山葵沢へ向かう日の朝、空が曇っていた。
雨になるかもしれない、と蒼真は言った。
「それでも行くか」
「行く」朧は言った。
「雨の中で、壊した場所を見ることになるかもしれない」
「雨でも、晴れでも──変わらない」
蒼真は頷いた。
「そうだな」
久瀬は、約束通り来ていた。
宿の前に一人で立って、三人を待っていた。
昨夜の対話のときより、少し──柔らかく見えた。
刀は差していたが、手は柄に触れていなかった。
「来たか」
「来た」朧は言った。
二人が向かい合った。
しばらく、沈黙があった。
「道中、話せるか」久瀬が言った。
「話す」
「嫌なことを聞くかもしれない」
「聞く」
久瀬は朧を見た。
「……行くか」
五人で、山道を歩き始めた。
山葵沢は、二つの山の間にある細い谷に沿った集落だった。
三刻ほど歩いた先に、それはあった。
近づくにつれて、柊は気配を感じた。
古い気配だった。
何かが、長い時間をかけて積み重なった──静かで、重い気配。
「ここだ」
久瀬が足を止めた。
谷の入口に立って、奥を見ていた。
集落の跡があった。
石垣が残っていた。家の基礎だったものが、苔に覆われて残っていた。井戸が一つ、草に埋もれながら残っていた。
誰も住んでいなかった。
随分前に、誰も住まなくなった場所だった。
「二百年以上前に、ここで何かがあった」久瀬は静かに言った。「俺の家に伝わる話では──山が燃えた夜に、集落が消えた。生き残った者が、山を下りた。それが、俺の先祖だ」
朧は谷の奥を見ていた。
銀色の瞳が、何かを見ていた。
「記憶の中に──ここがある」
久瀬が朧を見た。
「ある、とは」
「俺が封印される前の記憶だ。燃えた野原の記憶の中に──この谷の形がある」
久瀬は黙っていた。
「確かなことは言えない。記憶は断片だ。だが──似ている」
「似ている、か」
「もっと奥に入れば、わかるかもしれない」
久瀬は少しの間、谷の奥を見た。
「……行くか」
谷の奥へ向かった。
道はなかった。
草が深く、岩が多く、歩きにくかった。
それでも五人は進んだ。
しばらく歩くと、開けた場所に出た。
平らな土地だった。
草が生えていたが、その下に──黒い土が見えた。
朧が立ち止まった。
目を閉じた。
「朧」柊が声をかけた。
「ここだ」
低い声だった。
「ここで──俺の力が、溢れた」
誰も、動かなかった。
「当時、俺には感情がなかった。止める理由も、止める方法も、知らなかった。力が溢れて──燃えた」
久瀬は黒い土を見ていた。
「それが──ここか」
「そうだと思う」
「……」
久瀬は膝をついた。
黒い土に、手を触れた。
「父の父の、さらに父が──ここにいたかもしれない」
誰も何も言わなかった。
風が吹いた。
草が揺れた。
久瀬は黒い土に触れたまま、しばらく動かなかった。
やがて、顔を上げた。
目が、赤かった。
「怒ってもいいか」
久瀬が朧に言った。
「怒れ」朧は静かに言った。
「許さなくていいか」
「許さなくていい」
「お前を──」
「怒れ」朧は繰り返した。「それが、正直なことだ」
久瀬は朧を見た。
「お前は──怖くないのか。俺に怒られることが」
「怖い」
「怖いのに、怒れと言うのか」
「俺が怖いと思うことは──お前の怒りを受け取れないことだ。受け取れなければ、ここに来た意味がない」
久瀬は長い間、朧を見た。
それから──深く息を吸って、吐いた。
「怒っている」久瀬は言った。「ずっと、怒っていた。誰に怒ればいいかわからなかったが──怒っていた」
「……ああ」
「父が死んだのは、あやかしのせいだと言われた。だから退魔師になった。だが──怒りの向け先は、ずっとなかった」
「今は、ある」
「ある」久瀬は静かに言った。「だが──」
久瀬は黒い土を見た。
「怒ることと、憎むことは──違う気がしてきた。昨夜から、ずっと考えていた」
「どう違う」
「怒りは──悲しみから来る。憎しみは──怒りを諦めたときに残るものだ」久瀬は言った。「俺は、ずっと憎んでいると思っていた。だが──本当は、ただ、悲しかったのかもしれない」
朧は久瀬を見た。
「俺も──悲しみを知った」
「お前が?」
「感情を持つようになってから、悲しみという感覚がわかってきた。柊が傷つくかもしれないとき。白面の中にある声を届けたとき──悲しかった」
久瀬は朧を見た。
「あやかしも、悲しむのか」
「わかってきた、と言った。まだ、覚えたばかりだ」
