月喰いと契りの巫女

山葵沢へ向かう日の朝、空が曇っていた。

雨になるかもしれない、と蒼真は言った。

「それでも行くか」

「行く」朧は言った。

「雨の中で、壊した場所を見ることになるかもしれない」

「雨でも、晴れでも──変わらない」

蒼真は頷いた。

「そうだな」

久瀬は、約束通り来ていた。

宿の前に一人で立って、三人を待っていた。

昨夜の対話のときより、少し──柔らかく見えた。

刀は差していたが、手は柄に触れていなかった。

「来たか」

「来た」朧は言った。

二人が向かい合った。

しばらく、沈黙があった。

「道中、話せるか」久瀬が言った。

「話す」

「嫌なことを聞くかもしれない」

「聞く」

久瀬は朧を見た。

「……行くか」

五人で、山道を歩き始めた。

山葵沢は、二つの山の間にある細い谷に沿った集落だった。

三刻ほど歩いた先に、それはあった。

近づくにつれて、柊は気配を感じた。

古い気配だった。

何かが、長い時間をかけて積み重なった──静かで、重い気配。

「ここだ」

久瀬が足を止めた。

谷の入口に立って、奥を見ていた。

集落の跡があった。

石垣が残っていた。家の基礎だったものが、苔に覆われて残っていた。井戸が一つ、草に埋もれながら残っていた。

誰も住んでいなかった。

随分前に、誰も住まなくなった場所だった。

「二百年以上前に、ここで何かがあった」久瀬は静かに言った。「俺の家に伝わる話では──山が燃えた夜に、集落が消えた。生き残った者が、山を下りた。それが、俺の先祖だ」

朧は谷の奥を見ていた。

銀色の瞳が、何かを見ていた。

「記憶の中に──ここがある」

久瀬が朧を見た。

「ある、とは」

「俺が封印される前の記憶だ。燃えた野原の記憶の中に──この谷の形がある」

久瀬は黙っていた。

「確かなことは言えない。記憶は断片だ。だが──似ている」

「似ている、か」

「もっと奥に入れば、わかるかもしれない」

久瀬は少しの間、谷の奥を見た。

「……行くか」

谷の奥へ向かった。

道はなかった。

草が深く、岩が多く、歩きにくかった。

それでも五人は進んだ。

しばらく歩くと、開けた場所に出た。

平らな土地だった。

草が生えていたが、その下に──黒い土が見えた。

朧が立ち止まった。

目を閉じた。

「朧」柊が声をかけた。

「ここだ」

低い声だった。

「ここで──俺の力が、溢れた」

誰も、動かなかった。

「当時、俺には感情がなかった。止める理由も、止める方法も、知らなかった。力が溢れて──燃えた」

久瀬は黒い土を見ていた。

「それが──ここか」

「そうだと思う」

「……」

久瀬は膝をついた。

黒い土に、手を触れた。

「父の父の、さらに父が──ここにいたかもしれない」

誰も何も言わなかった。

風が吹いた。

草が揺れた。

久瀬は黒い土に触れたまま、しばらく動かなかった。

やがて、顔を上げた。

目が、赤かった。

「怒ってもいいか」

久瀬が朧に言った。

「怒れ」朧は静かに言った。

「許さなくていいか」

「許さなくていい」

「お前を──」

「怒れ」朧は繰り返した。「それが、正直なことだ」

久瀬は朧を見た。

「お前は──怖くないのか。俺に怒られることが」

「怖い」

「怖いのに、怒れと言うのか」

「俺が怖いと思うことは──お前の怒りを受け取れないことだ。受け取れなければ、ここに来た意味がない」

久瀬は長い間、朧を見た。

それから──深く息を吸って、吐いた。

「怒っている」久瀬は言った。「ずっと、怒っていた。誰に怒ればいいかわからなかったが──怒っていた」

「……ああ」

「父が死んだのは、あやかしのせいだと言われた。だから退魔師になった。だが──怒りの向け先は、ずっとなかった」

「今は、ある」

「ある」久瀬は静かに言った。「だが──」

久瀬は黒い土を見た。

「怒ることと、憎むことは──違う気がしてきた。昨夜から、ずっと考えていた」

「どう違う」

「怒りは──悲しみから来る。憎しみは──怒りを諦めたときに残るものだ」久瀬は言った。「俺は、ずっと憎んでいると思っていた。だが──本当は、ただ、悲しかったのかもしれない」

