月喰いと契りの巫女

山の中の対話は、長かった。

月が中天を過ぎても、終わらなかった。

五人の退魔師たちは、最初は刀を手放さなかった。

それでも、話した。

一人が話し始めると、別の一人が続いた。
長年、退魔師として生きてきた中で積み上げてきた恐れが、少しずつ──言葉になって出てきた。

「俺の父は、あやかしに殺された」

一人が言った。

若い退魔師だった。二十代の半ばくらいに見えた。

「山の集落で生まれた。幼い頃、父が討伐に出て──戻らなかった。だから退魔師になった」

誰も、何も言わなかった。

「あやかしを全部斬れとは思っていない。でも──信じることが、できない」

その言葉は、正直だった。

恐れを隠さない、正直な言葉だった。

朧は若い退魔師を見た。

「それは──正直なことだ」

「……」

「俺も、信じることを求めない。ただ──お前の父を殺したあやかしが何者だったか、俺にはわからない」

「わからなくていい。あやかしだった、それだけだ」

「そうか」朧は静かに言った。「俺が壊した集落にも、同じことを言う者がいるかもしれない。月喰いだった、それだけだ、と」

若い退魔師は、朧を見た。

「だが──」朧は続けた。「それだけ、では終わらせたくない。お前の父の話を、もっと聞きたい」

若い退魔師は、目を瞬かせた。

「……なぜ」

「俺がお前の父を殺したわけではない。だが──俺も、誰かの父を奪ったかもしれない。それを、ただの過去にしたくない」

「どういう意味だ」

「過去を聞くことが──俺にできる、最初のことだと思う」

静寂が降りた。

若い退魔師は、しばらく朧を見ていた。

それから、刀を──地面に置いた。

まだ鞘に収めてはいなかった。

でも、手放した。

「父は──山葵沢(わさびざわ)という集落の出だった」

低い声で、話し始めた。

月が西に傾いていった。

話は続いた。

五人それぞれの、それぞれの恐れがあった。

家族を失った者。仲間を失った者。自分自身が傷ついた者。

全員の話を、朧は静かに聞いた。

否定しなかった。

肯定もしなかった。

ただ──聞いた。

蒼真は傍らに立って、時折言葉を添えた。

柊は後ろで、周囲の気配を探りながら──その対話を聞いていた。

朧が、誰かの話をただ聞いている。

それが──どれほど大きなことか。

感情を持たなかった朧が、今、誰かの悲しみを受け取ろうとしている。

それは、白面にはできなかったことだった。

白面は、悲しみを怒りに変えた。

朧は──悲しみを、ただ、受け取ろうとしていた。

それが橋だ、と柊は思った。

言葉ではなく、行動で示すことが。

夜明け前、空が白み始めた頃。

五人の退魔師たちが、刀を鞘に収めた。

全員が、ではなかった。

四人が収めた。一人は──まだ、収めなかった。

「俺は──まだ、納得できない」

その一人が言った。

五人の中で、最年長に見えた男だった。

「話は聞いた。だが──月喰いの力がいつ暴走するかわからない。その恐れは、消えない」

「消えなくていい」蒼真は言った。

「消えなくていいのに、刀を収めろと?」

「収めてほしいとは言っていない」

男は蒼真を見た。

「お前は──どういうことを言っている」

「その恐れを持ったまま、向き合い続けることはできるか、と聞いている」

「向き合い続ける?」

「一夜で変わる話ではない」蒼真は静かに言った。「恐れが消えることを条件に信頼するのではなく──恐れを持ちながらも、見続ける。それができるか」
男はしばらく、蒼真を見た。

