契りとは、何だろうと柊は思う。
山道を駆けながら、ふとそんなことを考えた。
命を繋ぐ禁忌の契約。どちらかが死ねば、もう一方も消える。そう説明されたとき、柊はそれを「縛り」だと思っていた。自分と朧を、否応なく結びつける鎖のようなものだと。
でも今、胸の中心から細い糸が伸びているような感覚がある。
引っ張られている。
前へ。山を下りる方向へ。朧がいる方向へ。
これが契りなら──悪くない、と柊は思った。
「ペースを落とせ」
後ろから蒼真の声がした。
「息が上がってる。倒れたら元も子もない」
「わかってる」
「わかってない」
柊は少しだけ速度を緩めた。蒼真が並んだ。
二人で山道を下りながら、柊は胸の感覚に集中した。糸は確かにある。細くて、頼りない。でも、切れていない。
「感じるか」
「うん。西……いや、南西。山を下りて、川沿いに行く感じがする」
「川沿いなら、集落を避けながら移動できる。あいつは人目を避けようとしている」
「そう思う」
蒼真は無言で頷いた。
刀の柄に手を置いたまま、一定のペースで歩いていた。その横顔は静かで、どこを見ているのかわからなかった。
「蒼真」
「なんだ」
「討伐隊は、いつ動く?」
「今朝の協議で出立が決まる。早ければ昼過ぎには動き始める」
「追いつかれる?」
「気配を消して動いているなら、すぐにはわからない。だが──」
蒼真は少し間を置いた。
「白狐の術師がいる。気配を消しても、命の糸を辿ることができる。時間の問題だ」
命の糸。
それは契りと同じだ、と柊は思った。繋がりがある限り、完全には隠れられない。
「急ごう」
「だから、ペースを保てと言っている」
山を下りると、朝の川霧が低く漂っていた。
葦の茂る川岸を、二人は足音を殺して歩いた。水面が鈍く光っている。遠くで水鳥が鳴いた。
柊は胸の感覚を頼りに歩き続けた。
糸の感覚は少しずつ強くなっていた。近づいている。
川が大きく蛇行する場所に、古い水車小屋があった。随分前に使われなくなったものらしく、羽根が朽ちかけて、壁板が何枚か剥がれていた。
糸が、そちらに向かっていた。
「ここだ」
柊は足を止めた。
蒼真が素早く辺りを見回した。
「気配は──一つ。朧だけだ。今のところ」
「入る」
「待て、俺が先だ」
蒼真が前に出た。
柊は蒼真の背中の後ろについて、朽ちかけた戸を押した。
薄暗い内部。埃と古い木の匂い。崩れかけた棚。隅に積まれた縄や道具の残骸。
そして──。
奥の壁際に、朧が座っていた。
膝を立てて、腕を組んで、目を閉じていた。
柊の足音を聞いたのか、ゆっくりと目を開けた。
銀色の瞳が、薄闇の中で静かに光った。
柊を見た。
蒼真を見た。
また柊を見た。
「……来た」
それだけだった。
驚いた様子は、なかった。
「来たよ」
柊は歩み寄った。
朧の前に膝をついた。
膝の上に置かれた朧の手を、両手で包んだ。
冷たかった。夜通し、ここにいたのかもしれない。
「馬鹿」
「……」
「手紙を読んだ。『契りの代償』のこと──なぜ言わなかったの」
「言えば、お前は離れなかった」
「当たり前でしょう」
「だから言えなかった」
柊は朧の手を強く握った。
冷たい手が、少しずつ温かくなっていく。
「私の命のことは、私が決める。あなたに決めさせない」
朧は柊を見た。
何かを言いかけた。
でも、言わなかった。
「頑固だ」
「知ってる」
「俺に似てきた」
「あなたが移したの」
朧の目に、かすかに何かが揺れた。笑いかけているのか、困っているのか、柊にはわからなかった。でも──悪い表情ではなかった。
「水入り悪いが」
蒼真が、戸口から声をかけた。
「討伐隊の話をしていいか。今は感動の再会より、そちらが先だ」
蒼真は戸口に立ったまま、腕を組んで言った。
