協議の前日、山に異変が起きた。
昼過ぎのことだった。
柊が番小屋で朧と文献を読んでいると、山全体が揺れた。地震ではない。霊的な揺らぎだった。柊でも感じ取れるほど、濃い瘴気が山の奥から流れてきた。
「朧さん」
「わかっている」
朧はすでに立っていた。窓の外を見ている。その目が、鋭くなっていた。
「何ですか、これは」
「あやかしだ。ただし、昨夜俺の力が溢れた影響を受けている」
「影響を受けた?」
「月喰いの力は、周囲のあやかしを刺激する。昨夜の余波が、山に潜んでいたあやかしたちを活性化させた」
柊は窓の外を見た。山の木々が、不自然に揺れていた。鳥が一斉に飛び立つ音がした。
「どのくらいいますか」
「多い。十以上」
十以上。柊一人では、到底対処できない数だった。
「麓の村に向かわなければ、問題はないか」
「向かう。活性化したあやかしは、人の気配に引き寄せられる。このままでは、山を下りる」
柊は式紙を確認した。今日は多めに持ってきていた。でも十以上のあやかしには、焼け石に水だ。
「蒼真さんに連絡します」
「間に合わない」
「でも」
「麓まであと一刻もない。今すぐ動かなければ」
朧は番小屋を出た。
柊も続いた。
山の中は、すでに異様だった。
木々の影が、動いていた。獣の形をしているが、目が赤く、動きが不自然だった。憑かれたあやかしたちが、山を下りようとしていた。
朧は先頭に立った。柊はその後ろについた。
「俺が前に出る。お前は後方を」
「わかりました」
「逃げる場合は、俺より先に逃げろ」
「逃げません」
「命令だ」
「聞きません」
朧が柊を振り返った。その目が、困惑に近い何かを浮かべていた。
「難しい人間だ」
「朧さんほどではないです」
かすかに、朧の表情が動いた。
困惑が、何か別のものになった。それが何なのか、柊にはわからなかった。でも悪いものではなかった。
前方で、最初のあやかしが姿を現した。
朧の戦い方を、柊は初めてまともに見た。
廃社の夜は、柊自身が限界だったから、ろくに見ていなかった。
朧は武器を使わなかった。構えも取らなかった。ただ立って、手を向けるだけだった。
青白い光が、指先から伸びた。それがあやかしに触れた瞬間、あやかしは声もなく消えた。祓われたのではなく、浄化された、という方が近い。瘴気が散り、残ったのは何もなかった。
速かった。
一体目が消えた瞬間、両側から二体が飛びかかってきた。朧は振り返りもせずに両腕を広げた。光が円を描いた。二体同時に、消えた。
柊は後方を担当した。朧の背後に回り込もうとするあやかしを、式紙で封じ、足止めした。完全に祓えなくても、動きを止めれば朧が対処できる。
「左に二体、回り込んでいます」
「わかった」
連携が、自然にできていた。言葉を交わすほどではない。互いの動きを感じながら、補い合っていた。
十体目が消えたとき、山が静かになった。
柊は息をついた。膝が少し笑っていた。恐怖で体が強張っていたのが、今になって抜けていく。
「終わりましたか」
「まだいる」
朧が言った。
声が、違った。
柊は朧を見た。
朧は山の奥を見ていた。その目が、今朝とも昨夜とも違う光を宿していた。月が出ているわけではない。昼間だった。それでも、朧の目が青白く輝いていた。
「朧さん」
「奥に、強いものがいる」
「強い、とはどのくらい」
「昨夜の俺が相手にできるかどうか、ギリギリのあたりだ」
昨夜の満月の力で、ギリギリ。それは相当な強さだということだ。
「何ですか、そんなものが山の中に」
「昨夜の余波で呼び寄せた。俺の責任だ」
朧は山の奥に向かって歩き始めた。
「待ってください」
「来るな」
「一人では」
「来るなと言った」
柊は止まった。
朧の声が、今日初めて、強かった。命令するような、有無を言わせない声だった。
「……約束してください」
「何を」
「戻ってくると」
朧は振り返らなかった。
「約束という概念が、まだよくわからない」
「なら、戻ってきてください。それだけでいいです」
朧は少し立ち止まった。
「……待っていろ」
それだけ言って、山の奥に入っていった。
柊は番小屋の前で待った。
待ちながら、式紙の残りを数えた。八枚あった。足りないかもしれないが、ないよりはいい。
蒼真に連絡を、と思ったが、使い走りのあやかしを使う術式は柊には難しかった。ただ待つしかなかった。
山の奥から、音が聞こえた。
轟音だった。木々が倒れる音、何かが爆発するような衝撃音。それから、静寂。
