隠れ里の朝は、静かだった。
鶏の声で目が覚めた。
柊は布団の中で天井を見ながら、しばらく動かなかった。
昨夜、朧が「一緒に考える」と言った。その言葉が、胸の中でまだ温かかった。
起き上がって、窓を開ける。
朝霧が、集落を白く包んでいた。どこかで子供の声がした。人間の声か、あやかしの声か、わからなかった。どちらでも、同じように聞こえた。
「目が覚めたか」
朧が、部屋の隅から言った。
「おはよう。眠れた?」
「眠らなくていいと言った」
「わかってる。おはようと言っただけ」
朧は少しの間、柊を見た。
「……おはよう」
返ってきた言葉が、柊の胸をくすぐった。
朝餉の後、蒼真が地図を広げた。
澄江の家の土間で、三人と澄江が地図を囲んだ。
「討伐隊は昨夜、峠の手前で野営した。今朝、また動き始めている」
蒼真は指で地図をなぞった。
「このまま進めば、昼過ぎには里の近くまで来る」
「ここを教えるつもりはないが」澄江が言った。「気配を辿られれば、遅かれ早かれわかる」
「白狐の術師は?」
「まだ動けないらしい。だが、他の者が補っている。時間稼ぎにしかならない」
柊は地図を見た。
里を囲む山。抜け道。川の位置。
「東に抜ける道は?」
「ある」蒼真は言った。「ただ、険しい。夜なら気配を消して動けるが──」
「俺が先導する」
朧が言った。
全員が朧を見た。
「山の気配なら、読める。安全な道を選べる」
「信頼できるか」澄江が聞いた。朧への問いではなかった。蒼真への問いだった。
蒼真は少しの間、黙っていた。
「……できる」
短く、しかしはっきりと言った。
朧は蒼真を見た。
蒼真は地図を見たままだった。
「今夜、動く」蒼真は続けた。「それまでに、体を休めておけ」
澄江が地図を片付けながら、朧に目を向けた。
「月喰い。少し時間をくれるか」
澄江に連れて行かれたのは、集落の外れにある小さな祠だった。
古い石造りで、苔が生えていた。供え物の器が置かれて、線香の煙が細く上がっていた。
「ここに何がある」
「記録だ」
澄江は祠の裏に回った。石の隙間から、小さな木箱を取り出した。
「この里には、古い記録が伝わっている。人とあやかしの歴史。封印の歴史。……月喰いの歴史も」
朧は木箱を見た。
「俺の記録か」
「お前自身の記録と、お前を封印した者たちの記録だ」
澄江は木箱を朧に差し出した。
「読むかどうかは、お前が決めていい。知りたくなければ、知らなくていい」
朧は木箱を見た。
長い間、見た。
「柊を呼んでいいか」
澄江は少し目を細めた。
「一人で読まないのか」
「一人で読む理由がない」
澄江は静かに頷いた。
「呼んでくれ」
三人で、祠の前に座った。
澄江は少し離れたところに立って、見守っていた。
朧が木箱を開けた。
中には、古い紙の束があった。墨で書かれた文字。かなりの年月を経たものらしく、紙の端が茶色く変色していた。
柊が手を伸ばした。
「読んでいい?」
「頼む」
柊は紙を取り出した。
文字を追い始めた。
最初の数枚は、月喰いの伝承だった。二百年以上前の記録。柊が父の書斎で読んだ内容と重なる部分もあったが、こちらの方が詳細だった。
月喰いが最初に現れたのは、山深い土地だったこと。
最初は静かだったこと。
力が溢れ始めたのは、ある満月の夜からだったこと。
「ある満月の夜から」柊は声に出して読んだ。「月喰いの力が急激に不安定になったのは、白面との接触以降のことである、と記録されている」
朧が、僅かに身を固くした。
「白面と、接触した?」
「ここに書いてある。白面が月喰いに何かを吹き込んだ、と」
「何を」
柊は続きを読んだ。
「『人と妖は共存できない。お前の存在は、この世界にとって害悪だ。お前がいる限り、世界は乱れる』──こういった言葉を繰り返し吹き込んだ、とある」