「昼過ぎには討伐隊が動く。早ければ夕刻には此処が割れる。今夜中に、もっと遠くへ移動する必要がある」
「蒼真は」朧が言った。「俺を討伐しに来たのではないのか」
「今はそういう話をしていない」
「だが、命令は有効だ」
「知っている」
二人の視線が、空中でぶつかった。
柊は二人を交互に見た。
「お前は」朧は続けた。「命令に背いて、俺を逃がすつもりか」
「逃がすとは言っていない」蒼真は静かに言った。「俺は今、柊についてきた。それだけだ」
「詭弁だ」
「かもしれない」
蒼真は一度だけ、視線を柊に向けた。
それからまた朧を見た。
「お前に聞く。柊を、傷つけるつもりがあるか」
「ない」
「柊が命の危険に晒されたとき、お前はどうする」
「守る」
即答だった。
蒼真は少しの間、朧を見ていた。
「……わかった」
それだけ言って、蒼真は外に出た。
柊は朧を見た。
「今の、どういう意味だと思う?」
「わからない」朧は言った。「あの男は、複雑だ」
「そう?」
「俺には理解しにくい種類の感情を持っている」
柊は少し考えて、小さく笑った。
「それは──蒼真が、あなたのことを認めたってことだよ。きっと」
朧は柊の言葉を、静かに飲み込んだ。
「……そうか」
「うん」
三人は水車小屋を出た。
川沿いを南西へ。人里を避けながら、林の中を移動した。
昼を過ぎた頃、柊は急に立ち止まった。
「どうした」蒼真が振り返る。
「気配が──」
朧もまた、立ち止まっていた。
銀色の瞳が、鋭く北の方角を向いていた。
「来た」
低い声だった。
「討伐隊か」柊が問う。
「違う」
朧の声が、僅かに変わった。
感情の乏しい声が、初めて──緊張の色を帯びた。
「これは──知っている気配だ」
「知っている?」
「記憶の中にある。ずっと昔の──」
その瞬間、風が止まった。
鳥の声が消えた。
虫の声が消えた。
林の中が、突然、完全な沈黙に包まれた。
蒼真が刀の柄に手をかけた。
「霊気が──重い」
「朧」柊は朧の袖を掴んだ。「何が来る」
朧は答えなかった。
ただ、静かに柊の前に立った。
背中が、柊を遮るように。
林の奥から、白いものが来た。
靄のような、煙のような。でも、それは明らかに意思を持って動いていた。
木々の間をすり抜けながら、ゆっくりと近づいてくる。
形が定まっていく。
白い着物。白い髪。白い肌。
老人のようにも、子供のようにも見えた。顔の輪郭がはっきりしない。でも、目だけは──鮮明だった。
金色の目。
その目が、まっすぐに朧を見ていた。
「久しいな、月喰い」
声は穏やかだった。
穏やかすぎて、柊の背筋が凍った。
「随分と、小さくなった。封印される前は、もっと恐ろしい姿をしていたものだが」
「白面」
朧が、その名を呼んだ。
初めて聞く名だった。
柊は朧の背中越しに、白い姿を見つめた。
「朧、あれは──」
「知っている。会ったことがある」朧は静かに言った。「記憶の中で、何度も」
白面は微笑んだ。
人間の顔に似た、でも何かが決定的に違う笑みだった。
「記憶が戻ってきているか。それは都合がいい」白面の金色の目が、朧から柊へ移った。
「そちらの娘は──ああ、なるほど。柊家の。封印した一族の娘と契りを結んだか。なかなか、皮肉な縁だ」
「柊には触れるな」
朧の声が、低くなった。
普段とは別の、何か根源的なものが混じった声だった。
白面は笑ったままだった。
「触れるつもりはない。今日は挨拶に来ただけだ」
「挨拶」蒼真が言った。「随分と悠長なことを言う」
「焦る必要はない。時間は、私の方にある」
白面の目が、再び朧に向いた。「月喰いよ。お前は今、人間の娘のために消えようとしている。その娘のために、自分の存在を削ろうとしている」
「……」
「愚かだ」
白面の声は、相変わらず穏やかだった。