朧は久瀬を見た。

「俺も──悲しみを知った」

「お前が?」

「感情を持つようになってから、悲しみという感覚がわかってきた。柊が傷つくかもしれないとき。白面の中にある声を届けたとき──悲しかった」

久瀬は朧を見た。

「あやかしも、悲しむのか」

「わかってきた、と言った。まだ、覚えたばかりだ」

久瀬は少しの間、黙っていた。

「……二百年前のお前と、今のお前は──違うのか」

「違う」

「どう違う」

「当時は、感情がなかった。感情がないまま、力が溢れた。今は──感情がある。感情があるから、止める理由がわかる」

「止める理由」

「誰かが悲しむことを、知っているから」

久瀬は長い間、黒い土を見ていた。

それから、立ち上がった。

「俺は──許すとは言えない」

「わかっている」

「だが──」久瀬は朧を見た。「怒り続けることも、俺の答えではない気がしてきた」

「それは──久瀬が決めることだ」

「そうだな」

久瀬は谷の奥を見た。

「ここに──何か、できるか」

「何を?」

「この場所に、ここで消えた者たちへの──何かを」

朧は久瀬を見た。

それから、谷の奥を見た。

「できる」

「何を」

「俺の力で──草を育てることができる。山の気を動かすことができる。ここに、花を咲かせることができるかもしれない」

「花か」

「弔いになるかどうかは──わからない。だが、できることをする」

久瀬はしばらく考えた。

「やってみてくれ」

朧は頷いた。

膝をついた。

両手を黒い土に触れた。

目を閉じた。

柊は朧の横で、その手を見ていた。

土に触れる手が、静かに光り始めた。

淡い、銀色の光。

月の光に似た色だった。

光は土に染み込んでいった。

しばらく、何も変わらなかった。

それから──。

草の間から、小さな白い花が、一つ、また一つと咲き始めた。

野花だった。名前は知らない花だった。

でも──白くて、小さくて、かわいかった。

黒い土の上に、白い花が広がっていった。

久瀬は動かなかった。

その目が、また赤くなっていた。

蒼真も、黙って見ていた。

柊は──泣いていた。

堪えようとしたが、堪えられなかった。

静かに、涙が落ちた。

朧が目を開けた。

花が、谷の開けた場所に広がっていた。

白い花が、風に揺れていた。

「……ありがとう」

久瀬が、低い声で言った。

朧は久瀬を見た。

「俺が言うべき言葉ではないが──聞いてくれて、ありがとう」

「いや」朧は静かに言った。「来てくれて、ありがとう」

久瀬は少し目を細めた。

「月喰いに礼を言われるとは、思わなかった」

「俺も──久瀬に礼を言うとは、思わなかった」

久瀬は小さく──笑った。

疲れた笑いだったが、確かな笑いだった。

「奇妙なことになったな」

「ああ」

「退魔師と月喰いが、並んで花を見ている」

「ああ」

「悪くない」

「悪くない」朧は言った。

二人が、花を見た。

風が吹いた。

白い花が、一斉に揺れた。

帰り道、久瀬は少し前を歩いていた。

蒼真が柊の隣に来た。

「泣いていたか」

「泣いてた」

「見ていた」

「恥ずかしい?」


「恥ずかしくない。ただ──」蒼真は少し間を置いた。「朧が花を咲かせたとき、俺も──こみあげるものがあった」

「蒼真も?」

「退魔師がそういうことを言うのは──らしくないかもしれないが」

「らしくないことが、一番らしいよ。蒼真は」

蒼真は少し目を細めた。

「どういう意味だ」

「一番人間らしいところが、蒼真のいいところだって思う」

蒼真は少しの間、黙っていた。

「……お前は、変なことを言う」

「変じゃないよ」

「……そうか」

その声が、少し柔らかかった。

朧が柊の隣に来た。

「泣いていたか」

「泣いてた。さっき蒼真にも言われた」

「なぜ泣いた」

「朧が──花を咲かせたとき。壊した場所に、花を咲かせることができると知って」

「泣く理由になるか」

「なるよ。朧が──壊すだけじゃないってことを、目で見たから」

朧は少しの間、柊を見た。

「俺は──壊すだけだと、白面に言われていた」

「知ってる」

「だが今日──花を咲かせることができた」

「うん」

「それが──悲しみにも、なった」

「悲しみ?」

「もっと早くできていれば、と思った。二百年前に、感情があれば──違ったかもしれない、と」

柊は朧を見た。

「それは──過去の話だよ」

「わかっている」

「でも、悲しいね」

「ああ」

「悲しんでいい。でも──今日、花を咲かせたことは、消えない」

「消えない」

「ずっと、残る」

朧は頷いた。

「ずっと、残る」

柊は朧の隣を歩きながら、その言葉を繰り返した。

ずっと、残る。

壊した記憶も残る。

でも──咲かせた花も、残る。

両方、抱えていく。

それが──これからの朧の道だと、柊は思った。

山を下りながら、久瀬が蒼真に言った。

「桐生への報告を──俺からもする」

「今日のことをか」

「今日のことと──俺の考えが変わったことを」

「それは、力になる」

「力になるかどうかはわからない」久瀬は静かに言った。「だが──言わなければ変わらない」

「言わなければ変わらない、か」

「どこかで聞いたような言葉だが」

「俺も使った」蒼真は言った。「柊が言ったのを聞いて」

久瀬は柊を見た。

柊は少し驚いた。

「俺が?」

「集落で言っていた」蒼真は言った。「少数でも、言わなければ変わらない、と」

「……言ったかもしれない」

「お前の言葉は──案外、人の中に残る」

柊は少し考えた。

「私の言葉が?」

「ああ」

「どの言葉が?」

「今言った言葉もそうだが──怖くても、信じることはできる、という言葉も」久瀬が言った。「昨夜、集落の老婆に言っていた」
「あれは──私が朧から教えてもらったことを、言っただけで」