久瀬は少しの間、黙っていた。
「……二百年前のお前と、今のお前は──違うのか」
「違う」
「どう違う」
「当時は、感情がなかった。感情がないまま、力が溢れた。今は──感情がある。感情があるから、止める理由がわかる」
「止める理由」
「誰かが悲しむことを、知っているから」
久瀬は長い間、黒い土を見ていた。
それから、立ち上がった。
「俺は──許すとは言えない」
「わかっている」
「だが──」久瀬は朧を見た。「怒り続けることも、俺の答えではない気がしてきた」
「それは──久瀬が決めることだ」
「そうだな」
久瀬は谷の奥を見た。
「ここに──何か、できるか」
「何を?」
「この場所に、ここで消えた者たちへの──何かを」
朧は久瀬を見た。
それから、谷の奥を見た。
「できる」
「何を」
「俺の力で──草を育てることができる。山の気を動かすことができる。ここに、花を咲かせることができるかもしれない」
「花か」
「弔いになるかどうかは──わからない。だが、できることをする」
久瀬はしばらく考えた。
「やってみてくれ」
朧は頷いた。
膝をついた。
両手を黒い土に触れた。
目を閉じた。
柊は朧の横で、その手を見ていた。
土に触れる手が、静かに光り始めた。
淡い、銀色の光。
月の光に似た色だった。
光は土に染み込んでいった。
しばらく、何も変わらなかった。
それから──。
草の間から、小さな白い花が、一つ、また一つと咲き始めた。
野花だった。名前は知らない花だった。
でも──白くて、小さくて、かわいかった。
黒い土の上に、白い花が広がっていった。
久瀬は動かなかった。
その目が、また赤くなっていた。
蒼真も、黙って見ていた。
柊は──泣いていた。
堪えようとしたが、堪えられなかった。
静かに、涙が落ちた。
朧が目を開けた。
花が、谷の開けた場所に広がっていた。
白い花が、風に揺れていた。
「……ありがとう」
久瀬が、低い声で言った。
朧は久瀬を見た。
「俺が言うべき言葉ではないが──聞いてくれて、ありがとう」
「いや」朧は静かに言った。「来てくれて、ありがとう」
久瀬は少し目を細めた。
「月喰いに礼を言われるとは、思わなかった」
「俺も──久瀬に礼を言うとは、思わなかった」
久瀬は小さく──笑った。
疲れた笑いだったが、確かな笑いだった。
「奇妙なことになったな」
「ああ」
「退魔師と月喰いが、並んで花を見ている」
「ああ」
「悪くない」
「悪くない」朧は言った。
二人が、花を見た。
風が吹いた。
白い花が、一斉に揺れた。
帰り道、久瀬は少し前を歩いていた。
蒼真が柊の隣に来た。
「泣いていたか」
「泣いてた」
「見ていた」
「恥ずかしい?」
「恥ずかしくない。ただ──」蒼真は少し間を置いた。「朧が花を咲かせたとき、俺も──こみあげるものがあった」
「蒼真も?」
「退魔師がそういうことを言うのは──らしくないかもしれないが」
「らしくないことが、一番らしいよ。蒼真は」
蒼真は少し目を細めた。
「どういう意味だ」
「一番人間らしいところが、蒼真のいいところだって思う」
蒼真は少しの間、黙っていた。
「……お前は、変なことを言う」
「変じゃないよ」
「……そうか」
その声が、少し柔らかかった。
朧が柊の隣に来た。
「泣いていたか」
「泣いてた。さっき蒼真にも言われた」
「なぜ泣いた」
「朧が──花を咲かせたとき。壊した場所に、花を咲かせることができると知って」
「泣く理由になるか」
「なるよ。朧が──壊すだけじゃないってことを、目で見たから」
朧は少しの間、柊を見た。
「俺は──壊すだけだと、白面に言われていた」
「知ってる」
「だが今日──花を咲かせることができた」
「うん」
「それが──悲しみにも、なった」
「悲しみ?」
「もっと早くできていれば、と思った。二百年前に、感情があれば──違ったかもしれない、と」
柊は朧を見た。
「それは──過去の話だよ」
「わかっている」
「でも、悲しいね」
「ああ」
「悲しんでいい。でも──今日、花を咲かせたことは、消えない」
「消えない」
「ずっと、残る」
朧は頷いた。
「ずっと、残る」
柊は朧の隣を歩きながら、その言葉を繰り返した。
ずっと、残る。
壊した記憶も残る。
でも──咲かせた花も、残る。
両方、抱えていく。
それが──これからの朧の道だと、柊は思った。
山を下りながら、久瀬が蒼真に言った。
