月喰いと契りの巫女

柊の実家は、山を二つ越えた先にあった。

退魔師の家系らしく、山の中腹に建てられた古い家だった。結界が張られていて、あやかしが近づけない構造になっていた。

朧はその結界を、入口の手前で感じた。

「ここまで来ると、わかる」

「結界が?」柊が聞いた。

「圧がある。昔なら、弾かれていたかもしれない」

「今は?」

「今は、感じるだけだ。入れないわけではない」

「よかった」

柊は門の前に立った。

深く息を吸った。

吐いた。

「緊張してる?」

「してる」

「俺も」

柊は少し驚いた。

「朧も?」

「お前の家族に会うことは──初めてだ」

「そうだね」

「何を話せばいいかわからない」

「正直に話せばいい。朧は、正直だから大丈夫」

「正直すぎると、問題が起きることもある」

「私がいるから」

「頼りにしている」

「うん」

柊は門を開けた。

母が出てきた。

四十がらみの、柔らかい目をした女性だった。

柊の顔を見た瞬間、その目が細くなった。

「柊」

「ただいま、お母さん」

「無事だったんだね。よかった」

母は柊を見た。

それから──朧を見た。

銀色の瞳に、少し驚いた顔をしたが──怯えはなかった。

「この方が──朧さん?」

「うん」柊は言った。「朧。私の母だよ」

朧は母に向かって、頭を下げた。

「お世話になっています」

「こちらこそ」母は静かに言った。「柊が、色々と──お世話になったようで」

「俺の方が、世話になった」

母は少し目を細めた。

「中に入ってください。お茶を出します」

広い縁側に通された。

庭が見える場所だった。

丁寧に手入れされた庭に、秋の花が咲いていた。

母が茶を持ってきた。

「お父さんは?」柊が聞いた。

「書斎にいる。知らせてくるね」

母が立ち上がった。

朧と柊の二人が残った。

「お母さんは──優しそうだ」

「優しいよ。父は──少し、厳しいかもしれない」

「どのくらい厳しい」

「退魔師の仕事に、誇りを持っている人だから。あやかしについては──」

「厳しい、ということか」

「うん。でも──話せばわかる人だと思う。時間がかかっても」

「時間がかかっても、向き合う」

「そう」

朧は庭を見た。

秋の花が、風に揺れていた。

「きれいな庭だ」

「母が、手入れしてるの。毎日」

「毎日、か」

「うん。続けることが大事って言いながら、いつも庭に出てる」

「続けることが大事」朧は静かに繰り返した。「橋と同じだ」

「そうだね」

父が来た。

五十がらみの、背筋の伸びた男だった。

顔に、年月と仕事が刻まれていた。

目が──鋭かった。

柊を見た。

それから朧を見た。

「月喰いか」

「そうだ」朧は静かに言った。

「討伐命令が一時停止になったことは、知っている」

「知っているか」

「連合から報告が来た。桐生の交渉の話も」父は言った。「だが──俺は、まだ納得していない」

「父さん」柊が言った。

「柊。お前がこの者を庇う気持ちは──わかる。契りを結んで、一緒にいた。情が生まれることは、わかる」

「情だけじゃない」

「では何だ」

柊は父を見た。

まっすぐに、見た。

「信頼だよ」

父は黙っていた。

「朧は──何度も、私を守った。嘘をついたことがない。白面を止めることができたのも、朧がいたから。久瀬さんが考えを変えたのも、朧が向き合ったから」

「久瀬が?」

「山葵沢に一緒に行った。朧が花を咲かせるのを、久瀬さんが見た。それで──何かが変わった」

父は少しの間、黙っていた。

「久瀬は──連合の中で、最も強硬な討伐派だった」

「知ってる」

「その久瀬が、変わったと言うのか」

「変わった。完全にではないけど──一歩、変わった」

父は朧を見た。

「月喰いよ。俺に言えることがあるか」

朧は父を見た。

「一つある」

「言え」

「柊の一族が、かつて俺を封印した。記録で読んだ。封印の術式を作ったのは──柊の先祖だ」

「それは知っている」

「その記録に──俺を討伐しなかった理由が書いてあった」

父は黙っていた。

「俺の目に、悪意がなかったから。白面に歪められた存在が、力の制御を失っている。それが先祖の判断だった」

「……読んだのか。その記録を」

「澄江という人物が、持っていた。柊と一緒に、読んだ」

父は少しの間、目を閉じた。

それから開いた。

「……その記録は、俺も読んだことがある」

「そうか」

「先祖の判断が、正しかったかどうか──ずっと、迷っていた」

「今は?」

父は朧を見た。

「お前を見て──少し、答えが出てきた気がする」

