月喰いと契りの巫女

七日という時間は、残酷なほど穏やかに流れ始めた。

翌朝、柊はいつものように弁当を持って山を登った。

松の根が露出した細い道を歩きながら、柊は昨夜の夢を何度も思い返していた。白い野原。満ちた月。届かなかった手。

夢の話は、しなかった。

番小屋の前に着くと、朧は縁側に座って空を見ていた。雲ひとつない青空だった。討伐命令が出た翌日の空にしては、あまりにも穏やかだった。

「おはよう」

「ああ」

朧は空から視線を下ろして、柊を見た。
その目は、昨日と変わらなかった。銀色の、静かな目。でも昨日よりも、何か──奥に、光があるように見えた。

「食べる?」

「ああ」

弁当箱を受け取る手が、一瞬、柊の手に触れた。

どちらも、何も言わなかった。

三日目の朝、蒼真が山に来た。

柊が番小屋の前で朧に気配の練習をつけてもらっているとき、松林の向こうから蒼真の気配が近づいてきた。朧が先に気づいて、柊に目で知らせた。

蒼真は二人の前に立って、静かに言った。

「邪魔はしない。確認しに来ただけだ」

「確認?」

「月喰いがまだここにいるかどうか」

朧は蒼真を見た。蒼真も朧を見た。

二人の間の空気が、薄く張り詰めた。

「いる」と朧は言った。「まだ、ここにいる」

「……そうか」

蒼真はそれ以上何も言わず、来た道を戻り始めた。

「蒼真」

柊が呼ぶと、蒼真は立ち止まったが、振り返らなかった。

「四日後に、俺は動く。それまでに、お前が決めることがあるなら決めておけ」

それだけ言って、松林の中に消えていった。
朧は蒼真が消えた方向をしばらく見ていた。

「あの男は」

「うん」

「強い」

「……知ってる」

「俺と、正面からやり合える人間は少ない。あの男は、そのうちの一人だ」

柊は答えなかった。

答えたくなかったのではなく、答えるべき言葉が見つからなかった。

四日目の夜、朧が言った。

縁側に並んで座って、夜空を見ていたときだった。

「柊」

「うん」

「お前に聞きたいことがある」

朧の声は、いつもと同じ温度だった。静かで、低くて、感情の起伏が少ない。でも柊は、その声の奥に何か違うものが混じっているのを感じた。

「聞いて」

「俺が消えたとき、お前はどうなる」

柊の胸が、静かに収縮した。

「契りが切れれば……私も消える」

「そうだ」朧は頷いた。「だが、俺が消えたとしても、お前が生きられる方法があるなら」

「ないよ」

即座に答えた。

「それは確かか」

「確かじゃないけど──」

「確かじゃないなら、調べる価値がある」

柊は朧を見た。

朧は夜空を見たまま、続けた。

「俺は自分が消えることを怖いとは思わない。記憶がなかった頃から、俺はずっと、存在していることの意味を知らなかった。だが今は──」

朧の目が、空から柊に移った。

「お前が消えることは、嫌だ」

「……朧」

「理由を聞くな。まだ名前がわからない」

柊は小さく笑った。

笑いたいわけではなかった。でも、笑わなければ泣いてしまいそうだった。

「笑うな」

「笑ってない」

「笑っている」

「……少しだけ」

夜風が吹いた。

虫の声が遠くから聞こえた。

「朧の言いたいことは、わかる」柊は言った。「でも私は、あなたがいない世界で生きていたいとは思わない。それも、理由を聞かないで」

「……」

「どうせ、同じ答えが返ってくるから」

朧は長い間、柊を見ていた。

それから、視線を空に戻した。

「わかった」

その「わかった」が何を意味するのか、柊は問わなかった。

夜が深くなるまで、二人は並んで座っていた。

五日目。

朧の様子が、変わった。
朝、柊が番小屋に来ると、朧は珍しく中にいた。土間に座って、目を閉じていた。

「朧?」

返事がない。