「人と妖は、共存できない。二百年前もそうだった。千年前もそうだった。お前がどれほど人間の言葉を覚えても、感情の名前を学んでも──最後には、人間がお前を消そうとする。それが、この世の理だ」
「違う」
柊が、声を出していた。
朧の背中の後ろから、白面を見て、言っていた。
「違います」
白面の金色の目が、柊に向いた。
「ほう」
「人と妖が共存できないと言うなら──今まで、できていた場所はどこへいくんですか。一緒に暮らしていたあやかしたちは、どこへいくんですか。全部が全部、あなたの言う通りじゃない」
「子供だな」白面は言った。「例外があることと、本質が変わらないことは、別の話だ」
「そんな本質、認めない」
白面は、初めて──本当に笑った。
先ほどの微笑とは違う、何かを楽しんでいるような笑い方だった。
「気に入った、娘。だからこそ、忠告してやる」
白面の目が、もう一度朧に向いた。
「月喰いよ。お前が契りを切ろうとするなら、その方法はひとつしかない。どちらかが消えることだ。だが──」
白面の姿が、靄のように揺らぎ始めた。
「消えることと、いなくなることは──同じではない、かもしれないぞ」
それだけ言って、白面は風に溶けるように消えた。
鳥の声が、戻ってきた。
虫の声が、戻ってきた。
林の中に、普通の昼の空気が戻った。
三人は、しばらく誰も動かなかった。
「白面は──何者だ」
蒼真が、静かに聞いた。
「古いあやかしだ」朧は言った。「俺より、ずっと古い。人と妖の境界そのものを憎んでいる」
「今日ここに来た理由は」
「わからない。だが──」
朧は柊を見た。
「俺を使うつもりがあるのかもしれない」
「使う?」
「月喰いの力は、大きい。それを誰かが利用しようとするなら──俺を封印から解いた意味がある」
「封印を解いたのは、白面だと言うの?」
朧は少し間を置いた。
「記憶の中に、白い影がある。二百年前の封印が解ける直前に、何かが近くにいた。それが白面かどうか、まだはっきりしない」
蒼真は腕を組んだ。
「話が大きくなってきた」
「ごめん」柊は言った。
「お前が謝ることじゃない」蒼真は溜息をついた。「ただ──討伐隊の問題と、白面の問題が重なった。今夜、動ける場所を確保する必要がある」
「あてはある?」
「一つ。信頼できる人間が、山向こうに隠れ里を持っている。あやかしと人間が、静かに暮らしている場所だ」
朧が、わずかに目を細めた。
「そういう場所があるのか」
「ある」蒼真は短く言った。「お前の言う
『共存できない』が、そこでは今のところ、成り立っている」
朧は蒼真を見た。
蒼真は朧を見なかった。
前を向いたまま、歩き始めた。
「行くぞ。日が暮れる前に、峠を越える」
柊は朧を見た。
朧は蒼真の背中を少しの間見ていた。
「……複雑な男だ」
「言ったでしょう」
「ああ」
朧が歩き始めた。
柊も続いた。
三人で、林の中を進んだ。
頭上で木の葉が揺れた。光が差し込んだ。
白面の言葉が、柊の胸に残っていた。
消えることと、いなくなることは、同じではない、かもしれないぞ。
その言葉の意味を、柊はまだ理解できていなかった。
でも──何かが、そこに隠れているような気がしていた。
大切な何かが。
朧を救う、何かが。
柊は歩きながら、朧の横顔をそっと見た。
銀色の瞳が、木漏れ日を受けて光っていた。
どこか遠くを見ているような、でも今ここにいるような──そういう目だった。
「朧」
「ん」
「白面の言葉、気になる?」
朧は少し考えた。
「気になる」
「私も」
「だが今は、峠を越える方が先だ」
「そうだね」
二人の足音が、林の中に重なった。
蒼真の背中が、少し先を歩いていた。
山向こうへ。隠れ里へ。
まだ見ぬ場所へ向かって、三人は歩き続けた。