「桐生への報告を──俺からもする」
「今日のことをか」
「今日のことと──俺の考えが変わったことを」
「それは、力になる」
「力になるかどうかはわからない」久瀬は静かに言った。「だが──言わなければ変わらない」
「言わなければ変わらない、か」
「どこかで聞いたような言葉だが」
「俺も使った」蒼真は言った。「柊が言ったのを聞いて」
久瀬は柊を見た。
柊は少し驚いた。
「俺が?」
「集落で言っていた」蒼真は言った。「少数でも、言わなければ変わらない、と」
「……言ったかもしれない」
「お前の言葉は──案外、人の中に残る」
柊は少し考えた。
「私の言葉が?」
「ああ」
「どの言葉が?」
「今言った言葉もそうだが──怖くても、信じることはできる、という言葉も」久瀬が言った。「昨夜、集落の老婆に言っていた」
「あれは──私が朧から教えてもらったことを、言っただけで」
「そうか」久瀬は朧を見た。「月喰いが、人間の娘に教えた言葉が──別の人間に届いた」
朧は少し考えた。
「……橋か」
「橋?」
「誰かに言われた。俺が橋になれ、と」
「橋」久瀬は繰り返した。「退魔師と月喰いの橋か」
「そうかもしれない」
「難しい橋だ」
「ああ」
「だが──今日、少し見えた気がする」久瀬は静かに言った。「橋の形が」
朧は久瀬を見た。
「今日、来てくれてよかった」
「俺も──来てよかった」
二人が並んで、山道を歩いた。
退魔師と月喰いが、並んで。
それが──今日から始まった光景だった。
宿に戻ると、夕刻だった。
久瀬は一夜だけ宿に泊まって、翌朝に連合へ戻ると言った。
夕餉を四人で食べた。
最初は静かだったが、久瀬が朧に聞いた。
「花を咲かせること──他にも、できるか」
「できる」
「どんなものが?」
「山の気を動かすことができる。草木を育てること、水を清めること──力の使い方によっては、色々ある」
「二百年前は、それを知らなかった」
「知らなかった。白面に──お前の存在は害悪だと吹き込まれた。だから、力を持て余した」
「今は違う」
「今は──使い方を知っている。知ろうとしている」
久瀬は頷いた。
「山葵沢の後を──誰かが、もう一度住める場所にしようとしているという話がある」
「そうか」
「退魔師の中に、廃村の再生に関わっている者がいる。山葵沢もその候補の一つだ。だが──土が痩せていて、難しいと言われていた」
朧は久瀬を見た。
「俺が、できるかもしれない」
「土を、育てられるか」
「試したことはないが──今日、花を咲かせることができた。それができるなら、土を育てることも」
久瀬は少し間を置いた。
「……手を貸す気があるか」
「ある」朧は静かに言った。「壊した場所を、少し──戻したい」
「完全には、戻らない」
「わかっている。だが、できることをする」
久瀬はしばらく朧を見た。
「……わかった。戻ったら、担当の者に話す」
「頼む」
久瀬と朧が、静かに頷き合った。
蒼真がそれを見て、茶を一口飲んだ。
柊はその光景を見ながら──また泣きそうになって、堪えた。
今日は、もう十分泣いた。
夜。
蒼真が柊に言った。
「明日、俺は連合へ戻る」
「そうなんだね」
「久瀬とは別の道で帰る。桐生さんに直接報告したいことがある」
「うん」
「お前は——どうする」
「朧と、もう少しここにいる」
「そうか」
蒼真は少し間を置いた。
「家族に、話すと言っていたな」
「うん。近いうちに、話しに行く」
「一人で行くのか」
「朧と一緒に」
蒼真は少し目を細めた。
「それは──また大変なことになりそうだ」
「そうかもしれない。でも──一緒に向き合う」
「朧もそれを望んでいるか」
「一緒に行こうって、言ったら──頼む、って言った」
「頼む、と言ったのか」
「うん」
蒼真は少し笑った。
「あいつも──変わったな」
「変わったね」
「お前も、変わった」
「私も?」
「最初に会ったとき──お前は、自分が役に立てないと思っていた」
「そうだったね」
「今は、どう思う」
柊は少し考えた。
「今は──役立てるかどうかより、何をしたいかを考えられるようになった気がする」
「それは──大きな変化だ」
「蒼真のおかげもある」
「俺のおかげ?」
「蒼真が、できると言ってくれたから。退魔師として、できると」
蒼真は目を逸らした。
「それは──事実を言っただけだ」
「事実でも、言ってくれた人がいるって、大事なんだよ」
