山の中の対話は、長かった。
月が中天を過ぎても、終わらなかった。
五人の退魔師たちは、最初は刀を手放さなかった。
それでも、話した。
一人が話し始めると、別の一人が続いた。
長年、退魔師として生きてきた中で積み上げてきた恐れが、少しずつ──言葉になって出てきた。
「俺の父は、あやかしに殺された」
一人が言った。
若い退魔師だった。二十代の半ばくらいに見えた。
「山の集落で生まれた。幼い頃、父が討伐に出て──戻らなかった。だから退魔師になった」
誰も、何も言わなかった。
「あやかしを全部斬れとは思っていない。でも──信じることが、できない」
その言葉は、正直だった。
恐れを隠さない、正直な言葉だった。
朧は若い退魔師を見た。
「それは──正直なことだ」
「……」
「俺も、信じることを求めない。ただ──お前の父を殺したあやかしが何者だったか、俺にはわからない」
「わからなくていい。あやかしだった、それだけだ」
「そうか」朧は静かに言った。「俺が壊した集落にも、同じことを言う者がいるかもしれない。月喰いだった、それだけだ、と」
若い退魔師は、朧を見た。
「だが──」朧は続けた。「それだけ、では終わらせたくない。お前の父の話を、もっと聞きたい」
若い退魔師は、目を瞬かせた。
「……なぜ」
「俺がお前の父を殺したわけではない。だが──俺も、誰かの父を奪ったかもしれない。それを、ただの過去にしたくない」
「どういう意味だ」
「過去を聞くことが──俺にできる、最初のことだと思う」
静寂が降りた。
若い退魔師は、しばらく朧を見ていた。
それから、刀を──地面に置いた。
まだ鞘に収めてはいなかった。
でも、手放した。
「父は──山葵沢という集落の出だった」
低い声で、話し始めた。
月が西に傾いていった。
話は続いた。
五人それぞれの、それぞれの恐れがあった。
家族を失った者。仲間を失った者。自分自身が傷ついた者。
全員の話を、朧は静かに聞いた。
否定しなかった。
肯定もしなかった。
ただ──聞いた。
蒼真は傍らに立って、時折言葉を添えた。
柊は後ろで、周囲の気配を探りながら──その対話を聞いていた。
朧が、誰かの話をただ聞いている。
それが──どれほど大きなことか。
感情を持たなかった朧が、今、誰かの悲しみを受け取ろうとしている。
それは、白面にはできなかったことだった。
白面は、悲しみを怒りに変えた。
朧は──悲しみを、ただ、受け取ろうとしていた。
それが橋だ、と柊は思った。
言葉ではなく、行動で示すことが。
夜明け前、空が白み始めた頃。
五人の退魔師たちが、刀を鞘に収めた。
全員が、ではなかった。
四人が収めた。一人は──まだ、収めなかった。
「俺は──まだ、納得できない」
その一人が言った。
五人の中で、最年長に見えた男だった。
「話は聞いた。だが──月喰いの力がいつ暴走するかわからない。その恐れは、消えない」
「消えなくていい」蒼真は言った。
「消えなくていいのに、刀を収めろと?」
「収めてほしいとは言っていない」
男は蒼真を見た。
「お前は──どういうことを言っている」
「その恐れを持ったまま、向き合い続けることはできるか、と聞いている」
「向き合い続ける?」
「一夜で変わる話ではない」蒼真は静かに言った。「恐れが消えることを条件に信頼するのではなく──恐れを持ちながらも、見続ける。それができるか」
男はしばらく、蒼真を見た。
「……難しいことを言う」
「難しい」蒼真は認めた。「俺も、まだできていない部分がある」
「お前も、か」
「俺も、だ」
男は朧を見た。
朧は男を見た。
「お前は─恐れられることを、どう思う」
「怖い、という感覚が──俺にもある」
「何が怖い」
「俺の力が、また誰かを傷つけることが」
「……お前自身も、怖いのか」
「ああ」
男は長い間、朧を見た。
「俺が恐れているのと──同じものを、お前も恐れているのか」
「同じかどうかはわからない。だが──似ている部分があると思う」
男は目を閉じた。
それから、開いた。
刀を──鞘に収めた。
「今夜は、引く」
「ありがとう」蒼真が言った。
「礼を言われるようなことではない」男は言った。「ただ──今夜だけだ。これで終わりとは言えない」
「それでいい」
「桐生の交渉を、見守る。その上で──また、考える」
「それが今の答えなら、十分だ」
