柊の実家は、山を二つ越えた先にあった。
退魔師の家系らしく、山の中腹に建てられた古い家だった。結界が張られていて、あやかしが近づけない構造になっていた。
朧はその結界を、入口の手前で感じた。
「ここまで来ると、わかる」
「結界が?」柊が聞いた。
「圧がある。昔なら、弾かれていたかもしれない」
「今は?」
「今は、感じるだけだ。入れないわけではない」
「よかった」
柊は門の前に立った。
深く息を吸った。
吐いた。
「緊張してる?」
「してる」
「俺も」
柊は少し驚いた。
「朧も?」
「お前の家族に会うことは──初めてだ」
「そうだね」
「何を話せばいいかわからない」
「正直に話せばいい。朧は、正直だから大丈夫」
「正直すぎると、問題が起きることもある」
「私がいるから」
「頼りにしている」
「うん」
柊は門を開けた。
母が出てきた。
四十がらみの、柔らかい目をした女性だった。
柊の顔を見た瞬間、その目が細くなった。
「柊」
「ただいま、お母さん」
「無事だったんだね。よかった」
母は柊を見た。
それから──朧を見た。
銀色の瞳に、少し驚いた顔をしたが──怯えはなかった。
「この方が──朧さん?」
「うん」柊は言った。「朧。私の母だよ」
朧は母に向かって、頭を下げた。
「お世話になっています」
「こちらこそ」母は静かに言った。「柊が、色々と──お世話になったようで」
「俺の方が、世話になった」
母は少し目を細めた。
「中に入ってください。お茶を出します」
広い縁側に通された。
庭が見える場所だった。
丁寧に手入れされた庭に、秋の花が咲いていた。
母が茶を持ってきた。
「お父さんは?」柊が聞いた。
「書斎にいる。知らせてくるね」
母が立ち上がった。
朧と柊の二人が残った。
「お母さんは──優しそうだ」
「優しいよ。父は──少し、厳しいかもしれない」
「どのくらい厳しい」
「退魔師の仕事に、誇りを持っている人だから。あやかしについては──」
「厳しい、ということか」
「うん。でも──話せばわかる人だと思う。時間がかかっても」
「時間がかかっても、向き合う」
「そう」
朧は庭を見た。
秋の花が、風に揺れていた。
「きれいな庭だ」
「母が、手入れしてるの。毎日」
「毎日、か」
「うん。続けることが大事って言いながら、いつも庭に出てる」
「続けることが大事」朧は静かに繰り返した。「橋と同じだ」
「そうだね」
父が来た。
五十がらみの、背筋の伸びた男だった。
顔に、年月と仕事が刻まれていた。
目が──鋭かった。
柊を見た。
それから朧を見た。
「月喰いか」
「そうだ」朧は静かに言った。
「討伐命令が一時停止になったことは、知っている」
「知っているか」
「連合から報告が来た。桐生の交渉の話も」父は言った。「だが──俺は、まだ納得していない」
「父さん」柊が言った。
「柊。お前がこの者を庇う気持ちは──わかる。契りを結んで、一緒にいた。情が生まれることは、わかる」
「情だけじゃない」
「では何だ」
柊は父を見た。
まっすぐに、見た。
「信頼だよ」
父は黙っていた。
「朧は──何度も、私を守った。嘘をついたことがない。白面を止めることができたのも、朧がいたから。久瀬さんが考えを変えたのも、朧が向き合ったから」
「久瀬が?」
「山葵沢に一緒に行った。朧が花を咲かせるのを、久瀬さんが見た。それで──何かが変わった」
父は少しの間、黙っていた。
「久瀬は──連合の中で、最も強硬な討伐派だった」
「知ってる」
「その久瀬が、変わったと言うのか」
「変わった。完全にではないけど──一歩、変わった」
父は朧を見た。
「月喰いよ。俺に言えることがあるか」
朧は父を見た。
「一つある」
「言え」
「柊の一族が、かつて俺を封印した。記録で読んだ。封印の術式を作ったのは──柊の先祖だ」
「それは知っている」
「その記録に──俺を討伐しなかった理由が書いてあった」
父は黙っていた。
「俺の目に、悪意がなかったから。白面に歪められた存在が、力の制御を失っている。それが先祖の判断だった」
「……読んだのか。その記録を」
「澄江という人物が、持っていた。柊と一緒に、読んだ」
父は少しの間、目を閉じた。
それから開いた。
「……その記録は、俺も読んだことがある」
「そうか」
「先祖の判断が、正しかったかどうか──ずっと、迷っていた」
「今は?」
父は朧を見た。
「お前を見て──少し、答えが出てきた気がする」
柊は父を見た。
「父さん」
「まだ、信頼しているとは言えない」父は静かに言った。「だが──話を聞く気持ちにはなった」
「それで十分だよ」
「十分ではない。だが──始まりとしては、認める」
父は朧を見た。
「山葵沢に、しばらくいるつもりか」
「そうだ」
「柊も、一緒にいると言っているか」
「言っている」
「俺は──簡単には、認めない」
「知っている」
「だが──柊が選んだことを、無理に変えることも──できない」
父は柊を見た。
「お前は──強くなったな」
柊は少し驚いた。
「そうかな」
「退魔師としての力ではない。選ぶ力が──強くなった」
柊の目が、少し熱くなった。
「……ありがとう、父さん」
父は少し目を逸らした。
「礼を言われるようなことは言っていない」
母が、奥から声をかけた。
「夕餉、できますよ。一緒に食べましょう」
父は立ち上がった。
朧を──もう一度見た。
「月喰いよ」
「ん」
「柊を──頼む」
朧は父を見た。
しばらく見た。
「頼まれた」
父は小さく頷いた。