朧は静かに前を向いたまま、何も言わなかった。
「それで」柊は続けた。「月喰いは自分の存在そのものを否定するようになった。力の制御を失ったのは、意図的な暴走ではなく──自分がいることへの答えを見失ったからだ、と書いてある」
「……」
「朧」
「読み続けてくれ」
柊は次の紙を取った。
封印の記録だった。
柊家の先祖が書いたものだった。
「『月喰いを討伐することは、できなかった』」
柊の声が、少し変わった。
「できなかった?」
「『その力の大きさもあるが——月喰い自身の目に、悪意がなかったからだ。白面に歪められた存在が、力の制御を失って暴れている。それは月喰いの本質ではない。だから、討伐ではなく封印を選んだ』」
柊は一度、目を上げた。
朧を見た。
朧は前を向いたまま、静かに聞いていた。
「読み続けていいか」
「……ああ」
「『封印の術式は、記憶を奪うことで力の根源を見失わせるものである。これは苦肉の策だ。記憶を奪うことで、月喰いは白面の言葉も、自分を否定する感情も失う。それは残酷なことかもしれない。だが、このままでは月喰いは自滅する。白面の言葉を全て奪って、もう一度、何も知らないところから始めさせる。それが、我らにできる唯一のことだった』」
静寂が降りた。
遠くで風が吹いた。
供え物の線香が、細く揺れた。
「残酷なことかもしれない」柊は、その一文をもう一度読んだ。「あなたを封印した人が、そう書いてる」
朧は答えなかった。
柊は続きを読んだ。
最後の一枚。
「『封印が解けたとき、月喰いがどうなっているかわからない。白面の言葉が戻るかもしれない。自分を否定する感情が戻るかもしれない。だが──もし月喰いが、誰かに感情の名前を教えてもらえるなら。もし月喰いが、そばにいてもいいと思える誰かに出会えるなら。今度こそ、白面の言葉に負けないかもしれない』」
柊は紙を持つ手が、震えているのに気づいた。
「『それを願って、この記録を残す。月喰いよ、お前は悪くない。ただ、白面に言葉を吹き込まれた。それだけのことだ』」
最後まで読んだ。
紙を、膝の上に置いた。
朧は動かなかった。
長い沈黙の後──。
「そうか」
朧が言った。
低い、静かな声だった。
「俺は、白面に壊された」
「……うん」
「自分で壊れたのではなく」
「そう書いてある」
朧は空を見た。
祠の上に、青空が広がっていた。
「感情がなかったのではなく──感情を持つ前に、存在を否定された」
「朧」
「俺が最初に感じた感情は、もしかしたら──自分を嫌うことだったかもしれない。白面の言葉が、最初の感情になった」
柊の胸が、痛かった。
「でも今は」柊は言った。「今の朧の感情は、あなた自身のものだよ。白面が吹き込んだものじゃない」
朧は柊を見た。
「どうしてそう言える」
「だって」柊は朧を真っすぐに見た。「嬉しいって笑ったのは、あなた自身だった。私を守りたいって思ったのも、あなた自身だった。木切れの鳥を作ったのも──全部、あなたが自分で選んでやったことだから」
朧は柊の目を見ていた。
「……」
「白面が吹き込めるのは、否定する言葉だけだよ。笑い方は、吹き込めない」
朧は長い間、柊を見ていた。
それから、静かに目を閉じた。
何かが、朧の中で、静かに解けていくような気がした。
柊にはわからなかったが──感じた。
確かに感じた。
澄江が近づいてきた。
木箱を受け取って、祠に戻した。
「読んだか」
「ああ」朧は答えた。
「どうだ」
「……重い」
「そうだろう」澄江は祠の前に立った。「だが、知らないよりいい」
「白面が俺を封印から解いたとしたら──目的は何だ」
澄江は少し考えた。
