月喰いと契りの巫女

 朝が来た。

 柊が目を覚ましたとき、縁側にはもう朧の姿はなかった。慌てて客間を覗くと、敷いておいた布団の上に、朧は正座していた。目を開けたまま、微動だにせずに。

「……朝ですよ」

「知っている」

「眠れましたか」

「眠り方がわからないと言った」

 つまり一晩中、そうしていたということか。柊は言葉に詰まった。

「お腹は空いていますか」

 少し間があった。

「わからない」

「わからない?」

「空腹というものが、どういう感覚かわからない」

 柊はしばらく朧の顔を見つめた。感情がない。空腹もわからない。眠れない。この男の中には、人として当たり前に備わっているはずのものが、根こそぎ欠けている。

 昨夜から何も食べていないのは事実だった。

「とりあえず、食べてみてください」
    

 朝餉(あさげ)の支度をしながら、柊は考えた。

 両親は三日後に帰ってくる。それまでに朧をどうするか、決めなければならない。記憶がなく、行き場もない人間を、退魔師の家に置いておくわけにはいかない。見つかれば、問答無用で追い出されるか、最悪、祓いの対象として報告される。

 朧が人間ではない可能性を、柊はまだ否定できなかった。

 あの力は尋常ではない。昨夜の鴉天狗を瞬時に消滅させた青白い気配は、霊力でも妖力でもない、もっと根源的な何かのように感じられた。

 でも今、台所の入口に立って柊の背中を黙って見ている朧は、どう見ても人の形をしていた。

「そこに立ってないで、座っていてください」

「何をしている」

「味噌汁を作っています」

「なぜ汁を作る」

「朝ごはんだからです」

 朧は一拍置いてから、素直に膳の前に座った。

 しばらくして、白飯と味噌汁と、残り物の煮物を並べると、朧はそれを見て動かなかった。

「食べ方がわからないのですか」

「……箸というものは知っている」

 知識はある。でも実感がない。昨夜の「痛みがわからない」と同じだと、柊は理解した。

 朧は箸を手に取り、ぎこちない動作で飯を口に運んだ。咀嚼する。飲み込む。また口に運ぶ。まるで手順を確認しているかのような、機械的な動作だった。

「……温かい」

 ぽつりと言った。

「味噌汁がですか?」

「全部」

 柊は朧の横顔を見た。感想を言ったのだ、と気づくのに少し時間がかかった。この男が自分の感覚を言葉にしたのは、それが初めてだった。

「口に合いましたか」

「合うという感覚もわからない。ただ、温かい」

 それだけ言って、朧はまた黙々と箸を動かした。

 柊は向かいに座り、自分の朝食を食べながら、この奇妙な同居の始まりをぼんやりと受け入れていた。
    

 問題は、昼過ぎに訪れた。

 柊が書棚で契りに関する文献を探していると、庭先から声がした。

「柊、いるか」

 聞き覚えのある声に、柊は飛び上がりそうになった。

 蒼真(そうま)だ。

 幼なじみで、同じ退魔師の家系。柊より二つ年上の彼は、十六のときに既に師範代から

「百年に一人の逸材」と言われた、この地域で最も優秀な退魔師だった。面倒見がよく、昔から柊のことを気にかけてくれている。

 だからこそ、今この状況は最悪だった。

「ちょっと待って!」

 柊は廊下を走った。朧がいるのは奥の客間。庭から直接見える位置ではないが、蒼真は勘が鋭い。下手に動けば気取られる。

「昨夜の任務の報告を聞きに来た。一人で行くなと言っただろう」

 縁側から顔を出した蒼真は、さっぱりした顔立ちをしていた。短く整えた黒髪、すっきりとした目元。退魔師らしく引き締まった体つきで、柊より頭ひとつ分は背が高い。

「無事だったのか」

「無事です。あやかしも祓えました」

