と同じ光だった。
でも──二人は全然違っていた。
あの夜、朧には何もなかった。
今は──ある。
感情があった。居場所があった。名前があった。そばにいる人がいた。
柊は──あの夜、何もできないと思っていた。
今は──選べる人になっていた。
「朧」
「ん」
「あの夜から、一年経った」
「ああ」
「色々あったね」
「ある」
「でも──全部、良かったと思う」
「全部か」
「全部。つらかったことも、怖かったことも──全部、ここに繋がってたから」
朧は柊を見た。
「お前は──何度も、全部と言う」
「全部、本当のことだから」
「……そうか」
「朧は?」
「俺も」朧は静かに言った。「全部──良かったと思っている」
「つらかったことも?」
「つらかったことが──今の俺を作った。感情を知ったことが。白面と向き合ったことが。久瀬の話を聞いたことが。山葵沢に花を咲かせたことが。全部─今の俺に繋がっている」
「うん」
「だから──全部、良かった」
柊は朧を見た。
その銀色の瞳に、満月の光が映っていた。
一年前も、その瞳に月が映っていた。
でも──今の瞳は、全然違っていた。
今の瞳には──感情があった。
ここにいる、という感情が。
「朧」
「ん」
「一つだけ、言っていい?」
「言え」
「好きだよ」
朧は少し間を置いた。
それから──静かに言った。
「俺も」
「好き?」
「好きだ」
「嬉しい」
「また、嬉しい、か」
「何度でも言う。本当のことだから」
朧は柊を見た。
「知っている」朧は言った。「だから──何度でも言っていい」
柊は笑った。
月の光の中で、笑った。
朧も笑った。
満月が、二人を照らしていた。
小屋の中から、蒼真が出てきた。
「うるさい」
「寝てたんじゃないの?」
「眠れなかった」
「なんで」
「お前たちの笑い声がするから」
「ごめん」
「謝らなくていい」蒼真は言った。「眠れなかったが──悪い理由ではなかった」
「どういう意味?」
蒼真は空を見た。
満月が、静かに輝いていた。
「眠れない夜に──こういう月が出ていると、悪くない気持ちになる」
「蒼真も、きれいと思う?」
「思う」
「よかった」
「何がよかった」
「蒼真が、きれいと思えていることが」
蒼真は少し間を置いた。
「……お前は、本当に変なところで喜ぶ」
「そうかな」
「そうだ」
朧が蒼真を見た。
「蒼真」
「なんだ」
「今夜──ここにいてよかったか」
蒼真は少しの間、朧を見た。
それから月を見た。
「……よかった」
「そうか」
「珍しく、素直に言えた」
「そうだな」
「お前たちのせいだ」
「おかげだろう」
「……おかげだ」
三人は並んで、月を見た。
満月の光が、谷全体に降り注いでいた。
白い花が、月の光を受けて、静かに輝いていた。
風が吹いた。
草が揺れた。
どこかで、虫が鳴いていた。
静かだった。
穏やかだった。
これが──日常だと、柊は思った。
特別なことは、何もない夜だった。
でも──全部が、ここにあった。
朧がいた。
蒼真がいた。
月があった。
花があった。
それで──十分だった。
十分すぎるほど、十分だった。
しばらくして、蒼真が言った。
「俺は──来年の春、また来る」
「約束?」
「約束だ」
「よかった」
「そのとき、山葵沢に最初の家が建っていたら──俺にも教えてくれ」
「もちろん」
「久瀬も来るかもしれない」
「来てほしい」
「あの男は──変わったな」
「そうだね」
「人は変わる」
「うん」
「あやかしも変わる」
「うん」
「世界も──少しずつ、変わっていく」
蒼真は月を見たまま言った。
「俺が退魔師になったとき、こういう世界になるとは──思っていなかった」
「どんな世界だと思ってた?」
「人があやかしを斬って、あやかしが人を脅かして──それが続く世界だと思っていた」
「今は?」
「今は──違う世界を見ている気がする」
「それが、蒼真の変化だね」
「そうかもしれない」蒼真は静かに言った。
「俺の変化は──お前たちから始まった」
「私たちから?」
「お前が、怖くても信じることを選んだ。朧が、感情を持ちながら向き合った。それを──俺は見ていた。見ながら、考えた。それが──変化になった」
朧は蒼真を見た。
「蒼真」
「なんだ」
「お前は──いい人間だ」と、また言った。
蒼真は目を逸らした。
「何度言うんだ」
「何度でも言う。本当のことだから」
