月喰いと契りの巫女

満月まで、三日。

朝、目が覚めたとき、柊は自分の手を見た。

何も変わっていない。いつもと同じ手だ。傷もない、変色もない。

でも──何かが、薄い。

うまく言葉にできなかった。ただ、昨日より何かが少ない感じがした。水を少しずつ蒸発させた器のような、そういう感覚。

気のせいかもしれない。

そう思うことにして、柊は起き上がった。

宿の朝餉を食べながら、蒼真が言った。

「今日、退魔師連合から使いが来る」

柊は茶碗を置いた。

「使い?」

「俺が連絡を取った。白面の件で、正式に協力を求めたい者がいる」

「誰?」

「桐生だ」

柊は少し驚いた。

「長老が、直接?」

「ああ。月喰いの討伐より、白面への対処を優先すべきという意見が、連合の中でも大きくなっている。桐生はその中心にいる」
朧が静かに聞いていた。

「俺に、会うつもりか」

「そうだ」蒼真は朧を見た。「構わないか」
「構わない」

「柊は?」

「もちろん」柊は言った。「でも──桐生さんは、朧を信頼してくれる?」

「わからない」蒼真は正直に言った。「だが、話をしなければ何も始まらない」

朧は静かに飯を食い続けた。

その横顔に、迷いはなかった。

桐生が宿に来たのは、昼前だった。

一人だった。

供も連れず、刀も持たず、白い着物だけで来た。

柊はそれに、少し驚いた。退魔師の長老が、
月喰いに会いに来るのに、一人で、無防備に。

桐生は土間に入って、三人を見た。

朧のところで、視線が止まった。

「……これが、月喰いか」

「はい」柊が答えた。

桐生は朧を静かに見た。

朧も桐生を見た。

どちらも、動かなかった。

しばらくして、桐生は畳に腰を下ろした。

「座れ」

三人が座った。

「話を聞く前に、一つ言う」桐生は言った。

「わしは、お前を討伐しに来たのではない。だが、信頼もしていない。今日は、その中間から始める」

「それで十分だ」朧は言った。

桐生は少し目を細めた。

「随分と、落ち着いている」

「長く生きているので」

「二百年、眠っていたのにか」

「眠っていた分も含めると、随分と長い」

桐生は小さく笑った。

意外な反応だった。

「正直な妖だ」

「嘘をつく理由がない」

「白面について、何を知っている」

朧は静かに話し始めた。

封印される前の記憶。白面の声。吹き込まれた言葉。そして、最近少しずつ戻ってくる記憶の断片。

桐生は黙って聞いていた。

「白面が、あやかしを操って集落を荒らしている。目的は、人とあやかしの間に不信を生み出すことだ」

「それは、こちらも掴んでいる」桐生は言った。「被害は、すでに五か所に及んでいる」

「満月の夜に、大きく動く」

「そう見ているか」

「ああ」

桐生は腕を組んだ。

「月喰いよ。お前に聞く。白面を止める方法が、あるか」

朧は少しの間、黙っていた。

「一つ、考えていることがある」

「聞かせろ」

「だが──まだ記憶が揃っていない。確かなことが言えない」

「いつ揃う」

「わからない。近い」

桐生は朧を見た。

「信頼できるか」と、また誰かに問うような目だった。

今度は蒼真にではなく──柊に、向いた。

「柊家の娘よ。お前が一番長く、この妖と共にいる。どう見る」
柊は桐生を見た。

真剣な目だった。試すのではなく、本当に知りたがっている目だった。

「信頼できます」柊は言った。「朧は──何度も、私を守った。何度も、正直だった。記憶がないときから、誠実だった」

「感情に流されていないか」

「流されている部分もある、と思います」柊は正直に言った。「でも──感情があるからこそ、見えることもあります。長い間、朧を見てきました。その目は、濁っていないと思います」

