月喰いと契りの巫女

満月まで、二日。

蒼真が桐生のもとへ向かったのは、朝早かった。

夜明け前に宿を出て、昼過ぎに戻ってきた。
その手に、古い巻物があった。

三人で囲炉裏を囲んで、蒼真は巻物を広げた。

黄ばんだ紙に、細かい文字がびっしりと書かれていた。

「桐生が、蔵から出してきた。退魔師連合が代々保管してきた記録だ。契りに関する、最も古い文献らしい」

柊は身を乗り出した。

「契りを解く方法が、書いてある?」

「書いてある」

蒼真は巻物の中ほどを指した。

柊は文字を追った。

命を繋ぐ契りは、命の同意によってのみ解かれる。同意とは、強制によらず、恐れによらず、ただ双方の心が同じ場所に向かうことである。解くことを選ぶのではなく、共に生きることを選んだ上で、繋がりを手放すこと。それが、契りを解く唯一の道である。
柊は読み終えて、顔を上げた。

「共に生きることを選んだ上で、繋がりを手放す」

「ああ」

「どういう意味だろう」

「俺も最初、わからなかった」蒼真は言った。「桐生に聞いた」

「桐生さんは何と?」

蒼真は少し間を置いた。

「契りは、恐れから生まれるものではない。出会いの偶然が結んだものだが、それを支えているのは──どちらかへの執着だと言っていた」

「執着」

「お前が死ねば俺も消える、という契りは──裏を返せば、お前がいるから俺も生きる、という繋がりだ。それを手放すためには、繋がりがなくても共に生きると、双方が信じられなければならない」

