月喰いと契りの巫女

東の山を越えるのに、一晩かかった。

朧が先頭に立って道を選び、蒼真が後ろから気配を探った。柊はその間で、足元を確かめながら歩いた。

険しい道だった。岩場があり、沢を渡る場所があり、倒木を越える場所があった。それでも三人は無言で進んだ。言葉を使う余裕がなかったわけではなく──言葉がなくても、進めたからだ。

夜明け前に稜線に出た。

東の空が、白み始めていた。

柊は岩に腰を下ろして、その光を見た。じわじわと明るくなっていく空の色が、灰から白へ、白から淡い金へと変わっていく。

「きれい」

「昨日も同じことを言った」

朧が隣に立って、空を見ながら言った。

「きれいなものはきれいだよ」

「そうだな」

朧も、空を見ていた。

その横顔が、夜明けの光を受けていた。柊はそれを、きれいだと思った。今度は声に出さなかった。

「降りるぞ」

蒼真が後ろから言った。

「日が出る前に、集落を避けて東の里まで行く。知り合いの宿がある」

「また知り合いか」蒼真は顔が広い、と柊は思った。

「退魔師は各地に縁がある」蒼真は淡々と言った。「お前もそのうちわかる」

「私はまず、ちゃんとした退魔師にならないと」

「なれる」

短く、はっきりと言われた。

柊は少し驚いて、蒼真を見た。

蒼真は視線を合わせなかった。

「行くぞ」

それだけ言って、先に歩き始めた。

朧が柊に目を向けた。

「あの男は、お前のことを信じている」

「……知ってる」

「知っているなら、素直に受け取れ」
柊は苦笑した。

「受け取ってるよ」

「顔がそう見えない」

「朧は最近、人の顔をよく読むようになったね」

「お前がそうしてきたから」

柊は笑った。

それから立ち上がって、蒼真の後を追った。

朧が並んだ。

三人で、夜明けの山を下りた。

蒼真の知り合いの宿は、山間の小さな宿場にあった。

看板もない、古い木造の建物だった。戸を叩くと、中から白髪の男が出てきた。五十がらみで、目に皺が多かった。

「蒼真か。久しぶりだ」

「三日、世話になれるか」

「いつでも」

男は三人を見た。柊を見て、朧を見た。朧のところで視線が少し止まったが、何も言わなかった。

「飯を出す。風呂も沸かした」

それだけ言って、中に入った。

柊は蒼真に小声で言った。

「何も聞かないの?」

「聞かない人だ」蒼真は答えた。「それが助かる」

部屋は二つあった。

柊が一つ。蒼真と朧が一つ。

柊は一人で部屋に入って、荷を下ろした。

布団が敷かれていた。枕が置かれていた。窓から山が見えた。

当たり前の、静かな部屋だった。

柊は布団に横になった。

天井を見た。

隠れ里を出てから、朧がずっと近くにいた。

山を越える間も、道を歩く間も、気配が傍にあった。

今は壁一枚隔てた向こうに、朧がいる。

それだけで──安心できた。

おかしいな、と柊は思った。

最初に朧を匿ったとき、柊は怖かった。何者かもわからない、感情のない青年を家に置くことが。でも今は、その気配がないことの方が、ずっと怖い。

人はこんなにも変わるものか、と思う。

それとも──変わったのではなく、気づいたのか。

柊は目を閉じた。

封印の記録の言葉が、また浮かんだ。

もし月喰いが、誰かに感情の名前を教えてもらえるなら。

先祖は、それを願っていた。

柊は、それを偶然やっていた。

偶然が、必然だったのかもしれない。

そんなことを考えながら、柊は眠りに落ちた。

三日間、宿で過ごした。

蒼真は毎日、外に出て情報を集めた。討伐隊の動向。白面の気配。退魔師連合の動き。
朧は宿の裏手にある小さな庭で、静かに時間を過ごした。

柊は朧と庭にいることが多かった。

二日目の昼過ぎ、縁側に並んで座っていたとき、朧が突然、目を閉じた。

「朧?」

「記憶が来た」

「今?」

「ああ」

柊は黙って、朧の隣に座っていた。

しばらくして、朧が目を開けた。

「何が見えた?」

「子供の声」

「子供?」

「記憶の断片だ。小さな手が俺の手を引いていた。川に連れて行かれた」

「川?」

「光が揺れていた」朧は静かに言った。「その子供は笑っていた。きれいだろう、と言っていた」

柊は朧の横顔を見た。

「そのとき、きれいだと思った?」

「わからなかった。感情を知らなかったから」

「今は?」

「今は──きれかったと思う」

柊の胸が、温かくなった。

「よかった」

「何がよかった」

「きれいって思えるようになったのが」

朧は柊を見た。

「……お前は、変なところで喜ぶ」

「そう?」

「そう」

「でも、嬉しいでしょう」

朧はしばらく柊を見た。

「……嬉しい、という感覚が、今あるかはわからない。だが──悪くない、とは思う」

「それで十分だよ」

柊は笑った。

朧はまた庭を見た。

「あの子供が、人間だったのか妖だったのか、今も思い出せない。だが──それで、いい気がする」

「どうして」

「どちらでも、変わらなかった。そばにいた。それだけだ」

柊はその言葉を、胸の中にしまった。

どちらでも、変わらなかった。

それが、朧が持っていたもの。白面が吹き込む前から、朧の中にあったもの。

三日目の夜、蒼真が戻ってきた。

表情が、いつもより硬かった。

三人で囲炉裏を囲んで、蒼真は話し始めた。

「討伐隊は、一度解散した」

「解散?」柊は驚いた。

「表向きは、月喰いの足取りが掴めなくなったため、と発表されている。だが──実際は違う」

「白面か」朧が言った。

「ああ。白面の動きが活発になっている。討伐隊が月喰いを追っている間に、いくつかの集落であやかしの暴走が起きた。人を傷つけたわけではないが──人とあやかしの間に、深い不信が生まれている」
柊は拳を握った。

「白面が、意図的に起こしているの?」

「おそらく。月喰いと人間が一緒にいることを見せつけるより、あやかしが人を脅かす光景を見せる方が──白面の思想を広めるには効率的だ」

「世界を壊そうとしている」

「そうだ。そして──」蒼真は少し間を置いた。「退魔師連合が、方針を変えようとしている」

「どういう意味?」

「月喰いの討伐より、白面への対処を優先すべきという声が出ている。月喰いを利用するか、封印するか──敵として扱うより、この状況を収めるために使えないかという意見が」

