三日後、桐生から正式な連絡が来た。
「討伐命令を、一時停止とする」
蒼真が報告を読み上げると、宿の中が静かになった。
停止。取り消しではなく、停止。
「どういう意味だ」朧が言った。
「連合の全員が納得したわけではない」蒼真は静かに言った。「だから──完全な取り消しはまだできない。ただ、実行を止めることには合意した」
「条件は?」
「月喰いが、人を傷つけないこと。連合の監視下に置かれること。そして──白面のような事態が再び起きたとき、協力すること」
朧は少しの間、考えた。
「受け入れられるか」
「俺はそう思う」蒼真は言った。「完全ではないが──始まりとしては、十分だ」
柊は朧を見た。
「朧は?」
「受け入れる」朧は静かに言った。「条件が何であれ──ここにいる理由ができた」
「ここにいる理由、か」
「ここにいていい、ということだ。それが──今は、十分だ」
柊の胸が、温かくなった。
最初に出会ったとき、朧は自分がここにいる理由を知らなかった。
今は──ある。
それがどれほど大きなことか。
「よかった」
「ああ」
蒼真は報告書を折りたたんだ。
「桐生さんは──もう少し交渉を続けるつもりらしい。完全な取り消しを目指して」
「時間がかかる」
「ああ。だが──」蒼真は朧を見た。「それまでの間に、お前が何をしているかが、交渉に影響する」
「つまり、見られている」
「見られている。だが──見せることもできる」
朧は蒼真を見た。
「集落に行く話は、まだ有効か」
「有効だ。今日、動ける」
「行こう」
三人で宿を出た。
山を越えて、被害が最も大きかった集落へ向かった。
道中、朧は静かだった。
柊は朧の隣を歩きながら、その横顔を見た。
考えている顔だった。
「何を考えてる?」
「言葉を」
「言葉?」
「集落に着いたとき、何を言うべきか。あやかしに何を言うか、人間に何を言うか」
「難しいね」
「ああ。俺は──言葉が少ない」
「でも、少ない言葉の方が、伝わることもあるよ」
朧は柊を見た。
「どういう意味だ」
「多く言えば、誠実に見えるわけじゃない。朧が少ない言葉で話すとき──本当のことしか言わないから、それが伝わる」
朧はしばらく、その言葉を考えていた。
「……お前は、俺のことをよく見ている」
「そりゃあ」柊は言った。「ずっと、一緒にいたから」
朧は前を向いた。
「……そうだな」
その声が、少し柔らかかった。
蒼真が後ろから言った。
「二人とも、少し静かにしろ。集落が近い」
「蒼真こそ、さっきからずっと黙ってた」
「考えていた」
「何を?」
「言葉を」
柊は少し笑った。
「朧と同じだ」
「黙れ」
でも蒼真の口元が、わずかに動いた。
集落は、山の麓にあった。
田畑が広がっていて、小さな社がある、普通の農村だった。
だが──空気が、重かった。
昨夜降った雨のせいか、道がぬかるんでいた。でもそれだけではない重さが、集落全体に漂っていた。
入口の前で、男が立っていた。
農作業の格好をした、四十がらみの男だった。三人を見て、目を細めた。
「退魔師か」
「はい」蒼真が前に出た。「先日の件で、お話を聞かせていただきたく」
男は三人を見た。
朧のところで、視線が止まった。
「……そちらは、退魔師ではないな」
「あやかしだ」朧は静かに言った。「月喰いという」
男の目が、大きくなった。
後ろに下がろうとした。
「待ってください」
柊が前に出た。
男が柊を見た。
「この人は──先日、白面を止めた者です。あやかしたちを暴走させていた白面を、止めました」
「……本当か」
「本当です」
男はしばらく、朧を見た。
朧は男を見返した。
怖がらせようとしている目でも、試している目でもなかった。
ただ──静かに、向き合っている目だった。
「入れ」
男は短く言った。
「ありがとうございます」
集落の中心にある広場に、人が集まってきた。
十数人。老いた者も、若い者も。
みんな、三人を──特に朧を、警戒した目で見ていた。
蒼真が話した。
