満月まで、三日。
朝、目が覚めたとき、柊は自分の手を見た。
何も変わっていない。いつもと同じ手だ。傷もない、変色もない。
でも──何かが、薄い。
うまく言葉にできなかった。ただ、昨日より何かが少ない感じがした。水を少しずつ蒸発させた器のような、そういう感覚。
気のせいかもしれない。
そう思うことにして、柊は起き上がった。
宿の朝餉を食べながら、蒼真が言った。
「今日、退魔師連合から使いが来る」
柊は茶碗を置いた。
「使い?」
「俺が連絡を取った。白面の件で、正式に協力を求めたい者がいる」
「誰?」
「桐生だ」
柊は少し驚いた。
「長老が、直接?」
「ああ。月喰いの討伐より、白面への対処を優先すべきという意見が、連合の中でも大きくなっている。桐生はその中心にいる」
朧が静かに聞いていた。
「俺に、会うつもりか」
「そうだ」蒼真は朧を見た。「構わないか」
「構わない」
「柊は?」
「もちろん」柊は言った。「でも──桐生さんは、朧を信頼してくれる?」
「わからない」蒼真は正直に言った。「だが、話をしなければ何も始まらない」
朧は静かに飯を食い続けた。
その横顔に、迷いはなかった。
桐生が宿に来たのは、昼前だった。
一人だった。
供も連れず、刀も持たず、白い着物だけで来た。
柊はそれに、少し驚いた。退魔師の長老が、
月喰いに会いに来るのに、一人で、無防備に。
桐生は土間に入って、三人を見た。
朧のところで、視線が止まった。
「……これが、月喰いか」
「はい」柊が答えた。
桐生は朧を静かに見た。
朧も桐生を見た。
どちらも、動かなかった。
しばらくして、桐生は畳に腰を下ろした。
「座れ」
三人が座った。
「話を聞く前に、一つ言う」桐生は言った。
「わしは、お前を討伐しに来たのではない。だが、信頼もしていない。今日は、その中間から始める」
「それで十分だ」朧は言った。
桐生は少し目を細めた。
「随分と、落ち着いている」
「長く生きているので」
「二百年、眠っていたのにか」
「眠っていた分も含めると、随分と長い」
桐生は小さく笑った。
意外な反応だった。
「正直な妖だ」
「嘘をつく理由がない」
「白面について、何を知っている」
朧は静かに話し始めた。
封印される前の記憶。白面の声。吹き込まれた言葉。そして、最近少しずつ戻ってくる記憶の断片。
桐生は黙って聞いていた。
「白面が、あやかしを操って集落を荒らしている。目的は、人とあやかしの間に不信を生み出すことだ」
「それは、こちらも掴んでいる」桐生は言った。「被害は、すでに五か所に及んでいる」
「満月の夜に、大きく動く」
「そう見ているか」
「ああ」
桐生は腕を組んだ。
「月喰いよ。お前に聞く。白面を止める方法が、あるか」
朧は少しの間、黙っていた。
「一つ、考えていることがある」
「聞かせろ」
「だが──まだ記憶が揃っていない。確かなことが言えない」
「いつ揃う」
「わからない。近い」
桐生は朧を見た。
「信頼できるか」と、また誰かに問うような目だった。
今度は蒼真にではなく──柊に、向いた。
「柊家の娘よ。お前が一番長く、この妖と共にいる。どう見る」
柊は桐生を見た。
真剣な目だった。試すのではなく、本当に知りたがっている目だった。
「信頼できます」柊は言った。「朧は──何度も、私を守った。何度も、正直だった。記憶がないときから、誠実だった」
「感情に流されていないか」
「流されている部分もある、と思います」柊は正直に言った。「でも──感情があるからこそ、見えることもあります。長い間、朧を見てきました。その目は、濁っていないと思います」
桐生は柊を見た。
それから朧を見た。
「わかった」
それだけ言った。