山道を駆けながら、ふとそんなことを考えた。
命を繋ぐ禁忌の契約。どちらかが死ねば、もう一方も消える。そう説明されたとき、柊はそれを「縛り」だと思っていた。自分と朧を、否応なく結びつける鎖のようなものだと。
でも今、胸の中心から細い糸が伸びているような感覚がある。
引っ張られている。
前へ。山を下りる方向へ。朧がいる方向へ。
これが契りなら──悪くない、と柊は思った。
「ペースを落とせ」
後ろから蒼真の声がした。
「息が上がってる。倒れたら元も子もない」
「わかってる」
「わかってない」
柊は少しだけ速度を緩めた。蒼真が並んだ。
二人で山道を下りながら、柊は胸の感覚に集中した。糸は確かにある。細くて、頼りない。でも、切れていない。
「感じるか」
「うん。西……いや、南西。山を下りて、川沿いに行く感じがする」
「川沿いなら、集落を避けながら移動できる。あいつは人目を避けようとしている」
「そう思う」
蒼真は無言で頷いた。
刀の柄に手を置いたまま、一定のペースで歩いていた。その横顔は静かで、どこを見ているのかわからなかった。
「蒼真」
「なんだ」
「討伐隊は、いつ動く?」
「今朝の協議で出立が決まる。早ければ昼過ぎには動き始める」
「追いつかれる?」
「気配を消して動いているなら、すぐにはわからない。だが──」
蒼真は少し間を置いた。
「白狐の術師がいる。気配を消しても、命の糸を辿ることができる。時間の問題だ」
命の糸。
それは契りと同じだ、と柊は思った。繋がりがある限り、完全には隠れられない。
「急ごう」
「だから、ペースを保てと言っている」
山を下りると、朝の川霧が低く漂っていた。
葦の茂る川岸を、二人は足音を殺して歩いた。水面が鈍く光っている。遠くで水鳥が鳴いた。
柊は胸の感覚を頼りに歩き続けた。
糸の感覚は少しずつ強くなっていた。近づいている。
川が大きく蛇行する場所に、古い水車小屋があった。随分前に使われなくなったものらしく、羽根が朽ちかけて、壁板が何枚か剥がれていた。
糸が、そちらに向かっていた。
「ここだ」
柊は足を止めた。
蒼真が素早く辺りを見回した。
「気配は──一つ。朧だけだ。今のところ」
「入る」
「待て、俺が先だ」
蒼真が前に出た。
柊は蒼真の背中の後ろについて、朽ちかけた戸を押した。
薄暗い内部。埃と古い木の匂い。崩れかけた棚。隅に積まれた縄や道具の残骸。
そして──。
奥の壁際に、朧が座っていた。
膝を立てて、腕を組んで、目を閉じていた。
柊の足音を聞いたのか、ゆっくりと目を開けた。
銀色の瞳が、薄闇の中で静かに光った。
柊を見た。
蒼真を見た。
また柊を見た。
「……来た」
それだけだった。
驚いた様子は、なかった。
「来たよ」
柊は歩み寄った。
朧の前に膝をついた。
膝の上に置かれた朧の手を、両手で包んだ。
冷たかった。夜通し、ここにいたのかもしれない。
「馬鹿」
「……」
「手紙を読んだ。『契りの代償』のこと──なぜ言わなかったの」
「言えば、お前は離れなかった」
「当たり前でしょう」
「だから言えなかった」
柊は朧の手を強く握った。
冷たい手が、少しずつ温かくなっていく。
「私の命のことは、私が決める。あなたに決めさせない」
朧は柊を見た。
何かを言いかけた。
でも、言わなかった。
「頑固だ」
「知ってる」
「俺に似てきた」
「あなたが移したの」
朧の目に、かすかに何かが揺れた。笑いかけているのか、困っているのか、柊にはわからなかった。でも──悪い表情ではなかった。
「水入り悪いが」
蒼真が、戸口から声をかけた。
「討伐隊の話をしていいか。今は感動の再会より、そちらが先だ」
蒼真は戸口に立ったまま、腕を組んで言った。