先日の件。白面が何をしていたか。あやかしたちが操られていたこと。白面が止まったこと。
人々は黙って聞いていた。
「我々退魔師は──これまで、あやかしを脅威として見てきた部分があります。それは、間違いではなかった。でも──全てでもなかった」
蒼真の声は、静かだったが、揺れていなかった。
「今回の件で、それをはっきりと認識しました。だから──今日は、話を聞かせてほしい。あの夜、何があったか。今、どう感じているか」
しばらく、誰も話さなかった。
それから、老婆が口を開いた。
「怖かった」
短い言葉だった。
「あやかしたちが、急に暴れた。今まで一度もなかったことだった。長年、静かにしていた山の者たちが──急に」
「その前に、何か変わったことはありましたか」
「白い影を見た」老婆は言った。「山の奥で。でも、気のせいだと思っていた」
「白面です」蒼真は言った。「それが白面でした」
老婆は頷いた。
「わかった。でも──」老婆の目が、朧に向いた。「あやかしへの怖さは、消えない。わかってはいても、消えない」
「消えなくていいです」
言ったのは、柊だった。
老婆が柊を見た。
「怖いと思うことは、正直なことです。消えなくていい。ただ──怖いという感情と、信じるかどうかは、別の話だと思う」
「別の話か」
「怖くても、信じることはできる。私も──最初は怖かった」
柊は朧を見た。
朧も柊を見た。
「この人に、最初に会ったとき——怖かった。記憶がなくて、感情がなくて、何者かわからなかった。でも──一緒にいるうちに、わかってきた。怖さと信頼は、一緒にある。それでいい、と今は思っています」
老婆はしばらく柊を見た。
それから朧を見た。
「あんたは──怖くないのか。人間が怖がることが」
朧は少し間を置いた。
「怖い、という感覚が──少しわかる」
「何が怖い」
「俺のせいで、誰かが傷つくことが」
老婆は黙っていた。
「俺はかつて、多くのものを壊した。その記憶がある。だから──また同じことをするかもしれないという恐れは、お前たちだけではない。俺自身にもある」
集落の人々が、静かになっていた。
「だが──その恐れを、力に変えることもできる。壊さないために、力を使う。それが──今の俺の答えだ」
誰も、すぐには話さなかった。
風が吹いた。
田畑の稲が、静かに揺れた。
「信じていいのか」
若い男が言った。
「わからない」朧は正直に言った。「俺を信じるかどうかは、お前たちが決めることだ。俺には、強制できない」
「強制できないと言う、あやかしは──初めて見た」
「そうか」
「……今日は、話を聞けてよかった」
それだけだった。
大きな変化ではなかった。
でも──何かが、確かに動いた。
その重さが、少しだけ──軽くなった気がした。
集落を出て、山道を歩きながら、蒼真が言った。
「うまくいった、とは言えないが」
「そうだな」朧は言った。
「でも──最初の一歩としては、十分だ」
「最初の一歩か」
「橋は、一日で架からない」
朧はその言葉を、静かに受け取った。
柊は二人を見た。
「また来られる?」
「また来る」蒼真は言った。「継続することが大事だ。一度来て終わりでは、何も変わらない」
「じゃあ、また来よう。三人で」
「三人で来る必要はないかもしれない」
「でも、三人で来たい」
「理由は?」
「一緒にいたいから」
蒼真は小さく息を吐いた。
「……それは理由にならない」
「十分な理由だよ」
「うるさい」
でも蒼真は、山道を歩きながら──小さく、頷いていた。
朧がそれを見ていた。
柊に小声で言った。
「また笑っている」
「知ってる」
「今日は隠すのが下手だ」
「疲れてるのかも」
「疲れると、感情が出やすくなるのか」
「そうだよ。朧も、気をつけて」
「俺は感情を隠していない」
「それが一番、かっこいいと思う」
朧は少し間を置いた。
「……かっこいい、という感情の名前は、まだ習っていない」
「今、教えた」
「どういう感情だ」
「見ていて、すごいと思う感情。尊敬に似てる」
「俺が、か」
「そう」