桐生が帰った後、蒼真は外に出た。
情報の確認があると言って。
宿の庭に、柊と朧だけが残った。
縁側に並んで座った。
午後の光が、庭を照らしていた。
「桐生は、どう見た?」柊が聞いた。
「複雑な人間だ」朧は言った。「蒼真ほどではないが」
「蒼真よりは単純?」
「蒼真は感情を押し込めている。桐生は感情を制御している。違いがある」
「朧は、人間の感情がよくわかるようになったね」
「お前に教えてもらったから」
柊は少し笑った。
「私は教えた覚えがない」
「見ていた」
「見てたの?」
「お前がどういうとき、どういう顔をするか。どういうとき、声が変わるか。見ながら、覚えた」
柊は少し恥ずかしくなった。
「そんなに見てたの」
「そんなに、とはどのくらいか」
「……ずっと、ということ」
「ずっと見ていた」
朧は平然と言った。
柊の顔が、少し熱くなった。
「それは──」
「おかしいか」
「おかしくないけど」
「では問題ない」
問題ない、で終わらせるのが朧らしかった。
柊は庭を見た。
小さな庭だった。石が置かれて、苔が生えていた。隅に、名前も知らない草花が咲いていた。
「朧」
「ん」
「契りの代償のこと──今朝、少し感じた」
「……どんなふうに」
「何かが薄い感じ。うまく言えないけど」
朧は柊を見た。
その目が、僅かに変わった。
「見せろ」
「え?」
「手を」
柊は朧に手を差し出した。
朧が、柊の手を両手で包んだ。
目を閉じた。
しばらく、動かなかった。
「……やはり」
「何?」
「命の感触が、昨日より薄い」朧は目を開けた。「少しずつだが、確実に削れている」
柊は朧の手を見た。
自分の手を包んでいる、大きな手。
「怖い?」と朧が聞いた。
珍しかった。朧が先に、感情を確認してくることが。
「怖い」柊は正直に答えた。「でも、止まらない」
「止まらないのか」
「止まれない、じゃなくて──止まらない。自分で、そうしてる」
朧は柊の手を、まだ持っていた。
「お前は」朧はゆっくりと言った。「最初に会ったとき、力がないと思っていた」
「うん。今も、あまりない」
「違う」
朧は柊の手を見た。
「力の大きさではなく──選ぶ力が、強い」
「選ぶ力?」
「俺のそばにいることを、お前は何度も選んだ。誰かに言われたのではなく、自分で選んだ。それは──俺が長く生きてきた中で、簡単にできることではないと知っている」
柊は朧を見た。
朧は真剣だった。
「だから」朧は続けた。「お前が削れていくことは──俺には、耐えがたい」
「朧」
「だから、急いでいる。答えを探すことを」
柊の目が、また熱くなった。
今度は堪えた。
「一緒に急ごう」
「ああ」
朧はまだ、柊の手を持っていた。
柊も、離さなかった。
庭の草花が、午後の風に揺れた。
夕刻、蒼真が戻ってきた。
三人で夕餉を食べながら、蒼真が報告した。
「白面が現れた集落を、もう一か所確認した。そちらでは、あやかしと人間の間で小さな衝突が起きていた。怪我人が出た」
「人間が?」
「あやかし側にも、人間側にも」
重い沈黙が降りた。
「白面の動きが、加速している」蒼真は続けた。「満月まで三日。それまでに、もう一度大きな衝突を起こすつもりかもしれない」
「防げるか」朧が言った。
「難しい。どこで起こすかわからない以上、先手は打てない」
「ならば──白面そのものを、止める必要がある」
「その方法が、まだない」
朧は少しの間、黙っていた。
「記憶が、もう少しで揃う」
「もう少し、とは」
「今夜か、明日か。近い」
蒼真は朧を見た。
「白面を止める鍵が、記憶の中にあるのか」
「確かではない。だが——白面が俺に吹き込んだ言葉の奥に、何かがある。白面が隠したがっている何かが」