それだけだった。
でも──それだけで、十分だった。
夕餉は、静かだった。
でも──温かかった。
父は朧に直接話しかけることは少なかったが、話を聞いていた。
母は朧に、色々と聞いた。
「好きな食べ物はありますか?」
「最近、甘いものが──悪くないとわかってきた」
「甘いものが好きなんですね」
「好き、という感情が──まだ覚えたばかりで」
「覚えたばかり?」
「感情を、少しずつ覚えてきた。柊に、名前を教えてもらいながら」
母は柊を見た。
柊は少し照れた。
「お前が、教えたのか」
「教えた、というより──一緒にいたら、自然に」
「そうか」母は静かに言った。「それは──大切なことだね」
「そうだと思う」
母は朧を見た。
「朧さん。柊のことを──大切にしてくれていますか」
朧は少し間を置いた。
「大切に、という感情の名前は——知っている。それが、今俺にあるかどうかは──」
「ある」
柊が横から言った。
朧が柊を見た。
「俺が答えていた」
「遅かったから」
「……」
「ある、でしょう」
朧は少しの間、柊を見た。
「……ある」
母は小さく笑った。
「そうですか。よかった」
父は黙って飯を食べていたが──その口元が、わずかに動いた。
柊はそれを見て、胸の中で深く息を吐いた。
よかった、と思った。
全部ではないけれど。
時間がかかるけれど。
でも──始まった。
それが、今日の答えだった。
夜、縁側に出た。
月が出ていた。
満月からかなり欠けていた。
細い月だった。
でも──その光は、静かに届いていた。
「朧」
「ん」
「父さんが、頼むって言ったね」
「ああ」
「どうだった?」
「何が」
「頼まれたとき、どんな気持ちだった」
朧は少し考えた。
「重かった」
「重い?」
「重い、が──悪くない重さだった」
柊は少し考えた。
「責任、という感情かもしれない」
「責任」
「大切なものを、任された感じ。重いけど──嬉しい重さ」
朧はその言葉を、静かに転がした。
「責任、か」
「うん」
「新しい言葉だ」
「覚えた?」
「覚えた」
「他にも、今日覚えた言葉ある?」
朧は少し考えた。
「緊張」
「そうか。初めて緊張した?」
「初めてではないが──今日は、特に感じた」
「そうだったんだ」
「お前の家族に会うから」
「それが、緊張の理由?」
「ああ」
柊は少し笑った。
「朧が緊張するとは、思わなかった」
「俺にも──大切なものができたから」
柊の胸が、温かくなった。
「大切なものって、何?」
朧は柊を見た。
「お前が笑っていることだ」
柊の目が、熱くなった。
今日は何度、泣きそうになったかわからなかった。
「泣くな」朧が言った。
「泣かない。でも──嬉しい」
「また同じことを言う」
「本当のことだから」
朧は月を見た。
「月が、細くなった」
「満月から、ずいぶん経ったからね」
「また、満ちる」
「そうだね。また満月が来る」
「次の満月には──山葵沢にいるかもしれない」
「そうだね」
「その次の満月には──また、どこかにいる」
「朧は、先のことを考えるようになったね」
「お前が、約束をするから」
「約束?」
「全部終わったら、泉に行こうと言った。三人でどこかへ行こうとも言った。一緒に山葵沢へ行こうとも言った。お前は──先の約束をする」
柊は少し考えた。
「うん、するね」
「約束は──未来を作る」
「そう思う」
「だから、俺も──先のことを考えるようになった」
柊はその言葉を、胸の中にしまった。
約束が、未来を作る。
最初に会ったとき、朧には未来がなかった。
今は──先のことを考えている。
それが、どれほど大きなことか。
「朧」
「ん」
「一つ、約束してほしい」
「何を」
「これからも、先のことを考えてほしい」
朧は柊を見た。
「先のこと、とは」
「来年の満月のこと。再来年のこと。ずっと先のこと」
「ずっと先か」
「うん。ずっと先まで、考えてほしい」
朧はしばらく柊を見た。
「……約束する」
「本当に?」
「本当に」
「よかった」
柊は月を見た。
細い月が、静かに輝いていた。
「朧」
「ん」
「満月の夜に出会ったね」
「ああ」
「あの夜から、色々あった」
「ある」
「怖いことも、苦しいことも、悲しいことも」
「あった」
「でも──よかったと思う」
「何が」
「あの夜、出会えたことが」
朧は柊を見た。
その銀色の瞳が、細い月の光を受けて、静かに揺れていた。
「俺も」
短い言葉だった。
でも、その言葉の重さは——柊にはわかった。
感情を知らなかった朧が、覚えてきた言葉の全部が、その二文字に入っていた気がした。
「よかった」柊は言った。
「ああ」
二人で、細い月を見た。
消えそうで、消えない光だった。
満月ではなくても、届いていた。
それが──これからの二人の形に、似ていると柊は思った。
劇的ではないかもしれない。
眩しくないかもしれない。
でも──確かに、届いている。
それで十分だった。
十分すぎるほど、十分だった。
翌朝、出立の前に、母が朧に小さな包みを渡した。
「甘いものが好きだと言っていたから」
朧は包みを見た。
「……これは」
「干し柿です。うちで干したもの。道中、食べてください」
朧は包みを受け取った。
しばらく、見た。
「ありがとうございます」
母は笑った。
「また来てくださいね。柊と一緒に」
「……来ます」
「約束ですよ」
朧は少し間を置いた。
「約束します」
母は嬉しそうに頷いた。
父は縁側に出て来て、二人を見た。
「山葵沢へ行くのか」
