すらりと襖が開き、ようやく目当ての芸者『いち華』が三味線を持った地方と一緒に座敷に入って来た。いち華は真っ白な顔に細く吊り上がった目、への字に下がった紅い唇がまさに狐のお面に見える女だった。笑みを浮かべてはいるが、その表情のどこかに棘を感じる女だ。
「いち華でございます」
畳に指をつき、丁寧に挨拶をするいち華の様子をじっと見ていた薫に、高臣は小声で囁いた。
「どうだ?」
薫は高臣に視線を送りながら、小さく首を振る。
「……見えません」
薫の目には怪異らしき黒いもやもやは見えない。薫の返答を聞いた高臣はあからさまに落胆の表情を見せた。
「本当か?」
「今は……」
ひそひそ話をしている二人をごまかすように、直弥はわざとらしく明るい声を出した。
「いやあ、今日はいち華さんの踊りが見られると聞いて、楽しみにしていましたよ!」
いち華は口をきゅっと結んだまま、小首を傾げた。
「私の踊りがそんなに見たいだなんて。旦那さん、珍しいことをおっしゃいますねえ?」
その場の空気に緊張が走る。いち華は明らかに、何故自分が座敷に呼ばれたのかと疑っている。
「またまた、ご謙遜を。いち華さんの踊りは素晴らしいと『桔梗屋』の主人から聞いていますよ!」
なんとかごまかそうと直弥がいち華に笑顔で話しかける。いち華は冷たい目つきで直弥を見ると、渋々といった顔で踊りを始めた。三味線に合わせて舞ういち華を、薫達はじっと見つめる。他の芸者を知らないので、薫の目には上手な踊りにしか見えない。視線をいち華に向けたまま、薫と高臣はひそひそと会話を続けた。
「本当に見えないか? 目を凝らせば見えるのではないか?」
「……もっと集中できれば、隠れている『アレ』が見えるかもしれませんが、ここでは集中するのが難しくて」
怪異は全て見えるわけではなく、うまく隠れている場合もある。透視を使う時のように集中すれば、隠れている怪異を見出すこともできるだろうが、この状況では難しい。
「なるほど、集中できればいいのだな。分かった、僕に任せてくれ」
高臣は頷き、次に直弥に二言三言話す。直弥は黙って頷くと、一曲終わった所で派手に拍手をした。高臣も拍手をしたので、薫も慌ててそれに続く。
「いち華さん。あなたの踊りを見込んで、頼みたいことがある。少しの間あなたと二人で話をしたいのだが」
高臣が突然言い出したことに、いち華を始め他の芸者達も怪訝な顔をした。
「私とですか? そりゃ、構いませんが……」
「それほど長い話にはならない。悪いが皆さん、少し外してくれるか」
高臣は薫に頷いて見せた後、直弥に「後は頼む」と声をかけた。地方《じかた》と美鈴は直弥が「少し休んできておいで」と追い払い、座敷の外には直弥と薫だけが残る。
薫は高臣の目的を理解し、襖を挟んだ廊下に座る。いち華が外側につけた狐の仮面を外す為、高臣は人払いをしたに違いない。いち華が仮面を外せば薫の目に怪異が映るはずだ。
「薫さん、どうだい? 中の様子は?」
直弥は何故かわくわくしたような顔で薫を見る。単純に薫の能力を見ることを期待しているようだ。薫は既に集中していて、直弥の問いかけには答えずにじっと襖を見つめる。
望遠鏡で覗くように、やがて襖の向こうがぼんやりと薫の目に映った。いち華は高臣の隣に座り、彼にお酌をしていた。まるでしなだれかかるように高臣に近づくいち華を見て、何故か薫は嫌な気分になった。
(妻がいる人に、あんなにべたべたするものなの? 芸者って!)
契約結婚とは言え、自分の夫である男が他の女と寄り添っているのを見るのは気分のいいものではない。するといきなり視界がぼやけ、二人の姿が見えなくなってきた。
(これはあくまで、いち華さんの仮面を外させる為の作戦なんだから動揺しちゃ駄目)
心を落ち着かせ、薫は再び集中しようと目を凝らす。ようやく力が戻り、高臣といち華の姿が映った。
『――妙前様は、私の踊りがそんなに気に入ったんです?』
『ああ、気に入った』
『変だと思ったんですよ。どうしても私をお座敷に呼んで欲しいなんて、どんな物好きが私を呼んだんだろうって』
『あなたは自分に自信がないのか? 立派に舞っていたじゃないか』
いち華は目をとろんとさせ、高臣の肩にそっと頭を乗せた。
『嬉しい……妙前様なら、私を救ってくださるかしら』
(救う?)
