月喰いと契りの巫女

満月の夜が明けた。

朝霧が山を包んでいた。

柊は泉のそばで目が覚めた。

いつの間に眠っていたのか、自分でもわからなかった。気がついたら、苔生した岩に寄りかかって、眠っていた。

隣に、朧がいた。

眠っていなかった。ただ、柊の隣に座って、夜明けの空を見ていた。

「おはよう」

「ああ」

「ずっと起きてた?」

「ずっと」

「眠らなくていいって言うけど──疲れない?」

「疲れるという感覚が、少しわかってきた」
柊は少し驚いた。

「最近?」

「ここ数日で」

「それは──」柊は考えた。「人間に近づいてきてるのかな」

「そうかもしれない」

「嫌じゃない?」

朧は少し考えた。

「嫌ではない。ただ──新しい感覚だ」

「私、教えることが増えそう」

「頼む」

その返事が、あまりにも真剣だったので、柊は笑った。

朧は笑わなかったが──口の端が、わずかに上がった。

山を下りると、蒼真と桐生が宿で待っていた。

二人とも、眠っていない顔だった。

「各地の報告が入ってきた」蒼真は言った。

「白面の気配が消えると同時に、あやかしたちの暴走も止まった。被害を受けた集落の幾つかで、小さな衝突が残っているが──大事には至っていない」

「よかった」

「ただ──」蒼真は少し間を置いた。「人とあやかしの間に生まれた亀裂は、残っている。白面がいなくなれば全て解決する話ではない」

柊は頷いた。

「わかってる」

「時間がかかる」

「うん。でも──時間をかけられる、ということでもある」

蒼真は柊を見た。

「……そうだな」

桐生が口を開いた。

「月喰いよ」

朧が桐生を見た。

「昨夜のことは、連合に報告する。白面を止めたこと、契りが解けたこと、全て」

「討伐命令は」

「それについて──話がある」桐生は静かに言った。「座れ」
四人で囲炉裏を囲んだ。
桐生は茶を一口飲んでから、話し始めた。

「昨夜、お前を見ていた。白面と向き合う姿を」

「……」

「白面の中にある声を届けた。それは、力ではなく──記憶と言葉の話だ」

「そうだ」

「力で押さえることも、斬ることもできた相手に、言葉で向き合った」

「それが最善だと思った」

「そうだな」桐生は頷いた。「わしも、そう思う」

柊は桐生を見た。

桐生の目が、昨日と少し違っていた。

昨日は「信じる」と言いながら、まだどこかに留保があった。

今日は──その留保が、消えていた。

「連合の中には、まだ月喰いを危険視する者がいる」桐生は続けた。「昨夜の一件を報告したとしても、全員が納得するわけではない。討伐命令を完全に取り消すためには──交渉が必要だ」

