月喰いと契りの巫女

満月の夜が来た。

日が傾き始めた頃から、山の空気が変わった。

重い。

柊は宿の縁側に立って、その変化を感じていた。霊気というより、感情の重さだった。何かが張り詰めていく感じ。世界が息を詰めているような。

「感じるか」

朧が後ろから来た。

「うん。山全体が──」

「ああ。白面が動き始めている」

朧は空を見た。

東の空に、まだ月は出ていなかった。でも、その気配がある。もうすぐ昇ってくる。

「行くぞ」

蒼真が外套を羽織りながら出てきた。

桐生が、宿の前に来ていた。

白い着物に、古い刀を一本だけ差していた。

「月喰い」桐生は朧を見た。「今夜、お前を信じる」

「判断が早い」

「遅すぎるよりいい」桐生は静かに言った。

「わしは長く生きてきた。人の目は、そう外れない」

朧は桐生を見た。

「……そうか」

それだけ言って、山へ向かって歩き始めた。

四人が続いた。

泉への道を、朧が先導した。

松林の中を、気配を殺して進む。

柊は朧の背中を見ながら歩いた。

手が、少し震えていた。

怖いのか、寒いのか、命が削れているのか──自分でもわからなかった。

隣に蒼真が来た。

何も言わずに、並んで歩いた。

その気配が、温かかった。

「ありがとう」柊は小声で言った。

「まだ何もしていない」

「隣にいてくれるだけで、十分」

蒼真は少し黙った。

「……それはお前の悪い癖だ」

「何が?」

「少しのことで十分だと思うところが」

「そう?」

「お前はもっと、多くを求めていい」

柊は蒼真の横顔を見た。

夜の闇の中で、その輪郭が静かに光っていた。

「蒼真」

「なんだ」

「全部終わったら、ゆっくり話そう」

蒼真は少しの間、沈黙した。

「……ああ」

それだけだったが、柊には十分だった。

泉に着いたのは、月が昇り始めた頃だった。

苔生した岩の間から水が湧き出て、水面が静かに揺れていた。

木々の隙間から、満月が見えた。

まだ完全には昇っていなかった。でも、その光は十分に明るかった。

「ここで、儀式を」蒼真は言った。「時間がない。白面が動く前に」

朧と柊は向かい合った。

泉のそばに立って、向かい合った。

桐生と蒼真は少し離れた場所に立って、周囲の気配を探った。

朧が、柊に両手を差し出した。

柊は両手を重ねた。

朧の手は、温かかった。

「怖いか」朧が聞いた。

「怖い」柊は正直に言った。「でも、できる」

「俺も、怖い」

「え?」

「お前が言ったから、俺も言う」

柊は少し笑った。

緊張が、少し和らいだ。

「手順を確認する」蒼真が言った。「満月の光の下で、双方が声に出す。繋がりなく共に生きることを、互いに信じると。言葉は短くていい。心が伴っていれば」

「わかった」

柊は朧を見た。

朧も柊を見た。

月の光が、二人の間に降りていた。

銀色の、静かな光。

「朧」

「ん」

「最初に出会ったとき、私はあなたに何もできないと思ってた」

「そうだったな」

「でも──感情の名前を教えることは、できた」

「ああ」

「それが、ここまで繋がった」

朧は柊の目を見ていた。

その銀色の瞳に、月の光が映っていた。

「お前が教えてくれなければ、俺は今ここにいない」

「私がいなくても、朧はここにいたと思う」

「違う」朧は静かに言った。「俺が今ここにいるのは、お前がいたからだ。感情を持つ前の俺に、感情の場所を示してくれたのは──お前だ」

柊の目が、熱くなった。

「朧──」

「儀式を、始めろ」朧は言った。「話は、後でする」

「後で、また話せる?」

「話す。約束した」

「……うん」

柊は朧の手を、強く握った。

朧も、握り返した。

月の光が、二人を包んでいた。

柊は息を吸った。

「私は──」

その瞬間。

山の空気が、割れた。

重い。

圧倒的に重い霊気が、四方から押し寄せた。

柊は思わず朧の手を強く握った。

蒼真が刀を抜いた。

桐生が御札を構えた。

「来た」朧が低く言った。

木々の奥から、白い靄が広がってきた。

ゆっくりと、しかし確実に。

靄が形になっていく。

白い着物。白い髪。白い肌。

金色の目。

白面が、泉のほとりに現れた。

「早かったな」