薫は透視しながら首を傾げる。いち華は高臣に助けを求めているのだろうか。だとしたら、それは何なのか。ひょっとしたらそれが、いち華に取り憑いた『怪異』の原因なのではないだろうか。
『妙前様、私……綺麗ですか?』
いち華は高臣に顔を近づけ、二人は至近距離で見つめ合う形になった。
『ああ、綺麗だよ』
高臣が答えたその時だった。いち華の体から一気に黒い蛇のようなものが無数に湧きだし、彼女の体に巻き付くように覆った。
「出た! ででで出ました、直弥さん」
「了解した!」
千里眼を閉じ、振り返った薫の顔を見た直弥はすぐに動いた。勢いよく襖を開けると同時に直弥は「高臣! 刀だ!」と声を張り上げた。
その声とほぼ同時に、高臣は刀を抜いていた。柄に青い炎が宿り、それは美しい刀身へと変化していく。
「その刀は……?」
高臣の刀を見ていち華は驚いていた。
「今上様の命により、妙前高臣が怪異を斬る」
刀を構えた高臣は、怯えて逃げ出そうとしたいち華の体に青い刀を振り下ろした。青い刀はいち華の体を引き裂くように青の残像を残し、光が消えた後には目を閉じて倒れたいち華の姿があった。
――やっぱり、綺麗――
青い刀を振るう高臣の立ち姿は美しいと形容するしかなかった。少しの迷いもない、完璧な剣筋で怪異を完全に断ち切るその姿は、薫が思わず見惚れてしまうほど気高く、ただ美しい。
高臣が見下ろす先には、横たわるいち華がいた。我に返った薫は慌てていち華の元へ駆け寄る。いち華は意識がないものの、まだ息はあるようだ。
「まだこの芸者は怪異に喰われていなかったようだ。心配ない、じきに目を覚ますだろう」
「そ、そうなんですね。良かった……」
永田の怪異を斬った時は、命を救うことはできなかったが、いち華の命は助かったようだ。薫はぐったりと横たわるいち華を見ながら、ホッと胸を撫でおろす。
「直弥、芸者達を呼び戻してくれ。今夜はこのままお開きにしよう。僕は置屋の主人と話してくるから、二人は先に帰ってくれ」
「分かった」
直弥は慌ただしく座敷から出ていく。薫は未だ、これが現実だと信じられない思いで立っていた。足袋から伝わる畳の感触が、これはやはり夢ではないのだと自覚させた。ほんの少し前まで、古くて汚い見世物小屋で書かれた文字を当てるという見世物をして暮らしていた。透視能力を買われ、華族の男に契約結婚を持ち掛けられた。そして華族の妻となり、今は怪異を倒す為に薫の力が役立っている。
薫は全身に力が沸き上がるのを感じる。自分の力が誰かの役に立っている、そう気づいた薫は体が興奮で震えた。
(私は、誰かを助けることができるかもしれない……)
それが間接的なことだとしても、間違いなく薫の力はいち華を救ったのだ。それは薫が初めて感じた『自信』だった。
「いち華でございます」
畳に指をつき、丁寧に挨拶をするいち華の様子をじっと見ていた薫に、高臣は小声で囁いた。
「どうだ?」
薫は高臣に視線を送りながら、小さく首を振る。
「……見えません」
薫の目には怪異らしき黒いもやもやは見えない。薫の返答を聞いた高臣はあからさまに落胆の表情を見せた。
「本当か?」
「今は……」
ひそひそ話をしている二人をごまかすように、直弥はわざとらしく明るい声を出した。
「いやあ、今日はいち華さんの踊りが見られると聞いて、楽しみにしていましたよ!」
いち華は口をきゅっと結んだまま、小首を傾げた。
「私の踊りがそんなに見たいだなんて。旦那さん、珍しいことをおっしゃいますねえ?」
その場の空気に緊張が走る。いち華は明らかに、何故自分が座敷に呼ばれたのかと疑っている。
「またまた、ご謙遜を。いち華さんの踊りは素晴らしいと『桔梗屋』の主人から聞いていますよ!」
なんとかごまかそうと直弥がいち華に笑顔で話しかける。いち華は冷たい目つきで直弥を見ると、渋々といった顔で踊りを始めた。三味線に合わせて舞ういち華を、薫達はじっと見つめる。他の芸者を知らないので、薫の目には上手な踊りにしか見えない。視線をいち華に向けたまま、薫と高臣はひそひそと会話を続けた。
「本当に見えないか? 目を凝らせば見えるのではないか?」
