月喰いと契りの巫女

 満月の前日、柊は父の書斎に入った。

 立ち入り禁止、とは言われていない。ただ、子供の頃から「用がなければ入るな」という空気があって、柊は自然とそこを避けるようになっていた。

 でも今は、用がある。

 書斎は広かった。壁一面の書棚に、古い文献が並んでいる。退魔師の記録、あやかしの目撃情報、封印の術式。父が長年かけて集めたものだ。

 柊は背表紙を一冊ずつ確認しながら、月喰いに関する記述を探した。

 居間の書棚にあった黒い本には、封印した一族の名前が書かれていたはずの箇所が滲んでいた。同じ記録が、別の文献にあるかもしれない。

 三十分ほど探して、一冊見つけた。

 題名は『退魔記録 第七集』。柊家の先祖が書き記した、実際の討伐と封印の記録だった。古い和紙が黄ばんで、墨の文字が所々薄れている。

 月喰いの項を開く。
    

 記録は、詳細だった。

 今から二百年以上前。山間の村々で、原因不明の災厄が続いた。田畑が枯れ、井戸が干上がり、家畜が死んだ。満月の夜には人が行方不明になった。

 退魔師たちが調査に向かったが、原因をつかめなかった。あやかしの仕業とわかっていても、その姿を見た者がいなかった。

 最初に目撃したのは、柊家の先祖だった。
 
 ──満月の夜、山の頂に人影を見た。白い着物の男。その瞳は月光を宿し、銀色に輝いていた。男が月を見上げた瞬間、満月が欠けた。月の光を、喰らっていた。

 柊は手が震えるのを感じながら、続きを読んだ。

  ──我らはこれを月喰いと呼んだ。月の光を糧とし、その力は霊力にも妖力にも属さない。討伐を試みたが、傷ひとつつけられなかった。通常の術式は通じない。封印以外に方法がなかった。

 次のページに、封印の記録があった。

  ──封印には、多大な代償を要した。柊家当主、柊冬弥。彼は自らの霊力の大半を使い、月喰いを封じた。封印の術式は、柊の血筋が続く限り保たれる。しかし、これは完全な消滅ではない。月喰いの力は月とともにあり、満月のたびに蓄積され続ける。いつか封印が限界を迎えたとき、月喰いは再び目覚めるだろう。

 柊は頁を止めた。

 柊冬弥(ひいらぎとうや)。柊家の先祖。

 封印したのは、自分の一族だった。

 記録を読む手が、重くなった。

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 ──封印に際し、月喰いの記憶と力を分離した。記憶を奪われた月喰いは、力の根源を見失い、封じられる。しかし力は消えない。月が満ちるたびに、その力は封印の器に蓄積される。封印が解けたとき、蓄積された力とともに目覚める。