長い静寂が続いた。
柊は立ち上がった。
待っていろと言われた。でも静寂が長すぎた。何かあったのか、それとも終わったのか。
山の奥に向かおうとしたとき、気配がした。
朧だった。
木々の間から、朧が歩いてきた。
着物が、ところどころ焦げていた。右の袖が半分なくなっていた。髪が乱れていた。それでも、歩いていた。
「朧さん」
駆け寄った。
朧は柊を見て、少し目を細めた。
「待っていた」
「当たり前です。怪我は」
「大したことはない」
「大したことないはずがないです、その格好で」
袖が焦げた腕を見ると、皮膚が赤くなっていた。やけどのような痕だった。
「痛みは感じないと言いましたが、傷は受けるんですね」
「そうらしい」
「早手当てが必要です」
番小屋に朧を引っ張り込み、救急箱を開けた。腕の傷を確認する。深くはないが、範囲が広かった。
「相手は何でしたか」
「山神の眷属だ。古いあやかしで、本来は山に留まる性質のものが、昨夜の余波で理性を失っていた」
「山神の眷属を、一人で」
「昨夜の満月の余韻がまだある。今日は力が使えた」
柊は傷に薬を塗りながら、朧の顔を見た。疲れているかどうか、表情からはわからない。でも目の輝きが、少し落ち着いていた。
「無茶をしないでください」
「お前が同じことを言うのか」
「言います」
「お前に言われるのは」
「なんですか」
朧は少し黙った。
「妙な感じがする」
「どんな感じですか」
「胸の奥が、しょうがないと言いながら、温かい」
柊は包帯を巻きながら、笑いをこらえた。
「それは、嬉しいという感覚に近いかもしれないです」
「心配されることが、嬉しいのか」
「大切に思われているとわかるから、嬉しいんです」
朧はそれを聞いて、黙った。
窓の外で、山が静かになっていた。あやかしの気配が、消えていた。
「今日のことが知られれば、協議の結果が変わるかもしれない」
朧が言った。
「どういうことですか」
「月喰いが山のあやかしを暴走させた、と取られる。討伐の理由が、また一つ増えた」
柊は包帯を巻き終えて、手を止めた。
「でも、村は守られた」
「そう取ってもらえるかどうか、わからない」
「私が、そう言います」
「柊」
「明日の協議で、言います。月喰いが村を守ったと」
朧は柊を見た。
「お前は、なぜいつもそうなのだ」
「そういう人間だからです」
「そういう人間とは」
「信じると決めたら、曲げません」
朧は柊から目を逸らした。窓の外を見た。
山が、夕暮れに染まり始めていた。
「今日、お前と戦った」
「はい」
た「連携が、できていた」
「朧さんが上手いから、私も合わせやすかっただけです」
「そうではない。お前の判断が、速くなっていた」
柊は少し驚いた。
「そうですか」
「練習の成果だ。気配を読む速さが、最初とは違う」
柊は自分の手を見た。式紙を握っていた手。今日、躊躇なく動いた手。
「朧さんが教えてくれたから」
「俺は言っただけだ。動いたのはお前だ」
「それでも」
「柊」
「はい」
「今日、お前が後方を守ってくれた。俺が前に集中できたのは、後ろを任せられたからだ」
柊は朧を見た。
朧は窓の外を見ていた。夕陽が、その横顔を橙色に染めていた。
「お前は、役に立った」
静かな言葉だった。
でも柊の胸に、その言葉はとても大きく落ちた。
役に立ちたい、とずっと思っていた。退魔師として、誰かのために。でもいつも力が足りなかった。いつも守られる側だった。
今日、初めて、役に立てた。
「……ありがとうございます」
声が、少し震えた。
朧は柊を見た。
「泣くことか」
「泣いていないです」
「目が赤い」
「気のせいです」
「気のせいではない」
柊は目をこすった。涙は出ていなかった。でも目の奥が熱かった。
「嬉しくて、少し」
「嬉しいのか」
「役に立てたと言われると、すごく嬉しいんです。昔からずっと、そう言われたかったから」
朧は柊を見ていた。
長い間、見ていた。
それから、ゆっくりと言った。
「お前は、十分すぎるほど役に立っている」
夕陽が沈んだ。
部屋の中が、薄暗くなった。
柊は俯いた。瞳の奥が、また熱くなった。
今度は、こらえなかった。
一粒だけ、涙が落ちた。
朧は何も言わなかった。
ただ、柊の隣に座ったまま、夕暮れの山を一緒に見ていた。
明日、協議がある。
何が起きるかわからない。でも今夜この瞬間、柊には、戦う理由が確かにあった。
隣にいるこの人を、守りたい。