「白面は、お前を使って人と妖の共存を壊そうとしているのかもしれない。月喰いが再び災厄を起こせば、人はあやかしを恐れる。あやかしは人を憎む。白面の言う通りの世界になる」
「白面自身が動けばいい話だ」
「白面は直接動けない。あれだけ古い妖になると、大きく動けば世界そのものが歪む。だから、代わりに動く者が必要だ」
朧は澄江を見た。
「俺を、最初から道具として解いた」
「かもしれない。ただ──」澄江は朧を見た。「お前が思い通りに動かなかったことは、白面の計算外だったろう」
「何が計算外だ」
「お前が、感情の名前を覚えてしまったこと」
澄江の目が、柊に向いた。
「この娘のおかげで」
柊は澄江と目が合って、少し俯いた。
「私は──何もたいしたことは」
「教えるということは、たいしたことだよ」澄江は静かに言った。「名前を知れば、感情は本物になる。白面はそれを望まなかった」
昼を過ぎた頃、蒼真が戻ってきた。
表情が、わずかに険しかった。
「討伐隊が、予想より早く動いている。夕刻には、この近くまで来るかもしれない」
「今夜の出立を早める必要があるか」
「できれば。日が暮れ次第、動きたい」
澄江が立ち上がった。
「支度をしよう。腹が減っては動けない」
老婆は迷いなく動き始めた。
柊は立ち上がって、手伝いに向かった。
その背中を、朧は見ていた。
忙しく動く柊の後ろ姿。明るくはなかったが、迷ってもいなかった。
蒼真が朧の隣に来た。
二人で、土間を動く柊を見た。
「封印の記録を読んだと、澄江さんから聞いた」
あ「ああ」
「どうだった」
「重かった」
蒼真は少しの間、黙っていた。
「俺の家にも、月喰いの記録がある。柊の一族のものとは別の、退魔師の記録だ」
「読んだか」
「昨夜、澄江さんに見せてもらった。こちらの記録と、照らし合わせて」
「何が書いてあった」
蒼真は腕を組んだ。
「お前の力は、制御できれば──この世界で最も強い守護になりうる、と」
朧は蒼真を見た。
「守護」
「ああ。討伐の対象としてではなく、守護として存在した月喰いの記録が、ほんの少しだけ残っていた。ずっと昔、白面が現れる前の話だ」
「……知らなかった」
「俺も知らなかった。今まで討伐記録しか読んでこなかったから」
蒼真は柊の方を見た。
柊は澄江と何か話しながら、飯の支度をしていた。笑い声が聞こえた。
「俺は」蒼真は静かに言った。「お前を斬ることを考えていた。柊を守るために、必要なら迷わず動くと思っていた」
「今も、そう思うか」
「……わからなくなってきた」
蒼真の声は、平坦だった。
感情を抑えているのではなく、本当に答えが出ていない声だった。
「お前が消えれば、契りが切れる。柊の命は守られる。それは変わらない」
「ああ」
「だが、契りを切る方法が他にあるなら──」
蒼真は言いかけて、止まった。
「調べている」
「何を」
「契りの解き方だ。どちらかが消えることなく、契りを解く方法が、どこかにあるかもしれない」
朧は蒼真を見た。
蒼真は視線を合わせなかった。
「柊のために調べているのか」
「柊のためだ。お前のためではない」
「わかっている」
「だが──」蒼真はわずかに間を置いた。
「結果的に、お前の話でもある」
二人の間に、静かな空気が流れた。
「……ありがとう」と朧は言った。
蒼真は朧を見た。
「礼を言われるようなことは、まだしていない」
「それでも」
蒼真は少しの間、朧を見た。
それから、小さく鼻を鳴らした。
「飯を食うぞ」
立ち上がって、土間に向かった。
朧はその背中を見た。
複雑な男だ、とまた思った。
でも──悪い感情はしなかった。
夕餉は、前の晩より賑やかだった。
集落の者たちが、また集まってきた。
狐耳の少女が、柊の隣に座って「退魔師なのに怖くない」と言った。柊が笑って「あなたも全然怖くない」と返した。
