峠を越えたのは、夕暮れ時だった。
稜線に出たとき、西の空が燃えていた。橙と茜と、その奥に沈んでいく太陽。山の向こうに広がる景色が、一瞬だけ金色に染まった。
柊は思わず足を止めた。
「きれい」
誰に言うでもなく、呟いた。
隣に朧が立った。同じ方向を見た。
「……ああ」
短い返事だったが、否定ではなかった。
蒼真は二人より少し先に立って、麓を見下ろしていた。
「あそこだ」
指差した先に、集落があった。
峠の北斜面、深い木々に囲まれた窪地に、十
数軒の家が肩を寄せ合うように建っていた。
煙が細く上がっている。夕餉の支度をしているのだろう。人の気配があった。
そして──人ではない気配も。
柊は目を細めた。
「あやかしが、いる」
「ああ」蒼真は言った。「ここは、両方いる」
朧が、静かに集落を見下ろした。
銀色の瞳が、細く、鋭くなった。
「警戒しているか」柊が聞く。
「……いや」朧は少し間を置いた。「懐かしい、と思った」
「懐かしい?」
「こういう場所が、かつてあったような気がする。人とあやかしが、同じ煙の下にいる場所が」
柊は朧の横顔を見た。
記憶が戻ってきているのだ、と思った。壊した景色だけでなく、失った景色も。
「行こう」
蒼真が先に歩き始めた。
集落の入口に、老婆が立っていた。
腰が曲がって、杖をついていたが、目だけが若かった。深い皺の奥に、鋭い光が宿っていた。
「蒼真か」
「お久しぶりです、澄江さん」
蒼真が頭を下げた。
老婆──澄江は、蒼真の後ろの二人に視線を移した。
柊を見た。朧を見た。
朧のところで、視線が止まった。
「……月喰いだね」
平坦な声だった。驚きも、恐怖も、混じっていなかった。
「はい」朧は静かに答えた。
「随分と、人間に近い顔をしている」
「そうらしい」
「中に入りな。飯を食わせてやる」
それだけ言って、澄江は杖をついて歩き始めた。
柊と蒼真は顔を見合わせた。朧は澄江の背中を見て、一拍置いてから後に続いた。
澄江の家は、集落の一番奥にあった。
広い土間に、囲炉裏。天井から干し柿と薬草が吊るされていた。古い家具が、長年使われた艶を持っていた。
囲炉裏の周りに座ると、澄江は何も聞かずに飯の支度を始めた。
その間、柊は家の中をそっと見回した。
棚の上に、小さな器が並んでいる。土人形が置かれている。人間の家と変わらないようで──一つだけ、違うものがあった。
天井近くの柱に、古い札が貼られていた。退魔の文字ではなく、何か別の文字で書かれていた。
「結界だよ」
澄江が、見透かしたように言った。
「人とあやかし、どちらも安全でいられるための。外から何かが来たとき、どちらも守る結界だ」
「どちらも、守るんですか」
「人だけ守っても、意味がない。あやかしだけ守っても、意味がない。一緒にいるなら、一緒に守らなきゃ」
澄江は鍋をかき混ぜながら、朧に目を向けた。
「月喰い。腹が減っているか」
「……わかる」
「何がわかる」
「腹が減るという感覚が、今はわかる」
澄江は少しの間、朧を見た。
それから小さく笑った。
「そうかい。それは結構なことだ」
夕餉は、静かだった。
澄江の家に、集落の者が何人か集まってきた。人間の老人が二人。それから──柊が
息を飲んだのは、障子を開けて入ってきた者の姿だった。
小さな狐の耳を持つ少女。肩に蛇を巻いた壮年の男。光る目を持つ、子供のような老人。
あやかしたちが、当たり前のように上がり込んで、囲炉裏の周りに座った。
柊は思わず朧を見た。
朧は、あやかしたちを静かに見ていた。
あやかしたちも、朧を見ていた。
どちらも、動かなかった。
「月喰いか」
蛇を巻いた男が、低い声で言った。