柊は慌てて近づいた。膝をついて、朧の顔を覗き込む。

息はある。顔色も、悪くない。ただ——眉間に、薄く皺が寄っていた。苦しんでいるのではなく、何かを探しているような、そういう表情だった。

「……見えてくる」

朧が、目を閉じたまま言った。

「何が?」

「壊れた場所。燃えた野原。泣いている人間。……俺が、作った景色だ」

柊の手が、止まった。

「記憶が」

「断片だ。まだ全部ではない。だが──俺がかつて何をしたか、少しずつわかってくる」

朧がゆっくりと目を開けた。

銀色の瞳が、柊を見た。

「怖いか」

柊は首を振った。

「怖くない」

「嘘をつくな」

「……少し、怖い」

朧は小さく頷いた。

「正直な方がいい」

「でも」柊は続けた。「それはかつての朧の話だ。今の朧が何をしたか、私は見ている。昨夜の朧も、おとといの朧も、最初の夜の朧も──全部、私が見ている」

「……それで、十分か」

「十分だよ」

朧は柊の目をしばらく見ていた。

それから、静かに目を閉じた。

「そうか」

その声は、少しだけ──柔らかかった。

六日目の朝。

柊が番小屋への道を登り始めたとき、途中で朧と鉢合わせた。

珍しかった。朧が自分から山を下りてくることは、ほとんどなかった。

「どこか行くの?」

「お前を迎えに来た」

「迎えに?」

「昨日から、ずっと眠れていないだろう」

柊は目を瞬かせた。

「……わかるの?」

「契りが繋がっているから、お前の状態が少しわかる。昨夜は横になっていたが、眠れていなかった」

「それは──」

「言い訳はしなくていい」

朧が、柊の手を取った。

大きな手だった。温かかった。

「来い」

「どこへ」

「見せたいものがある」

朧が連れて行ったのは、山の中腹にある小さな泉だった。

人が来た形跡のない、静かな場所だった。苔生した岩の間から水が湧き出て、透明な水面が木漏れ日を受けてゆらゆらと揺れていた。

「きれい」

「ここに来ると、静かになる」

朧は岩に腰を下ろした。柊も隣に座った。
水面に映る空を、二人で見た。

「朧は、ここに一人で来ていたの?」

「時々」

「何を考えながら?」

「最初は何も。ただ静かだから来ていた」朧は少し間を置いた。「最近は、お前のことを考えながら来ていた」
柊の胸が、静かに揺れた。

「何を考えるの」

「どうすれば、お前が消えないで済むか」
泉の水音が、静かに満ちていた。

「朧」

「ん」

「私ね」柊は水面を見たまま言った。「ずっと、役に立てない自分が嫌いだった」

「知っている」

「退魔師の家に生まれて、霊力が低くて、いつも守られてばかりで。蒼真が隣にいるたびに、自分の小ささを感じていた」

「……」

「でも、あなたのそばにいるとき、初めて──ちゃんと、ここにいていいって思えた」

朧は何も言わなかった。

ただ、柊の方に少しだけ体を向けた。

「だから」柊は続けた。「七日が終わった後のことを、私はまだ考えられていない。でも──今日、ここにいることは、ちゃんと感じられている」

水面が、風で細かく揺れた。

「俺も」

朧が、静かに言った。

「今日、ここにいることは──悪くない」

それは朧の言葉の中で、最も柔らかい言葉のひとつだった。

柊は笑った。

今度は、泣きそうではなかった。

六日目の夜、朧は決断した。

柊が帰った後、朧は一人で番小屋の中に座っていた。

火を焚かず、暗い中に座っていた。

五日間、考え続けた。

柊が消えることは、嫌だ。

自分がそのために消えることは──怖くない。

しかし、それだけではない。

記憶の断片が戻るたびに、朧は自分が何者かを少しずつ理解していった。かつて自分が引き起こした災厄。燃えた集落。積み上がった犠牲。柊の一族が命がけで自分を封印した理由。

