満月の翌日、退魔師たちの間に噂が広まった。
山間で異常な霊気が観測された。月喰いの復活を示す兆候がある。そういう話が、柊の耳にも届いた。
父が、朝から険しい顔をしていた。
朝食の席で、父は一言も喋らなかった。母が気を遣うように話しかけても、短く答えるだけだった。食事を終えると、書斎に篭った。
柊は食器を片付けながら、耳を澄ませた。
書斎の方から、低い声が聞こえた。父が誰かと話している。文言からすると、他の退魔師家との連絡だった。
月喰いの件について、協議が始まっていた。
昼前に、山に向かった。
今日の竹籠は、いつもより重かった。食事だけでなく、書斎から持ち出せる文献を詰め込んでいた。封印に関する記述、月喰いの弱点、力の制御に関するもの。使えるものが何かあるかもしれないと思って。
番小屋に着くと、朧は外にいた。
昨夜とは別人のように、落ち着いていた。座って山を見ている。顔色も、昨夜の白さとは違う、いつもの静けさに戻っていた。
「おはようございます」
「ああ」
「体は」
「問題ない」
「昨夜より、顔色がよいです」
「月が沈めば、力も落ち着く」
柊は隣に腰を下ろした。山の空気が、昨日より澄んでいた。
「退魔師たちの間で、話が広まっています」
「知っている。気配でわかる」
「朧さんは、どうするつもりですか」
朧は山を見たまま、少し間を置いた。
「どうするとは」
「このまま、ここにいますか」
「お前はどうしてほしい」
柊は膝を抱えた。
「いてほしいです。でも、それを言う権利が私にあるかどうか」
「なぜ権利の話になる」
「私の一族が封印した存在だから。あなたを縛った血筋だから」
朧は柊を見た。
「それをまだ気にしているのか」
「気にしないでいられません」
「俺は気にしていない」
「でも」
「柊」
静かに、名前を呼ばれた。
「過去に何があったかと、今お前がどういう人間かは、別の話だ」
柊は朧を見た。
「お前は俺を匿った。食事を持ってきた。名前をくれた。感情の名前を教えた。昨夜は光の中に入ってきた」
「それは」
「俺がお前の一族に封印されたことと、お前がそれをしたことは、別だ」
柊の目が、じわりと熱くなった。
泣くまいと思った。でも朧がそういう言い方をするから、こらえるのが難しかった。
「……ありがとうございます」
「礼を言うことではない」
「でも、ありがとうございます」
朧は柊から目を逸らした。山の方を見た。その横顔に、いつもと違う何かがあった。柊にはまだ、それを名前で呼べなかった。
昼過ぎ、蒼真が来た。
今日は装束を着ていた。任務として来たのだとわかった。
「柊」
「わかっています」
「話を聞いてくれ」
「聞きます」
蒼真は朧を見た。朧は立ち上がりも逃げようともせず、そこに座っていた。
「昨夜の件が、各家に伝わった。月喰いの復活と判断された。明後日、合同で協議が行われる。討伐か、再封印か、その方針を決める」
「再封印という選択肢もあるんですか」
「ある。ただ、前回の封印には相当の代償が必要だった。それを誰が担うか、という問題がある」
柊は朧を見た。朧は蒼真の言葉を、表情を変えずに聞いていた。
「朧さんに、意見を言う機会はありますか」
「協議の場に、討伐対象を連れていくことはできない」
「ならば、私が代わりに言います」
「柊」
「言えることを言います。何も言わないよりはいい」
蒼真は少し黙った。
「……お前が協議に来ることは、できる。退魔師の家の者として。ただ、その場で月喰いを匿っていたことが知れれば、お前の家への影響も出る」
「わかっています」
「父上にも、知られることになる」
「それも、わかっています」
蒼真は柊の目を見た。
「本気か」
「はい」
「後悔しないか」
「後悔するかもしれません。でも、黙っていることの方が後悔します」
蒼真は長い間、柊を見ていた。やがて小さく息をついた。
「……わかった。明後日の協議に、お前も来い。俺が話をつける」
「ありがとうございます」
「礼はいい」
蒼真は朧を見た。
「お前は、明後日までここにいるか」
「いる」
「逃げないか」
「逃げない」
蒼真はそれを聞いて、少し目を細めた。何かを考えるように。
「一つ聞く」
「なんだ」
「柊のことを、どう思っている」
番小屋に、静寂が落ちた。
朧は蒼真を見た。長い間、見た。
「大切だ」
短く、言った。
「それだけか」