「昼過ぎには討伐隊が動く。早ければ夕刻には此処が割れる。今夜中に、もっと遠くへ移動する必要がある」
「蒼真は」朧が言った。「俺を討伐しに来たのではないのか」
「今はそういう話をしていない」
「だが、命令は有効だ」
「知っている」
二人の視線が、空中でぶつかった。
柊は二人を交互に見た。
「お前は」朧は続けた。「命令に背いて、俺を逃がすつもりか」
「逃がすとは言っていない」蒼真は静かに言った。「俺は今、柊についてきた。それだけだ」
「詭弁だ」
「かもしれない」
蒼真は一度だけ、視線を柊に向けた。
それからまた朧を見た。
「お前に聞く。柊を、傷つけるつもりがあるか」
「ない」
「柊が命の危険に晒されたとき、お前はどうする」
「守る」
即答だった。
蒼真は少しの間、朧を見ていた。
「……わかった」
それだけ言って、蒼真は外に出た。
柊は朧を見た。
「今の、どういう意味だと思う?」
「わからない」朧は言った。「あの男は、複雑だ」
「そう?」
「俺には理解しにくい種類の感情を持っている」
柊は少し考えて、小さく笑った。
「それは──蒼真が、あなたのことを認めたってことだよ。きっと」
朧は柊の言葉を、静かに飲み込んだ。
「……そうか」
「うん」
三人は水車小屋を出た。
川沿いを南西へ。人里を避けながら、林の中を移動した。
昼を過ぎた頃、柊は急に立ち止まった。
「どうした」蒼真が振り返る。
「気配が──」
朧もまた、立ち止まっていた。
銀色の瞳が、鋭く北の方角を向いていた。
「来た」
低い声だった。
「討伐隊か」柊が問う。
「違う」
朧の声が、僅かに変わった。
感情の乏しい声が、初めて──緊張の色を帯びた。
「これは──知っている気配だ」
「知っている?」
「記憶の中にある。ずっと昔の──」
その瞬間、風が止まった。
鳥の声が消えた。
虫の声が消えた。
林の中が、突然、完全な沈黙に包まれた。
蒼真が刀の柄に手をかけた。
「霊気が──重い」
「朧」柊は朧の袖を掴んだ。「何が来る」
朧は答えなかった。
ただ、静かに柊の前に立った。
背中が、柊を遮るように。
林の奥から、白いものが来た。
靄のような、煙のような。でも、それは明らかに意思を持って動いていた。
木々の間をすり抜けながら、ゆっくりと近づいてくる。
形が定まっていく。
白い着物。白い髪。白い肌。
老人のようにも、子供のようにも見えた。顔の輪郭がはっきりしない。でも、目だけは──鮮明だった。
金色の目。
その目が、まっすぐに朧を見ていた。
「久しいな、月喰い」
声は穏やかだった。
穏やかすぎて、柊の背筋が凍った。
「随分と、小さくなった。封印される前は、もっと恐ろしい姿をしていたものだが」
「白面」
朧が、その名を呼んだ。
初めて聞く名だった。
柊は朧の背中越しに、白い姿を見つめた。
「朧、あれは──」
「知っている。会ったことがある」朧は静かに言った。「記憶の中で、何度も」
白面は微笑んだ。
人間の顔に似た、でも何かが決定的に違う笑みだった。
「記憶が戻ってきているか。それは都合がいい」白面の金色の目が、朧から柊へ移った。
「そちらの娘は──ああ、なるほど。柊家の。封印した一族の娘と契りを結んだか。なかなか、皮肉な縁だ」
「柊には触れるな」
朧の声が、低くなった。
普段とは別の、何か根源的なものが混じった声だった。
白面は笑ったままだった。
「触れるつもりはない。今日は挨拶に来ただけだ」
「挨拶」蒼真が言った。「随分と悠長なことを言う」
「焦る必要はない。時間は、私の方にある」
白面の目が、再び朧に向いた。「月喰いよ。お前は今、人間の娘のために消えようとしている。その娘のために、自分の存在を削ろうとしている」
「……」
「愚かだ」
白面の声は、相変わらず穏やかだった。