柊は巻物を見た。

「繋がりがなくても、共に生きると信じること」

「それが、同意だ」

朧が静かに言った。

二人が朧を見た。

「執着ではなく、信頼で手放す。それが、契りの解き方だ」

「朧は──できる?」

朧は柊を見た。

長い間、見た。

「できるかどうかではなく、するかどうかだ」

「どういう意味?」

「できる、できないは、力の話だ。するかどうかは、選択の話だ。俺は──」

朧は一度、目を伏せた。

それから顔を上げた。

「お前が繋がりなく生きていける、と信じられるなら──手放すことを選べる」

「信じられる?」

「まだ、答えが出ていない」

正直な言葉だった。

柊は少し笑った。

「私も、まだ出てない」

「そうか」

「でも──出すために、考えてる」

「俺も」

蒼真は二人を見た。

その目に、何かがよぎった。

すぐに消えた。

「時間がない」蒼真は言った。「満月の夜に、白面が動く。その夜に、契りを解く儀式も行う必要がある。同じ夜に、二つのことをやらなければならない」

「順番は?」

「契りを先に解く。代償が最大になる前に」

「白面が動いてから?」

「いや──白面が動く前に、こちらから向かう」

朧が頷いた。

「それがいい。白面に先手を取られれば、あやかしたちが動く。その状況で契りの儀式はできない」

「じゃあ満月の夜、日が暮れると同時に動く」

「ああ」

蒼真は巻物を丁寧に巻き直した。

「儀式の場所は、満月の光が届く、開けた場所が必要だ。それと──二人が向き合える、静かな場所」

柊は考えた。

「泉」

朧が、柊を見た。

「山の中腹の泉。あそこは開けていて、静かで──」

「いい場所だ」朧は静かに言った。

蒼真は地図を出した。

「案内できるか」

「できる」朧は言った。「俺が先に確認しておく」

「一人でか」

「気配を消して動く。問題ない」

蒼真は少しの間、朧を見た。

それから頷いた。

「頼む」

午後、朧は泉の確認に出かけた。

柊と蒼真は宿に残った。

蒼真は巻物を読み直していた。

柊は窓の外を見ていた。

しばらく、静かな時間が流れた。

「蒼真」

「なんだ」

「一つ聞いていい?」

「なんだ」と、また言った。

柊は少し迷って、聞いた。

「蒼真は──今、どんな気持ちでいる?」
蒼真は巻物から目を上げた。

柊を見た。

「どういう意味だ」

「昨日から、蒼真の顔が少し違う気がして。何かを抑えているような」

蒼真はしばらく柊を見た。

それから巻物に視線を戻した。

「抑えていない」

「そう?」

「ただ──」蒼真は少し間を置いた。「状況が整理できていない」

「何が?」

「お前と朧が契りを解いた後のことだ」

柊は蒼真を見た。

「契りが解けても、朧はあやかしだ。討伐の対象だ。白面の件が片付いたとして──お前と朧が、どうなるのかが」

「……」

「お前が好きだと言った」蒼真は静かに言った。「それは変わっていない。だが——お前が選んだものが何かも、俺にはわかっている」

「蒼真」

「やめろ」蒼真は遮った。「慰めるな。俺はそれが一番、苦手だ」

柊は口を閉じた。

蒼真は巻物を見たまま言った。

「俺は──お前が無事でいることを、望んでいる。それが今の俺の答えだ。それ以上でも、それ以下でもない」

「……ありがとう」

「だから礼はいらないと言っている」

「言いたいから言う」

蒼真は小さく鼻を鳴らした。

それ以上、何も言わなかった。

柊も、何も言わなかった。

静かな時間が、また流れた。

夕刻、朧が戻ってきた。

「泉は、使える。白面の気配はなかった」

「よかった」

「ただ──」朧は少し間を置いた。「山の気配が、全体的に張り詰めている。白面が何かを準備しているのかもしれない」

「動きが近い」

「ああ」

蒼真が立ち上がった。

「桐生に伝える。退魔師たちを、明日の夜に向けて配置する必要がある」

「白面が現れそうな場所は?」

「これまでの被害が出た集落の中で、最も人が多い場所──山向こうの宿場町だ。そこが狙われる可能性が高い」

「退魔師を配置して、あやかしの暴走を抑える」

「ああ。白面そのものを俺たちが相手にしている間に、被害を最小限にする」

朧は頷いた。

「わかった」

蒼真は外套を羽織りながら、柊に向いた。

「今夜は休め。明日に備えて」

「うん」

「朧も」

「ああ」

蒼真は戸を開けて出ていった。

足音が遠ざかった。

宿の中が、静かになった。

朧と柊だけが残った。

囲炉裏の前に、二人で座った。

火が静かに燃えていた。

「朧」

「ん」

「怖い?」

朧は少し考えた。

「怖い、という感覚が今あるかどうか」

「うん」

「ある」

「何が?」

「お前の命が削れることが」朧は静かに言った。「白面と向き合うとき、お前が傷つくことが」

「私のことばかり」

「俺自身のことは、怖くない」

「なんで」

「怖がる理由がない。消えることへの恐怖は──お前への心配の方が、大きい」

柊は囲炉裏の火を見た。

「私は──朧が消えることが、怖い」