男は朧をもう一度見た。
「月喰いよ」
「ん」
「お前は──これから、何をする」
「壊した場所を、見に行く。できることを考える」
「壊した場所を?」
「俺が引き起こした災厄の場所だ。記憶の中にある。今もあるかどうかわからないが──見に行く」
男は少しの間、黙っていた。
「……その集落の名前は」
「山葵沢だ」
男の目が、動いた。
「山葵沢は──俺の家族が、出た場所だ」
場が、静かになった。
朧は男を見た。
「そうか」
「お前が、壊したのか」
「わからない。記憶の中にある場所が、その名前だ。確かめに行く前には、言えない」
「……」
「だが──もしそうなら、向き合わなければならない」
男は朧を見た。
長い間、見た。
「俺も──行く」
誰も、何も言わなかった。
「一緒に行く、と言っている。確かめたい。お前が何をしたか、俺の目で見たい」
朧は男を見た。
「覚悟しろ」
「何の覚悟だ」
「見たくないものを、見ることになるかもしれない」
「それは──お前もだろう」
朧は少しの間、黙っていた。
「……そうだ」
「なら──同じだ」
男は背を向けて、山を下りていった。
他の退魔師たちが続いた。
山に、朧と蒼真と柊だけが残った。
しばらく、誰も話さなかった。
木々の間から、夜明けの光が差し込んできた。
橙と金が混じった、柔らかい光。
柊は深く息を吸った。
体の中に、朝の空気が入ってきた。
「終わった」蒼真が言った。
「終わった、とは言いきれない」朧は言った。
「そうだな。始まった、の方が正しいか」
「そうだ」
蒼真は空を見た。
「俺は──今夜、自分が何をしているのか、何度も考えた」
「退魔師として、あやかしと向き合うことか」柊が言った。
「それだけではない」蒼真は静かに言った。
「俺が退魔師になったのは──人を守るためだ。それは変わらない。だが──誰を守るか、何から守るかは──変わってきた」
「どう変わった?」
蒼真は少しの間、黙っていた。
「人だけを守るのではなく──人が怯えることなく生きられる世界を、守りたいと思うようになった」
「それは──大きな話だね」
「大きすぎる話だ」蒼真は認めた。「俺一人では、できない」
「一人じゃない」
「わかっている」
「私がいる。朧がいる」
「わかっている、と言っている」
「照れてる?」
「違う」
朧が小声で柊に言った。
「照れている」
「聞こえている」蒼真は言った。
「聞こえていたか」
「ずっと聞こえていた。お前たちは小声が下手だ」
柊は笑った。
笑いたくて、笑った。
朝の光の中で、思い切り笑った。
朧も──今度はしっかりと、笑った。
蒼真は笑わなかったが──口元が、確かに緩んでいた。
山を下りながら、蒼真が言った。
「桐生さんに報告する。今夜のことを」
「反対派が引いたと知れば、交渉が進むか」朧が言った。
「そう思う。全員ではないが──一番強硬だった者が、一歩引いた。それは大きい」
「あの男は──山葵沢に行くと言った」
「ああ」蒼真は少し間を置いた。「一緒に行くつもりか」
「行く」
「覚悟しろ」
「お前も同じことを言う」
「そうだな」蒼真は静かに言った。「だが──一緒に行く」
朧は蒼真を見た。
「お前も来るのか」
「来ては、だめか」
「……来い」
「言われなくても行く」
柊は二人を見た。
「私も行く」
「当然と言うな」蒼真が言った。
「言わない。でも──行く」
「……わかった」
三人は並んで、山道を下りた。
夜明けの光が、山を照らしていた。
長い夜が、終わった。
宿に戻ると、宿の主人が朝餉の準備をしていた。
何も聞かず、ただ──三人分の飯を出した。
柊はその飯を、深く息を吸ってから食べた。
温かかった。
「おいしい」
「そうか」宿の主人は言った。
「ありがとうございます」
「礼はいい。食え」
それだけだった。
柊は笑って、飯を食った。
朧も食べた。
最近は、食べることが増えていた。
それが嬉しかった。
「朧」
「ん」
「おいしい?」
「……おいしい」
「最近、食べるようになったね」
「腹が減る、という感覚がわかってきた」
「人間みたい」
「そうかもしれない」
蒼真が茶を飲みながら言った。
「山葵沢には——いつ行く」
「桐生さんの返事を待ってから」朧は言った。「今夜のことを報告して、交渉がどうなるか確認してから」
「そうだな。急ぐことはない」