蛇を巻いた男が、朧に向かって「昨日より顔の色がいい」と言った。朧は「そうか」とだけ答えた。男は「飯を食え。力がつく」と朧の椀に飯をよそった。
澄江は何も言わずに、全員の茶を満たして回った。
柊はその光景を、少しぼんやりと見ていた。
昼間読んだ記録が、まだ胸の中にあった。
月喰いよ、お前は悪くない。ただ、白面に言葉を吹き込まれた。それだけのことだ。
先祖の言葉。
二百年前の、柊家の誰かが書いた言葉。
先祖は、朧を封印しながら──朧のことを、心配していた。
柊はそれが、不思議と温かかった。
「柊」
朧が隣から呼んだ。
「うん?」
「食べていない」
「あ──ごめん、考えてた」
「何を」
「先祖のこと」
朧は少しの間、柊を見た。
「お前の先祖は、正しいことをしたと思う」
「……え」
「俺を討伐しなかった。それは、正しかった」
柊の目が、熱くなった。
「朧」
「飯を食え。冷める」
「……うん」
柊は箸を持った。
隣で朧が、静かに飯を食っていた。
その横顔が、最初に出会ったときより、ずっと柔らかかった。
日が暮れた。
出立の前に、澄江が朧を呼んだ。
二人で、入口の前に立った。
「月喰い。一つだけ教えてやる」
「何を」
「契りの解き方だ」
朧の目が、わずかに動いた。
「知っているのか」
「伝承で聞いたことがある。確かなことは言えないが」
澄江は空を見た。
三日月が出ていた。
「命を繋ぐ契りは、命の同意で解ける、という話がある」
「命の同意」
「双方が、対等な立場で──手放すことを、同時に選ぶ。どちらかが消えるのではなく、どちらも生きたまま、繋がりだけを解く。そういう解き方が、あるかもしれない」
朧は澄江を見た。
「かもしれない、か」
「かもしれない。古い話だから、確かめようがない」
「……」
「ただ」澄江は朧を見た。「同意するためには、双方が迷っていてはいけない。どちらも、手放すことを心から選ばなければ、解けない」
「心から、手放す」
「そうだ」
朧はしばらく、夜空を見ていた。
三日月が、静かに輝いていた。
「それが、答えになるかもしれない」
澄江は頷いた。
「お前が決めることだ。急ぐことはない」
「いや」朧は言った。「満月まで、九日──いや、八日だ」
「そうだな」
「急ぐ必要がある」
澄江は静かに笑った。
「そうだな」
出立の時、澄江が三人を見送った。
柊が頭を下げた。
「ありがとうございました」
「礼はいい。また来い」
「また来ます」
澄江は朧を見た。
「月喰い」
「ああ」
「橋が壊れたら、また架けろ。何度でも」
朧は短く頷いた。
「……わかった」
澄江はそれで満足したように、杖をついて家に戻った。
三人は夜の山へ踏み出した。
朧が先頭に立って、気配を読みながら道を選んだ。蒼真が後ろに続いた。柊はその間を歩いた。
夜風が吹いた。
木の葉が揺れた。
「朧」
「ん」
「さっき澄江さんと話してたね。何の話?」
「契りの解き方だ」
柊の足が、一瞬止まった。
すぐに歩き始めながら、「どんな?」と聞いた。
「双方が対等な立場で、同時に手放すことを選べば──どちらも生きたまま解けるかもしれない」
「かもしれない、か」
「ああ」
「試す価値は、ある?」
「ある」
柊は朧の背中を見ながら歩いた。
「じゃあ、考えよう。一緒に」
「ああ」
「満月まで、八日あるね」
「ある」
「十分かな」
「わからない」朧は静かに言った。「だが──お前と一緒に考えるなら、悪くない時間だ」
柊は笑った。
暗い山道の中で、小さく笑った。
朧は振り返らなかったが──歩くペースが、少しだけ柊に合わせて緩んだ。
夜空に、三日月が光っていた。
満月まで、八日。
二人の答えは、まだ途中だった。
でも──途中でも、一緒に歩いていた。
それが今は、何より大切なことだった。
