満月の朝は、恐ろしいほど穏やかだった。
空が高く晴れ渡り、山の空気が澄んでいた。鳥の声が遠くから届いて、梅の最後の花びらが風に舞っていた。こんな穏やかな朝が、今夜に続いているとは思えないほどに。
柊は昨夜、番小屋に泊まった。
帰れと言う朧を押し切って、結局一晩中そこにいた。朧は夜半すぎに力が溢れかけたが、柊が名前を呼ぶたびに、その揺らぎが収まった。不思議なことに、確かにそうだった。
夜明け近く、朧は縁側に出て月が沈むのを見ていた。柊は毛布を肩にかけて、隣に座った。二人で、白んでいく空を見ていた。
言葉はなかった。それでよかった。
朝になって、柊は一度家に戻った。朝食の支度をして、親に顔を見せて、それから山に戻るつもりだった。
台所で握り飯を作っていると、母が入ってきた。
「柊、顔色が悪いわよ」
「眠れなかっただけです」
「最近、山に行くことが多いわね」
「修行です」
母は柊の顔をしばらく見ていた。柊の母は、父ほど霊力は高くないが、人を見る目は鋭かった。
「何かあったら、言いなさい」
「はい」
「お父さんには言いにくいことでも、お母さんには言えることがあるでしょう」
柊は握り飯を包みながら、母の顔を見た。
言いたかった。全部話してしまいたかった。でも言えば、朧のことが父に知られる。退魔師として、父は動く。そうなれば、朧は討伐対象として追われる。
「大丈夫です」
また、その言葉を使った。
山に向かう途中、蒼真に呼び止められた。
家の近くの辻で、待っていたかのように立っていた。
「柊」
「蒼真さん」
「今日も行くのか」
「はい」
蒼真は柊の持つ竹籠を見た。それから、柊の目を見た。
「昨夜、番小屋に泊まったな」
柊は黙った。
「朝、山から下りてくるのを見た」
「……見ていたんですか」
「心配していたから」
責めるような声ではなかった。でもその静けさが、かえって重かった。
「蒼真さん」
「今夜、俺も行く」
「来ないでください」
「それは聞けない」
蒼真が一歩、近づいた。
「柊、聞け。月喰いの力は今夜最大になる。昨夜でもすでに溢れかけていたはずだ。今夜はそれどころじゃない。お前一人では」
「一人じゃないです」
「朧がいるから、か」
「はい」
「それが心配だと言っているんだ」
蒼真の声に、初めて感情が滲んだ。静かに抑えていたものが、わずかに表に出た。
「お前が傷つくかもしれない。朧に、だ。悪意からじゃなくても、力が制御できなくなれば、近くにいる者が危険だ。それはお前も知っているはずだ」
「知っています」
「知っていて、なぜ」
「知っていても、行きます」
蒼真は額に手を当てた。
「……俺には、理解できない」
「理解しなくていいです」
「理解できないから、心配なんだ」
柊は蒼真を見た。
この人は、本当に自分のことを心配している。打算もなく、義務でもなく、ただ柊のことを案じている。それが伝わるから、余計に辛かった。
「蒼真さんには、迷惑をかけたくないです」
「迷惑だと思ったことは一度もない」
「でも」
「柊」
蒼真が、柊の名前を呼んだ。
静かな声だった。でも今まで聞いたことのない、何かを決めたような声だった。
「俺は、お前が好きだ」
柊は動けなかった。
蒼真は目を逸らさなかった。真っ直ぐに、柊を見ていた。
「ずっと言わないつもりだった。タイミングじゃないとわかっている。でも今言わないと、言えなくなる気がした」
「蒼真さん……」
「返事はいらない。お前に強いるつもりもない。ただ、知っていてほしかった」
蒼真は一歩、引いた。
「今夜、俺は離れたところで待機する。お前が呼べば、すぐ来る。それだけだ」
踵を返した背中が、今日は遠く見えた。
柊はしばらく、辻に立ち尽くしていた。
胸が、痛かった。蒼真の気持ちに応えられない自分が、ひどく不甲斐なく思えた。
でも、応えられなかった。
なぜか、という問いの答えは、もうわかっていた。
番小屋に着くと、朧は中にいた。
窓の外を見ていたが、柊が入ると視線を向けた。
「来たか」
「来ました」
朧の顔色は、昨日より更に白かった。目の下の影が濃くなっている。それでも視線は揺るがなかった。
「体は」
「力が表面近くにある。まだ抑えられる」
「まだ、ということは」