「……照れる、という感覚も、最近わかってきた」
柊は少し驚いた。
「今、照れてる?」
「少し」
「かわいい」
「かわいいという感情の名前は──」
「教えた。最初の頃に」
「そうだったか」
「覚えてる?」
朧は少し考えた。
「……甘いものを食べたとき、口の中が穏やかになると言ったとき、お前が言った」
柊は止まりそうになった。
朧が、あの頃のことを──覚えていた。
番小屋での、あの日を。
「覚えてたんだ」
「全部、覚えている」
柊の目が、少し熱くなった。
「私も、全部覚えてる」
「そうか」
「うん」
二人の足音が、山道に重なった。
蒼真が前を歩いていた。
振り返らなかったが──その背中が、少し柔らかかった。
宿に戻ると、桐生からもう一通、連絡が来ていた。
蒼真が読んだ。
その目が、わずかに動いた。
「どうした?」
「連合の中で──反対派が、動いた」
柊の胸が、冷えた。
「どういうこと?」
「討伐命令の一時停止に納得しない者たちが、独自に動こうとしている。桐生さんの交渉を待たず──月喰いを討伐しようとしている」
朧は静かに聞いていた。
「いつ動く」
「わからない。桐生さんが把握したのは、今日の昼前だ。だが──早ければ、今夜かもしれない」
柊は朧を見た。
朧は、蒼真を見た。
「何人だ」
「五人。全員、腕の立つ退魔師だ」
「蒼真一人では」
「厳しい」蒼真は静かに言った。「ただ──桐生さんも動いている。反対派を連合内で止めようとしている。うまくいけば、こちらには来ない」
「うまくいかなければ」
「……来る」
三人は静かになった。
囲炉裏の火が、静かに燃えていた。
「逃げるか」柊が言った。
「逃げてどこへ」蒼真は言った。「追われ続けることになる」
「向かい合うか」
「それが──最終的には、必要だ」
朧は立ち上がった。
「俺が出る」
「一人では駄目だ」蒼真も立ち上がった。
「お前がいれば十分だ」
「柊は」
二人が同時に柊を見た。
「私も行く」
「駄目だ」朧が言った。
「なぜ」
「危険だ」
「最初からわかってる」
「お前の命は──」
「削れていない」柊は言った。「契りが解けた。代償もない。私の命は、私のものだ。だから──私が決める」
朧は柊を見た。
「……」
「選ぶのは、私だよ」
朧は長い間、柊を見た。
「……一番後ろにいろ」
「わかった」
「俺の言うことを聞け」
「できる範囲で」
「できる範囲ではなく──」
「できる範囲で」
朧は深く息を吐いた。
「……頑固だ」
「あなたに移ったって言った」
「そうだったな」
蒼真が二人を見た。
「行くか」
「行く」
三人は、宿を出た。
夜の山に向かって。
山道を登りながら、蒼真が言った。
「反対派の退魔師は──腕は立つが、話の通じる者たちだ」
「どういう意味だ」
「力でねじ伏せる相手ではなく、向き合える相手だ。昨日の集落と同じだ」
朧は蒼真を見た。
「向き合う、か」
「ああ。ただ──それができるかどうかは、状況による」
「向き合えなければ」
「そのときは──守ることを優先する」
蒼真の声は、静かだった。
退魔師として、何かを決めた声だった。
「蒼真」朧は言った。
「なんだ」
「お前は──今夜、どちらの立場で動く」
「どちらとは」
「退魔師として動くか、柊を守る者として動くか」
蒼真は少し間を置いた。
「両方だ」
「それは──矛盾するかもしれない」
「矛盾していい」蒼真は静かに言った。「矛盾を抱えながら動くことが──今の俺の答えだ」
朧はしばらく蒼真を見た。
「……わかった」
「信頼するのか」
「信頼している」朧は言った。「何度目だ、と言うな」
蒼真は小さく鼻を鳴らした。
「言わない」
柊は二人の背中を見ながら、歩いた。
朧と蒼真が並んで歩いている。
それが、不思議で──でも、自然だった。
最初はこうなるとは、思っていなかった。
でも、今は──こういうものだと思える。
人は変わる。あやかしも変わる。
関係は、動いていく。
それが──生きているということかもしれない。