それが、柊の答えだった。
昼過ぎのことだった。
柊が番小屋で朧と文献を読んでいると、山全体が揺れた。地震ではない。霊的な揺らぎだった。柊でも感じ取れるほど、濃い瘴気が山の奥から流れてきた。
「朧さん」
「わかっている」
朧はすでに立っていた。窓の外を見ている。その目が、鋭くなっていた。
「何ですか、これは」
「あやかしだ。ただし、昨夜俺の力が溢れた影響を受けている」
「影響を受けた?」
「月喰いの力は、周囲のあやかしを刺激する。昨夜の余波が、山に潜んでいたあやかしたちを活性化させた」
柊は窓の外を見た。山の木々が、不自然に揺れていた。鳥が一斉に飛び立つ音がした。
「どのくらいいますか」
「多い。十以上」
十以上。柊一人では、到底対処できない数だった。
「麓の村に向かわなければ、問題はないか」
「向かう。活性化したあやかしは、人の気配に引き寄せられる。このままでは、山を下りる」
柊は式紙を確認した。今日は多めに持ってきていた。でも十以上のあやかしには、焼け石に水だ。
「蒼真さんに連絡します」
「間に合わない」
「でも」
「麓まであと一刻もない。今すぐ動かなければ」
朧は番小屋を出た。
柊も続いた。
山の中は、すでに異様だった。
木々の影が、動いていた。獣の形をしているが、目が赤く、動きが不自然だった。憑かれたあやかしたちが、山を下りようとしていた。
朧は先頭に立った。柊はその後ろについた。
「俺が前に出る。お前は後方を」
「わかりました」
「逃げる場合は、俺より先に逃げろ」
「逃げません」
「命令だ」
「聞きません」
朧が柊を振り返った。その目が、困惑に近い何かを浮かべていた。
「難しい人間だ」
「朧さんほどではないです」
かすかに、朧の表情が動いた。
困惑が、何か別のものになった。それが何なのか、柊にはわからなかった。でも悪いものではなかった。
前方で、最初のあやかしが姿を現した。
朧の戦い方を、柊は初めてまともに見た。
廃社の夜は、柊自身が限界だったから、ろくに見ていなかった。
朧は武器を使わなかった。構えも取らなかった。ただ立って、手を向けるだけだった。
青白い光が、指先から伸びた。それがあやかしに触れた瞬間、あやかしは声もなく消えた。祓われたのではなく、浄化された、という方が近い。瘴気が散り、残ったのは何もなかった。
速かった。
一体目が消えた瞬間、両側から二体が飛びかかってきた。朧は振り返りもせずに両腕を広げた。光が円を描いた。二体同時に、消えた。
柊は後方を担当した。朧の背後に回り込もうとするあやかしを、式紙で封じ、足止めした。完全に祓えなくても、動きを止めれば朧が対処できる。
「左に二体、回り込んでいます」
「わかった」
連携が、自然にできていた。言葉を交わすほどではない。互いの動きを感じながら、補い合っていた。
十体目が消えたとき、山が静かになった。
柊は息をついた。膝が少し笑っていた。恐怖で体が強張っていたのが、今になって抜けていく。
「終わりましたか」
「まだいる」
朧が言った。
声が、違った。
柊は朧を見た。
朧は山の奥を見ていた。その目が、今朝とも昨夜とも違う光を宿していた。月が出ているわけではない。昼間だった。それでも、朧の目が青白く輝いていた。
「朧さん」
「奥に、強いものがいる」
「強い、とはどのくらい」
「昨夜の俺が相手にできるかどうか、ギリギリのあたりだ」
昨夜の満月の力で、ギリギリ。それは相当な強さだということだ。
「何ですか、そんなものが山の中に」
「昨夜の余波で呼び寄せた。俺の責任だ」
朧は山の奥に向かって歩き始めた。
「待ってください」
「来るな」
「一人では」
「来るなと言った」
柊は止まった。
朧の声が、今日初めて、強かった。命令するような、有無を言わせない声だった。
「……約束してください」
「何を」
「戻ってくると」
朧は振り返らなかった。
「約束という概念が、まだよくわからない」
「なら、戻ってきてください。それだけでいいです」
朧は少し立ち止まった。
「……待っていろ」
それだけ言って、山の奥に入っていった。
柊は番小屋の前で待った。
待ちながら、式紙の残りを数えた。八枚あった。足りないかもしれないが、ないよりはいい。
蒼真に連絡を、と思ったが、使い走りのあやかしを使う術式は柊には難しかった。ただ待つしかなかった。
山の奥から、音が聞こえた。
轟音だった。木々が倒れる音、何かが爆発するような衝撃音。それから、静寂。