柊は父を見た。

「父さん」

「まだ、信頼しているとは言えない」父は静かに言った。「だが──話を聞く気持ちにはなった」

「それで十分だよ」

「十分ではない。だが──始まりとしては、認める」

父は朧を見た。

「山葵沢に、しばらくいるつもりか」

「そうだ」

「柊も、一緒にいると言っているか」

「言っている」

「俺は──簡単には、認めない」

「知っている」

「だが──柊が選んだことを、無理に変えることも──できない」

父は柊を見た。

「お前は──強くなったな」

柊は少し驚いた。

「そうかな」

「退魔師としての力ではない。選ぶ力が──強くなった」

柊の目が、少し熱くなった。

「……ありがとう、父さん」

父は少し目を逸らした。

「礼を言われるようなことは言っていない」

母が、奥から声をかけた。

「夕餉、できますよ。一緒に食べましょう」

父は立ち上がった。

朧を──もう一度見た。

「月喰いよ」

「ん」

「柊を──頼む」

朧は父を見た。

しばらく見た。

「頼まれた」

父は小さく頷いた。

それだけだった。

でも──それだけで、十分だった。

夕餉は、静かだった。

でも──温かかった。

父は朧に直接話しかけることは少なかったが、話を聞いていた。

母は朧に、色々と聞いた。

「好きな食べ物はありますか?」

「最近、甘いものが──悪くないとわかってきた」

「甘いものが好きなんですね」

「好き、という感情が──まだ覚えたばかりで」

「覚えたばかり?」

「感情を、少しずつ覚えてきた。柊に、名前を教えてもらいながら」

母は柊を見た。

柊は少し照れた。

「お前が、教えたのか」

「教えた、というより──一緒にいたら、自然に」

「そうか」母は静かに言った。「それは──大切なことだね」

「そうだと思う」

母は朧を見た。

「朧さん。柊のことを──大切にしてくれていますか」

朧は少し間を置いた。

「大切に、という感情の名前は——知っている。それが、今俺にあるかどうかは──」

「ある」

柊が横から言った。

朧が柊を見た。

「俺が答えていた」

「遅かったから」

「……」

「ある、でしょう」

朧は少しの間、柊を見た。

「……ある」

母は小さく笑った。

「そうですか。よかった」

父は黙って飯を食べていたが──その口元が、わずかに動いた。

柊はそれを見て、胸の中で深く息を吐いた。

よかった、と思った。

全部ではないけれど。

時間がかかるけれど。

でも──始まった。

それが、今日の答えだった。

夜、縁側に出た。

月が出ていた。

満月からかなり欠けていた。

細い月だった。

でも──その光は、静かに届いていた。

「朧」

「ん」

「父さんが、頼むって言ったね」

「ああ」

「どうだった?」

「何が」

「頼まれたとき、どんな気持ちだった」

朧は少し考えた。

「重かった」

「重い?」

「重い、が──悪くない重さだった」

柊は少し考えた。

「責任、という感情かもしれない」

「責任」

「大切なものを、任された感じ。重いけど──嬉しい重さ」

朧はその言葉を、静かに転がした。

「責任、か」

「うん」

「新しい言葉だ」

「覚えた?」

「覚えた」

「他にも、今日覚えた言葉ある?」

朧は少し考えた。

「緊張」

「そうか。初めて緊張した?」

「初めてではないが──今日は、特に感じた」

「そうだったんだ」

「お前の家族に会うから」

「それが、緊張の理由?」

「ああ」

柊は少し笑った。

「朧が緊張するとは、思わなかった」

「俺にも──大切なものができたから」

柊の胸が、温かくなった。

「大切なものって、何?」

朧は柊を見た。

「お前が笑っていることだ」

柊の目が、熱くなった。

今日は何度、泣きそうになったかわからなかった。

「泣くな」朧が言った。

「泣かない。でも──嬉しい」

「また同じことを言う」

「本当のことだから」

朧は月を見た。

「月が、細くなった」

「満月から、ずいぶん経ったからね」

「また、満ちる」

「そうだね。また満月が来る」

「次の満月には──山葵沢にいるかもしれない」

「そうだね」

「その次の満月には──また、どこかにいる」

「朧は、先のことを考えるようになったね」

「お前が、約束をするから」

「約束?」

「全部終わったら、泉に行こうと言った。三人でどこかへ行こうとも言った。一緒に山葵沢へ行こうとも言った。お前は──先の約束をする」

柊は少し考えた。

「うん、するね」

