月喰いと契りの巫女

朝霧がまだ山裾に残る時刻、退魔師たちの合同協議は神社の社務所で始まった。
柊は、父の隣に座っていた。

広い畳の間に、各地から集まった退魔師が十数名。老いた者も、若い者も、一様に張り詰めた顔をしていた。上座には連合の長老である桐生(きりゅう)が座り、白い顎鬚を撫でながら書状を広げている。

「月喰い復活の目撃情報、並びに昨夜の異常なあやかし活性化。これをもって、本協議を開催する」

桐生の声は低く、よく通った。

柊の手は、膝の上でそっと握られていた。

隣の父が、小声で言う。

「柊。今日は聞くだけでいい」

「……はい」

答えながら、柊は心の中で首を振った。

聞くだけでは、いられない。

協議は最初から重苦しかった。

目撃証言が読み上げられる。昨夜、山から溢れた白い光。あやかしたちを一人で退けた、

銀色の瞳の青年。その力の規模。その異質さ。

ひとつひとつの言葉が、朧のことを指していた。

「月喰いに相違ない」

最初にそう断言したのは、壮年の退魔師だった。北の分家の出身で、桐生の右腕と呼ばれる男だ。

「二百年前の封印が解けた。あの力の規模は、人の手に負える相手ではない。今すぐ合同討伐の態勢を整えるべきだ」

賛同する声が上がる。柊の胸が、静かに冷えていく。

「待ってください」

声を上げたのは、柊自身だった。

父が隣で僅かに身を固くした。部屋の視線が一斉に向く。

柊は膝の力が抜けそうになるのを、奥歯を噛んで堪えた。

「昨夜、山のあやかしを退けたのは確かです。でも、村は守られた。誰一人、傷ついていない。それは──」

「月喰いが意図的に人を守ったと言いたいのか」

壮年の退魔師が、静かに、しかしはっきりと遮った。

「あの妖が今は穏やかに見えても、過去に何をしたか知らないわけではあるまい。二百年前、月喰いが引き起こした災厄で、いくつの集落が消えた。いくつの命が失われた」
柊は答えられなかった。

記録は、読んだ。

消えた集落の名前も。積み上げられた犠牲の数も。

「封印が解けた以上、再び封印するか、討伐するかの二択しかない」桐生が静かに言った。「柊家の娘よ。お前の気持ちはわかる。だが感情で動く話ではない」

「……封印ならば」

柊は声を絞り出した。

「封印ならば、討伐しなくても──」

「封印の術式を覚えているか」

桐生の問いに、柊は黙り込んだ。

封印の儀式は、柊家の秘伝だ。だが、それを受け継いでいるのは父であり、柊ではない。

「封印には莫大な霊力と、対象の完全な無力化が必要だ。現状、それができる者がいない」桐生は静かに続けた。「月喰いに近づくことのできる者も、いない。昨夜の力の規模を見た者なら、わかるはずだ」

