月喰いと契りの巫女

三日後、桐生から正式な連絡が来た。

「討伐命令を、一時停止とする」

蒼真が報告を読み上げると、宿の中が静かになった。

停止。取り消しではなく、停止。

「どういう意味だ」朧が言った。

「連合の全員が納得したわけではない」蒼真は静かに言った。「だから──完全な取り消しはまだできない。ただ、実行を止めることには合意した」

「条件は?」

「月喰いが、人を傷つけないこと。連合の監視下に置かれること。そして──白面のような事態が再び起きたとき、協力すること」

朧は少しの間、考えた。

「受け入れられるか」

「俺はそう思う」蒼真は言った。「完全ではないが──始まりとしては、十分だ」

柊は朧を見た。

「朧は?」

「受け入れる」朧は静かに言った。「条件が何であれ──ここにいる理由ができた」

「ここにいる理由、か」

「ここにいていい、ということだ。それが──今は、十分だ」

柊の胸が、温かくなった。

最初に出会ったとき、朧は自分がここにいる理由を知らなかった。

今は──ある。

それがどれほど大きなことか。

「よかった」

「ああ」

蒼真は報告書を折りたたんだ。

「桐生さんは──もう少し交渉を続けるつもりらしい。完全な取り消しを目指して」

「時間がかかる」

「ああ。だが──」蒼真は朧を見た。「それまでの間に、お前が何をしているかが、交渉に影響する」

「つまり、見られている」

「見られている。だが──見せることもできる」

朧は蒼真を見た。

「集落に行く話は、まだ有効か」

「有効だ。今日、動ける」

「行こう」

三人で宿を出た。

山を越えて、被害が最も大きかった集落へ向かった。

道中、朧は静かだった。

柊は朧の隣を歩きながら、その横顔を見た。
考えている顔だった。

「何を考えてる?」

「言葉を」

「言葉?」

「集落に着いたとき、何を言うべきか。あやかしに何を言うか、人間に何を言うか」

「難しいね」

「ああ。俺は──言葉が少ない」

「でも、少ない言葉の方が、伝わることもあるよ」

朧は柊を見た。

「どういう意味だ」

「多く言えば、誠実に見えるわけじゃない。朧が少ない言葉で話すとき──本当のことしか言わないから、それが伝わる」

朧はしばらく、その言葉を考えていた。

「……お前は、俺のことをよく見ている」

「そりゃあ」柊は言った。「ずっと、一緒にいたから」

朧は前を向いた。

「……そうだな」

その声が、少し柔らかかった。

蒼真が後ろから言った。

「二人とも、少し静かにしろ。集落が近い」

「蒼真こそ、さっきからずっと黙ってた」

「考えていた」

「何を?」

「言葉を」

柊は少し笑った。

「朧と同じだ」

「黙れ」

でも蒼真の口元が、わずかに動いた。

集落は、山の麓にあった。

田畑が広がっていて、小さな社がある、普通の農村だった。

だが──空気が、重かった。

昨夜降った雨のせいか、道がぬかるんでいた。でもそれだけではない重さが、集落全体に漂っていた。

入口の前で、男が立っていた。

農作業の格好をした、四十がらみの男だった。三人を見て、目を細めた。

「退魔師か」

「はい」蒼真が前に出た。「先日の件で、お話を聞かせていただきたく」

男は三人を見た。

朧のところで、視線が止まった。

「……そちらは、退魔師ではないな」

「あやかしだ」朧は静かに言った。「月喰いという」

男の目が、大きくなった。

後ろに下がろうとした。

「待ってください」

柊が前に出た。

男が柊を見た。

「この人は──先日、白面を止めた者です。あやかしたちを暴走させていた白面を、止めました」

「……本当か」

「本当です」

男はしばらく、朧を見た。

朧は男を見返した。

怖がらせようとしている目でも、試している目でもなかった。

ただ──静かに、向き合っている目だった。

「入れ」

男は短く言った。

「ありがとうございます」

集落の中心にある広場に、人が集まってきた。

十数人。老いた者も、若い者も。

みんな、三人を──特に朧を、警戒した目で見ていた。

蒼真が話した。

先日の件。白面が何をしていたか。あやかしたちが操られていたこと。白面が止まったこと。

人々は黙って聞いていた。

「我々退魔師は──これまで、あやかしを脅威として見てきた部分があります。それは、間違いではなかった。でも──全てでもなかった」

蒼真の声は、静かだったが、揺れていなかった。

「今回の件で、それをはっきりと認識しました。だから──今日は、話を聞かせてほしい。あの夜、何があったか。今、どう感じているか」

しばらく、誰も話さなかった。

それから、老婆が口を開いた。

「怖かった」

短い言葉だった。

「あやかしたちが、急に暴れた。今まで一度もなかったことだった。長年、静かにしていた山の者たちが──急に」

「その前に、何か変わったことはありましたか」

「白い影を見た」老婆は言った。「山の奥で。でも、気のせいだと思っていた」

「白面です」蒼真は言った。「それが白面でした」

老婆は頷いた。

「わかった。でも──」老婆の目が、朧に向いた。「あやかしへの怖さは、消えない。わかってはいても、消えない」

「消えなくていいです」

言ったのは、柊だった。

老婆が柊を見た。

「怖いと思うことは、正直なことです。消えなくていい。ただ──怖いという感情と、信じるかどうかは、別の話だと思う」

「別の話か」

「怖くても、信じることはできる。私も──最初は怖かった」

柊は朧を見た。

朧も柊を見た。

「この人に、最初に会ったとき——怖かった。記憶がなくて、感情がなくて、何者かわからなかった。でも──一緒にいるうちに、わかってきた。怖さと信頼は、一緒にある。それでいい、と今は思っています」

