満月まで、二日。
蒼真が桐生のもとへ向かったのは、朝早かった。
夜明け前に宿を出て、昼過ぎに戻ってきた。
その手に、古い巻物があった。
三人で囲炉裏を囲んで、蒼真は巻物を広げた。
黄ばんだ紙に、細かい文字がびっしりと書かれていた。
「桐生が、蔵から出してきた。退魔師連合が代々保管してきた記録だ。契りに関する、最も古い文献らしい」
柊は身を乗り出した。
「契りを解く方法が、書いてある?」
「書いてある」
蒼真は巻物の中ほどを指した。
柊は文字を追った。
命を繋ぐ契りは、命の同意によってのみ解かれる。同意とは、強制によらず、恐れによらず、ただ双方の心が同じ場所に向かうことである。解くことを選ぶのではなく、共に生きることを選んだ上で、繋がりを手放すこと。それが、契りを解く唯一の道である。
柊は読み終えて、顔を上げた。
「共に生きることを選んだ上で、繋がりを手放す」
「ああ」
「どういう意味だろう」
「俺も最初、わからなかった」蒼真は言った。「桐生に聞いた」
「桐生さんは何と?」
蒼真は少し間を置いた。
「契りは、恐れから生まれるものではない。出会いの偶然が結んだものだが、それを支えているのは──どちらかへの執着だと言っていた」
「執着」
「お前が死ねば俺も消える、という契りは──裏を返せば、お前がいるから俺も生きる、という繋がりだ。それを手放すためには、繋がりがなくても共に生きると、双方が信じられなければならない」
柊は巻物を見た。
「繋がりがなくても、共に生きると信じること」
「それが、同意だ」
朧が静かに言った。
二人が朧を見た。
「執着ではなく、信頼で手放す。それが、契りの解き方だ」
「朧は──できる?」
朧は柊を見た。
長い間、見た。
「できるかどうかではなく、するかどうかだ」
「どういう意味?」
「できる、できないは、力の話だ。するかどうかは、選択の話だ。俺は──」
朧は一度、目を伏せた。
それから顔を上げた。
「お前が繋がりなく生きていける、と信じられるなら──手放すことを選べる」
「信じられる?」
「まだ、答えが出ていない」
正直な言葉だった。
柊は少し笑った。
「私も、まだ出てない」
「そうか」
「でも──出すために、考えてる」
「俺も」
蒼真は二人を見た。
その目に、何かがよぎった。
すぐに消えた。
「時間がない」蒼真は言った。「満月の夜に、白面が動く。その夜に、契りを解く儀式も行う必要がある。同じ夜に、二つのことをやらなければならない」
「順番は?」
「契りを先に解く。代償が最大になる前に」
「白面が動いてから?」
「いや──白面が動く前に、こちらから向かう」
朧が頷いた。
「それがいい。白面に先手を取られれば、あやかしたちが動く。その状況で契りの儀式はできない」
「じゃあ満月の夜、日が暮れると同時に動く」
「ああ」
蒼真は巻物を丁寧に巻き直した。
「儀式の場所は、満月の光が届く、開けた場所が必要だ。それと──二人が向き合える、静かな場所」
柊は考えた。
「泉」
朧が、柊を見た。
「山の中腹の泉。あそこは開けていて、静かで──」
「いい場所だ」朧は静かに言った。
蒼真は地図を出した。
「案内できるか」
「できる」朧は言った。「俺が先に確認しておく」
「一人でか」
「気配を消して動く。問題ない」
蒼真は少しの間、朧を見た。
それから頷いた。
「頼む」
午後、朧は泉の確認に出かけた。
柊と蒼真は宿に残った。
蒼真は巻物を読み直していた。
柊は窓の外を見ていた。
しばらく、静かな時間が流れた。
「蒼真」
「なんだ」
「一つ聞いていい?」
「なんだ」と、また言った。
柊は少し迷って、聞いた。
「蒼真は──今、どんな気持ちでいる?」
蒼真は巻物から目を上げた。
柊を見た。
「どういう意味だ」
「昨日から、蒼真の顔が少し違う気がして。何かを抑えているような」
蒼真はしばらく柊を見た。
それから巻物に視線を戻した。
「抑えていない」
「そう?」
「ただ──」蒼真は少し間を置いた。「状況が整理できていない」
