満月の夜が明けた。
朝霧が山を包んでいた。
柊は泉のそばで目が覚めた。
いつの間に眠っていたのか、自分でもわからなかった。気がついたら、苔生した岩に寄りかかって、眠っていた。
隣に、朧がいた。
眠っていなかった。ただ、柊の隣に座って、夜明けの空を見ていた。
「おはよう」
「ああ」
「ずっと起きてた?」
「ずっと」
「眠らなくていいって言うけど──疲れない?」
「疲れるという感覚が、少しわかってきた」
柊は少し驚いた。
「最近?」
「ここ数日で」
「それは──」柊は考えた。「人間に近づいてきてるのかな」
「そうかもしれない」
「嫌じゃない?」
朧は少し考えた。
「嫌ではない。ただ──新しい感覚だ」
「私、教えることが増えそう」
「頼む」
その返事が、あまりにも真剣だったので、柊は笑った。
朧は笑わなかったが──口の端が、わずかに上がった。
山を下りると、蒼真と桐生が宿で待っていた。
二人とも、眠っていない顔だった。
「各地の報告が入ってきた」蒼真は言った。
「白面の気配が消えると同時に、あやかしたちの暴走も止まった。被害を受けた集落の幾つかで、小さな衝突が残っているが──大事には至っていない」
「よかった」
「ただ──」蒼真は少し間を置いた。「人とあやかしの間に生まれた亀裂は、残っている。白面がいなくなれば全て解決する話ではない」
柊は頷いた。
「わかってる」
「時間がかかる」
「うん。でも──時間をかけられる、ということでもある」
蒼真は柊を見た。
「……そうだな」
桐生が口を開いた。
「月喰いよ」
朧が桐生を見た。
「昨夜のことは、連合に報告する。白面を止めたこと、契りが解けたこと、全て」
「討伐命令は」
「それについて──話がある」桐生は静かに言った。「座れ」
四人で囲炉裏を囲んだ。
桐生は茶を一口飲んでから、話し始めた。
「昨夜、お前を見ていた。白面と向き合う姿を」
「……」
「白面の中にある声を届けた。それは、力ではなく──記憶と言葉の話だ」
「そうだ」
「力で押さえることも、斬ることもできた相手に、言葉で向き合った」
「それが最善だと思った」
「そうだな」桐生は頷いた。「わしも、そう思う」
柊は桐生を見た。
桐生の目が、昨日と少し違っていた。
昨日は「信じる」と言いながら、まだどこかに留保があった。
今日は──その留保が、消えていた。
「連合の中には、まだ月喰いを危険視する者がいる」桐生は続けた。「昨夜の一件を報告したとしても、全員が納得するわけではない。討伐命令を完全に取り消すためには──交渉が必要だ」
「交渉は、誰がする」
「わしがする。ただ──時間がかかる」
「どのくらい」
「わからない。早ければ数日。長ければ──月を越えるかもしれない」
朧は桐生を見た。
「その間、俺はどうする」
「ここに留まれ。この宿は、信頼できる場所だ」桐生は宿の主人に目を向けた。「頼めるか」
宿の主人は、相変わらず何も聞かずに、静かに頷いた。
「ありがとう」
桐生は立ち上がった。
「今日の昼には、連合の本部へ戻る。報告をして、交渉を始める」
「一人でいいんですか」蒼真が言った。
「お前はここに残れ」
「え」
「月喰いと柊の傍にいろ。何かあったとき、動ける者が必要だ」
蒼真は少し間を置いた。
「……わかりました」
桐生は朧を見た。
「月喰いよ」
「ん」
「お前がこれから何をしたいか──考えておけ」
「何を、とは」
「討伐命令が取り消された後、お前はどうするかということだ。力を持つ者には、その力の使い方を考える責任がある」
朧は桐生を見た。
「澄江に、橋になれと言われた」
桐生は少し驚いたように目を細めた。
「澄江を知っているか」
「会ってきた」
「そうか」桐生は小さく笑った。「澄江が言うなら──間違いはないかもしれないな」
それだけ言って、桐生は宿を出た。
桐生が去った後、三人は静かに残った。
蒼真は地図を広げて、昨夜の報告をまとめ始めた。
柊は窓の外を見ていた。
朝霧が晴れて、山が見えていた。
緑が、朝の光を受けて輝いていた。
「朧」
「ん」
「橋になること──考えてる?」
「少し」
「どんな橋?」
朧は少し考えた。
「まだわからない。だが──記憶が全部戻った。かつて自分が何をしたかも、わかっている。それを背負いながら、何ができるかを考えている」