「ただ──あの男が先に行く前に、行きたい」
「連絡を取れるか」
「お前が知っているか」
「名前は──久瀬という。連絡先は桐生さんが知っているかもしれない」
「頼む」
「わかった」
三人で朝餉を食べた。
静かな朝だった。
長い夜の後の、静かな朝だった。
昼前、桐生から返事が来た。
今夜の対話について報告を受けた桐生は、
「想定より早く進んでいる」と書いていた。
久瀬という退魔師についても、桐生は知っていた。
久瀬は、連合の中で最も強硬な討伐派だった。その久瀬が一歩引いたことは、大きな意味を持つ。山葵沢への同行については、俺も同意する。ただし──慎重に動け。久瀬は
感情的な男ではないが、傷ついた者でもある。
蒼真が読み上げると、朧は静かに頷いた。
「傷ついた者に、向き合うことは──俺には経験がある」
「白面か」蒼真が言った。
「ああ。白面と向き合って、わかったことがある」
「何が?」
「傷ついた者に必要なのは──答えではない。声を、聞くことだ」
「声を聞く」
「白面が求めていたのは──失った者の声を、聞くことだった。俺が記憶の中から届けるまで、白面はその声を遮断し続けた。遮断しなければ、壊れると思っていたから」
「久瀬も──父の話を、誰かに聞いてほしかったのかもしれない」
「そうかもしれない」
蒼真は少し間を置いた。
「朧は──聞けるか。久瀬の話を」
「聞く」朧は静かに言った。「俺が壊したかもしれない場所の話だ。聞かなければならない」
「つらくないか」
「つらい、という感覚が——ある」朧は言った。「だが、つらいからやめる理由にはならない」
「……そうだな」
柊は朧を見た。
最初に会ったとき、朧は「つらい」という感覚を知らなかった。
今は知っている。
知った上で、向き合うと言っている。
それが──成長というものだと、柊は思った。
感情を持つことは、時に重い。
でも、その重さを持てることが──生きているということだから。
「朧」
「ん」
「一緒に聞く」
「わかっている」
「一人にしない」
「わかっている、と言っている」
「でも、言いたい」
朧は柊を見た。
「……言え」
「一緒に聞く。隣にいる」
朧はしばらく柊を見た。
それから──静かに、頷いた。
「……ありがとう」
朧が先に「ありがとう」を言った。
それが、柊には──嬉しかった。
最初の頃は、礼を言うことも知らなかった朧が。
午後、久瀬から連絡が来た。
桐生を通じて届いた、短い言葉だった。
山葵沢へは、三日後に行く。一緒に来るなら、来い。
蒼真が読み上げると、朧は頷いた。
「行く」
「俺も」蒼真は言った。
「私も」柊は言った。
三人の答えが重なった。
「三日後か」蒼真は言った。「それまでに──もう少し、準備できる」
「準備とは」
「気持ちの準備だ」蒼真は静かに言った。
「山葵沢が、お前の記憶の中にある場所と同じなら──お前にとって、簡単な旅ではない」
「わかっている」
「わかっている上で、聞く。怖いか」
朧は少し間を置いた。
「怖い」
「それでいい」蒼真は言った。「怖いと言えるなら──向き合える」
朧は蒼真を見た。
「蒼真」
「なんだ」
「お前は──いつから、そういうことを言えるようになった」
「どういうことを」
「怖いと言えるなら向き合える、というような」
蒼真は少し考えた。
「最近だ」
「何があった」
「……お前たちを見ていたら、わかってきた」
朧は蒼真を見た。
「俺たちから、学んだのか」
「学んだとは言っていない」
「では何だ」
「……見て、考えた。それだけだ」
朧は少しの間、蒼真を見た。
「そうか」
「そうだ」
「俺も──お前から、学んだ」
「俺から?」
「信念を持って動くことを。矛盾を抱えながらも、立ち続けることを」
蒼真は目を逸らした。
「余計なことを言うな」
「事実だと言っている」
「……うるさい」
柊は二人を見た。
「蒼真、照れてる」
「違う」
「照れてる」
「違うと言っている」
「朧」
「照れている」
「聞こえている」
「知ってる」
蒼真は深く息を吐いた。
「お前たちは──本当に、うるさい」
でも、その声には──怒りがなかった。
どこか、温かいものが混じっていた。
三日後のことを話しながら、柊はふと思った。
これが──日常だ、と。
劇的なことは、もう終わった。
白面は眠りについた。契りは解けた。退魔師たちとの対話が始まった。