そして──このまま自分がここにいれば、契りの代償がいずれ柊の命を削り始めること。

柊はそれを、まだ知らない。

だが、朧は知っていた。

泉のそばで柊が笑っていた。水面に映る空を見ながら、「今日ここにいることは感じられている」と言っていた。
その笑顔が、朧の中で静かに燃えていた。

──俺がそばにいることで、あの笑顔が消える。

朧は立ち上がった。

番小屋の戸を開けると、夜風が入ってきた。

空には月があった。まだ満月ではなかったが、丸く、白く、輝いていた。

朧はしばらくその月を見ていた。

「……好き、か」

柊が教えてくれた言葉を、朧は静かに口にした。

誰かに渡したいと思って何かを作ること。

そばにいたいと思うこと。

消えてほしくないと思うこと。

それが全部、その言葉に含まれているのだと、朧は今夜ようやくわかった気がした。
だから──。

七日目の朝。

柊が番小屋への道を登ると、松林の中で蒼真と出会った。

蒼真は一人だった。刀を腰に差して、山道の脇に立っていた。

「蒼真」

「行くな」

蒼真の声は、静かだった。

「今日は──行かない方がいい」

「何かあったの」

「昨夜、月喰いがこちらに何かを送ってきた」

蒼真が懐から取り出したのは、折りたたまれた紙だった。

柊に差し出す。

受け取って、開く。

文字が書かれていた。朧の筆跡ではなかった。文字を覚えたばかりのような、たどたどしい、しかし丁寧な字だった。

柊へ

俺がそばにいることで、お前の命が削れる。
それを、お前にはまだ言えなかった。
俺がいなくなれば、契りは解ける。
お前が生きるために、俺は離れる。
泉のことを、たまに思い出せ。
木切れの鳥は、やる。

柊の手が、震えた。

「朧は」

声が、掠れた。

「昨夜のうちに、山を出た」蒼真は静かに言った。「追跡しようとしたが──消された。気配ごと、消した。俺には追えない」

「どこへ」

「わからない」

柊の足から、力が抜けた。

蒼真が支えた。柊の腕を、両手で掴んだ。

「柊」

「私、行かなきゃ」

「どこへ」

「朧のところへ──」

「場所がわからないと言っている」

「でも──」

「柊」

蒼真の声が、一段低くなった。

柊は蒼真を見た。

蒼真の目は、昨日より少し赤かった。眠れなかったのかもしれない、と思った。

「俺には追えない。だが、お前には──」

蒼真は言いかけて、止まった。

柊は気づいた。

契りがある。

命が繋がっている。

生きていれば、感じられる。

「行けるかもしれない」柊は言った。

「危険だ」

「わかってる」

「討伐命令は、今日から有効になる」

「わかってる」

「俺は──」

蒼真は一度、目を閉じた。

それから、開いた。

「お前を一人で行かせることは、できない」

柊は蒼真を見た。

蒼真の目は──静かだった。昨日と同じ、ひどく静かな光が宿っていた。

「蒼真」

「俺の役割が何であれ」蒼真は言った。「お前が無茶をするとき、隣にいないことは──できない。ずっと、そうだった」

柊の目が、熱くなった。

「……ありがとう」

「礼はいい」

蒼真は柊の腕から手を放して、刀の柄に触れた。

「行くなら早い方がいい。討伐隊が動く前に」

柊は手紙を胸に押し当てた。

折りたたまれた紙の中に、朧のたどたどしい文字がある。

泉のことを、たまに思い出せ。

「思い出すわけ、ないじゃない」

柊は小さく言った。

誰にも聞こえない声で。

「一緒に、また行くんだから」

松林の向こうに、朝の光が満ちていた。

柊は山道を踏み出した。

蒼真が、一歩後ろからついてきた。