「今の俺には、それだけしかわからない。でも確かにそうだ」
蒼真は目を逸らした。窓の外を見た。山の緑を、しばらく見ていた。
「……そうか」
低く言って、立ち上がった。
「明後日、迎えに来る」
出ていく蒼真の背中を、柊は見送った。
その背中が、今日は昨日より重そうに見えた。
夕方、柊は持ってきた文献を開いた。
封印の術式に関する記述を、朧と一緒に読んだ。朧は文献を見ながら、時々質問した。難解な言い回しの意味を聞いたり、術式の仕組みを確かめたりした。
「前回の封印は、術者の霊力の大半を使った」
「はい。先祖の記録に、そう書いてありました」
「再封印ならば、また誰かがそれをする」
「そうなります」
「柊家の者がやることになるかもしれない」
柊は文献から目を上げた。
「そうかもしれません」
「お前がやるつもりか」
「もし私にできるなら」
「霊力が低いと言った」
「そうです。だから、できないかもしれない」
「できなければ」
「他の誰かがします」
朧は文献を見た。
「その誰かが、代償を払う」
「はい」
「俺のために」
柊は朧を見た。朧は文献の文字を追いながら、静かに言った。
「俺は、誰かに代償を払わせる価値がある存在なのか」
「朧さん」
「月喰いは、かつて人々を苦しめた。その存在を封じるために、また誰かが傷つく」
「あなたは今、誰も苦しめていない」
「昨夜、お前を吹き飛ばした」
「意図してやったのではないでしょう」
「意図していなくても、お前は傷ついた」
柊は文献を閉じた。
「朧さんは、自分には価値がないと思っているんですか」
朧は答えなかった。
「記憶がないから、かつて何をしたかわからない。でも今のあなたは、私に名前を尋ね、感情を覚え、木切れの鳥を窓際に飾る人です」
「それが価値かどうかは、わからない」
「私にはわかります」
「柊」
「あなたがいることに、意味があります。少なくとも私にとっては」
朧は柊を見た。
夕陽が窓から差し込み、朧の顔を橙色に染めた。その目に、今日初めて、揺れるものが見えた。
「なぜそこまで言える」
「信じているからです」
「何を」
「あなたを」
朧は目を逸らした。窓の外を見た。
「俺は、信じられる存在かどうか、わからない」
「わからなくていいです」
「なぜ」
「信じるのは私が決めることで、あなたが決めることではないから」
風が吹いた。夕陽が傾いて、部屋の中が橙色に染まった。
朧は窓の外を見たまま、長い沈黙の後に言った。
「俺には、信じるということが、まだわからない」
「そうですね」
「でも」
「でも?」
「信じられているという感覚が、少しわかる気がする」
柊は朧の横顔を見た。
「どんな感覚ですか」
「胸の奥が、重い」
「重い?」
「温かいのに、重い。それが、信じられているということかもしれない」
柊は少し考えて、微笑んだ。
「それは、大切にされているという感覚だと思います」
「大切に、される」
「誰かに大切にされると、嬉しいのに、少し重くなります。相手を大切にしなければ、という気持ちが生まれるから」
朧は、その言葉を静かに噛みしめていた。
「そうか」
「はい」
「ならば俺は、お前に大切にされているのか」
「そうです」
「……そうか」
短い返事だったが、その声に今まで聞いたことのない温度があった。柊は胸の奥が、ふわりと温かくなるのを感じた。
夕陽が沈んだ。
部屋の中が、薄暗くなった。
柊は立ち上がり、帰り支度を始めた。
「明日も来ます」
「ああ」
「明後日は、協議があります。朧さんのために、言えることを言ってきます」
「柊」
「はい」
「無理をするな」
「無理ではないです」
「お前にとって、危険なことだ」
「でも、やります」
朧は柊を見た。
「なぜ、そこまで」
「それでも信じる、と決めたからです」
朧は返事をしなかった。
柊は戸口で振り返った。
「おやすみなさい、朧さん」
「……ああ」
山道を下りながら、柊は空を見た。
昨夜の満月より、少し欠けた月が昇っていた。でもまだ明るく、山道を白く照らしていた。
二日後、協議がある。
何を言えばいい。どう言えばいい。柊に、
退魔師たちを動かす言葉があるかどうか、わからない。霊力も低く、実績もない、失敗続きの退魔師だ。
でも。
足を止めて、月を見た。
それでも信じると、決めた。
それだけで、今夜は十分だと思った。
月明かりの下、柊は山を下りた。草を踏む足音が、夜の静寂に溶けていった。