「何が?」
「お前と朧が契りを解いた後のことだ」
柊は蒼真を見た。
「契りが解けても、朧はあやかしだ。討伐の対象だ。白面の件が片付いたとして──お前と朧が、どうなるのかが」
「……」
「お前が好きだと言った」蒼真は静かに言った。「それは変わっていない。だが——お前が選んだものが何かも、俺にはわかっている」
「蒼真」
「やめろ」蒼真は遮った。「慰めるな。俺はそれが一番、苦手だ」
柊は口を閉じた。
蒼真は巻物を見たまま言った。
「俺は──お前が無事でいることを、望んでいる。それが今の俺の答えだ。それ以上でも、それ以下でもない」
「……ありがとう」
「だから礼はいらないと言っている」
「言いたいから言う」
蒼真は小さく鼻を鳴らした。
それ以上、何も言わなかった。
柊も、何も言わなかった。
静かな時間が、また流れた。
夕刻、朧が戻ってきた。
「泉は、使える。白面の気配はなかった」
「よかった」
「ただ──」朧は少し間を置いた。「山の気配が、全体的に張り詰めている。白面が何かを準備しているのかもしれない」
「動きが近い」
「ああ」
蒼真が立ち上がった。
「桐生に伝える。退魔師たちを、明日の夜に向けて配置する必要がある」
「白面が現れそうな場所は?」
「これまでの被害が出た集落の中で、最も人が多い場所──山向こうの宿場町だ。そこが狙われる可能性が高い」
「退魔師を配置して、あやかしの暴走を抑える」
「ああ。白面そのものを俺たちが相手にしている間に、被害を最小限にする」
朧は頷いた。
「わかった」
蒼真は外套を羽織りながら、柊に向いた。
「今夜は休め。明日に備えて」
「うん」
「朧も」
「ああ」
蒼真は戸を開けて出ていった。
足音が遠ざかった。
宿の中が、静かになった。
朧と柊だけが残った。
囲炉裏の前に、二人で座った。
火が静かに燃えていた。
「朧」
「ん」
「怖い?」
朧は少し考えた。
「怖い、という感覚が今あるかどうか」
「うん」
「ある」
「何が?」
「お前の命が削れることが」朧は静かに言った。「白面と向き合うとき、お前が傷つくことが」
「私のことばかり」
「俺自身のことは、怖くない」
「なんで」
「怖がる理由がない。消えることへの恐怖は──お前への心配の方が、大きい」
柊は囲炉裏の火を見た。
「私は──朧が消えることが、怖い」
「それは言った」
「うん。何度でも言う」柊は朧を見た。「消えないでね」
朧は柊を見た。
「努力する」
「努力じゃなくて、約束」
「約束は──確かなことにしか、できない」
「じゃあ確かにして」
朧は少しの間、柊を見た。
それから静かに言った。
「……約束する」
柊の胸が、温かくなった。
「ありがとう」
「礼はいい」
「言いたいから言う」
「蒼真と同じことを言う」
「蒼真から覚えたわけじゃないよ」
朧はわずかに口の端を上げた。
柊はその表情を、目に焼き付けた。
夜が深くなってから、朧が言った。
「一つ、お前に話しておきたいことがある」
「なに?」
朧は囲炉裏の火を見た。
「記憶が全部戻ったとき──俺が何をしたか、全部見た」
「うん」
「燃えた集落。壊れた山。泣いていた人たちの顔。俺が引き起こした景色が、全部、記憶の中にある」
柊は静かに聞いていた。
「それは──消えない」朧は続けた。「忘れることはできない。全部、俺がしたことだ」
「うん」
「だから──契りが解けた後も、俺が生きることには、代償が伴う。過去を背負い続けることが」
「それでも、生きることを選んだ」
「ああ」
「なぜ?」
朧は柊を見た。
「お前が、そばにいるから」
短い言葉だった。
でも柊には、その言葉の重さが分かった。
感情を知らなかった朧が、感情の名前を覚えて、自分で選んだ言葉だった。
「私もそばにいる」柊は言った。「契りがなくなっても」
「わかっている」
「本当にわかってる?」
「お前がそう言ったら、信じる」
「じゃあ信じて」
朧は静かに頷いた。
火が、穏やかに燃えていた。
二人の影が、壁に重なって揺れていた。