「約束は──未来を作る」

「そう思う」

「だから、俺も──先のことを考えるようになった」

柊はその言葉を、胸の中にしまった。

約束が、未来を作る。

最初に会ったとき、朧には未来がなかった。

今は──先のことを考えている。

それが、どれほど大きなことか。

「朧」

「ん」

「一つ、約束してほしい」

「何を」

「これからも、先のことを考えてほしい」

朧は柊を見た。

「先のこと、とは」

「来年の満月のこと。再来年のこと。ずっと先のこと」

「ずっと先か」

「うん。ずっと先まで、考えてほしい」
朧はしばらく柊を見た。

「……約束する」

「本当に?」

「本当に」

「よかった」

柊は月を見た。

細い月が、静かに輝いていた。

「朧」

「ん」

「満月の夜に出会ったね」

「ああ」

「あの夜から、色々あった」

「ある」

「怖いことも、苦しいことも、悲しいことも」

「あった」

「でも──よかったと思う」

「何が」

「あの夜、出会えたことが」

朧は柊を見た。

その銀色の瞳が、細い月の光を受けて、静かに揺れていた。

「俺も」

短い言葉だった。

でも、その言葉の重さは——柊にはわかった。

感情を知らなかった朧が、覚えてきた言葉の全部が、その二文字に入っていた気がした。

「よかった」柊は言った。

「ああ」

二人で、細い月を見た。

消えそうで、消えない光だった。

満月ではなくても、届いていた。

それが──これからの二人の形に、似ていると柊は思った。

劇的ではないかもしれない。

眩しくないかもしれない。

でも──確かに、届いている。

それで十分だった。

十分すぎるほど、十分だった。

翌朝、出立の前に、母が朧に小さな包みを渡した。

「甘いものが好きだと言っていたから」

朧は包みを見た。

「……これは」

「干し柿です。うちで干したもの。道中、食べてください」

朧は包みを受け取った。

しばらく、見た。

「ありがとうございます」

母は笑った。

「また来てくださいね。柊と一緒に」

「……来ます」

「約束ですよ」

朧は少し間を置いた。

「約束します」

母は嬉しそうに頷いた。

父は縁側に出て来て、二人を見た。

「山葵沢へ行くのか」

「そうだ」

「久瀬とも、連絡を取っているか」

「取っている」

父は少しの間、朧を見た。

「……連合の交渉が進めば、俺も──考えを変えるかもしれない」

「かもしれない、か」

「今は、それだけだ」

「それで十分だ」

父は朧を見た。

「お前は──変わった言い方をする」

「どういう意味だ」

「それで十分だ、と言うのが──お前は多い」

「本当に十分だと思うから言う」

父は少しの間、黙っていた。

「……柊も、同じことを言う」

「お前に似たのだろう」

父は目を細めた。

「俺には、そういう言葉は少なかった」

「今は?」

「……少し、増えてきたかもしれない」

柊は父と朧を交互に見た。

二人が──話している。

ぎこちなくて、遠くて、まだ遠いけれど。

でも──話している。

それが、今日の奇跡だった。

「行ってきます」

柊は父と母に頭を下げた。

「気をつけて」母は言った。

「また来い」父は言った。

「うん」

朧も頭を下げた。

「お邪魔しました」

「またいつでも」母は言った。

父は──何も言わなかった。

でも、頷いた。

それだけで、十分だった。

山道を歩きながら、朧が干し柿を食べた。

柊は隣で、それを見ていた。

「おいしい?」

「……おいしい」

「よかった」

「お前の母は──優しい人だ」

「そうでしょう」

「父は──難しい人だが、正直だ」

「そうだね」

「お前に似ている」

柊は少し考えた。

「父に似てるのか、私は」

「正直なところが」

「そうかも」

「悪いことではない」

「うん」

朧は山道を歩きながら、もう一口、干し柿を食べた。

「朧」

「ん」

「一つ聞いていいか」

「聞け」

「今──幸せ?」

朧は少し止まった。

「幸せ」

「うん。幸せという感情、知ってる?」

「知っている。柊が教えてくれた」

「どんな感情?」

「今、ここにいることが──悪くない、どころか──良い、と思える感情だ」

「そう教えたっけ」

「お前が、良い、と言うときの顔を見て、そう理解した」

柊は少し笑った。

「朧は、私の顔をよく見てるね」

「ずっと見ていると言った」

「そうだったね」

「だから──わかる」

「何が?」

「今のお前が──幸せそうだということが」

柊は立ち止まった。