「一人で考えなくていいよ」
「わかっている」
「一緒に考える」
「頼む」
その短い返事が、柊には嬉しかった。
最初に出会ったとき、朧は全てを一人で抱えようとしていた。
今は、頼むと言える。
それがどれほど大きなことか、柊には分かっていた。
蒼真が地図から顔を上げた。
「一つ、聞いていいか」
二人が蒼真を見た。
「契りが解けた。昨夜、確かに見た」
「うん」
「つまり──今の二人は、ただの人間とあやかしだ」
「そうなる」
「命の繋がりもない。縛りもない」
「そう」
蒼真は少し間を置いた。
「それでも──一緒にいるつもりか」
柊は朧を見た。
朧は柊を見た。
「いるつもりだ」朧は言った。
「俺が聞いているのは──」
「わかっている」朧は蒼真を見た。「お前が柊を大切に思っていることも、わかっている。だから答える」
蒼真は黙っていた。
「俺は、柊のそばにいることを──選ぶ。縛りがあるからではなく、感情があるから選ぶ。それは──変わらない」
蒼真はしばらく朧を見た。
それから柊を見た。
柊は蒼真を見た。
「蒼真」
「……なんだ」
「ちゃんと、幸せになってほしい」
蒼真は目を逸らした。
「俺の話はしていない」
「してる」柊は言った。「今、してる」
「……」
「蒼真は、いつも誰かのために動いてる。私のために、朧のために、連合のために。自分のために動く時間も、ちゃんと持って」
蒼真は地図を見たまま、黙っていた。
「……余計なことを言うな」
「言いたいから言う」
「それはもう聞いた」
「何度でも言う」
蒼真は深く息を吐いた。
「……うるさい」
でも──その声は、どこか柔らかかった。
昼過ぎ、蒼真が外に出た。
近くの集落の様子を確認してくると言って。
朧と柊だけが宿に残った。
縁側に並んで座って、山を見た。
「朧」
「ん」
「蒼真のこと、ちゃんと見てるね」
「見ている」
「最初は、複雑な男だって言ってたけど」
「今も複雑だ。だが──理解できるようになってきた」
「どんなふうに?」
「大切なものを、直接言えない男だ。だが、大切にしていることは──行動に全部出ている」
柊は少し笑った。
「そうだね」
「お前に似ている部分がある」
「私と?」
「お前も、自分のことは後回しにする」
「そんなことない」
「ある」朧は静かに言った。「俺のために、自分の命が削れていっても──言わなかった」
「それは──」
「俺を心配させたくなかったからだろう」
柊は少し黙った。
「……そうかもしれない」
「それが、お前の悪い癖だ」
蒼真と同じことを言われた、と柊は思った。
「気をつける」
「気をつけるだけでは足りない。俺に言え。これからは、俺に言え」
「これからも、そばにいるつもりなんだね」
「当然だ」
「当然、か」
柊は朧を見た。
朧も柊を見た。
当然。
その言葉が、どれほど重いか。
縛りがなくても、命が繋がっていなくても、
ただ──当然のように、そばにいると言える。
「……うん」柊は言った。「これからは、言う」
「約束だ」
「約束」
朧は山を見た。
「桐生が交渉している間──俺は、できることを考える」
「何を?」
「かつて俺が壊した場所がある。記憶の中にある場所だ。今もあるかどうかわからないが──もし残っているなら、見に行きたい」
「見に行って、どうする?」
「何ができるか、考える。壊した場所に、何かできることがあるなら──それが、橋の最初の一歩かもしれない」
柊は朧の横顔を見た。
二百年前の記憶を背負って、それでも前を見ている。
「一緒に行く」
「危ないかもしれない」
「それでも行く」
「……お前は止まらないな」
「うん」
「わかった」朧は言った。「一緒に行こう」
柊は朧の隣で、山を見た。
遠くの山。まだ見ぬ場所。
でも──一人ではなかった。
それが、今は──何よりも確かなことだった。
夕刻、蒼真が戻ってきた。
表情が、少し変わっていた。
「どうだった?」柊が聞いた。
「集落の様子は、落ち着いていた」蒼真は言った。「白面の気配が消えてから、あやかしたちも静かになっている。人とあやかしの間にある不信は残っているが──時間が解決する部分も多い」
「よかった」
「ただ──」
蒼真は少し間を置いた。
「連合から、使いが来ていた」
「桐生さんから?」
