七日目の朝は、空が重かった。
雲が厚く垂れ込め、山の頂が霞んでいた。雨になるかもしれない、と思いながら、柊は竹籠を抱えて山道を登った。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
黒い本の絵が、瞼の裏に焼き付いていた。月を背に立つ人影。銀色の瞳。月光を宿す者。
まだ確かではない、と自分に言い聞かせた。似ているだけかもしれない。古い絵と、今の朧が同じ存在だとは限らない。
でも、言い聞かせるほど、胸の冷たさは消えなかった。
番小屋の前に着くと、朧はいなかった。
珍しい、と思って戸を開けると、中も空だった。毛布は畳まれている。窓際の木切れの鳥も、そのままある。いなくなったわけではない。
しばらく待つと、山の奥から朧が戻ってきた。
「どこへ行っていたんですか」
「山の中を歩いていた」
「なぜ」
「落ち着かなかった」
朧は番小屋に入り、いつもの場所に座った。柊もそれに続く。
「落ち着かない、というのは、どういう感覚でしたか」
「胸の奥がざわついていた。じっとしていられなかった」
柊は竹籠を開けながら、朧の顔を窺った。昨日より、顔色が白い気がした。正確には、普段から白いのだが、今日はそれが際立っていた。
「体の具合は」
「わからない」
「どこか、おかしい感じはありますか」
「おかしい、という基準がわからない」
柊は朧の手を見た。いつもより、指先がわずかに青みを帯びている気がした。
「手を見せてください」
差し出された手を取る。冷たかった。朧はいつも体温が低いが、今日はそれ以上だった。
「冷たいですね」
「そうか」
「昨夜から、何か変わったことはありましたか」
朧は少し黙った。
「夜半すぎに、力が漏れた」
「力が?」
「意図せず、溢れた。番小屋の外に出たら、少し収まった」
柊は朧の手を握ったまま、息を整えた。
力の暴走。意図せず溢れ出る力。
黒い本の言葉が、頭をよぎった。
──月が満ちるたびに、力は蓄積される。
今夜は、何日目の月だろう。
「朧さん、今夜の月を知っていますか」
「十三夜だ」
あと二日で、満月になる。
食事の後、気配の練習はしなかった。
朧の状態が、柊には気になった。本人は「問題ない」と言ったが、顔色と指先の青さが、言葉を信じさせてくれなかった。
「横になっていてください」
「眠れないと言った」
「眠らなくていいです。ただ、横に」
朧は少し間を置いてから、毛布の上に横になった。柊は隣に座り、膝を抱えた。
しばらく、沈黙が続いた。
「柊」
「はい」
「昨日から、顔が違う」
柊は膝から顔を上げた。
「そうですか」
「何かを考えている。それは見ればわかる」
朧に言われると、誤魔化す気になれなかった。この人は目に映ったものを、そのまま言う。感情を読むのではなく、事実を見る。だから柊のわずかな変化も、見逃さない。
「少し、調べていることがあって」
「俺のことか」
静かな問いだった。責めていない。ただ確かめている。
「……はい」
「何がわかった」
「まだはっきりしたことは」
「わかったことを言え」
柊は朧を見た。
横になったまま、朧は天井を見ていた。銀色の目が、板張りの天井を静かに映している。
「月喰い、という存在を知っていますか」
朧は動かなかった。
「知らない」
「月光を操るあやかしです。かつて人里に現れ、多くを滅ぼしたという記録がある。討伐できず、ある一族によって封印されたと」
「……それが俺だと思っているのか」
「思っているというより、可能性として」
沈黙が落ちた。
朧は天井を見たままだった。何を考えているのか、表情からは読めない。でも柊には、その沈黙が重いことが、わかった。
「昨夜、力が漏れたのも、それと関係があるかもしれない。満月が近づくにつれて、力が増している」
「そうかもしれない」
「怖くないですか」
問いかけてから、失敗したと思った。朧には恐怖という感覚がないかもしれない。
でも朧は、少し間を置いてから答えた。
「わからない、という感覚はある」
「わからない?」
「自分が何者か、わからない。それが、落ち着かない。胸がざわつく原因は、それかもしれない」
柊は朧の横顔を見た。
わからないことが落ち着かない。それは、人間が感じる不安に近い。感情の名前を知らない朧が、それでも確かに感じている何か。
「私も怖いです」
柊は言った。
「月喰いが何をするのか、まだわかっていない。朧さんが力を制御できなくなったとき、何が起きるのか」