その声は、穏やかだった。

相変わらず、穏やかすぎた。

「月喰いの気配を出したか。わかりやすい」

「引き寄せるつもりだった」朧は言った。

「知っている」白面は静かに笑った。「それでも来た。お前に会うことは、わしにとっても──望ましいことだから」

「使うつもりか」

「使う、という言葉は好きではない。共に、と言いたい」

「共に何をする」

白面の金色の目が、泉の向こうに向いた。

「人とあやかしの間にある、偽りの平和を──終わらせる」

重い言葉が、夜の空気に溶けた。

「偽りの平和と言うのか」蒼真が言った。

「違うと言えるか」白面は蒼真を見た。「退魔師よ。お前はあやかしを斬ることで生きてきた。それでも、共存と言えるか」

「それは──」

「人がいればあやかしが脅かされる。あやかしがいれば人が怯える。それが、この世界の本質だ。わしは長く生きてきた。何度も見てきた」

「長く生きたから、全部見えると思うのは──傲慢じゃないか」

柊が言っていた。

自分でも驚いた。

白面の金色の目が、柊に向いた。

「また、お前か」

「共存している場所を、私は見ました。隠れ里で。あやかしと人間が、一緒に飯を食って、一緒に笑っていた」

「例外だ」

「例外でも、ある」

「例外は、本質を変えない」

「変えなくてもいい」柊は言った。「例外がある限り、本質が全てじゃないってことだから」

白面は柊を見た。

しばらく、見ていた。

「強い娘だ」

「強くないです」柊は言った。「ただ──見てきたものを、信じてるだけ」
白面の目に、何かが揺れた。

一瞬だけ。

すぐに消えた。

「信じることが──どれほど危ういか、お前はまだ知らない」

その声に、初めて──何かが混じっていた。

穏やかさの奥に、何か別のものが。

朧が、それを感じ取った。

「白面」

朧が一歩、前に出た。

柊の手を──離した。

「朧」

「待て」朧は柊に向けて言った。「俺が話す」

朧は白面の前に立った。

二人が向かい合った。

月の光が、二人の間に降りていた。

「お前の記憶が、俺の中にある」

白面は静かになった。

「何のことだ」

「封印される直前、お前が俺に近づいたとき──お前の中から、何かが漏れた。俺には感情がなかったから、遮断せずに受け取った。それが、ずっと俺の記憶の奥にあった」

「……」

「声が聞こえた」

白面の金色の目が、動いた。

「人間の声だ。お前がかつて、共に生きようとした人間の声が──俺の記憶の中にある」

白面は動かなかった。

「その者は」朧は続けた。「死の間際に、何か言っていた」

「やめろ」

白面の声が、初めて──揺れた。

「その声を、聞くか」

「やめろと言っている」

「白面」

「やめ──」

朧が目を閉じた。

記憶の奥から、声を引き出した。

それは──柔らかい声だった。

人間の、若い声。

朧の口から、その声の言葉が流れ出た。

静かに。

確かに。

「怖くない。お前のそばにいることが、怖くない。人が何と言っても——お前のそばにいることを、選んだ。それは間違いじゃない」

夜の空気が、止まった。

白面は動かなかった。

「……」

「だから──悲しまないでほしい。お前が
悲しむことが──一番、嫌だから」

白面の金色の目が、揺れた。

揺れて、揺れて──。

「やめろ」

今度の声は、違った。

穏やかさが、消えていた。

怒りでも、冷たさでもなく──剥き出しの、深い、深い痛みだった。

「やめろ、やめろ、やめろ——」

白面の姿が、揺らぎ始めた。

靄のように、輪郭が滲んだ。

金色の目から、何かが──光るものが、流れた。

柊は息を飲んだ。

白面が、泣いていた。

何百年もの間、閉じ込めていたものが──朧の口から聞いた声で、溢れ出していた。

「あの者は」白面は震える声で言った。「わしのために、死んだ。わしを守ろうとして、人間たちに──」

「知っている」朧は静かに言った。

「お前に何がわかる」

「記憶の中で、見た。その者が笑っていた。お前のそばで、笑っていた」

「だから──」白面の声が、裂けるように歪んだ。「だから、信じることは──残酷だ。信じれば、失う。失えば、こうなる。こうなるなら──最初から、信じなければよかった」