「ああ。交渉は始まっているらしい。ただ──一部の退魔師が、月喰いの討伐にこだわっている。昨夜の件を認めず、それでも討伐すべきだという意見が残っている」
朧は静かに聞いていた。
「桐生さんは?」
「粘っている。だが──時間がかかりそうだ」蒼真は朧を見た。「その間、ここに留まれるか」
「問題ない」
「退屈ではないか」
「退屈という感覚を、最近覚えた」
蒼真は少し驚いたように朧を見た。
「最近か」
「人間に近づいてきているらしい」
「……それは、いいことか悪いことか」
「柊は、いいことだと言った」
蒼真は柊を見た。
「そうなのか」
「そう言った」柊は言った。「感じることが増えるのは、いいことだと思う」
「そうかもしれないな」蒼真は静かに言った。「感じることが増えれば──選べることも増える」
その言葉は、朧に向けて言っているようで──どこか、自分自身に向けているようにも聞こえた。
朧は蒼真を見た。
「蒼真」
「なんだ」
「お前は──これから、どうする」
「どうする、とは」
「連合の退魔師として、月喰いの討伐を続けるつもりか」
蒼真は少し間を置いた。
「討伐の対象は──正しく見極める必要がある。月喰いが全て討伐対象ではないことは、昨夜わかった」
「そういう意味ではない」
「……わかっている」
蒼真は窓の外を見た。
夕暮れが、山を橙に染めていた。
「俺は──昨夜、一つのことを決めた」
「何を?」
「連合に、戻ったら──提言する。月喰いの件だけではなく、あやかしとの関係全体について。退魔師のあり方を、見直す必要があると」
柊は蒼真を見た。
「それは──大変じゃない? 連合の中で、そ
ういう声は少数じゃないかな」
「少数だ」蒼真は言った。「だが——少数でも、言わなければ変わらない」
「蒼真が言うなら、変わると思う」
「なぜ」
「蒼真は、一番いい退魔師だから」
蒼真は少し目を細めた。
「朧に言われるより、恥ずかしい」
「どっちに言われても、事実だよ」
蒼真は小さく息を吐いた。
「……お前は、本当に口が減らない」
「蒼真に似たのかもしれない」
「俺のせいにするな」
「だって──」
「もういい」蒼真は立ち上がった。「飯にする。腹が減った」
「空腹を覚えるのも、いいことだよ」
「うるさい」
朧が、小声で柊に言った。
「さっきから、少しずつ笑っている」
「知ってる」
「気づかれたくないらしい」
「知ってる。だから、気づかないふりしてる」
「……複雑だ」
「でも、いいでしょう」
「……ああ」
朧も──口の端を、わずかに上げた。
夜。
三人で夕餉を食べた後、蒼真が言った。
「一つ、提案がある」
「なんだ」朧が言った。
「桐生さんの交渉が終わるまでの間——白面が暴走させた集落のうち、一番被害の大きかった場所に行ってみたい」
「何のために」
「あやかしたちと、直接話してみたい。退魔師の立場から、話しかけた退魔師は、おそらくいない」
柊は蒼真を見た。
「それが──提言の第一歩?」
「そうだ。連合に戻って言葉だけで変えようとしても、限界がある。実際に動いた例があれば──説得力が違う」
朧は蒼真を見た。
「俺も行くか?」
「お前がいた方が──あやかしたちは話しやすいかもしれない。ただ、人間たちは警戒するかもしれない」
「どちらを優先する」
「どちらも、話せる状況を作りたい」蒼真は言った。「それが──難しいところだが」
「難しいことをやろうとしているな」
「そうだ」蒼真は静かに言った。「だが──難しいことをやらなければ、変わらない」
朧は少しの間、蒼真を見た。
「……わかった。一緒に行く」
「俺も行く」柊は言った。
「当然か」蒼真は少し笑った。
「当然」
「では明後日──桐生さんからの連絡を待ってから、動く」
「わかった」
三人が頷いた。
囲炉裏の火が、静かに燃えていた。
その夜、柊は一人で縁側に出た。
月が、昨夜より少し欠けていた。
満月は終わった。
でも──月はまだ、明るかった。
「眠れないか」
後ろから声がした。
朧だった。
「少し、空が見たくて」
「そうか」
朧も縁側に立って、空を見た。
「朧」
「ん」
「昨夜、言いたいことを言ってくれたね」
「ああ」
「私も──言いたいことを、ちゃんと言えたかな」
「言えていた」
「よかった」
柊は月を見た。