 記憶を奪われた。

 柊は本を閉じた。

 朧が記憶を持っていないのは、封印の術式によるものだった。記憶を奪うことで、力の根源を見失わせた。だから朧は、自分が何者かを知らなかった。

 全部、繋がった。

 胸の中で、何かが冷たくなっていく。

 柊は書斎を出た。廊下で立ち止まり、壁に背をつけた。

 深呼吸をひとつ。

 朧は月喰いだ。かつて人々を恐怖に陥れた災厄の妖。二百年以上前に、自分の一族が封印した存在。

 そして今夜、封印が解け、目覚めた。

 柊の脳裏に、朧の顔が浮かんだ。

 甘いものを口にして、口の中が穏やかになると言った朧。木切れの鳥を窓際に飾った朧。消えてほしくないと言った朧。

 あの人が、災厄の妖なのか。
    

 昼前に、蒼真が来た。

 今日は珍しく、私服だった。任務ではなく、個人として来たのだとわかった。

「上がれ」

 柊が言うと、蒼真は少し驚いた顔をしてから、縁側に腰を下ろした。

 柊は茶を二つ持ってきて、向かいに座った。

「何か、わかったのか」

 蒼真が先に言った。

「……何がですか」

「とぼけるな。お前の顔を見ればわかる。今日は特に、酷い顔をしている」

 柊は茶を両手で包んだ。

「蒼真さんは、月喰いを知っていますか」

 蒼真の表情が、変わった。

 一瞬だけ、何かが揺れた。すぐに退魔師の顔に戻ったが、柊は見逃さなかった。

「知っている」

「いつから知っていましたか」

「あの男が初めてここに現れたときから、可能性として考えていた。あの気配は、古い文献で読んだ月喰いの記述に近かった」

「なぜ言わなかったんですか」

「確信がなかった。それと」

 蒼真は茶を見た。

「お前が、あの男を信じていたから」

 柊は蒼真を見た。

「言ったところで、お前は聞かなかっただろう。それはわかっていた」

「蒼真さん」

「月喰いは、討伐対象だ」

 声が、静かになった。静かだからこそ、重かった。

「かつて多くの人間を苦しめた。封印が解けて目覚めた今、また同じことが起きる可能性がある。退魔師として、俺にはそれを止める義務がある」

「朧さんは、今は何もしていない」

「今は、だろう」

「それは」

「柊」

 蒼真が、柊を見た。

「お前は情で動いている。それは悪いことじゃない。お前のそういうところを、俺は昔から知っている。でも退魔師として、感情だけで判断してはいけない」

「わかっています」

「わかっているか?」

 蒼真の目が、真剣だった。怒っているのではない。心配している。でもその心配の奥に、もっと別の感情が混じっていた。

「月喰いは、今夜満月を迎える。力が最大になる。それが何を意味するか、お前も読んだ文献に書いてあったはずだ」

 柊は答えなかった。

「力の暴走が起きるかもしれない。もしそうなれば、近くにいる者が最も危険だ。お前が近くにいれば、お前が」

「わかっています」

「わかっているなら」

「それでも、行きます」

 沈黙が落ちた。

 蒼真は目を閉じた。額に手を当てた。

「……お前は本当に、昔から変わらない」

「すみません」

「謝るな。謝られる方が、辛い」

 蒼真は立ち上がった。

「一つだけ言う」

「はい」

「今夜、何かあれば、すぐに俺を呼べ。どこにいても、すぐに来る」

 柊は蒼真を見上げた。

「蒼真さんは、来てくれるんですか。朧さんを討伐するために来ると思っていました」

「そうかもしれない」

 蒼真は窓の外を見た。

「でも今夜俺が心配しているのは、月喰いじゃない。お前だ」

 それだけ言って、蒼真は帰っていった。

 柊は縁側に残り、蒼真が去った方向をしばらく見ていた。

 胸の中で、複数の気持ちが絡み合っていた。朧への気持ち。蒼真への気持ち。これから起きることへの恐怖。

 全部を整理することは、今の柊にはできなかった。
    

 夕方、山に向かった。

 今日は荷物が重かった。いつもの竹籠に加えて、書斎から持ち出した退魔の道具を布に包んで抱えていた。万が一のとき、朧の力を少しでも抑えられるかもしれないと思って。

 番小屋の前に着くと、朧は外にいた。

 空を見上げていた。雲の切れ間から、まだ昇りきっていない月が見える。今夜はほぼ満月だ。あと数時間で、完全に満ちる。

「朧さん」

 呼ぶと、朧はゆっくりと柊を見た。

 今日は、顔色が昨日より更に白かった。指先だけでなく、唇も血の気が薄い。目の下に、薄く影がある。

「来るなと言った」

「来ると言いました」

「強情だ」

「はい」

 朧は柊の抱えた荷物を見た。

「それは何だ」

「退魔の道具です。力が暴走したとき、少しでも抑えられるかと思って」

「俺に使うつもりか」

「朧さんを傷つけるためではないです。力をコントロールできないなら、外側から助けになれないかと」

 朧は少し黙った。

「そういうことを、考えていたのか」

「昨日から、ずっと」

「昨日の顔が、そういうことか」

 柊は荷物を番小屋の中に置いた。朧も中に入り、向かい合って座った。

「朧さんに、話さなければいけないことがあります」

「昨日の続きか」

「はい」

 柊は手を膝の上で組んだ。

「月喰いの記録を、もう少し詳しく読みました。封印のことも」

「……何がわかった」

「封印したのは、柊家の先祖でした」

 静寂が落ちた。

 朧は動かなかった。表情も変わらなかった。でも空気が、わずかに変わった気がした。

「柊の、一族」

「はい」

「お前の、先祖が」

「そうです」

 長い沈黙が続いた。

 番小屋の外で、風が鳴った。木々が揺れる音がした。空が少しずつ暗くなっていく。

「封印の術式で、記憶を奪ったと書いてありました」

 柊は続けた。

「だから朧さんは記憶がない。封印の一部として、記憶を切り離された。それが理由だったんです」

「……そうか」

「朧さん」

「怒ってはいない」

 朧は静かに言った。

「怒りという感覚が、今ここにないのかもしれない。ただ、わかった」

「ごめんなさい」

「お前がしたことではない」

「でも、私の一族が」

「二百年前のことだ。お前には関係がない」

 柊は唇を噛んだ。

 関係がないとは思えなかった。同じ血が流れている。柊という名前を持っている。

「俺は月喰いで、お前の一族が封印した存在で、今は討伐対象だ」

 朧は事実を並べるように言った。

「それでも、お前は来た」

「来ました」

「なぜだ」

「朧さんだから」

 朧は柊を見た。

「月喰いだからじゃなくて、朧さんだから」

 窓の外で、月が昇ってきた。

 満月一日前の月が、番小屋の窓から差し込み、朧の横顔を白く照らした。その光の中で、朧の銀色の目が、月光を宿したように輝いた。

 美しいと、柊は思った。

 同時に、怖かった。

 その美しさが、今夜限りかもしれないと、胸の奥が告げていた。

「柊」

「はい」

「今夜だけは、帰れ」

「嫌です」

「満月は明日だが、今夜もすでに力が溢れかけている。安全ではない」

「それは知っています」

「なぜ」

 柊は朧を見た。

「あなたのそばにいる理由は、打算じゃないと、もうわかっています。だから帰りません」

 朧は長い間、柊を見ていた。

 やがて、小さく息をついた。

「……好きにしろ」

 七度目の、その言葉。

 でも今夜のそれは、今までで一番、柔らかく聞こえた。

 月光が、番小屋の中を静かに満たしていった。