「それが何かわかれば」
「白面の弱い部分に触れられるかもしれない」
蒼真は腕を組んだ。
「急ぐな。無理に記憶を引き出せば、体に響く」
「わかっている」
「本当にわかっているか」
朧は蒼真を見た。
「……わかっている」
「ならいい」
蒼真は箸を置いた。
「今夜は休め。記憶は、急いで引き出すものではない」
「お前が心配するのか」
「柊が心配するから、代わりに言っている」
柊は少し吹き出した。
「蒼真、正直だね」
「回りくどいことが嫌いだ」
朧は蒼真を見た。
何かを言いかけた。
でも言わなかった。
代わりに、飯を食い続けた。
蒼真も、飯を食った。
柊はその二人を見て、小さく笑った。
夜。
朧は一人で、宿の裏手に出た。
月が出ていた。
まだ満月ではなかった。あと三日で、満ちる。
朧は月を見た。
記憶が近くにある感じがした。薄い膜の向こうに、最後の断片がある。
急いではいけない、と蒼真は言った。
正しいと思う。
でも──柊の手の感触が、まだ残っていた。
命の感触が薄くなっていく、あの手。
「急がなければならない」
朧は静かに言った。
誰にも聞こえない声で。
目を閉じた。
記憶の中に入っていく。
燃える野原。泣き声。白い光。
その奥に──白面の声。
お前には誰もいない。お前はただ壊すだけだ。お前が存在することで、世界が歪む。
知っている声だ。
何度も聞いた声だ。
でも──その奥に、もう一つ、別の声がある。
朧は、その声に向かって、記憶の中を進んだ。
白面の声の奥。
ずっと隠れていた声。
白面自身の声ではない。
誰か、別の者の声が──。
「朧」
現実の声がした。
目を開けた。
柊が、縁側から顔を出していた。
「外にいたんだね。寒くない?」
「寒いという感覚は、あまりない」
「そう」柊は縁側に腰を下ろした。「記憶を探してた?」
「ああ」
「どうだった」
「もう少しだ」朧は月を見た。「声が聞こえかけた。白面の奥にある、別の声が」
「別の声?」
「白面が失った者の声かもしれない。澄江が言っていた——白面はかつて、共存しようとして失った者がいると」
「その人の声が、記憶に残ってるの?」
「封印される直前、白面が俺に近づいた。そのとき、白面の中に何かが──漏れた気がする。感情のようなものが」
柊は静かに聞いていた。
「悲しみ、だったかもしれない」朧は続けた。「怒りの奥にある、深い悲しみ。それが──白面を動かしている」
「悲しみを持った相手に、どうすればいい?」
「わからない。まだ記憶が揃っていない」
「揃ったら、わかる?」
「わかるかもしれない」
柊は月を見た。
「朧」
「ん」
「記憶が揃ったとき——つらかったら、言って」
朧は柊を見た。
「つらい、とは」
「白面に言葉を吹き込まれた記憶が全部戻ったとき。自分が壊した景色を全部見たとき。それがつらかったら、一人でいなくていいから」
朧はしばらく柊を見た。
「お前は」
「うん」
「俺がつらいとき、隣にいると言いたいのか」
「そう言いたい」
「……それは、どこかで聞いた言葉だ」
「私が最初に言ったんだけど」
「そうだったか」
「そうだよ」
朧は月を見た。
「……わかった」
短い返事だった。
でも柊には、それで十分だった。
二人で、月を見た。
満月まで、あと三日。
その月が満ちる前に、やらなければならないことがある。
でも今夜は──月を見ていた。
それだけのことが、今は大切だった。
翌朝。
柊は起き上がったとき、昨日よりはっきりと感じた。
薄い。
体ではなく、命の芯が。
不思議と、怖くはなかった。ただ──急かされる感じがした。
急がなければ、と。
朧の言う「答え」を、早く見つけなければと。