「朧が感情の名前を覚えていく間、私も──色々覚えた気がする」
「何を?」
「誰かのそばにいることの、重さ。守りたいと思うことの、強さ。選ぶということの、本当の意味」
朧は柊を見た。
「それは──教えたつもりはなかった」
「うん。私が、あなたのそばで覚えた」
朧はしばらく柊を見た。
「俺も──教えたつもりのないことを、覚えた気がする」
「何を?」
「誰かのために怖いと思うことが──生きているということだということを」
柊の胸が、静かに温かくなった。
「それは──大事なことだね」
「ああ」
「教えてくれてありがとう」
「俺が教えたわけではない」
「でも、あなたが教えてくれた」
朧は少し考えた。
「……そうかもしれない」
「うん」
二人で、月を見た。
少し欠けた月が、静かに輝いていた。
「朧」
「ん」
「これから、色々あると思う」
「ある」
「連合の交渉もあるし、壊した場所に行くことも、蒼真の提言も──」
「ある」
「全部、一緒にやろう」
朧は柊を見た。
「一人ではない、と言いたいのか」
「そう言いたい」
「……わかっている」朧は言った。「だが、言ってくれると──」
「どうなる?」
朧は少し間を置いた。
「悪くない」
柊は笑った。
「それが朧の最高の褒め言葉だね」
「そうかもしれない」
「もっと上の言葉を覚えよう」
「どんな言葉だ」
「それは──少しずつ、教える」
朧は柊を見た。
その銀色の瞳が、月の光を受けて、静かに揺れていた。
「……頼む」
短い言葉だった。
でも、その言葉の中に──これからのことが、全部入っていた気がした。
少し欠けた月が、山の向こうに傾いていく。
新しい夜明けが、もうすぐ来る。
これからの話が、ここから始まる。
柊は朧の隣に立って、その始まりを感じていた。
怖くなかった。
一人ではないから。
翌朝。
桐生から使いが来た。
交渉は続いている。もう少し時間がかかる。
ただ──大勢は、月喰いの討伐を取り消す方向に傾きつつある。
蒼真はその報告を聞いて、静かに頷いた。
「時間の問題だ」
「よかった」柊は言った。
朧は報告を聞きながら、窓の外を見ていた。
「朧」
「ん」
「どんな顔してる?」
朧は柊を見た。
「どんな顔とは?」
「嬉しい? 安心した?」
朧は少し考えた。
「両方、ある」
「それは──すごいね」
「何がすごい」
「最初は、感情の名前が全部わからなかったのに。今は、両方同時に感じてる」
朧はその言葉を、静かに受け取った。
「……お前のおかげだ」
「私だけじゃない。蒼真も、澄江さんも、あの隠れ里の人たちも──みんなが教えてくれた」
「そうだな」朧は静かに言った。「俺は──多くのものをもらった」
「これからは、渡す番だね」
「渡す?」
「橋になること。あなたが持っているものを、渡していくこと」
朧はしばらく考えた。
「……そうかもしれない」
「できる?」
「わからない。だが──やってみる」
「それで十分だよ」
朧は柊を見た。
「お前は、いつもそう言う」
「それで十分だと、本当に思うから」
「十分ではないことも、ある」
「そのときは──また一緒に考える」
朧は柊を見た。
長い間、見た。
それから──小さく、頷いた。
「……ああ」
蒼真が二人を見た。
何も言わなかった。
ただ、地図を片付けながら──小さく、息を吐いた。
その息が、どんな感情を含んでいたか。
柊には、少しだけ──わかった気がした。
だから。
「蒼真」
「なんだ」
「全部終わったら──三人で、どこかに行こう」
蒼真は柊を見た。
「どこかとは」
「まだ決めてないけど。ただ──三人で、どこか行きたい」
「……理由は?」
「一緒にいたいから」
蒼真は少し黙った。
「お前は──」
「それだけで十分な理由だよ」
蒼真は目を逸らした。
「……考えておく」
「約束?」
「考えておくと言っている」
「それは約束ということ?」
「うるさい」
朧が小声で言った。
「また笑っている」
柊も小声で答えた。
「知ってる」
二人の声は、蒼真に聞こえていた。
聞こえていて──蒼真は何も言わなかった。
ただ地図を片付ける手が、少しだけ──止まった。
それで、十分だった。
朝の光が、宿の中に差し込んでいた。
明るく、静かな光だった。
これからの道は、まだ長い。
でも──歩ける道だった。
三人で、歩ける道だった。