山間で異常な霊気が観測された。月喰いの復活を示す兆候がある。そういう話が、柊の耳にも届いた。
父が、朝から険しい顔をしていた。
朝食の席で、父は一言も喋らなかった。母が気を遣うように話しかけても、短く答えるだけだった。食事を終えると、書斎に篭った。
柊は食器を片付けながら、耳を澄ませた。
書斎の方から、低い声が聞こえた。父が誰かと話している。文言からすると、他の退魔師家との連絡だった。
月喰いの件について、協議が始まっていた。
昼前に、山に向かった。
今日の竹籠は、いつもより重かった。食事だけでなく、書斎から持ち出せる文献を詰め込んでいた。封印に関する記述、月喰いの弱点、力の制御に関するもの。使えるものが何かあるかもしれないと思って。
番小屋に着くと、朧は外にいた。
昨夜とは別人のように、落ち着いていた。座って山を見ている。顔色も、昨夜の白さとは違う、いつもの静けさに戻っていた。
「おはようございます」
「ああ」
「体は」
「問題ない」
「昨夜より、顔色がよいです」
「月が沈めば、力も落ち着く」
柊は隣に腰を下ろした。山の空気が、昨日より澄んでいた。
「退魔師たちの間で、話が広まっています」
「知っている。気配でわかる」
「朧さんは、どうするつもりですか」
朧は山を見たまま、少し間を置いた。
「どうするとは」
「このまま、ここにいますか」
「お前はどうしてほしい」
柊は膝を抱えた。
「いてほしいです。でも、それを言う権利が私にあるかどうか」
「なぜ権利の話になる」
「私の一族が封印した存在だから。あなたを縛った血筋だから」
朧は柊を見た。
「それをまだ気にしているのか」
「気にしないでいられません」
「俺は気にしていない」
「でも」
「柊」
静かに、名前を呼ばれた。
「過去に何があったかと、今お前がどういう人間かは、別の話だ」
柊は朧を見た。
「お前は俺を匿った。食事を持ってきた。名前をくれた。感情の名前を教えた。昨夜は光の中に入ってきた」
「それは」
「俺がお前の一族に封印されたことと、お前がそれをしたことは、別だ」
柊の目が、じわりと熱くなった。
泣くまいと思った。でも朧がそういう言い方をするから、こらえるのが難しかった。
「……ありがとうございます」
「礼を言うことではない」
「でも、ありがとうございます」
朧は柊から目を逸らした。山の方を見た。その横顔に、いつもと違う何かがあった。柊にはまだ、それを名前で呼べなかった。
昼過ぎ、蒼真が来た。
今日は装束を着ていた。任務として来たのだとわかった。
「柊」
「わかっています」
「話を聞いてくれ」
「聞きます」
蒼真は朧を見た。朧は立ち上がりも逃げようともせず、そこに座っていた。
「昨夜の件が、各家に伝わった。月喰いの復活と判断された。明後日、合同で協議が行われる。討伐か、再封印か、その方針を決める」
「再封印という選択肢もあるんですか」
「ある。ただ、前回の封印には相当の代償が必要だった。それを誰が担うか、という問題がある」
柊は朧を見た。朧は蒼真の言葉を、表情を変えずに聞いていた。
「朧さんに、意見を言う機会はありますか」
「協議の場に、討伐対象を連れていくことはできない」
「ならば、私が代わりに言います」
「柊」
「言えることを言います。何も言わないよりはいい」
蒼真は少し黙った。
「……お前が協議に来ることは、できる。退魔師の家の者として。ただ、その場で月喰いを匿っていたことが知れれば、お前の家への影響も出る」
「わかっています」
「父上にも、知られることになる」
「それも、わかっています」
蒼真は柊の目を見た。
「本気か」
「はい」
「後悔しないか」
「後悔するかもしれません。でも、黙っていることの方が後悔します」
蒼真は長い間、柊を見ていた。やがて小さく息をついた。
「……わかった。明後日の協議に、お前も来い。俺が話をつける」
「ありがとうございます」
「礼はいい」
蒼真は朧を見た。
「お前は、明後日までここにいるか」
「いる」
「逃げないか」
「逃げない」
蒼真はそれを聞いて、少し目を細めた。何かを考えるように。
「一つ聞く」
「なんだ」
「柊のことを、どう思っている」
番小屋に、静寂が落ちた。
朧は蒼真を見た。長い間、見た。
「大切だ」
短く、言った。
「それだけか」
「今の俺には、それだけしかわからない。でも確かにそうだ」
