東の山を越えるのに、一晩かかった。
朧が先頭に立って道を選び、蒼真が後ろから気配を探った。柊はその間で、足元を確かめながら歩いた。
険しい道だった。岩場があり、沢を渡る場所があり、倒木を越える場所があった。それでも三人は無言で進んだ。言葉を使う余裕がなかったわけではなく──言葉がなくても、進めたからだ。
夜明け前に稜線に出た。
東の空が、白み始めていた。
柊は岩に腰を下ろして、その光を見た。じわじわと明るくなっていく空の色が、灰から白へ、白から淡い金へと変わっていく。
「きれい」
「昨日も同じことを言った」
朧が隣に立って、空を見ながら言った。
「きれいなものはきれいだよ」
「そうだな」
朧も、空を見ていた。
その横顔が、夜明けの光を受けていた。柊はそれを、きれいだと思った。今度は声に出さなかった。
「降りるぞ」
蒼真が後ろから言った。
「日が出る前に、集落を避けて東の里まで行く。知り合いの宿がある」
「また知り合いか」蒼真は顔が広い、と柊は思った。
「退魔師は各地に縁がある」蒼真は淡々と言った。「お前もそのうちわかる」
「私はまず、ちゃんとした退魔師にならないと」
「なれる」
短く、はっきりと言われた。
柊は少し驚いて、蒼真を見た。
蒼真は視線を合わせなかった。
「行くぞ」
それだけ言って、先に歩き始めた。
朧が柊に目を向けた。
「あの男は、お前のことを信じている」
「……知ってる」
「知っているなら、素直に受け取れ」
柊は苦笑した。
「受け取ってるよ」
「顔がそう見えない」
「朧は最近、人の顔をよく読むようになったね」
「お前がそうしてきたから」
柊は笑った。
それから立ち上がって、蒼真の後を追った。
朧が並んだ。
三人で、夜明けの山を下りた。
蒼真の知り合いの宿は、山間の小さな宿場にあった。
看板もない、古い木造の建物だった。戸を叩くと、中から白髪の男が出てきた。五十がらみで、目に皺が多かった。
「蒼真か。久しぶりだ」
「三日、世話になれるか」
「いつでも」
男は三人を見た。柊を見て、朧を見た。朧のところで視線が少し止まったが、何も言わなかった。
「飯を出す。風呂も沸かした」
それだけ言って、中に入った。
柊は蒼真に小声で言った。
「何も聞かないの?」
「聞かない人だ」蒼真は答えた。「それが助かる」
部屋は二つあった。
柊が一つ。蒼真と朧が一つ。
柊は一人で部屋に入って、荷を下ろした。
布団が敷かれていた。枕が置かれていた。窓から山が見えた。
当たり前の、静かな部屋だった。
柊は布団に横になった。
天井を見た。
隠れ里を出てから、朧がずっと近くにいた。
山を越える間も、道を歩く間も、気配が傍にあった。
今は壁一枚隔てた向こうに、朧がいる。
それだけで──安心できた。
おかしいな、と柊は思った。
最初に朧を匿ったとき、柊は怖かった。何者かもわからない、感情のない青年を家に置くことが。でも今は、その気配がないことの方が、ずっと怖い。
人はこんなにも変わるものか、と思う。
それとも──変わったのではなく、気づいたのか。
柊は目を閉じた。
封印の記録の言葉が、また浮かんだ。
もし月喰いが、誰かに感情の名前を教えてもらえるなら。
先祖は、それを願っていた。
柊は、それを偶然やっていた。
偶然が、必然だったのかもしれない。
そんなことを考えながら、柊は眠りに落ちた。
三日間、宿で過ごした。
蒼真は毎日、外に出て情報を集めた。討伐隊の動向。白面の気配。退魔師連合の動き。
朧は宿の裏手にある小さな庭で、静かに時間を過ごした。
柊は朧と庭にいることが多かった。
二日目の昼過ぎ、縁側に並んで座っていたとき、朧が突然、目を閉じた。
「朧?」
「記憶が来た」
「今?」
「ああ」
柊は黙って、朧の隣に座っていた。
しばらくして、朧が目を開けた。
「何が見えた?」
「子供の声」
「子供?」
「記憶の断片だ。小さな手が俺の手を引いていた。川に連れて行かれた」
「川?」
「光が揺れていた」朧は静かに言った。「その子供は笑っていた。きれいだろう、と言っていた」