「それが──今の白面の答えか」

「答えではない。真実だ」

朧はしばらく白面を見た。

「俺も、失うことが怖かった」

白面が朧を見た。

「お前が感情を吹き込む前──俺には何もなかった。感情がなかったから、失うことも知らなかった。だが今は」

朧は柊を見た。

一瞬だけ、振り返った。

「失うことが、怖い。だが──怖いと思えることが、俺には大切だ。それが、生きているということだから」

白面は朧を見た。

金色の目が、揺れ続けていた。

「怖いと思えることが──」

「ああ」

「そんなことが──」

「お前が吹き込もうとした感情は、俺を壊すためのものだった。だが、俺が覚えた感情は──俺を生かすためのものだった」

白面の靄が、大きく揺れた。

怒りか、悲しみか、それとも別の何かか──柊には判断できなかった。

「月喰いよ」

白面の声が、低くなった。

「お前は、わしを説得しようとしているのか」

「説得ではない」朧は言った。「ただ──お前の中にある声を、届けたかった。その者が、お前に言いたかったことを」

「……」

「お前が悲しむことが、一番嫌だと──その者は言っていた」

白面は動かなかった。

長い、長い沈黙が降りた。

月が、中天に近づいていた。

満月の光が、泉の水面に映って、揺れていた。

「何百年も」白面はやがて言った。「その声を、聞かないようにしてきた」

「わかっている」

「聞けば、壊れると思っていた」

「壊れなかったか」

白面は少しの間、黙っていた。

「……わからない」

その言葉は──初めて、白面が「わからない」と言った言葉だった。

全てを知っているように振る舞い、全てを断言してきた白面が、初めて──揺らいだ。

蒼真が、柊に近づいた。

「今だ」小声で言った。「白面が揺らいでいる間に、儀式を」

「でも朧が──」

「朧はこちらの状況を知っている。信じろ」

柊は朧の背中を見た。

白面の前に立つ朧の背中。

真っすぐで、揺れていなかった。

「……わかった」

柊は蒼真に向いた。

「儀式を、始める」

蒼真が柊の前に立った。

「俺が証人になる」

柊は頷いた。

満月の光の下で、柊は両手を前に出した。

朧がいない。

でも──朧の気配は、感じられた。

契りで繋がっているから。

まだ繋がっているから、感じられた。

「柊」蒼真が言った。「朧を信じるか」

「信じる」

「契りがなくても、共に生きられると信じるか」

柊は少し間を置いた。

自分の胸に、問いかけた。

信じられるか。

繋がりがなくても。

命を縛るものがなくても。

ただ、選んで、そばにいると──信じられるか。

泉の光景が浮かんだ。

水面に揺れる光。

隣に座っていた朧。

「きれいだろう」と言っていた、記憶の中の子供の声。

朧が初めて「きれい」と思えるようになった光景。

その光景の中に、柊も──いたいと思っていた。

「信じられる」

柊は言った。

静かに、はっきりと。

「契りがなくても、朧はそばにいる。私もそばにいる。それを──信じられる」

蒼真は静かに頷いた。

「では──」

その瞬間。

白面の靄が、大きく膨らんだ。

「邪魔をするな」

声が、変わっていた。

穏やかさも、揺らぎも、消えていた。

ただ──激しいものだけが残っていた。

「契りを解かせるつもりはない。月喰いを縛っておく方が、わしには都合がいい」

朧が振り返った。

「柊、伏せろ」

柊がしゃがんだ瞬間、白い光が走った。

蒼真が御札で受け止めた。

「桐生さん」

「わかっている」

桐生が前に出た。

古い刀を構えた。

「白面よ。お前の悲しみは本物だ。だがそれを、世界を壊す理由にすることは──許さない」

白面は桐生を見た。

「退魔師の長老か。随分と、久しぶりだ」

「会ったことがあったか」

「お前の祖父に会ったことがある。百年前に」

「それは知らなかった」桐生は静かに言った。「だが──お前を止めることは、知っている」