これからは──静かに、続いていく。
山葵沢に行くこと。壊した場所を見ること。
退魔師たちとの関係を築くこと。人とあやかしの間に、橋を架けていくこと。
一日で終わる話ではない。
一年で終わる話でも、ないかもしれない。
でも──それでいい。
続いていくことが、生きているということだから。
「朧」
「ん」
「三日後、山葵沢に行って——それからどうする?」
「考えている」
「一緒に考えていい?」
「頼む」
「蒼真は?」
「俺は連合に戻る必要がある」蒼真は言った。「桐生さんの交渉を手伝う。だが──時々、来る」
「時々、来る」
「来ては、だめか」
「来てほしい」
蒼真は少し間を置いた。
「……来る」
柊は笑った。
「約束?」
「約束だ」
「よかった」
蒼真は窓の外を見た。
午後の光が、山を照らしていた。
「お前たちは──これから、どこにいる」
「どこだろう」柊は朧を見た。
朧は少し考えた。
「山葵沢を見てから──決める」
「決める?」
「壊した場所が、今どうなっているかを見てから。何ができるかを考えてから」
「そこに、留まるかもしれない?」
「留まることが──橋を架けることになるなら」
柊はその言葉を、胸の中で転がした。
壊した場所に、戻ること。
逃げるのではなく、向き合うために。
それが──朧の選んだ、橋の形かもしれない。
「一緒にいる」柊は言った。
「お前は──退魔師の家に戻らなくていいのか」
「今は、一緒にいる方が大事」
「家族は?」
「話してみる。母は──わかってくれると思う。父は、時間がかかるかもしれないけど」
「俺が──原因だ」
「そうだね」柊は笑った。「でも、それも含めて話す。朧が何者で、何をしてきて、これから何をしようとしているか。全部、話す」
「怖くないか」
「怖い。でも──言わなければ変わらない」
朧は柊を見た。
「……蒼真と同じことを言う」
「蒼真から学んだ」
蒼真が聞こえていた。
「俺のせいにするな」
「学んだって言ってる。感謝してる」
「……」
蒼真は黙った。
何かを言いかけて、止めた。
柊にはわかった。
「ありがとう」と言われて、何と返せばいいかわからないのだ。
「どういたしまして、だよ」
「言っていない」
「言いたかったんでしょう」
「……うるさい」
でも蒼真の耳が、少し赤かった。
朧が小声で柊に言った。
「さっきより、もっと照れている」
「知ってる」
「今日は隠せていない」
「疲れてるから」
「そうか」
「人間だからね」
「……俺も、最近、疲れることがある」
「人間みたいだね」
「そうかもしれない」
「嬉しい?」
朧は少し考えた。
「……悪くない」
柊は笑った。
朧も──笑った。
蒼真は聞こえていたが、何も言わなかった。
ただ──窓の外を見て、口元を緩めていた。
それが──今の三人の、日常だった。
これからも、続いていく日常の、始まりだった。
夜、柊は一人で縁側に出た。
月が出ていた。
満月より、ずっと欠けていた。
でも──その光は、変わらず届いていた。
朧が後ろから来た。
「また、空を見ているか」
「うん。月が、きれいだなって」
「ああ」
朧も月を見た。
「欠けていても、きれいだな」
「うん」
「満月でなくても」
「うん。朧は最近、きれいっていう言葉を使うようになったね」
「お前が教えてくれたから」
「他にも、覚えた言葉がたくさんある」
「ある」
「どれが一番、大切な言葉?」
朧は少し考えた。
「全部」
「全部?」
「全部、大切だ。どれが一番とは言えない。どれも──俺が持っていなかったものだから」
柊はその答えを、胸の中にしまった。
「朧」
「ん」
「これから、色々ある」
「ある」
「山葵沢のこと。久瀬さんのこと。連合の交渉。橋を架けること」
「ある」
「全部──一緒にやろう」
朧は柊を見た。
月の光が、その銀色の瞳に映っていた。
「一緒に、と言うのが——お前は好きだな」
「好きだよ」
「なぜ」
「一人より、一緒の方がいいから」
「それだけか」
「それだけで、十分な理由だよ」
朧は少しの間、柊を見た。
それから──静かに言った。
「一緒に、やろう」
柊の胸が、温かくなった。
月が、静かに輝いていた。
欠けていても、変わらない光だった。
満月じゃなくてもいい。
欠けていても、続いていればいい。
二人で並んで、月を見た。
それが──これからの、二人の始まりだった。