蒼真は少しの間、黙っていた。
「……お前の感知能力は──本物だ。これから先、それは必ず役に立つ」
「ありがとう」
「礼はいい」
「言いたいから言う」
「……うるさい」
でも蒼真は──笑っていた。
隠さずに、笑っていた。
柊は、その笑顔を──目に焼き付けた。
大切なものを、しまうように。
翌朝、蒼真が出立した。
宿の前で、四人が別れた。
久瀬は先に出ていた。
蒼真は荷を背負って、朧と柊の前に立った。
「行く」
「うん」
「また来る」
「約束したね」
「した」
蒼真は朧を見た。
「朧」
「ん」
「山葵沢のこと──久瀬と、進めろ」
「進める」
「桐生さんへの報告は、俺がする。討伐命令の完全な取り消しを、急ぐ」
「頼む」
「頼まれる筋合いはないが──する」
朧は少しの間、蒼真を見た。
「蒼真」
「なんだ」
「お前は──いい人間だ」
蒼真は少し止まった。
「……いい退魔師だ、と言っていたのに、今度は人間か」
「どちらも、同じことを言っている」
「違う」
「どう違う」
「退魔師は──役割の話だ。人間は——お前が何者かということだ」
朧は少し考えた。
「そうか。では──いい退魔師で、いい人間だ」
蒼真は目を逸らした。
「……行く」
「うん」
「達者でいろ」
「蒼真も」
「言われなくても達者だ」
蒼真は歩き始めた。
三歩歩いて──止まった。
振り返った。
「柊」
「うん?」
「お前が選んだことは──正しかった」
「どのことを?」
「全部だ」
それだけ言って、蒼真は歩き始めた。
今度は、止まらなかった。
朝の光の中に、その背中が消えていった。
柊はその背中が見えなくなるまで、見ていた。
目が、少し熱かった。
堪えた。
朧が隣に来た。
「泣くか」
「堪えてる」
「なぜ堪える」
「蒼真が見てたら、泣いてるのを見られるから」
「もう見えていない」
「……そうだね」
柊は一粒だけ、涙を落とした。
一粒だけにしようと思って、一粒だけにした。
朧はそれを見て、何も言わなかった。
ただ──柊の隣に立っていた。
それで十分だった。
蒼真が去った後、朧と柊は宿に戻った。
しばらく縁側に座って、山を見た。
「これから──どうする」
柊が言った。
「山葵沢のことを、進める」朧は言った。
「久瀬と連絡を取りながら、土を育てる方法を考える」
「それと──家族に話しに行く」
「一緒に行く」
「大変かもしれないよ。父は、すぐにはわかってくれないかもしれない」
「向き合う」
「朧が言うと、説得力がある」
「そうか」
「今日のことがあるから」
朧は少しの間、柊を見た。
「柊」
「うん」
「一つ、聞いていいか」
「聞いて」
「お前は──これから、どこにいたい」
柊は少し考えた。
「朧がいる場所に、いたい」
「それだけか」
「それだけで、十分な理由だよ」
朧は柊を見た。
「同じことを、また言う」
「同じことでも、本当のことだから」
「……わかった」
「わかってくれた?」
「わかった」
「嬉しい?」
朧は少し考えた。
「嬉しい」
「最近、すぐに答えが出るようになったね」
「感情に、慣れてきた」
「いいことだ」
「お前がそう言うから、そう思う」
柊は笑った。
「朧は──これからどこにいたい?」
朧は少しの間、山を見た。
「山葵沢に──しばらく、いたいと思う」
「壊した場所に?」
「そこで、できることをしたい。土を育てて、花を咲かせて——少しずつ、戻していく」
「一人で?」
「一人では、できない」
柊は朧を見た。
「誰と?」
朧は柊を見た。
「お前と」
柊の胸が、温かくなった。
「それは──私に頼んでる?」
「頼んでいる」
「じゃあ──一緒にいる」
「それでいいか」
「それがいい」
朧は頷いた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
二人で、山を見た。
山葵沢がある方向を。
まだ遠くて、見えなかったが──確かに、そこにあった。
「行こう」
朧が言った。
「うん」
「急がなくていい。でも──行こう」
「うん」
「一緒に」
「一緒に」
二人の言葉が、重なった。
山が、朝の光を受けて輝いていた。
白い花が、どこかで咲いているような気がした。
気がしただけかもしれない。
でも──そういう気持ちになれることが、
柊には嬉しかった。
これが──これからの日々の始まりだった。
終わりではなく、始まり。
二人で歩いていく、長い道の──最初の一歩だった。