朧は蒼真を見た。

「使う、か」

「言葉が悪かった」蒼真は言った。「協力を求める、という意味だ」

「白面を、どうやって」

「わからない。まだ誰も答えを持っていない」蒼真は朧を見た。「だが──お前が、白面のことを一番知っている」

朧は少しの間、囲炉裏の火を見た。

「白面は古い。俺より古い。直接やり合って、勝てる相手ではないかもしれない」

「かもしれない、か」

「ただ──白面には、弱い部分がある」

「どこだ」

「澄江が言っていた。白面はかつて、共存しようとして失った者がいると」
蒼真は頷いた。

「それは俺も聞いた」

「失った悲しみが、白面を動かしている。思想ではなく、感情だ」朧は静かに言った。

「感情で動くものは──感情で止められる」

「どういうことだ」

「まだわからない。だが──記憶の中に、何かがある気がする。白面の記憶だ。封印される直前に、白面の声を聞いた。その奥に、何かがあった」

「記憶が完全に戻れば、わかるか」

「かもしれない」

蒼真は腕を組んだ。

「満月まで、五日だ」

「わかっている」

「契りの代償が、満月の夜に加速する」

「わかっている」

「それまでに——」

「わかっている」

朧の声は静かだったが、遮ることに迷いがなかった。

蒼真は少しの間、朧を見た。

それから、視線を外した。

「……わかった」

囲炉裏の火が、静かに燃えていた。

その夜、柊は眠れなかった。

布団の中で、天井を見ていた。

満月まで、五日。

契りの代償。命が削れる。白面。討伐隊。
考えることが多すぎて、頭の中が静かにならなかった。

「眠れていない」

廊下から、声がした。

朧だった。

「開けていいか」

「……うん」

障子が静かに開いた。

朧が入ってきた。

柊の部屋の隅に座って、壁を背にした。

「また隣にいる」

「ありがとう」

「礼はいい」

「でも言いたい」

朧は少し黙った。

「……好きにしろ」

柊は布団の中から、朧の横顔を見た。

「朧、一つ聞いていい?」

「なんだ」

「契りを手放すとき──寂しいと思う?」

朧は答えなかった。

すぐには答えなかった。

しばらくして、静かに言った。

「寂しいという感覚が、今はわかる」

「うん」

「だから──寂しいと思う、かもしれない」

「私も」

柊は天井を見た。

「でも」柊は続けた。「手放すことと、離れることは、同じじゃないよね」

「……どういう意味だ」

「契りがなくなっても、そばにいられるなら──それは手放したことにならない気がする」

朧は柊を見た。

「契りがなくなれば、俺はただのあやかしだ。討伐の対象だ」

「今もそうだけど、あなたは今ここにいる」

「……」

「状況は変わらない。でも——契りがなくなれば、私の命は守られる。あなたが私を守るために消えなくていい」

朧は黙っていた。

「それで、一緒にいられるなら──私は、手放すことを選べる」

「俺が消えなくていい、と言いたいのか」

「そう言いたい」

朧は少しの間、柊を見た。

「都合がいいことを言う」

「わかってる」

「現実は、そう簡単ではない」

「わかってる。でも──都合がよくても、信じたいことを信じていい時があると思う」

朧は目を伏せた。

何かを考えているようだった。