「……難しいことを言う」

「難しい」蒼真は認めた。「俺も、まだできていない部分がある」

「お前も、か」

「俺も、だ」

男は朧を見た。

朧は男を見た。

「お前は─恐れられることを、どう思う」

「怖い、という感覚が──俺にもある」

「何が怖い」

「俺の力が、また誰かを傷つけることが」

「……お前自身も、怖いのか」

「ああ」

男は長い間、朧を見た。

「俺が恐れているのと──同じものを、お前も恐れているのか」

「同じかどうかはわからない。だが──似ている部分があると思う」

男は目を閉じた。

それから、開いた。

刀を──鞘に収めた。

「今夜は、引く」

「ありがとう」蒼真が言った。

「礼を言われるようなことではない」男は言った。「ただ──今夜だけだ。これで終わりとは言えない」

「それでいい」

「桐生の交渉を、見守る。その上で──また、考える」

「それが今の答えなら、十分だ」

男は朧をもう一度見た。

「月喰いよ」

「ん」

「お前は──これから、何をする」

「壊した場所を、見に行く。できることを考える」

「壊した場所を?」

「俺が引き起こした災厄の場所だ。記憶の中にある。今もあるかどうかわからないが──見に行く」

男は少しの間、黙っていた。

「……その集落の名前は」

「山葵沢だ」

男の目が、動いた。

「山葵沢は──俺の家族が、出た場所だ」
場が、静かになった。

朧は男を見た。

「そうか」

「お前が、壊したのか」

「わからない。記憶の中にある場所が、その名前だ。確かめに行く前には、言えない」

「……」

「だが──もしそうなら、向き合わなければならない」

男は朧を見た。

長い間、見た。

「俺も──行く」

誰も、何も言わなかった。

「一緒に行く、と言っている。確かめたい。お前が何をしたか、俺の目で見たい」
朧は男を見た。

「覚悟しろ」

「何の覚悟だ」

「見たくないものを、見ることになるかもしれない」

「それは──お前もだろう」

朧は少しの間、黙っていた。

「……そうだ」

「なら──同じだ」

男は背を向けて、山を下りていった。

他の退魔師たちが続いた。

山に、朧と蒼真と柊だけが残った。

しばらく、誰も話さなかった。

木々の間から、夜明けの光が差し込んできた。

橙と金が混じった、柔らかい光。

柊は深く息を吸った。

体の中に、朝の空気が入ってきた。

「終わった」蒼真が言った。

「終わった、とは言いきれない」朧は言った。

「そうだな。始まった、の方が正しいか」

「そうだ」

蒼真は空を見た。

「俺は──今夜、自分が何をしているのか、何度も考えた」

「退魔師として、あやかしと向き合うことか」柊が言った。

「それだけではない」蒼真は静かに言った。

「俺が退魔師になったのは──人を守るためだ。それは変わらない。だが──誰を守るか、何から守るかは──変わってきた」

「どう変わった?」

蒼真は少しの間、黙っていた。

「人だけを守るのではなく──人が怯えることなく生きられる世界を、守りたいと思うようになった」

「それは──大きな話だね」

「大きすぎる話だ」蒼真は認めた。「俺一人では、できない」

「一人じゃない」

「わかっている」

「私がいる。朧がいる」

「わかっている、と言っている」

「照れてる?」

「違う」

朧が小声で柊に言った。

「照れている」

「聞こえている」蒼真は言った。

「聞こえていたか」

「ずっと聞こえていた。お前たちは小声が下手だ」

柊は笑った。

笑いたくて、笑った。

朝の光の中で、思い切り笑った。

朧も──今度はしっかりと、笑った。

蒼真は笑わなかったが──口元が、確かに緩んでいた。

山を下りながら、蒼真が言った。

「桐生さんに報告する。今夜のことを」

「反対派が引いたと知れば、交渉が進むか」朧が言った。

「そう思う。全員ではないが──一番強硬だった者が、一歩引いた。それは大きい」

「あの男は──山葵沢に行くと言った」

「ああ」蒼真は少し間を置いた。「一緒に行くつもりか」

「行く」

「覚悟しろ」

「お前も同じことを言う」

「そうだな」蒼真は静かに言った。「だが──一緒に行く」

朧は蒼真を見た。

「お前も来るのか」

「来ては、だめか」

「……来い」

「言われなくても行く」

柊は二人を見た。

「私も行く」

「当然と言うな」蒼真が言った。

「言わない。でも──行く」

「……わかった」

三人は並んで、山道を下りた。

夜明けの光が、山を照らしていた。

長い夜が、終わった。

宿に戻ると、宿の主人が朝餉の準備をしていた。

何も聞かず、ただ──三人分の飯を出した。

柊はその飯を、深く息を吸ってから食べた。

温かかった。

「おいしい」

「そうか」宿の主人は言った。

「ありがとうございます」

「礼はいい。食え」

それだけだった。

柊は笑って、飯を食った。

朧も食べた。

最近は、食べることが増えていた。

それが嬉しかった。

「朧」

「ん」

「おいしい?」

「……おいしい」

「最近、食べるようになったね」

「腹が減る、という感覚がわかってきた」

「人間みたい」

「そうかもしれない」

蒼真が茶を飲みながら言った。

「山葵沢には——いつ行く」

「桐生さんの返事を待ってから」朧は言った。「今夜のことを報告して、交渉がどうなるか確認してから」

「そうだな。急ぐことはない」

「ただ──あの男が先に行く前に、行きたい」

「連絡を取れるか」

「お前が知っているか」

「名前は──久瀬(くぜ)という。連絡先は桐生さんが知っているかもしれない」

「頼む」

「わかった」

三人で朝餉を食べた。

静かな朝だった。

長い夜の後の、静かな朝だった。

昼前、桐生から返事が来た。

今夜の対話について報告を受けた桐生は、
「想定より早く進んでいる」と書いていた。
久瀬という退魔師についても、桐生は知っていた。

久瀬は、連合の中で最も強硬な討伐派だった。その久瀬が一歩引いたことは、大きな意味を持つ。山葵沢への同行については、俺も同意する。ただし──慎重に動け。久瀬は
感情的な男ではないが、傷ついた者でもある。