老婆はしばらく柊を見た。

それから朧を見た。

「あんたは──怖くないのか。人間が怖がることが」

朧は少し間を置いた。

「怖い、という感覚が──少しわかる」

「何が怖い」

「俺のせいで、誰かが傷つくことが」

老婆は黙っていた。

「俺はかつて、多くのものを壊した。その記憶がある。だから──また同じことをするかもしれないという恐れは、お前たちだけではない。俺自身にもある」

集落の人々が、静かになっていた。

「だが──その恐れを、力に変えることもできる。壊さないために、力を使う。それが──今の俺の答えだ」

誰も、すぐには話さなかった。

風が吹いた。

田畑の稲が、静かに揺れた。

「信じていいのか」

若い男が言った。

「わからない」朧は正直に言った。「俺を信じるかどうかは、お前たちが決めることだ。俺には、強制できない」

「強制できないと言う、あやかしは──初めて見た」

「そうか」

「……今日は、話を聞けてよかった」

それだけだった。

大きな変化ではなかった。

でも──何かが、確かに動いた。

その重さが、少しだけ──軽くなった気がした。

集落を出て、山道を歩きながら、蒼真が言った。

「うまくいった、とは言えないが」

「そうだな」朧は言った。

「でも──最初の一歩としては、十分だ」

「最初の一歩か」

「橋は、一日で架からない」

朧はその言葉を、静かに受け取った。

柊は二人を見た。

「また来られる?」

「また来る」蒼真は言った。「継続することが大事だ。一度来て終わりでは、何も変わらない」

「じゃあ、また来よう。三人で」

「三人で来る必要はないかもしれない」

「でも、三人で来たい」

「理由は?」

「一緒にいたいから」

蒼真は小さく息を吐いた。

「……それは理由にならない」

「十分な理由だよ」

「うるさい」

でも蒼真は、山道を歩きながら──小さく、頷いていた。

朧がそれを見ていた。

柊に小声で言った。

「また笑っている」

「知ってる」

「今日は隠すのが下手だ」

「疲れてるのかも」

「疲れると、感情が出やすくなるのか」

「そうだよ。朧も、気をつけて」

「俺は感情を隠していない」

「それが一番、かっこいいと思う」

朧は少し間を置いた。

「……かっこいい、という感情の名前は、まだ習っていない」

「今、教えた」

「どういう感情だ」

「見ていて、すごいと思う感情。尊敬に似てる」

「俺が、か」

「そう」

「……照れる、という感覚も、最近わかってきた」

柊は少し驚いた。

「今、照れてる?」

「少し」

「かわいい」

「かわいいという感情の名前は──」

「教えた。最初の頃に」

「そうだったか」

「覚えてる?」

朧は少し考えた。

「……甘いものを食べたとき、口の中が穏やかになると言ったとき、お前が言った」

柊は止まりそうになった。

朧が、あの頃のことを──覚えていた。

番小屋での、あの日を。

「覚えてたんだ」

「全部、覚えている」

柊の目が、少し熱くなった。

「私も、全部覚えてる」

「そうか」

「うん」

二人の足音が、山道に重なった。

蒼真が前を歩いていた。

振り返らなかったが──その背中が、少し柔らかかった。

宿に戻ると、桐生からもう一通、連絡が来ていた。

蒼真が読んだ。

その目が、わずかに動いた。

「どうした?」

「連合の中で──反対派が、動いた」
柊の胸が、冷えた。

「どういうこと?」

「討伐命令の一時停止に納得しない者たちが、独自に動こうとしている。桐生さんの交渉を待たず──月喰いを討伐しようとしている」