山の中腹に差し掛かったとき、気配があった。
朧が立ち止まった。
蒼真も止まった。
「来た」朧が言った。
「何人だ」
「五人。全員、山の中に入っている」
「包囲されているか」
「まだ。だが、そうなる前に動くつもりだろう」
柊は気配を探った。
感知能力は、朧に鍛えてもらった。
五つの気配。
確かに感じた。
「蒼真、私は──」
「わかっている」蒼真は言った。「一番後ろで、周囲の気配を探れ。朧が気づかない方向からの接近を、教えてくれ」
「できる」
「頼む」
柊は頷いた。
朧が前を向いた。
月が出ていた。
昨日より少し欠けた月が、山の上に輝いていた。
「行くか」蒼真が言った。
「行く」朧が言った。
「行く」柊が言った。
三人は、気配の方向へ歩き始めた。
木々の間から、人影が現れた。
五人。
全員、刀を持っていた。
「月喰い」
その中の一人が、静かに言った。
「討伐に来た」
朧は五人を見た。
蒼真が前に出た。
「待て」
「蒼真。お前も来るか。邪魔をするなら──」
「邪魔ではない」蒼真は言った。「話をしたい」
「話は終わった。連合の決定を待っていられない」
「なぜだ」
「月喰いがいる限り、この地は安全ではない。昨夜のことがあっても──月喰いの力は、いつ暴走するかわからない」
「昨夜、月喰いは──」
「知っている。白面を止めた。だが──白面が去れば、次の脅威が来る。そのたびに月喰いに頼むのか。それは──危険だ」
蒼真は少しの間、黙っていた。
その言葉は──間違っていなかった。
一つの、正直な恐れだった。
「その恐れは──正しい部分がある」蒼真は言った。「月喰いの力は大きい。制御できなくなる可能性も、ゼロではない」
「だから──」
「だが」蒼真は続けた。「その恐れを─今夜ここで斬ることで、解消できるか」
「解消できる」
「できない」蒼真は静かに言った。「力を持つ者を恐れて斬り続けることは──別の恐れを生む。俺たちはずっと、そうしてきた。その結果が──先日の白面だ」
五人の退魔師たちが、静かになった。
「白面は、かつて共存しようとして──失った。その悲しみが、恐れになった。恐れが、怒りになった。怒りが──世界を壊そうとした」蒼真は言った。「恐れから動くことが──どういう結果をもたらすか、俺たちは昨夜見た」
一人の退魔師が、刀を構えたまま、動かなくなった。
「それでも」別の一人が言った。「信じることは──難しい」
「難しい」蒼真は認めた。「俺も、最初はそうだった」
「今は?」
蒼真は少し間を置いた。
「今は──向き合うことを選んでいる。難しくても、向き合うことを」
静寂が、山に満ちた。
風が吹いた。
木々が揺れた。
朧は五人を見た。
「俺に言えることがある」
五人が朧を見た。
「俺は、信頼を求めない。今夜、お前たちと向き合うことができれば──それで十分だ」
「向き合うことが、何になる」
「わからない。だが──向き合わなければ、何もわからない」
一人の退魔師が、刀を少し下げた。
わずかな動きだった。
でも──確かな動きだった。
「話を──聞く」
その一言が、夜の山に落ちた。
全員が、すぐに刀を収めたわけではなかった。
でも──空気が、変わった。
張り詰めていたものが、少しだけ──緩んだ。
柊はその変化を、後ろで感じていた。
泣きそうだった。
堪えた。
今は、堪えた。
月が中天に向かって、静かに昇っていった。
山の中で、退魔師たちと朧と蒼真が、向かい合っていた。
柊は少し離れた場所で、周囲の気配を探りながら──その光景を見ていた。
これが、始まりだと思った。
劇的な変化ではない。
一夜で全てが解決するわけではない。
でも──向き合うことが始まった。
それが、橋の最初の一歩だった。
澄江が言っていた。
橋が壊れたら、また架けろ。何度でも。
今夜は──架け始めた夜だと、柊は思った。
まだ途中で、形にもなっていないが。
でも──始まった。
風が吹いた。
山の木々が、静かに揺れた。
月の光が、木々の間から差し込んでいた。