柊は朧の横顔を見た。
「そのとき、きれいだと思った?」
「わからなかった。感情を知らなかったから」
「今は?」
「今は──きれかったと思う」
柊の胸が、温かくなった。
「よかった」
「何がよかった」
「きれいって思えるようになったのが」
朧は柊を見た。
「……お前は、変なところで喜ぶ」
「そう?」
「そう」
「でも、嬉しいでしょう」
朧はしばらく柊を見た。
「……嬉しい、という感覚が、今あるかはわからない。だが──悪くない、とは思う」
「それで十分だよ」
柊は笑った。
朧はまた庭を見た。
「あの子供が、人間だったのか妖だったのか、今も思い出せない。だが──それで、いい気がする」
「どうして」
「どちらでも、変わらなかった。そばにいた。それだけだ」
柊はその言葉を、胸の中にしまった。
どちらでも、変わらなかった。
それが、朧が持っていたもの。白面が吹き込む前から、朧の中にあったもの。
三日目の夜、蒼真が戻ってきた。
表情が、いつもより硬かった。
三人で囲炉裏を囲んで、蒼真は話し始めた。
「討伐隊は、一度解散した」
「解散?」柊は驚いた。
「表向きは、月喰いの足取りが掴めなくなったため、と発表されている。だが──実際は違う」
「白面か」朧が言った。
「ああ。白面の動きが活発になっている。討伐隊が月喰いを追っている間に、いくつかの集落であやかしの暴走が起きた。人を傷つけたわけではないが──人とあやかしの間に、深い不信が生まれている」
柊は拳を握った。
「白面が、意図的に起こしているの?」
「おそらく。月喰いと人間が一緒にいることを見せつけるより、あやかしが人を脅かす光景を見せる方が──白面の思想を広めるには効率的だ」
「世界を壊そうとしている」
「そうだ。そして──」蒼真は少し間を置いた。「退魔師連合が、方針を変えようとしている」
「どういう意味?」
「月喰いの討伐より、白面への対処を優先すべきという声が出ている。月喰いを利用するか、封印するか──敵として扱うより、この状況を収めるために使えないかという意見が」
朧は蒼真を見た。
「使う、か」
「言葉が悪かった」蒼真は言った。「協力を求める、という意味だ」
「白面を、どうやって」
「わからない。まだ誰も答えを持っていない」蒼真は朧を見た。「だが──お前が、白面のことを一番知っている」
朧は少しの間、囲炉裏の火を見た。
「白面は古い。俺より古い。直接やり合って、勝てる相手ではないかもしれない」
「かもしれない、か」
「ただ──白面には、弱い部分がある」
「どこだ」
「澄江が言っていた。白面はかつて、共存しようとして失った者がいると」
蒼真は頷いた。
「それは俺も聞いた」
「失った悲しみが、白面を動かしている。思想ではなく、感情だ」朧は静かに言った。
「感情で動くものは──感情で止められる」
「どういうことだ」
「まだわからない。だが──記憶の中に、何かがある気がする。白面の記憶だ。封印される直前に、白面の声を聞いた。その奥に、何かがあった」
「記憶が完全に戻れば、わかるか」
「かもしれない」
蒼真は腕を組んだ。
「満月まで、五日だ」
「わかっている」
「契りの代償が、満月の夜に加速する」
「わかっている」
「それまでに——」
「わかっている」
朧の声は静かだったが、遮ることに迷いがなかった。
蒼真は少しの間、朧を見た。
それから、視線を外した。
「……わかった」
囲炉裏の火が、静かに燃えていた。
その夜、柊は眠れなかった。
布団の中で、天井を見ていた。
満月まで、五日。
契りの代償。命が削れる。白面。討伐隊。
考えることが多すぎて、頭の中が静かにならなかった。
「眠れていない」
廊下から、声がした。
朧だった。
「開けていいか」
「……うん」
障子が静かに開いた。
朧が入ってきた。
柊の部屋の隅に座って、壁を背にした。
「また隣にいる」
「ありがとう」
「礼はいい」
「でも言いたい」
朧は少し黙った。
「……好きにしろ」
柊は布団の中から、朧の横顔を見た。
「朧、一つ聞いていい?」
