月喰いと契りの巫女

 柊の家は、山の麓にある。

 退魔師の家系らしく、敷地は広い。母屋の周囲には結界石が埋められ、軒下には魔除けの御札が連なっている。だが今夜、その玄関をくぐったのは、祓うべき対象と限りなく近い何かを連れた柊だった。

「……入ってください」

 引き戸を開けながら、自分の選択を反芻する。

 正気か、と問われれば、わからない。記憶を持たない正体不明の男を、退魔師の家に連れ込む。冷静に言葉にすれば、それはひどく無謀なことだった。

 でも命が繋がっているのだと、男は言った。

 打算か、情か、自分でも判然としないまま、柊は男を上がり框へ促した。

「お父さんもお母さんも、今夜は遠征で不在なので。見つかる心配はないです」

 男は無言だった。

 案内された縁側の間に腰を下ろし、ただそこにいた。手を膝の上に置き、背筋を伸ばし、まるで置物のように静止している。感情の読めない横顔が、行燈の灯りに照らされていた。

 柊は救急箱を持ってきた。退魔師の家のそれは、一般の薬のほかに、霊力回復に効く薬草の煎じ薬も入っている。男の消耗は尋常ではなかった。あれだけの力を使えば当然かもしれないが、顔色はいまだ白く、指先もわずかに震えていた。

「手を出してもらえますか」

 男は無言で右手を差し出した。

 掌を見て、柊は小さく息を飲んだ。傷があった。石畳についたときについたのだろうか、皮が剥けて血が滲んでいる。手当てをしながら、自分の手と比べる。大きな手だった。骨張っていて、でも細くしなやかで、どこか人間離れしていた。

「……痛みますか」

「感じない」

「感じない、って」

「痛みがわからない」

 淡々と答えた。感情を込める気がない、というより、感情という概念を知らないように聞こえた。

 柊は消毒液を含ませた布を傷に当てながら、男の横顔をそっと窺う。

「名前は覚えていますか」

「ない」

「どこから来たか、も?」

「ない」

「……何かひとつでも、覚えていることは」

 そこで男は初めて、少し間を置いた。

「月、が見えた」

 ぽつりと言った。

「目が覚めたとき、月だけがあった。あとは何もなかった」

 柊は包帯を巻く手を止めた。男の言葉には、嘘をついている気配がなかった。飾りもなく、誇張もなく、ただ事実だけを告げている。

「お前の家の結界、穴がある」

 唐突に話が変わった。

「え?」

「北東の隅。三箇所、石の配置がずれている。今夜のあやかしはそこから入り込んだはずだ」

 なぜそれを知っているのか、と聞こうとして、柊は止めた。聞いたところで、「わからない」と返ってくる気がした。それよりも、目の前の男が自分の家の弱点を把握していることの方が、不思議と不安ではなかった。

 不思議と、と柊は心の中で繰り返した。

 正体不明の存在を前に、なぜこんなにも落ち着いているのか。契りのせいだろうか。それとも、彼が今夜、確かに自分を救ったからだろうか。

「薬草茶を飲んでもらえますか。霊力の回復に効きます」

 湯飲みを差し出すと、男はそれを受け取り、一口飲んで、止まった。

「……苦い」

「ですね。でも効きます」

「お前は飲まないのか」

「私は霊力がほとんどないので、あまり意味がなくて」

 言ってしまってから、柊は苦く笑った。退魔師の家系に生まれながら、霊力が並以下。それが柊という人間の、どうしようもない事実だった。

 男は柊を見た。

「なぜ今夜、あの場所に一人でいた」

「任務です」

「一人で行くほどの実力があるのか」

「……ないです」

 正直に言えた。不思議なことに、この男の前では取り繕う気になれなかった。

「でも、行かなければならなかった。私は柊家の人間で、退魔師で。それ以外に、できることがないから」

 男はしばらく黙っていた。

 湯飲みを両手で包むようにして、また一口、苦い茶を飲んだ。

「お前は、強くなりたいのか」

「……なりたいです」

 答えてから、柊は気づいた。そんなふうに素直に口にしたのは、初めてかもしれなかった。強くなりたい、誰かの役に立ちたい。ずっと思っていたのに、言えなかった言葉。

「誰かを、守れるくらいに」

 行燈(あんどん)の灯りが、揺れた。

 男はそれ以上何も言わなかった。だが柊には、彼が答えを聞いたことがわかった。聞いて、どこかに仕舞ったことが。

 沈黙は、不思議と苦ではなかった。
    

 その夜、柊は客間に布団を敷いた。

 男にそこへ休むよう言い、自室に戻る。布団に入ったが、目が冴えていた。天井を見つめながら、今夜のことを整理しようとして、整理できなかった。

 契りが結ばれた、と男は言った。

 命を共有する、禁忌の契約。

 退魔師の書物で、読んだことがある。人とあやかしが魂を結ぶ古い術式で、どちらかが死ねばもう一方も消えるという。強制力を持つ誓約で、一度結ばれれば解く方法はない、と書いてあった。

 柊は自分の手を見た。包帯を巻いてもらった、ではない、自分で巻いた手。

 でも、なぜ結ばれたのだろう。触れただけで、何かを唱えたわけでも、意図したわけでもないのに。

 そして、あの男は何者なのか。

 あやかしを一瞬で祓った力。人間の霊力とは明らかに異なる、月光に似た青白い気配。記憶がなく、痛みを感じず、感情の気配が希薄。

 ひとつだけ確かなことがあった。

 今夜、柊は死ぬところだった。そして彼が救った。
 
 ──それだけで、十分だと思う。

 そう結論づけて、目を閉じたとき、廊下を歩く気配がした。

 静かな、しかし確かな足音。客間の方ではない。縁側の方へ向かっている。

 柊は起き上がり、足音を追った。

 縁側に、男が立っていた。

 雨戸を細く開けて、外を見ている。その先には、まだ沈まない満月があった。

「……眠れないんですか」

 声をかけると、男は振り返らなかった。

「眠り方がわからない」

「眠り方、が?」

「目を閉じると、何も見えない。それだけだ。意識が落ちるということが、どういうことかわからない」

 柊は隣に立った。二人で並んで、月を見た。

「眠れないのは私もです。今夜はいろいろありすぎて」

 男はそれには答えなかった。

「あなたに、名前を付けてもいいですか」

 口をついて出た言葉だった。

 男が初めて、柊の方を向いた。

「名前は持っていない、と言ったろう」

「だから付けたいんです。名前がないと、呼べないから」

 満月を見上げた。白く、朧げに滲む月。

(おぼろ)、はどうでしょう。月が霞んで見えるような、今夜みたいな夜の名前」

 男は少し、視線を上に向けた。月を見た。

「……朧」

 自分の名前を初めて口にするように、静かに繰り返した。

「好きにしろ」

 今夜二度目の、その言葉。

 でも柊には、今度のそれが最初とは少し違う響きに聞こえた。拒絶ではなく、受け入れる手前の、小さな間のように。

「朧さん。明日のことは、明日考えましょう」

 男、もとい朧は答えなかった。

 二人はしばらく、言葉もなく月を見ていた。

 満月は静かに傾きながら、人とあやかしの境で結ばれた奇妙な縁を、ただ黙って照らし続けていた。