朝霧が山を包んでいた。
柊は泉のそばで目が覚めた。
いつの間に眠っていたのか、自分でもわからなかった。気がついたら、苔生した岩に寄りかかって、眠っていた。
隣に、朧がいた。
眠っていなかった。ただ、柊の隣に座って、夜明けの空を見ていた。
「おはよう」
「ああ」
「ずっと起きてた?」
「ずっと」
「眠らなくていいって言うけど──疲れない?」
「疲れるという感覚が、少しわかってきた」
柊は少し驚いた。
「最近?」
「ここ数日で」
「それは──」柊は考えた。「人間に近づいてきてるのかな」
「そうかもしれない」
「嫌じゃない?」
朧は少し考えた。
「嫌ではない。ただ──新しい感覚だ」
「私、教えることが増えそう」
「頼む」
その返事が、あまりにも真剣だったので、柊は笑った。
朧は笑わなかったが──口の端が、わずかに上がった。
山を下りると、蒼真と桐生が宿で待っていた。
二人とも、眠っていない顔だった。
「各地の報告が入ってきた」蒼真は言った。
「白面の気配が消えると同時に、あやかしたちの暴走も止まった。被害を受けた集落の幾つかで、小さな衝突が残っているが──大事には至っていない」
「よかった」
「ただ──」蒼真は少し間を置いた。「人とあやかしの間に生まれた亀裂は、残っている。白面がいなくなれば全て解決する話ではない」
柊は頷いた。
「わかってる」
「時間がかかる」
「うん。でも──時間をかけられる、ということでもある」
蒼真は柊を見た。
「……そうだな」
桐生が口を開いた。
「月喰いよ」
朧が桐生を見た。
「昨夜のことは、連合に報告する。白面を止めたこと、契りが解けたこと、全て」
「討伐命令は」
「それについて──話がある」桐生は静かに言った。「座れ」
四人で囲炉裏を囲んだ。
桐生は茶を一口飲んでから、話し始めた。
「昨夜、お前を見ていた。白面と向き合う姿を」
「……」
「白面の中にある声を届けた。それは、力ではなく──記憶と言葉の話だ」
「そうだ」
「力で押さえることも、斬ることもできた相手に、言葉で向き合った」
「それが最善だと思った」
「そうだな」桐生は頷いた。「わしも、そう思う」
柊は桐生を見た。
桐生の目が、昨日と少し違っていた。
昨日は「信じる」と言いながら、まだどこかに留保があった。
今日は──その留保が、消えていた。
「連合の中には、まだ月喰いを危険視する者がいる」桐生は続けた。「昨夜の一件を報告したとしても、全員が納得するわけではない。討伐命令を完全に取り消すためには──交渉が必要だ」
「交渉は、誰がする」
「わしがする。ただ──時間がかかる」
「どのくらい」
「わからない。早ければ数日。長ければ──月を越えるかもしれない」
朧は桐生を見た。
「その間、俺はどうする」
「ここに留まれ。この宿は、信頼できる場所だ」桐生は宿の主人に目を向けた。「頼めるか」
宿の主人は、相変わらず何も聞かずに、静かに頷いた。
「ありがとう」
桐生は立ち上がった。
「今日の昼には、連合の本部へ戻る。報告をして、交渉を始める」
「一人でいいんですか」蒼真が言った。
「お前はここに残れ」
「え」
「月喰いと柊の傍にいろ。何かあったとき、動ける者が必要だ」
蒼真は少し間を置いた。
「……わかりました」
桐生は朧を見た。
「月喰いよ」
「ん」
「お前がこれから何をしたいか──考えておけ」
「何を、とは」
「討伐命令が取り消された後、お前はどうするかということだ。力を持つ者には、その力の使い方を考える責任がある」
朧は桐生を見た。
「澄江に、橋になれと言われた」
桐生は少し驚いたように目を細めた。
「澄江を知っているか」
「会ってきた」
「そうか」桐生は小さく笑った。「澄江が言うなら──間違いはないかもしれないな」
それだけ言って、桐生は宿を出た。
桐生が去った後、三人は静かに残った。
蒼真は地図を広げて、昨夜の報告をまとめ始めた。
柊は窓の外を見ていた。
朝霧が晴れて、山が見えていた。
緑が、朝の光を受けて輝いていた。
「朧」
「ん」
「橋になること──考えてる?」
「少し」
「どんな橋?」
朧は少し考えた。
「まだわからない。だが──記憶が全部戻った。かつて自分が何をしたかも、わかっている。それを背負いながら、何ができるかを考えている」