「なんだ」
「契りを手放すとき──寂しいと思う?」
朧は答えなかった。
すぐには答えなかった。
しばらくして、静かに言った。
「寂しいという感覚が、今はわかる」
「うん」
「だから──寂しいと思う、かもしれない」
「私も」
柊は天井を見た。
「でも」柊は続けた。「手放すことと、離れることは、同じじゃないよね」
「……どういう意味だ」
「契りがなくなっても、そばにいられるなら──それは手放したことにならない気がする」
朧は柊を見た。
「契りがなくなれば、俺はただのあやかしだ。討伐の対象だ」
「今もそうだけど、あなたは今ここにいる」
「……」
「状況は変わらない。でも——契りがなくなれば、私の命は守られる。あなたが私を守るために消えなくていい」
朧は黙っていた。
「それで、一緒にいられるなら──私は、手放すことを選べる」
「俺が消えなくていい、と言いたいのか」
「そう言いたい」
朧は少しの間、柊を見た。
「都合がいいことを言う」
「わかってる」
「現実は、そう簡単ではない」
「わかってる。でも──都合がよくても、信じたいことを信じていい時があると思う」
朧は目を伏せた。
何かを考えているようだった。
「……泉のことを、覚えているか」
「覚えてる」柊はすぐに言った。「また行きたいって思ってる」
「一緒に?」
「一緒に」
朧は天井を見た。
しばらく、何も言わなかった。
柊も、何も言わなかった。
「……また行こう」
朧が、静かに言った。
「うん」
「全部が終わったら」
「うん」
「約束だ」
柊の目が、熱くなった。
泣かないようにしながら、柊は「約束」と答えた。
約束は、未来のことだ。
未来があると信じることは──今を生きることだ、と柊は思った。
翌朝。
四日目の朝。
宿の主人が朝餉を出した後、蒼真が三人に向かって言った。
「今日から動く」
「どこへ」柊が聞いた。
「白面が現れた集落に向かう。現場を見て、情報を集める。白面の動きを知らなければ、対処できない」
朧が立ち上がった。
「案内しろ」
「お前が案内する側だ」蒼真は言った。「白面の気配は、お前の方が感じ取れる」
「……そうだな」
朧は蒼真を見た。
「蒼真」
「なんだ」
「俺を信頼しているか」
蒼真は少しの間、朧を見た。
「信頼している、とは言い切れない」蒼真は静かに言った。「しかし──今は、お前と同じ方向を向いている。それで十分だ」
朧はその答えを、静かに受け取った。
「……十分だ」
柊は二人を見た。
不思議な二人だな、と思った。
認め合っているのに、素直に言えない。でも、確実に──何かが変わってきている。
「行こう」
柊は立ち上がった。
二人が、柊を見た。
「私も行く。当然だよね?」
蒼真が溜息をついた。
「当然と言う前に、装備を確認しろ」
「してある」
「御札は」
「十枚持ってる」
「少ない」
「じゃあ蒼真が持ってきて」
蒼真はまた溜息をついた。
朧が、柊と蒼真を交互に見た。
それから、ごく僅かに──口の端が、上がった。
気づいたのは、柊だけだった。
「朧、今笑ったよね」
「笑っていない」
「笑った」
「気のせいだ」
「絶対笑った」
「行くぞ」
朧が先に歩き始めた。
柊は蒼真に向かって「笑ったよね」と確認した。
蒼真は「知らん」と言って、朧の後に続いた。
柊は小走りで追いついた。
三人で、宿の戸を出た。
朝の光が、明るかった。
山の向こうに、白面がいる。
満月まで、四日。
でも今この瞬間、三人の足取りは──確かだった。
白面が現れた集落は、山の麓にある小さな農村だった。
近づくにつれて、空気が変わった。
重い。
柊は感じた。霊気というより──感情の重さだった。不信と、恐怖と、疲弊が、集落全体に漂っていた。
集落の入口に、老人が一人立っていた。
「退魔師か」
蒼真が頭を下げた。
「はい。状況を確認させてください」
老人は三人を見た。
朧のところで、視線が止まった。
柊は思わず緊張した。
だが老人は、目を細めただけだった。
「……銀色の目か。珍しい」
それだけ言って、中に案内し始めた。