銀色の、静かな光だった。
「討伐命令を、一時停止とする」
蒼真が報告を読み上げると、宿の中が静かになった。
停止。取り消しではなく、停止。
「どういう意味だ」朧が言った。
「連合の全員が納得したわけではない」蒼真は静かに言った。「だから──完全な取り消しはまだできない。ただ、実行を止めることには合意した」
「条件は?」
「月喰いが、人を傷つけないこと。連合の監視下に置かれること。そして──白面のような事態が再び起きたとき、協力すること」
朧は少しの間、考えた。
「受け入れられるか」
「俺はそう思う」蒼真は言った。「完全ではないが──始まりとしては、十分だ」
柊は朧を見た。
「朧は?」
「受け入れる」朧は静かに言った。「条件が何であれ──ここにいる理由ができた」
「ここにいる理由、か」
「ここにいていい、ということだ。それが──今は、十分だ」
柊の胸が、温かくなった。
最初に出会ったとき、朧は自分がここにいる理由を知らなかった。
今は──ある。
それがどれほど大きなことか。
「よかった」
「ああ」
蒼真は報告書を折りたたんだ。
「桐生さんは──もう少し交渉を続けるつもりらしい。完全な取り消しを目指して」
「時間がかかる」
「ああ。だが──」蒼真は朧を見た。「それまでの間に、お前が何をしているかが、交渉に影響する」
「つまり、見られている」
「見られている。だが──見せることもできる」
朧は蒼真を見た。
「集落に行く話は、まだ有効か」
「有効だ。今日、動ける」
「行こう」
三人で宿を出た。
山を越えて、被害が最も大きかった集落へ向かった。
道中、朧は静かだった。
柊は朧の隣を歩きながら、その横顔を見た。
考えている顔だった。
「何を考えてる?」
「言葉を」
「言葉?」
「集落に着いたとき、何を言うべきか。あやかしに何を言うか、人間に何を言うか」
「難しいね」
「ああ。俺は──言葉が少ない」
「でも、少ない言葉の方が、伝わることもあるよ」
朧は柊を見た。
「どういう意味だ」
「多く言えば、誠実に見えるわけじゃない。朧が少ない言葉で話すとき──本当のことしか言わないから、それが伝わる」
朧はしばらく、その言葉を考えていた。
「……お前は、俺のことをよく見ている」
「そりゃあ」柊は言った。「ずっと、一緒にいたから」
朧は前を向いた。
「……そうだな」
その声が、少し柔らかかった。
蒼真が後ろから言った。
「二人とも、少し静かにしろ。集落が近い」
「蒼真こそ、さっきからずっと黙ってた」
「考えていた」
「何を?」
「言葉を」
柊は少し笑った。
「朧と同じだ」
「黙れ」
でも蒼真の口元が、わずかに動いた。
集落は、山の麓にあった。
田畑が広がっていて、小さな社がある、普通の農村だった。
だが──空気が、重かった。
昨夜降った雨のせいか、道がぬかるんでいた。でもそれだけではない重さが、集落全体に漂っていた。
入口の前で、男が立っていた。
農作業の格好をした、四十がらみの男だった。三人を見て、目を細めた。
「退魔師か」
「はい」蒼真が前に出た。「先日の件で、お話を聞かせていただきたく」
男は三人を見た。
朧のところで、視線が止まった。
「……そちらは、退魔師ではないな」
「あやかしだ」朧は静かに言った。「月喰いという」
男の目が、大きくなった。
後ろに下がろうとした。
「待ってください」
柊が前に出た。
男が柊を見た。
「この人は──先日、白面を止めた者です。あやかしたちを暴走させていた白面を、止めました」
「……本当か」
「本当です」
男はしばらく、朧を見た。
朧は男を見返した。
怖がらせようとしている目でも、試している目でもなかった。
ただ──静かに、向き合っている目だった。
「入れ」
男は短く言った。
「ありがとうございます」
集落の中心にある広場に、人が集まってきた。
十数人。老いた者も、若い者も。
みんな、三人を──特に朧を、警戒した目で見ていた。
蒼真が話した。
先日の件。白面が何をしていたか。あやかしたちが操られていたこと。白面が止まったこと。