白面の靄が、さらに広がった。

泉の水面が揺れた。

木々が、風もないのに揺れた。

朧が柊の前に立った。

「儀式を続けろ」

「でも白面が──」

「俺が抑える。続けろ」

「朧一人で──」

「一人ではない」

朧は前を向いたまま言った。

「蒼真がいる。桐生がいる。お前がいる」

柊は息を飲んだ。

「……うん」

「続けろ」

柊は両手を前に出した。

朧の手はなかった。

でも──気配はあった。

契りで繋がっている。

まだ繋がっている。

「朧」柊は声に出した。「聞こえてる?」
朧は前を向いたまま、小さく「聞こえている」と言った。

「一緒に、言う」

「……ああ」

「声は出さなくていい。心で聞いてる」

「わかった」

柊は満月を見た。

満月の光が、真っすぐに降り注いでいた。

「私は──朧を信じる」

柊は言った。

「契りがなくても。命が繋がっていなくても。朧はここにいると──信じる」

白面が何かを放った。

朧が受け止めた。

光と光がぶつかって、空気が震えた。

柊は揺れながらも、続けた。

「朧が怖いと思えること。嬉しいと感じること。笑えること。そばにいたいと思うこと。それは全部──本物だから」

蒼真が白面の靄を御札で押さえた。

桐生が刀で光を受けた。

「だから──繋がりを手放しても、朧は消えない。私の中に、ちゃんとある」

柊の両手が、温かくなった。

月の光が、手のひらに集まってくるような感覚。

「これが──私の同意だよ、朧」

朧は白面と向き合いながら、柊の声を聞いていた。

聞きながら、自分の中を確かめていた。

柊が信じると言った。

俺は──信じられるか。

柊が繋がりなく、ここにいると。

俺も、繋がりなく、ここにいると。

白面が再び光を放った。

朧は力で受け止めながら、答えを探した。

柊の笑顔が浮かんだ。

泉のそばで笑っていた顔。

朝ご飯を持ってきてくれた顔。

光の中に踏み込んできた顔。

手紙を読んで、追いかけてきた顔。

「消えないでね」と言った顔。

全部、朧の記憶の中にあった。

記憶が奪われても──今は、全部ある。
これは、消えない。

契りが解けても、これは消えない。

「柊」

朧は白面を抑えながら、声に出した。

「俺も──信じる」

「聞こえてる」柊の声がした。

「お前が教えてくれた感情は、全部──俺の中にある。契りがなくなっても、消えない」

「うん」

「だから──手放す。怖いが、手放す」

「私も怖い」

「それでも?」

「それでも」

朧は白面を見た。

白面は──揺らいでいた。

力を放ちながらも、その目は──どこか遠くを見ていた。

失った者を、見ているような目だった。

「手放す」

朧は言った。

柊に向けて。

自分に向けて。

月の光に向けて。

光が、溢れた。

泉の水面から、光が立ち上った。

満月の光と混ざって、銀色の輝きが広がった。

柊の手のひらが、温かかった。

熱かった。

でも──痛くはなかった。

何かが、静かに──解けていく感じがした。

縛られていたものが、ほどけていく。

鎖ではなかった、と今はわかる。

大切な繋がりだった。

でも──手放しても、消えない繋がりもある。

そのことが、今は──わかった。

「柊」

朧の声がした。

振り返った。

朧が、こちらを見ていた。

白面との対峙の中で、一瞬だけ──振り返っていた。

その銀色の瞳に、月の光が映っていた。

「解けた」

短い言葉だった。

でも、確かだった。

柊は自分の胸に手を当てた。

命の芯が──薄くなっていない。

むしろ、さっきより──確かだった。

契りが解けた。

命の縛りが、消えた。

でも──朧はそこにいた。

月の光の中に、確かに──いた。

柊の目から、涙が落ちた。

今度は、堪えなかった。

堪える必要が、なかった。

白面は動きを止めていた。

光が溢れた瞬間から、その動きが、緩んでいた。