「……泉のことを、覚えているか」

「覚えてる」柊はすぐに言った。「また行きたいって思ってる」

「一緒に?」

「一緒に」

朧は天井を見た。

しばらく、何も言わなかった。

柊も、何も言わなかった。

「……また行こう」

朧が、静かに言った。

「うん」

「全部が終わったら」

「うん」

「約束だ」

柊の目が、熱くなった。

泣かないようにしながら、柊は「約束」と答えた。

約束は、未来のことだ。

未来があると信じることは──今を生きることだ、と柊は思った。

翌朝。

四日目の朝。

宿の主人が朝餉を出した後、蒼真が三人に向かって言った。

「今日から動く」

「どこへ」柊が聞いた。

「白面が現れた集落に向かう。現場を見て、情報を集める。白面の動きを知らなければ、対処できない」

朧が立ち上がった。

「案内しろ」

「お前が案内する側だ」蒼真は言った。「白面の気配は、お前の方が感じ取れる」

「……そうだな」

朧は蒼真を見た。

「蒼真」

「なんだ」

「俺を信頼しているか」

蒼真は少しの間、朧を見た。

「信頼している、とは言い切れない」蒼真は静かに言った。「しかし──今は、お前と同じ方向を向いている。それで十分だ」

朧はその答えを、静かに受け取った。

「……十分だ」

柊は二人を見た。

不思議な二人だな、と思った。
認め合っているのに、素直に言えない。でも、確実に──何かが変わってきている。

「行こう」

柊は立ち上がった。

二人が、柊を見た。

「私も行く。当然だよね?」

蒼真が溜息をついた。

「当然と言う前に、装備を確認しろ」

「してある」

「御札は」

「十枚持ってる」

「少ない」

「じゃあ蒼真が持ってきて」

蒼真はまた溜息をついた。

朧が、柊と蒼真を交互に見た。

それから、ごく僅かに──口の端が、上がった。

気づいたのは、柊だけだった。

「朧、今笑ったよね」

「笑っていない」

「笑った」

「気のせいだ」

「絶対笑った」

「行くぞ」

朧が先に歩き始めた。

柊は蒼真に向かって「笑ったよね」と確認した。

蒼真は「知らん」と言って、朧の後に続いた。

柊は小走りで追いついた。

三人で、宿の戸を出た。

朝の光が、明るかった。

山の向こうに、白面がいる。

満月まで、四日。

でも今この瞬間、三人の足取りは──確かだった。

白面が現れた集落は、山の麓にある小さな農村だった。

近づくにつれて、空気が変わった。

重い。

柊は感じた。霊気というより──感情の重さだった。不信と、恐怖と、疲弊が、集落全体に漂っていた。

集落の入口に、老人が一人立っていた。

「退魔師か」

蒼真が頭を下げた。

「はい。状況を確認させてください」

老人は三人を見た。

朧のところで、視線が止まった。

柊は思わず緊張した。

だが老人は、目を細めただけだった。

「……銀色の目か。珍しい」

それだけ言って、中に案内し始めた。
柊は小さく息を吐いた。

集落の中を歩きながら、老人が話した。

三日前の夜、山からあやかしの群れが下りてきた。荒れていた。普段は大人しいあやかしたちが、まるで何かに駆り立てられるように暴れた。家の壁が壊された。畑が荒らされた。怪我人は出なかったが──人々の心に、深い傷が残った。

