月喰いと契りの巫女

隠れ里の朝は、静かだった。

鶏の声で目が覚めた。

柊は布団の中で天井を見ながら、しばらく動かなかった。

昨夜、朧が「一緒に考える」と言った。その言葉が、胸の中でまだ温かかった。

起き上がって、窓を開ける。

朝霧が、集落を白く包んでいた。どこかで子供の声がした。人間の声か、あやかしの声か、わからなかった。どちらでも、同じように聞こえた。

「目が覚めたか」

朧が、部屋の隅から言った。

「おはよう。眠れた?」

「眠らなくていいと言った」

「わかってる。おはようと言っただけ」

朧は少しの間、柊を見た。

「……おはよう」

返ってきた言葉が、柊の胸をくすぐった。

朝餉の後、蒼真が地図を広げた。

澄江の家の土間で、三人と澄江が地図を囲んだ。

「討伐隊は昨夜、峠の手前で野営した。今朝、また動き始めている」

蒼真は指で地図をなぞった。

「このまま進めば、昼過ぎには里の近くまで来る」

「ここを教えるつもりはないが」澄江が言った。「気配を辿られれば、遅かれ早かれわかる」

「白狐の術師は?」

「まだ動けないらしい。だが、他の者が補っている。時間稼ぎにしかならない」

柊は地図を見た。

里を囲む山。抜け道。川の位置。

「東に抜ける道は?」

「ある」蒼真は言った。「ただ、険しい。夜なら気配を消して動けるが──」

「俺が先導する」

朧が言った。

全員が朧を見た。

「山の気配なら、読める。安全な道を選べる」

「信頼できるか」澄江が聞いた。朧への問いではなかった。蒼真への問いだった。

蒼真は少しの間、黙っていた。

「……できる」

短く、しかしはっきりと言った。

朧は蒼真を見た。

蒼真は地図を見たままだった。

「今夜、動く」蒼真は続けた。「それまでに、体を休めておけ」

澄江が地図を片付けながら、朧に目を向けた。

「月喰い。少し時間をくれるか」

澄江に連れて行かれたのは、集落の外れにある小さな祠だった。

古い石造りで、苔が生えていた。供え物の器が置かれて、線香の煙が細く上がっていた。

「ここに何がある」

「記録だ」

澄江は祠の裏に回った。石の隙間から、小さな木箱を取り出した。

「この里には、古い記録が伝わっている。人とあやかしの歴史。封印の歴史。……月喰いの歴史も」

朧は木箱を見た。

「俺の記録か」

「お前自身の記録と、お前を封印した者たちの記録だ」

澄江は木箱を朧に差し出した。

「読むかどうかは、お前が決めていい。知りたくなければ、知らなくていい」

朧は木箱を見た。

長い間、見た。

「柊を呼んでいいか」

澄江は少し目を細めた。

「一人で読まないのか」

「一人で読む理由がない」

澄江は静かに頷いた。

「呼んでくれ」

三人で、祠の前に座った。

澄江は少し離れたところに立って、見守っていた。

朧が木箱を開けた。

中には、古い紙の束があった。墨で書かれた文字。かなりの年月を経たものらしく、紙の端が茶色く変色していた。

柊が手を伸ばした。

「読んでいい?」

「頼む」

柊は紙を取り出した。

文字を追い始めた。

最初の数枚は、月喰いの伝承だった。二百年以上前の記録。柊が父の書斎で読んだ内容と重なる部分もあったが、こちらの方が詳細だった。

月喰いが最初に現れたのは、山深い土地だったこと。

最初は静かだったこと。

力が溢れ始めたのは、ある満月の夜からだったこと。

「ある満月の夜から」柊は声に出して読んだ。「月喰いの力が急激に不安定になったのは、白面との接触以降のことである、と記録されている」

朧が、僅かに身を固くした。

「白面と、接触した?」

「ここに書いてある。白面が月喰いに何かを吹き込んだ、と」

「何を」

柊は続きを読んだ。

「『人と妖は共存できない。お前の存在は、この世界にとって害悪だ。お前がいる限り、世界は乱れる』──こういった言葉を繰り返し吹き込んだ、とある」

朧は静かに前を向いたまま、何も言わなかった。

「それで」柊は続けた。「月喰いは自分の存在そのものを否定するようになった。力の制御を失ったのは、意図的な暴走ではなく──自分がいることへの答えを見失ったからだ、と書いてある」