翌朝。
満月まであと一日。
柊は朝に目が覚めたとき、昨日より確かに感じた。
薄い。
命の芯が。
怖いというより──急かされる感じがした。
今日中に答えを出さなければと、体が知っているような。
顔を洗って、部屋を出た。
廊下に朧が立っていた。
「起きていたの?」
「ずっと」
「眠らなくていいって言うけど──休まなくていいの?」
「お前の気配を感じていた」
柊は少し驚いた。
「気配を?」
「契りで繋がっているから、少しわかる。昨夜から、命の感触がまた少し薄くなっていた」
「……気づいてたんだ」
「だから、そばにいた」
柊は廊下に立ったまま、朧を見た。
朧も柊を見た。
「朧」
「ん」
「今日──言いたいことがあれば、今日中に言って」
「今日中に?」
「明日の夜は、色々ありすぎて、ゆっくり話せないかもしれないから」
朧は少し考えた。
「俺が言いたいことは、一つだ」
「うん」
「今日でなくても──明日でも、言える」
「明日でいいの?」
「ああ。明日、全部が終わった後に言う」
柊は朧を見た。
「全部が終わった後、と言ったね」
「ああ」
「終わる前提で話してる」
「当然だ」朧は静かに言った。「終わらせる」
柊の胸が、静かに揺れた。
「……うん」
「終わった後に、言う。それまで待て」
「待つ」
「約束だ」
「約束」
朧は廊下を歩き始めた。
柊はその背中を見た。
白い着物。黒い髪。
最初に出会った夜と、同じ姿。
でも今は──全然、違って見えた。
午前中、蒼真が戻ってきた。
退魔師たちの配置が決まったと言った。
「宿場町に、十二名を配置した。あやかしの暴走を抑える役割だ」
「白面そのものは?」
「俺たちが向かう。桐生も来る」
「桐生さんが?」
「本人が望んだ。月喰いと白面の件は、自分の目で見届けると」
朧は頷いた。
「泉は、白面の根城ではない。白面をそこへ引き寄せる必要がある」
「方法は?」
「俺が気配を出す。月喰いがいると知れば、白面は来る。白面はまだ、俺を使いたいと思っている」
「危険だ」蒼真は言った。
「わかっている」
「お前が気配を出した瞬間に、白面だけでなく討伐隊も動く可能性がある」
「桐生が抑えられるか」
「やってみる、と言っていた」
朧は少しの間、考えた。
「それでいい」
「本当にいいのか」
「他に方法がない」
蒼真は朧を見た。
長い間、見た。
「……わかった。俺は隣にいる」
「俺の隣にいるつもりか」
「柊の隣だ」蒼真は静かに言った。「結果的に、お前の隣にもなるかもしれないが」
朧は蒼真を見た。
「複雑な男だ」
「何度目だ、それは」
「言うたびに、少し意味が変わっている」
「どう変わっている」
「最初は、理解しにくいと思っていた。今は──信頼できると思っている」
蒼真は少しの間、朧を見た。
それから視線を外した。
「……余計なことを言うな」
「事実だ」
「だから余計だと言っている」
柊は二人を見た。
笑いそうになるのを、堪えた。
今は、笑う場面ではないと思って。
でも──笑いたかった。
こういう二人が、隣にいることが、嬉しかった。
午後、三人で最後の確認をした。
「明日の夜、日が落ちると同時に泉へ向かう。朧が気配を出して、白面を引き寄せる。その前に──契りの儀式を行う」
「儀式の手順は?」
蒼真は巻物を開いた。
「二人が向かい合って、両手を繋ぐ。満月の光の下で──双方が、声に出して同意する。繋がりなく生きることを、互いに信じると。それだけだ」
「それだけ?」
「それだけだ。儀式に必要なのは、形ではなく──心の状態だ。双方が、本当に同意していなければ、解けない」
柊は朧を見た。
朧は柊を見た。
「……できる?」と柊は聞いた。
「できる」と朧は答えた。
「確かに?」
「今は、確かだ」
「今は、という言い方が少し心配」
「では──明日も確かだ」
「それなら安心」
蒼真は二人を見た。
その目に、また何かがよぎった。
今度は、すぐには消えなかった。
「蒼真?」
「……いや」蒼真は目を伏せた。「なんでもない」