桐生は柊を見た。

それから朧を見た。

「わかった」

それだけ言った。

桐生が帰った後、蒼真は外に出た。

情報の確認があると言って。

宿の庭に、柊と朧だけが残った。

縁側に並んで座った。

午後の光が、庭を照らしていた。

「桐生は、どう見た?」柊が聞いた。

「複雑な人間だ」朧は言った。「蒼真ほどではないが」

「蒼真よりは単純?」

「蒼真は感情を押し込めている。桐生は感情を制御している。違いがある」

「朧は、人間の感情がよくわかるようになったね」

「お前に教えてもらったから」

柊は少し笑った。

「私は教えた覚えがない」

「見ていた」

「見てたの?」

「お前がどういうとき、どういう顔をするか。どういうとき、声が変わるか。見ながら、覚えた」

柊は少し恥ずかしくなった。

「そんなに見てたの」

「そんなに、とはどのくらいか」

「……ずっと、ということ」

「ずっと見ていた」

朧は平然と言った。

柊の顔が、少し熱くなった。

「それは──」

「おかしいか」

「おかしくないけど」

「では問題ない」

問題ない、で終わらせるのが朧らしかった。

柊は庭を見た。

小さな庭だった。石が置かれて、苔が生えていた。隅に、名前も知らない草花が咲いていた。

「朧」

「ん」

「契りの代償のこと──今朝、少し感じた」

「……どんなふうに」

「何かが薄い感じ。うまく言えないけど」

朧は柊を見た。

その目が、僅かに変わった。

「見せろ」

「え?」

「手を」

柊は朧に手を差し出した。

朧が、柊の手を両手で包んだ。

目を閉じた。

しばらく、動かなかった。

「……やはり」

「何?」

「命の感触が、昨日より薄い」朧は目を開けた。「少しずつだが、確実に削れている」

柊は朧の手を見た。

自分の手を包んでいる、大きな手。

「怖い?」と朧が聞いた。

珍しかった。朧が先に、感情を確認してくることが。

「怖い」柊は正直に答えた。「でも、止まらない」

「止まらないのか」

「止まれない、じゃなくて──止まらない。自分で、そうしてる」
朧は柊の手を、まだ持っていた。

「お前は」朧はゆっくりと言った。「最初に会ったとき、力がないと思っていた」

「うん。今も、あまりない」

「違う」

朧は柊の手を見た。

「力の大きさではなく──選ぶ力が、強い」

「選ぶ力?」

「俺のそばにいることを、お前は何度も選んだ。誰かに言われたのではなく、自分で選んだ。それは──俺が長く生きてきた中で、簡単にできることではないと知っている」

柊は朧を見た。

朧は真剣だった。

「だから」朧は続けた。「お前が削れていくことは──俺には、耐えがたい」

「朧」

「だから、急いでいる。答えを探すことを」
柊の目が、また熱くなった。
今度は堪えた。

「一緒に急ごう」

「ああ」

朧はまだ、柊の手を持っていた。

柊も、離さなかった。

庭の草花が、午後の風に揺れた。

夕刻、蒼真が戻ってきた。

三人で夕餉を食べながら、蒼真が報告した。

「白面が現れた集落を、もう一か所確認した。そちらでは、あやかしと人間の間で小さな衝突が起きていた。怪我人が出た」

「人間が?」

「あやかし側にも、人間側にも」

重い沈黙が降りた。

「白面の動きが、加速している」蒼真は続けた。「満月まで三日。それまでに、もう一度大きな衝突を起こすつもりかもしれない」

「防げるか」朧が言った。

「難しい。どこで起こすかわからない以上、先手は打てない」

「ならば──白面そのものを、止める必要がある」

「その方法が、まだない」

朧は少しの間、黙っていた。

「記憶が、もう少しで揃う」

「もう少し、とは」

「今夜か、明日か。近い」

蒼真は朧を見た。

「白面を止める鍵が、記憶の中にあるのか」

「確かではない。だが——白面が俺に吹き込んだ言葉の奥に、何かがある。白面が隠したがっている何かが」