「そうだ」
「久瀬とも、連絡を取っているか」
「取っている」
父は少しの間、朧を見た。
「……連合の交渉が進めば、俺も──考えを変えるかもしれない」
「かもしれない、か」
「今は、それだけだ」
「それで十分だ」
父は朧を見た。
「お前は──変わった言い方をする」
「どういう意味だ」
「それで十分だ、と言うのが──お前は多い」
「本当に十分だと思うから言う」
父は少しの間、黙っていた。
「……柊も、同じことを言う」
「お前に似たのだろう」
父は目を細めた。
「俺には、そういう言葉は少なかった」
「今は?」
「……少し、増えてきたかもしれない」
柊は父と朧を交互に見た。
二人が──話している。
ぎこちなくて、遠くて、まだ遠いけれど。
でも──話している。
それが、今日の奇跡だった。
「行ってきます」
柊は父と母に頭を下げた。
「気をつけて」母は言った。
「また来い」父は言った。
「うん」
朧も頭を下げた。
「お邪魔しました」
「またいつでも」母は言った。
父は──何も言わなかった。
でも、頷いた。
それだけで、十分だった。
山道を歩きながら、朧が干し柿を食べた。
柊は隣で、それを見ていた。
「おいしい?」
「……おいしい」
「よかった」
「お前の母は──優しい人だ」
「そうでしょう」
「父は──難しい人だが、正直だ」
「そうだね」
「お前に似ている」
柊は少し考えた。
「父に似てるのか、私は」
「正直なところが」
「そうかも」
「悪いことではない」
「うん」
朧は山道を歩きながら、もう一口、干し柿を食べた。
「朧」
「ん」
「一つ聞いていいか」
「聞け」
「今──幸せ?」
朧は少し止まった。
「幸せ」
「うん。幸せという感情、知ってる?」
「知っている。柊が教えてくれた」
「どんな感情?」
「今、ここにいることが──悪くない、どころか──良い、と思える感情だ」
「そう教えたっけ」
「お前が、良い、と言うときの顔を見て、そう理解した」
柊は少し笑った。
「朧は、私の顔をよく見てるね」
「ずっと見ていると言った」
「そうだったね」
「だから──わかる」
「何が?」
「今のお前が──幸せそうだということが」
柊は立ち止まった。
朧も立ち止まった。
二人が向かい合った。
「朧は?」
「俺は」朧は少し間を置いた。「幸せという感情が──今、ある」
柊の目が、細くなった。
泣きそうで、笑いたい顔になった。
「よかった」
「また、よかった、か」
「何度でも言う」
「……知っている」
朧は歩き始めた。
柊も続いた。
山道が続いていた。
山葵沢まで、まだ少しある。
でも──急がなくていい。
一歩一歩、進んでいけばいい。
朧の手に、干し柿の包みがあった。
母がくれた包みが。
それが──柊には、嬉しかった。
大きな話ではなかった。
でも──そういう小さなことが、積み重なって、道になる。
橋になる。
柊は朧の隣を歩きながら、そう思った。
夕刻、山葵沢の入口に着いた。
昨日来た場所だった。
でも──今日は、違う気持ちで立っていた。
昨日は訪ねる場所だった。
今日は──少し、居場所になろうとしている場所だった。
朧は谷の入口に立って、奥を見た。
白い花が、まだ咲いていた。
昨日咲かせた花が、夕暮れの光の中で揺れていた。
「まだ咲いてる」
柊が言った。
「ああ」
「よかった」
「……ああ」
朧の声が、少し柔らかかった。
「ここで——始める」
「うん」
「土を育てることを。橋を架けることを」
「一緒に始める」
朧は柊を見た。
「一緒に、と言うのが──本当に好きだな、お前は」
「好きだよ」
「なぜ」
「一人より、一緒の方がいいから」
「毎回、同じ答えだ」
「本当のことだから、毎回同じになる」
朧はしばらく柊を見た。
それから──笑った。
今日も、はっきりと笑った。
口元だけでなく、目元まで。
柊も笑った。
二人で笑いながら、谷の奥へ歩き始めた。
白い花が、足元で揺れた。
夕暮れの光が、山を橙に染めていた。
月が、東の空から昇り始めていた。
細い月だった。
でも──確かに、輝いていた。
満月まで、まだ日がある。
でも──月は、必ずまた満ちる。
そのとき二人は、どこにいるだろう。
山葵沢で、土を育てているかもしれない。
橋を、少しずつ架けているかもしれない。
蒼真が来ているかもしれない。
久瀬が来ているかもしれない。
澄江が、遠くで笑っているかもしれない。
どうなるかは、わからない。
でも──一緒に、いる。
それだけが、確かだった。
柊は歩きながら、空を見た。
細い月が、静かに昇っていた。
消えそうで、消えない。
最初に、朧につけた名前の由来を思い出した。
満月の夜に見た、朧げな月。
あの夜から、全てが始まった。
「朧」
「ん」
「名前の話、覚えてる?」
「ある」
「満月の夜に見た月が、朧げだったから──朧、って名前にした」
「覚えている」
「今も──その名前が、好き?」
朧は少し考えた。
「最初は、名前というものが──よくわからなかった」
「今は?」
「今は──俺の名前だと思っている。お前がつけてくれた名前だから」
柊の胸が、温かくなった。
「よかった」
「また、よかった、か」
「何度でも言う」
「知っている」朧は言った。「だから──言い続けていい」
柊は笑った。
朧も──笑っていた。
谷に、二人の声が響いた。
白い花が揺れた。
月が昇った。
これが──終わりではなく、始まりだった。
全ての終わりの後に来る、新しい始まりだった。
二人の道は、まだ続いていた。
