月が、満ちていた。
雲ひとつない夜空に、白く冷たい円が浮かんでいる。まるで世界を見下ろす巨大な目のように、柊にはそれが見えた。
山の端に位置する、荒れ果てた旧社の境内。朱塗りもとうに剥がれ落ちた鳥居をくぐり抜けながら、柊は息を整えた。
「……来ている」
呟きが、白い霧になった。三月の終わりとはいえ、山の夜気は刃のように鋭い。
柊は懐から式紙を取り出し、指先に力を込める。小柊流退魔術の初伝。父にも母にも「お前は筋がない」と言われ続けた、それでも必死に習得した唯一の技だ。
任務の内容は単純だった。この廃社に棲み着いたあやかしを祓え。下級の気配、との報告だった。
──だが。
参道の奥から溢れ出してくるのは、報告にあった小さな怨気とはまったく異なる、濃く重い瘴気だった。枯れ葉が腐臭とともに舞い上がり、境内の古木がみしりと軋む。月明かりの下、砂利が黒く滲んでいく。
「嘘、でしょ……」
声が震えた。
木々の影から、それは現れた。
巨躯だった。人の形をしているが、身の丈は三メートルを超えようかという。烏の頭を持ち、全身が黒い羽根で覆われた、鴉天狗の上位種。怨霊を喰らい続けて肥大化したのか、その瘴気は異様に濃密だった。眼窩に灯る赤い光が、柊を捉える。
逃げなければ。
頭でわかっていても、足が動かなかった。退魔師としての本能が「格が違いすぎる」と告げていた。これは柊が単独で対処できる類のあやかしではない。
同時に、もうひとつの声が聞こえた。
──逃げたら、また証明される。お前には力がない、と。
幼いころから言われ続けた言葉が、頭に蘇る。お前は退魔師失格だ、と。
「……やるしか、ない」
式紙を構えた瞬間、鴉天狗が動いた。
風圧が来た。翼が広がり、黒い嵐が境内を薙ぐ。柊は身を伏せるが、衝撃で石畳に叩き付けられ、式紙が散った。
「っ……!」
起き上がろうとする。膝が笑っていた。掌が血で滲んでいた。それでも構えようとした瞬間、鴉天狗の大きな手が柊の首根っこを掴み上げた。
宙に浮く。呼吸ができない。
足が空を蹴る。月が目に入った。丸く、白く、冷たい月。
──ああ。今夜は満月なのか。
妙に穏やかな感想が脳裏を過ぎったとき、足元でなにかが動いた。
風切り音がした。
次の瞬間、柊を掴んでいた腕が消えた。
落ちる、と思った刹那、誰かに抱き止められた。石畳ではなく、温かい腕の中に落ちる。強い衝撃を予期していた体が、混乱する。
「……動くな」
低い声だった。
静かで、感情の起伏がなくて、でも不思議と耳に残る声。
柊は目を上げた。
男がいた。
白い着流しに、乱れた黒髪。年の頃は二十歳前後だろうか、整いすぎた顔立ちをしているが、表情がなかった。笑いもせず、怒りもせず、まるで精巧な面を被っているかのように、無表情でそこに立っている。
彼の前で、鴉天狗が後退していた。
上位種が、怯えている。
「なに、あなたは……」
「黙れ」
端的に遮られた。
男は柊を地面に下ろすと、鴉天狗に向き直った。手には何も持っていない。武器も、式紙も、符術の準備もなく、ただ立っているだけだ。
それでも、鴉天狗が怯む。
男の周囲に、なにかが滲んでいた。気とも霊力とも異なる、青白い光のような、靄のような。満月の光を吸い込むように揺らめき、じわりと広がっていく。
鴉天狗が叫んだ。怨念と恐怖が混じり合った、耳を劈く絶叫。翼を広げて飛びかかろうとした巨体が、しかし男が片腕を持ち上げた瞬間、ぴたりと止まった。
空間が歪んでいた。
男を中心に、月光が凝集する。それが鴉天狗を包んだ、と思った次の瞬間、あやかしは声もなく消えた。形が崩れ、瘴気が霧散し、後には枯れた羽根が数枚、舞うだけ。
沈黙が落ちた。
柊は呆然としていた。
男は柊を振り返らなかった。
しばらく無言で立ち尽くしていたが、やがてふらりと膝をついた。
「……っ、あなた!?」
駆け寄る。男の顔色が、青白かった。月に照らされているせいだけではない。唇が薄く開き、荒く息をついている。
「大丈夫ですか」
肩を掴んだ。その瞬間だった。
満月が、明滅した。
否、そう見えただけかもしれない。だが確かに柊は感じた。何かが、二人の間で繋がった。糸のような、鎖のような。触れた箇所から体の芯に向かって走る、熱いような冷たいような感覚。