柊は小さく息を吐いた。
集落の中を歩きながら、老人が話した。
三日前の夜、山からあやかしの群れが下りてきた。荒れていた。普段は大人しいあやかしたちが、まるで何かに駆り立てられるように暴れた。家の壁が壊された。畑が荒らされた。怪我人は出なかったが──人々の心に、深い傷が残った。
「今まで、山のあやかしとはうまくやってきた」老人は言った。「お互い、距離を保って。それで何十年も、問題はなかった」
「それが、急に変わった」
「急にだ。前触れもなく」老人は首を振った。「あやかしたちが悪いとは思わない。何かに操られていたように見えた。だが──村の者たちは、そう思えない者もいる」
老人の目が、重かった。
「今、村の若い者たちは、あやかしを全部追い払うべきだと言っている。長年一緒にいた山の精たちも、全部」
柊は胸が痛かった。
「白面が、それを狙っている」朧が静かに言った。
老人が朧を見た。
「あんたは、何者だ」
「俺も、あやかしだ」
老人はしばらく朧を見た。
「……そうか」
否定も、拒絶も、なかった。
老人はため息をついた。
「白面という名前を、最近聞くようになった。白い姿のあやかしが、あちこちに現れて──人とあやかしは共存できないと、吹いて回っているらしい」
「被害は、ここだけではないか」
「ここだけではない。この辺りで、三か所の集落で同じようなことが起きている」
蒼真が朧に目を向けた。
朧は集落の奥を見ていた。
その銀色の瞳が、何かを捉えていた。
「気配があるか」柊が聞いた。
「白面ではない。だが──白面の残り香だ。ここに最近いた」
「何をしに来たと思う?」
「見に来た」朧は言った。「自分が仕掛けたことの結果を、見に来た」
その言葉が、重かった。
白面は、この光景を──人とあやかしが離れていく光景を見て、満足しているのか。
柊は拳を握った。
「止められる?」
「止めなければならない」
朧の声は、静かだったが──揺れていなかった。
集落を出て、山の麓で三人は立ち止まった。
「白面は、次に何をする」蒼真が言った。
「規模を大きくする」朧は答えた。「小さな集落で試した。次は、もっと大きな場所で──もっと大きな衝突を起こす」
「どこだ」
「わからない。だが──満月の夜は、あやかしの力が最も大きくなる。操りやすくなる。白面が動くなら、満月の夜だ」
蒼真は目を閉じた。
「満月の夜は、契りの代償が最も大きくなる夜でもある」
「ああ」
「つまり、全てが重なる」
「ああ」
三人は沈黙した。
風が吹いた。
山の木々が、静かに揺れた。
「方法を考えなければならない」蒼真は言った。「白面を止める方法と、契りを解く方法を、同時に」
「時間が足りない」柊は言った。
「そうだ」
「でも──やるしかない」
蒼真は柊を見た。
「そうだ」
朧が、二人を見た。
「一つ言う」
「なんだ」
「俺は、消えることを答えにするつもりはない」
柊が、朧を見た。
朧は真っすぐに、前を向いていた。
「澄江の言葉と、お前の言葉が、俺の中で重なった。橋になれ、と言われた。手放しても、離れることとは違う、と言われた」
「……朧」
「俺が消えることは──橋を壊すことだ。それは、白面が望む結末だ」
朧は柊を見た。
「だから──俺は生きる方法を選ぶ。それを探す」
柊の目が、熱くなった。
今度は、堪えなかった。
一粒だけ、静かに落ちた。
朧は柊を見て、少し困った顔をした。
「なぜ泣く」
「嬉しいから」
「何が嬉しい」
「あなたが、生きることを選んでくれたから」
朧はしばらく柊を見た。
「……それは、当たり前のことではないか」
「当たり前じゃなかった。最初は逃げようとしてた」
「……そうだったな」
「今は違う」
「ああ」
朧は前を向いた。
山の向こうに、まだ見えない満月がある。
「行こう」
朧が歩き始めた。
蒼真が続いた。
柊は目元を拭って、二人の後を追った。
満月まで、四日。
三人の答えは、まだ途中だった。
でも──方向は、揃っていた。
同じ方向を向いて、三人は歩いていた。
それが今は、何よりも確かなことだった