「今まで、山のあやかしとはうまくやってきた」老人は言った。「お互い、距離を保って。それで何十年も、問題はなかった」

「それが、急に変わった」

「急にだ。前触れもなく」老人は首を振った。「あやかしたちが悪いとは思わない。何かに操られていたように見えた。だが──村の者たちは、そう思えない者もいる」
老人の目が、重かった。

「今、村の若い者たちは、あやかしを全部追い払うべきだと言っている。長年一緒にいた山の精たちも、全部」

柊は胸が痛かった。

「白面が、それを狙っている」朧が静かに言った。

老人が朧を見た。

「あんたは、何者だ」

「俺も、あやかしだ」

老人はしばらく朧を見た。

「……そうか」

否定も、拒絶も、なかった。

老人はため息をついた。

「白面という名前を、最近聞くようになった。白い姿のあやかしが、あちこちに現れて──人とあやかしは共存できないと、吹いて回っているらしい」

「被害は、ここだけではないか」

「ここだけではない。この辺りで、三か所の集落で同じようなことが起きている」

蒼真が朧に目を向けた。

朧は集落の奥を見ていた。

その銀色の瞳が、何かを捉えていた。

「気配があるか」柊が聞いた。

「白面ではない。だが──白面の残り香だ。ここに最近いた」

「何をしに来たと思う?」

「見に来た」朧は言った。「自分が仕掛けたことの結果を、見に来た」

その言葉が、重かった。

白面は、この光景を──人とあやかしが離れていく光景を見て、満足しているのか。

柊は拳を握った。

「止められる?」

「止めなければならない」

朧の声は、静かだったが──揺れていなかった。

集落を出て、山の麓で三人は立ち止まった。

「白面は、次に何をする」蒼真が言った。

「規模を大きくする」朧は答えた。「小さな集落で試した。次は、もっと大きな場所で──もっと大きな衝突を起こす」

「どこだ」

「わからない。だが──満月の夜は、あやかしの力が最も大きくなる。操りやすくなる。白面が動くなら、満月の夜だ」

蒼真は目を閉じた。

「満月の夜は、契りの代償が最も大きくなる夜でもある」

「ああ」

「つまり、全てが重なる」

「ああ」

三人は沈黙した。

風が吹いた。

山の木々が、静かに揺れた。

「方法を考えなければならない」蒼真は言った。「白面を止める方法と、契りを解く方法を、同時に」

「時間が足りない」柊は言った。

「そうだ」

「でも──やるしかない」

蒼真は柊を見た。

「そうだ」

朧が、二人を見た。

「一つ言う」

「なんだ」

「俺は、消えることを答えにするつもりはない」

柊が、朧を見た。

朧は真っすぐに、前を向いていた。

「澄江の言葉と、お前の言葉が、俺の中で重なった。橋になれ、と言われた。手放しても、離れることとは違う、と言われた」

「……朧」

「俺が消えることは──橋を壊すことだ。それは、白面が望む結末だ」

朧は柊を見た。

「だから──俺は生きる方法を選ぶ。それを探す」

柊の目が、熱くなった。

今度は、堪えなかった。

一粒だけ、静かに落ちた。

朧は柊を見て、少し困った顔をした。

「なぜ泣く」

「嬉しいから」

「何が嬉しい」

「あなたが、生きることを選んでくれたから」

朧はしばらく柊を見た。

「……それは、当たり前のことではないか」

「当たり前じゃなかった。最初は逃げようとしてた」

「……そうだったな」

「今は違う」

「ああ」

朧は前を向いた。

山の向こうに、まだ見えない満月がある。

「行こう」

朧が歩き始めた。

蒼真が続いた。

柊は目元を拭って、二人の後を追った。

満月まで、四日。

三人の答えは、まだ途中だった。

でも──方向は、揃っていた。

同じ方向を向いて、三人は歩いていた。

それが今は、何よりも確かなことだった