朧は静かに聞いていた。

「いつ動く」

「わからない。桐生さんが把握したのは、今日の昼前だ。だが──早ければ、今夜かもしれない」

柊は朧を見た。

朧は、蒼真を見た。

「何人だ」

「五人。全員、腕の立つ退魔師だ」

「蒼真一人では」

「厳しい」蒼真は静かに言った。「ただ──桐生さんも動いている。反対派を連合内で止めようとしている。うまくいけば、こちらには来ない」

「うまくいかなければ」

「……来る」

三人は静かになった。

囲炉裏の火が、静かに燃えていた。

「逃げるか」柊が言った。

「逃げてどこへ」蒼真は言った。「追われ続けることになる」

「向かい合うか」

「それが──最終的には、必要だ」

朧は立ち上がった。

「俺が出る」

「一人では駄目だ」蒼真も立ち上がった。

「お前がいれば十分だ」

「柊は」

二人が同時に柊を見た。

「私も行く」

「駄目だ」朧が言った。

「なぜ」

「危険だ」

「最初からわかってる」

「お前の命は──」

「削れていない」柊は言った。「契りが解けた。代償もない。私の命は、私のものだ。だから──私が決める」

朧は柊を見た。

「……」

「選ぶのは、私だよ」

朧は長い間、柊を見た。

「……一番後ろにいろ」

「わかった」

「俺の言うことを聞け」

「できる範囲で」

「できる範囲ではなく──」

「できる範囲で」

朧は深く息を吐いた。

「……頑固だ」

「あなたに移ったって言った」

「そうだったな」

蒼真が二人を見た。

「行くか」

「行く」

三人は、宿を出た。

夜の山に向かって。

山道を登りながら、蒼真が言った。

「反対派の退魔師は──腕は立つが、話の通じる者たちだ」

「どういう意味だ」

「力でねじ伏せる相手ではなく、向き合える相手だ。昨日の集落と同じだ」

朧は蒼真を見た。

「向き合う、か」

「ああ。ただ──それができるかどうかは、状況による」

「向き合えなければ」

「そのときは──守ることを優先する」

蒼真の声は、静かだった。

退魔師として、何かを決めた声だった。

「蒼真」朧は言った。

「なんだ」

「お前は──今夜、どちらの立場で動く」

「どちらとは」

「退魔師として動くか、柊を守る者として動くか」

蒼真は少し間を置いた。

「両方だ」

「それは──矛盾するかもしれない」

「矛盾していい」蒼真は静かに言った。「矛盾を抱えながら動くことが──今の俺の答えだ」

朧はしばらく蒼真を見た。

「……わかった」

「信頼するのか」

「信頼している」朧は言った。「何度目だ、と言うな」

蒼真は小さく鼻を鳴らした。

「言わない」

柊は二人の背中を見ながら、歩いた。

朧と蒼真が並んで歩いている。

それが、不思議で──でも、自然だった。

最初はこうなるとは、思っていなかった。

でも、今は──こういうものだと思える。

人は変わる。あやかしも変わる。

関係は、動いていく。

それが──生きているということかもしれない。

山の中腹に差し掛かったとき、気配があった。

朧が立ち止まった。

蒼真も止まった。

「来た」朧が言った。

「何人だ」

「五人。全員、山の中に入っている」

「包囲されているか」

「まだ。だが、そうなる前に動くつもりだろう」

柊は気配を探った。

感知能力は、朧に鍛えてもらった。

五つの気配。

確かに感じた。

「蒼真、私は──」

「わかっている」蒼真は言った。「一番後ろで、周囲の気配を探れ。朧が気づかない方向からの接近を、教えてくれ」

「できる」