「交渉は、誰がする」

「わしがする。ただ──時間がかかる」

「どのくらい」

「わからない。早ければ数日。長ければ──月を越えるかもしれない」

朧は桐生を見た。

「その間、俺はどうする」

「ここに留まれ。この宿は、信頼できる場所だ」桐生は宿の主人に目を向けた。「頼めるか」

宿の主人は、相変わらず何も聞かずに、静かに頷いた。

「ありがとう」

桐生は立ち上がった。

「今日の昼には、連合の本部へ戻る。報告をして、交渉を始める」

「一人でいいんですか」蒼真が言った。

「お前はここに残れ」

「え」

「月喰いと柊の傍にいろ。何かあったとき、動ける者が必要だ」

蒼真は少し間を置いた。

「……わかりました」

桐生は朧を見た。

「月喰いよ」

「ん」

「お前がこれから何をしたいか──考えておけ」

「何を、とは」

「討伐命令が取り消された後、お前はどうするかということだ。力を持つ者には、その力の使い方を考える責任がある」

朧は桐生を見た。

「澄江に、橋になれと言われた」

桐生は少し驚いたように目を細めた。

「澄江を知っているか」

「会ってきた」

「そうか」桐生は小さく笑った。「澄江が言うなら──間違いはないかもしれないな」

それだけ言って、桐生は宿を出た。

桐生が去った後、三人は静かに残った。

蒼真は地図を広げて、昨夜の報告をまとめ始めた。

柊は窓の外を見ていた。

朝霧が晴れて、山が見えていた。

緑が、朝の光を受けて輝いていた。

「朧」

「ん」

「橋になること──考えてる?」

「少し」

「どんな橋?」

朧は少し考えた。

「まだわからない。だが──記憶が全部戻った。かつて自分が何をしたかも、わかっている。それを背負いながら、何ができるかを考えている」

「一人で考えなくていいよ」

「わかっている」

「一緒に考える」

「頼む」

その短い返事が、柊には嬉しかった。

最初に出会ったとき、朧は全てを一人で抱えようとしていた。

今は、頼むと言える。

それがどれほど大きなことか、柊には分かっていた。

蒼真が地図から顔を上げた。

「一つ、聞いていいか」

二人が蒼真を見た。

「契りが解けた。昨夜、確かに見た」

「うん」

「つまり──今の二人は、ただの人間とあやかしだ」

「そうなる」

「命の繋がりもない。縛りもない」

「そう」

蒼真は少し間を置いた。

「それでも──一緒にいるつもりか」

柊は朧を見た。

朧は柊を見た。

「いるつもりだ」朧は言った。

「俺が聞いているのは──」

「わかっている」朧は蒼真を見た。「お前が柊を大切に思っていることも、わかっている。だから答える」

蒼真は黙っていた。

「俺は、柊のそばにいることを──選ぶ。縛りがあるからではなく、感情があるから選ぶ。それは──変わらない」

蒼真はしばらく朧を見た。

それから柊を見た。

柊は蒼真を見た。

「蒼真」

「……なんだ」

「ちゃんと、幸せになってほしい」

蒼真は目を逸らした。

「俺の話はしていない」

「してる」柊は言った。「今、してる」

「……」

「蒼真は、いつも誰かのために動いてる。私のために、朧のために、連合のために。自分のために動く時間も、ちゃんと持って」

蒼真は地図を見たまま、黙っていた。

「……余計なことを言うな」

「言いたいから言う」

「それはもう聞いた」

「何度でも言う」

蒼真は深く息を吐いた。

「……うるさい」

でも──その声は、どこか柔らかかった。

昼過ぎ、蒼真が外に出た。

近くの集落の様子を確認してくると言って。

朧と柊だけが宿に残った。

縁側に並んで座って、山を見た。

「朧」

「ん」

「蒼真のこと、ちゃんと見てるね」

「見ている」

「最初は、複雑な男だって言ってたけど」

「今も複雑だ。だが──理解できるようになってきた」

「どんなふうに?」

「大切なものを、直接言えない男だ。だが、大切にしていることは──行動に全部出ている」

柊は少し笑った。

「そうだね」

「お前に似ている部分がある」

「私と?」

「お前も、自分のことは後回しにする」

「そんなことない」

「ある」朧は静かに言った。「俺のために、自分の命が削れていっても──言わなかった」

「それは──」

「俺を心配させたくなかったからだろう」

柊は少し黙った。

「……そうかもしれない」

「それが、お前の悪い癖だ」

蒼真と同じことを言われた、と柊は思った。

「気をつける」

「気をつけるだけでは足りない。俺に言え。これからは、俺に言え」

「これからも、そばにいるつもりなんだね」

「当然だ」

「当然、か」

柊は朧を見た。

朧も柊を見た。

当然。

その言葉が、どれほど重いか。

縛りがなくても、命が繋がっていなくても、
ただ──当然のように、そばにいると言える。

「……うん」柊は言った。「これからは、言う」

「約束だ」

「約束」

朧は山を見た。

「桐生が交渉している間──俺は、できることを考える」

「何を?」

「かつて俺が壊した場所がある。記憶の中にある場所だ。今もあるかどうかわからないが──もし残っているなら、見に行きたい」

「見に行って、どうする?」

「何ができるか、考える。壊した場所に、何かできることがあるなら──それが、橋の最初の一歩かもしれない」

柊は朧の横顔を見た。

二百年前の記憶を背負って、それでも前を見ている。

「一緒に行く」

「危ないかもしれない」

「それでも行く」

「……お前は止まらないな」

「うん」

「わかった」朧は言った。「一緒に行こう」

柊は朧の隣で、山を見た。

遠くの山。まだ見ぬ場所。

でも──一人ではなかった。

それが、今は──何よりも確かなことだった。

夕刻、蒼真が戻ってきた。

表情が、少し変わっていた。

「どうだった?」柊が聞いた。

「集落の様子は、落ち着いていた」蒼真は言った。「白面の気配が消えてから、あやかしたちも静かになっている。人とあやかしの間にある不信は残っているが──時間が解決する部分も多い」