桐生と蒼真が、白面を囲む形で立っていた。

白面は二人を見なかった。

朧を見ていた。

「月喰いよ」

その声は、もう穏やかではなかった。

でも──激しくも、なかった。

ただ、疲れていた。

何百年も生きてきた存在の、深い疲労が滲んでいた。

「あの者の声が──お前の中にあったのか」

「ああ」

「ずっと」

「ずっと、あった」

白面は泉を見た。

月の光が揺れる水面を、見た。

「あの者は──笑っていたか」

「笑っていた」

「わしのそばで」

「ああ」

白面の靄が、ゆっくりと縮んでいった。

大きく広がっていた白い靄が、少しずつ──小さくなっていった。

「怖くないと、言っていたな」

「ああ」

「信じることを、選んだと」

「ああ」

「……馬鹿な者だ」白面は静かに言った。

「わしのせいで、死んだというのに」

「それでも──お前のそばにいることを、後悔していなかった」

「なぜわかる」

「声が──そう言っていたから」

白面は動かなかった。

長い沈黙が、夜に満ちた。

月が中天を過ぎ始めた。

「わしは」白面はやがて言った。「間違っていたのか」

誰も、すぐには答えなかった。

柊が、一歩前に出た。

「間違っていたかどうかは——わからないです」柊は言った。「でも、白面さんがしていたことは──あの人が望んでいたことじゃなかったと思う」

白面は柊を見た。

「人とあやかしを引き裂くことは──あの人が生きようとしたことと、逆のことだから」

白面の目が、揺れた。

「……」

「あの人が生きようとしたことを──続けることが、弔いになるんじゃないかと、私は思う」

白面はしばらく、柊を見ていた。

それから、ゆっくりと──目を閉じた。

靄が、さらに小さくなった。

「人間の娘よ」

「はい」

「お前の一族が、月喰いを封印したとき──似たようなことを考えていたのかもしれないな」

「……そうだと思います」

「皮肉だ」白面は言った。「柊家の娘が、月喰いと共にいる。そして、わしを──止めようとしている」

「皮肉でも──今はそういうことです」

白面は静かに笑った。

今度の笑いは、穏やかではなかった。

でも──冷たくも、なかった。

何か、深いところから来る──疲れた笑いだった。

「月喰いよ」

「ん」

「お前は、賭けに勝ったのかもしれない」

「賭けはしていない」

「そうか」白面は言った。「では──幸運だったのかもしれない」

「幸運とは、思わない」

「なぜ」

「柊がいたからだ。運ではなく──柊が、選んだことだ」

白面は少しの間、朧を見た。

それから、柊を見た。

それから──空を見た。

満月が、静かに輝いていた。

「わしは」白面は空を見たまま言った。「疲れた」

誰も、何も言わなかった。

「何百年も、怒り続けた。悲しみ続けた。世界を憎み続けた」

「……」

「あの者が死んだ日から──ずっと」

白面の靄が、さらに小さくなった。

人の形が、崩れ始めた。

「止まるのか」蒼真が静かに聞いた。

「止まる、というより──」白面は言った。

「少し、眠る」

「眠る?」

「長い眠りだ。あやかしには、そういうことができる」

朧は白面を見た。

「それは──逃げることではないのか」

「かもしれない」白面は言った。「だが──今夜聞いた声が、わしの中にある。それを抱えて、もう少し生きてみることにする」

白面の姿が、透けていった。

月の光に、溶けていくように。

「月喰いよ」

「ん」

「あの者が言っていた通り──お前は、悪くない存在だったのかもしれないな」

朧は黙っていた。

「わしが壊したのだ。お前を壊して、世界を壊そうとした。それは──わしの過ちだった」

「……」

「月喰いとしての力を、どう使うかは──お前が決めろ」

「わかっている」

「人間の娘を、大切にしろ」

「わかっている」

「……口の減らない妖だ」

最後に、白面は笑った。