朧が先頭に立って道を選び、蒼真が後ろから気配を探った。柊はその間で、足元を確かめながら歩いた。
険しい道だった。岩場があり、沢を渡る場所があり、倒木を越える場所があった。それでも三人は無言で進んだ。言葉を使う余裕がなかったわけではなく──言葉がなくても、進めたからだ。
夜明け前に稜線に出た。
東の空が、白み始めていた。
柊は岩に腰を下ろして、その光を見た。じわじわと明るくなっていく空の色が、灰から白へ、白から淡い金へと変わっていく。
「きれい」
「昨日も同じことを言った」
朧が隣に立って、空を見ながら言った。
「きれいなものはきれいだよ」
「そうだな」
朧も、空を見ていた。
その横顔が、夜明けの光を受けていた。柊はそれを、きれいだと思った。今度は声に出さなかった。
「降りるぞ」
蒼真が後ろから言った。
「日が出る前に、集落を避けて東の里まで行く。知り合いの宿がある」
「また知り合いか」蒼真は顔が広い、と柊は思った。
「退魔師は各地に縁がある」蒼真は淡々と言った。「お前もそのうちわかる」
「私はまず、ちゃんとした退魔師にならないと」
「なれる」
短く、はっきりと言われた。
柊は少し驚いて、蒼真を見た。
蒼真は視線を合わせなかった。
「行くぞ」
それだけ言って、先に歩き始めた。
朧が柊に目を向けた。
「あの男は、お前のことを信じている」
「……知ってる」
「知っているなら、素直に受け取れ」
柊は苦笑した。
「受け取ってるよ」
「顔がそう見えない」
「朧は最近、人の顔をよく読むようになったね」
「お前がそうしてきたから」
柊は笑った。
それから立ち上がって、蒼真の後を追った。
朧が並んだ。
三人で、夜明けの山を下りた。
蒼真の知り合いの宿は、山間の小さな宿場にあった。
看板もない、古い木造の建物だった。戸を叩くと、中から白髪の男が出てきた。五十がらみで、目に皺が多かった。
「蒼真か。久しぶりだ」
「三日、世話になれるか」
「いつでも」
男は三人を見た。柊を見て、朧を見た。朧のところで視線が少し止まったが、何も言わなかった。
「飯を出す。風呂も沸かした」
それだけ言って、中に入った。
柊は蒼真に小声で言った。
「何も聞かないの?」
「聞かない人だ」蒼真は答えた。「それが助かる」
部屋は二つあった。
柊が一つ。蒼真と朧が一つ。
柊は一人で部屋に入って、荷を下ろした。
布団が敷かれていた。枕が置かれていた。窓から山が見えた。
当たり前の、静かな部屋だった。
柊は布団に横になった。
天井を見た。
隠れ里を出てから、朧がずっと近くにいた。
山を越える間も、道を歩く間も、気配が傍にあった。
今は壁一枚隔てた向こうに、朧がいる。
それだけで──安心できた。
おかしいな、と柊は思った。
最初に朧を匿ったとき、柊は怖かった。何者かもわからない、感情のない青年を家に置くことが。でも今は、その気配がないことの方が、ずっと怖い。
人はこんなにも変わるものか、と思う。
それとも──変わったのではなく、気づいたのか。
柊は目を閉じた。
封印の記録の言葉が、また浮かんだ。
もし月喰いが、誰かに感情の名前を教えてもらえるなら。
先祖は、それを願っていた。
柊は、それを偶然やっていた。
偶然が、必然だったのかもしれない。
そんなことを考えながら、柊は眠りに落ちた。
三日間、宿で過ごした。
蒼真は毎日、外に出て情報を集めた。討伐隊の動向。白面の気配。退魔師連合の動き。
朧は宿の裏手にある小さな庭で、静かに時間を過ごした。
柊は朧と庭にいることが多かった。
二日目の昼過ぎ、縁側に並んで座っていたとき、朧が突然、目を閉じた。
「朧?」
「記憶が来た」
「今?」
「ああ」
柊は黙って、朧の隣に座っていた。
しばらくして、朧が目を開けた。
「何が見えた?」
「子供の声」
「子供?」
「記憶の断片だ。小さな手が俺の手を引いていた。川に連れて行かれた」
「川?」
「光が揺れていた」朧は静かに言った。「その子供は笑っていた。きれいだろう、と言っていた」
柊は朧の横顔を見た。