「一人で考えなくていいよ」
「わかっている」
「一緒に考える」
「頼む」
その短い返事が、柊には嬉しかった。
最初に出会ったとき、朧は全てを一人で抱えようとしていた。
今は、頼むと言える。
それがどれほど大きなことか、柊には分かっていた。
蒼真が地図から顔を上げた。
「一つ、聞いていいか」
二人が蒼真を見た。
「契りが解けた。昨夜、確かに見た」
「うん」
「つまり──今の二人は、ただの人間とあやかしだ」
「そうなる」
「命の繋がりもない。縛りもない」
「そう」
蒼真は少し間を置いた。
「それでも──一緒にいるつもりか」
柊は朧を見た。
朧は柊を見た。
「いるつもりだ」朧は言った。
「俺が聞いているのは──」
「わかっている」朧は蒼真を見た。「お前が柊を大切に思っていることも、わかっている。だから答える」
蒼真は黙っていた。
「俺は、柊のそばにいることを──選ぶ。縛りがあるからではなく、感情があるから選ぶ。それは──変わらない」
蒼真はしばらく朧を見た。
それから柊を見た。
柊は蒼真を見た。
「蒼真」
「……なんだ」
「ちゃんと、幸せになってほしい」
蒼真は目を逸らした。
「俺の話はしていない」
「してる」柊は言った。「今、してる」
「……」
「蒼真は、いつも誰かのために動いてる。私のために、朧のために、連合のために。自分のために動く時間も、ちゃんと持って」
蒼真は地図を見たまま、黙っていた。
「……余計なことを言うな」
「言いたいから言う」
「それはもう聞いた」
「何度でも言う」
蒼真は深く息を吐いた。
「……うるさい」
でも──その声は、どこか柔らかかった。
昼過ぎ、蒼真が外に出た。
近くの集落の様子を確認してくると言って。
朧と柊だけが宿に残った。
縁側に並んで座って、山を見た。
「朧」
「ん」
「蒼真のこと、ちゃんと見てるね」
「見ている」
「最初は、複雑な男だって言ってたけど」
「今も複雑だ。だが──理解できるようになってきた」
「どんなふうに?」
「大切なものを、直接言えない男だ。だが、大切にしていることは──行動に全部出ている」
柊は少し笑った。
「そうだね」
「お前に似ている部分がある」
「私と?」
「お前も、自分のことは後回しにする」
「そんなことない」
「ある」朧は静かに言った。「俺のために、自分の命が削れていっても──言わなかった」
「それは──」
「俺を心配させたくなかったからだろう」
柊は少し黙った。
「……そうかもしれない」
「それが、お前の悪い癖だ」
蒼真と同じことを言われた、と柊は思った。
「気をつける」
「気をつけるだけでは足りない。俺に言え。これからは、俺に言え」
「これからも、そばにいるつもりなんだね」
「当然だ」
「当然、か」
柊は朧を見た。
朧も柊を見た。
当然。
その言葉が、どれほど重いか。
縛りがなくても、命が繋がっていなくても、
ただ──当然のように、そばにいると言える。
「……うん」柊は言った。「これからは、言う」
「約束だ」
「約束」
朧は山を見た。
「桐生が交渉している間──俺は、できることを考える」
「何を?」
「かつて俺が壊した場所がある。記憶の中にある場所だ。今もあるかどうかわからないが──もし残っているなら、見に行きたい」
「見に行って、どうする?」
「何ができるか、考える。壊した場所に、何かできることがあるなら──それが、橋の最初の一歩かもしれない」
柊は朧の横顔を見た。
二百年前の記憶を背負って、それでも前を見ている。
「一緒に行く」
「危ないかもしれない」
「それでも行く」
「……お前は止まらないな」
「うん」
「わかった」朧は言った。「一緒に行こう」
柊は朧の隣で、山を見た。
遠くの山。まだ見ぬ場所。
でも──一人ではなかった。
それが、今は──何よりも確かなことだった。
夕刻、蒼真が戻ってきた。
表情が、少し変わっていた。
「どうだった?」柊が聞いた。
「集落の様子は、落ち着いていた」蒼真は言った。「白面の気配が消えてから、あやかしたちも静かになっている。人とあやかしの間にある不信は残っているが──時間が解決する部分も多い」
「よかった」
「ただ──」
蒼真は少し間を置いた。
「連合から、使いが来ていた」
「桐生さんから?」