部屋が沈黙に沈む。

柊の父が、ゆっくりと口を開いた。

「……月喰いの現在地は、把握しているか」

その問いに、柊の背筋が冷えた。

「把握している」

答えたのは、入口近くに座っていた蒼真だった。

声は静かで、揺れていなかった。

柊は思わず蒼真を見た。蒼真はまっすぐ前を向いたまま、柊の視線を受け取らなかった。

「昨夜、単独で追跡した。現在は山の中腹にいる。逃亡の気配はない」

「蒼真」

思わず名前を呼んだ。

蒼真はそこで初めて、柊に目を向けた。

その目は──静かだった。怒りでも、冷たさでもなく。ただ、ひどく静かな光が宿っていた。

「昨夜、俺が見たのは事実だ。月喰いの力を持ったあやかしが、確かにそこにいた」

「それは──」

「そして、お前がその光の中に入るのも見た」

蒼真の言葉が、部屋に落ちた。

空気が変わった。柊の父が、鋭く柊を見る。

「柊。どういうことだ」

「……私が、朧を──月喰いを、呼び戻した。力の暴走を、声で収めた」

「お前が近づいたのか。なぜ──」

「契りを結んでいるから」

柊は顔を上げた。

もう隠すことはできない。隠すべきでもない、と思った。

「満月の夜に触れ合ったとき、命を繋ぐ契りが結ばれました。彼が死ねば私も消え、私が死ねば彼も消える。それが、今の状況です」

沈黙。

そして、部屋の温度がはっきりと下がった。

協議が終わったのは、昼を過ぎた頃だった。

結論は、出た。

「月喰いへの討伐命令を発動する。ただし実行は七日後とし、その間に自主封印もしくは自主出頭の機会を与える」

桐生の声は穏やかだったが、その言葉の意味は明確だった。

七日後、朧は討伐される。

柊は社務所を出て、縁側に座り込んだ。

足に力が入らなかった。

「柊」

蒼真が後ろから来た。

柊は振り返らなかった。

「……なぜ、言ったの」

「事実だから」

「蒼真は昨夜、今夜だけは手を出さないと言ったのに」

「手は出していない」蒼真は静かに言った。

「事実を伝えただけだ。俺が黙っていたとしても、誰かが話した。柊、お前が話した。どちらにせよ、結果は変わらなかった」

「……」

「それに」

蒼真が縁側に並んで座った。柊との間に、少しだけ距離を置いて。

「昨夜、お前が光の中に踏み込むのを見たとき、俺はどうしようかと思った」

声に感情がなかった。感情がないからこそ、重かった。

「助けに行こうとした。でも行ったら、俺がいることで朧の力が乱れるかもしれなかった。だから動けなかった。……お前が光の中から出てくるまで、俺はただ立って、動けなかった」

柊は蒼真の横顔を見た。

日に焼けた輪郭。固く結ばれた口元。まつ毛の長い、伏せられた目。

幼い頃から知っているその顔が、昨日から少し違って見えた。

「ごめん」

「謝らなくていい」蒼真は即座に言った。

「俺が選んで、あそこに立っていた。お前に選ばせたのも、俺だ」

風が吹いた。

遠くで鳥が鳴いた。

「蒼真は……朧を、斬れる?」

柊の問いに、蒼真はすぐには答えなかった。

長い沈黙の後、彼はゆっくりと息を吐いた。

「命令が下りれば、動く。それが俺の役割だ」

「それは答えになっていない」

「……お前に正直に言える答えを、俺はまだ持っていない」

それが蒼真の、精一杯の言葉のように聞こえた。

柊が番小屋に着いたのは、夕刻だった。

朧は戸口の前に座って、何かを削っていた。木切れだ。小刀を使って、少しずつ形を整えている。

柊の気配に気づいて顔を上げる。銀色の瞳が、夕日を受けて淡く光った。

「遅かった」

「ごめん。協議が長くなって」

「そうか」

朧は手を止めず、木切れを削り続けた。

柊は傍らに座った。膝を抱えて、夕焼けを見た。

「朧」

「ん」

「討伐命令が、出た」

手が止まった。

「七日後に、討伐される。出頭するか、封印に応じるか──それ以外の選択肢は、なかった」

静寂。

朧は木切れを見たまま、動かなかった。

「……そうか」

それだけだった。

怒りも、恐怖も、声に出なかった。

「朧。逃げてほしい」

柊は膝を抱えたまま言った。

「契りがあるから、遠くに行ったら私も連れて行くことになる。でも、それでも──遠くへ行って。誰にも見つからないところへ。討伐される前に」

「それが、お前の望みか」

「それが、あなたを守れる唯一の方法だと思う」

朧はゆっくりと顔を上げた。

夕日を背に、その顔が柊に向いた。

「柊」

「……うん」

「俺が逃げたとき、お前はどうする」

「私も──」

「お前の仲間が追ってくる。お前の幼なじみが追ってくる。お前の一族が、敵になる」

柊は黙った。

「それでも来るか」

「……来る」

答えた瞬間、自分でも驚くほどはっきりとした声が出た。

朧は柊を見た。

何かを確かめるように、長く見た。

「俺は今まで、消えてもいいと思っていた」

静かな声だった。

「記憶がなくて、存在している理由がわからなかった。お前と契りを結んだことも、ただの偶然で、ただの縛りだと思っていた」

「……朧」

「今は、違う」

朧が、木切れを差し出した。

削りかけの、小さな形。まだ途中で、何になるかわからない。でも──柊には、わかった。

鳥の形だった。

「これを作りながら、考えていた。誰かのために何かを作るのは、初めてだと思う。お前に渡したいと思って、作り始めた。……それが何という感情か、名前はまだわからない」

柊は木切れを受け取った。

温かかった。朧の手の温度が、まだ残っていた。

「教えてあげる」

柊は木切れを両手で包んで、朧を見た。

目の奥が熱くなるのを、堪えながら。

「それは、好きって気持ちだよ」

朧は少しの間、その言葉を飲み込むように黙っていた。

「……好き」

「うん」

「そうか」

朧は再び夕日を見た。その横顔に、何か柔らかいものが宿っていた。

「七日、ある」

「……うん」

「俺は、答えを出す」

柊には、その「答え」が何を意味するか、問えなかった。

問うのが、怖かった。

夕日が山の向こうに沈んでいく。空の色が橙から藍へと変わる中、二人は並んで座っていた。

削りかけの小鳥が、柊の手の中で静かに収まっていた。

その夜、柊は夢を見た。

真っ白な野原。月が満ちている。

遠くに朧が立っていた。

手を伸ばした。

届かなかった。

目が覚めたとき、外はまだ暗く、木切れの小鳥が枕元に置かれていた。

七日。
それが、残された時間だった。