雨になるかもしれない、と蒼真は言った。
「それでも行くか」
「行く」朧は言った。
「雨の中で、壊した場所を見ることになるかもしれない」
「雨でも、晴れでも──変わらない」
蒼真は頷いた。
「そうだな」
久瀬は、約束通り来ていた。
宿の前に一人で立って、三人を待っていた。
昨夜の対話のときより、少し──柔らかく見えた。
刀は差していたが、手は柄に触れていなかった。
「来たか」
「来た」朧は言った。
二人が向かい合った。
しばらく、沈黙があった。
「道中、話せるか」久瀬が言った。
「話す」
「嫌なことを聞くかもしれない」
「聞く」
久瀬は朧を見た。
「……行くか」
五人で、山道を歩き始めた。
山葵沢は、二つの山の間にある細い谷に沿った集落だった。
三刻ほど歩いた先に、それはあった。
近づくにつれて、柊は気配を感じた。
古い気配だった。
何かが、長い時間をかけて積み重なった──静かで、重い気配。
「ここだ」
久瀬が足を止めた。
谷の入口に立って、奥を見ていた。
集落の跡があった。
石垣が残っていた。家の基礎だったものが、苔に覆われて残っていた。井戸が一つ、草に埋もれながら残っていた。
誰も住んでいなかった。
随分前に、誰も住まなくなった場所だった。
「二百年以上前に、ここで何かがあった」久瀬は静かに言った。「俺の家に伝わる話では──山が燃えた夜に、集落が消えた。生き残った者が、山を下りた。それが、俺の先祖だ」
朧は谷の奥を見ていた。
銀色の瞳が、何かを見ていた。
「記憶の中に──ここがある」
久瀬が朧を見た。
「ある、とは」
「俺が封印される前の記憶だ。燃えた野原の記憶の中に──この谷の形がある」
久瀬は黙っていた。
「確かなことは言えない。記憶は断片だ。だが──似ている」
「似ている、か」
「もっと奥に入れば、わかるかもしれない」
久瀬は少しの間、谷の奥を見た。
「……行くか」
谷の奥へ向かった。
道はなかった。
草が深く、岩が多く、歩きにくかった。
それでも五人は進んだ。
しばらく歩くと、開けた場所に出た。
平らな土地だった。
草が生えていたが、その下に──黒い土が見えた。
朧が立ち止まった。
目を閉じた。
「朧」柊が声をかけた。
「ここだ」
低い声だった。
「ここで──俺の力が、溢れた」
誰も、動かなかった。
「当時、俺には感情がなかった。止める理由も、止める方法も、知らなかった。力が溢れて──燃えた」
久瀬は黒い土を見ていた。
「それが──ここか」
「そうだと思う」
「……」
久瀬は膝をついた。
黒い土に、手を触れた。
「父の父の、さらに父が──ここにいたかもしれない」
誰も何も言わなかった。
風が吹いた。
草が揺れた。
久瀬は黒い土に触れたまま、しばらく動かなかった。
やがて、顔を上げた。
目が、赤かった。
「怒ってもいいか」
久瀬が朧に言った。
「怒れ」朧は静かに言った。
「許さなくていいか」
「許さなくていい」
「お前を──」
「怒れ」朧は繰り返した。「それが、正直なことだ」
久瀬は朧を見た。
「お前は──怖くないのか。俺に怒られることが」
「怖い」
「怖いのに、怒れと言うのか」
「俺が怖いと思うことは──お前の怒りを受け取れないことだ。受け取れなければ、ここに来た意味がない」
久瀬は長い間、朧を見た。
それから──深く息を吸って、吐いた。
「怒っている」久瀬は言った。「ずっと、怒っていた。誰に怒ればいいかわからなかったが──怒っていた」
「……ああ」
「父が死んだのは、あやかしのせいだと言われた。だから退魔師になった。だが──怒りの向け先は、ずっとなかった」
「今は、ある」
「ある」久瀬は静かに言った。「だが──」
久瀬は黒い土を見た。
「怒ることと、憎むことは──違う気がしてきた。昨夜から、ずっと考えていた」
「どう違う」
「怒りは──悲しみから来る。憎しみは──怒りを諦めたときに残るものだ」久瀬は言った。「俺は、ずっと憎んでいると思っていた。だが──本当は、ただ、悲しかったのかもしれない」
朧は久瀬を見た。
「俺も──悲しみを知った」
「お前が?」
「感情を持つようになってから、悲しみという感覚がわかってきた。柊が傷つくかもしれないとき。白面の中にある声を届けたとき──悲しかった」
久瀬は朧を見た。
「あやかしも、悲しむのか」
「わかってきた、と言った。まだ、覚えたばかりだ」
久瀬は少しの間、黙っていた。