「……お前まで、柊みたいなことを言う」
「いいことだ」
「うるさい」
柊が笑った。
蒼真も──今度は、隠さずに笑った。
朧も笑った。
三人の笑い声が、谷に響いた。
満月の光が、降り注いでいた。
深夜、蒼真が先に小屋に戻った。
「おやすみ」と言って。
「おやすみ」と柊と朧が言った。
二人だけが残った。
月が、中天に近づいていた。
「朧」
「ん」
「さっき、蒼真が──世界が変わっていく、と言ったね」
「言った」
「本当に、変わってきてると思う?」
朧は少し考えた。
「少しずつ、は変わっている」
「完全には、変わらない?」
「完全には、変わらないかもしれない。人とあやかしの間には、溝がある。それは──白面が言っていたことも、間違いではなかった」
「そうだね」
「だが──溝があっても、橋は架けられる」
「うん」
「橋が壊れても、また架けられる」
「澄江さんの言葉だね」
「ああ。澄江は正しかった」
柊は月を見た。
「橋を架け続けることが──私たちの仕事かもしれない」
「俺もそう思う」
「長い仕事だね」
「ああ」
「終わらないかもしれない」
「終わらないかもしれない。だが──」
朧は柊を見た。
「続けることに──意味がある」
柊は朧を見た。
その言葉が、胸に落ちた。
「続けることに、意味がある」
「ああ」
「それが──生きていることかな」
「そうかもしれない」
「橋を架け続けることが。約束を守ることが。一緒にいることが。全部──続けることだ」
「うん」
「それに──意味がある」
「意味がある」
二人の言葉が、重なった。
月が、静かに輝いていた。
風が吹いた。
白い花が揺れた。
どこかで、夜の鳥が鳴いた。
「朧」
「ん」
「これからも──続けよう」
「ああ」
「橋を架けることを。感情を覚えることを。約束を作ることを」
「ああ」
「一緒に」
「一緒に」
「約束だよ」
「約束だ」
朧が、柊の手を取った。
そっと、取った。
温かかった。
柊も握った。
月の光が、二人の影を地面に落としていた。
重なった影が、静かに揺れていた。
満月の夜が、更けていった。
谷に、静かな時間が満ちていた。
白い花が、月の光を受けて輝いていた。
春に咲かせた花が、冬を前にしても、まだそこにあった。
土が育ち始めた谷に、静かな夜が降りていた。
どこかで風が吹いた。
木の葉が落ちた。
虫の声が遠くなっていった。
朧と柊は、手を繋いだまま、月を見ていた。
これが──終わりではない。
始まりだ。
ずっと、続いていく始まりだ。
春になれば、花が咲く。
夏になれば、川に行く。
秋になれば、紅葉を見る。
冬になれば、雪を見る。
また春になれば、また花が咲く。
それが──二人の道だった。
長くて、続いていて、一緒に歩いていく道。
どこへ向かうかは、まだわからない。
でも──一緒にいる。
それだけが、確かだった。
それだけで、十分だった。
満月が、静かに輝いていた。
エピローグ
翌朝、霜が降りた。
山葵沢に初めて霜が降りた朝、柊は小屋の外に出て、それを見た。
草の葉の上に、白い粒が光っていた。
「朧」
「ん」
「霜が降りた」
朧が出てきた。
草の葉を見た。
「白い」
「うん。冬が近い証拠だよ」
「きれいだ」
「そうでしょう」
「また、きれいなものが増えた」
「ね」
二人で、霜が降りた草を見た。
朝の光を受けて、白い粒がきらきらと輝いていた。
「朧」
「ん」
「冬になったら、雪が降ったら──一緒に見よう」
「約束した」
「覚えてた」
「全部、覚えている」
柊は笑った。
「じゃあ──雪が降る日を、楽しみにしてる」
「俺も」
「期待?」
「期待している」
「よかった」
蒼真が小屋の中から声をかけた。
「朝餉は、まだか」
「今作る」
「早く」
「蒼真は朝から元気だね」
「腹が減った」
朧が小声で言った。
「人間みたいだ」
「聞こえている」蒼真は言った。
「聞こえていたか」
「小声が下手だと言った」
「そうだったな」
柊は笑いながら、小屋に入った。
朧も続いた。
蒼真が火を起こしていた。
三人で、朝の支度をした。
霜の降りた朝に、小屋の中に温かい煙が立ち上った。
山が、静かに光を受けていた。
白い花が、霜の中でも、揺れていた。
これが──続いていく。
春も夏も秋も冬も。
満月の夜も、細い月の夜も。
雨の日も、晴れの日も。
全部──続いていく。
それが、生きているということだから。