人々は黙って聞いていた。
「我々退魔師は──これまで、あやかしを脅威として見てきた部分があります。それは、間違いではなかった。でも──全てでもなかった」
蒼真の声は、静かだったが、揺れていなかった。
「今回の件で、それをはっきりと認識しました。だから──今日は、話を聞かせてほしい。あの夜、何があったか。今、どう感じているか」
しばらく、誰も話さなかった。
それから、老婆が口を開いた。
「怖かった」
短い言葉だった。
「あやかしたちが、急に暴れた。今まで一度もなかったことだった。長年、静かにしていた山の者たちが──急に」
「その前に、何か変わったことはありましたか」
「白い影を見た」老婆は言った。「山の奥で。でも、気のせいだと思っていた」
「白面です」蒼真は言った。「それが白面でした」
老婆は頷いた。
「わかった。でも──」老婆の目が、朧に向いた。「あやかしへの怖さは、消えない。わかってはいても、消えない」
「消えなくていいです」
言ったのは、柊だった。
老婆が柊を見た。
「怖いと思うことは、正直なことです。消えなくていい。ただ──怖いという感情と、信じるかどうかは、別の話だと思う」
「別の話か」
「怖くても、信じることはできる。私も──最初は怖かった」
柊は朧を見た。
朧も柊を見た。
「この人に、最初に会ったとき——怖かった。記憶がなくて、感情がなくて、何者かわからなかった。でも──一緒にいるうちに、わかってきた。怖さと信頼は、一緒にある。それでいい、と今は思っています」
老婆はしばらく柊を見た。
それから朧を見た。
「あんたは──怖くないのか。人間が怖がることが」
朧は少し間を置いた。
「怖い、という感覚が──少しわかる」
「何が怖い」
「俺のせいで、誰かが傷つくことが」
老婆は黙っていた。
「俺はかつて、多くのものを壊した。その記憶がある。だから──また同じことをするかもしれないという恐れは、お前たちだけではない。俺自身にもある」
集落の人々が、静かになっていた。
「だが──その恐れを、力に変えることもできる。壊さないために、力を使う。それが──今の俺の答えだ」
誰も、すぐには話さなかった。
風が吹いた。
田畑の稲が、静かに揺れた。
「信じていいのか」
若い男が言った。
「わからない」朧は正直に言った。「俺を信じるかどうかは、お前たちが決めることだ。俺には、強制できない」
「強制できないと言う、あやかしは──初めて見た」
「そうか」
「……今日は、話を聞けてよかった」
それだけだった。
大きな変化ではなかった。
でも──何かが、確かに動いた。
その重さが、少しだけ──軽くなった気がした。
集落を出て、山道を歩きながら、蒼真が言った。
「うまくいった、とは言えないが」
「そうだな」朧は言った。
「でも──最初の一歩としては、十分だ」
「最初の一歩か」
「橋は、一日で架からない」
朧はその言葉を、静かに受け取った。
柊は二人を見た。
「また来られる?」
「また来る」蒼真は言った。「継続することが大事だ。一度来て終わりでは、何も変わらない」
「じゃあ、また来よう。三人で」
「三人で来る必要はないかもしれない」
「でも、三人で来たい」
「理由は?」
「一緒にいたいから」
蒼真は小さく息を吐いた。
「……それは理由にならない」
「十分な理由だよ」
「うるさい」
でも蒼真は、山道を歩きながら──小さく、頷いていた。
朧がそれを見ていた。
柊に小声で言った。
「また笑っている」
「知ってる」
「今日は隠すのが下手だ」
「疲れてるのかも」
「疲れると、感情が出やすくなるのか」
「そうだよ。朧も、気をつけて」
「俺は感情を隠していない」
「それが一番、かっこいいと思う」
朧は少し間を置いた。
「……かっこいい、という感情の名前は、まだ習っていない」
「今、教えた」
「どういう感情だ」
「見ていて、すごいと思う感情。尊敬に似てる」
「俺が、か」
「そう」