鶏の声で目が覚めた。
柊は布団の中で天井を見ながら、しばらく動かなかった。
昨夜、朧が「一緒に考える」と言った。その言葉が、胸の中でまだ温かかった。
起き上がって、窓を開ける。
朝霧が、集落を白く包んでいた。どこかで子供の声がした。人間の声か、あやかしの声か、わからなかった。どちらでも、同じように聞こえた。
「目が覚めたか」
朧が、部屋の隅から言った。
「おはよう。眠れた?」
「眠らなくていいと言った」
「わかってる。おはようと言っただけ」
朧は少しの間、柊を見た。
「……おはよう」
返ってきた言葉が、柊の胸をくすぐった。
朝餉の後、蒼真が地図を広げた。
澄江の家の土間で、三人と澄江が地図を囲んだ。
「討伐隊は昨夜、峠の手前で野営した。今朝、また動き始めている」
蒼真は指で地図をなぞった。
「このまま進めば、昼過ぎには里の近くまで来る」
「ここを教えるつもりはないが」澄江が言った。「気配を辿られれば、遅かれ早かれわかる」
「白狐の術師は?」
「まだ動けないらしい。だが、他の者が補っている。時間稼ぎにしかならない」
柊は地図を見た。
里を囲む山。抜け道。川の位置。
「東に抜ける道は?」
「ある」蒼真は言った。「ただ、険しい。夜なら気配を消して動けるが──」
「俺が先導する」
朧が言った。
全員が朧を見た。
「山の気配なら、読める。安全な道を選べる」
「信頼できるか」澄江が聞いた。朧への問いではなかった。蒼真への問いだった。
蒼真は少しの間、黙っていた。
「……できる」
短く、しかしはっきりと言った。
朧は蒼真を見た。
蒼真は地図を見たままだった。
「今夜、動く」蒼真は続けた。「それまでに、体を休めておけ」
澄江が地図を片付けながら、朧に目を向けた。
「月喰い。少し時間をくれるか」
澄江に連れて行かれたのは、集落の外れにある小さな祠だった。
古い石造りで、苔が生えていた。供え物の器が置かれて、線香の煙が細く上がっていた。
「ここに何がある」
「記録だ」
澄江は祠の裏に回った。石の隙間から、小さな木箱を取り出した。
「この里には、古い記録が伝わっている。人とあやかしの歴史。封印の歴史。……月喰いの歴史も」
朧は木箱を見た。
「俺の記録か」
「お前自身の記録と、お前を封印した者たちの記録だ」
澄江は木箱を朧に差し出した。
「読むかどうかは、お前が決めていい。知りたくなければ、知らなくていい」
朧は木箱を見た。
長い間、見た。
「柊を呼んでいいか」
澄江は少し目を細めた。
「一人で読まないのか」
「一人で読む理由がない」
澄江は静かに頷いた。
「呼んでくれ」
三人で、祠の前に座った。
澄江は少し離れたところに立って、見守っていた。
朧が木箱を開けた。
中には、古い紙の束があった。墨で書かれた文字。かなりの年月を経たものらしく、紙の端が茶色く変色していた。
柊が手を伸ばした。
「読んでいい?」
「頼む」
柊は紙を取り出した。
文字を追い始めた。
最初の数枚は、月喰いの伝承だった。二百年以上前の記録。柊が父の書斎で読んだ内容と重なる部分もあったが、こちらの方が詳細だった。
月喰いが最初に現れたのは、山深い土地だったこと。
最初は静かだったこと。
力が溢れ始めたのは、ある満月の夜からだったこと。
「ある満月の夜から」柊は声に出して読んだ。「月喰いの力が急激に不安定になったのは、白面との接触以降のことである、と記録されている」
朧が、僅かに身を固くした。
「白面と、接触した?」
「ここに書いてある。白面が月喰いに何かを吹き込んだ、と」
「何を」
柊は続きを読んだ。
「『人と妖は共存できない。お前の存在は、この世界にとって害悪だ。お前がいる限り、世界は乱れる』──こういった言葉を繰り返し吹き込んだ、とある」