「人と妖は、共存できない。二百年前もそうだった。千年前もそうだった。お前がどれほど人間の言葉を覚えても、感情の名前を学んでも──最後には、人間がお前を消そうとする。それが、この世の理だ」
「違う」
柊が、声を出していた。
朧の背中の後ろから、白面を見て、言っていた。
「違います」
白面の金色の目が、柊に向いた。
「ほう」
「人と妖が共存できないと言うなら──今まで、できていた場所はどこへいくんですか。一緒に暮らしていたあやかしたちは、どこへいくんですか。全部が全部、あなたの言う通りじゃない」
「子供だな」白面は言った。「例外があることと、本質が変わらないことは、別の話だ」
「そんな本質、認めない」
白面は、初めて──本当に笑った。
先ほどの微笑とは違う、何かを楽しんでいるような笑い方だった。
「気に入った、娘。だからこそ、忠告してやる」
白面の目が、もう一度朧に向いた。
「月喰いよ。お前が契りを切ろうとするなら、その方法はひとつしかない。どちらかが消えることだ。だが──」
白面の姿が、靄のように揺らぎ始めた。
「消えることと、いなくなることは──同じではない、かもしれないぞ」
それだけ言って、白面は風に溶けるように消えた。
鳥の声が、戻ってきた。
虫の声が、戻ってきた。
林の中に、普通の昼の空気が戻った。
三人は、しばらく誰も動かなかった。
「白面は──何者だ」
蒼真が、静かに聞いた。
「古いあやかしだ」朧は言った。「俺より、ずっと古い。人と妖の境界そのものを憎んでいる」
「今日ここに来た理由は」
「わからない。だが──」
朧は柊を見た。
「俺を使うつもりがあるのかもしれない」
「使う?」
「月喰いの力は、大きい。それを誰かが利用しようとするなら──俺を封印から解いた意味がある」
「封印を解いたのは、白面だと言うの?」
朧は少し間を置いた。
「記憶の中に、白い影がある。二百年前の封印が解ける直前に、何かが近くにいた。それが白面かどうか、まだはっきりしない」
蒼真は腕を組んだ。
「話が大きくなってきた」
「ごめん」柊は言った。
「お前が謝ることじゃない」蒼真は溜息をついた。「ただ──討伐隊の問題と、白面の問題が重なった。今夜、動ける場所を確保する必要がある」
「あてはある?」
「一つ。信頼できる人間が、山向こうに隠れ里を持っている。あやかしと人間が、静かに暮らしている場所だ」
朧が、わずかに目を細めた。
「そういう場所があるのか」
「ある」蒼真は短く言った。「お前の言う
『共存できない』が、そこでは今のところ、成り立っている」
朧は蒼真を見た。
蒼真は朧を見なかった。
前を向いたまま、歩き始めた。
「行くぞ。日が暮れる前に、峠を越える」
柊は朧を見た。
朧は蒼真の背中を少しの間見ていた。
「……複雑な男だ」
「言ったでしょう」
「ああ」
朧が歩き始めた。
柊も続いた。
三人で、林の中を進んだ。
頭上で木の葉が揺れた。光が差し込んだ。
白面の言葉が、柊の胸に残っていた。
消えることと、いなくなることは、同じではない、かもしれないぞ。
その言葉の意味を、柊はまだ理解できていなかった。
でも──何かが、そこに隠れているような気がしていた。
大切な何かが。
朧を救う、何かが。
柊は歩きながら、朧の横顔をそっと見た。
銀色の瞳が、木漏れ日を受けて光っていた。
どこか遠くを見ているような、でも今ここにいるような──そういう目だった。
「朧」
「ん」
「白面の言葉、気になる?」
朧は少し考えた。
「気になる」
「私も」
「だが今は、峠を越える方が先だ」
「そうだね」
二人の足音が、林の中に重なった。
蒼真の背中が、少し先を歩いていた。
山向こうへ。隠れ里へ。
まだ見ぬ場所へ向かって、三人は歩き続けた。