「それは言った」

「うん。何度でも言う」柊は朧を見た。「消えないでね」

朧は柊を見た。

「努力する」

「努力じゃなくて、約束」

「約束は──確かなことにしか、できない」

「じゃあ確かにして」

朧は少しの間、柊を見た。

それから静かに言った。

「……約束する」

柊の胸が、温かくなった。

「ありがとう」

「礼はいい」

「言いたいから言う」

「蒼真と同じことを言う」

「蒼真から覚えたわけじゃないよ」

朧はわずかに口の端を上げた。

柊はその表情を、目に焼き付けた。

夜が深くなってから、朧が言った。

「一つ、お前に話しておきたいことがある」

「なに?」

朧は囲炉裏の火を見た。

「記憶が全部戻ったとき──俺が何をしたか、全部見た」

「うん」

「燃えた集落。壊れた山。泣いていた人たちの顔。俺が引き起こした景色が、全部、記憶の中にある」

柊は静かに聞いていた。

「それは──消えない」朧は続けた。「忘れることはできない。全部、俺がしたことだ」

「うん」

「だから──契りが解けた後も、俺が生きることには、代償が伴う。過去を背負い続けることが」

「それでも、生きることを選んだ」

「ああ」

「なぜ?」

朧は柊を見た。

「お前が、そばにいるから」

短い言葉だった。

でも柊には、その言葉の重さが分かった。

感情を知らなかった朧が、感情の名前を覚えて、自分で選んだ言葉だった。

「私もそばにいる」柊は言った。「契りがなくなっても」

「わかっている」

「本当にわかってる?」

「お前がそう言ったら、信じる」

「じゃあ信じて」

朧は静かに頷いた。

火が、穏やかに燃えていた。

二人の影が、壁に重なって揺れていた。

翌朝。

満月まであと一日。

柊は朝に目が覚めたとき、昨日より確かに感じた。

薄い。

命の芯が。

怖いというより──急かされる感じがした。

今日中に答えを出さなければと、体が知っているような。

顔を洗って、部屋を出た。

廊下に朧が立っていた。

「起きていたの?」

「ずっと」

「眠らなくていいって言うけど──休まなくていいの?」

「お前の気配を感じていた」

柊は少し驚いた。

「気配を?」

「契りで繋がっているから、少しわかる。昨夜から、命の感触がまた少し薄くなっていた」

「……気づいてたんだ」

「だから、そばにいた」

柊は廊下に立ったまま、朧を見た。

朧も柊を見た。

「朧」

「ん」

「今日──言いたいことがあれば、今日中に言って」

「今日中に?」

「明日の夜は、色々ありすぎて、ゆっくり話せないかもしれないから」

朧は少し考えた。

「俺が言いたいことは、一つだ」

「うん」

「今日でなくても──明日でも、言える」

「明日でいいの?」

「ああ。明日、全部が終わった後に言う」

柊は朧を見た。

「全部が終わった後、と言ったね」

「ああ」

「終わる前提で話してる」

「当然だ」朧は静かに言った。「終わらせる」

柊の胸が、静かに揺れた。

「……うん」

「終わった後に、言う。それまで待て」

「待つ」

「約束だ」

「約束」

朧は廊下を歩き始めた。

柊はその背中を見た。

白い着物。黒い髪。

最初に出会った夜と、同じ姿。

でも今は──全然、違って見えた。

午前中、蒼真が戻ってきた。

退魔師たちの配置が決まったと言った。

「宿場町に、十二名を配置した。あやかしの暴走を抑える役割だ」

「白面そのものは?」

「俺たちが向かう。桐生も来る」

「桐生さんが?」

「本人が望んだ。月喰いと白面の件は、自分の目で見届けると」

朧は頷いた。

「泉は、白面の根城ではない。白面をそこへ引き寄せる必要がある」

「方法は?」

「俺が気配を出す。月喰いがいると知れば、白面は来る。白面はまだ、俺を使いたいと思っている」

「危険だ」蒼真は言った。

「わかっている」

「お前が気配を出した瞬間に、白面だけでなく討伐隊も動く可能性がある」

「桐生が抑えられるか」

「やってみる、と言っていた」

朧は少しの間、考えた。

「それでいい」

「本当にいいのか」

「他に方法がない」

蒼真は朧を見た。

長い間、見た。

「……わかった。俺は隣にいる」

「俺の隣にいるつもりか」

「柊の隣だ」蒼真は静かに言った。「結果的に、お前の隣にもなるかもしれないが」
朧は蒼真を見た。

「複雑な男だ」

「何度目だ、それは」

「言うたびに、少し意味が変わっている」

「どう変わっている」

「最初は、理解しにくいと思っていた。今は──信頼できると思っている」

蒼真は少しの間、朧を見た。

それから視線を外した。

「……余計なことを言うな」

「事実だ」

「だから余計だと言っている」

柊は二人を見た。

笑いそうになるのを、堪えた。

今は、笑う場面ではないと思って。

でも──笑いたかった。

こういう二人が、隣にいることが、嬉しかった。

午後、三人で最後の確認をした。

「明日の夜、日が落ちると同時に泉へ向かう。朧が気配を出して、白面を引き寄せる。その前に──契りの儀式を行う」