柊は蒼真を見た。
「蒼真、ありがとう。本当に」
「だから礼は──」
「言わせて」柊は言った。「蒼真がいなければ、ここまで来られなかった。調べてくれて、一緒に来てくれて、隣にいてくれて。全部、ありがとう」
蒼真は柊を見た。
その目が──一瞬だけ、揺れた。
「……うるさい」
それだけ言って、巻物を片付け始めた。
朧が小声で柊に言った。
「あの男は、照れている」
「知ってる」
「珍しい」
「珍しくないよ。蒼真はいつも、そういう人だから」
朧はしばらく蒼真の背中を見た。
それから、静かに言った。
「……そうか」
何か、腑に落ちたような声だった。
夕刻。
柊は一人で、宿の縁側に座っていた。
空が橙に染まっていた。
明日の夜、この空がもっと暗くなる頃に──全てが動き始める。
柊は手を見た。
薄くなっている命の感触は、今日もまた少し進んでいた。
怖い。
正直に言えば、怖かった。
でも──やることは、決まっている。
契りを解く。
白面と向き合う。
朧と、共に生きる未来へ進む。
「柊」
朧が縁側に来た。
隣に座った。
「空を見ているか」
「うん。きれいだなって」
「ああ」
朧も空を見た。
二人で、夕暮れを見た。
「朧」
「ん」
「明日、全部終わったら──泉に行こうね」
「約束した」
「覚えてるね?」
「覚えている」
「一緒に、水面を見よう」
「ああ」
「光が揺れるのを」
「ああ」
「二人で」
朧は柊を見た。
その銀色の瞳に、夕暮れの光が映っていた。
「二人で」
短い言葉だった。
でも、その言葉の中に──全部が入っていた。
柊は朧の目を見た。
そこに映る夕暮れの中に、自分の顔があった。
朧の目に映っている、自分の顔が──なぜか、泣いていなかった。
ちゃんと、前を向いていた。
そうか、と柊は思った。
私は今、前を向いている。
朧がいるから。
朧と一緒にいるから、前を向いていられる。
それが──契りの本当の意味かもしれない、と思った。
命を縛る呪いではなく。
前を向かせてくれる、繋がり。
「朧」
「ん」
「契りを解いた後も——前を向いていられると思う」
「なぜ」
「今、前を向いていられてるから」
朧は少しの間、柊を見た。
「それが──同意の答えか」
「そうかもしれない」
「俺も」朧は静かに言った。「今、ここにいることが──悪くない。消えなくても、ここにいられると思っている」
「それが朧の答え?」
「……そうかもしれない」
二人の答えが、静かに重なった。
夕暮れが、山の向こうに沈んでいく。
空が、藍色に変わり始める。
明日の夜、満月が出る。
でも今夜は──静かに、ここにいた。
それで十分だと、二人は思っていた。
夜。
蒼真が最後に言った。
「明日、全力で動く。お前たちも、全力で動け」
「ああ」と朧は言った。
「うん」と柊は言った。
「生きて帰れ」
蒼真の声は、静かだった。
命令ではなく──願いのような声だった。
「蒼真も」と柊は言った。
「俺は死なない」
「約束?」
「……約束だ」
朧が蒼真を見た。
「蒼真」
「なんだ」
「お前は──いい退魔師だ」
蒼真は朧を見た。
「お前に言われる筋合いはない」
「事実だ」
「……寝ろ」
蒼真は自分の部屋に戻った。
柊は朧を見た。
朧は少しだけ、口の端を上げていた。
「また笑った」
「笑っていない」
「絶対笑った」
「寝ろ」
「蒼真と同じことを言う」
「似たもの同士だ」
「全然似てないよ」
「そうか?」
朧は廊下を歩き始めた。
「おやすみ」と柊は言った。
朧は振り返らずに、言った。
「……おやすみ」
柊は、その背中が部屋の奥に消えるまで、見ていた。
明日の夜が来る。
満月が出る。
全てが動き始める。
でも今夜は──静かに眠ろうと、柊は思った。
明日、全力で動くために。
明日、全部が終わった後に、朧が言いたいことを言えるように。
その言葉を、ちゃんと受け取れるように。
柊は部屋に入って、布団を引いた。
横になった。
目を閉じた。
不思議と──眠れた。
深く、静かに。
満月の夜まで、あと一日。
