月喰いと契りの巫女

峠を越えたのは、夕暮れ時だった。

稜線に出たとき、西の空が燃えていた。橙と茜と、その奥に沈んでいく太陽。山の向こうに広がる景色が、一瞬だけ金色に染まった。

柊は思わず足を止めた。

「きれい」

誰に言うでもなく、呟いた。

隣に朧が立った。同じ方向を見た。

「……ああ」

短い返事だったが、否定ではなかった。

蒼真は二人より少し先に立って、麓を見下ろしていた。

「あそこだ」

指差した先に、集落があった。

峠の北斜面、深い木々に囲まれた窪地に、十
数軒の家が肩を寄せ合うように建っていた。

煙が細く上がっている。夕餉(ゆうげ)の支度をしているのだろう。人の気配があった。

そして──人ではない気配も。

柊は目を細めた。

「あやかしが、いる」

「ああ」蒼真は言った。「ここは、両方いる」

朧が、静かに集落を見下ろした。

銀色の瞳が、細く、鋭くなった。

「警戒しているか」柊が聞く。

「……いや」朧は少し間を置いた。「懐かしい、と思った」

「懐かしい?」

「こういう場所が、かつてあったような気がする。人とあやかしが、同じ煙の下にいる場所が」

柊は朧の横顔を見た。

記憶が戻ってきているのだ、と思った。壊した景色だけでなく、失った景色も。

「行こう」

蒼真が先に歩き始めた。

集落の入口に、老婆が立っていた。

腰が曲がって、杖をついていたが、目だけが若かった。深い皺の奥に、鋭い光が宿っていた。

「蒼真か」

「お久しぶりです、澄江(すみえ)さん」

蒼真が頭を下げた。

老婆──澄江は、蒼真の後ろの二人に視線を移した。

柊を見た。朧を見た。

朧のところで、視線が止まった。

「……月喰いだね」

平坦な声だった。驚きも、恐怖も、混じっていなかった。

「はい」朧は静かに答えた。

「随分と、人間に近い顔をしている」

「そうらしい」

「中に入りな。飯を食わせてやる」

それだけ言って、澄江は杖をついて歩き始めた。

柊と蒼真は顔を見合わせた。朧は澄江の背中を見て、一拍置いてから後に続いた。

澄江の家は、集落の一番奥にあった。

広い土間に、囲炉裏。天井から干し柿と薬草が吊るされていた。古い家具が、長年使われた艶を持っていた。

囲炉裏の周りに座ると、澄江は何も聞かずに飯の支度を始めた。

その間、柊は家の中をそっと見回した。

棚の上に、小さな器が並んでいる。土人形が置かれている。人間の家と変わらないようで──一つだけ、違うものがあった。

天井近くの柱に、古い札が貼られていた。退魔の文字ではなく、何か別の文字で書かれていた。

「結界だよ」

澄江が、見透かしたように言った。

「人とあやかし、どちらも安全でいられるための。外から何かが来たとき、どちらも守る結界だ」

「どちらも、守るんですか」

「人だけ守っても、意味がない。あやかしだけ守っても、意味がない。一緒にいるなら、一緒に守らなきゃ」

澄江は鍋をかき混ぜながら、朧に目を向けた。

「月喰い。腹が減っているか」

「……わかる」

「何がわかる」

「腹が減るという感覚が、今はわかる」

澄江は少しの間、朧を見た。

それから小さく笑った。

「そうかい。それは結構なことだ」

夕餉は、静かだった。

澄江の家に、集落の者が何人か集まってきた。人間の老人が二人。それから──柊が
息を飲んだのは、障子を開けて入ってきた者の姿だった。

小さな狐の耳を持つ少女。肩に蛇を巻いた壮年の男。光る目を持つ、子供のような老人。

あやかしたちが、当たり前のように上がり込んで、囲炉裏の周りに座った。

柊は思わず朧を見た。

朧は、あやかしたちを静かに見ていた。

あやかしたちも、朧を見ていた。

どちらも、動かなかった。

「月喰いか」

蛇を巻いた男が、低い声で言った。