「夜になれば、わからない」
柊は竹籠を置き、朧の前に座った。
「昨夜、呼ぶたびに力が静まりましたね」
「ああ」
「なぜだと思いますか」
朧はしばらく考えた。
「わからない。ただ、お前の声が聞こえると、何かが中心に戻る感じがする」
「中心に戻る」
「力が四方に広がろうとするとき、お前の声が核になる。そこに引き寄せられる」
柊はその言葉を、ゆっくりと咀嚼した。
契りのせいかもしれない。命が繋がっているから、朧の力が柊を軸として収束する。あるいは、それ以外の何かかもしれない。
「今日は一日、ここにいます」
「止めない」
「止めてもいいですよ」
「止めても来るだろう」
「そうですね」
朧は小さく、息をついた。
その息が、苦しそうだった。
「朧さん」
「大したことではない」
「大したことです」
「お前も、大丈夫という言葉を使うなと言ったろう」
「それは私に言ったんです」
「俺も同じだ」
柊は笑いそうになった。朧が柊の言葉を使って、柊に返してきた。
「少し、横になっていてください」
「夜までは保つ」
「今のうちに、少しでも」
朧は抵抗しなかった。毛布の上に横になり、天井を見た。
柊は隣に座った。
静かな時間が流れた。山の音と、朧の呼吸の音だけが聞こえた。
「柊」
「はい」
「蒼真と、何かあったか」
柊は少し驚いた。
「なぜわかるんですか」
「顔に出ている」
「……ちょっと、いろいろと」
「あの男が、何か言ったのか」
「はい」
「お前を、傷つけたか」
「違います。傷つけるような人じゃないです」
朧は天井を見たまま、少し間を置いた。
「そうか」
「朧さんは、蒼真さんのことをどう思っていますか」
「どう、とは」
「退魔師として追いかけてくる相手ですよね。怖いとか、嫌だとか」
「怖いという感覚は、まだよくわからない。嫌かどうかも」
「では」
「お前を大切に思っている人だ、とは思う」
柊は朧の横顔を見た。
「だから?」
「だから、何もない。ただ、そうだと思う」
素直な言葉だった。嫉妬でも、警戒でもなく、ただ事実として受け取っている。感情の名前を知らない朧には、そういう複雑な感情がまだないのかもしれない。
あるいは。
柊は自分の胸に手を当てた。
あるいは、あるけれど、名前を知らないだけかもしれない。
「朧さん」
「なんだ」
「今夜、どうなっても、私は朧さんの味方です」
朧は天井から柊に目を移した。
「どうなっても、とはどういう意味だ」
「力が暴走しても。何が起きても。私はここにいます」
「……俺がお前を傷つけるかもしれない」
「そのときは、許します」
「許すという話ではない」
「じゃあ、恨みません」
「柊」
「朧さん」
二人の目が合った。
朧の銀色の目が、今日は少し揺れていた。いつもの無表情の奥に、何かが動いていた。
「俺は、お前に消えてほしくない」
「知っています」
「それは本心だ」
「わかっています」
「だから、俺がお前を傷つけるくらいなら」
「やめてください」
柊は静かに、でも強く言った。
「その先を言わないでください」
「柊」
「聞きたくないです」
朧は口を閉じた。
柊は朧の手を取った。冷たかった。でも確かに、そこにあった。
「一緒にいます。今夜も」
朧は答えなかった。
でも取られた手を、引かなかった。
そのまま、二人は黙っていた。山の風が番小屋を揺らし、窓から差し込む光が少しずつ傾いていった。
夜が、近づいてきていた。
日が沈んだ。
空が茜色から深い紺へと変わっていくにつれて、朧の様子が変わり始めた。
横になっていた体を起こし、窓の外を見た。その目が、いつもより輝いていた。月光を宿す銀色が、強くなっていた。
「朧さん」
「来る」
「力が?」
「月が、昇ってくる」
柊は窓の外を見た。山の端に、白い光が滲み始めていた。
満月が、昇ろうとしていた。
朧の手が、柊の手の中で、わずかに震えた。
「朧さん、私の声が聞こえますか」
「聞こえる」
「聞こえていてください。ずっと」
「ああ」
月が、山の端から顔を出した。
その瞬間、朧の全身から青白い光が溢れた。
番小屋の壁が、軋んだ。
柊は朧の手を、強く握った。
「朧」
名前を呼んだ。
光が、一瞬揺れた。
まだ、ここにいる。