「そうか」久瀬は朧を見た。「月喰いが、人間の娘に教えた言葉が──別の人間に届いた」

朧は少し考えた。

「……橋か」

「橋?」

「誰かに言われた。俺が橋になれ、と」

「橋」久瀬は繰り返した。「退魔師と月喰いの橋か」

「そうかもしれない」

「難しい橋だ」

「ああ」

「だが──今日、少し見えた気がする」久瀬は静かに言った。「橋の形が」

朧は久瀬を見た。

「今日、来てくれてよかった」

「俺も──来てよかった」

二人が並んで、山道を歩いた。

退魔師と月喰いが、並んで。

それが──今日から始まった光景だった。

宿に戻ると、夕刻だった。

久瀬は一夜だけ宿に泊まって、翌朝に連合へ戻ると言った。

夕餉を四人で食べた。

最初は静かだったが、久瀬が朧に聞いた。

「花を咲かせること──他にも、できるか」

「できる」

「どんなものが?」

「山の気を動かすことができる。草木を育てること、水を清めること──力の使い方によっては、色々ある」

「二百年前は、それを知らなかった」

「知らなかった。白面に──お前の存在は害悪だと吹き込まれた。だから、力を持て余した」

「今は違う」

「今は──使い方を知っている。知ろうとしている」

久瀬は頷いた。

「山葵沢の後を──誰かが、もう一度住める場所にしようとしているという話がある」

「そうか」

「退魔師の中に、廃村の再生に関わっている者がいる。山葵沢もその候補の一つだ。だが──土が痩せていて、難しいと言われていた」

朧は久瀬を見た。

「俺が、できるかもしれない」

「土を、育てられるか」

「試したことはないが──今日、花を咲かせることができた。それができるなら、土を育てることも」

久瀬は少し間を置いた。

「……手を貸す気があるか」

「ある」朧は静かに言った。「壊した場所を、少し──戻したい」

「完全には、戻らない」

「わかっている。だが、できることをする」
久瀬はしばらく朧を見た。

「……わかった。戻ったら、担当の者に話す」

「頼む」

久瀬と朧が、静かに頷き合った。

蒼真がそれを見て、茶を一口飲んだ。

柊はその光景を見ながら──また泣きそうになって、堪えた。

今日は、もう十分泣いた。

夜。

蒼真が柊に言った。

「明日、俺は連合へ戻る」

「そうなんだね」

「久瀬とは別の道で帰る。桐生さんに直接報告したいことがある」

「うん」

「お前は——どうする」

「朧と、もう少しここにいる」

「そうか」

蒼真は少し間を置いた。

「家族に、話すと言っていたな」

「うん。近いうちに、話しに行く」

「一人で行くのか」

「朧と一緒に」

蒼真は少し目を細めた。

「それは──また大変なことになりそうだ」

「そうかもしれない。でも──一緒に向き合う」

「朧もそれを望んでいるか」

「一緒に行こうって、言ったら──頼む、って言った」

「頼む、と言ったのか」

「うん」

蒼真は少し笑った。

「あいつも──変わったな」

「変わったね」

「お前も、変わった」

「私も?」

「最初に会ったとき──お前は、自分が役に立てないと思っていた」

「そうだったね」

「今は、どう思う」

柊は少し考えた。

「今は──役立てるかどうかより、何をしたいかを考えられるようになった気がする」

「それは──大きな変化だ」

「蒼真のおかげもある」

「俺のおかげ?」

「蒼真が、できると言ってくれたから。退魔師として、できると」

蒼真は目を逸らした。

「それは──事実を言っただけだ」

「事実でも、言ってくれた人がいるって、大事なんだよ」

蒼真は少しの間、黙っていた。

「……お前の感知能力は──本物だ。これから先、それは必ず役に立つ」

「ありがとう」

「礼はいい」

「言いたいから言う」

「……うるさい」

でも蒼真は──笑っていた。

隠さずに、笑っていた。

柊は、その笑顔を──目に焼き付けた。

大切なものを、しまうように。

翌朝、蒼真が出立した。

宿の前で、四人が別れた。

久瀬は先に出ていた。

蒼真は荷を背負って、朧と柊の前に立った。