「ああ」

「本物か」

「そうらしい」

男は少しの間、朧を見た。

「強そうだ」

「そうらしい」

「俺より強いか」

「おそらく」

男は鼻で笑った。

「正直なやつだ。嫌いじゃない」

それで終わりだった。

男は茶碗を受け取って、黙々と飯を食い始めた。

柊はその様子を見て、胸の中で何かが緩むのを感じた。

すんなりと、当たり前のように。

そういう場所が、あるのだ。

夕餉が終わった後、澄江に案内されて柊と朧は奥の部屋に通された。

蒼真は土間で澄江と話し込んでいた。討伐隊の動向について話しているのだろう、と柊は思った。

部屋は小さかった。押し入れと、畳二枚分の
床の間。窓から、夜の山が見えた。

柊は窓の前に座った。

朧は部屋の隅に座った。

しばらく、沈黙が続いた。

「朧」

「ん」

「さっき、懐かしいって言ったね」

「ああ」

「どんな記憶?」

朧は膝の上に手を置いて、じっとそれを見た。

「煙の記憶だ。料理の煙か、焚き火の煙か──どちらかわからない。でも、人とあやかしが同じ場所にいた記憶がある。遠い、昔の」

「いつ頃の?」

「わからない。封印される前だということだけ、わかる」

柊は膝を抱えた。

「朧はそのとき、どうしていたの。あやかしたちと、人間と──どんなふうに」
朧は少し考えた。

「いた、だけだった気がする」

「いた、だけ?」

「今のように、感情の名前を知らなかった。誰かに何かを感じることも、なかった。ただ、存在していた」

「……寂しくなかった?」

「寂しいという感覚を、知らなかった」

柊はその言葉を、胸の中で転がした。

感情の名前を知らないまま、ただ存在していた朧。記憶を奪われて、また何も知らない状態で目覚めた朧。

「でも今は?」

「今は」朧は少し間を置いた。「寂しいという感覚が、わかる気がする」

「わかるようになったの?」

「お前がここにいないとき、何かが足りない感じがする。それが寂しいということなら──そうだ、わかる」

柊の胸が、温かくなった。

それと同時に、苦しくなった。

「朧、一つ聞いていい」

「なんだ」

「契りの代償のこと。私の命が削れるって──いつ気づいたの」

朧の手が、微かに動いた。

「五日目の夜」

「どうして気づいた」

「契りが繋がっているから、お前の状態が少しわかると言っただろう。五日目の夜、お前が眠れていないとき──命の感触が、少し薄くなっていた」

「少し、だけ?」

「今はまだ、少しだ」

今はまだ。

その言葉が、重かった。

「これから、もっと削れていく?」

「……俺がそばにいる限り、契りの代償は積み重なる。それが加速するのは──満月の夜だ」

「次の満月は」

「十日後だ」

柊は窓の外を見た。

夜空に月があった。まだ欠けていた。十日後には、あの月が満ちる。

「教えてくれてありがとう」

「今更だ」

「今更でも、ありがとう」

朧は答えなかった。

柊は朧を見た。

「朧、私は逃げない。それだけは言わせて」

「聞こえている」

「あなたが何を決めても、私は──」

「柊」

朧が、静かに遮った。

「今夜は、眠れ」

「でも」

「眠れていない夜が続いている。体が削れる前に、休め」

その言葉は命令のように聞こえたが、声の温度は違った。

心配している声だった。

柊は少しの間、朧を見た。

「朧は?」

「俺は眠らなくてもいい」

「それは──」

「あやかしだから」

「……ずるい」

「何がずるい」

「休まなくていいのが、ずるい」

朧は少し沈黙した。

「……隣にいる」

「え」

「眠る間、隣にいる。それでいいか」

柊は目を瞬かせた。

朧の目は、真剣だった。

「……いい」

柊は布団を引いた。横になった。

朧は壁を背にして、柊の隣に座った。