月が中天を過ぎても、終わらなかった。
五人の退魔師たちは、最初は刀を手放さなかった。
それでも、話した。
一人が話し始めると、別の一人が続いた。
長年、退魔師として生きてきた中で積み上げてきた恐れが、少しずつ──言葉になって出てきた。
「俺の父は、あやかしに殺された」
一人が言った。
若い退魔師だった。二十代の半ばくらいに見えた。
「山の集落で生まれた。幼い頃、父が討伐に出て──戻らなかった。だから退魔師になった」
誰も、何も言わなかった。
「あやかしを全部斬れとは思っていない。でも──信じることが、できない」
その言葉は、正直だった。
恐れを隠さない、正直な言葉だった。
朧は若い退魔師を見た。
「それは──正直なことだ」
「……」
「俺も、信じることを求めない。ただ──お前の父を殺したあやかしが何者だったか、俺にはわからない」
「わからなくていい。あやかしだった、それだけだ」
「そうか」朧は静かに言った。「俺が壊した集落にも、同じことを言う者がいるかもしれない。月喰いだった、それだけだ、と」
若い退魔師は、朧を見た。
「だが──」朧は続けた。「それだけ、では終わらせたくない。お前の父の話を、もっと聞きたい」
若い退魔師は、目を瞬かせた。
「……なぜ」
「俺がお前の父を殺したわけではない。だが──俺も、誰かの父を奪ったかもしれない。それを、ただの過去にしたくない」
「どういう意味だ」
「過去を聞くことが──俺にできる、最初のことだと思う」
静寂が降りた。
若い退魔師は、しばらく朧を見ていた。
それから、刀を──地面に置いた。
まだ鞘に収めてはいなかった。
でも、手放した。
「父は──山葵沢という集落の出だった」
低い声で、話し始めた。
月が西に傾いていった。
話は続いた。
五人それぞれの、それぞれの恐れがあった。
家族を失った者。仲間を失った者。自分自身が傷ついた者。
全員の話を、朧は静かに聞いた。
否定しなかった。
肯定もしなかった。
ただ──聞いた。
蒼真は傍らに立って、時折言葉を添えた。
柊は後ろで、周囲の気配を探りながら──その対話を聞いていた。
朧が、誰かの話をただ聞いている。
それが──どれほど大きなことか。
感情を持たなかった朧が、今、誰かの悲しみを受け取ろうとしている。
それは、白面にはできなかったことだった。
白面は、悲しみを怒りに変えた。
朧は──悲しみを、ただ、受け取ろうとしていた。
それが橋だ、と柊は思った。
言葉ではなく、行動で示すことが。
夜明け前、空が白み始めた頃。
五人の退魔師たちが、刀を鞘に収めた。
全員が、ではなかった。
四人が収めた。一人は──まだ、収めなかった。
「俺は──まだ、納得できない」
その一人が言った。
五人の中で、最年長に見えた男だった。
「話は聞いた。だが──月喰いの力がいつ暴走するかわからない。その恐れは、消えない」
「消えなくていい」蒼真は言った。
「消えなくていいのに、刀を収めろと?」
「収めてほしいとは言っていない」
男は蒼真を見た。
「お前は──どういうことを言っている」
「その恐れを持ったまま、向き合い続けることはできるか、と聞いている」
「向き合い続ける?」
「一夜で変わる話ではない」蒼真は静かに言った。「恐れが消えることを条件に信頼するのではなく──恐れを持ちながらも、見続ける。それができるか」
男はしばらく、蒼真を見た。
「……難しいことを言う」
「難しい」蒼真は認めた。「俺も、まだできていない部分がある」
「お前も、か」
「俺も、だ」
男は朧を見た。
朧は男を見た。
「お前は─恐れられることを、どう思う」
「怖い、という感覚が──俺にもある」
「何が怖い」
「俺の力が、また誰かを傷つけることが」
「……お前自身も、怖いのか」
「ああ」
男は長い間、朧を見た。
「俺が恐れているのと──同じものを、お前も恐れているのか」
「同じかどうかはわからない。だが──似ている部分があると思う」
男は目を閉じた。
それから、開いた。
刀を──鞘に収めた。
「今夜は、引く」
「ありがとう」蒼真が言った。
「礼を言われるようなことではない」男は言った。「ただ──今夜だけだ。これで終わりとは言えない」
「それでいい」
「桐生の交渉を、見守る。その上で──また、考える」
「それが今の答えなら、十分だ」