「頼む」

柊は頷いた。

朧が前を向いた。

月が出ていた。

昨日より少し欠けた月が、山の上に輝いていた。

「行くか」蒼真が言った。

「行く」朧が言った。

「行く」柊が言った。

三人は、気配の方向へ歩き始めた。

木々の間から、人影が現れた。

五人。

全員、刀を持っていた。

「月喰い」

その中の一人が、静かに言った。

「討伐に来た」

朧は五人を見た。

蒼真が前に出た。

「待て」

「蒼真。お前も来るか。邪魔をするなら──」

「邪魔ではない」蒼真は言った。「話をしたい」

「話は終わった。連合の決定を待っていられない」

「なぜだ」

「月喰いがいる限り、この地は安全ではない。昨夜のことがあっても──月喰いの力は、いつ暴走するかわからない」

「昨夜、月喰いは──」

「知っている。白面を止めた。だが──白面が去れば、次の脅威が来る。そのたびに月喰いに頼むのか。それは──危険だ」

蒼真は少しの間、黙っていた。

その言葉は──間違っていなかった。

一つの、正直な恐れだった。

「その恐れは──正しい部分がある」蒼真は言った。「月喰いの力は大きい。制御できなくなる可能性も、ゼロではない」

「だから──」

「だが」蒼真は続けた。「その恐れを─今夜ここで斬ることで、解消できるか」

「解消できる」

「できない」蒼真は静かに言った。「力を持つ者を恐れて斬り続けることは──別の恐れを生む。俺たちはずっと、そうしてきた。その結果が──先日の白面だ」

五人の退魔師たちが、静かになった。

「白面は、かつて共存しようとして──失った。その悲しみが、恐れになった。恐れが、怒りになった。怒りが──世界を壊そうとした」蒼真は言った。「恐れから動くことが──どういう結果をもたらすか、俺たちは昨夜見た」

一人の退魔師が、刀を構えたまま、動かなくなった。

「それでも」別の一人が言った。「信じることは──難しい」

「難しい」蒼真は認めた。「俺も、最初はそうだった」

「今は?」

蒼真は少し間を置いた。

「今は──向き合うことを選んでいる。難しくても、向き合うことを」

静寂が、山に満ちた。

風が吹いた。

木々が揺れた。

朧は五人を見た。

「俺に言えることがある」

五人が朧を見た。

「俺は、信頼を求めない。今夜、お前たちと向き合うことができれば──それで十分だ」

「向き合うことが、何になる」

「わからない。だが──向き合わなければ、何もわからない」

一人の退魔師が、刀を少し下げた。

わずかな動きだった。

でも──確かな動きだった。

「話を──聞く」

その一言が、夜の山に落ちた。

全員が、すぐに刀を収めたわけではなかった。

でも──空気が、変わった。

張り詰めていたものが、少しだけ──緩んだ。

柊はその変化を、後ろで感じていた。

泣きそうだった。

堪えた。

今は、堪えた。

月が中天に向かって、静かに昇っていった。

山の中で、退魔師たちと朧と蒼真が、向かい合っていた。

柊は少し離れた場所で、周囲の気配を探りながら──その光景を見ていた。

これが、始まりだと思った。

劇的な変化ではない。

一夜で全てが解決するわけではない。

でも──向き合うことが始まった。

それが、橋の最初の一歩だった。

澄江が言っていた。

橋が壊れたら、また架けろ。何度でも。

今夜は──架け始めた夜だと、柊は思った。

まだ途中で、形にもなっていないが。

でも──始まった。

風が吹いた。

山の木々が、静かに揺れた。

月の光が、木々の間から差し込んでいた。

銀色の、静かな光だった。