「ああ」
「本物か」
「そうらしい」
男は少しの間、朧を見た。
「強そうだ」
「そうらしい」
「俺より強いか」
「おそらく」
男は鼻で笑った。
「正直なやつだ。嫌いじゃない」
それで終わりだった。
男は茶碗を受け取って、黙々と飯を食い始めた。
柊はその様子を見て、胸の中で何かが緩むのを感じた。
すんなりと、当たり前のように。
そういう場所が、あるのだ。
夕餉が終わった後、澄江に案内されて柊と朧は奥の部屋に通された。
蒼真は土間で澄江と話し込んでいた。討伐隊の動向について話しているのだろう、と柊は思った。
部屋は小さかった。押し入れと、畳二枚分の
床の間。窓から、夜の山が見えた。
柊は窓の前に座った。
朧は部屋の隅に座った。
しばらく、沈黙が続いた。
「朧」
「ん」
「さっき、懐かしいって言ったね」
「ああ」
「どんな記憶?」
朧は膝の上に手を置いて、じっとそれを見た。
「煙の記憶だ。料理の煙か、焚き火の煙か──どちらかわからない。でも、人とあやかしが同じ場所にいた記憶がある。遠い、昔の」
「いつ頃の?」
「わからない。封印される前だということだけ、わかる」
柊は膝を抱えた。
「朧はそのとき、どうしていたの。あやかしたちと、人間と──どんなふうに」
朧は少し考えた。
「いた、だけだった気がする」
「いた、だけ?」
「今のように、感情の名前を知らなかった。誰かに何かを感じることも、なかった。ただ、存在していた」
「……寂しくなかった?」
「寂しいという感覚を、知らなかった」
柊はその言葉を、胸の中で転がした。
感情の名前を知らないまま、ただ存在していた朧。記憶を奪われて、また何も知らない状態で目覚めた朧。
「でも今は?」
「今は」朧は少し間を置いた。「寂しいという感覚が、わかる気がする」
「わかるようになったの?」
「お前がここにいないとき、何かが足りない感じがする。それが寂しいということなら──そうだ、わかる」
柊の胸が、温かくなった。
それと同時に、苦しくなった。
「朧、一つ聞いていい」
「なんだ」
「契りの代償のこと。私の命が削れるって──いつ気づいたの」
朧の手が、微かに動いた。
「五日目の夜」
「どうして気づいた」
「契りが繋がっているから、お前の状態が少しわかると言っただろう。五日目の夜、お前が眠れていないとき──命の感触が、少し薄くなっていた」
「少し、だけ?」
「今はまだ、少しだ」
今はまだ。
その言葉が、重かった。
「これから、もっと削れていく?」
「……俺がそばにいる限り、契りの代償は積み重なる。それが加速するのは──満月の夜だ」
「次の満月は」
「十日後だ」
柊は窓の外を見た。
夜空に月があった。まだ欠けていた。十日後には、あの月が満ちる。
「教えてくれてありがとう」
「今更だ」
「今更でも、ありがとう」
朧は答えなかった。
柊は朧を見た。
「朧、私は逃げない。それだけは言わせて」
「聞こえている」
「あなたが何を決めても、私は──」
「柊」
朧が、静かに遮った。
「今夜は、眠れ」
「でも」
「眠れていない夜が続いている。体が削れる前に、休め」
その言葉は命令のように聞こえたが、声の温度は違った。
心配している声だった。
柊は少しの間、朧を見た。
「朧は?」
「俺は眠らなくてもいい」
「それは──」
「あやかしだから」
「……ずるい」
「何がずるい」
「休まなくていいのが、ずるい」
朧は少し沈黙した。
「……隣にいる」
「え」
「眠る間、隣にいる。それでいいか」
柊は目を瞬かせた。
朧の目は、真剣だった。
「……いい」
柊は布団を引いた。横になった。
朧は壁を背にして、柊の隣に座った。