顔を洗って、部屋を出た。
廊下で蒼真と鉢合わせた。
蒼真は柊の顔を見て、一瞬、止まった。
「顔色が悪い」
「そう?」
「そう」
「大丈夫」
「大丈夫に見えない」
「蒼真は心配性だね」
「お前が無茶をするから、心配性になった」
蒼真は静かに言った。「柊」
「うん」
「契りの代償が、進んでいるか」
柊は少し考えた。
嘘をつく理由はない。
「進んでいると思う。少しずつ」
蒼真の目が、わずかに揺れた。
「急ぐ必要がある」
「わかってる」
「朧は──」
「わかってると思う。昨夜、話した」
蒼真は一度、目を閉じた。
それから開いた。
「俺は──」
言いかけて、止まった。
柊は蒼真を見た。
蒼真は視線を外した。
「……契りを解く方法を、もう少し調べる。桐生に聞けることがあるかもしれない」
「ありがとう」
「礼はいい」
蒼真は歩き始めた。
柊はその背中に向かって、もう一度「ありがとう」と言った。
蒼真は振り返らなかった。
でも、歩くペースが少しだけ──遅くなった気がした。
朝餉の後、朧が縁側で目を閉じていた。
記憶を探しているのだろう、と柊は思った。
邪魔しないようにと、少し離れて座っていた。
しばらくして、朧が目を開けた。
「柊」
「うん」
「聞こえた」
「記憶が?」
「声が」
朧は静かに言った。
「白面の奥にある、別の声だ」
柊は朧に近づいた。
「誰の声だった?」
朧は少しの間、庭を見た。
それから柊を見た。
その目に、見たことのない色があった。
驚きでも、悲しみでもなく──何か、深いところから来る、静かな色。
「人間の声だった」
「人間?」
「白面がかつて、共に生きようとした人間の声だ」
柊は息を飲んだ。
「その人が──」
「白面を信じた人間だった。白面と共に生きることを選んだ人間だった。そして──」
朧は一度、目を閉じた。
「白面を守ろうとして、人間たちに殺された」
静寂が降りた。
風が吹いた。
庭の草花が揺れた。
「白面は、その人間を守れなかった」柊は静かに言った。
「ああ」
「だから──」
「だから、信じることをやめた。共存することを信じることを」
柊は膝の上で手を握った。
白面が持っているのは、思想ではなかった。
深い、深い──悲しみだった。
愛した者を、守れなかった痛み。
「白面を、止められる?」柊は聞いた。
「わからない」朧は言った。「だが──向き合う方法が、少し見えてきた」
「どういう方法?」
「白面に、その人間の声を届ける」
「届ける?」
「白面は、その人間の声を──ずっと、聞けないでいるのかもしれない。失ったことで、声を遮断した。悲しみを怒りに変えて、声を聞かないようにしてきた」
朧は柊を見た。
「俺が封印される前に、白面の中から漏れたものが──俺の記憶に残っていた。それが、その人間の声だ」
「あなたの記憶に、残っていたんだね」
「ああ。俺には感情がなかったから、その声を遮断しなかった。ただ、記憶に残った」
柊は朧の目を見た。
深い銀色の瞳。
「その声を、白面に届ければ──」
「白面が止まるかどうか、わからない。だが──向き合うことはできるかもしれない」
柊は静かに頷いた。
「満月の夜に、白面が動く」
「ああ」
「その夜に、向き合う」
「ああ」
「契りの代償も、その夜に最大になる」
「わかっている」
「それでも」
「それでも」
朧の声は、揺れなかった。
柊は朧を見た。
「一緒に行く」
「お前は──」
「一緒に行く」
今度は、朧も止めなかった。
止める言葉を持っていないことを、知っていたから。
止めても、柊が来ることを、知っていたから。
「……わかった」
「一緒に、向き合おう」
「ああ」
満月まで、二日。
二人の答えは──揃い始めていた。