朧は静かに前を向いたまま、何も言わなかった。
「それで」柊は続けた。「月喰いは自分の存在そのものを否定するようになった。力の制御を失ったのは、意図的な暴走ではなく──自分がいることへの答えを見失ったからだ、と書いてある」
「……」
「朧」
「読み続けてくれ」
柊は次の紙を取った。
封印の記録だった。
柊家の先祖が書いたものだった。
「『月喰いを討伐することは、できなかった』」
柊の声が、少し変わった。
「できなかった?」
「『その力の大きさもあるが——月喰い自身の目に、悪意がなかったからだ。白面に歪められた存在が、力の制御を失って暴れている。それは月喰いの本質ではない。だから、討伐ではなく封印を選んだ』」
柊は一度、目を上げた。
朧を見た。
朧は前を向いたまま、静かに聞いていた。
「読み続けていいか」
「……ああ」
「『封印の術式は、記憶を奪うことで力の根源を見失わせるものである。これは苦肉の策だ。記憶を奪うことで、月喰いは白面の言葉も、自分を否定する感情も失う。それは残酷なことかもしれない。だが、このままでは月喰いは自滅する。白面の言葉を全て奪って、もう一度、何も知らないところから始めさせる。それが、我らにできる唯一のことだった』」
静寂が降りた。
遠くで風が吹いた。
供え物の線香が、細く揺れた。
「残酷なことかもしれない」柊は、その一文をもう一度読んだ。「あなたを封印した人が、そう書いてる」
朧は答えなかった。
柊は続きを読んだ。
最後の一枚。
「『封印が解けたとき、月喰いがどうなっているかわからない。白面の言葉が戻るかもしれない。自分を否定する感情が戻るかもしれない。だが──もし月喰いが、誰かに感情の名前を教えてもらえるなら。もし月喰いが、そばにいてもいいと思える誰かに出会えるなら。今度こそ、白面の言葉に負けないかもしれない』」
柊は紙を持つ手が、震えているのに気づいた。
「『それを願って、この記録を残す。月喰いよ、お前は悪くない。ただ、白面に言葉を吹き込まれた。それだけのことだ』」
最後まで読んだ。
紙を、膝の上に置いた。
朧は動かなかった。
長い沈黙の後──。
「そうか」
朧が言った。
低い、静かな声だった。
「俺は、白面に壊された」
「……うん」
「自分で壊れたのではなく」
「そう書いてある」
朧は空を見た。
祠の上に、青空が広がっていた。
「感情がなかったのではなく──感情を持つ前に、存在を否定された」
「朧」
「俺が最初に感じた感情は、もしかしたら──自分を嫌うことだったかもしれない。白面の言葉が、最初の感情になった」
柊の胸が、痛かった。
「でも今は」柊は言った。「今の朧の感情は、あなた自身のものだよ。白面が吹き込んだものじゃない」
朧は柊を見た。
「どうしてそう言える」
「だって」柊は朧を真っすぐに見た。「嬉しいって笑ったのは、あなた自身だった。私を守りたいって思ったのも、あなた自身だった。木切れの鳥を作ったのも──全部、あなたが自分で選んでやったことだから」
朧は柊の目を見ていた。
「……」
「白面が吹き込めるのは、否定する言葉だけだよ。笑い方は、吹き込めない」
朧は長い間、柊を見ていた。
それから、静かに目を閉じた。
何かが、朧の中で、静かに解けていくような気がした。
柊にはわからなかったが──感じた。
確かに感じた。
澄江が近づいてきた。
木箱を受け取って、祠に戻した。
「読んだか」
「ああ」朧は答えた。
「どうだ」
「……重い」
「そうだろう」澄江は祠の前に立った。「だが、知らないよりいい」
「白面が俺を封印から解いたとしたら──目的は何だ」
澄江は少し考えた。
「白面は、お前を使って人と妖の共存を壊そうとしているのかもしれない。月喰いが再び災厄を起こせば、人はあやかしを恐れる。あやかしは人を憎む。白面の言う通りの世界になる」