「そのとき、きれいだと思った?」
「わからなかった。感情を知らなかったから」
「今は?」
「今は──きれかったと思う」
柊の胸が、温かくなった。
「よかった」
「何がよかった」
「きれいって思えるようになったのが」
朧は柊を見た。
「……お前は、変なところで喜ぶ」
「そう?」
「そう」
「でも、嬉しいでしょう」
朧はしばらく柊を見た。
「……嬉しい、という感覚が、今あるかはわからない。だが──悪くない、とは思う」
「それで十分だよ」
柊は笑った。
朧はまた庭を見た。
「あの子供が、人間だったのか妖だったのか、今も思い出せない。だが──それで、いい気がする」
「どうして」
「どちらでも、変わらなかった。そばにいた。それだけだ」
柊はその言葉を、胸の中にしまった。
どちらでも、変わらなかった。
それが、朧が持っていたもの。白面が吹き込む前から、朧の中にあったもの。
三日目の夜、蒼真が戻ってきた。
表情が、いつもより硬かった。
三人で囲炉裏を囲んで、蒼真は話し始めた。
「討伐隊は、一度解散した」
「解散?」柊は驚いた。
「表向きは、月喰いの足取りが掴めなくなったため、と発表されている。だが──実際は違う」
「白面か」朧が言った。
「ああ。白面の動きが活発になっている。討伐隊が月喰いを追っている間に、いくつかの集落であやかしの暴走が起きた。人を傷つけたわけではないが──人とあやかしの間に、深い不信が生まれている」
柊は拳を握った。
「白面が、意図的に起こしているの?」
「おそらく。月喰いと人間が一緒にいることを見せつけるより、あやかしが人を脅かす光景を見せる方が──白面の思想を広めるには効率的だ」
「世界を壊そうとしている」
「そうだ。そして──」蒼真は少し間を置いた。「退魔師連合が、方針を変えようとしている」
「どういう意味?」
「月喰いの討伐より、白面への対処を優先すべきという声が出ている。月喰いを利用するか、封印するか──敵として扱うより、この状況を収めるために使えないかという意見が」
朧は蒼真を見た。
「使う、か」
「言葉が悪かった」蒼真は言った。「協力を求める、という意味だ」
「白面を、どうやって」
「わからない。まだ誰も答えを持っていない」蒼真は朧を見た。「だが──お前が、白面のことを一番知っている」
朧は少しの間、囲炉裏の火を見た。
「白面は古い。俺より古い。直接やり合って、勝てる相手ではないかもしれない」
「かもしれない、か」
「ただ──白面には、弱い部分がある」
「どこだ」
「澄江が言っていた。白面はかつて、共存しようとして失った者がいると」
蒼真は頷いた。
「それは俺も聞いた」
「失った悲しみが、白面を動かしている。思想ではなく、感情だ」朧は静かに言った。
「感情で動くものは──感情で止められる」
「どういうことだ」
「まだわからない。だが──記憶の中に、何かがある気がする。白面の記憶だ。封印される直前に、白面の声を聞いた。その奥に、何かがあった」
「記憶が完全に戻れば、わかるか」
「かもしれない」
蒼真は腕を組んだ。
「満月まで、五日だ」
「わかっている」
「契りの代償が、満月の夜に加速する」
「わかっている」
「それまでに——」
「わかっている」
朧の声は静かだったが、遮ることに迷いがなかった。
蒼真は少しの間、朧を見た。
それから、視線を外した。
「……わかった」
囲炉裏の火が、静かに燃えていた。
その夜、柊は眠れなかった。
布団の中で、天井を見ていた。
満月まで、五日。
契りの代償。命が削れる。白面。討伐隊。
考えることが多すぎて、頭の中が静かにならなかった。
「眠れていない」
廊下から、声がした。
朧だった。
「開けていいか」
「……うん」
障子が静かに開いた。
朧が入ってきた。
柊の部屋の隅に座って、壁を背にした。
「また隣にいる」
「ありがとう」
「礼はいい」
「でも言いたい」
朧は少し黙った。
「……好きにしろ」
柊は布団の中から、朧の横顔を見た。
「朧、一つ聞いていい?」
「なんだ」