「行く」

「うん」

「また来る」

「約束したね」

「した」

蒼真は朧を見た。

「朧」

「ん」

「山葵沢のこと──久瀬と、進めろ」

「進める」

「桐生さんへの報告は、俺がする。討伐命令の完全な取り消しを、急ぐ」

「頼む」

「頼まれる筋合いはないが──する」

朧は少しの間、蒼真を見た。

「蒼真」

「なんだ」

「お前は──いい人間だ」

蒼真は少し止まった。

「……いい退魔師だ、と言っていたのに、今度は人間か」

「どちらも、同じことを言っている」

「違う」

「どう違う」

「退魔師は──役割の話だ。人間は——お前が何者かということだ」

朧は少し考えた。

「そうか。では──いい退魔師で、いい人間だ」

蒼真は目を逸らした。

「……行く」

「うん」

「達者でいろ」

「蒼真も」

「言われなくても達者だ」

蒼真は歩き始めた。

三歩歩いて──止まった。

振り返った。

「柊」

「うん?」

「お前が選んだことは──正しかった」

「どのことを?」

「全部だ」

それだけ言って、蒼真は歩き始めた。

今度は、止まらなかった。

朝の光の中に、その背中が消えていった。

柊はその背中が見えなくなるまで、見ていた。

目が、少し熱かった。

堪えた。

朧が隣に来た。

「泣くか」

「堪えてる」

「なぜ堪える」

「蒼真が見てたら、泣いてるのを見られるから」

「もう見えていない」

「……そうだね」

柊は一粒だけ、涙を落とした。

一粒だけにしようと思って、一粒だけにした。

朧はそれを見て、何も言わなかった。

ただ──柊の隣に立っていた。

それで十分だった。

蒼真が去った後、朧と柊は宿に戻った。

しばらく縁側に座って、山を見た。

「これから──どうする」

柊が言った。

「山葵沢のことを、進める」朧は言った。

「久瀬と連絡を取りながら、土を育てる方法を考える」

「それと──家族に話しに行く」

「一緒に行く」

「大変かもしれないよ。父は、すぐにはわかってくれないかもしれない」

「向き合う」

「朧が言うと、説得力がある」

「そうか」

「今日のことがあるから」

朧は少しの間、柊を見た。

「柊」

「うん」

「一つ、聞いていいか」

「聞いて」

「お前は──これから、どこにいたい」

柊は少し考えた。

「朧がいる場所に、いたい」

「それだけか」

「それだけで、十分な理由だよ」

朧は柊を見た。

「同じことを、また言う」

「同じことでも、本当のことだから」

「……わかった」

「わかってくれた?」

「わかった」

「嬉しい?」

朧は少し考えた。

「嬉しい」

「最近、すぐに答えが出るようになったね」

「感情に、慣れてきた」

「いいことだ」

「お前がそう言うから、そう思う」

柊は笑った。

「朧は──これからどこにいたい?」
朧は少しの間、山を見た。

「山葵沢に──しばらく、いたいと思う」

「壊した場所に?」

「そこで、できることをしたい。土を育てて、花を咲かせて——少しずつ、戻していく」

「一人で?」

「一人では、できない」

柊は朧を見た。

「誰と?」

朧は柊を見た。

「お前と」

柊の胸が、温かくなった。

「それは──私に頼んでる?」

「頼んでいる」

「じゃあ──一緒にいる」

「それでいいか」

「それがいい」

朧は頷いた。

「……ありがとう」

「どういたしまして」

二人で、山を見た。

山葵沢がある方向を。

まだ遠くて、見えなかったが──確かに、そこにあった。

「行こう」

朧が言った。

「うん」

「急がなくていい。でも──行こう」

「うん」

「一緒に」

「一緒に」

二人の言葉が、重なった。

山が、朝の光を受けて輝いていた。

白い花が、どこかで咲いているような気がした。

気がしただけかもしれない。

でも──そういう気持ちになれることが、
柊には嬉しかった。

これが──これからの日々の始まりだった。

終わりではなく、始まり。

二人で歩いていく、長い道の──最初の一歩だった。