長く、続いていた。
それが──今は、何よりも嬉しかった。
その夜、二人は谷の入口近くに小さな火を焚いた。
星が出ていた。
月が、少し高くなっていた。
「朧」
「ん」
「一つだけ、聞いていい」
「聞け」
「後悔してる?」
「何を」
「感情を覚えたこと。感じることが増えたこと。つらいことも、怖いことも──わかるようになったこと」
朧は火を見ていた。
しばらく、答えなかった。
それから、静かに言った。
「後悔していない」
「本当に?」
「感情がなかったとき──俺は、生きていなかった。存在していただけだった」
「うん」
「今は──生きていると思う。怖いことも、悲しいことも、嬉しいことも──全部、生きているから感じる」
「うん」
「だから──後悔していない。むしろ──」
朧は柊を見た。
「感謝している」
「誰に?」
「お前に」
柊の目が、熱くなった。
「私に、か」
「お前が、感情の名前を教えてくれたから。お前が、そばにいてくれたから。お前が、選び続けてくれたから」
「私こそ──朧に、感謝してる」
「俺に?」
「私も、朧のそばで覚えたことがたくさんある。選ぶことの意味。信じることの強さ。向き合うことの大切さ」
朧は柊を見た。
「お前は──最初から、そういうものを持っていた」
「そうかな」
「持っていた。ただ——気づいていなかっただけだ」
柊はその言葉を、胸の中にしまった。
持っていた。
気づいていなかっただけ。
「そうかもしれない」
「そうだ」
「朧が、気づかせてくれた」
「お互いに」
「お互いに」
二人の言葉が、重なった。
火が、静かに燃えていた。
星が、たくさん出ていた。
月が、細く輝いていた。
「朧」
「ん」
「ここから、どんな日々になるかな」
「わからない」
「朧が、わからないって言うのは──珍しくなくなったね」
「感情を知ってから、わからないことが増えた」
「そうだね」
「わからないことは──怖いか」
「怖い。でも──楽しみでもある」
「楽しみ?」
「一緒にいる人がいれば──わからないことも、楽しみになる」
朧はその言葉を、静かに転がした。
「……そういう感情の名前は、まだ習っていない」
「期待、というかもしれない。先のことを、良いものだと思って待つ感情」
「期待、か」
「うん」
「今、俺にあるか確かめてみる」
「うん」
朧は少し間を置いた。
「……ある」
「何に対して?」
「明日に対して。山葵沢に土を入れることに対して。久瀬が来るかもしれないことに対して。蒼真がまた来ることに対して」
「全部?」
「全部に対して──ある」
柊は笑った。
「それは、期待だよ」
「そうか」
「うん。朧は今、期待している」
「そうか」朧は静かに言った。「悪くない感情だ」
「悪くないどころか、いい感情だよ」
「いい感情か」
「うん」
朧は空を見た。
星が、静かに瞬いていた。
「柊」
「うん」
「明日、また花を咲かせよう」
「うん」
「次は、別の色の花を」
「どんな色がいい?」
朧は少し考えた。
「お前が好きな色を」
柊は少し考えた。
「朧みたいな色がいい。銀色っぽい、白い花」
「それは──今日と同じだ」
「じゃあ、もう少し──桜色の花も」
「桜色、か」
「うん。春になったら、桜が咲いたらきれいだと思う」
「春まで、ここにいるつもりか」
「いたい。朧は?」
朧は少しの間、谷の奥を見た。
「いたい」
「じゃあ──春の花を、一緒に見よう」
「約束か」
「約束」
「……約束する」
柊は火を見た。
静かに燃える火を。
春の約束が、できた。
春まで、一緒にいる。
春に、花を見る。
小さな約束だった。
でも──その小さな約束が、未来を作る。
朧が言っていた。
約束は、未来を作る。
「朧」
「ん」
「もっと、約束しよう」
「いくつでも」
「夏になったら、川に行こう」
「川か」
「うん。泳いだことある?」
「ない」
「私もない。一緒に、初めてやろう」
「……水は、冷たいのか」
「夏なら、気持ちいいよ」
「そうか。では──行こう」
「秋には──紅葉を見よう」
「紅葉か」
「山が赤くなるの。きれいだよ」
「きれいな、か」
「朧が好きそうな景色だと思う」
「行こう」
「冬には──雪が降ったら、一緒に見よう」
「雪か」
「白くて、静かで──きれいだよ」
「きれいなものは──全部、一緒に見たい」
柊の胸が、温かくなった。
「全部、一緒に見よう」
「ああ」
「約束だよ」
「約束だ」
火が、穏やかに燃えていた。
星が、瞬いていた。
月が、細く輝いていた。
約束が、一つ一つ、積み重なっていった。
春の花。夏の川。秋の紅葉。冬の雪。
それが──これからの道だった。
長くて、続いていて、一緒に歩いていく道。
柊は火を見ながら、静かに思った。
満月の夜に出会ったあの夜から、ここまで来た。
怖かった。つらかった。悲しかった。
でも──全部、ここに繋がっていた。
朧が笑えるようになった。
柊が選べるようになった。
蒼真が信念を言葉にした。
久瀬が一歩動いた。
白面が眠りについた。
山葵沢に、花が咲いた。
それが全部──あの満月の夜から、始まっていた。
「朧」
「ん」
「あの夜に出会えて、よかった」
「また、よかった、か」
「何度でも言う。本当のことだから」
朧は柊を見た。
その銀色の瞳が、火の光を受けて、静かに揺れていた。
「俺も」
朧が言った。
「よかった」
二人の言葉が、夜の谷に静かに落ちた。
白い花が、風に揺れた。
月が、細く輝いていた。
消えそうで、消えない光だった。
それが──これからも、続いていく。