蒼真が読み上げると、朧は静かに頷いた。

「傷ついた者に、向き合うことは──俺には経験がある」

「白面か」蒼真が言った。

「ああ。白面と向き合って、わかったことがある」

「何が?」

「傷ついた者に必要なのは──答えではない。声を、聞くことだ」

「声を聞く」

「白面が求めていたのは──失った者の声を、聞くことだった。俺が記憶の中から届けるまで、白面はその声を遮断し続けた。遮断しなければ、壊れると思っていたから」

「久瀬も──父の話を、誰かに聞いてほしかったのかもしれない」

「そうかもしれない」

蒼真は少し間を置いた。

「朧は──聞けるか。久瀬の話を」

「聞く」朧は静かに言った。「俺が壊したかもしれない場所の話だ。聞かなければならない」

「つらくないか」

「つらい、という感覚が——ある」朧は言った。「だが、つらいからやめる理由にはならない」

「……そうだな」

柊は朧を見た。

最初に会ったとき、朧は「つらい」という感覚を知らなかった。

今は知っている。

知った上で、向き合うと言っている。

それが──成長というものだと、柊は思った。

感情を持つことは、時に重い。

でも、その重さを持てることが──生きているということだから。

「朧」

「ん」

「一緒に聞く」

「わかっている」

「一人にしない」

「わかっている、と言っている」

「でも、言いたい」

朧は柊を見た。

「……言え」

「一緒に聞く。隣にいる」

朧はしばらく柊を見た。

それから──静かに、頷いた。

「……ありがとう」

朧が先に「ありがとう」を言った。

それが、柊には──嬉しかった。

最初の頃は、礼を言うことも知らなかった朧が。

午後、久瀬から連絡が来た。

桐生を通じて届いた、短い言葉だった。

山葵沢へは、三日後に行く。一緒に来るなら、来い。

蒼真が読み上げると、朧は頷いた。

「行く」

「俺も」蒼真は言った。

「私も」柊は言った。

三人の答えが重なった。

「三日後か」蒼真は言った。「それまでに──もう少し、準備できる」

「準備とは」

「気持ちの準備だ」蒼真は静かに言った。

「山葵沢が、お前の記憶の中にある場所と同じなら──お前にとって、簡単な旅ではない」

「わかっている」

「わかっている上で、聞く。怖いか」

朧は少し間を置いた。

「怖い」

「それでいい」蒼真は言った。「怖いと言えるなら──向き合える」

朧は蒼真を見た。

「蒼真」

「なんだ」

「お前は──いつから、そういうことを言えるようになった」

「どういうことを」

「怖いと言えるなら向き合える、というような」

蒼真は少し考えた。

「最近だ」

「何があった」

「……お前たちを見ていたら、わかってきた」

朧は蒼真を見た。

「俺たちから、学んだのか」

「学んだとは言っていない」

「では何だ」

「……見て、考えた。それだけだ」

朧は少しの間、蒼真を見た。

「そうか」

「そうだ」

「俺も──お前から、学んだ」

「俺から?」

「信念を持って動くことを。矛盾を抱えながらも、立ち続けることを」

蒼真は目を逸らした。

「余計なことを言うな」

「事実だと言っている」

「……うるさい」

柊は二人を見た。

「蒼真、照れてる」

「違う」

「照れてる」

「違うと言っている」

「朧」

「照れている」

「聞こえている」

「知ってる」

蒼真は深く息を吐いた。

「お前たちは──本当に、うるさい」

でも、その声には──怒りがなかった。

どこか、温かいものが混じっていた。

三日後のことを話しながら、柊はふと思った。

これが──日常だ、と。

劇的なことは、もう終わった。

白面は眠りについた。契りは解けた。退魔師たちとの対話が始まった。

これからは──静かに、続いていく。

山葵沢に行くこと。壊した場所を見ること。

退魔師たちとの関係を築くこと。人とあやかしの間に、橋を架けていくこと。

一日で終わる話ではない。

一年で終わる話でも、ないかもしれない。

でも──それでいい。

続いていくことが、生きているということだから。

「朧」

「ん」