天井を見ながら、柊は静かに目を閉じた。
朧の気配が、すぐそこにあった。
暖かかった。
眠れないと思っていたのに、柊はすぐに深い
眠りに落ちた。
夜半、朧の記憶が動いた。
眠る柊の隣で、朧は目を閉じていた。
眠ってはいない。ただ、内側を見ていた。
記憶は断片だった。
燃える野原。泣き声。積み重なった何か。
白い光──自分が放った光が、すべてを焼いていく。
それは恐怖ではなかった。当時の自分には、
恐怖がなかった。ただ、力が溢れていた。止め方を知らなかった。止めようという意思もなかった。
それが災厄と呼ばれた。
だが──。
記憶の奥に、もう一つ、別の断片があった。
子供の声。
小さな手が、朧の手に触れていた。泣き止んで、笑っている。
あやかしの子だったか、人間の子だったか、わからない。ただ、その子は朧の手を引いて、「こっちに来て」と言っていた。
朧は、ついていった。
連れて行かれた先に、川があった。光が揺れていた。
子供が笑った。
「きれいだろう」
その記憶の中で、朧は何も感じなかった。
きれいという感覚を、知らなかったから。
でも今は──その川の光が、美しかったと思う。
朧は目を開けた。
柊が眠っていた。
静かな寝息。穏やかな顔。
朧はその顔を、しばらく見た。
「……名前を、教えてもらった」
誰にも聞こえない声で、言った。
「感情の名前を、全部。知らなかったものを、全部」
きれい。嬉しい。安心。好き。
その言葉たちが、今、記憶の中の川の光に重なった。
あの子供が見せてくれた川が、初めて美しく感じられた。
朧は窓の外を見た。
月が傾いていた。
夜が、深くなっていた。
十日後に満ちるその月が、二人にとって何を意味するのか──朧には、わかっていた。
でも、今夜だけは。
今夜だけは、その答えを遠ざけておこうと思った。
翌朝、蒼真が部屋に来た。
柊はすでに目を覚ましていた。朧は変わらず壁を背にして座っていた。
「討伐隊の動きがわかった」
蒼真は静かに言った。
「昨夜、澄江さんのあやかしの知り合いから知らせが来た。討伐隊は昨日、水車小屋まで来て、足跡を見つけた。今朝、峠の方へ向かっているらしい」
「ここまで来る?」
「時間の問題だ。ただ──」
蒼真は少し間を置いた。
「白狐の術師が、今朝から動けないらしい」
「なぜ」
「理由はわからない。ただ、気配を辿る手が止まっている」
朧が、静かに言った。
「白面だ」
二人が朧を見た。
「白面が、討伐隊を遅らせている。俺たちをここで足止めして、自分が先に動くつもりだ」
「何のために」
「俺を、使うために」
朧の声は平坦だった。
でも柊は、その平坦さの奥に何かが燃えているのを感じた。
「使わせない」柊は言った。
「ああ」朧は言った。
「白面の思い通りにはさせない」蒼真も言った。
三人の答えが、重なった。
澄江(すみえ)が茶を持って入ってきた。
三つの茶碗を、それぞれの前に置いた。
「難しい顔をするな。朝ぐらい、茶を飲め」
老婆の声は、穏やかだった。
柊は茶碗を受け取った。
温かかった。
湯気が、静かに立ち上った。
その日の昼過ぎ、朧の記憶が、また動いた。
澄江の家の縁側に一人で座っていたとき、突然、視界が白くなった。
痛みはなかった。ただ、内側に映像が流れ込んできた。
白面の声。
封印される直前の記憶。
月喰いよ。お前は捨てられる。人間に、同じ妖に、誰にも必要とされない。それがお前の本質だ。
その声に、当時の自分は何も感じなかった。
感情がなかったから。
だが今は──。
「朧」
柊の声がした。
縁側に、柊が来て座った。
「顔色が悪い。また、記憶?」
「ああ」
「どんな?」