朝、目が覚めたとき、柊は自分の手を見た。
何も変わっていない。いつもと同じ手だ。傷もない、変色もない。
でも──何かが、薄い。
うまく言葉にできなかった。ただ、昨日より何かが少ない感じがした。水を少しずつ蒸発させた器のような、そういう感覚。
気のせいかもしれない。
そう思うことにして、柊は起き上がった。
宿の朝餉を食べながら、蒼真が言った。
「今日、退魔師連合から使いが来る」
柊は茶碗を置いた。
「使い?」
「俺が連絡を取った。白面の件で、正式に協力を求めたい者がいる」
「誰?」
「桐生だ」
柊は少し驚いた。
「長老が、直接?」
「ああ。月喰いの討伐より、白面への対処を優先すべきという意見が、連合の中でも大きくなっている。桐生はその中心にいる」
朧が静かに聞いていた。
「俺に、会うつもりか」
「そうだ」蒼真は朧を見た。「構わないか」
「構わない」
「柊は?」
「もちろん」柊は言った。「でも──桐生さんは、朧を信頼してくれる?」
「わからない」蒼真は正直に言った。「だが、話をしなければ何も始まらない」
朧は静かに飯を食い続けた。
その横顔に、迷いはなかった。
桐生が宿に来たのは、昼前だった。
一人だった。
供も連れず、刀も持たず、白い着物だけで来た。
柊はそれに、少し驚いた。退魔師の長老が、
月喰いに会いに来るのに、一人で、無防備に。
桐生は土間に入って、三人を見た。
朧のところで、視線が止まった。
「……これが、月喰いか」
「はい」柊が答えた。
桐生は朧を静かに見た。
朧も桐生を見た。
どちらも、動かなかった。
しばらくして、桐生は畳に腰を下ろした。
「座れ」
三人が座った。
「話を聞く前に、一つ言う」桐生は言った。
「わしは、お前を討伐しに来たのではない。だが、信頼もしていない。今日は、その中間から始める」
「それで十分だ」朧は言った。
桐生は少し目を細めた。
「随分と、落ち着いている」
「長く生きているので」
「二百年、眠っていたのにか」
「眠っていた分も含めると、随分と長い」
桐生は小さく笑った。
意外な反応だった。
「正直な妖だ」
「嘘をつく理由がない」
「白面について、何を知っている」
朧は静かに話し始めた。
封印される前の記憶。白面の声。吹き込まれた言葉。そして、最近少しずつ戻ってくる記憶の断片。
桐生は黙って聞いていた。
「白面が、あやかしを操って集落を荒らしている。目的は、人とあやかしの間に不信を生み出すことだ」
「それは、こちらも掴んでいる」桐生は言った。「被害は、すでに五か所に及んでいる」
「満月の夜に、大きく動く」
「そう見ているか」
「ああ」
桐生は腕を組んだ。
「月喰いよ。お前に聞く。白面を止める方法が、あるか」
朧は少しの間、黙っていた。
「一つ、考えていることがある」
「聞かせろ」
「だが──まだ記憶が揃っていない。確かなことが言えない」
「いつ揃う」
「わからない。近い」
桐生は朧を見た。
「信頼できるか」と、また誰かに問うような目だった。
今度は蒼真にではなく──柊に、向いた。
「柊家の娘よ。お前が一番長く、この妖と共にいる。どう見る」
柊は桐生を見た。
真剣な目だった。試すのではなく、本当に知りたがっている目だった。
「信頼できます」柊は言った。「朧は──何度も、私を守った。何度も、正直だった。記憶がないときから、誠実だった」
「感情に流されていないか」
「流されている部分もある、と思います」柊は正直に言った。「でも──感情があるからこそ、見えることもあります。長い間、朧を見てきました。その目は、濁っていないと思います」
桐生は柊を見た。
それから朧を見た。
「わかった」
それだけ言った。