「……二百年前のお前と、今のお前は──違うのか」
「違う」
「どう違う」
「当時は、感情がなかった。感情がないまま、力が溢れた。今は──感情がある。感情があるから、止める理由がわかる」
「止める理由」
「誰かが悲しむことを、知っているから」
久瀬は長い間、黒い土を見ていた。
それから、立ち上がった。
「俺は──許すとは言えない」
「わかっている」
「だが──」久瀬は朧を見た。「怒り続けることも、俺の答えではない気がしてきた」
「それは──久瀬が決めることだ」
「そうだな」
久瀬は谷の奥を見た。
「ここに──何か、できるか」
「何を?」
「この場所に、ここで消えた者たちへの──何かを」
朧は久瀬を見た。
それから、谷の奥を見た。
「できる」
「何を」
「俺の力で──草を育てることができる。山の気を動かすことができる。ここに、花を咲かせることができるかもしれない」
「花か」
「弔いになるかどうかは──わからない。だが、できることをする」
久瀬はしばらく考えた。
「やってみてくれ」
朧は頷いた。
膝をついた。
両手を黒い土に触れた。
目を閉じた。
柊は朧の横で、その手を見ていた。
土に触れる手が、静かに光り始めた。
淡い、銀色の光。
月の光に似た色だった。
光は土に染み込んでいった。
しばらく、何も変わらなかった。
それから──。
草の間から、小さな白い花が、一つ、また一つと咲き始めた。
野花だった。名前は知らない花だった。
でも──白くて、小さくて、かわいかった。
黒い土の上に、白い花が広がっていった。
久瀬は動かなかった。
その目が、また赤くなっていた。
蒼真も、黙って見ていた。
柊は──泣いていた。
堪えようとしたが、堪えられなかった。
静かに、涙が落ちた。
朧が目を開けた。
花が、谷の開けた場所に広がっていた。
白い花が、風に揺れていた。
「……ありがとう」
久瀬が、低い声で言った。
朧は久瀬を見た。
「俺が言うべき言葉ではないが──聞いてくれて、ありがとう」
「いや」朧は静かに言った。「来てくれて、ありがとう」
久瀬は少し目を細めた。
「月喰いに礼を言われるとは、思わなかった」
「俺も──久瀬に礼を言うとは、思わなかった」
久瀬は小さく──笑った。
疲れた笑いだったが、確かな笑いだった。
「奇妙なことになったな」
「ああ」
「退魔師と月喰いが、並んで花を見ている」
「ああ」
「悪くない」
「悪くない」朧は言った。
二人が、花を見た。
風が吹いた。
白い花が、一斉に揺れた。
帰り道、久瀬は少し前を歩いていた。
蒼真が柊の隣に来た。
「泣いていたか」
「泣いてた」
「見ていた」
「恥ずかしい?」
「恥ずかしくない。ただ──」蒼真は少し間を置いた。「朧が花を咲かせたとき、俺も──こみあげるものがあった」
「蒼真も?」
「退魔師がそういうことを言うのは──らしくないかもしれないが」
「らしくないことが、一番らしいよ。蒼真は」
蒼真は少し目を細めた。
「どういう意味だ」
「一番人間らしいところが、蒼真のいいところだって思う」
蒼真は少しの間、黙っていた。
「……お前は、変なことを言う」
「変じゃないよ」
「……そうか」
その声が、少し柔らかかった。
朧が柊の隣に来た。
「泣いていたか」
「泣いてた。さっき蒼真にも言われた」
「なぜ泣いた」
「朧が──花を咲かせたとき。壊した場所に、花を咲かせることができると知って」
「泣く理由になるか」
「なるよ。朧が──壊すだけじゃないってことを、目で見たから」
朧は少しの間、柊を見た。
「俺は──壊すだけだと、白面に言われていた」
「知ってる」
「だが今日──花を咲かせることができた」
「うん」
「それが──悲しみにも、なった」
「悲しみ?」
「もっと早くできていれば、と思った。二百年前に、感情があれば──違ったかもしれない、と」
柊は朧を見た。
「それは──過去の話だよ」
「わかっている」
「でも、悲しいね」
「ああ」
「悲しんでいい。でも──今日、花を咲かせたことは、消えない」
「消えない」
「ずっと、残る」
朧は頷いた。
「ずっと、残る」
柊は朧の隣を歩きながら、その言葉を繰り返した。
ずっと、残る。
壊した記憶も残る。
でも──咲かせた花も、残る。
両方、抱えていく。
それが──これからの朧の道だと、柊は思った。
山を下りながら、久瀬が蒼真に言った。
「桐生への報告を──俺からもする」