退魔師の家系らしく、山の中腹に建てられた古い家だった。結界が張られていて、あやかしが近づけない構造になっていた。
朧はその結界を、入口の手前で感じた。
「ここまで来ると、わかる」
「結界が?」柊が聞いた。
「圧がある。昔なら、弾かれていたかもしれない」
「今は?」
「今は、感じるだけだ。入れないわけではない」
「よかった」
柊は門の前に立った。
深く息を吸った。
吐いた。
「緊張してる?」
「してる」
「俺も」
柊は少し驚いた。
「朧も?」
「お前の家族に会うことは──初めてだ」
「そうだね」
「何を話せばいいかわからない」
「正直に話せばいい。朧は、正直だから大丈夫」
「正直すぎると、問題が起きることもある」
「私がいるから」
「頼りにしている」
「うん」
柊は門を開けた。
母が出てきた。
四十がらみの、柔らかい目をした女性だった。
柊の顔を見た瞬間、その目が細くなった。
「柊」
「ただいま、お母さん」
「無事だったんだね。よかった」
母は柊を見た。
それから──朧を見た。
銀色の瞳に、少し驚いた顔をしたが──怯えはなかった。
「この方が──朧さん?」
「うん」柊は言った。「朧。私の母だよ」
朧は母に向かって、頭を下げた。
「お世話になっています」
「こちらこそ」母は静かに言った。「柊が、色々と──お世話になったようで」
「俺の方が、世話になった」
母は少し目を細めた。
「中に入ってください。お茶を出します」
広い縁側に通された。
庭が見える場所だった。
丁寧に手入れされた庭に、秋の花が咲いていた。
母が茶を持ってきた。
「お父さんは?」柊が聞いた。
「書斎にいる。知らせてくるね」
母が立ち上がった。
朧と柊の二人が残った。
「お母さんは──優しそうだ」
「優しいよ。父は──少し、厳しいかもしれない」
「どのくらい厳しい」
「退魔師の仕事に、誇りを持っている人だから。あやかしについては──」
「厳しい、ということか」
「うん。でも──話せばわかる人だと思う。時間がかかっても」
「時間がかかっても、向き合う」
「そう」
朧は庭を見た。
秋の花が、風に揺れていた。
「きれいな庭だ」
「母が、手入れしてるの。毎日」
「毎日、か」
「うん。続けることが大事って言いながら、いつも庭に出てる」
「続けることが大事」朧は静かに繰り返した。「橋と同じだ」
「そうだね」
父が来た。
五十がらみの、背筋の伸びた男だった。
顔に、年月と仕事が刻まれていた。
目が──鋭かった。
柊を見た。
それから朧を見た。
「月喰いか」
「そうだ」朧は静かに言った。
「討伐命令が一時停止になったことは、知っている」
「知っているか」
「連合から報告が来た。桐生の交渉の話も」父は言った。「だが──俺は、まだ納得していない」
「父さん」柊が言った。
「柊。お前がこの者を庇う気持ちは──わかる。契りを結んで、一緒にいた。情が生まれることは、わかる」
「情だけじゃない」
「では何だ」
柊は父を見た。
まっすぐに、見た。
「信頼だよ」
父は黙っていた。
「朧は──何度も、私を守った。嘘をついたことがない。白面を止めることができたのも、朧がいたから。久瀬さんが考えを変えたのも、朧が向き合ったから」
「久瀬が?」
「山葵沢に一緒に行った。朧が花を咲かせるのを、久瀬さんが見た。それで──何かが変わった」
父は少しの間、黙っていた。
「久瀬は──連合の中で、最も強硬な討伐派だった」
「知ってる」
「その久瀬が、変わったと言うのか」
「変わった。完全にではないけど──一歩、変わった」
父は朧を見た。
「月喰いよ。俺に言えることがあるか」
朧は父を見た。
「一つある」
「言え」
「柊の一族が、かつて俺を封印した。記録で読んだ。封印の術式を作ったのは──柊の先祖だ」
「それは知っている」
「その記録に──俺を討伐しなかった理由が書いてあった」
父は黙っていた。
「俺の目に、悪意がなかったから。白面に歪められた存在が、力の制御を失っている。それが先祖の判断だった」
「……読んだのか。その記録を」
「澄江という人物が、持っていた。柊と一緒に、読んだ」
父は少しの間、目を閉じた。
それから開いた。
「……その記録は、俺も読んだことがある」
「そうか」
「先祖の判断が、正しかったかどうか──ずっと、迷っていた」
「今は?」
父は朧を見た。
「お前を見て──少し、答えが出てきた気がする」
柊は父を見た。
「父さん」
「まだ、信頼しているとは言えない」父は静かに言った。「だが──話を聞く気持ちにはなった」
「それで十分だよ」
「十分ではない。だが──始まりとしては、認める」
父は朧を見た。
「山葵沢に、しばらくいるつもりか」
「そうだ」
「柊も、一緒にいると言っているか」
「言っている」
「俺は──簡単には、認めない」
「知っている」
「だが──柊が選んだことを、無理に変えることも──できない」
父は柊を見た。
「お前は──強くなったな」
柊は少し驚いた。
「そうかな」
「退魔師としての力ではない。選ぶ力が──強くなった」
柊の目が、少し熱くなった。
「……ありがとう、父さん」
父は少し目を逸らした。
「礼を言われるようなことは言っていない」
母が、奥から声をかけた。
「夕餉、できますよ。一緒に食べましょう」
父は立ち上がった。
朧を──もう一度見た。
「月喰いよ」
「ん」
「柊を──頼む」
朧は父を見た。
しばらく見た。
「頼まれた」
父は小さく頷いた。
それだけだった。