「……照れる、という感覚も、最近わかってきた」
柊は少し驚いた。
「今、照れてる?」
「少し」
「かわいい」
「かわいいという感情の名前は──」
「教えた。最初の頃に」
「そうだったか」
「覚えてる?」
朧は少し考えた。
「……甘いものを食べたとき、口の中が穏やかになると言ったとき、お前が言った」
柊は止まりそうになった。
朧が、あの頃のことを──覚えていた。
番小屋での、あの日を。
「覚えてたんだ」
「全部、覚えている」
柊の目が、少し熱くなった。
「私も、全部覚えてる」
「そうか」
「うん」
二人の足音が、山道に重なった。
蒼真が前を歩いていた。
振り返らなかったが──その背中が、少し柔らかかった。
宿に戻ると、桐生からもう一通、連絡が来ていた。
蒼真が読んだ。
その目が、わずかに動いた。
「どうした?」
「連合の中で──反対派が、動いた」
柊の胸が、冷えた。
「どういうこと?」
「討伐命令の一時停止に納得しない者たちが、独自に動こうとしている。桐生さんの交渉を待たず──月喰いを討伐しようとしている」
朧は静かに聞いていた。
「いつ動く」
「わからない。桐生さんが把握したのは、今日の昼前だ。だが──早ければ、今夜かもしれない」
柊は朧を見た。
朧は、蒼真を見た。
「何人だ」
「五人。全員、腕の立つ退魔師だ」
「蒼真一人では」
「厳しい」蒼真は静かに言った。「ただ──桐生さんも動いている。反対派を連合内で止めようとしている。うまくいけば、こちらには来ない」
「うまくいかなければ」
「……来る」
三人は静かになった。
囲炉裏の火が、静かに燃えていた。
「逃げるか」柊が言った。
「逃げてどこへ」蒼真は言った。「追われ続けることになる」
「向かい合うか」
「それが──最終的には、必要だ」
朧は立ち上がった。
「俺が出る」
「一人では駄目だ」蒼真も立ち上がった。
「お前がいれば十分だ」
「柊は」
二人が同時に柊を見た。
「私も行く」
「駄目だ」朧が言った。
「なぜ」
「危険だ」
「最初からわかってる」
「お前の命は──」
「削れていない」柊は言った。「契りが解けた。代償もない。私の命は、私のものだ。だから──私が決める」
朧は柊を見た。
「……」
「選ぶのは、私だよ」
朧は長い間、柊を見た。
「……一番後ろにいろ」
「わかった」
「俺の言うことを聞け」
「できる範囲で」
「できる範囲ではなく──」
「できる範囲で」
朧は深く息を吐いた。
「……頑固だ」
「あなたに移ったって言った」
「そうだったな」
蒼真が二人を見た。
「行くか」
「行く」
三人は、宿を出た。
夜の山に向かって。
山道を登りながら、蒼真が言った。
「反対派の退魔師は──腕は立つが、話の通じる者たちだ」
「どういう意味だ」
「力でねじ伏せる相手ではなく、向き合える相手だ。昨日の集落と同じだ」
朧は蒼真を見た。
「向き合う、か」
「ああ。ただ──それができるかどうかは、状況による」
「向き合えなければ」
「そのときは──守ることを優先する」
蒼真の声は、静かだった。
退魔師として、何かを決めた声だった。
「蒼真」朧は言った。
「なんだ」
「お前は──今夜、どちらの立場で動く」
「どちらとは」
「退魔師として動くか、柊を守る者として動くか」
蒼真は少し間を置いた。
「両方だ」
「それは──矛盾するかもしれない」
「矛盾していい」蒼真は静かに言った。「矛盾を抱えながら動くことが──今の俺の答えだ」
朧はしばらく蒼真を見た。
「……わかった」
「信頼するのか」
「信頼している」朧は言った。「何度目だ、と言うな」
蒼真は小さく鼻を鳴らした。
「言わない」
柊は二人の背中を見ながら、歩いた。
朧と蒼真が並んで歩いている。
それが、不思議で──でも、自然だった。
最初はこうなるとは、思っていなかった。
でも、今は──こういうものだと思える。
人は変わる。あやかしも変わる。
関係は、動いていく。
それが──生きているということかもしれない。
山の中腹に差し掛かったとき、気配があった。