蒼真が桐生のもとへ向かったのは、朝早かった。
夜明け前に宿を出て、昼過ぎに戻ってきた。
その手に、古い巻物があった。
三人で囲炉裏を囲んで、蒼真は巻物を広げた。
黄ばんだ紙に、細かい文字がびっしりと書かれていた。
「桐生が、蔵から出してきた。退魔師連合が代々保管してきた記録だ。契りに関する、最も古い文献らしい」
柊は身を乗り出した。
「契りを解く方法が、書いてある?」
「書いてある」
蒼真は巻物の中ほどを指した。
柊は文字を追った。
命を繋ぐ契りは、命の同意によってのみ解かれる。同意とは、強制によらず、恐れによらず、ただ双方の心が同じ場所に向かうことである。解くことを選ぶのではなく、共に生きることを選んだ上で、繋がりを手放すこと。それが、契りを解く唯一の道である。
柊は読み終えて、顔を上げた。
「共に生きることを選んだ上で、繋がりを手放す」
「ああ」
「どういう意味だろう」
「俺も最初、わからなかった」蒼真は言った。「桐生に聞いた」
「桐生さんは何と?」
蒼真は少し間を置いた。
「契りは、恐れから生まれるものではない。出会いの偶然が結んだものだが、それを支えているのは──どちらかへの執着だと言っていた」
「執着」
「お前が死ねば俺も消える、という契りは──裏を返せば、お前がいるから俺も生きる、という繋がりだ。それを手放すためには、繋がりがなくても共に生きると、双方が信じられなければならない」
柊は巻物を見た。
「繋がりがなくても、共に生きると信じること」
「それが、同意だ」
朧が静かに言った。
二人が朧を見た。
「執着ではなく、信頼で手放す。それが、契りの解き方だ」
「朧は──できる?」
朧は柊を見た。
長い間、見た。
「できるかどうかではなく、するかどうかだ」
「どういう意味?」
「できる、できないは、力の話だ。するかどうかは、選択の話だ。俺は──」
朧は一度、目を伏せた。
それから顔を上げた。
「お前が繋がりなく生きていける、と信じられるなら──手放すことを選べる」
「信じられる?」
「まだ、答えが出ていない」
正直な言葉だった。
柊は少し笑った。
「私も、まだ出てない」
「そうか」
「でも──出すために、考えてる」
「俺も」
蒼真は二人を見た。
その目に、何かがよぎった。
すぐに消えた。
「時間がない」蒼真は言った。「満月の夜に、白面が動く。その夜に、契りを解く儀式も行う必要がある。同じ夜に、二つのことをやらなければならない」
「順番は?」
「契りを先に解く。代償が最大になる前に」
「白面が動いてから?」
「いや──白面が動く前に、こちらから向かう」
朧が頷いた。
「それがいい。白面に先手を取られれば、あやかしたちが動く。その状況で契りの儀式はできない」
「じゃあ満月の夜、日が暮れると同時に動く」
「ああ」
蒼真は巻物を丁寧に巻き直した。
「儀式の場所は、満月の光が届く、開けた場所が必要だ。それと──二人が向き合える、静かな場所」
柊は考えた。
「泉」
朧が、柊を見た。
「山の中腹の泉。あそこは開けていて、静かで──」
「いい場所だ」朧は静かに言った。
蒼真は地図を出した。
「案内できるか」
「できる」朧は言った。「俺が先に確認しておく」
「一人でか」
「気配を消して動く。問題ない」
蒼真は少しの間、朧を見た。
それから頷いた。
「頼む」
午後、朧は泉の確認に出かけた。
柊と蒼真は宿に残った。
蒼真は巻物を読み直していた。
柊は窓の外を見ていた。
しばらく、静かな時間が流れた。
「蒼真」
「なんだ」
「一つ聞いていい?」
「なんだ」と、また言った。
柊は少し迷って、聞いた。
「蒼真は──今、どんな気持ちでいる?」
蒼真は巻物から目を上げた。
柊を見た。
「どういう意味だ」
「昨日から、蒼真の顔が少し違う気がして。何かを抑えているような」
蒼真はしばらく柊を見た。
それから巻物に視線を戻した。
「抑えていない」
「そう?」
「ただ──」蒼真は少し間を置いた。「状況が整理できていない」