「ああ。交渉は始まっているらしい。ただ──一部の退魔師が、月喰いの討伐にこだわっている。昨夜の件を認めず、それでも討伐すべきだという意見が残っている」
朧は静かに聞いていた。
「桐生さんは?」
「粘っている。だが──時間がかかりそうだ」蒼真は朧を見た。「その間、ここに留まれるか」
「問題ない」
「退屈ではないか」
「退屈という感覚を、最近覚えた」
蒼真は少し驚いたように朧を見た。
「最近か」
「人間に近づいてきているらしい」
「……それは、いいことか悪いことか」
「柊は、いいことだと言った」
蒼真は柊を見た。
「そうなのか」
「そう言った」柊は言った。「感じることが増えるのは、いいことだと思う」
「そうかもしれないな」蒼真は静かに言った。「感じることが増えれば──選べることも増える」
その言葉は、朧に向けて言っているようで──どこか、自分自身に向けているようにも聞こえた。
朧は蒼真を見た。
「蒼真」
「なんだ」
「お前は──これから、どうする」
「どうする、とは」
「連合の退魔師として、月喰いの討伐を続けるつもりか」
蒼真は少し間を置いた。
「討伐の対象は──正しく見極める必要がある。月喰いが全て討伐対象ではないことは、昨夜わかった」
「そういう意味ではない」
「……わかっている」
蒼真は窓の外を見た。
夕暮れが、山を橙に染めていた。
「俺は──昨夜、一つのことを決めた」
「何を?」
「連合に、戻ったら──提言する。月喰いの件だけではなく、あやかしとの関係全体について。退魔師のあり方を、見直す必要があると」
柊は蒼真を見た。
「それは──大変じゃない? 連合の中で、そ
ういう声は少数じゃないかな」
「少数だ」蒼真は言った。「だが——少数でも、言わなければ変わらない」
「蒼真が言うなら、変わると思う」
「なぜ」
「蒼真は、一番いい退魔師だから」
蒼真は少し目を細めた。
「朧に言われるより、恥ずかしい」
「どっちに言われても、事実だよ」
蒼真は小さく息を吐いた。
「……お前は、本当に口が減らない」
「蒼真に似たのかもしれない」
「俺のせいにするな」
「だって──」
「もういい」蒼真は立ち上がった。「飯にする。腹が減った」
「空腹を覚えるのも、いいことだよ」
「うるさい」
朧が、小声で柊に言った。
「さっきから、少しずつ笑っている」
「知ってる」
「気づかれたくないらしい」
「知ってる。だから、気づかないふりしてる」
「……複雑だ」
「でも、いいでしょう」
「……ああ」
朧も──口の端を、わずかに上げた。
夜。
三人で夕餉を食べた後、蒼真が言った。
「一つ、提案がある」
「なんだ」朧が言った。
「桐生さんの交渉が終わるまでの間——白面が暴走させた集落のうち、一番被害の大きかった場所に行ってみたい」
「何のために」
「あやかしたちと、直接話してみたい。退魔師の立場から、話しかけた退魔師は、おそらくいない」
柊は蒼真を見た。
「それが──提言の第一歩?」
「そうだ。連合に戻って言葉だけで変えようとしても、限界がある。実際に動いた例があれば──説得力が違う」
朧は蒼真を見た。
「俺も行くか?」
「お前がいた方が──あやかしたちは話しやすいかもしれない。ただ、人間たちは警戒するかもしれない」
「どちらを優先する」
「どちらも、話せる状況を作りたい」蒼真は言った。「それが──難しいところだが」
「難しいことをやろうとしているな」
「そうだ」蒼真は静かに言った。「だが──難しいことをやらなければ、変わらない」
朧は少しの間、蒼真を見た。
「……わかった。一緒に行く」
「俺も行く」柊は言った。
「当然か」蒼真は少し笑った。
「当然」
「では明後日──桐生さんからの連絡を待ってから、動く」
「わかった」
三人が頷いた。
囲炉裏の火が、静かに燃えていた。
その夜、柊は一人で縁側に出た。
月が、昨夜より少し欠けていた。
満月は終わった。
でも──月はまだ、明るかった。
「眠れないか」
後ろから声がした。
朧だった。
「少し、空が見たくて」
「そうか」
朧も縁側に立って、空を見た。
「朧」
「ん」
「昨夜、言いたいことを言ってくれたね」
「ああ」
「私も──言いたいことを、ちゃんと言えたかな」
「言えていた」
「よかった」
柊は月を見た。
「朧が感情の名前を覚えていく間、私も──色々覚えた気がする」