「……」

「朧」

「読み続けてくれ」

柊は次の紙を取った。

封印の記録だった。

柊家の先祖が書いたものだった。

「『月喰いを討伐することは、できなかった』」

柊の声が、少し変わった。

「できなかった?」

「『その力の大きさもあるが——月喰い自身の目に、悪意がなかったからだ。白面に歪められた存在が、力の制御を失って暴れている。それは月喰いの本質ではない。だから、討伐ではなく封印を選んだ』」

柊は一度、目を上げた。

朧を見た。

朧は前を向いたまま、静かに聞いていた。

「読み続けていいか」

「……ああ」

「『封印の術式は、記憶を奪うことで力の根源を見失わせるものである。これは苦肉の策だ。記憶を奪うことで、月喰いは白面の言葉も、自分を否定する感情も失う。それは残酷なことかもしれない。だが、このままでは月喰いは自滅する。白面の言葉を全て奪って、もう一度、何も知らないところから始めさせる。それが、我らにできる唯一のことだった』」

静寂が降りた。

遠くで風が吹いた。

供え物の線香が、細く揺れた。

「残酷なことかもしれない」柊は、その一文をもう一度読んだ。「あなたを封印した人が、そう書いてる」

朧は答えなかった。

柊は続きを読んだ。

最後の一枚。

「『封印が解けたとき、月喰いがどうなっているかわからない。白面の言葉が戻るかもしれない。自分を否定する感情が戻るかもしれない。だが──もし月喰いが、誰かに感情の名前を教えてもらえるなら。もし月喰いが、そばにいてもいいと思える誰かに出会えるなら。今度こそ、白面の言葉に負けないかもしれない』」

柊は紙を持つ手が、震えているのに気づいた。

「『それを願って、この記録を残す。月喰いよ、お前は悪くない。ただ、白面に言葉を吹き込まれた。それだけのことだ』」

最後まで読んだ。

紙を、膝の上に置いた。

朧は動かなかった。

長い沈黙の後──。

「そうか」

朧が言った。

低い、静かな声だった。

「俺は、白面に壊された」

「……うん」

「自分で壊れたのではなく」

「そう書いてある」

朧は空を見た。

祠の上に、青空が広がっていた。

「感情がなかったのではなく──感情を持つ前に、存在を否定された」

「朧」

「俺が最初に感じた感情は、もしかしたら──自分を嫌うことだったかもしれない。白面の言葉が、最初の感情になった」

柊の胸が、痛かった。

「でも今は」柊は言った。「今の朧の感情は、あなた自身のものだよ。白面が吹き込んだものじゃない」

朧は柊を見た。

「どうしてそう言える」

「だって」柊は朧を真っすぐに見た。「嬉しいって笑ったのは、あなた自身だった。私を守りたいって思ったのも、あなた自身だった。木切れの鳥を作ったのも──全部、あなたが自分で選んでやったことだから」

朧は柊の目を見ていた。

「……」

「白面が吹き込めるのは、否定する言葉だけだよ。笑い方は、吹き込めない」

朧は長い間、柊を見ていた。

それから、静かに目を閉じた。

何かが、朧の中で、静かに解けていくような気がした。

柊にはわからなかったが──感じた。

確かに感じた。

澄江が近づいてきた。

木箱を受け取って、祠に戻した。

「読んだか」

「ああ」朧は答えた。

「どうだ」

「……重い」

「そうだろう」澄江は祠の前に立った。「だが、知らないよりいい」

「白面が俺を封印から解いたとしたら──目的は何だ」

澄江は少し考えた。

「白面は、お前を使って人と妖の共存を壊そうとしているのかもしれない。月喰いが再び災厄を起こせば、人はあやかしを恐れる。あやかしは人を憎む。白面の言う通りの世界になる」