「何が?」
「お前と朧が契りを解いた後のことだ」
柊は蒼真を見た。
「契りが解けても、朧はあやかしだ。討伐の対象だ。白面の件が片付いたとして──お前と朧が、どうなるのかが」
「……」
「お前が好きだと言った」蒼真は静かに言った。「それは変わっていない。だが——お前が選んだものが何かも、俺にはわかっている」
「蒼真」
「やめろ」蒼真は遮った。「慰めるな。俺はそれが一番、苦手だ」
柊は口を閉じた。
蒼真は巻物を見たまま言った。
「俺は──お前が無事でいることを、望んでいる。それが今の俺の答えだ。それ以上でも、それ以下でもない」
「……ありがとう」
「だから礼はいらないと言っている」
「言いたいから言う」
蒼真は小さく鼻を鳴らした。
それ以上、何も言わなかった。
柊も、何も言わなかった。
静かな時間が、また流れた。
夕刻、朧が戻ってきた。
「泉は、使える。白面の気配はなかった」
「よかった」
「ただ──」朧は少し間を置いた。「山の気配が、全体的に張り詰めている。白面が何かを準備しているのかもしれない」
「動きが近い」
「ああ」
蒼真が立ち上がった。
「桐生に伝える。退魔師たちを、明日の夜に向けて配置する必要がある」
「白面が現れそうな場所は?」
「これまでの被害が出た集落の中で、最も人が多い場所──山向こうの宿場町だ。そこが狙われる可能性が高い」
「退魔師を配置して、あやかしの暴走を抑える」
「ああ。白面そのものを俺たちが相手にしている間に、被害を最小限にする」
朧は頷いた。
「わかった」
蒼真は外套を羽織りながら、柊に向いた。
「今夜は休め。明日に備えて」
「うん」
「朧も」
「ああ」
蒼真は戸を開けて出ていった。
足音が遠ざかった。
宿の中が、静かになった。
朧と柊だけが残った。
囲炉裏の前に、二人で座った。
火が静かに燃えていた。
「朧」
「ん」
「怖い?」
朧は少し考えた。
「怖い、という感覚が今あるかどうか」
「うん」
「ある」
「何が?」
「お前の命が削れることが」朧は静かに言った。「白面と向き合うとき、お前が傷つくことが」
「私のことばかり」
「俺自身のことは、怖くない」
「なんで」
「怖がる理由がない。消えることへの恐怖は──お前への心配の方が、大きい」
柊は囲炉裏の火を見た。
「私は──朧が消えることが、怖い」
「それは言った」
「うん。何度でも言う」柊は朧を見た。「消えないでね」
朧は柊を見た。
「努力する」
「努力じゃなくて、約束」
「約束は──確かなことにしか、できない」
「じゃあ確かにして」
朧は少しの間、柊を見た。
それから静かに言った。
「……約束する」
柊の胸が、温かくなった。
「ありがとう」
「礼はいい」
「言いたいから言う」
「蒼真と同じことを言う」
「蒼真から覚えたわけじゃないよ」
朧はわずかに口の端を上げた。
柊はその表情を、目に焼き付けた。
夜が深くなってから、朧が言った。
「一つ、お前に話しておきたいことがある」
「なに?」
朧は囲炉裏の火を見た。
「記憶が全部戻ったとき──俺が何をしたか、全部見た」
「うん」
「燃えた集落。壊れた山。泣いていた人たちの顔。俺が引き起こした景色が、全部、記憶の中にある」
柊は静かに聞いていた。
「それは──消えない」朧は続けた。「忘れることはできない。全部、俺がしたことだ」
「うん」
「だから──契りが解けた後も、俺が生きることには、代償が伴う。過去を背負い続けることが」
「それでも、生きることを選んだ」
「ああ」
「なぜ?」
朧は柊を見た。
「お前が、そばにいるから」
短い言葉だった。
でも柊には、その言葉の重さが分かった。
感情を知らなかった朧が、感情の名前を覚えて、自分で選んだ言葉だった。
「私もそばにいる」柊は言った。「契りがなくなっても」
「わかっている」
「本当にわかってる?」
「お前がそう言ったら、信じる」
「じゃあ信じて」
朧は静かに頷いた。
火が、穏やかに燃えていた。
二人の影が、壁に重なって揺れていた。
翌朝。