「白面の声が、あった。封印の直前──お前には誰も必要としていないと言われた記憶だ」
柊は少しの間、黙っていた。
それから、静かに口を開いた。
「今は?」
「今は?」
「今も、そう思う?」
朧は柊を見た。
柊の目が、真剣だった。
「……今は」
朧は少し考えた。
「私が必要としている」
柊の目が、ゆっくりと細くなった。
泣きそうな顔だった。でも泣かなかった。
「そうだよ」
柊は言った。
「私が必要としてる。だから、白面の言葉は今は違う」
朧はその言葉を、静かに受け取った。
胸の中で、何かが温かくなった。
それが何という感情か、もう名前はわかっていた。
夕暮れに、澄江が朧を呼んだ。
縁側の端に二人で座って、澄江は煙管を取り出した。
火をつけて、一口吸った。
「月喰いよ」
「ん」
「お前は、人間の娘のために消えようとしているか」
「……」
「答えなくていい。顔に書いてある」
澄江は煙を吐き出した。
「二百年、封印されていたか」
「そうらしい」
「長かったろう」
「感覚がなかったから、わからない」
「そうか」澄江は煙管を見た。「わしはここで六十年、人とあやかしの間に立ってきた。うまくいかないことの方が多かった。それでも、続けてきた」
「なぜ」
「どちらかが正しくて、どちらかが間違っているわけじゃないから。一緒にいることを選ぶ者がいる限り、その選択を守りたかった」
朧は澄江の横顔を見た。
皺の深い、老いた顔。でも目が若かった。
「白面は、共存できないと言う」
「白面か」澄江は静かに言った。「知っている。あれは古くて、深く傷ついている妖だ」
「傷ついている?」
「かつて、共存しようとして──失った者がいる。だから、もう信じられなくなった。そういう存在だよ」
朧はその言葉を、静かに飲み込んだ。
「だからといって、正しいわけではないが」澄江は続けた。「間違ってもいない部分がある。人と妖の間には、確かに埋めようのない溝がある。それは本当のことだ」
「……」
「だが、溝があっても、橋を架けることはできる。橋が壊れても、また架けることはできる。それを繰り返す者がいる限り、世界は少しずつ変わる」
朧は庭を見た。
夕暮れの光の中で、狐耳の少女が人間の子供と遊んでいた。
笑い声が聞こえた。
「お前が橋になることはできないか」
澄江が言った。
「俺が」
「月喰いが、人間の娘と共にいる。それだけで、この世界の何かが変わるかもしれない。消えることが答えとは限らない」
朧はしばらく、庭を見ていた。
笑い声が続いていた。
「……考える」
「そうしな」
澄江は煙管をしまった。
立ち上がって、家の中へ戻りかけた。
「澄江」
「なんだい」
「橋は──壊れたとき、痛いか」
澄江は少しの間、朧を見た。
それから、また小さく笑った。
「痛いよ。でも、痛くない橋より、痛い橋の方が、丈夫だ」
それだけ言って、澄江は中に入った。
朧は一人、夕暮れの庭を見ていた。
笑い声はまだ、続いていた。
夜、柊に話した。
「澄江が、橋になれと言った」
「橋?」
「消えることが答えではないかもしれないと」
柊は朧を見た。
「そう思う?」
「……わからない」朧は言った。「だが、考えている」
「それでいい」
柊は窓の外を見た。
月が昨日より、少し丸くなっていた。
「朧」
「ん」
「一緒に考えよう」
朧は柊を見た。
「一人じゃない方が、いい答えが出ると思う」柊は続けた。「私も考えるから、一緒に」
朧はしばらく、柊の顔を見ていた。
それから、静かに頷いた。
「……ああ」
短い返事だった。
でも柊には、それで十分だった。
月が、夜空に静かに輝いていた。
満月まで、あと九日。
二人の答えは、まだ出ていなかった。