「何を?」
「誰かのそばにいることの、重さ。守りたいと思うことの、強さ。選ぶということの、本当の意味」
朧は柊を見た。
「それは──教えたつもりはなかった」
「うん。私が、あなたのそばで覚えた」
朧はしばらく柊を見た。
「俺も──教えたつもりのないことを、覚えた気がする」
「何を?」
「誰かのために怖いと思うことが──生きているということだということを」
柊の胸が、静かに温かくなった。
「それは──大事なことだね」
「ああ」
「教えてくれてありがとう」
「俺が教えたわけではない」
「でも、あなたが教えてくれた」
朧は少し考えた。
「……そうかもしれない」
「うん」
二人で、月を見た。
少し欠けた月が、静かに輝いていた。
「朧」
「ん」
「これから、色々あると思う」
「ある」
「連合の交渉もあるし、壊した場所に行くことも、蒼真の提言も──」
「ある」
「全部、一緒にやろう」
朧は柊を見た。
「一人ではない、と言いたいのか」
「そう言いたい」
「……わかっている」朧は言った。「だが、言ってくれると──」
「どうなる?」
朧は少し間を置いた。
「悪くない」
柊は笑った。
「それが朧の最高の褒め言葉だね」
「そうかもしれない」
「もっと上の言葉を覚えよう」
「どんな言葉だ」
「それは──少しずつ、教える」
朧は柊を見た。
その銀色の瞳が、月の光を受けて、静かに揺れていた。
「……頼む」
短い言葉だった。
でも、その言葉の中に──これからのことが、全部入っていた気がした。
少し欠けた月が、山の向こうに傾いていく。
新しい夜明けが、もうすぐ来る。
これからの話が、ここから始まる。
柊は朧の隣に立って、その始まりを感じていた。
怖くなかった。
一人ではないから。
翌朝。
桐生から使いが来た。
交渉は続いている。もう少し時間がかかる。
ただ──大勢は、月喰いの討伐を取り消す方向に傾きつつある。
蒼真はその報告を聞いて、静かに頷いた。
「時間の問題だ」
「よかった」柊は言った。
朧は報告を聞きながら、窓の外を見ていた。
「朧」
「ん」
「どんな顔してる?」
朧は柊を見た。
「どんな顔とは?」
「嬉しい? 安心した?」
朧は少し考えた。
「両方、ある」
「それは──すごいね」
「何がすごい」
「最初は、感情の名前が全部わからなかったのに。今は、両方同時に感じてる」
朧はその言葉を、静かに受け取った。
「……お前のおかげだ」
「私だけじゃない。蒼真も、澄江さんも、あの隠れ里の人たちも──みんなが教えてくれた」
「そうだな」朧は静かに言った。「俺は──多くのものをもらった」
「これからは、渡す番だね」
「渡す?」
「橋になること。あなたが持っているものを、渡していくこと」
朧はしばらく考えた。
「……そうかもしれない」
「できる?」
「わからない。だが──やってみる」
「それで十分だよ」
朧は柊を見た。
「お前は、いつもそう言う」
「それで十分だと、本当に思うから」
「十分ではないことも、ある」
「そのときは──また一緒に考える」
朧は柊を見た。
長い間、見た。
それから──小さく、頷いた。
「……ああ」
蒼真が二人を見た。
何も言わなかった。
ただ、地図を片付けながら──小さく、息を吐いた。
その息が、どんな感情を含んでいたか。
柊には、少しだけ──わかった気がした。
だから。
「蒼真」
「なんだ」
「全部終わったら──三人で、どこかに行こう」
蒼真は柊を見た。
「どこかとは」
「まだ決めてないけど。ただ──三人で、どこか行きたい」
「……理由は?」
「一緒にいたいから」
蒼真は少し黙った。
「お前は──」
「それだけで十分な理由だよ」
蒼真は目を逸らした。
「……考えておく」
「約束?」
「考えておくと言っている」
「それは約束ということ?」
「うるさい」
朧が小声で言った。
「また笑っている」
柊も小声で答えた。
「知ってる」
二人の声は、蒼真に聞こえていた。
聞こえていて──蒼真は何も言わなかった。
ただ地図を片付ける手が、少しだけ──止まった。
それで、十分だった。
朝の光が、宿の中に差し込んでいた。
明るく、静かな光だった。
これからの道は、まだ長い。
でも──歩ける道だった。
三人で、歩ける道だった。