男は朧をもう一度見た。
「月喰いよ」
「ん」
「お前は──これから、何をする」
「壊した場所を、見に行く。できることを考える」
「壊した場所を?」
「俺が引き起こした災厄の場所だ。記憶の中にある。今もあるかどうかわからないが──見に行く」
男は少しの間、黙っていた。
「……その集落の名前は」
「山葵沢だ」
男の目が、動いた。
「山葵沢は──俺の家族が、出た場所だ」
場が、静かになった。
朧は男を見た。
「そうか」
「お前が、壊したのか」
「わからない。記憶の中にある場所が、その名前だ。確かめに行く前には、言えない」
「……」
「だが──もしそうなら、向き合わなければならない」
男は朧を見た。
長い間、見た。
「俺も──行く」
誰も、何も言わなかった。
「一緒に行く、と言っている。確かめたい。お前が何をしたか、俺の目で見たい」
朧は男を見た。
「覚悟しろ」
「何の覚悟だ」
「見たくないものを、見ることになるかもしれない」
「それは──お前もだろう」
朧は少しの間、黙っていた。
「……そうだ」
「なら──同じだ」
男は背を向けて、山を下りていった。
他の退魔師たちが続いた。
山に、朧と蒼真と柊だけが残った。
しばらく、誰も話さなかった。
木々の間から、夜明けの光が差し込んできた。
橙と金が混じった、柔らかい光。
柊は深く息を吸った。
体の中に、朝の空気が入ってきた。
「終わった」蒼真が言った。
「終わった、とは言いきれない」朧は言った。
「そうだな。始まった、の方が正しいか」
「そうだ」
蒼真は空を見た。
「俺は──今夜、自分が何をしているのか、何度も考えた」
「退魔師として、あやかしと向き合うことか」柊が言った。
「それだけではない」蒼真は静かに言った。
「俺が退魔師になったのは──人を守るためだ。それは変わらない。だが──誰を守るか、何から守るかは──変わってきた」
「どう変わった?」
蒼真は少しの間、黙っていた。
「人だけを守るのではなく──人が怯えることなく生きられる世界を、守りたいと思うようになった」
「それは──大きな話だね」
「大きすぎる話だ」蒼真は認めた。「俺一人では、できない」
「一人じゃない」
「わかっている」
「私がいる。朧がいる」
「わかっている、と言っている」
「照れてる?」
「違う」
朧が小声で柊に言った。
「照れている」
「聞こえている」蒼真は言った。
「聞こえていたか」
「ずっと聞こえていた。お前たちは小声が下手だ」
柊は笑った。
笑いたくて、笑った。
朝の光の中で、思い切り笑った。
朧も──今度はしっかりと、笑った。
蒼真は笑わなかったが──口元が、確かに緩んでいた。
山を下りながら、蒼真が言った。
「桐生さんに報告する。今夜のことを」
「反対派が引いたと知れば、交渉が進むか」朧が言った。
「そう思う。全員ではないが──一番強硬だった者が、一歩引いた。それは大きい」
「あの男は──山葵沢に行くと言った」
「ああ」蒼真は少し間を置いた。「一緒に行くつもりか」
「行く」
「覚悟しろ」
「お前も同じことを言う」
「そうだな」蒼真は静かに言った。「だが──一緒に行く」
朧は蒼真を見た。
「お前も来るのか」
「来ては、だめか」
「……来い」
「言われなくても行く」
柊は二人を見た。
「私も行く」
「当然と言うな」蒼真が言った。
「言わない。でも──行く」
「……わかった」
三人は並んで、山道を下りた。
夜明けの光が、山を照らしていた。
長い夜が、終わった。
宿に戻ると、宿の主人が朝餉の準備をしていた。
何も聞かず、ただ──三人分の飯を出した。
柊はその飯を、深く息を吸ってから食べた。
温かかった。
「おいしい」
「そうか」宿の主人は言った。
「ありがとうございます」
「礼はいい。食え」
それだけだった。
柊は笑って、飯を食った。
朧も食べた。
最近は、食べることが増えていた。
それが嬉しかった。
「朧」
「ん」
「おいしい?」
「……おいしい」
「最近、食べるようになったね」
「腹が減る、という感覚がわかってきた」
「人間みたい」
「そうかもしれない」
蒼真が茶を飲みながら言った。
「山葵沢には——いつ行く」
「桐生さんの返事を待ってから」朧は言った。「今夜のことを報告して、交渉がどうなるか確認してから」
「そうだな。急ぐことはない」
「ただ──あの男が先に行く前に、行きたい」