「それが何かわかれば」

「白面の弱い部分に触れられるかもしれない」

蒼真は腕を組んだ。

「急ぐな。無理に記憶を引き出せば、体に響く」

「わかっている」

「本当にわかっているか」

朧は蒼真を見た。

「……わかっている」

「ならいい」

蒼真は箸を置いた。

「今夜は休め。記憶は、急いで引き出すものではない」

「お前が心配するのか」

「柊が心配するから、代わりに言っている」
柊は少し吹き出した。

「蒼真、正直だね」

「回りくどいことが嫌いだ」

朧は蒼真を見た。

何かを言いかけた。

でも言わなかった。

代わりに、飯を食い続けた。

蒼真も、飯を食った。

柊はその二人を見て、小さく笑った。

夜。

朧は一人で、宿の裏手に出た。

月が出ていた。

まだ満月ではなかった。あと三日で、満ちる。

朧は月を見た。

記憶が近くにある感じがした。薄い膜の向こうに、最後の断片がある。

急いではいけない、と蒼真は言った。

正しいと思う。

でも──柊の手の感触が、まだ残っていた。

命の感触が薄くなっていく、あの手。

「急がなければならない」

朧は静かに言った。

誰にも聞こえない声で。

目を閉じた。

記憶の中に入っていく。

燃える野原。泣き声。白い光。

その奥に──白面の声。

お前には誰もいない。お前はただ壊すだけだ。お前が存在することで、世界が歪む。

知っている声だ。

何度も聞いた声だ。

でも──その奥に、もう一つ、別の声がある。

朧は、その声に向かって、記憶の中を進んだ。

白面の声の奥。

ずっと隠れていた声。

白面自身の声ではない。

誰か、別の者の声が──。

「朧」

現実の声がした。

目を開けた。

柊が、縁側から顔を出していた。

「外にいたんだね。寒くない?」

「寒いという感覚は、あまりない」

「そう」柊は縁側に腰を下ろした。「記憶を探してた?」

「ああ」

「どうだった」

「もう少しだ」朧は月を見た。「声が聞こえかけた。白面の奥にある、別の声が」

「別の声?」

「白面が失った者の声かもしれない。澄江が言っていた——白面はかつて、共存しようとして失った者がいると」

「その人の声が、記憶に残ってるの?」

「封印される直前、白面が俺に近づいた。そのとき、白面の中に何かが──漏れた気がする。感情のようなものが」
柊は静かに聞いていた。

「悲しみ、だったかもしれない」朧は続けた。「怒りの奥にある、深い悲しみ。それが──白面を動かしている」

「悲しみを持った相手に、どうすればいい?」

「わからない。まだ記憶が揃っていない」

「揃ったら、わかる?」

「わかるかもしれない」

柊は月を見た。

「朧」

「ん」

「記憶が揃ったとき——つらかったら、言って」

朧は柊を見た。

「つらい、とは」

「白面に言葉を吹き込まれた記憶が全部戻ったとき。自分が壊した景色を全部見たとき。それがつらかったら、一人でいなくていいから」

朧はしばらく柊を見た。

「お前は」

「うん」

「俺がつらいとき、隣にいると言いたいのか」

「そう言いたい」

「……それは、どこかで聞いた言葉だ」

「私が最初に言ったんだけど」

「そうだったか」

「そうだよ」

朧は月を見た。

「……わかった」

短い返事だった。

でも柊には、それで十分だった。

二人で、月を見た。

満月まで、あと三日。

その月が満ちる前に、やらなければならないことがある。

でも今夜は──月を見ていた。

それだけのことが、今は大切だった。

翌朝。

柊は起き上がったとき、昨日よりはっきりと感じた。

薄い。

体ではなく、命の芯が。

不思議と、怖くはなかった。ただ──急かされる感じがした。

急がなければ、と。

朧の言う「答え」を、早く見つけなければと。