「今日のことをか」
「今日のことと──俺の考えが変わったことを」
「それは、力になる」
「力になるかどうかはわからない」久瀬は静かに言った。「だが──言わなければ変わらない」
「言わなければ変わらない、か」
「どこかで聞いたような言葉だが」
「俺も使った」蒼真は言った。「柊が言ったのを聞いて」
久瀬は柊を見た。
柊は少し驚いた。
「俺が?」
「集落で言っていた」蒼真は言った。「少数でも、言わなければ変わらない、と」
「……言ったかもしれない」
「お前の言葉は──案外、人の中に残る」
柊は少し考えた。
「私の言葉が?」
「ああ」
「どの言葉が?」
「今言った言葉もそうだが──怖くても、信じることはできる、という言葉も」久瀬が言った。「昨夜、集落の老婆に言っていた」
「あれは──私が朧から教えてもらったことを、言っただけで」
「そうか」久瀬は朧を見た。「月喰いが、人間の娘に教えた言葉が──別の人間に届いた」
朧は少し考えた。
「……橋か」
「橋?」
「誰かに言われた。俺が橋になれ、と」
「橋」久瀬は繰り返した。「退魔師と月喰いの橋か」
「そうかもしれない」
「難しい橋だ」
「ああ」
「だが──今日、少し見えた気がする」久瀬は静かに言った。「橋の形が」
朧は久瀬を見た。
「今日、来てくれてよかった」
「俺も──来てよかった」
二人が並んで、山道を歩いた。
退魔師と月喰いが、並んで。
それが──今日から始まった光景だった。
宿に戻ると、夕刻だった。
久瀬は一夜だけ宿に泊まって、翌朝に連合へ戻ると言った。
夕餉を四人で食べた。
最初は静かだったが、久瀬が朧に聞いた。
「花を咲かせること──他にも、できるか」
「できる」
「どんなものが?」
「山の気を動かすことができる。草木を育てること、水を清めること──力の使い方によっては、色々ある」
「二百年前は、それを知らなかった」
「知らなかった。白面に──お前の存在は害悪だと吹き込まれた。だから、力を持て余した」
「今は違う」
「今は──使い方を知っている。知ろうとしている」
久瀬は頷いた。
「山葵沢の後を──誰かが、もう一度住める場所にしようとしているという話がある」
「そうか」
「退魔師の中に、廃村の再生に関わっている者がいる。山葵沢もその候補の一つだ。だが──土が痩せていて、難しいと言われていた」
朧は久瀬を見た。
「俺が、できるかもしれない」
「土を、育てられるか」
「試したことはないが──今日、花を咲かせることができた。それができるなら、土を育てることも」
久瀬は少し間を置いた。
「……手を貸す気があるか」
「ある」朧は静かに言った。「壊した場所を、少し──戻したい」
「完全には、戻らない」
「わかっている。だが、できることをする」
久瀬はしばらく朧を見た。
「……わかった。戻ったら、担当の者に話す」
「頼む」
久瀬と朧が、静かに頷き合った。
蒼真がそれを見て、茶を一口飲んだ。
柊はその光景を見ながら──また泣きそうになって、堪えた。
今日は、もう十分泣いた。
夜。
蒼真が柊に言った。
「明日、俺は連合へ戻る」
「そうなんだね」
「久瀬とは別の道で帰る。桐生さんに直接報告したいことがある」
「うん」
「お前は——どうする」
「朧と、もう少しここにいる」
「そうか」
蒼真は少し間を置いた。
「家族に、話すと言っていたな」
「うん。近いうちに、話しに行く」
「一人で行くのか」
「朧と一緒に」
蒼真は少し目を細めた。
「それは──また大変なことになりそうだ」
「そうかもしれない。でも──一緒に向き合う」
「朧もそれを望んでいるか」
「一緒に行こうって、言ったら──頼む、って言った」
「頼む、と言ったのか」
「うん」
蒼真は少し笑った。
「あいつも──変わったな」
「変わったね」
「お前も、変わった」
「私も?」
「最初に会ったとき──お前は、自分が役に立てないと思っていた」
「そうだったね」
「今は、どう思う」
柊は少し考えた。
「今は──役立てるかどうかより、何をしたいかを考えられるようになった気がする」
「それは──大きな変化だ」
「蒼真のおかげもある」
「俺のおかげ?」
「蒼真が、できると言ってくれたから。退魔師として、できると」
蒼真は目を逸らした。
「それは──事実を言っただけだ」
「事実でも、言ってくれた人がいるって、大事なんだよ」
蒼真は少しの間、黙っていた。