「三日後、山葵沢に行って——それからどうする?」

「考えている」

「一緒に考えていい?」

「頼む」

「蒼真は?」

「俺は連合に戻る必要がある」蒼真は言った。「桐生さんの交渉を手伝う。だが──時々、来る」

「時々、来る」

「来ては、だめか」

「来てほしい」

蒼真は少し間を置いた。

「……来る」

柊は笑った。

「約束?」

「約束だ」

「よかった」

蒼真は窓の外を見た。

午後の光が、山を照らしていた。

「お前たちは──これから、どこにいる」

「どこだろう」柊は朧を見た。

朧は少し考えた。

「山葵沢を見てから──決める」

「決める?」

「壊した場所が、今どうなっているかを見てから。何ができるかを考えてから」

「そこに、留まるかもしれない?」

「留まることが──橋を架けることになるなら」

柊はその言葉を、胸の中で転がした。

壊した場所に、戻ること。

逃げるのではなく、向き合うために。

それが──朧の選んだ、橋の形かもしれない。

「一緒にいる」柊は言った。

「お前は──退魔師の家に戻らなくていいのか」

「今は、一緒にいる方が大事」

「家族は?」

「話してみる。母は──わかってくれると思う。父は、時間がかかるかもしれないけど」

「俺が──原因だ」

「そうだね」柊は笑った。「でも、それも含めて話す。朧が何者で、何をしてきて、これから何をしようとしているか。全部、話す」

「怖くないか」

「怖い。でも──言わなければ変わらない」

朧は柊を見た。

「……蒼真と同じことを言う」

「蒼真から学んだ」

蒼真が聞こえていた。

「俺のせいにするな」

「学んだって言ってる。感謝してる」

「……」

蒼真は黙った。

何かを言いかけて、止めた。

柊にはわかった。

「ありがとう」と言われて、何と返せばいいかわからないのだ。

「どういたしまして、だよ」

「言っていない」

「言いたかったんでしょう」

「……うるさい」

でも蒼真の耳が、少し赤かった。

朧が小声で柊に言った。

「さっきより、もっと照れている」

「知ってる」

「今日は隠せていない」

「疲れてるから」

「そうか」

「人間だからね」

「……俺も、最近、疲れることがある」

「人間みたいだね」

「そうかもしれない」

「嬉しい?」

朧は少し考えた。

「……悪くない」

柊は笑った。

朧も──笑った。

蒼真は聞こえていたが、何も言わなかった。

ただ──窓の外を見て、口元を緩めていた。

それが──今の三人の、日常だった。

これからも、続いていく日常の、始まりだった。

夜、柊は一人で縁側に出た。

月が出ていた。

満月より、ずっと欠けていた。

でも──その光は、変わらず届いていた。
朧が後ろから来た。

「また、空を見ているか」

「うん。月が、きれいだなって」

「ああ」

朧も月を見た。

「欠けていても、きれいだな」

「うん」

「満月でなくても」

「うん。朧は最近、きれいっていう言葉を使うようになったね」

「お前が教えてくれたから」

「他にも、覚えた言葉がたくさんある」

「ある」

「どれが一番、大切な言葉?」

朧は少し考えた。

「全部」

「全部?」

「全部、大切だ。どれが一番とは言えない。どれも──俺が持っていなかったものだから」

柊はその答えを、胸の中にしまった。

「朧」

「ん」

「これから、色々ある」

「ある」

「山葵沢のこと。久瀬さんのこと。連合の交渉。橋を架けること」

「ある」

「全部──一緒にやろう」

朧は柊を見た。

月の光が、その銀色の瞳に映っていた。

「一緒に、と言うのが——お前は好きだな」

「好きだよ」

「なぜ」

「一人より、一緒の方がいいから」

「それだけか」

「それだけで、十分な理由だよ」

朧は少しの間、柊を見た。

それから──静かに言った。

「一緒に、やろう」

柊の胸が、温かくなった。

月が、静かに輝いていた。

欠けていても、変わらない光だった。

満月じゃなくてもいい。

欠けていても、続いていればいい。

二人で並んで、月を見た。

それが──これからの、二人の始まりだった。