でも──それだけで、十分だった。
夕餉は、静かだった。
でも──温かかった。
父は朧に直接話しかけることは少なかったが、話を聞いていた。
母は朧に、色々と聞いた。
「好きな食べ物はありますか?」
「最近、甘いものが──悪くないとわかってきた」
「甘いものが好きなんですね」
「好き、という感情が──まだ覚えたばかりで」
「覚えたばかり?」
「感情を、少しずつ覚えてきた。柊に、名前を教えてもらいながら」
母は柊を見た。
柊は少し照れた。
「お前が、教えたのか」
「教えた、というより──一緒にいたら、自然に」
「そうか」母は静かに言った。「それは──大切なことだね」
「そうだと思う」
母は朧を見た。
「朧さん。柊のことを──大切にしてくれていますか」
朧は少し間を置いた。
「大切に、という感情の名前は——知っている。それが、今俺にあるかどうかは──」
「ある」
柊が横から言った。
朧が柊を見た。
「俺が答えていた」
「遅かったから」
「……」
「ある、でしょう」
朧は少しの間、柊を見た。
「……ある」
母は小さく笑った。
「そうですか。よかった」
父は黙って飯を食べていたが──その口元が、わずかに動いた。
柊はそれを見て、胸の中で深く息を吐いた。
よかった、と思った。
全部ではないけれど。
時間がかかるけれど。
でも──始まった。
それが、今日の答えだった。
夜、縁側に出た。
月が出ていた。
満月からかなり欠けていた。
細い月だった。
でも──その光は、静かに届いていた。
「朧」
「ん」
「父さんが、頼むって言ったね」
「ああ」
「どうだった?」
「何が」
「頼まれたとき、どんな気持ちだった」
朧は少し考えた。
「重かった」
「重い?」
「重い、が──悪くない重さだった」
柊は少し考えた。
「責任、という感情かもしれない」
「責任」
「大切なものを、任された感じ。重いけど──嬉しい重さ」
朧はその言葉を、静かに転がした。
「責任、か」
「うん」
「新しい言葉だ」
「覚えた?」
「覚えた」
「他にも、今日覚えた言葉ある?」
朧は少し考えた。
「緊張」
「そうか。初めて緊張した?」
「初めてではないが──今日は、特に感じた」
「そうだったんだ」
「お前の家族に会うから」
「それが、緊張の理由?」
「ああ」
柊は少し笑った。
「朧が緊張するとは、思わなかった」
「俺にも──大切なものができたから」
柊の胸が、温かくなった。
「大切なものって、何?」
朧は柊を見た。
「お前が笑っていることだ」
柊の目が、熱くなった。
今日は何度、泣きそうになったかわからなかった。
「泣くな」朧が言った。
「泣かない。でも──嬉しい」
「また同じことを言う」
「本当のことだから」
朧は月を見た。
「月が、細くなった」
「満月から、ずいぶん経ったからね」
「また、満ちる」
「そうだね。また満月が来る」
「次の満月には──山葵沢にいるかもしれない」
「そうだね」
「その次の満月には──また、どこかにいる」
「朧は、先のことを考えるようになったね」
「お前が、約束をするから」
「約束?」
「全部終わったら、泉に行こうと言った。三人でどこかへ行こうとも言った。一緒に山葵沢へ行こうとも言った。お前は──先の約束をする」
柊は少し考えた。
「うん、するね」
「約束は──未来を作る」
「そう思う」
「だから、俺も──先のことを考えるようになった」
柊はその言葉を、胸の中にしまった。
約束が、未来を作る。
最初に会ったとき、朧には未来がなかった。
今は──先のことを考えている。
それが、どれほど大きなことか。
「朧」
「ん」
「一つ、約束してほしい」
「何を」
「これからも、先のことを考えてほしい」
朧は柊を見た。
「先のこと、とは」
「来年の満月のこと。再来年のこと。ずっと先のこと」
「ずっと先か」
「うん。ずっと先まで、考えてほしい」
朧はしばらく柊を見た。
「……約束する」
「本当に?」
「本当に」
「よかった」
柊は月を見た。
細い月が、静かに輝いていた。
「朧」
「ん」
「満月の夜に出会ったね」
「ああ」
「あの夜から、色々あった」
「ある」
「怖いことも、苦しいことも、悲しいことも」
「あった」
「でも──よかったと思う」
「何が」
「あの夜、出会えたことが」
朧は柊を見た。
その銀色の瞳が、細い月の光を受けて、静かに揺れていた。
「俺も」
短い言葉だった。
でも、その言葉の重さは——柊にはわかった。
感情を知らなかった朧が、覚えてきた言葉の全部が、その二文字に入っていた気がした。
「よかった」柊は言った。
「ああ」
二人で、細い月を見た。
消えそうで、消えない光だった。
満月ではなくても、届いていた。
それが──これからの二人の形に、似ていると柊は思った。
劇的ではないかもしれない。
眩しくないかもしれない。
でも──確かに、届いている。
それで十分だった。
十分すぎるほど、十分だった。
翌朝、出立の前に、母が朧に小さな包みを渡した。
「甘いものが好きだと言っていたから」
朧は包みを見た。
「……これは」
「干し柿です。うちで干したもの。道中、食べてください」
朧は包みを受け取った。
しばらく、見た。
「ありがとうございます」
母は笑った。
「また来てくださいね。柊と一緒に」
「……来ます」
「約束ですよ」
朧は少し間を置いた。
「約束します」
母は嬉しそうに頷いた。
父は縁側に出て来て、二人を見た。
「山葵沢へ行くのか」
「そうだ」