「契りを手放すとき──寂しいと思う?」
朧は答えなかった。
すぐには答えなかった。
しばらくして、静かに言った。
「寂しいという感覚が、今はわかる」
「うん」
「だから──寂しいと思う、かもしれない」
「私も」
柊は天井を見た。
「でも」柊は続けた。「手放すことと、離れることは、同じじゃないよね」
「……どういう意味だ」
「契りがなくなっても、そばにいられるなら──それは手放したことにならない気がする」
朧は柊を見た。
「契りがなくなれば、俺はただのあやかしだ。討伐の対象だ」
「今もそうだけど、あなたは今ここにいる」
「……」
「状況は変わらない。でも——契りがなくなれば、私の命は守られる。あなたが私を守るために消えなくていい」
朧は黙っていた。
「それで、一緒にいられるなら──私は、手放すことを選べる」
「俺が消えなくていい、と言いたいのか」
「そう言いたい」
朧は少しの間、柊を見た。
「都合がいいことを言う」
「わかってる」
「現実は、そう簡単ではない」
「わかってる。でも──都合がよくても、信じたいことを信じていい時があると思う」
朧は目を伏せた。
何かを考えているようだった。
「……泉のことを、覚えているか」
「覚えてる」柊はすぐに言った。「また行きたいって思ってる」
「一緒に?」
「一緒に」
朧は天井を見た。
しばらく、何も言わなかった。
柊も、何も言わなかった。
「……また行こう」
朧が、静かに言った。
「うん」
「全部が終わったら」
「うん」
「約束だ」
柊の目が、熱くなった。
泣かないようにしながら、柊は「約束」と答えた。
約束は、未来のことだ。
未来があると信じることは──今を生きることだ、と柊は思った。
翌朝。
四日目の朝。
宿の主人が朝餉を出した後、蒼真が三人に向かって言った。
「今日から動く」
「どこへ」柊が聞いた。
「白面が現れた集落に向かう。現場を見て、情報を集める。白面の動きを知らなければ、対処できない」
朧が立ち上がった。
「案内しろ」
「お前が案内する側だ」蒼真は言った。「白面の気配は、お前の方が感じ取れる」
「……そうだな」
朧は蒼真を見た。
「蒼真」
「なんだ」
「俺を信頼しているか」
蒼真は少しの間、朧を見た。
「信頼している、とは言い切れない」蒼真は静かに言った。「しかし──今は、お前と同じ方向を向いている。それで十分だ」
朧はその答えを、静かに受け取った。
「……十分だ」
柊は二人を見た。
不思議な二人だな、と思った。
認め合っているのに、素直に言えない。でも、確実に──何かが変わってきている。
「行こう」
柊は立ち上がった。
二人が、柊を見た。
「私も行く。当然だよね?」
蒼真が溜息をついた。
「当然と言う前に、装備を確認しろ」
「してある」
「御札は」
「十枚持ってる」
「少ない」
「じゃあ蒼真が持ってきて」
蒼真はまた溜息をついた。
朧が、柊と蒼真を交互に見た。
それから、ごく僅かに──口の端が、上がった。
気づいたのは、柊だけだった。
「朧、今笑ったよね」
「笑っていない」
「笑った」
「気のせいだ」
「絶対笑った」
「行くぞ」
朧が先に歩き始めた。
柊は蒼真に向かって「笑ったよね」と確認した。
蒼真は「知らん」と言って、朧の後に続いた。
柊は小走りで追いついた。
三人で、宿の戸を出た。
朝の光が、明るかった。
山の向こうに、白面がいる。
満月まで、四日。
でも今この瞬間、三人の足取りは──確かだった。
白面が現れた集落は、山の麓にある小さな農村だった。
近づくにつれて、空気が変わった。
重い。
柊は感じた。霊気というより──感情の重さだった。不信と、恐怖と、疲弊が、集落全体に漂っていた。
集落の入口に、老人が一人立っていた。
「退魔師か」
蒼真が頭を下げた。
「はい。状況を確認させてください」
老人は三人を見た。
朧のところで、視線が止まった。
柊は思わず緊張した。
だが老人は、目を細めただけだった。
「……銀色の目か。珍しい」
それだけ言って、中に案内し始めた。
柊は小さく息を吐いた。