朧が立ち止まった。
蒼真も止まった。
「来た」朧が言った。
「何人だ」
「五人。全員、山の中に入っている」
「包囲されているか」
「まだ。だが、そうなる前に動くつもりだろう」
柊は気配を探った。
感知能力は、朧に鍛えてもらった。
五つの気配。
確かに感じた。
「蒼真、私は──」
「わかっている」蒼真は言った。「一番後ろで、周囲の気配を探れ。朧が気づかない方向からの接近を、教えてくれ」
「できる」
「頼む」
柊は頷いた。
朧が前を向いた。
月が出ていた。
昨日より少し欠けた月が、山の上に輝いていた。
「行くか」蒼真が言った。
「行く」朧が言った。
「行く」柊が言った。
三人は、気配の方向へ歩き始めた。
木々の間から、人影が現れた。
五人。
全員、刀を持っていた。
「月喰い」
その中の一人が、静かに言った。
「討伐に来た」
朧は五人を見た。
蒼真が前に出た。
「待て」
「蒼真。お前も来るか。邪魔をするなら──」
「邪魔ではない」蒼真は言った。「話をしたい」
「話は終わった。連合の決定を待っていられない」
「なぜだ」
「月喰いがいる限り、この地は安全ではない。昨夜のことがあっても──月喰いの力は、いつ暴走するかわからない」
「昨夜、月喰いは──」
「知っている。白面を止めた。だが──白面が去れば、次の脅威が来る。そのたびに月喰いに頼むのか。それは──危険だ」
蒼真は少しの間、黙っていた。
その言葉は──間違っていなかった。
一つの、正直な恐れだった。
「その恐れは──正しい部分がある」蒼真は言った。「月喰いの力は大きい。制御できなくなる可能性も、ゼロではない」
「だから──」
「だが」蒼真は続けた。「その恐れを─今夜ここで斬ることで、解消できるか」
「解消できる」
「できない」蒼真は静かに言った。「力を持つ者を恐れて斬り続けることは──別の恐れを生む。俺たちはずっと、そうしてきた。その結果が──先日の白面だ」
五人の退魔師たちが、静かになった。
「白面は、かつて共存しようとして──失った。その悲しみが、恐れになった。恐れが、怒りになった。怒りが──世界を壊そうとした」蒼真は言った。「恐れから動くことが──どういう結果をもたらすか、俺たちは昨夜見た」
一人の退魔師が、刀を構えたまま、動かなくなった。
「それでも」別の一人が言った。「信じることは──難しい」
「難しい」蒼真は認めた。「俺も、最初はそうだった」
「今は?」
蒼真は少し間を置いた。
「今は──向き合うことを選んでいる。難しくても、向き合うことを」
静寂が、山に満ちた。
風が吹いた。
木々が揺れた。
朧は五人を見た。
「俺に言えることがある」
五人が朧を見た。
「俺は、信頼を求めない。今夜、お前たちと向き合うことができれば──それで十分だ」
「向き合うことが、何になる」
「わからない。だが──向き合わなければ、何もわからない」
一人の退魔師が、刀を少し下げた。
わずかな動きだった。
でも──確かな動きだった。
「話を──聞く」
その一言が、夜の山に落ちた。
全員が、すぐに刀を収めたわけではなかった。
でも──空気が、変わった。
張り詰めていたものが、少しだけ──緩んだ。
柊はその変化を、後ろで感じていた。
泣きそうだった。
堪えた。
今は、堪えた。
月が中天に向かって、静かに昇っていった。
山の中で、退魔師たちと朧と蒼真が、向かい合っていた。
柊は少し離れた場所で、周囲の気配を探りながら──その光景を見ていた。
これが、始まりだと思った。
劇的な変化ではない。
一夜で全てが解決するわけではない。
でも──向き合うことが始まった。
それが、橋の最初の一歩だった。
澄江が言っていた。
橋が壊れたら、また架けろ。何度でも。
今夜は──架け始めた夜だと、柊は思った。
まだ途中で、形にもなっていないが。
でも──始まった。
風が吹いた。
山の木々が、静かに揺れた。
月の光が、木々の間から差し込んでいた。
銀色の、静かな光だった。