満月まであと一日。
柊は朝に目が覚めたとき、昨日より確かに感じた。
薄い。
命の芯が。
怖いというより──急かされる感じがした。
今日中に答えを出さなければと、体が知っているような。
顔を洗って、部屋を出た。
廊下に朧が立っていた。
「起きていたの?」
「ずっと」
「眠らなくていいって言うけど──休まなくていいの?」
「お前の気配を感じていた」
柊は少し驚いた。
「気配を?」
「契りで繋がっているから、少しわかる。昨夜から、命の感触がまた少し薄くなっていた」
「……気づいてたんだ」
「だから、そばにいた」
柊は廊下に立ったまま、朧を見た。
朧も柊を見た。
「朧」
「ん」
「今日──言いたいことがあれば、今日中に言って」
「今日中に?」
「明日の夜は、色々ありすぎて、ゆっくり話せないかもしれないから」
朧は少し考えた。
「俺が言いたいことは、一つだ」
「うん」
「今日でなくても──明日でも、言える」
「明日でいいの?」
「ああ。明日、全部が終わった後に言う」
柊は朧を見た。
「全部が終わった後、と言ったね」
「ああ」
「終わる前提で話してる」
「当然だ」朧は静かに言った。「終わらせる」
柊の胸が、静かに揺れた。
「……うん」
「終わった後に、言う。それまで待て」
「待つ」
「約束だ」
「約束」
朧は廊下を歩き始めた。
柊はその背中を見た。
白い着物。黒い髪。
最初に出会った夜と、同じ姿。
でも今は──全然、違って見えた。
午前中、蒼真が戻ってきた。
退魔師たちの配置が決まったと言った。
「宿場町に、十二名を配置した。あやかしの暴走を抑える役割だ」
「白面そのものは?」
「俺たちが向かう。桐生も来る」
「桐生さんが?」
「本人が望んだ。月喰いと白面の件は、自分の目で見届けると」
朧は頷いた。
「泉は、白面の根城ではない。白面をそこへ引き寄せる必要がある」
「方法は?」
「俺が気配を出す。月喰いがいると知れば、白面は来る。白面はまだ、俺を使いたいと思っている」
「危険だ」蒼真は言った。
「わかっている」
「お前が気配を出した瞬間に、白面だけでなく討伐隊も動く可能性がある」
「桐生が抑えられるか」
「やってみる、と言っていた」
朧は少しの間、考えた。
「それでいい」
「本当にいいのか」
「他に方法がない」
蒼真は朧を見た。
長い間、見た。
「……わかった。俺は隣にいる」
「俺の隣にいるつもりか」
「柊の隣だ」蒼真は静かに言った。「結果的に、お前の隣にもなるかもしれないが」
朧は蒼真を見た。
「複雑な男だ」
「何度目だ、それは」
「言うたびに、少し意味が変わっている」
「どう変わっている」
「最初は、理解しにくいと思っていた。今は──信頼できると思っている」
蒼真は少しの間、朧を見た。
それから視線を外した。
「……余計なことを言うな」
「事実だ」
「だから余計だと言っている」
柊は二人を見た。
笑いそうになるのを、堪えた。
今は、笑う場面ではないと思って。
でも──笑いたかった。
こういう二人が、隣にいることが、嬉しかった。
午後、三人で最後の確認をした。
「明日の夜、日が落ちると同時に泉へ向かう。朧が気配を出して、白面を引き寄せる。その前に──契りの儀式を行う」
「儀式の手順は?」
蒼真は巻物を開いた。
「二人が向かい合って、両手を繋ぐ。満月の光の下で──双方が、声に出して同意する。繋がりなく生きることを、互いに信じると。それだけだ」
「それだけ?」
「それだけだ。儀式に必要なのは、形ではなく──心の状態だ。双方が、本当に同意していなければ、解けない」
柊は朧を見た。
朧は柊を見た。
「……できる?」と柊は聞いた。
「できる」と朧は答えた。
「確かに?」
「今は、確かだ」
「今は、という言い方が少し心配」
「では──明日も確かだ」
「それなら安心」
蒼真は二人を見た。
その目に、また何かがよぎった。
今度は、すぐには消えなかった。
「蒼真?」
「……いや」蒼真は目を伏せた。「なんでもない」
柊は蒼真を見た。