「久瀬とも、連絡を取っているか」
「取っている」
父は少しの間、朧を見た。
「……連合の交渉が進めば、俺も──考えを変えるかもしれない」
「かもしれない、か」
「今は、それだけだ」
「それで十分だ」
父は朧を見た。
「お前は──変わった言い方をする」
「どういう意味だ」
「それで十分だ、と言うのが──お前は多い」
「本当に十分だと思うから言う」
父は少しの間、黙っていた。
「……柊も、同じことを言う」
「お前に似たのだろう」
父は目を細めた。
「俺には、そういう言葉は少なかった」
「今は?」
「……少し、増えてきたかもしれない」
柊は父と朧を交互に見た。
二人が──話している。
ぎこちなくて、遠くて、まだ遠いけれど。
でも──話している。
それが、今日の奇跡だった。
「行ってきます」
柊は父と母に頭を下げた。
「気をつけて」母は言った。
「また来い」父は言った。
「うん」
朧も頭を下げた。
「お邪魔しました」
「またいつでも」母は言った。
父は──何も言わなかった。
でも、頷いた。
それだけで、十分だった。
山道を歩きながら、朧が干し柿を食べた。
柊は隣で、それを見ていた。
「おいしい?」
「……おいしい」
「よかった」
「お前の母は──優しい人だ」
「そうでしょう」
「父は──難しい人だが、正直だ」
「そうだね」
「お前に似ている」
柊は少し考えた。
「父に似てるのか、私は」
「正直なところが」
「そうかも」
「悪いことではない」
「うん」
朧は山道を歩きながら、もう一口、干し柿を食べた。
「朧」
「ん」
「一つ聞いていいか」
「聞け」
「今──幸せ?」
朧は少し止まった。
「幸せ」
「うん。幸せという感情、知ってる?」
「知っている。柊が教えてくれた」
「どんな感情?」
「今、ここにいることが──悪くない、どころか──良い、と思える感情だ」
「そう教えたっけ」
「お前が、良い、と言うときの顔を見て、そう理解した」
柊は少し笑った。
「朧は、私の顔をよく見てるね」
「ずっと見ていると言った」
「そうだったね」
「だから──わかる」
「何が?」
「今のお前が──幸せそうだということが」
柊は立ち止まった。
朧も立ち止まった。
二人が向かい合った。
「朧は?」
「俺は」朧は少し間を置いた。「幸せという感情が──今、ある」
柊の目が、細くなった。
泣きそうで、笑いたい顔になった。
「よかった」
「また、よかった、か」
「何度でも言う」
「……知っている」
朧は歩き始めた。
柊も続いた。
山道が続いていた。
山葵沢まで、まだ少しある。
でも──急がなくていい。
一歩一歩、進んでいけばいい。
朧の手に、干し柿の包みがあった。
母がくれた包みが。
それが──柊には、嬉しかった。
大きな話ではなかった。
でも──そういう小さなことが、積み重なって、道になる。
橋になる。
柊は朧の隣を歩きながら、そう思った。
夕刻、山葵沢の入口に着いた。
昨日来た場所だった。
でも──今日は、違う気持ちで立っていた。
昨日は訪ねる場所だった。
今日は──少し、居場所になろうとしている場所だった。
朧は谷の入口に立って、奥を見た。
白い花が、まだ咲いていた。
昨日咲かせた花が、夕暮れの光の中で揺れていた。
「まだ咲いてる」
柊が言った。
「ああ」
「よかった」
「……ああ」
朧の声が、少し柔らかかった。
「ここで——始める」
「うん」
「土を育てることを。橋を架けることを」
「一緒に始める」
朧は柊を見た。
「一緒に、と言うのが──本当に好きだな、お前は」
「好きだよ」
「なぜ」
「一人より、一緒の方がいいから」
「毎回、同じ答えだ」
「本当のことだから、毎回同じになる」
朧はしばらく柊を見た。
それから──笑った。
今日も、はっきりと笑った。
口元だけでなく、目元まで。
柊も笑った。
二人で笑いながら、谷の奥へ歩き始めた。
白い花が、足元で揺れた。
夕暮れの光が、山を橙に染めていた。
月が、東の空から昇り始めていた。
細い月だった。
でも──確かに、輝いていた。
満月まで、まだ日がある。
でも──月は、必ずまた満ちる。
そのとき二人は、どこにいるだろう。
山葵沢で、土を育てているかもしれない。
橋を、少しずつ架けているかもしれない。
蒼真が来ているかもしれない。
久瀬が来ているかもしれない。
澄江が、遠くで笑っているかもしれない。
どうなるかは、わからない。
でも──一緒に、いる。
それだけが、確かだった。
柊は歩きながら、空を見た。
細い月が、静かに昇っていた。
消えそうで、消えない。
最初に、朧につけた名前の由来を思い出した。
満月の夜に見た、朧げな月。
あの夜から、全てが始まった。
「朧」
「ん」
「名前の話、覚えてる?」
「ある」
「満月の夜に見た月が、朧げだったから──朧、って名前にした」
「覚えている」
「今も──その名前が、好き?」
朧は少し考えた。
「最初は、名前というものが──よくわからなかった」
「今は?」
「今は──俺の名前だと思っている。お前がつけてくれた名前だから」
柊の胸が、温かくなった。
「よかった」
「また、よかった、か」
「何度でも言う」
「知っている」朧は言った。「だから──言い続けていい」
柊は笑った。
朧も──笑っていた。
谷に、二人の声が響いた。
白い花が揺れた。
月が昇った。
これが──終わりではなく、始まりだった。
全ての終わりの後に来る、新しい始まりだった。
二人の道は、まだ続いていた。
長く、続いていた。