蒼真は目を逸らした。窓の外を見た。山の緑を、しばらく見ていた。
「……そうか」
低く言って、立ち上がった。
「明後日、迎えに来る」
出ていく蒼真の背中を、柊は見送った。
その背中が、今日は昨日より重そうに見えた。
夕方、柊は持ってきた文献を開いた。
封印の術式に関する記述を、朧と一緒に読んだ。朧は文献を見ながら、時々質問した。難解な言い回しの意味を聞いたり、術式の仕組みを確かめたりした。
「前回の封印は、術者の霊力の大半を使った」
「はい。先祖の記録に、そう書いてありました」
「再封印ならば、また誰かがそれをする」
「そうなります」
「柊家の者がやることになるかもしれない」
柊は文献から目を上げた。
「そうかもしれません」
「お前がやるつもりか」
「もし私にできるなら」
「霊力が低いと言った」
「そうです。だから、できないかもしれない」
「できなければ」
「他の誰かがします」
朧は文献を見た。
「その誰かが、代償を払う」
「はい」
「俺のために」
柊は朧を見た。朧は文献の文字を追いながら、静かに言った。
「俺は、誰かに代償を払わせる価値がある存在なのか」
「朧さん」
「月喰いは、かつて人々を苦しめた。その存在を封じるために、また誰かが傷つく」
「あなたは今、誰も苦しめていない」
「昨夜、お前を吹き飛ばした」
「意図してやったのではないでしょう」
「意図していなくても、お前は傷ついた」
柊は文献を閉じた。
「朧さんは、自分には価値がないと思っているんですか」
朧は答えなかった。
「記憶がないから、かつて何をしたかわからない。でも今のあなたは、私に名前を尋ね、感情を覚え、木切れの鳥を窓際に飾る人です」
「それが価値かどうかは、わからない」
「私にはわかります」
「柊」
「あなたがいることに、意味があります。少なくとも私にとっては」
朧は柊を見た。
夕陽が窓から差し込み、朧の顔を橙色に染めた。その目に、今日初めて、揺れるものが見えた。
「なぜそこまで言える」
「信じているからです」
「何を」
「あなたを」
朧は目を逸らした。窓の外を見た。
「俺は、信じられる存在かどうか、わからない」
「わからなくていいです」
「なぜ」
「信じるのは私が決めることで、あなたが決めることではないから」
風が吹いた。夕陽が傾いて、部屋の中が橙色に染まった。
朧は窓の外を見たまま、長い沈黙の後に言った。
「俺には、信じるということが、まだわからない」
「そうですね」
「でも」
「でも?」
「信じられているという感覚が、少しわかる気がする」
柊は朧の横顔を見た。
「どんな感覚ですか」
「胸の奥が、重い」
「重い?」
「温かいのに、重い。それが、信じられているということかもしれない」
柊は少し考えて、微笑んだ。
「それは、大切にされているという感覚だと思います」
「大切に、される」
「誰かに大切にされると、嬉しいのに、少し重くなります。相手を大切にしなければ、という気持ちが生まれるから」
朧は、その言葉を静かに噛みしめていた。
「そうか」
「はい」
「ならば俺は、お前に大切にされているのか」
「そうです」
「……そうか」
短い返事だったが、その声に今まで聞いたことのない温度があった。柊は胸の奥が、ふわりと温かくなるのを感じた。
夕陽が沈んだ。
部屋の中が、薄暗くなった。
柊は立ち上がり、帰り支度を始めた。
「明日も来ます」
「ああ」
「明後日は、協議があります。朧さんのために、言えることを言ってきます」
「柊」
「はい」
「無理をするな」
「無理ではないです」
「お前にとって、危険なことだ」
「でも、やります」
朧は柊を見た。
「なぜ、そこまで」
「それでも信じる、と決めたからです」
朧は返事をしなかった。
柊は戸口で振り返った。
「おやすみなさい、朧さん」
「……ああ」
山道を下りながら、柊は空を見た。
昨夜の満月より、少し欠けた月が昇っていた。でもまだ明るく、山道を白く照らしていた。
二日後、協議がある。
何を言えばいい。どう言えばいい。柊に、
退魔師たちを動かす言葉があるかどうか、わからない。霊力も低く、実績もない、失敗続きの退魔師だ。
でも。
足を止めて、月を見た。
それでも信じると、決めた。
それだけで、今夜は十分だと思った。
月明かりの下、柊は山を下りた。草を踏む足音が、夜の静寂に溶けていった。