「よかった」

「ただ──」

蒼真は少し間を置いた。

「連合から、使いが来ていた」

「桐生さんから?」

「ああ。交渉は始まっているらしい。ただ──一部の退魔師が、月喰いの討伐にこだわっている。昨夜の件を認めず、それでも討伐すべきだという意見が残っている」

朧は静かに聞いていた。

「桐生さんは?」

「粘っている。だが──時間がかかりそうだ」蒼真は朧を見た。「その間、ここに留まれるか」

「問題ない」

「退屈ではないか」

「退屈という感覚を、最近覚えた」

蒼真は少し驚いたように朧を見た。

「最近か」

「人間に近づいてきているらしい」

「……それは、いいことか悪いことか」

「柊は、いいことだと言った」

蒼真は柊を見た。

「そうなのか」

「そう言った」柊は言った。「感じることが増えるのは、いいことだと思う」

「そうかもしれないな」蒼真は静かに言った。「感じることが増えれば──選べることも増える」

その言葉は、朧に向けて言っているようで──どこか、自分自身に向けているようにも聞こえた。

朧は蒼真を見た。

「蒼真」

「なんだ」

「お前は──これから、どうする」

「どうする、とは」

「連合の退魔師として、月喰いの討伐を続けるつもりか」

蒼真は少し間を置いた。

「討伐の対象は──正しく見極める必要がある。月喰いが全て討伐対象ではないことは、昨夜わかった」

「そういう意味ではない」

「……わかっている」

蒼真は窓の外を見た。

夕暮れが、山を橙に染めていた。

「俺は──昨夜、一つのことを決めた」

「何を?」

「連合に、戻ったら──提言する。月喰いの件だけではなく、あやかしとの関係全体について。退魔師のあり方を、見直す必要があると」

柊は蒼真を見た。

「それは──大変じゃない? 連合の中で、そ
ういう声は少数じゃないかな」

「少数だ」蒼真は言った。「だが——少数でも、言わなければ変わらない」

「蒼真が言うなら、変わると思う」

「なぜ」

「蒼真は、一番いい退魔師だから」

蒼真は少し目を細めた。

「朧に言われるより、恥ずかしい」

「どっちに言われても、事実だよ」

蒼真は小さく息を吐いた。

「……お前は、本当に口が減らない」

「蒼真に似たのかもしれない」

「俺のせいにするな」

「だって──」

「もういい」蒼真は立ち上がった。「飯にする。腹が減った」

「空腹を覚えるのも、いいことだよ」

「うるさい」

朧が、小声で柊に言った。

「さっきから、少しずつ笑っている」

「知ってる」

「気づかれたくないらしい」

「知ってる。だから、気づかないふりしてる」

「……複雑だ」

「でも、いいでしょう」

「……ああ」

朧も──口の端を、わずかに上げた。
夜。

三人で夕餉を食べた後、蒼真が言った。

「一つ、提案がある」

「なんだ」朧が言った。

「桐生さんの交渉が終わるまでの間——白面が暴走させた集落のうち、一番被害の大きかった場所に行ってみたい」

「何のために」

「あやかしたちと、直接話してみたい。退魔師の立場から、話しかけた退魔師は、おそらくいない」

柊は蒼真を見た。

「それが──提言の第一歩?」

「そうだ。連合に戻って言葉だけで変えようとしても、限界がある。実際に動いた例があれば──説得力が違う」

朧は蒼真を見た。

「俺も行くか?」

「お前がいた方が──あやかしたちは話しやすいかもしれない。ただ、人間たちは警戒するかもしれない」

「どちらを優先する」

「どちらも、話せる状況を作りたい」蒼真は言った。「それが──難しいところだが」

「難しいことをやろうとしているな」

「そうだ」蒼真は静かに言った。「だが──難しいことをやらなければ、変わらない」

朧は少しの間、蒼真を見た。

「……わかった。一緒に行く」

「俺も行く」柊は言った。

「当然か」蒼真は少し笑った。

「当然」

「では明後日──桐生さんからの連絡を待ってから、動く」

「わかった」

三人が頷いた。

囲炉裏の火が、静かに燃えていた。

その夜、柊は一人で縁側に出た。

月が、昨夜より少し欠けていた。

満月は終わった。

でも──月はまだ、明るかった。

「眠れないか」

後ろから声がした。

朧だった。

「少し、空が見たくて」

「そうか」

朧も縁側に立って、空を見た。

「朧」

「ん」

「昨夜、言いたいことを言ってくれたね」

「ああ」

「私も──言いたいことを、ちゃんと言えたかな」

「言えていた」

「よかった」