満月が、静かに空へ昇っていった。
空が高く晴れ渡り、山の空気が澄んでいた。鳥の声が遠くから届いて、梅の最後の花びらが風に舞っていた。こんな穏やかな朝が、今夜に続いているとは思えないほどに。
柊は昨夜、番小屋に泊まった。
帰れと言う朧を押し切って、結局一晩中そこにいた。朧は夜半すぎに力が溢れかけたが、柊が名前を呼ぶたびに、その揺らぎが収まった。不思議なことに、確かにそうだった。
夜明け近く、朧は縁側に出て月が沈むのを見ていた。柊は毛布を肩にかけて、隣に座った。二人で、白んでいく空を見ていた。
言葉はなかった。それでよかった。
朝になって、柊は一度家に戻った。朝食の支度をして、親に顔を見せて、それから山に戻るつもりだった。
台所で握り飯を作っていると、母が入ってきた。
「柊、顔色が悪いわよ」
「眠れなかっただけです」
「最近、山に行くことが多いわね」
「修行です」
母は柊の顔をしばらく見ていた。柊の母は、父ほど霊力は高くないが、人を見る目は鋭かった。
「何かあったら、言いなさい」
「はい」
「お父さんには言いにくいことでも、お母さんには言えることがあるでしょう」
柊は握り飯を包みながら、母の顔を見た。
言いたかった。全部話してしまいたかった。でも言えば、朧のことが父に知られる。退魔師として、父は動く。そうなれば、朧は討伐対象として追われる。
「大丈夫です」
また、その言葉を使った。
山に向かう途中、蒼真に呼び止められた。
家の近くの辻で、待っていたかのように立っていた。
「柊」
「蒼真さん」
「今日も行くのか」
「はい」
蒼真は柊の持つ竹籠を見た。それから、柊の目を見た。
「昨夜、番小屋に泊まったな」
柊は黙った。
「朝、山から下りてくるのを見た」
「……見ていたんですか」
「心配していたから」
責めるような声ではなかった。でもその静けさが、かえって重かった。
「蒼真さん」
「今夜、俺も行く」
「来ないでください」
「それは聞けない」
蒼真が一歩、近づいた。
「柊、聞け。月喰いの力は今夜最大になる。昨夜でもすでに溢れかけていたはずだ。今夜はそれどころじゃない。お前一人では」
「一人じゃないです」
「朧がいるから、か」
「はい」
「それが心配だと言っているんだ」
蒼真の声に、初めて感情が滲んだ。静かに抑えていたものが、わずかに表に出た。
「お前が傷つくかもしれない。朧に、だ。悪意からじゃなくても、力が制御できなくなれば、近くにいる者が危険だ。それはお前も知っているはずだ」
「知っています」
「知っていて、なぜ」
「知っていても、行きます」
蒼真は額に手を当てた。
「……俺には、理解できない」
「理解しなくていいです」
「理解できないから、心配なんだ」
柊は蒼真を見た。
この人は、本当に自分のことを心配している。打算もなく、義務でもなく、ただ柊のことを案じている。それが伝わるから、余計に辛かった。
「蒼真さんには、迷惑をかけたくないです」
「迷惑だと思ったことは一度もない」
「でも」
「柊」
蒼真が、柊の名前を呼んだ。
静かな声だった。でも今まで聞いたことのない、何かを決めたような声だった。
「俺は、お前が好きだ」
柊は動けなかった。
蒼真は目を逸らさなかった。真っ直ぐに、柊を見ていた。
「ずっと言わないつもりだった。タイミングじゃないとわかっている。でも今言わないと、言えなくなる気がした」
「蒼真さん……」
「返事はいらない。お前に強いるつもりもない。ただ、知っていてほしかった」
蒼真は一歩、引いた。
「今夜、俺は離れたところで待機する。お前が呼べば、すぐ来る。それだけだ」
踵を返した背中が、今日は遠く見えた。
柊はしばらく、辻に立ち尽くしていた。
胸が、痛かった。蒼真の気持ちに応えられない自分が、ひどく不甲斐なく思えた。
でも、応えられなかった。
なぜか、という問いの答えは、もうわかっていた。
番小屋に着くと、朧は中にいた。
窓の外を見ていたが、柊が入ると視線を向けた。
「来たか」
「来ました」
朧の顔色は、昨日より更に白かった。目の下の影が濃くなっている。それでも視線は揺るがなかった。
「体は」
「力が表面近くにある。まだ抑えられる」
「まだ、ということは」
「夜になれば、わからない」