顔を洗って、部屋を出た。

廊下で蒼真と鉢合わせた。

蒼真は柊の顔を見て、一瞬、止まった。

「顔色が悪い」

「そう?」

「そう」

「大丈夫」

「大丈夫に見えない」

「蒼真は心配性だね」

「お前が無茶をするから、心配性になった」

蒼真は静かに言った。「柊」

「うん」

「契りの代償が、進んでいるか」

柊は少し考えた。

嘘をつく理由はない。

「進んでいると思う。少しずつ」

蒼真の目が、わずかに揺れた。

「急ぐ必要がある」

「わかってる」

「朧は──」

「わかってると思う。昨夜、話した」

蒼真は一度、目を閉じた。

それから開いた。

「俺は──」

言いかけて、止まった。

柊は蒼真を見た。

蒼真は視線を外した。

「……契りを解く方法を、もう少し調べる。桐生に聞けることがあるかもしれない」

「ありがとう」

「礼はいい」

蒼真は歩き始めた。

柊はその背中に向かって、もう一度「ありがとう」と言った。

蒼真は振り返らなかった。

でも、歩くペースが少しだけ──遅くなった気がした。

朝餉の後、朧が縁側で目を閉じていた。

記憶を探しているのだろう、と柊は思った。

邪魔しないようにと、少し離れて座っていた。

しばらくして、朧が目を開けた。

「柊」

「うん」

「聞こえた」

「記憶が?」

「声が」

朧は静かに言った。

「白面の奥にある、別の声だ」

柊は朧に近づいた。

「誰の声だった?」

朧は少しの間、庭を見た。

それから柊を見た。

その目に、見たことのない色があった。

驚きでも、悲しみでもなく──何か、深いところから来る、静かな色。

「人間の声だった」

「人間?」

「白面がかつて、共に生きようとした人間の声だ」

柊は息を飲んだ。

「その人が──」

「白面を信じた人間だった。白面と共に生きることを選んだ人間だった。そして──」

朧は一度、目を閉じた。

「白面を守ろうとして、人間たちに殺された」

静寂が降りた。

風が吹いた。

庭の草花が揺れた。

「白面は、その人間を守れなかった」柊は静かに言った。

「ああ」

「だから──」

「だから、信じることをやめた。共存することを信じることを」

柊は膝の上で手を握った。

白面が持っているのは、思想ではなかった。

深い、深い──悲しみだった。

愛した者を、守れなかった痛み。

「白面を、止められる?」柊は聞いた。

「わからない」朧は言った。「だが──向き合う方法が、少し見えてきた」

「どういう方法?」

「白面に、その人間の声を届ける」

「届ける?」

「白面は、その人間の声を──ずっと、聞けないでいるのかもしれない。失ったことで、声を遮断した。悲しみを怒りに変えて、声を聞かないようにしてきた」

朧は柊を見た。

「俺が封印される前に、白面の中から漏れたものが──俺の記憶に残っていた。それが、その人間の声だ」

「あなたの記憶に、残っていたんだね」

「ああ。俺には感情がなかったから、その声を遮断しなかった。ただ、記憶に残った」

柊は朧の目を見た。

深い銀色の瞳。

「その声を、白面に届ければ──」

「白面が止まるかどうか、わからない。だが──向き合うことはできるかもしれない」

柊は静かに頷いた。

「満月の夜に、白面が動く」

「ああ」

「その夜に、向き合う」

「ああ」

「契りの代償も、その夜に最大になる」

「わかっている」

「それでも」

「それでも」

朧の声は、揺れなかった。

柊は朧を見た。

「一緒に行く」

「お前は──」

「一緒に行く」

今度は、朧も止めなかった。

止める言葉を持っていないことを、知っていたから。

止めても、柊が来ることを、知っていたから。

「……わかった」

「一緒に、向き合おう」

「ああ」

満月まで、二日。

二人の答えは──揃い始めていた。