「白面自身が動けばいい話だ」
「白面は直接動けない。あれだけ古い妖になると、大きく動けば世界そのものが歪む。だから、代わりに動く者が必要だ」
朧は澄江を見た。
「俺を、最初から道具として解いた」
「かもしれない。ただ──」澄江は朧を見た。「お前が思い通りに動かなかったことは、白面の計算外だったろう」
「何が計算外だ」
「お前が、感情の名前を覚えてしまったこと」
澄江の目が、柊に向いた。
「この娘のおかげで」
柊は澄江と目が合って、少し俯いた。
「私は──何もたいしたことは」
「教えるということは、たいしたことだよ」澄江は静かに言った。「名前を知れば、感情は本物になる。白面はそれを望まなかった」
昼を過ぎた頃、蒼真が戻ってきた。
表情が、わずかに険しかった。
「討伐隊が、予想より早く動いている。夕刻には、この近くまで来るかもしれない」
「今夜の出立を早める必要があるか」
「できれば。日が暮れ次第、動きたい」
澄江が立ち上がった。
「支度をしよう。腹が減っては動けない」
老婆は迷いなく動き始めた。
柊は立ち上がって、手伝いに向かった。
その背中を、朧は見ていた。
忙しく動く柊の後ろ姿。明るくはなかったが、迷ってもいなかった。
蒼真が朧の隣に来た。
二人で、土間を動く柊を見た。
「封印の記録を読んだと、澄江さんから聞いた」
あ「ああ」
「どうだった」
「重かった」
蒼真は少しの間、黙っていた。
「俺の家にも、月喰いの記録がある。柊の一族のものとは別の、退魔師の記録だ」
「読んだか」
「昨夜、澄江さんに見せてもらった。こちらの記録と、照らし合わせて」
「何が書いてあった」
蒼真は腕を組んだ。
「お前の力は、制御できれば──この世界で最も強い守護になりうる、と」
朧は蒼真を見た。
「守護」
「ああ。討伐の対象としてではなく、守護として存在した月喰いの記録が、ほんの少しだけ残っていた。ずっと昔、白面が現れる前の話だ」
「……知らなかった」
「俺も知らなかった。今まで討伐記録しか読んでこなかったから」
蒼真は柊の方を見た。
柊は澄江と何か話しながら、飯の支度をしていた。笑い声が聞こえた。
「俺は」蒼真は静かに言った。「お前を斬ることを考えていた。柊を守るために、必要なら迷わず動くと思っていた」
「今も、そう思うか」
「……わからなくなってきた」
蒼真の声は、平坦だった。
感情を抑えているのではなく、本当に答えが出ていない声だった。
「お前が消えれば、契りが切れる。柊の命は守られる。それは変わらない」
「ああ」
「だが、契りを切る方法が他にあるなら──」
蒼真は言いかけて、止まった。
「調べている」
「何を」
「契りの解き方だ。どちらかが消えることなく、契りを解く方法が、どこかにあるかもしれない」
朧は蒼真を見た。
蒼真は視線を合わせなかった。
「柊のために調べているのか」
「柊のためだ。お前のためではない」
「わかっている」
「だが──」蒼真はわずかに間を置いた。
「結果的に、お前の話でもある」
二人の間に、静かな空気が流れた。
「……ありがとう」と朧は言った。
蒼真は朧を見た。
「礼を言われるようなことは、まだしていない」
「それでも」
蒼真は少しの間、朧を見た。
それから、小さく鼻を鳴らした。
「飯を食うぞ」
立ち上がって、土間に向かった。
朧はその背中を見た。
複雑な男だ、とまた思った。
でも──悪い感情はしなかった。
夕餉は、前の晩より賑やかだった。
集落の者たちが、また集まってきた。
狐耳の少女が、柊の隣に座って「退魔師なのに怖くない」と言った。柊が笑って「あなたも全然怖くない」と返した。