「連絡を取れるか」
「お前が知っているか」
「名前は──久瀬という。連絡先は桐生さんが知っているかもしれない」
「頼む」
「わかった」
三人で朝餉を食べた。
静かな朝だった。
長い夜の後の、静かな朝だった。
昼前、桐生から返事が来た。
今夜の対話について報告を受けた桐生は、
「想定より早く進んでいる」と書いていた。
久瀬という退魔師についても、桐生は知っていた。
久瀬は、連合の中で最も強硬な討伐派だった。その久瀬が一歩引いたことは、大きな意味を持つ。山葵沢への同行については、俺も同意する。ただし──慎重に動け。久瀬は
感情的な男ではないが、傷ついた者でもある。
蒼真が読み上げると、朧は静かに頷いた。
「傷ついた者に、向き合うことは──俺には経験がある」
「白面か」蒼真が言った。
「ああ。白面と向き合って、わかったことがある」
「何が?」
「傷ついた者に必要なのは──答えではない。声を、聞くことだ」
「声を聞く」
「白面が求めていたのは──失った者の声を、聞くことだった。俺が記憶の中から届けるまで、白面はその声を遮断し続けた。遮断しなければ、壊れると思っていたから」
「久瀬も──父の話を、誰かに聞いてほしかったのかもしれない」
「そうかもしれない」
蒼真は少し間を置いた。
「朧は──聞けるか。久瀬の話を」
「聞く」朧は静かに言った。「俺が壊したかもしれない場所の話だ。聞かなければならない」
「つらくないか」
「つらい、という感覚が——ある」朧は言った。「だが、つらいからやめる理由にはならない」
「……そうだな」
柊は朧を見た。
最初に会ったとき、朧は「つらい」という感覚を知らなかった。
今は知っている。
知った上で、向き合うと言っている。
それが──成長というものだと、柊は思った。
感情を持つことは、時に重い。
でも、その重さを持てることが──生きているということだから。
「朧」
「ん」
「一緒に聞く」
「わかっている」
「一人にしない」
「わかっている、と言っている」
「でも、言いたい」
朧は柊を見た。
「……言え」
「一緒に聞く。隣にいる」
朧はしばらく柊を見た。
それから──静かに、頷いた。
「……ありがとう」
朧が先に「ありがとう」を言った。
それが、柊には──嬉しかった。
最初の頃は、礼を言うことも知らなかった朧が。
午後、久瀬から連絡が来た。
桐生を通じて届いた、短い言葉だった。
山葵沢へは、三日後に行く。一緒に来るなら、来い。
蒼真が読み上げると、朧は頷いた。
「行く」
「俺も」蒼真は言った。
「私も」柊は言った。
三人の答えが重なった。
「三日後か」蒼真は言った。「それまでに──もう少し、準備できる」
「準備とは」
「気持ちの準備だ」蒼真は静かに言った。
「山葵沢が、お前の記憶の中にある場所と同じなら──お前にとって、簡単な旅ではない」
「わかっている」
「わかっている上で、聞く。怖いか」
朧は少し間を置いた。
「怖い」
「それでいい」蒼真は言った。「怖いと言えるなら──向き合える」
朧は蒼真を見た。
「蒼真」
「なんだ」
「お前は──いつから、そういうことを言えるようになった」
「どういうことを」
「怖いと言えるなら向き合える、というような」
蒼真は少し考えた。
「最近だ」
「何があった」
「……お前たちを見ていたら、わかってきた」
朧は蒼真を見た。
「俺たちから、学んだのか」
「学んだとは言っていない」
「では何だ」
「……見て、考えた。それだけだ」
朧は少しの間、蒼真を見た。
「そうか」
「そうだ」
「俺も──お前から、学んだ」
「俺から?」
「信念を持って動くことを。矛盾を抱えながらも、立ち続けることを」
蒼真は目を逸らした。
「余計なことを言うな」
「事実だと言っている」
「……うるさい」
柊は二人を見た。
「蒼真、照れてる」
「違う」
「照れてる」
「違うと言っている」
「朧」
「照れている」
「聞こえている」
「知ってる」
蒼真は深く息を吐いた。
「お前たちは──本当に、うるさい」
でも、その声には──怒りがなかった。
どこか、温かいものが混じっていた。
三日後のことを話しながら、柊はふと思った。
これが──日常だ、と。
劇的なことは、もう終わった。
白面は眠りについた。契りは解けた。退魔師たちとの対話が始まった。