桐生が帰った後、蒼真は外に出た。
情報の確認があると言って。
宿の庭に、柊と朧だけが残った。
縁側に並んで座った。
午後の光が、庭を照らしていた。
「桐生は、どう見た?」柊が聞いた。
「複雑な人間だ」朧は言った。「蒼真ほどではないが」
「蒼真よりは単純?」
「蒼真は感情を押し込めている。桐生は感情を制御している。違いがある」
「朧は、人間の感情がよくわかるようになったね」
「お前に教えてもらったから」
柊は少し笑った。
「私は教えた覚えがない」
「見ていた」
「見てたの?」
「お前がどういうとき、どういう顔をするか。どういうとき、声が変わるか。見ながら、覚えた」
柊は少し恥ずかしくなった。
「そんなに見てたの」
「そんなに、とはどのくらいか」
「……ずっと、ということ」
「ずっと見ていた」
朧は平然と言った。
柊の顔が、少し熱くなった。
「それは──」
「おかしいか」
「おかしくないけど」
「では問題ない」
問題ない、で終わらせるのが朧らしかった。
柊は庭を見た。
小さな庭だった。石が置かれて、苔が生えていた。隅に、名前も知らない草花が咲いていた。
「朧」
「ん」
「契りの代償のこと──今朝、少し感じた」
「……どんなふうに」
「何かが薄い感じ。うまく言えないけど」
朧は柊を見た。
その目が、僅かに変わった。
「見せろ」
「え?」
「手を」
柊は朧に手を差し出した。
朧が、柊の手を両手で包んだ。
目を閉じた。
しばらく、動かなかった。
「……やはり」
「何?」
「命の感触が、昨日より薄い」朧は目を開けた。「少しずつだが、確実に削れている」
柊は朧の手を見た。
自分の手を包んでいる、大きな手。
「怖い?」と朧が聞いた。
珍しかった。朧が先に、感情を確認してくることが。
「怖い」柊は正直に答えた。「でも、止まらない」
「止まらないのか」
「止まれない、じゃなくて──止まらない。自分で、そうしてる」
朧は柊の手を、まだ持っていた。
「お前は」朧はゆっくりと言った。「最初に会ったとき、力がないと思っていた」
「うん。今も、あまりない」
「違う」
朧は柊の手を見た。
「力の大きさではなく──選ぶ力が、強い」
「選ぶ力?」
「俺のそばにいることを、お前は何度も選んだ。誰かに言われたのではなく、自分で選んだ。それは──俺が長く生きてきた中で、簡単にできることではないと知っている」
柊は朧を見た。
朧は真剣だった。
「だから」朧は続けた。「お前が削れていくことは──俺には、耐えがたい」
「朧」
「だから、急いでいる。答えを探すことを」
柊の目が、また熱くなった。
今度は堪えた。
「一緒に急ごう」
「ああ」
朧はまだ、柊の手を持っていた。
柊も、離さなかった。
庭の草花が、午後の風に揺れた。
夕刻、蒼真が戻ってきた。
三人で夕餉を食べながら、蒼真が報告した。
「白面が現れた集落を、もう一か所確認した。そちらでは、あやかしと人間の間で小さな衝突が起きていた。怪我人が出た」
「人間が?」
「あやかし側にも、人間側にも」
重い沈黙が降りた。
「白面の動きが、加速している」蒼真は続けた。「満月まで三日。それまでに、もう一度大きな衝突を起こすつもりかもしれない」
「防げるか」朧が言った。
「難しい。どこで起こすかわからない以上、先手は打てない」
「ならば──白面そのものを、止める必要がある」
「その方法が、まだない」
朧は少しの間、黙っていた。
「記憶が、もう少しで揃う」
「もう少し、とは」
「今夜か、明日か。近い」
蒼真は朧を見た。
「白面を止める鍵が、記憶の中にあるのか」
「確かではない。だが——白面が俺に吹き込んだ言葉の奥に、何かがある。白面が隠したがっている何かが」