「蒼真、ありがとう。本当に」
「だから礼は──」
「言わせて」柊は言った。「蒼真がいなければ、ここまで来られなかった。調べてくれて、一緒に来てくれて、隣にいてくれて。全部、ありがとう」
蒼真は柊を見た。
その目が──一瞬だけ、揺れた。
「……うるさい」
それだけ言って、巻物を片付け始めた。
朧が小声で柊に言った。
「あの男は、照れている」
「知ってる」
「珍しい」
「珍しくないよ。蒼真はいつも、そういう人だから」
朧はしばらく蒼真の背中を見た。
それから、静かに言った。
「……そうか」
何か、腑に落ちたような声だった。
夕刻。
柊は一人で、宿の縁側に座っていた。
空が橙に染まっていた。
明日の夜、この空がもっと暗くなる頃に──全てが動き始める。
柊は手を見た。
薄くなっている命の感触は、今日もまた少し進んでいた。
怖い。
正直に言えば、怖かった。
でも──やることは、決まっている。
契りを解く。
白面と向き合う。
朧と、共に生きる未来へ進む。
「柊」
朧が縁側に来た。
隣に座った。
「空を見ているか」
「うん。きれいだなって」
「ああ」
朧も空を見た。
二人で、夕暮れを見た。
「朧」
「ん」
「明日、全部終わったら──泉に行こうね」
「約束した」
「覚えてるね?」
「覚えている」
「一緒に、水面を見よう」
「ああ」
「光が揺れるのを」
「ああ」
「二人で」
朧は柊を見た。
その銀色の瞳に、夕暮れの光が映っていた。
「二人で」
短い言葉だった。
でも、その言葉の中に──全部が入っていた。
柊は朧の目を見た。
そこに映る夕暮れの中に、自分の顔があった。
朧の目に映っている、自分の顔が──なぜか、泣いていなかった。
ちゃんと、前を向いていた。
そうか、と柊は思った。
私は今、前を向いている。
朧がいるから。
朧と一緒にいるから、前を向いていられる。
それが──契りの本当の意味かもしれない、と思った。
命を縛る呪いではなく。
前を向かせてくれる、繋がり。
「朧」
「ん」
「契りを解いた後も——前を向いていられると思う」
「なぜ」
「今、前を向いていられてるから」
朧は少しの間、柊を見た。
「それが──同意の答えか」
「そうかもしれない」
「俺も」朧は静かに言った。「今、ここにいることが──悪くない。消えなくても、ここにいられると思っている」
「それが朧の答え?」
「……そうかもしれない」
二人の答えが、静かに重なった。
夕暮れが、山の向こうに沈んでいく。
空が、藍色に変わり始める。
明日の夜、満月が出る。
でも今夜は──静かに、ここにいた。
それで十分だと、二人は思っていた。
夜。
蒼真が最後に言った。
「明日、全力で動く。お前たちも、全力で動け」
「ああ」と朧は言った。
「うん」と柊は言った。
「生きて帰れ」
蒼真の声は、静かだった。
命令ではなく──願いのような声だった。
「蒼真も」と柊は言った。
「俺は死なない」
「約束?」
「……約束だ」
朧が蒼真を見た。
「蒼真」
「なんだ」
「お前は──いい退魔師だ」
蒼真は朧を見た。
「お前に言われる筋合いはない」
「事実だ」
「……寝ろ」
蒼真は自分の部屋に戻った。
柊は朧を見た。
朧は少しだけ、口の端を上げていた。
「また笑った」
「笑っていない」
「絶対笑った」
「寝ろ」
「蒼真と同じことを言う」
「似たもの同士だ」
「全然似てないよ」
「そうか?」
朧は廊下を歩き始めた。
「おやすみ」と柊は言った。
朧は振り返らずに、言った。
「……おやすみ」
柊は、その背中が部屋の奥に消えるまで、見ていた。
明日の夜が来る。
満月が出る。
全てが動き始める。
でも今夜は──静かに眠ろうと、柊は思った。
明日、全力で動くために。
明日、全部が終わった後に、朧が言いたいことを言えるように。
その言葉を、ちゃんと受け取れるように。
柊は部屋に入って、布団を引いた。
横になった。
目を閉じた。
不思議と──眠れた。
深く、静かに。
満月の夜まで、あと一日。