これからは──静かに、続いていく。
山葵沢に行くこと。壊した場所を見ること。
退魔師たちとの関係を築くこと。人とあやかしの間に、橋を架けていくこと。
一日で終わる話ではない。
一年で終わる話でも、ないかもしれない。
でも──それでいい。
続いていくことが、生きているということだから。
「朧」
「ん」
「三日後、山葵沢に行って——それからどうする?」
「考えている」
「一緒に考えていい?」
「頼む」
「蒼真は?」
「俺は連合に戻る必要がある」蒼真は言った。「桐生さんの交渉を手伝う。だが──時々、来る」
「時々、来る」
「来ては、だめか」
「来てほしい」
蒼真は少し間を置いた。
「……来る」
柊は笑った。
「約束?」
「約束だ」
「よかった」
蒼真は窓の外を見た。
午後の光が、山を照らしていた。
「お前たちは──これから、どこにいる」
「どこだろう」柊は朧を見た。
朧は少し考えた。
「山葵沢を見てから──決める」
「決める?」
「壊した場所が、今どうなっているかを見てから。何ができるかを考えてから」
「そこに、留まるかもしれない?」
「留まることが──橋を架けることになるなら」
柊はその言葉を、胸の中で転がした。
壊した場所に、戻ること。
逃げるのではなく、向き合うために。
それが──朧の選んだ、橋の形かもしれない。
「一緒にいる」柊は言った。
「お前は──退魔師の家に戻らなくていいのか」
「今は、一緒にいる方が大事」
「家族は?」
「話してみる。母は──わかってくれると思う。父は、時間がかかるかもしれないけど」
「俺が──原因だ」
「そうだね」柊は笑った。「でも、それも含めて話す。朧が何者で、何をしてきて、これから何をしようとしているか。全部、話す」
「怖くないか」
「怖い。でも──言わなければ変わらない」
朧は柊を見た。
「……蒼真と同じことを言う」
「蒼真から学んだ」
蒼真が聞こえていた。
「俺のせいにするな」
「学んだって言ってる。感謝してる」
「……」
蒼真は黙った。
何かを言いかけて、止めた。
柊にはわかった。
「ありがとう」と言われて、何と返せばいいかわからないのだ。
「どういたしまして、だよ」
「言っていない」
「言いたかったんでしょう」
「……うるさい」
でも蒼真の耳が、少し赤かった。
朧が小声で柊に言った。
「さっきより、もっと照れている」
「知ってる」
「今日は隠せていない」
「疲れてるから」
「そうか」
「人間だからね」
「……俺も、最近、疲れることがある」
「人間みたいだね」
「そうかもしれない」
「嬉しい?」
朧は少し考えた。
「……悪くない」
柊は笑った。
朧も──笑った。
蒼真は聞こえていたが、何も言わなかった。
ただ──窓の外を見て、口元を緩めていた。
それが──今の三人の、日常だった。
これからも、続いていく日常の、始まりだった。
夜、柊は一人で縁側に出た。
月が出ていた。
満月より、ずっと欠けていた。
でも──その光は、変わらず届いていた。
朧が後ろから来た。
「また、空を見ているか」
「うん。月が、きれいだなって」
「ああ」
朧も月を見た。
「欠けていても、きれいだな」
「うん」
「満月でなくても」
「うん。朧は最近、きれいっていう言葉を使うようになったね」
「お前が教えてくれたから」
「他にも、覚えた言葉がたくさんある」
「ある」
「どれが一番、大切な言葉?」
朧は少し考えた。
「全部」
「全部?」
「全部、大切だ。どれが一番とは言えない。どれも──俺が持っていなかったものだから」
柊はその答えを、胸の中にしまった。
「朧」
「ん」
「これから、色々ある」
「ある」
「山葵沢のこと。久瀬さんのこと。連合の交渉。橋を架けること」
「ある」
「全部──一緒にやろう」
朧は柊を見た。
月の光が、その銀色の瞳に映っていた。
「一緒に、と言うのが——お前は好きだな」
「好きだよ」
「なぜ」
「一人より、一緒の方がいいから」
「それだけか」
「それだけで、十分な理由だよ」
朧は少しの間、柊を見た。
それから──静かに言った。
「一緒に、やろう」
柊の胸が、温かくなった。
月が、静かに輝いていた。
欠けていても、変わらない光だった。
満月じゃなくてもいい。
欠けていても、続いていればいい。
二人で並んで、月を見た。
それが──これからの、二人の始まりだった。