柊は竹籠を置き、朧の前に座った。
「昨夜、呼ぶたびに力が静まりましたね」
「ああ」
「なぜだと思いますか」
朧はしばらく考えた。
「わからない。ただ、お前の声が聞こえると、何かが中心に戻る感じがする」
「中心に戻る」
「力が四方に広がろうとするとき、お前の声が核になる。そこに引き寄せられる」
柊はその言葉を、ゆっくりと咀嚼した。
契りのせいかもしれない。命が繋がっているから、朧の力が柊を軸として収束する。あるいは、それ以外の何かかもしれない。
「今日は一日、ここにいます」
「止めない」
「止めてもいいですよ」
「止めても来るだろう」
「そうですね」
朧は小さく、息をついた。
その息が、苦しそうだった。
「朧さん」
「大したことではない」
「大したことです」
「お前も、大丈夫という言葉を使うなと言ったろう」
「それは私に言ったんです」
「俺も同じだ」
柊は笑いそうになった。朧が柊の言葉を使って、柊に返してきた。
「少し、横になっていてください」
「夜までは保つ」
「今のうちに、少しでも」
朧は抵抗しなかった。毛布の上に横になり、天井を見た。
柊は隣に座った。
静かな時間が流れた。山の音と、朧の呼吸の音だけが聞こえた。
「柊」
「はい」
「蒼真と、何かあったか」
柊は少し驚いた。
「なぜわかるんですか」
「顔に出ている」
「……ちょっと、いろいろと」
「あの男が、何か言ったのか」
「はい」
「お前を、傷つけたか」
「違います。傷つけるような人じゃないです」
朧は天井を見たまま、少し間を置いた。
「そうか」
「朧さんは、蒼真さんのことをどう思っていますか」
「どう、とは」
「退魔師として追いかけてくる相手ですよね。怖いとか、嫌だとか」
「怖いという感覚は、まだよくわからない。嫌かどうかも」
「では」
「お前を大切に思っている人だ、とは思う」
柊は朧の横顔を見た。
「だから?」
「だから、何もない。ただ、そうだと思う」
素直な言葉だった。嫉妬でも、警戒でもなく、ただ事実として受け取っている。感情の名前を知らない朧には、そういう複雑な感情がまだないのかもしれない。
あるいは。
柊は自分の胸に手を当てた。
あるいは、あるけれど、名前を知らないだけかもしれない。
「朧さん」
「なんだ」
「今夜、どうなっても、私は朧さんの味方です」
朧は天井から柊に目を移した。
「どうなっても、とはどういう意味だ」
「力が暴走しても。何が起きても。私はここにいます」
「……俺がお前を傷つけるかもしれない」
「そのときは、許します」
「許すという話ではない」
「じゃあ、恨みません」
「柊」
「朧さん」
二人の目が合った。
朧の銀色の目が、今日は少し揺れていた。いつもの無表情の奥に、何かが動いていた。
「俺は、お前に消えてほしくない」
「知っています」
「それは本心だ」
「わかっています」
「だから、俺がお前を傷つけるくらいなら」
「やめてください」
柊は静かに、でも強く言った。
「その先を言わないでください」
「柊」
「聞きたくないです」
朧は口を閉じた。
柊は朧の手を取った。冷たかった。でも確かに、そこにあった。
「一緒にいます。今夜も」
朧は答えなかった。
でも取られた手を、引かなかった。
そのまま、二人は黙っていた。山の風が番小屋を揺らし、窓から差し込む光が少しずつ傾いていった。
夜が、近づいてきていた。
日が沈んだ。
空が茜色から深い紺へと変わっていくにつれて、朧の様子が変わり始めた。
横になっていた体を起こし、窓の外を見た。その目が、いつもより輝いていた。月光を宿す銀色が、強くなっていた。
「朧さん」
「来る」
「力が?」
「月が、昇ってくる」
柊は窓の外を見た。山の端に、白い光が滲み始めていた。
満月が、昇ろうとしていた。
朧の手が、柊の手の中で、わずかに震えた。
「朧さん、私の声が聞こえますか」
「聞こえる」
「聞こえていてください。ずっと」
「ああ」
月が、山の端から顔を出した。
その瞬間、朧の全身から青白い光が溢れた。
番小屋の壁が、軋んだ。
柊は朧の手を、強く握った。
「朧」
名前を呼んだ。
光が、一瞬揺れた。
まだ、ここにいる。
満月が、静かに空へ昇っていった。