「白面自身が動けばいい話だ」

「白面は直接動けない。あれだけ古い妖になると、大きく動けば世界そのものが歪む。だから、代わりに動く者が必要だ」

朧は澄江を見た。

「俺を、最初から道具として解いた」

「かもしれない。ただ──」澄江は朧を見た。「お前が思い通りに動かなかったことは、白面の計算外だったろう」

「何が計算外だ」

「お前が、感情の名前を覚えてしまったこと」

澄江の目が、柊に向いた。

「この娘のおかげで」

柊は澄江と目が合って、少し俯いた。

「私は──何もたいしたことは」

「教えるということは、たいしたことだよ」澄江は静かに言った。「名前を知れば、感情は本物になる。白面はそれを望まなかった」

昼を過ぎた頃、蒼真が戻ってきた。

表情が、わずかに険しかった。

「討伐隊が、予想より早く動いている。夕刻には、この近くまで来るかもしれない」

「今夜の出立を早める必要があるか」

「できれば。日が暮れ次第、動きたい」

澄江が立ち上がった。

「支度をしよう。腹が減っては動けない」

老婆は迷いなく動き始めた。

柊は立ち上がって、手伝いに向かった。

その背中を、朧は見ていた。

忙しく動く柊の後ろ姿。明るくはなかったが、迷ってもいなかった。

蒼真が朧の隣に来た。

二人で、土間を動く柊を見た。

「封印の記録を読んだと、澄江さんから聞いた」

あ「ああ」

「どうだった」

「重かった」

蒼真は少しの間、黙っていた。

「俺の家にも、月喰いの記録がある。柊の一族のものとは別の、退魔師の記録だ」

「読んだか」

「昨夜、澄江さんに見せてもらった。こちらの記録と、照らし合わせて」

「何が書いてあった」

蒼真は腕を組んだ。

「お前の力は、制御できれば──この世界で最も強い守護になりうる、と」

朧は蒼真を見た。

「守護」

「ああ。討伐の対象としてではなく、守護として存在した月喰いの記録が、ほんの少しだけ残っていた。ずっと昔、白面が現れる前の話だ」

「……知らなかった」

「俺も知らなかった。今まで討伐記録しか読んでこなかったから」

蒼真は柊の方を見た。

柊は澄江と何か話しながら、飯の支度をしていた。笑い声が聞こえた。

「俺は」蒼真は静かに言った。「お前を斬ることを考えていた。柊を守るために、必要なら迷わず動くと思っていた」

「今も、そう思うか」

「……わからなくなってきた」

蒼真の声は、平坦だった。

感情を抑えているのではなく、本当に答えが出ていない声だった。

「お前が消えれば、契りが切れる。柊の命は守られる。それは変わらない」

「ああ」

「だが、契りを切る方法が他にあるなら──」

蒼真は言いかけて、止まった。

「調べている」

「何を」

「契りの解き方だ。どちらかが消えることなく、契りを解く方法が、どこかにあるかもしれない」

朧は蒼真を見た。

蒼真は視線を合わせなかった。

「柊のために調べているのか」

「柊のためだ。お前のためではない」

「わかっている」

「だが──」蒼真はわずかに間を置いた。

「結果的に、お前の話でもある」

二人の間に、静かな空気が流れた。

「……ありがとう」と朧は言った。

蒼真は朧を見た。

「礼を言われるようなことは、まだしていない」

「それでも」

蒼真は少しの間、朧を見た。

それから、小さく鼻を鳴らした。

「飯を食うぞ」

立ち上がって、土間に向かった。

朧はその背中を見た。

複雑な男だ、とまた思った。

でも──悪い感情はしなかった。

夕餉は、前の晩より賑やかだった。

集落の者たちが、また集まってきた。

狐耳の少女が、柊の隣に座って「退魔師なのに怖くない」と言った。柊が笑って「あなたも全然怖くない」と返した。

蛇を巻いた男が、朧に向かって「昨日より顔の色がいい」と言った。朧は「そうか」とだけ答えた。男は「飯を食え。力がつく」と朧の椀に飯をよそった。