男が目を細めた。
「……それを」
声が、かすかに変わった気がした。
「何をした」
「わかりません、私は何も──」
「契りが、結ばれた」
男は柊の目を見た。そのとき初めて、柊は彼の瞳が普通ではないことに気付いた。月光を映した銀色の双眸。人の目ではない色をしていた。
「契り?」
「俺にもわからん。だが確かに繋がった。お前と俺が」
男はゆっくりと立ち上がった。足元がまだおぼつかない。それでも視線は揺るがなかった。
「お前が死ねば、俺も消える」
境内を、夜風が渡った。
散っていた枯れ葉が舞い上がり、二人の間を抜けていく。
「俺も同様だ。どちらかが滅べば、もう一方も終わる。そういう契りだ」
「そんな、そんなこと、私は望んでいません」
「俺もだ」
言い捨てて、男は鳥居の方へ歩こうとした。だが三歩も進まないうちに膝が折れ、
石畳に手をついた。
柊は駆け寄って支える。腕に感じる重みは、紛れもなく人のそれだった。体温がある。
「あなた、どこかに帰る場所は」
男は答えなかった。
「記憶は……?」
長い沈黙のあと、男はかすかに首を横に振った。
柊は夜空を見上げた。満月が、変わらず境内を照らしていた。
この男が何者なのか、わからない。なぜ力を持っているのかも、なぜここにいたのかも。契りと彼は言ったが、それが何を意味するのかも、まだ理解しきれていない。
でも。
「……来てください」
柊は男の腕を肩に回した。
「今夜だけでいい。怪我の手当てをさせてください」
「なぜだ」
「命が繋がっているなら、あなたが消えたら私も死ぬんでしょう。ならせめて、生きていてもらわないと困ります」
打算めいた言い訳だった。自分でもわかっていた。本当は、ただ放っておけなかっただけだ。
男は柊を見た。銀色の目に、わずかに何かが過ぎった気がした。
「……好きにしろ」
それが、朧という男との最初の言葉だった。
満月の夜、廃れた境内で結ばれた契りが何をもたらすのか、そのときの柊にはまだ知る由もなかった。
雲ひとつない夜空に、白く冷たい円が浮かんでいる。まるで世界を見下ろす巨大な目のように、柊にはそれが見えた。
山の端に位置する、荒れ果てた旧社の境内。朱塗りもとうに剥がれ落ちた鳥居をくぐり抜けながら、柊は息を整えた。
「……来ている」
呟きが、白い霧になった。三月の終わりとはいえ、山の夜気は刃のように鋭い。
柊は懐から式紙を取り出し、指先に力を込める。小柊流退魔術の初伝。父にも母にも「お前は筋がない」と言われ続けた、それでも必死に習得した唯一の技だ。
任務の内容は単純だった。この廃社に棲み着いたあやかしを祓え。下級の気配、との報告だった。
──だが。
参道の奥から溢れ出してくるのは、報告にあった小さな怨気とはまったく異なる、濃く重い瘴気だった。枯れ葉が腐臭とともに舞い上がり、境内の古木がみしりと軋む。月明かりの下、砂利が黒く滲んでいく。
「嘘、でしょ……」
声が震えた。
木々の影から、それは現れた。
巨躯だった。人の形をしているが、身の丈は三メートルを超えようかという。烏の頭を持ち、全身が黒い羽根で覆われた、鴉天狗の上位種。怨霊を喰らい続けて肥大化したのか、その瘴気は異様に濃密だった。眼窩に灯る赤い光が、柊を捉える。
逃げなければ。
頭でわかっていても、足が動かなかった。退魔師としての本能が「格が違いすぎる」と告げていた。これは柊が単独で対処できる類のあやかしではない。
同時に、もうひとつの声が聞こえた。
──逃げたら、また証明される。お前には力がない、と。
幼いころから言われ続けた言葉が、頭に蘇る。お前は退魔師失格だ、と。
「……やるしか、ない」
式紙を構えた瞬間、鴉天狗が動いた。
風圧が来た。翼が広がり、黒い嵐が境内を薙ぐ。柊は身を伏せるが、衝撃で石畳に叩き付けられ、式紙が散った。
「っ……!」
起き上がろうとする。膝が笑っていた。掌が血で滲んでいた。それでも構えようとした瞬間、鴉天狗の大きな手が柊の首根っこを掴み上げた。
宙に浮く。呼吸ができない。
足が空を蹴る。月が目に入った。丸く、白く、冷たい月。