稜線に出たとき、西の空が燃えていた。橙と茜と、その奥に沈んでいく太陽。山の向こうに広がる景色が、一瞬だけ金色に染まった。
柊は思わず足を止めた。
「きれい」
誰に言うでもなく、呟いた。
隣に朧が立った。同じ方向を見た。
「……ああ」
短い返事だったが、否定ではなかった。
蒼真は二人より少し先に立って、麓を見下ろしていた。
「あそこだ」
指差した先に、集落があった。
峠の北斜面、深い木々に囲まれた窪地に、十
数軒の家が肩を寄せ合うように建っていた。
煙が細く上がっている。夕餉の支度をしているのだろう。人の気配があった。
そして──人ではない気配も。
柊は目を細めた。
「あやかしが、いる」
「ああ」蒼真は言った。「ここは、両方いる」
朧が、静かに集落を見下ろした。
銀色の瞳が、細く、鋭くなった。
「警戒しているか」柊が聞く。
「……いや」朧は少し間を置いた。「懐かしい、と思った」
「懐かしい?」
「こういう場所が、かつてあったような気がする。人とあやかしが、同じ煙の下にいる場所が」
柊は朧の横顔を見た。
記憶が戻ってきているのだ、と思った。壊した景色だけでなく、失った景色も。
「行こう」
蒼真が先に歩き始めた。
集落の入口に、老婆が立っていた。
腰が曲がって、杖をついていたが、目だけが若かった。深い皺の奥に、鋭い光が宿っていた。
「蒼真か」
「お久しぶりです、澄江さん」
蒼真が頭を下げた。
老婆──澄江は、蒼真の後ろの二人に視線を移した。
柊を見た。朧を見た。
朧のところで、視線が止まった。
「……月喰いだね」
平坦な声だった。驚きも、恐怖も、混じっていなかった。
「はい」朧は静かに答えた。
「随分と、人間に近い顔をしている」
「そうらしい」
「中に入りな。飯を食わせてやる」
それだけ言って、澄江は杖をついて歩き始めた。
柊と蒼真は顔を見合わせた。朧は澄江の背中を見て、一拍置いてから後に続いた。
澄江の家は、集落の一番奥にあった。
広い土間に、囲炉裏。天井から干し柿と薬草が吊るされていた。古い家具が、長年使われた艶を持っていた。
囲炉裏の周りに座ると、澄江は何も聞かずに飯の支度を始めた。
その間、柊は家の中をそっと見回した。
棚の上に、小さな器が並んでいる。土人形が置かれている。人間の家と変わらないようで──一つだけ、違うものがあった。
天井近くの柱に、古い札が貼られていた。退魔の文字ではなく、何か別の文字で書かれていた。
「結界だよ」
澄江が、見透かしたように言った。
「人とあやかし、どちらも安全でいられるための。外から何かが来たとき、どちらも守る結界だ」
「どちらも、守るんですか」
「人だけ守っても、意味がない。あやかしだけ守っても、意味がない。一緒にいるなら、一緒に守らなきゃ」
澄江は鍋をかき混ぜながら、朧に目を向けた。
「月喰い。腹が減っているか」
「……わかる」
「何がわかる」
「腹が減るという感覚が、今はわかる」
澄江は少しの間、朧を見た。
それから小さく笑った。
「そうかい。それは結構なことだ」
夕餉は、静かだった。
澄江の家に、集落の者が何人か集まってきた。人間の老人が二人。それから──柊が
息を飲んだのは、障子を開けて入ってきた者の姿だった。
小さな狐の耳を持つ少女。肩に蛇を巻いた壮年の男。光る目を持つ、子供のような老人。
あやかしたちが、当たり前のように上がり込んで、囲炉裏の周りに座った。
柊は思わず朧を見た。
朧は、あやかしたちを静かに見ていた。
あやかしたちも、朧を見ていた。
どちらも、動かなかった。
「月喰いか」
蛇を巻いた男が、低い声で言った。
「ああ」
「本物か」