天井を見ながら、柊は静かに目を閉じた。

朧の気配が、すぐそこにあった。

暖かかった。

眠れないと思っていたのに、柊はすぐに深い
眠りに落ちた。

夜半、朧の記憶が動いた。

眠る柊の隣で、朧は目を閉じていた。

眠ってはいない。ただ、内側を見ていた。

記憶は断片だった。

燃える野原。泣き声。積み重なった何か。

白い光──自分が放った光が、すべてを焼いていく。

それは恐怖ではなかった。当時の自分には、

恐怖がなかった。ただ、力が溢れていた。止め方を知らなかった。止めようという意思もなかった。

それが災厄と呼ばれた。

だが──。

記憶の奥に、もう一つ、別の断片があった。

子供の声。

小さな手が、朧の手に触れていた。泣き止んで、笑っている。

あやかしの子だったか、人間の子だったか、わからない。ただ、その子は朧の手を引いて、「こっちに来て」と言っていた。

朧は、ついていった。

連れて行かれた先に、川があった。光が揺れていた。

子供が笑った。

「きれいだろう」

その記憶の中で、朧は何も感じなかった。
きれいという感覚を、知らなかったから。

でも今は──その川の光が、美しかったと思う。

朧は目を開けた。

柊が眠っていた。

静かな寝息。穏やかな顔。

朧はその顔を、しばらく見た。

「……名前を、教えてもらった」

誰にも聞こえない声で、言った。

「感情の名前を、全部。知らなかったものを、全部」

きれい。嬉しい。安心。好き。

その言葉たちが、今、記憶の中の川の光に重なった。

あの子供が見せてくれた川が、初めて美しく感じられた。

朧は窓の外を見た。

月が傾いていた。

夜が、深くなっていた。

十日後に満ちるその月が、二人にとって何を意味するのか──朧には、わかっていた。
でも、今夜だけは。

今夜だけは、その答えを遠ざけておこうと思った。

翌朝、蒼真が部屋に来た。

柊はすでに目を覚ましていた。朧は変わらず壁を背にして座っていた。

「討伐隊の動きがわかった」

蒼真は静かに言った。

「昨夜、澄江さんのあやかしの知り合いから知らせが来た。討伐隊は昨日、水車小屋まで来て、足跡を見つけた。今朝、峠の方へ向かっているらしい」

「ここまで来る?」

「時間の問題だ。ただ──」

蒼真は少し間を置いた。

「白狐の術師が、今朝から動けないらしい」

「なぜ」

「理由はわからない。ただ、気配を辿る手が止まっている」

朧が、静かに言った。

「白面だ」

二人が朧を見た。

「白面が、討伐隊を遅らせている。俺たちをここで足止めして、自分が先に動くつもりだ」

「何のために」

「俺を、使うために」

朧の声は平坦だった。

でも柊は、その平坦さの奥に何かが燃えているのを感じた。

「使わせない」柊は言った。

「ああ」朧は言った。

「白面の思い通りにはさせない」蒼真も言った。

三人の答えが、重なった。

澄江(すみえ)が茶を持って入ってきた。

三つの茶碗を、それぞれの前に置いた。

「難しい顔をするな。朝ぐらい、茶を飲め」

老婆の声は、穏やかだった。

柊は茶碗を受け取った。

温かかった。

湯気が、静かに立ち上った。

その日の昼過ぎ、朧の記憶が、また動いた。
澄江の家の縁側に一人で座っていたとき、突然、視界が白くなった。

痛みはなかった。ただ、内側に映像が流れ込んできた。

白面の声。

封印される直前の記憶。

月喰いよ。お前は捨てられる。人間に、同じ妖に、誰にも必要とされない。それがお前の本質だ。

その声に、当時の自分は何も感じなかった。

感情がなかったから。

だが今は──。

「朧」

柊の声がした。

縁側に、柊が来て座った。

「顔色が悪い。また、記憶?」

「ああ」

「どんな?」