「……お前の感知能力は──本物だ。これから先、それは必ず役に立つ」
「ありがとう」
「礼はいい」
「言いたいから言う」
「……うるさい」
でも蒼真は──笑っていた。
隠さずに、笑っていた。
柊は、その笑顔を──目に焼き付けた。
大切なものを、しまうように。
翌朝、蒼真が出立した。
宿の前で、四人が別れた。
久瀬は先に出ていた。
蒼真は荷を背負って、朧と柊の前に立った。
「行く」
「うん」
「また来る」
「約束したね」
「した」
蒼真は朧を見た。
「朧」
「ん」
「山葵沢のこと──久瀬と、進めろ」
「進める」
「桐生さんへの報告は、俺がする。討伐命令の完全な取り消しを、急ぐ」
「頼む」
「頼まれる筋合いはないが──する」
朧は少しの間、蒼真を見た。
「蒼真」
「なんだ」
「お前は──いい人間だ」
蒼真は少し止まった。
「……いい退魔師だ、と言っていたのに、今度は人間か」
「どちらも、同じことを言っている」
「違う」
「どう違う」
「退魔師は──役割の話だ。人間は——お前が何者かということだ」
朧は少し考えた。
「そうか。では──いい退魔師で、いい人間だ」
蒼真は目を逸らした。
「……行く」
「うん」
「達者でいろ」
「蒼真も」
「言われなくても達者だ」
蒼真は歩き始めた。
三歩歩いて──止まった。
振り返った。
「柊」
「うん?」
「お前が選んだことは──正しかった」
「どのことを?」
「全部だ」
それだけ言って、蒼真は歩き始めた。
今度は、止まらなかった。
朝の光の中に、その背中が消えていった。
柊はその背中が見えなくなるまで、見ていた。
目が、少し熱かった。
堪えた。
朧が隣に来た。
「泣くか」
「堪えてる」
「なぜ堪える」
「蒼真が見てたら、泣いてるのを見られるから」
「もう見えていない」
「……そうだね」
柊は一粒だけ、涙を落とした。
一粒だけにしようと思って、一粒だけにした。
朧はそれを見て、何も言わなかった。
ただ──柊の隣に立っていた。
それで十分だった。
蒼真が去った後、朧と柊は宿に戻った。
しばらく縁側に座って、山を見た。
「これから──どうする」
柊が言った。
「山葵沢のことを、進める」朧は言った。
「久瀬と連絡を取りながら、土を育てる方法を考える」
「それと──家族に話しに行く」
「一緒に行く」
「大変かもしれないよ。父は、すぐにはわかってくれないかもしれない」
「向き合う」
「朧が言うと、説得力がある」
「そうか」
「今日のことがあるから」
朧は少しの間、柊を見た。
「柊」
「うん」
「一つ、聞いていいか」
「聞いて」
「お前は──これから、どこにいたい」
柊は少し考えた。
「朧がいる場所に、いたい」
「それだけか」
「それだけで、十分な理由だよ」
朧は柊を見た。
「同じことを、また言う」
「同じことでも、本当のことだから」
「……わかった」
「わかってくれた?」
「わかった」
「嬉しい?」
朧は少し考えた。
「嬉しい」
「最近、すぐに答えが出るようになったね」
「感情に、慣れてきた」
「いいことだ」
「お前がそう言うから、そう思う」
柊は笑った。
「朧は──これからどこにいたい?」
朧は少しの間、山を見た。
「山葵沢に──しばらく、いたいと思う」
「壊した場所に?」
「そこで、できることをしたい。土を育てて、花を咲かせて——少しずつ、戻していく」
「一人で?」
「一人では、できない」
柊は朧を見た。
「誰と?」
朧は柊を見た。
「お前と」
柊の胸が、温かくなった。
「それは──私に頼んでる?」
「頼んでいる」
「じゃあ──一緒にいる」
「それでいいか」
「それがいい」
朧は頷いた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
二人で、山を見た。
山葵沢がある方向を。
まだ遠くて、見えなかったが──確かに、そこにあった。
「行こう」
朧が言った。
「うん」
「急がなくていい。でも──行こう」
「うん」
「一緒に」
「一緒に」
二人の言葉が、重なった。
山が、朝の光を受けて輝いていた。
白い花が、どこかで咲いているような気がした。
気がしただけかもしれない。
でも──そういう気持ちになれることが、
柊には嬉しかった。
これが──これからの日々の始まりだった。
終わりではなく、始まり。
二人で歩いていく、長い道の──最初の一歩だった。