「そうらしい」
男は少しの間、朧を見た。
「強そうだ」
「そうらしい」
「俺より強いか」
「おそらく」
男は鼻で笑った。
「正直なやつだ。嫌いじゃない」
それで終わりだった。
男は茶碗を受け取って、黙々と飯を食い始めた。
柊はその様子を見て、胸の中で何かが緩むのを感じた。
すんなりと、当たり前のように。
そういう場所が、あるのだ。
夕餉が終わった後、澄江に案内されて柊と朧は奥の部屋に通された。
蒼真は土間で澄江と話し込んでいた。討伐隊の動向について話しているのだろう、と柊は思った。
部屋は小さかった。押し入れと、畳二枚分の
床の間。窓から、夜の山が見えた。
柊は窓の前に座った。
朧は部屋の隅に座った。
しばらく、沈黙が続いた。
「朧」
「ん」
「さっき、懐かしいって言ったね」
「ああ」
「どんな記憶?」
朧は膝の上に手を置いて、じっとそれを見た。
「煙の記憶だ。料理の煙か、焚き火の煙か──どちらかわからない。でも、人とあやかしが同じ場所にいた記憶がある。遠い、昔の」
「いつ頃の?」
「わからない。封印される前だということだけ、わかる」
柊は膝を抱えた。
「朧はそのとき、どうしていたの。あやかしたちと、人間と──どんなふうに」
朧は少し考えた。
「いた、だけだった気がする」
「いた、だけ?」
「今のように、感情の名前を知らなかった。誰かに何かを感じることも、なかった。ただ、存在していた」
「……寂しくなかった?」
「寂しいという感覚を、知らなかった」
柊はその言葉を、胸の中で転がした。
感情の名前を知らないまま、ただ存在していた朧。記憶を奪われて、また何も知らない状態で目覚めた朧。
「でも今は?」
「今は」朧は少し間を置いた。「寂しいという感覚が、わかる気がする」
「わかるようになったの?」
「お前がここにいないとき、何かが足りない感じがする。それが寂しいということなら──そうだ、わかる」
柊の胸が、温かくなった。
それと同時に、苦しくなった。
「朧、一つ聞いていい」
「なんだ」
「契りの代償のこと。私の命が削れるって──いつ気づいたの」
朧の手が、微かに動いた。
「五日目の夜」
「どうして気づいた」
「契りが繋がっているから、お前の状態が少しわかると言っただろう。五日目の夜、お前が眠れていないとき──命の感触が、少し薄くなっていた」
「少し、だけ?」
「今はまだ、少しだ」
今はまだ。
その言葉が、重かった。
「これから、もっと削れていく?」
「……俺がそばにいる限り、契りの代償は積み重なる。それが加速するのは──満月の夜だ」
「次の満月は」
「十日後だ」
柊は窓の外を見た。
夜空に月があった。まだ欠けていた。十日後には、あの月が満ちる。
「教えてくれてありがとう」
「今更だ」
「今更でも、ありがとう」
朧は答えなかった。
柊は朧を見た。
「朧、私は逃げない。それだけは言わせて」
「聞こえている」
「あなたが何を決めても、私は──」
「柊」
朧が、静かに遮った。
「今夜は、眠れ」
「でも」
「眠れていない夜が続いている。体が削れる前に、休め」
その言葉は命令のように聞こえたが、声の温度は違った。
心配している声だった。
柊は少しの間、朧を見た。
「朧は?」
「俺は眠らなくてもいい」
「それは──」
「あやかしだから」
「……ずるい」
「何がずるい」
「休まなくていいのが、ずるい」
朧は少し沈黙した。
「……隣にいる」
「え」
「眠る間、隣にいる。それでいいか」
柊は目を瞬かせた。
朧の目は、真剣だった。
「……いい」
柊は布団を引いた。横になった。
朧は壁を背にして、柊の隣に座った。
天井を見ながら、柊は静かに目を閉じた。