長い静寂が続いた。
柊は立ち上がった。
待っていろと言われた。でも静寂が長すぎた。何かあったのか、それとも終わったのか。
山の奥に向かおうとしたとき、気配がした。
朧だった。
木々の間から、朧が歩いてきた。
着物が、ところどころ焦げていた。右の袖が半分なくなっていた。髪が乱れていた。それでも、歩いていた。
「朧さん」
駆け寄った。
朧は柊を見て、少し目を細めた。
「待っていた」
「当たり前です。怪我は」
「大したことはない」
「大したことないはずがないです、その格好で」
袖が焦げた腕を見ると、皮膚が赤くなっていた。やけどのような痕だった。
「痛みは感じないと言いましたが、傷は受けるんですね」
「そうらしい」
「早手当てが必要です」
番小屋に朧を引っ張り込み、救急箱を開けた。腕の傷を確認する。深くはないが、範囲が広かった。
「相手は何でしたか」
「山神の眷属だ。古いあやかしで、本来は山に留まる性質のものが、昨夜の余波で理性を失っていた」
「山神の眷属を、一人で」
「昨夜の満月の余韻がまだある。今日は力が使えた」
柊は傷に薬を塗りながら、朧の顔を見た。疲れているかどうか、表情からはわからない。でも目の輝きが、少し落ち着いていた。
「無茶をしないでください」
「お前が同じことを言うのか」
「言います」
「お前に言われるのは」
「なんですか」
朧は少し黙った。
「妙な感じがする」
「どんな感じですか」
「胸の奥が、しょうがないと言いながら、温かい」
柊は包帯を巻きながら、笑いをこらえた。
「それは、嬉しいという感覚に近いかもしれないです」
「心配されることが、嬉しいのか」
「大切に思われているとわかるから、嬉しいんです」
朧はそれを聞いて、黙った。
窓の外で、山が静かになっていた。あやかしの気配が、消えていた。
「今日のことが知られれば、協議の結果が変わるかもしれない」
朧が言った。
「どういうことですか」
「月喰いが山のあやかしを暴走させた、と取られる。討伐の理由が、また一つ増えた」
柊は包帯を巻き終えて、手を止めた。
「でも、村は守られた」
「そう取ってもらえるかどうか、わからない」
「私が、そう言います」
「柊」
「明日の協議で、言います。月喰いが村を守ったと」
朧は柊を見た。
「お前は、なぜいつもそうなのだ」
「そういう人間だからです」
「そういう人間とは」
「信じると決めたら、曲げません」
朧は柊から目を逸らした。窓の外を見た。
山が、夕暮れに染まり始めていた。
「今日、お前と戦った」
「はい」
た「連携が、できていた」
「朧さんが上手いから、私も合わせやすかっただけです」
「そうではない。お前の判断が、速くなっていた」
柊は少し驚いた。
「そうですか」
「練習の成果だ。気配を読む速さが、最初とは違う」
柊は自分の手を見た。式紙を握っていた手。今日、躊躇なく動いた手。
「朧さんが教えてくれたから」
「俺は言っただけだ。動いたのはお前だ」
「それでも」
「柊」
「はい」
「今日、お前が後方を守ってくれた。俺が前に集中できたのは、後ろを任せられたからだ」
柊は朧を見た。
朧は窓の外を見ていた。夕陽が、その横顔を橙色に染めていた。
「お前は、役に立った」
静かな言葉だった。
でも柊の胸に、その言葉はとても大きく落ちた。
役に立ちたい、とずっと思っていた。退魔師として、誰かのために。でもいつも力が足りなかった。いつも守られる側だった。
今日、初めて、役に立てた。
「……ありがとうございます」
声が、少し震えた。
朧は柊を見た。
「泣くことか」
「泣いていないです」
「目が赤い」
「気のせいです」
「気のせいではない」
柊は目をこすった。涙は出ていなかった。でも目の奥が熱かった。
「嬉しくて、少し」
「嬉しいのか」
「役に立てたと言われると、すごく嬉しいんです。昔からずっと、そう言われたかったから」
朧は柊を見ていた。
長い間、見ていた。
それから、ゆっくりと言った。
「お前は、十分すぎるほど役に立っている」
夕陽が沈んだ。
部屋の中が、薄暗くなった。
柊は俯いた。瞳の奥が、また熱くなった。
今度は、こらえなかった。
一粒だけ、涙が落ちた。
朧は何も言わなかった。
ただ、柊の隣に座ったまま、夕暮れの山を一緒に見ていた。
明日、協議がある。
何が起きるかわからない。でも今夜この瞬間、柊には、戦う理由が確かにあった。
隣にいるこの人を、守りたい。
それが、柊の答えだった。