朧も立ち止まった。

二人が向かい合った。

「朧は?」

「俺は」朧は少し間を置いた。「幸せという感情が──今、ある」

柊の目が、細くなった。

泣きそうで、笑いたい顔になった。

「よかった」

「また、よかった、か」

「何度でも言う」

「……知っている」

朧は歩き始めた。

柊も続いた。

山道が続いていた。

山葵沢まで、まだ少しある。

でも──急がなくていい。

一歩一歩、進んでいけばいい。

朧の手に、干し柿の包みがあった。

母がくれた包みが。

それが──柊には、嬉しかった。

大きな話ではなかった。

でも──そういう小さなことが、積み重なって、道になる。

橋になる。

柊は朧の隣を歩きながら、そう思った。

夕刻、山葵沢の入口に着いた。

昨日来た場所だった。

でも──今日は、違う気持ちで立っていた。

昨日は訪ねる場所だった。

今日は──少し、居場所になろうとしている場所だった。

朧は谷の入口に立って、奥を見た。

白い花が、まだ咲いていた。

昨日咲かせた花が、夕暮れの光の中で揺れていた。

「まだ咲いてる」

柊が言った。

「ああ」

「よかった」

「……ああ」

朧の声が、少し柔らかかった。

「ここで——始める」

「うん」

「土を育てることを。橋を架けることを」

「一緒に始める」

朧は柊を見た。

「一緒に、と言うのが──本当に好きだな、お前は」

「好きだよ」

「なぜ」

「一人より、一緒の方がいいから」

「毎回、同じ答えだ」

「本当のことだから、毎回同じになる」

朧はしばらく柊を見た。

それから──笑った。

今日も、はっきりと笑った。

口元だけでなく、目元まで。

柊も笑った。

二人で笑いながら、谷の奥へ歩き始めた。

白い花が、足元で揺れた。

夕暮れの光が、山を橙に染めていた。

月が、東の空から昇り始めていた。

細い月だった。

でも──確かに、輝いていた。

満月まで、まだ日がある。

でも──月は、必ずまた満ちる。

そのとき二人は、どこにいるだろう。

山葵沢で、土を育てているかもしれない。

橋を、少しずつ架けているかもしれない。

蒼真が来ているかもしれない。

久瀬が来ているかもしれない。

澄江が、遠くで笑っているかもしれない。

どうなるかは、わからない。

でも──一緒に、いる。

それだけが、確かだった。

柊は歩きながら、空を見た。

細い月が、静かに昇っていた。

消えそうで、消えない。

最初に、朧につけた名前の由来を思い出した。

満月の夜に見た、朧げな月。

あの夜から、全てが始まった。

「朧」

「ん」

「名前の話、覚えてる?」

「ある」

「満月の夜に見た月が、朧げだったから──朧、って名前にした」

「覚えている」

「今も──その名前が、好き?」

朧は少し考えた。

「最初は、名前というものが──よくわからなかった」

「今は?」

「今は──俺の名前だと思っている。お前がつけてくれた名前だから」
柊の胸が、温かくなった。

「よかった」

「また、よかった、か」

「何度でも言う」

「知っている」朧は言った。「だから──言い続けていい」

柊は笑った。

朧も──笑っていた。

谷に、二人の声が響いた。

白い花が揺れた。

月が昇った。

これが──終わりではなく、始まりだった。

全ての終わりの後に来る、新しい始まりだった。

二人の道は、まだ続いていた。

長く、続いていた。

それが──今は、何よりも嬉しかった。

その夜、二人は谷の入口近くに小さな火を焚いた。

星が出ていた。

月が、少し高くなっていた。

「朧」

「ん」

「一つだけ、聞いていい」

「聞け」

「後悔してる?」

「何を」

「感情を覚えたこと。感じることが増えたこと。つらいことも、怖いことも──わかるようになったこと」

朧は火を見ていた。

しばらく、答えなかった。

それから、静かに言った。

「後悔していない」

「本当に?」

「感情がなかったとき──俺は、生きていなかった。存在していただけだった」

「うん」

「今は──生きていると思う。怖いことも、悲しいことも、嬉しいことも──全部、生きているから感じる」

「うん」

「だから──後悔していない。むしろ──」

朧は柊を見た。

「感謝している」

「誰に?」

「お前に」

柊の目が、熱くなった。

「私に、か」

「お前が、感情の名前を教えてくれたから。お前が、そばにいてくれたから。お前が、選び続けてくれたから」

「私こそ──朧に、感謝してる」

「俺に?」