朧の気配が、すぐそこにあった。
暖かかった。
眠れないと思っていたのに、柊はすぐに深い
眠りに落ちた。
夜半、朧の記憶が動いた。
眠る柊の隣で、朧は目を閉じていた。
眠ってはいない。ただ、内側を見ていた。
記憶は断片だった。
燃える野原。泣き声。積み重なった何か。
白い光──自分が放った光が、すべてを焼いていく。
それは恐怖ではなかった。当時の自分には、
恐怖がなかった。ただ、力が溢れていた。止め方を知らなかった。止めようという意思もなかった。
それが災厄と呼ばれた。
だが──。
記憶の奥に、もう一つ、別の断片があった。
子供の声。
小さな手が、朧の手に触れていた。泣き止んで、笑っている。
あやかしの子だったか、人間の子だったか、わからない。ただ、その子は朧の手を引いて、「こっちに来て」と言っていた。
朧は、ついていった。
連れて行かれた先に、川があった。光が揺れていた。
子供が笑った。
「きれいだろう」
その記憶の中で、朧は何も感じなかった。
きれいという感覚を、知らなかったから。
でも今は──その川の光が、美しかったと思う。
朧は目を開けた。
柊が眠っていた。
静かな寝息。穏やかな顔。
朧はその顔を、しばらく見た。
「……名前を、教えてもらった」
誰にも聞こえない声で、言った。
「感情の名前を、全部。知らなかったものを、全部」
きれい。嬉しい。安心。好き。
その言葉たちが、今、記憶の中の川の光に重なった。
あの子供が見せてくれた川が、初めて美しく感じられた。
朧は窓の外を見た。
月が傾いていた。
夜が、深くなっていた。
十日後に満ちるその月が、二人にとって何を意味するのか──朧には、わかっていた。
でも、今夜だけは。
今夜だけは、その答えを遠ざけておこうと思った。
翌朝、蒼真が部屋に来た。
柊はすでに目を覚ましていた。朧は変わらず壁を背にして座っていた。
「討伐隊の動きがわかった」
蒼真は静かに言った。
「昨夜、澄江さんのあやかしの知り合いから知らせが来た。討伐隊は昨日、水車小屋まで来て、足跡を見つけた。今朝、峠の方へ向かっているらしい」
「ここまで来る?」
「時間の問題だ。ただ──」
蒼真は少し間を置いた。
「白狐の術師が、今朝から動けないらしい」
「なぜ」
「理由はわからない。ただ、気配を辿る手が止まっている」
朧が、静かに言った。
「白面だ」
二人が朧を見た。
「白面が、討伐隊を遅らせている。俺たちをここで足止めして、自分が先に動くつもりだ」
「何のために」
「俺を、使うために」
朧の声は平坦だった。
でも柊は、その平坦さの奥に何かが燃えているのを感じた。
「使わせない」柊は言った。
「ああ」朧は言った。
「白面の思い通りにはさせない」蒼真も言った。
三人の答えが、重なった。
澄江(すみえ)が茶を持って入ってきた。
三つの茶碗を、それぞれの前に置いた。
「難しい顔をするな。朝ぐらい、茶を飲め」
老婆の声は、穏やかだった。
柊は茶碗を受け取った。
温かかった。
湯気が、静かに立ち上った。
その日の昼過ぎ、朧の記憶が、また動いた。
澄江の家の縁側に一人で座っていたとき、突然、視界が白くなった。
痛みはなかった。ただ、内側に映像が流れ込んできた。
白面の声。
封印される直前の記憶。
月喰いよ。お前は捨てられる。人間に、同じ妖に、誰にも必要とされない。それがお前の本質だ。
その声に、当時の自分は何も感じなかった。
感情がなかったから。
だが今は──。
「朧」
柊の声がした。
縁側に、柊が来て座った。
「顔色が悪い。また、記憶?」
「ああ」
「どんな?」