それが──今は、何よりも嬉しかった。
その夜、二人は谷の入口近くに小さな火を焚いた。
星が出ていた。
月が、少し高くなっていた。
「朧」
「ん」
「一つだけ、聞いていい」
「聞け」
「後悔してる?」
「何を」
「感情を覚えたこと。感じることが増えたこと。つらいことも、怖いことも──わかるようになったこと」
朧は火を見ていた。
しばらく、答えなかった。
それから、静かに言った。
「後悔していない」
「本当に?」
「感情がなかったとき──俺は、生きていなかった。存在していただけだった」
「うん」
「今は──生きていると思う。怖いことも、悲しいことも、嬉しいことも──全部、生きているから感じる」
「うん」
「だから──後悔していない。むしろ──」
朧は柊を見た。
「感謝している」
「誰に?」
「お前に」
柊の目が、熱くなった。
「私に、か」
「お前が、感情の名前を教えてくれたから。お前が、そばにいてくれたから。お前が、選び続けてくれたから」
「私こそ──朧に、感謝してる」
「俺に?」
「私も、朧のそばで覚えたことがたくさんある。選ぶことの意味。信じることの強さ。向き合うことの大切さ」
朧は柊を見た。
「お前は──最初から、そういうものを持っていた」
「そうかな」
「持っていた。ただ——気づいていなかっただけだ」
柊はその言葉を、胸の中にしまった。
持っていた。
気づいていなかっただけ。
「そうかもしれない」
「そうだ」
「朧が、気づかせてくれた」
「お互いに」
「お互いに」
二人の言葉が、重なった。
火が、静かに燃えていた。
星が、たくさん出ていた。
月が、細く輝いていた。
「朧」
「ん」
「ここから、どんな日々になるかな」
「わからない」
「朧が、わからないって言うのは──珍しくなくなったね」
「感情を知ってから、わからないことが増えた」
「そうだね」
「わからないことは──怖いか」
「怖い。でも──楽しみでもある」
「楽しみ?」
「一緒にいる人がいれば──わからないことも、楽しみになる」
朧はその言葉を、静かに転がした。
「……そういう感情の名前は、まだ習っていない」
「期待、というかもしれない。先のことを、良いものだと思って待つ感情」
「期待、か」
「うん」
「今、俺にあるか確かめてみる」
「うん」
朧は少し間を置いた。
「……ある」
「何に対して?」
「明日に対して。山葵沢に土を入れることに対して。久瀬が来るかもしれないことに対して。蒼真がまた来ることに対して」
「全部?」
「全部に対して──ある」
柊は笑った。
「それは、期待だよ」
「そうか」
「うん。朧は今、期待している」
「そうか」朧は静かに言った。「悪くない感情だ」
「悪くないどころか、いい感情だよ」
「いい感情か」
「うん」
朧は空を見た。
星が、静かに瞬いていた。
「柊」
「うん」
「明日、また花を咲かせよう」
「うん」
「次は、別の色の花を」
「どんな色がいい?」
朧は少し考えた。
「お前が好きな色を」
柊は少し考えた。
「朧みたいな色がいい。銀色っぽい、白い花」
「それは──今日と同じだ」
「じゃあ、もう少し──桜色の花も」
「桜色、か」
「うん。春になったら、桜が咲いたらきれいだと思う」
「春まで、ここにいるつもりか」
「いたい。朧は?」
朧は少しの間、谷の奥を見た。
「いたい」
「じゃあ──春の花を、一緒に見よう」
「約束か」
「約束」
「……約束する」
柊は火を見た。
静かに燃える火を。
春の約束が、できた。
春まで、一緒にいる。
春に、花を見る。
小さな約束だった。
でも──その小さな約束が、未来を作る。
朧が言っていた。
約束は、未来を作る。
「朧」
「ん」
「もっと、約束しよう」
「いくつでも」
「夏になったら、川に行こう」
「川か」
「うん。泳いだことある?」
「ない」
「私もない。一緒に、初めてやろう」
「……水は、冷たいのか」
「夏なら、気持ちいいよ」
「そうか。では──行こう」
「秋には──紅葉を見よう」
「紅葉か」
「山が赤くなるの。きれいだよ」
「きれいな、か」
「朧が好きそうな景色だと思う」
「行こう」
「冬には──雪が降ったら、一緒に見よう」
「雪か」
「白くて、静かで──きれいだよ」
「きれいなものは──全部、一緒に見たい」
柊の胸が、温かくなった。
「全部、一緒に見よう」
「ああ」
「約束だよ」
「約束だ」
火が、穏やかに燃えていた。
星が、瞬いていた。
月が、細く輝いていた。
約束が、一つ一つ、積み重なっていった。
春の花。夏の川。秋の紅葉。冬の雪。
それが──これからの道だった。
長くて、続いていて、一緒に歩いていく道。
柊は火を見ながら、静かに思った。
満月の夜に出会ったあの夜から、ここまで来た。
怖かった。つらかった。悲しかった。
でも──全部、ここに繋がっていた。
朧が笑えるようになった。
柊が選べるようになった。
蒼真が信念を言葉にした。
久瀬が一歩動いた。
白面が眠りについた。
山葵沢に、花が咲いた。
それが全部──あの満月の夜から、始まっていた。
「朧」
「ん」
「あの夜に出会えて、よかった」
「また、よかった、か」
「何度でも言う。本当のことだから」
朧は柊を見た。
その銀色の瞳が、火の光を受けて、静かに揺れていた。
「俺も」
朧が言った。
「よかった」
二人の言葉が、夜の谷に静かに落ちた。
白い花が、風に揺れた。
月が、細く輝いていた。
消えそうで、消えない光だった。
それが──これからも、続いていく。