「儀式の手順は?」

蒼真は巻物を開いた。

「二人が向かい合って、両手を繋ぐ。満月の光の下で──双方が、声に出して同意する。繋がりなく生きることを、互いに信じると。それだけだ」

「それだけ?」

「それだけだ。儀式に必要なのは、形ではなく──心の状態だ。双方が、本当に同意していなければ、解けない」

柊は朧を見た。

朧は柊を見た。

「……できる?」と柊は聞いた。

「できる」と朧は答えた。

「確かに?」

「今は、確かだ」

「今は、という言い方が少し心配」

「では──明日も確かだ」

「それなら安心」

蒼真は二人を見た。

その目に、また何かがよぎった。

今度は、すぐには消えなかった。

「蒼真?」

「……いや」蒼真は目を伏せた。「なんでもない」

柊は蒼真を見た。

「蒼真、ありがとう。本当に」

「だから礼は──」

「言わせて」柊は言った。「蒼真がいなければ、ここまで来られなかった。調べてくれて、一緒に来てくれて、隣にいてくれて。全部、ありがとう」

蒼真は柊を見た。

その目が──一瞬だけ、揺れた。

「……うるさい」

それだけ言って、巻物を片付け始めた。

朧が小声で柊に言った。

「あの男は、照れている」

「知ってる」

「珍しい」

「珍しくないよ。蒼真はいつも、そういう人だから」

朧はしばらく蒼真の背中を見た。

それから、静かに言った。

「……そうか」

何か、腑に落ちたような声だった。

夕刻。

柊は一人で、宿の縁側に座っていた。

空が橙に染まっていた。

明日の夜、この空がもっと暗くなる頃に──全てが動き始める。

柊は手を見た。

薄くなっている命の感触は、今日もまた少し進んでいた。

怖い。

正直に言えば、怖かった。

でも──やることは、決まっている。

契りを解く。

白面と向き合う。

朧と、共に生きる未来へ進む。

「柊」

朧が縁側に来た。

隣に座った。

「空を見ているか」

「うん。きれいだなって」

「ああ」

朧も空を見た。

二人で、夕暮れを見た。

「朧」

「ん」

「明日、全部終わったら──泉に行こうね」

「約束した」

「覚えてるね?」

「覚えている」

「一緒に、水面を見よう」

「ああ」

「光が揺れるのを」

「ああ」

「二人で」

朧は柊を見た。

その銀色の瞳に、夕暮れの光が映っていた。

「二人で」

短い言葉だった。

でも、その言葉の中に──全部が入っていた。

柊は朧の目を見た。

そこに映る夕暮れの中に、自分の顔があった。

朧の目に映っている、自分の顔が──なぜか、泣いていなかった。

ちゃんと、前を向いていた。

そうか、と柊は思った。

私は今、前を向いている。

朧がいるから。

朧と一緒にいるから、前を向いていられる。

それが──契りの本当の意味かもしれない、と思った。

命を縛る呪いではなく。

前を向かせてくれる、繋がり。

「朧」

「ん」

「契りを解いた後も——前を向いていられると思う」

「なぜ」

「今、前を向いていられてるから」

朧は少しの間、柊を見た。

「それが──同意の答えか」

「そうかもしれない」

「俺も」朧は静かに言った。「今、ここにいることが──悪くない。消えなくても、ここにいられると思っている」

「それが朧の答え?」

「……そうかもしれない」

二人の答えが、静かに重なった。

夕暮れが、山の向こうに沈んでいく。

空が、藍色に変わり始める。

明日の夜、満月が出る。

でも今夜は──静かに、ここにいた。

それで十分だと、二人は思っていた。
夜。

蒼真が最後に言った。

「明日、全力で動く。お前たちも、全力で動け」

「ああ」と朧は言った。

「うん」と柊は言った。

「生きて帰れ」

蒼真の声は、静かだった。

命令ではなく──願いのような声だった。

「蒼真も」と柊は言った。

「俺は死なない」

「約束?」

「……約束だ」

朧が蒼真を見た。

「蒼真」

「なんだ」

「お前は──いい退魔師だ」

蒼真は朧を見た。

「お前に言われる筋合いはない」

「事実だ」

「……寝ろ」

蒼真は自分の部屋に戻った。

柊は朧を見た。

朧は少しだけ、口の端を上げていた。

「また笑った」

「笑っていない」

「絶対笑った」

「寝ろ」

「蒼真と同じことを言う」

「似たもの同士だ」

「全然似てないよ」

「そうか?」

朧は廊下を歩き始めた。

「おやすみ」と柊は言った。

朧は振り返らずに、言った。

「……おやすみ」

柊は、その背中が部屋の奥に消えるまで、見ていた。

明日の夜が来る。

満月が出る。

全てが動き始める。

でも今夜は──静かに眠ろうと、柊は思った。

明日、全力で動くために。

明日、全部が終わった後に、朧が言いたいことを言えるように。

その言葉を、ちゃんと受け取れるように。

柊は部屋に入って、布団を引いた。

横になった。

目を閉じた。

不思議と──眠れた。

深く、静かに。

満月の夜まで、あと一日。