「白面の声が、あった。封印の直前──お前には誰も必要としていないと言われた記憶だ」

柊は少しの間、黙っていた。

それから、静かに口を開いた。

「今は?」

「今は?」

「今も、そう思う?」

朧は柊を見た。

柊の目が、真剣だった。

「……今は」

朧は少し考えた。

「私が必要としている」

柊の目が、ゆっくりと細くなった。

泣きそうな顔だった。でも泣かなかった。

「そうだよ」

柊は言った。

「私が必要としてる。だから、白面の言葉は今は違う」

朧はその言葉を、静かに受け取った。

胸の中で、何かが温かくなった。

それが何という感情か、もう名前はわかっていた。

夕暮れに、澄江が朧を呼んだ。

縁側の端に二人で座って、澄江は煙管を取り出した。

火をつけて、一口吸った。

「月喰いよ」

「ん」

「お前は、人間の娘のために消えようとしているか」

「……」

「答えなくていい。顔に書いてある」

澄江は煙を吐き出した。

「二百年、封印されていたか」

「そうらしい」

「長かったろう」

「感覚がなかったから、わからない」

「そうか」澄江は煙管を見た。「わしはここで六十年、人とあやかしの間に立ってきた。うまくいかないことの方が多かった。それでも、続けてきた」

「なぜ」

「どちらかが正しくて、どちらかが間違っているわけじゃないから。一緒にいることを選ぶ者がいる限り、その選択を守りたかった」

朧は澄江の横顔を見た。

皺の深い、老いた顔。でも目が若かった。

「白面は、共存できないと言う」

「白面か」澄江は静かに言った。「知っている。あれは古くて、深く傷ついている妖だ」

「傷ついている?」

「かつて、共存しようとして──失った者がいる。だから、もう信じられなくなった。そういう存在だよ」

朧はその言葉を、静かに飲み込んだ。

「だからといって、正しいわけではないが」澄江は続けた。「間違ってもいない部分がある。人と妖の間には、確かに埋めようのない溝がある。それは本当のことだ」

「……」

「だが、溝があっても、橋を架けることはできる。橋が壊れても、また架けることはできる。それを繰り返す者がいる限り、世界は少しずつ変わる」

朧は庭を見た。

夕暮れの光の中で、狐耳の少女が人間の子供と遊んでいた。

笑い声が聞こえた。

「お前が橋になることはできないか」

澄江が言った。

「俺が」

「月喰いが、人間の娘と共にいる。それだけで、この世界の何かが変わるかもしれない。消えることが答えとは限らない」

朧はしばらく、庭を見ていた。

笑い声が続いていた。

「……考える」

「そうしな」

澄江は煙管をしまった。

立ち上がって、家の中へ戻りかけた。

「澄江」

「なんだい」

「橋は──壊れたとき、痛いか」

澄江は少しの間、朧を見た。

それから、また小さく笑った。

「痛いよ。でも、痛くない橋より、痛い橋の方が、丈夫だ」

それだけ言って、澄江は中に入った。

朧は一人、夕暮れの庭を見ていた。

笑い声はまだ、続いていた。

夜、柊に話した。

「澄江が、橋になれと言った」

「橋?」

「消えることが答えではないかもしれないと」

柊は朧を見た。

「そう思う?」

「……わからない」朧は言った。「だが、考えている」

「それでいい」

柊は窓の外を見た。

月が昨日より、少し丸くなっていた。

「朧」

「ん」

「一緒に考えよう」

朧は柊を見た。

「一人じゃない方が、いい答えが出ると思う」柊は続けた。「私も考えるから、一緒に」

朧はしばらく、柊の顔を見ていた。

それから、静かに頷いた。

「……ああ」

短い返事だった。

でも柊には、それで十分だった。

月が、夜空に静かに輝いていた。

満月まで、あと九日。

二人の答えは、まだ出ていなかった。