「お前を傷つけるかもしれない」
「そうかもしれない」
「なぜそれを、平然と言える」
「平然じゃないです」
柊は膝を抱え直した。
「怖いけど、あなたのそばにいたい。その気持ちの方が、今は大きい」
朧は天井から目を離し、柊を見た。
銀色の目が、静かに柊を映していた。
「なぜだ」
「わかりません」
「わからないのか」
「わからないです。でも、確かにそう感じています」
朧はしばらく柊を見ていた。それから、また天井に目を戻した。
「……俺も、わからないことがある」
「何がですか」
「お前がそばにいると、力が静まる。昨夜溢れかけた力が、今は静かだ」
柊は少し驚いた。
「私がいるから?」
「そうかもしれない。理由はわからない。ただ、事実としてそうだ」
柊はそれを、ゆっくりと飲み込んだ。
自分の存在が、朧の力を静める。それが契りのせいなのか、それとも別の何かなのか。わからない。でも朧の言葉は、嘘をつかない。
「なら、私がそばにいます。満月になるまで、ずっと」
「それは」
「心配しないでください。番小屋に泊まるとは言いません。夜になったら帰ります。でも昼間は、できるだけここにいます」
朧は答えなかった。
でも否定もしなかった。
昼過ぎ、雨が降り始めた。
細い雨が番小屋の屋根を叩き、山全体が白く霞んだ。柊は帰るに帰れなくなって、朧と向かい合ったまま、雨の音を聞いていた。
朧は窓の外を見ていた。雨粒が窓を伝う様子を、静かに目で追っている。
「雨は好きですか」
「好きという感覚はまだわからない。ただ、見ていられる」
「月と同じですね」
「そうかもしれない」
柊も窓の外を見た。
雨の山は静かだった。木々が濡れ、土の匂いが漂ってくる。
「朧さん」
「なんだ」
「記憶が戻ったら、どうしたいですか」
唐突な問いだった。自分でも、なぜ今これを聞いたのかわからなかった。
朧は少し間を置いた。
「考えたことがなかった」
「一度も?」
「記憶が戻ることを、望んでいいのかわからなかった」
「なぜ」
「戻った記憶に、望ましくないものがあるかもしれない」
月喰いの記憶。人を滅ぼした記憶。そういうことを、朧は言っているのかもしれない。
「怖いんですね」
「……そうかもしれない」
今日二度目の、その言葉。朧の中に、恐怖に近い何かが芽生えていた。
「でも」
朧が続けた。
「記憶がなくても、今ここにいる。それは確かだ」
「そうですね」
「お前と話している。朝ごはんを食べる。梅の花を見る。雨の音を聞く。それは、記憶がなくてもある」
柊は朧を見た。
無表情のまま、でもその言葉の中に、柊は確かに温度を感じた。記憶がなくても今があると、この人は言っている。
「朧さん」
「なんだ」
「今が、好きですか」
雨の音が、しばらく続いた。
朧は窓の外を見たまま、静かに言った。
「好きという感覚が、少しわかってきた気がする」
柊の胸に、じわりと温かいものが広がった。
「どんな感覚ですか」
「手放したくない、という感じだ」
手放したくない。
柊はその言葉を、胸の中でそっと包んだ。
窓を伝う雨粒を、二人で黙って見ていた。番小屋の外では、山が静かに雨を受けていた。
夕方、雨が小降りになったとき、柊は帰り支度をした。
「明日も来ます」
「ああ」
「明後日は満月です。その日は、もう少し遅くまでいてもいいですか」
朧は少し間を置いた。
「来なくていい」
「来ます」
「危険かもしれない」
「それでも来ます」
朧は柊を見た。
何かを言いかけて、やめた。
柊は戸口で立ち止まり、振り返った。
「朧さんが力を暴走させるとしたら、ひとりのときだと思う。だから私がいる」
「俺がお前を傷つけるかもしれないと言ったろう」
「傷つけないと思っています」
「根拠がない」
「あります」
柊は朧の目を見た。
「あなたは私を、消えてほしくないと言った。それが根拠です」
朧は何も言わなかった。
柊は山道を下り始めた。雨上がりの土の匂いが、鼻をくすぐった。
振り返ると、朧が戸口に立っていた。雨に濡れた山を背に、こちらを見ていた。
その姿が、昨夜見た古い絵と重なった。
月を背に立つ人影。
柊は目を逸らさなかった。
たとえそうだとしても、今の朧は今の朧だ。記憶がなく、感情の名前を覚えている途中で、甘いものが好きで、木切れの鳥を窓際に飾る、この人だ。
それだけは、変わらない。
変わらないでいてほしい、と思いながら、柊は山を下りた。
空の雲が切れ、夕陽が一筋、差し込んできた。