「嘘をつくな。お前の霊力じゃ、あそこの上位種には太刀打ちできない」

 さすがに鋭い。柊は内心で舌を巻きながら、笑顔を作った。

「ちゃんと祓いました。見くびらないでください」

「傷がある」

 蒼真の視線が、柊の掌に向いた。包帯を巻いた右手。

「転んだだけです」

「柊」

 名前を呼ぶ声が、一段低くなった。蒼真は縁側に腰を下ろし、柊を真っ直ぐに見た。

「何かあったのなら、言えよ。お前一人で抱え込むな」

 その言葉の重さは、本物だとわかっていた。蒼真はいつもそうだった。柊の不甲斐なさに呆れながらも、見捨てたことは一度もない。

 だからこそ、言えなかった。

 記憶のない正体不明の男を匿っている、などと。

「本当に大丈夫ですよ。心配かけてすみません」

 蒼真はしばらく柊を見ていたが、やがて小さく息をついた。

「……俺が昨夜、別の任務でなければ一緒に行ったのに」

「蒼真さんがいなくても、できます」

「そういう話じゃない」

 立ち上がりながら、蒼真は庭を見渡した。その視線が、ふと止まった。

「柊」

「はい」

「この家、昨夜から霊気が変わっている」

 柊の心臓が、跳ねた。

「気のせいじゃないですか」

「気のせいじゃない。何か、強いものの気配がある。あやかしじゃない、でも人間でもない。……お前には感じないか」

「私、霊力が低いので」

「それは関係ない。この濃さなら、霊力がなくても肌で感じるはずだ」

 蒼真の目が、真剣みを増した。退魔師として、ではなく、柊を心配する目で、柊を見ている。

「本当に、何もないな」

「……はい」

 嘘をついた。

 蒼真はもうひとつ何かを言いかけて、やめた。

「わかった。でも何かあれば、すぐ連絡しろ」

「はい」

 彼が帰っていく背中を見送りながら、柊は胸の痛みを感じていた。

 蒼真に嘘をついたのは、これが初めてだった。
   

 夕暮れどきに、縁側で朧が庭を見ていた。

 柊が隣に腰を下ろすと、朧は視線を動かさなかった。

「聞こえていましたか」

「聞こえた」

「蒼真さんのこと、気にしないでください。あの人はただ……」

「お前を守ろうとしている」

 遮るように、朧は言った。

「それは見ればわかる」

 柊は膝の上で手を組んだ。

「朧さんは、ここにいることが不満ですか」

 しばらく間があった。

「不満という感情がわからない」

「じゃあ、嫌ですか」

「嫌という感情も」

「……何か、感じることはあるんですか。

今、この瞬間」

 朧は庭の、夕陽に染まった梅の木を見ていた。

 風が吹いて、白い花びらが二、三枚、宙を舞った。

「……静かだ」

 静かに、言った。

「この場所は静かだ。それだけは、わかる」

 柊は朧の横顔を見た。夕陽が、無表情な顔を橙色に染めている。感情がない、と言っているのに、その横顔には不思議と、孤独に似た何かが漂っていた。

「ここにいていいですよ」

 柊は言った。

「両親が帰るまでの三日間だけでも。その間に、あなたのことを少しでも調べます。記憶が戻る手がかりが見つかるかもしれない」

「なぜそこまでする」

「さっきも言ったでしょう。あなたが消えたら、私も死ぬんです。打算です」

 朧は柊を見た。

 柊は視線を受け止めながら、内心で苦笑した。打算、と言いながら、自分の言葉の半分以上が嘘だということは、自分がいちばんよくわかっていた。

「……好きにしろ」

 三度目のその言葉を聞きながら、柊は夕暮れの庭を眺めた。

 梅の花びらがまた一枚、ひらりと落ちた。

 奇妙な同居は、こうして静かに始まった。どこへ向かうのかも、いつ終わるのかも、何も知らないまま。ただ満月の夜に結ばれた細い縁だけを頼りに、二人は同じ夕陽を見ていた。