「それが何かわかれば」
「白面の弱い部分に触れられるかもしれない」
蒼真は腕を組んだ。
「急ぐな。無理に記憶を引き出せば、体に響く」
「わかっている」
「本当にわかっているか」
朧は蒼真を見た。
「……わかっている」
「ならいい」
蒼真は箸を置いた。
「今夜は休め。記憶は、急いで引き出すものではない」
「お前が心配するのか」
「柊が心配するから、代わりに言っている」
柊は少し吹き出した。
「蒼真、正直だね」
「回りくどいことが嫌いだ」
朧は蒼真を見た。
何かを言いかけた。
でも言わなかった。
代わりに、飯を食い続けた。
蒼真も、飯を食った。
柊はその二人を見て、小さく笑った。
夜。
朧は一人で、宿の裏手に出た。
月が出ていた。
まだ満月ではなかった。あと三日で、満ちる。
朧は月を見た。
記憶が近くにある感じがした。薄い膜の向こうに、最後の断片がある。
急いではいけない、と蒼真は言った。
正しいと思う。
でも──柊の手の感触が、まだ残っていた。
命の感触が薄くなっていく、あの手。
「急がなければならない」
朧は静かに言った。
誰にも聞こえない声で。
目を閉じた。
記憶の中に入っていく。
燃える野原。泣き声。白い光。
その奥に──白面の声。
お前には誰もいない。お前はただ壊すだけだ。お前が存在することで、世界が歪む。
知っている声だ。
何度も聞いた声だ。
でも──その奥に、もう一つ、別の声がある。
朧は、その声に向かって、記憶の中を進んだ。
白面の声の奥。
ずっと隠れていた声。
白面自身の声ではない。
誰か、別の者の声が──。
「朧」
現実の声がした。
目を開けた。
柊が、縁側から顔を出していた。
「外にいたんだね。寒くない?」
「寒いという感覚は、あまりない」
「そう」柊は縁側に腰を下ろした。「記憶を探してた?」
「ああ」
「どうだった」
「もう少しだ」朧は月を見た。「声が聞こえかけた。白面の奥にある、別の声が」
「別の声?」
「白面が失った者の声かもしれない。澄江が言っていた——白面はかつて、共存しようとして失った者がいると」
「その人の声が、記憶に残ってるの?」
「封印される直前、白面が俺に近づいた。そのとき、白面の中に何かが──漏れた気がする。感情のようなものが」
柊は静かに聞いていた。
「悲しみ、だったかもしれない」朧は続けた。「怒りの奥にある、深い悲しみ。それが──白面を動かしている」
「悲しみを持った相手に、どうすればいい?」
「わからない。まだ記憶が揃っていない」
「揃ったら、わかる?」
「わかるかもしれない」
柊は月を見た。
「朧」
「ん」
「記憶が揃ったとき——つらかったら、言って」
朧は柊を見た。
「つらい、とは」
「白面に言葉を吹き込まれた記憶が全部戻ったとき。自分が壊した景色を全部見たとき。それがつらかったら、一人でいなくていいから」
朧はしばらく柊を見た。
「お前は」
「うん」
「俺がつらいとき、隣にいると言いたいのか」
「そう言いたい」
「……それは、どこかで聞いた言葉だ」
「私が最初に言ったんだけど」
「そうだったか」
「そうだよ」
朧は月を見た。
「……わかった」
短い返事だった。
でも柊には、それで十分だった。
二人で、月を見た。
満月まで、あと三日。
その月が満ちる前に、やらなければならないことがある。
でも今夜は──月を見ていた。
それだけのことが、今は大切だった。
翌朝。
柊は起き上がったとき、昨日よりはっきりと感じた。
薄い。
体ではなく、命の芯が。
不思議と、怖くはなかった。ただ──急かされる感じがした。
急がなければ、と。
朧の言う「答え」を、早く見つけなければと。
顔を洗って、部屋を出た。