──ああ。今夜は満月なのか。
妙に穏やかな感想が脳裏を過ぎったとき、足元でなにかが動いた。
風切り音がした。
次の瞬間、柊を掴んでいた腕が消えた。
落ちる、と思った刹那、誰かに抱き止められた。石畳ではなく、温かい腕の中に落ちる。強い衝撃を予期していた体が、混乱する。
「……動くな」
低い声だった。
静かで、感情の起伏がなくて、でも不思議と耳に残る声。
柊は目を上げた。
男がいた。
白い着流しに、乱れた黒髪。年の頃は二十歳前後だろうか、整いすぎた顔立ちをしているが、表情がなかった。笑いもせず、怒りもせず、まるで精巧な面を被っているかのように、無表情でそこに立っている。
彼の前で、鴉天狗が後退していた。
上位種が、怯えている。
「なに、あなたは……」
「黙れ」
端的に遮られた。
男は柊を地面に下ろすと、鴉天狗に向き直った。手には何も持っていない。武器も、式紙も、符術の準備もなく、ただ立っているだけだ。
それでも、鴉天狗が怯む。
男の周囲に、なにかが滲んでいた。気とも霊力とも異なる、青白い光のような、靄のような。満月の光を吸い込むように揺らめき、じわりと広がっていく。
鴉天狗が叫んだ。怨念と恐怖が混じり合った、耳を劈く絶叫。翼を広げて飛びかかろうとした巨体が、しかし男が片腕を持ち上げた瞬間、ぴたりと止まった。
空間が歪んでいた。
男を中心に、月光が凝集する。それが鴉天狗を包んだ、と思った次の瞬間、あやかしは声もなく消えた。形が崩れ、瘴気が霧散し、後には枯れた羽根が数枚、舞うだけ。
沈黙が落ちた。
柊は呆然としていた。
男は柊を振り返らなかった。
しばらく無言で立ち尽くしていたが、やがてふらりと膝をついた。
「……っ、あなた!?」
駆け寄る。男の顔色が、青白かった。月に照らされているせいだけではない。唇が薄く開き、荒く息をついている。
「大丈夫ですか」
肩を掴んだ。その瞬間だった。
満月が、明滅した。
否、そう見えただけかもしれない。だが確かに柊は感じた。何かが、二人の間で繋がった。糸のような、鎖のような。触れた箇所から体の芯に向かって走る、熱いような冷たいような感覚。
男が目を細めた。
「……それを」
声が、かすかに変わった気がした。
「何をした」
「わかりません、私は何も──」
「契りが、結ばれた」
男は柊の目を見た。そのとき初めて、柊は彼の瞳が普通ではないことに気付いた。月光を映した銀色の双眸。人の目ではない色をしていた。
「契り?」
「俺にもわからん。だが確かに繋がった。お前と俺が」
男はゆっくりと立ち上がった。足元がまだおぼつかない。それでも視線は揺るがなかった。
「お前が死ねば、俺も消える」
境内を、夜風が渡った。
散っていた枯れ葉が舞い上がり、二人の間を抜けていく。
「俺も同様だ。どちらかが滅べば、もう一方も終わる。そういう契りだ」
「そんな、そんなこと、私は望んでいません」
「俺もだ」
言い捨てて、男は鳥居の方へ歩こうとした。だが三歩も進まないうちに膝が折れ、
石畳に手をついた。
柊は駆け寄って支える。腕に感じる重みは、紛れもなく人のそれだった。体温がある。
「あなた、どこかに帰る場所は」
男は答えなかった。
「記憶は……?」
長い沈黙のあと、男はかすかに首を横に振った。
柊は夜空を見上げた。満月が、変わらず境内を照らしていた。
この男が何者なのか、わからない。なぜ力を持っているのかも、なぜここにいたのかも。契りと彼は言ったが、それが何を意味するのかも、まだ理解しきれていない。
でも。
「……来てください」
柊は男の腕を肩に回した。
「今夜だけでいい。怪我の手当てをさせてください」
「なぜだ」
「命が繋がっているなら、あなたが消えたら私も死ぬんでしょう。ならせめて、生きていてもらわないと困ります」
打算めいた言い訳だった。自分でもわかっていた。本当は、ただ放っておけなかっただけだ。
男は柊を見た。銀色の目に、わずかに何かが過ぎった気がした。
「……好きにしろ」
それが、朧という男との最初の言葉だった。
満月の夜、廃れた境内で結ばれた契りが何をもたらすのか、そのときの柊にはまだ知る由もなかった。