集落の中を歩きながら、老人が話した。
三日前の夜、山からあやかしの群れが下りてきた。荒れていた。普段は大人しいあやかしたちが、まるで何かに駆り立てられるように暴れた。家の壁が壊された。畑が荒らされた。怪我人は出なかったが──人々の心に、深い傷が残った。
「今まで、山のあやかしとはうまくやってきた」老人は言った。「お互い、距離を保って。それで何十年も、問題はなかった」
「それが、急に変わった」
「急にだ。前触れもなく」老人は首を振った。「あやかしたちが悪いとは思わない。何かに操られていたように見えた。だが──村の者たちは、そう思えない者もいる」
老人の目が、重かった。
「今、村の若い者たちは、あやかしを全部追い払うべきだと言っている。長年一緒にいた山の精たちも、全部」
柊は胸が痛かった。
「白面が、それを狙っている」朧が静かに言った。
老人が朧を見た。
「あんたは、何者だ」
「俺も、あやかしだ」
老人はしばらく朧を見た。
「……そうか」
否定も、拒絶も、なかった。
老人はため息をついた。
「白面という名前を、最近聞くようになった。白い姿のあやかしが、あちこちに現れて──人とあやかしは共存できないと、吹いて回っているらしい」
「被害は、ここだけではないか」
「ここだけではない。この辺りで、三か所の集落で同じようなことが起きている」
蒼真が朧に目を向けた。
朧は集落の奥を見ていた。
その銀色の瞳が、何かを捉えていた。
「気配があるか」柊が聞いた。
「白面ではない。だが──白面の残り香だ。ここに最近いた」
「何をしに来たと思う?」
「見に来た」朧は言った。「自分が仕掛けたことの結果を、見に来た」
その言葉が、重かった。
白面は、この光景を──人とあやかしが離れていく光景を見て、満足しているのか。
柊は拳を握った。
「止められる?」
「止めなければならない」
朧の声は、静かだったが──揺れていなかった。
集落を出て、山の麓で三人は立ち止まった。
「白面は、次に何をする」蒼真が言った。
「規模を大きくする」朧は答えた。「小さな集落で試した。次は、もっと大きな場所で──もっと大きな衝突を起こす」
「どこだ」
「わからない。だが──満月の夜は、あやかしの力が最も大きくなる。操りやすくなる。白面が動くなら、満月の夜だ」
蒼真は目を閉じた。
「満月の夜は、契りの代償が最も大きくなる夜でもある」
「ああ」
「つまり、全てが重なる」
「ああ」
三人は沈黙した。
風が吹いた。
山の木々が、静かに揺れた。
「方法を考えなければならない」蒼真は言った。「白面を止める方法と、契りを解く方法を、同時に」
「時間が足りない」柊は言った。
「そうだ」
「でも──やるしかない」
蒼真は柊を見た。
「そうだ」
朧が、二人を見た。
「一つ言う」
「なんだ」
「俺は、消えることを答えにするつもりはない」
柊が、朧を見た。
朧は真っすぐに、前を向いていた。
「澄江の言葉と、お前の言葉が、俺の中で重なった。橋になれ、と言われた。手放しても、離れることとは違う、と言われた」
「……朧」
「俺が消えることは──橋を壊すことだ。それは、白面が望む結末だ」
朧は柊を見た。
「だから──俺は生きる方法を選ぶ。それを探す」
柊の目が、熱くなった。
今度は、堪えなかった。
一粒だけ、静かに落ちた。
朧は柊を見て、少し困った顔をした。
「なぜ泣く」
「嬉しいから」
「何が嬉しい」
「あなたが、生きることを選んでくれたから」
朧はしばらく柊を見た。
「……それは、当たり前のことではないか」
「当たり前じゃなかった。最初は逃げようとしてた」
「……そうだったな」
「今は違う」
「ああ」
朧は前を向いた。
山の向こうに、まだ見えない満月がある。
「行こう」
朧が歩き始めた。
蒼真が続いた。
柊は目元を拭って、二人の後を追った。
満月まで、四日。
三人の答えは、まだ途中だった。
でも──方向は、揃っていた。
同じ方向を向いて、三人は歩いていた。
それが今は、何よりも確かなことだった