今度の笑いは──柊が初めて見る、穏やかな笑いだった。

何かが、溶けたような。

長く閉じていたものが、少し開いたような。

そして白面は──月の光の中に、静かに消えた。

靄も、気配も、全て。

ただ、満月の光だけが残った。

しばらく、誰も動かなかった。

蒼真が刀を収めた。

桐生が御札を下ろした。

泉の水面が、静かに揺れていた。

「終わったか」桐生が言った。

「……終わった」蒼真は言った。

柊は泉を見た。

月の光が揺れていた。

光が揺れていた。

朧が、柊の隣に来た。

並んで、泉を見た。

「終わった」朧は言った。

「うん」

「契りも、解けた」

「うん」

「お前の命は──」

「削れていない」柊は言った。「確かに、感じる。ちゃんと、ある」

朧は柊を見た。

柊も朧を見た。

月の光の中で、向かい合った。

「言いたいことがあると、言っていた」

「ああ」

「言って」

朧はしばらく柊を見た。

その銀色の瞳が──静かに、揺れていた。

「俺は」

「うん」

「お前のそばにいたい」

柊の胸が、静かに揺れた。

「契りがなくなっても」朧は続けた。「俺には今、感情がある。感情があるから、選べる。お前のそばにいることを──選ぶ」

「朧」

「それが──俺の答えだ」

柊の目から、また涙が落ちた。

「私も」柊は言った。「朧のそばにいる。選んで、いる」

朧は柊を見た。

「泣いているか」

「泣いてる」

「なぜ」

「嬉しいから」

「さっきも同じことを言った」

「何度でも言う」

朧は少しの間、柊を見た。

それから──初めて、はっきりと笑った。

口元だけではなく、目元まで。

柊が初めて見る、朧の笑顔だった。

泣きながら、柊も笑った。

泉の水面で、月が揺れていた。

蒼真は二人から少し離れた場所に立って、空を見ていた。

桐生がそちらに歩いてきた。

「蒼真」

「はい」

「お前は、いい退魔師だ」

「ありがとうございます」

「……つらいか」

蒼真は少しの間、黙っていた。

「つらくない、とは言いません」

「そうか」

「でも──後悔はしていない」

桐生は頷いた。

「それでいい」

蒼真は空を見た。

満月が、静かに輝いていた。

その光の下で、柊と朧が並んでいた。

泣いているのか、笑っているのか──遠くからでも、わかった。

「行くか」桐生が言った。

「少しだけ──待ってください」

桐生は黙って、隣に立った。

蒼真はしばらく、二人を見ていた。

それから、静かに目を閉じた。

開いた。

「行きましょう」

二人は並んで、山を下りていった。

後ろから、柊の笑い声が、かすかに聞こえた。

蒼真は──その声を、胸の中にしまった。

大切なものを、しまうように。

泉のほとりで、朧と柊は並んで座った。

水面に月が映っていた。

光が揺れていた。

「来たかった場所に、来た」柊は言った。

「約束した」

「してたね」

「守った」

「守ってくれた」

朧は水面を見た。

「きれいだ」

「うん」

「初めて来たとき──きれいとは思わなかった」

「うん」

「今は思う」

「よかった」

朧は柊を見た。

「お前が教えてくれたから、思える」

「私じゃなくても、いつか思えた気がする」

「そうは思わない」

「どうして」

「お前が教えてくれたことだから──お前と見るから、きれいだ」

柊は朧を見た。

その言葉が、胸の中に落ちた。

静かに、深く。

「朧」

「ん」

「好きだよ」

朧は少しの間、柊を見た。

「……それは、俺が教えた言葉だ」

「うん。だから使ってる」

「そうか」

朧は水面を見た。

月が揺れていた。

「俺も」

短く、静かに言った。

「好きだ」

柊の胸が、温かかった。

泣くかと思ったが──泣かなかった。

笑えた。

ただ、笑えた。

朧も──笑っていた。

水面に、二人の影が映っていた。

月と一緒に、揺れていた。

満月の夜が、静かに更けていった。