柊は月を見た。

「朧が感情の名前を覚えていく間、私も──色々覚えた気がする」

「何を?」

「誰かのそばにいることの、重さ。守りたいと思うことの、強さ。選ぶということの、本当の意味」

朧は柊を見た。

「それは──教えたつもりはなかった」

「うん。私が、あなたのそばで覚えた」
朧はしばらく柊を見た。

「俺も──教えたつもりのないことを、覚えた気がする」

「何を?」

「誰かのために怖いと思うことが──生きているということだということを」

柊の胸が、静かに温かくなった。

「それは──大事なことだね」

「ああ」

「教えてくれてありがとう」

「俺が教えたわけではない」

「でも、あなたが教えてくれた」

朧は少し考えた。

「……そうかもしれない」

「うん」

二人で、月を見た。

少し欠けた月が、静かに輝いていた。

「朧」

「ん」

「これから、色々あると思う」

「ある」

「連合の交渉もあるし、壊した場所に行くことも、蒼真の提言も──」

「ある」

「全部、一緒にやろう」

朧は柊を見た。

「一人ではない、と言いたいのか」

「そう言いたい」

「……わかっている」朧は言った。「だが、言ってくれると──」

「どうなる?」

朧は少し間を置いた。

「悪くない」

柊は笑った。

「それが朧の最高の褒め言葉だね」

「そうかもしれない」

「もっと上の言葉を覚えよう」

「どんな言葉だ」

「それは──少しずつ、教える」

朧は柊を見た。

その銀色の瞳が、月の光を受けて、静かに揺れていた。

「……頼む」

短い言葉だった。

でも、その言葉の中に──これからのことが、全部入っていた気がした。

少し欠けた月が、山の向こうに傾いていく。

新しい夜明けが、もうすぐ来る。

これからの話が、ここから始まる。

柊は朧の隣に立って、その始まりを感じていた。

怖くなかった。

一人ではないから。

翌朝。

桐生から使いが来た。

交渉は続いている。もう少し時間がかかる。

ただ──大勢は、月喰いの討伐を取り消す方向に傾きつつある。

蒼真はその報告を聞いて、静かに頷いた。

「時間の問題だ」

「よかった」柊は言った。

朧は報告を聞きながら、窓の外を見ていた。

「朧」

「ん」

「どんな顔してる?」

朧は柊を見た。

「どんな顔とは?」

「嬉しい? 安心した?」

朧は少し考えた。

「両方、ある」

「それは──すごいね」

「何がすごい」

「最初は、感情の名前が全部わからなかったのに。今は、両方同時に感じてる」

朧はその言葉を、静かに受け取った。

「……お前のおかげだ」

「私だけじゃない。蒼真も、澄江さんも、あの隠れ里の人たちも──みんなが教えてくれた」

「そうだな」朧は静かに言った。「俺は──多くのものをもらった」

「これからは、渡す番だね」

「渡す?」

「橋になること。あなたが持っているものを、渡していくこと」

朧はしばらく考えた。

「……そうかもしれない」

「できる?」

「わからない。だが──やってみる」

「それで十分だよ」

朧は柊を見た。

「お前は、いつもそう言う」

「それで十分だと、本当に思うから」

「十分ではないことも、ある」

「そのときは──また一緒に考える」

朧は柊を見た。

長い間、見た。

それから──小さく、頷いた。

「……ああ」

蒼真が二人を見た。

何も言わなかった。

ただ、地図を片付けながら──小さく、息を吐いた。

その息が、どんな感情を含んでいたか。

柊には、少しだけ──わかった気がした。
だから。

「蒼真」

「なんだ」

「全部終わったら──三人で、どこかに行こう」

蒼真は柊を見た。

「どこかとは」

「まだ決めてないけど。ただ──三人で、どこか行きたい」

「……理由は?」

「一緒にいたいから」

蒼真は少し黙った。

「お前は──」

「それだけで十分な理由だよ」

蒼真は目を逸らした。

「……考えておく」

「約束?」

「考えておくと言っている」

「それは約束ということ?」

「うるさい」

朧が小声で言った。

「また笑っている」

柊も小声で答えた。

「知ってる」

二人の声は、蒼真に聞こえていた。

聞こえていて──蒼真は何も言わなかった。

ただ地図を片付ける手が、少しだけ──止まった。

それで、十分だった。

朝の光が、宿の中に差し込んでいた。

明るく、静かな光だった。

これからの道は、まだ長い。

でも──歩ける道だった。

三人で、歩ける道だった。