「白面の声が、あった。封印の直前──お前には誰も必要としていないと言われた記憶だ」
柊は少しの間、黙っていた。
それから、静かに口を開いた。
「今は?」
「今は?」
「今も、そう思う?」
朧は柊を見た。
柊の目が、真剣だった。
「……今は」
朧は少し考えた。
「私が必要としている」
柊の目が、ゆっくりと細くなった。
泣きそうな顔だった。でも泣かなかった。
「そうだよ」
柊は言った。
「私が必要としてる。だから、白面の言葉は今は違う」
朧はその言葉を、静かに受け取った。
胸の中で、何かが温かくなった。
それが何という感情か、もう名前はわかっていた。
夕暮れに、澄江が朧を呼んだ。
縁側の端に二人で座って、澄江は煙管を取り出した。
火をつけて、一口吸った。
「月喰いよ」
「ん」
「お前は、人間の娘のために消えようとしているか」
「……」
「答えなくていい。顔に書いてある」
澄江は煙を吐き出した。
「二百年、封印されていたか」
「そうらしい」
「長かったろう」
「感覚がなかったから、わからない」
「そうか」澄江は煙管を見た。「わしはここで六十年、人とあやかしの間に立ってきた。うまくいかないことの方が多かった。それでも、続けてきた」
「なぜ」
「どちらかが正しくて、どちらかが間違っているわけじゃないから。一緒にいることを選ぶ者がいる限り、その選択を守りたかった」
朧は澄江の横顔を見た。
皺の深い、老いた顔。でも目が若かった。
「白面は、共存できないと言う」
「白面か」澄江は静かに言った。「知っている。あれは古くて、深く傷ついている妖だ」
「傷ついている?」
「かつて、共存しようとして──失った者がいる。だから、もう信じられなくなった。そういう存在だよ」
朧はその言葉を、静かに飲み込んだ。
「だからといって、正しいわけではないが」澄江は続けた。「間違ってもいない部分がある。人と妖の間には、確かに埋めようのない溝がある。それは本当のことだ」
「……」
「だが、溝があっても、橋を架けることはできる。橋が壊れても、また架けることはできる。それを繰り返す者がいる限り、世界は少しずつ変わる」
朧は庭を見た。
夕暮れの光の中で、狐耳の少女が人間の子供と遊んでいた。
笑い声が聞こえた。
「お前が橋になることはできないか」
澄江が言った。
「俺が」
「月喰いが、人間の娘と共にいる。それだけで、この世界の何かが変わるかもしれない。消えることが答えとは限らない」
朧はしばらく、庭を見ていた。
笑い声が続いていた。
「……考える」
「そうしな」
澄江は煙管をしまった。
立ち上がって、家の中へ戻りかけた。
「澄江」
「なんだい」
「橋は──壊れたとき、痛いか」
澄江は少しの間、朧を見た。
それから、また小さく笑った。
「痛いよ。でも、痛くない橋より、痛い橋の方が、丈夫だ」
それだけ言って、澄江は中に入った。
朧は一人、夕暮れの庭を見ていた。
笑い声はまだ、続いていた。
夜、柊に話した。
「澄江が、橋になれと言った」
「橋?」
「消えることが答えではないかもしれないと」
柊は朧を見た。
「そう思う?」
「……わからない」朧は言った。「だが、考えている」
「それでいい」
柊は窓の外を見た。
月が昨日より、少し丸くなっていた。
「朧」
「ん」
「一緒に考えよう」
朧は柊を見た。
「一人じゃない方が、いい答えが出ると思う」柊は続けた。「私も考えるから、一緒に」
朧はしばらく、柊の顔を見ていた。
それから、静かに頷いた。
「……ああ」
短い返事だった。
でも柊には、それで十分だった。
月が、夜空に静かに輝いていた。
満月まで、あと九日。
二人の答えは、まだ出ていなかった。