澄江は何も言わずに、全員の茶を満たして回った。

柊はその光景を、少しぼんやりと見ていた。

昼間読んだ記録が、まだ胸の中にあった。

月喰いよ、お前は悪くない。ただ、白面に言葉を吹き込まれた。それだけのことだ。

先祖の言葉。

二百年前の、柊家の誰かが書いた言葉。

先祖は、朧を封印しながら──朧のことを、心配していた。

柊はそれが、不思議と温かかった。

「柊」

朧が隣から呼んだ。

「うん?」

「食べていない」

「あ──ごめん、考えてた」

「何を」

「先祖のこと」

朧は少しの間、柊を見た。

「お前の先祖は、正しいことをしたと思う」

「……え」

「俺を討伐しなかった。それは、正しかった」

柊の目が、熱くなった。

「朧」

「飯を食え。冷める」

「……うん」

柊は箸を持った。

隣で朧が、静かに飯を食っていた。

その横顔が、最初に出会ったときより、ずっと柔らかかった。

日が暮れた。

出立の前に、澄江が朧を呼んだ。

二人で、入口の前に立った。

「月喰い。一つだけ教えてやる」

「何を」

「契りの解き方だ」

朧の目が、わずかに動いた。

「知っているのか」

「伝承で聞いたことがある。確かなことは言えないが」

澄江は空を見た。

三日月が出ていた。

「命を繋ぐ契りは、命の同意で解ける、という話がある」

「命の同意」

「双方が、対等な立場で──手放すことを、同時に選ぶ。どちらかが消えるのではなく、どちらも生きたまま、繋がりだけを解く。そういう解き方が、あるかもしれない」

朧は澄江を見た。

「かもしれない、か」

「かもしれない。古い話だから、確かめようがない」

「……」

「ただ」澄江は朧を見た。「同意するためには、双方が迷っていてはいけない。どちらも、手放すことを心から選ばなければ、解けない」

「心から、手放す」

「そうだ」

朧はしばらく、夜空を見ていた。

三日月が、静かに輝いていた。

「それが、答えになるかもしれない」

澄江は頷いた。

「お前が決めることだ。急ぐことはない」

「いや」朧は言った。「満月まで、九日──いや、八日だ」

「そうだな」

「急ぐ必要がある」

澄江は静かに笑った。

「そうだな」

出立の時、澄江が三人を見送った。

柊が頭を下げた。

「ありがとうございました」

「礼はいい。また来い」

「また来ます」

澄江は朧を見た。

「月喰い」

「ああ」

「橋が壊れたら、また架けろ。何度でも」

朧は短く頷いた。

「……わかった」

澄江はそれで満足したように、杖をついて家に戻った。

三人は夜の山へ踏み出した。

朧が先頭に立って、気配を読みながら道を選んだ。蒼真が後ろに続いた。柊はその間を歩いた。

夜風が吹いた。

木の葉が揺れた。

「朧」

「ん」

「さっき澄江さんと話してたね。何の話?」

「契りの解き方だ」

柊の足が、一瞬止まった。

すぐに歩き始めながら、「どんな?」と聞いた。

「双方が対等な立場で、同時に手放すことを選べば──どちらも生きたまま解けるかもしれない」

「かもしれない、か」

「ああ」

「試す価値は、ある?」

「ある」

柊は朧の背中を見ながら歩いた。

「じゃあ、考えよう。一緒に」

「ああ」

「満月まで、八日あるね」

「ある」

「十分かな」

「わからない」朧は静かに言った。「だが──お前と一緒に考えるなら、悪くない時間だ」

柊は笑った。

暗い山道の中で、小さく笑った。

朧は振り返らなかったが──歩くペースが、少しだけ柊に合わせて緩んだ。

夜空に、三日月が光っていた。

満月まで、八日。

二人の答えは、まだ途中だった。

でも──途中でも、一緒に歩いていた。
それが今は、何より大切なことだった。