明後日は、満月だった。
雲が厚く垂れ込め、山の頂が霞んでいた。雨になるかもしれない、と思いながら、柊は竹籠を抱えて山道を登った。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
黒い本の絵が、瞼の裏に焼き付いていた。月を背に立つ人影。銀色の瞳。月光を宿す者。
まだ確かではない、と自分に言い聞かせた。似ているだけかもしれない。古い絵と、今の朧が同じ存在だとは限らない。
でも、言い聞かせるほど、胸の冷たさは消えなかった。
番小屋の前に着くと、朧はいなかった。
珍しい、と思って戸を開けると、中も空だった。毛布は畳まれている。窓際の木切れの鳥も、そのままある。いなくなったわけではない。
しばらく待つと、山の奥から朧が戻ってきた。
「どこへ行っていたんですか」
「山の中を歩いていた」
「なぜ」
「落ち着かなかった」
朧は番小屋に入り、いつもの場所に座った。柊もそれに続く。
「落ち着かない、というのは、どういう感覚でしたか」
「胸の奥がざわついていた。じっとしていられなかった」
柊は竹籠を開けながら、朧の顔を窺った。昨日より、顔色が白い気がした。正確には、普段から白いのだが、今日はそれが際立っていた。
「体の具合は」
「わからない」
「どこか、おかしい感じはありますか」
「おかしい、という基準がわからない」
柊は朧の手を見た。いつもより、指先がわずかに青みを帯びている気がした。
「手を見せてください」
差し出された手を取る。冷たかった。朧はいつも体温が低いが、今日はそれ以上だった。
「冷たいですね」
「そうか」
「昨夜から、何か変わったことはありましたか」
朧は少し黙った。
「夜半すぎに、力が漏れた」
「力が?」
「意図せず、溢れた。番小屋の外に出たら、少し収まった」
柊は朧の手を握ったまま、息を整えた。
力の暴走。意図せず溢れ出る力。
黒い本の言葉が、頭をよぎった。
──月が満ちるたびに、力は蓄積される。
今夜は、何日目の月だろう。
「朧さん、今夜の月を知っていますか」
「十三夜だ」
あと二日で、満月になる。
食事の後、気配の練習はしなかった。
朧の状態が、柊には気になった。本人は「問題ない」と言ったが、顔色と指先の青さが、言葉を信じさせてくれなかった。
「横になっていてください」
「眠れないと言った」
「眠らなくていいです。ただ、横に」
朧は少し間を置いてから、毛布の上に横になった。柊は隣に座り、膝を抱えた。
しばらく、沈黙が続いた。
「柊」
「はい」
「昨日から、顔が違う」
柊は膝から顔を上げた。
「そうですか」
「何かを考えている。それは見ればわかる」
朧に言われると、誤魔化す気になれなかった。この人は目に映ったものを、そのまま言う。感情を読むのではなく、事実を見る。だから柊のわずかな変化も、見逃さない。
「少し、調べていることがあって」
「俺のことか」
静かな問いだった。責めていない。ただ確かめている。
「……はい」
「何がわかった」
「まだはっきりしたことは」
「わかったことを言え」
柊は朧を見た。
横になったまま、朧は天井を見ていた。銀色の目が、板張りの天井を静かに映している。
「月喰い、という存在を知っていますか」
朧は動かなかった。
「知らない」
「月光を操るあやかしです。かつて人里に現れ、多くを滅ぼしたという記録がある。討伐できず、ある一族によって封印されたと」
「……それが俺だと思っているのか」
「思っているというより、可能性として」
沈黙が落ちた。
朧は天井を見たままだった。何を考えているのか、表情からは読めない。でも柊には、その沈黙が重いことが、わかった。
「昨夜、力が漏れたのも、それと関係があるかもしれない。満月が近づくにつれて、力が増している」
「そうかもしれない」
「怖くないですか」
問いかけてから、失敗したと思った。朧には恐怖という感覚がないかもしれない。
でも朧は、少し間を置いてから答えた。
「わからない、という感覚はある」
「わからない?」
「自分が何者か、わからない。それが、落ち着かない。胸がざわつく原因は、それかもしれない」
柊は朧の横顔を見た。
わからないことが落ち着かない。それは、人間が感じる不安に近い。感情の名前を知らない朧が、それでも確かに感じている何か。
「私も怖いです」
柊は言った。
「月喰いが何をするのか、まだわかっていない。朧さんが力を制御できなくなったとき、何が起きるのか」