廊下で蒼真と鉢合わせた。
蒼真は柊の顔を見て、一瞬、止まった。
「顔色が悪い」
「そう?」
「そう」
「大丈夫」
「大丈夫に見えない」
「蒼真は心配性だね」
「お前が無茶をするから、心配性になった」
蒼真は静かに言った。「柊」
「うん」
「契りの代償が、進んでいるか」
柊は少し考えた。
嘘をつく理由はない。
「進んでいると思う。少しずつ」
蒼真の目が、わずかに揺れた。
「急ぐ必要がある」
「わかってる」
「朧は──」
「わかってると思う。昨夜、話した」
蒼真は一度、目を閉じた。
それから開いた。
「俺は──」
言いかけて、止まった。
柊は蒼真を見た。
蒼真は視線を外した。
「……契りを解く方法を、もう少し調べる。桐生に聞けることがあるかもしれない」
「ありがとう」
「礼はいい」
蒼真は歩き始めた。
柊はその背中に向かって、もう一度「ありがとう」と言った。
蒼真は振り返らなかった。
でも、歩くペースが少しだけ──遅くなった気がした。
朝餉の後、朧が縁側で目を閉じていた。
記憶を探しているのだろう、と柊は思った。
邪魔しないようにと、少し離れて座っていた。
しばらくして、朧が目を開けた。
「柊」
「うん」
「聞こえた」
「記憶が?」
「声が」
朧は静かに言った。
「白面の奥にある、別の声だ」
柊は朧に近づいた。
「誰の声だった?」
朧は少しの間、庭を見た。
それから柊を見た。
その目に、見たことのない色があった。
驚きでも、悲しみでもなく──何か、深いところから来る、静かな色。
「人間の声だった」
「人間?」
「白面がかつて、共に生きようとした人間の声だ」
柊は息を飲んだ。
「その人が──」
「白面を信じた人間だった。白面と共に生きることを選んだ人間だった。そして──」
朧は一度、目を閉じた。
「白面を守ろうとして、人間たちに殺された」
静寂が降りた。
風が吹いた。
庭の草花が揺れた。
「白面は、その人間を守れなかった」柊は静かに言った。
「ああ」
「だから──」
「だから、信じることをやめた。共存することを信じることを」
柊は膝の上で手を握った。
白面が持っているのは、思想ではなかった。
深い、深い──悲しみだった。
愛した者を、守れなかった痛み。
「白面を、止められる?」柊は聞いた。
「わからない」朧は言った。「だが──向き合う方法が、少し見えてきた」
「どういう方法?」
「白面に、その人間の声を届ける」
「届ける?」
「白面は、その人間の声を──ずっと、聞けないでいるのかもしれない。失ったことで、声を遮断した。悲しみを怒りに変えて、声を聞かないようにしてきた」
朧は柊を見た。
「俺が封印される前に、白面の中から漏れたものが──俺の記憶に残っていた。それが、その人間の声だ」
「あなたの記憶に、残っていたんだね」
「ああ。俺には感情がなかったから、その声を遮断しなかった。ただ、記憶に残った」
柊は朧の目を見た。
深い銀色の瞳。
「その声を、白面に届ければ──」
「白面が止まるかどうか、わからない。だが──向き合うことはできるかもしれない」
柊は静かに頷いた。
「満月の夜に、白面が動く」
「ああ」
「その夜に、向き合う」
「ああ」
「契りの代償も、その夜に最大になる」
「わかっている」
「それでも」
「それでも」
朧の声は、揺れなかった。
柊は朧を見た。
「一緒に行く」
「お前は──」
「一緒に行く」
今度は、朧も止めなかった。
止める言葉を持っていないことを、知っていたから。
止めても、柊が来ることを、知っていたから。
「……わかった」
「一緒に、向き合おう」
「ああ」
満月まで、二日。
二人の答えは──揃い始めていた。