蛇を巻いた男が、朧に向かって「昨日より顔の色がいい」と言った。朧は「そうか」とだけ答えた。男は「飯を食え。力がつく」と朧の椀に飯をよそった。
澄江は何も言わずに、全員の茶を満たして回った。
柊はその光景を、少しぼんやりと見ていた。
昼間読んだ記録が、まだ胸の中にあった。
月喰いよ、お前は悪くない。ただ、白面に言葉を吹き込まれた。それだけのことだ。
先祖の言葉。
二百年前の、柊家の誰かが書いた言葉。
先祖は、朧を封印しながら──朧のことを、心配していた。
柊はそれが、不思議と温かかった。
「柊」
朧が隣から呼んだ。
「うん?」
「食べていない」
「あ──ごめん、考えてた」
「何を」
「先祖のこと」
朧は少しの間、柊を見た。
「お前の先祖は、正しいことをしたと思う」
「……え」
「俺を討伐しなかった。それは、正しかった」
柊の目が、熱くなった。
「朧」
「飯を食え。冷める」
「……うん」
柊は箸を持った。
隣で朧が、静かに飯を食っていた。
その横顔が、最初に出会ったときより、ずっと柔らかかった。
日が暮れた。
出立の前に、澄江が朧を呼んだ。
二人で、入口の前に立った。
「月喰い。一つだけ教えてやる」
「何を」
「契りの解き方だ」
朧の目が、わずかに動いた。
「知っているのか」
「伝承で聞いたことがある。確かなことは言えないが」
澄江は空を見た。
三日月が出ていた。
「命を繋ぐ契りは、命の同意で解ける、という話がある」
「命の同意」
「双方が、対等な立場で──手放すことを、同時に選ぶ。どちらかが消えるのではなく、どちらも生きたまま、繋がりだけを解く。そういう解き方が、あるかもしれない」
朧は澄江を見た。
「かもしれない、か」
「かもしれない。古い話だから、確かめようがない」
「……」
「ただ」澄江は朧を見た。「同意するためには、双方が迷っていてはいけない。どちらも、手放すことを心から選ばなければ、解けない」
「心から、手放す」
「そうだ」
朧はしばらく、夜空を見ていた。
三日月が、静かに輝いていた。
「それが、答えになるかもしれない」
澄江は頷いた。
「お前が決めることだ。急ぐことはない」
「いや」朧は言った。「満月まで、九日──いや、八日だ」
「そうだな」
「急ぐ必要がある」
澄江は静かに笑った。
「そうだな」
出立の時、澄江が三人を見送った。
柊が頭を下げた。
「ありがとうございました」
「礼はいい。また来い」
「また来ます」
澄江は朧を見た。
「月喰い」
「ああ」
「橋が壊れたら、また架けろ。何度でも」
朧は短く頷いた。
「……わかった」
澄江はそれで満足したように、杖をついて家に戻った。
三人は夜の山へ踏み出した。
朧が先頭に立って、気配を読みながら道を選んだ。蒼真が後ろに続いた。柊はその間を歩いた。
夜風が吹いた。
木の葉が揺れた。
「朧」
「ん」
「さっき澄江さんと話してたね。何の話?」
「契りの解き方だ」
柊の足が、一瞬止まった。
すぐに歩き始めながら、「どんな?」と聞いた。
「双方が対等な立場で、同時に手放すことを選べば──どちらも生きたまま解けるかもしれない」
「かもしれない、か」
「ああ」
「試す価値は、ある?」
「ある」
柊は朧の背中を見ながら歩いた。
「じゃあ、考えよう。一緒に」
「ああ」
「満月まで、八日あるね」
「ある」
「十分かな」
「わからない」朧は静かに言った。「だが──お前と一緒に考えるなら、悪くない時間だ」
柊は笑った。
暗い山道の中で、小さく笑った。
朧は振り返らなかったが──歩くペースが、少しだけ柊に合わせて緩んだ。
夜空に、三日月が光っていた。
満月まで、八日。
二人の答えは、まだ途中だった。
でも──途中でも、一緒に歩いていた。
それが今は、何より大切なことだった。