「お前を傷つけるかもしれない」
「そうかもしれない」
「なぜそれを、平然と言える」
「平然じゃないです」
柊は膝を抱え直した。
「怖いけど、あなたのそばにいたい。その気持ちの方が、今は大きい」
朧は天井から目を離し、柊を見た。
銀色の目が、静かに柊を映していた。
「なぜだ」
「わかりません」
「わからないのか」
「わからないです。でも、確かにそう感じています」
朧はしばらく柊を見ていた。それから、また天井に目を戻した。
「……俺も、わからないことがある」
「何がですか」
「お前がそばにいると、力が静まる。昨夜溢れかけた力が、今は静かだ」
柊は少し驚いた。
「私がいるから?」
「そうかもしれない。理由はわからない。ただ、事実としてそうだ」
柊はそれを、ゆっくりと飲み込んだ。
自分の存在が、朧の力を静める。それが契りのせいなのか、それとも別の何かなのか。わからない。でも朧の言葉は、嘘をつかない。
「なら、私がそばにいます。満月になるまで、ずっと」
「それは」
「心配しないでください。番小屋に泊まるとは言いません。夜になったら帰ります。でも昼間は、できるだけここにいます」
朧は答えなかった。
でも否定もしなかった。
昼過ぎ、雨が降り始めた。
細い雨が番小屋の屋根を叩き、山全体が白く霞んだ。柊は帰るに帰れなくなって、朧と向かい合ったまま、雨の音を聞いていた。
朧は窓の外を見ていた。雨粒が窓を伝う様子を、静かに目で追っている。
「雨は好きですか」
「好きという感覚はまだわからない。ただ、見ていられる」
「月と同じですね」
「そうかもしれない」
柊も窓の外を見た。
雨の山は静かだった。木々が濡れ、土の匂いが漂ってくる。
「朧さん」
「なんだ」
「記憶が戻ったら、どうしたいですか」
唐突な問いだった。自分でも、なぜ今これを聞いたのかわからなかった。
朧は少し間を置いた。
「考えたことがなかった」
「一度も?」
「記憶が戻ることを、望んでいいのかわからなかった」
「なぜ」
「戻った記憶に、望ましくないものがあるかもしれない」
月喰いの記憶。人を滅ぼした記憶。そういうことを、朧は言っているのかもしれない。
「怖いんですね」
「……そうかもしれない」
今日二度目の、その言葉。朧の中に、恐怖に近い何かが芽生えていた。
「でも」
朧が続けた。
「記憶がなくても、今ここにいる。それは確かだ」
「そうですね」
「お前と話している。朝ごはんを食べる。梅の花を見る。雨の音を聞く。それは、記憶がなくてもある」
柊は朧を見た。
無表情のまま、でもその言葉の中に、柊は確かに温度を感じた。記憶がなくても今があると、この人は言っている。
「朧さん」
「なんだ」
「今が、好きですか」
雨の音が、しばらく続いた。
朧は窓の外を見たまま、静かに言った。
「好きという感覚が、少しわかってきた気がする」
柊の胸に、じわりと温かいものが広がった。
「どんな感覚ですか」
「手放したくない、という感じだ」
手放したくない。
柊はその言葉を、胸の中でそっと包んだ。
窓を伝う雨粒を、二人で黙って見ていた。番小屋の外では、山が静かに雨を受けていた。
夕方、雨が小降りになったとき、柊は帰り支度をした。
「明日も来ます」
「ああ」
「明後日は満月です。その日は、もう少し遅くまでいてもいいですか」
朧は少し間を置いた。
「来なくていい」
「来ます」
「危険かもしれない」
「それでも来ます」
朧は柊を見た。
何かを言いかけて、やめた。
柊は戸口で立ち止まり、振り返った。
「朧さんが力を暴走させるとしたら、ひとりのときだと思う。だから私がいる」
「俺がお前を傷つけるかもしれないと言ったろう」
「傷つけないと思っています」
「根拠がない」
「あります」
柊は朧の目を見た。
「あなたは私を、消えてほしくないと言った。それが根拠です」
朧は何も言わなかった。
柊は山道を下り始めた。雨上がりの土の匂いが、鼻をくすぐった。
振り返ると、朧が戸口に立っていた。雨に濡れた山を背に、こちらを見ていた。
その姿が、昨夜見た古い絵と重なった。
月を背に立つ人影。
柊は目を逸らさなかった。
たとえそうだとしても、今の朧は今の朧だ。記憶がなく、感情の名前を覚えている途中で、甘いものが好きで、木切れの鳥を窓際に飾る、この人だ。
それだけは、変わらない。
変わらないでいてほしい、と思いながら、柊は山を下りた。
空の雲が切れ、夕陽が一筋、差し込んできた。
明後日は、満月だった。