「私も、朧のそばで覚えたことがたくさんある。選ぶことの意味。信じることの強さ。向き合うことの大切さ」

朧は柊を見た。

「お前は──最初から、そういうものを持っていた」

「そうかな」

「持っていた。ただ——気づいていなかっただけだ」

柊はその言葉を、胸の中にしまった。

持っていた。

気づいていなかっただけ。

「そうかもしれない」

「そうだ」

「朧が、気づかせてくれた」

「お互いに」

「お互いに」

二人の言葉が、重なった。

火が、静かに燃えていた。

星が、たくさん出ていた。

月が、細く輝いていた。

「朧」

「ん」

「ここから、どんな日々になるかな」

「わからない」

「朧が、わからないって言うのは──珍しくなくなったね」

「感情を知ってから、わからないことが増えた」

「そうだね」

「わからないことは──怖いか」

「怖い。でも──楽しみでもある」

「楽しみ?」

「一緒にいる人がいれば──わからないことも、楽しみになる」

朧はその言葉を、静かに転がした。

「……そういう感情の名前は、まだ習っていない」

「期待、というかもしれない。先のことを、良いものだと思って待つ感情」

「期待、か」

「うん」

「今、俺にあるか確かめてみる」

「うん」

朧は少し間を置いた。

「……ある」

「何に対して?」

「明日に対して。山葵沢に土を入れることに対して。久瀬が来るかもしれないことに対して。蒼真がまた来ることに対して」

「全部?」

「全部に対して──ある」

柊は笑った。

「それは、期待だよ」

「そうか」

「うん。朧は今、期待している」

「そうか」朧は静かに言った。「悪くない感情だ」

「悪くないどころか、いい感情だよ」

「いい感情か」

「うん」

朧は空を見た。

星が、静かに瞬いていた。

「柊」

「うん」

「明日、また花を咲かせよう」

「うん」

「次は、別の色の花を」

「どんな色がいい?」

朧は少し考えた。

「お前が好きな色を」

柊は少し考えた。

「朧みたいな色がいい。銀色っぽい、白い花」

「それは──今日と同じだ」

「じゃあ、もう少し──桜色の花も」

「桜色、か」

「うん。春になったら、桜が咲いたらきれいだと思う」

「春まで、ここにいるつもりか」

「いたい。朧は?」

朧は少しの間、谷の奥を見た。

「いたい」

「じゃあ──春の花を、一緒に見よう」

「約束か」

「約束」

「……約束する」

柊は火を見た。

静かに燃える火を。

春の約束が、できた。

春まで、一緒にいる。

春に、花を見る。

小さな約束だった。

でも──その小さな約束が、未来を作る。

朧が言っていた。

約束は、未来を作る。

「朧」

「ん」

「もっと、約束しよう」

「いくつでも」

「夏になったら、川に行こう」

「川か」

「うん。泳いだことある?」

「ない」

「私もない。一緒に、初めてやろう」

「……水は、冷たいのか」

「夏なら、気持ちいいよ」

「そうか。では──行こう」

「秋には──紅葉を見よう」

「紅葉か」

「山が赤くなるの。きれいだよ」

「きれいな、か」

「朧が好きそうな景色だと思う」

「行こう」

「冬には──雪が降ったら、一緒に見よう」

「雪か」

「白くて、静かで──きれいだよ」

「きれいなものは──全部、一緒に見たい」

柊の胸が、温かくなった。

「全部、一緒に見よう」

「ああ」

「約束だよ」

「約束だ」

火が、穏やかに燃えていた。

星が、瞬いていた。

月が、細く輝いていた。

約束が、一つ一つ、積み重なっていった。

春の花。夏の川。秋の紅葉。冬の雪。

それが──これからの道だった。

長くて、続いていて、一緒に歩いていく道。

柊は火を見ながら、静かに思った。

満月の夜に出会ったあの夜から、ここまで来た。

怖かった。つらかった。悲しかった。

でも──全部、ここに繋がっていた。

朧が笑えるようになった。

柊が選べるようになった。

蒼真が信念を言葉にした。

久瀬が一歩動いた。

白面が眠りについた。

山葵沢に、花が咲いた。

それが全部──あの満月の夜から、始まっていた。

「朧」

「ん」

「あの夜に出会えて、よかった」

「また、よかった、か」

「何度でも言う。本当のことだから」

朧は柊を見た。

その銀色の瞳が、火の光を受けて、静かに揺れていた。

「俺も」

朧が言った。

「よかった」

二人の言葉が、夜の谷に静かに落ちた。

白い花が、風に揺れた。

月が、細く輝いていた。

消えそうで、消えない光だった。

それが──これからも、続いていく。