「……もっと集中できれば、隠れている『アレ』が見えるかもしれませんが、ここでは集中するのが難しくて」
怪異は全て見えるわけではなく、うまく隠れている場合もある。透視を使う時のように集中すれば、隠れている怪異を見出すこともできるだろうが、この状況では難しい。
「なるほど、集中できればいいのだな。分かった、僕に任せてくれ」
高臣は頷き、次に直弥に二言三言話す。直弥は黙って頷くと、一曲終わった所で派手に拍手をした。高臣も拍手をしたので、薫も慌ててそれに続く。
「いち華さん。あなたの踊りを見込んで、頼みたいことがある。少しの間あなたと二人で話をしたいのだが」
高臣が突然言い出したことに、いち華を始め他の芸者達も怪訝な顔をした。
「私とですか? そりゃ、構いませんが……」
「それほど長い話にはならない。悪いが皆さん、少し外してくれるか」
高臣は薫に頷いて見せた後、直弥に「後は頼む」と声をかけた。地方《じかた》と美鈴は直弥が「少し休んできておいで」と追い払い、座敷の外には直弥と薫だけが残る。
薫は高臣の目的を理解し、襖を挟んだ廊下に座る。いち華が外側につけた狐の仮面を外す為、高臣は人払いをしたに違いない。いち華が仮面を外せば薫の目に怪異が映るはずだ。
「薫さん、どうだい? 中の様子は?」
直弥は何故かわくわくしたような顔で薫を見る。単純に薫の能力を見ることを期待しているようだ。薫は既に集中していて、直弥の問いかけには答えずにじっと襖を見つめる。
望遠鏡で覗くように、やがて襖の向こうがぼんやりと薫の目に映った。いち華は高臣の隣に座り、彼にお酌をしていた。まるでしなだれかかるように高臣に近づくいち華を見て、何故か薫は嫌な気分になった。
(妻がいる人に、あんなにべたべたするものなの? 芸者って!)
契約結婚とは言え、自分の夫である男が他の女と寄り添っているのを見るのは気分のいいものではない。するといきなり視界がぼやけ、二人の姿が見えなくなってきた。
(これはあくまで、いち華さんの仮面を外させる為の作戦なんだから動揺しちゃ駄目)
心を落ち着かせ、薫は再び集中しようと目を凝らす。ようやく力が戻り、高臣といち華の姿が映った。
『――妙前様は、私の踊りがそんなに気に入ったんです?』
『ああ、気に入った』
『変だと思ったんですよ。どうしても私をお座敷に呼んで欲しいなんて、どんな物好きが私を呼んだんだろうって』
『あなたは自分に自信がないのか? 立派に舞っていたじゃないか』
いち華は目をとろんとさせ、高臣の肩にそっと頭を乗せた。
『嬉しい……妙前様なら、私を救ってくださるかしら』
(救う?)
薫は透視しながら首を傾げる。いち華は高臣に助けを求めているのだろうか。だとしたら、それは何なのか。ひょっとしたらそれが、いち華に取り憑いた『怪異』の原因なのではないだろうか。
『妙前様、私……綺麗ですか?』
いち華は高臣に顔を近づけ、二人は至近距離で見つめ合う形になった。
『ああ、綺麗だよ』
高臣が答えたその時だった。いち華の体から一気に黒い蛇のようなものが無数に湧きだし、彼女の体に巻き付くように覆った。
「出た! ででで出ました、直弥さん」
「了解した!」
千里眼を閉じ、振り返った薫の顔を見た直弥はすぐに動いた。勢いよく襖を開けると同時に直弥は「高臣! 刀だ!」と声を張り上げた。
その声とほぼ同時に、高臣は刀を抜いていた。柄に青い炎が宿り、それは美しい刀身へと変化していく。
「その刀は……?」
高臣の刀を見ていち華は驚いていた。
「今上様の命により、妙前高臣が怪異を斬る」
刀を構えた高臣は、怯えて逃げ出そうとしたいち華の体に青い刀を振り下ろした。青い刀はいち華の体を引き裂くように青の残像を残し、光が消えた後には目を閉じて倒れたいち華の姿があった。
――やっぱり、綺麗――
青い刀を振るう高臣の立ち姿は美しいと形容するしかなかった。少しの迷いもない、完璧な剣筋で怪異を完全に断ち切るその姿は、薫が思わず見惚れてしまうほど気高く、ただ美しい。
高臣が見下ろす先には、横たわるいち華がいた。我に返った薫は慌てていち華の元へ駆け寄る。いち華は意識がないものの、まだ息はあるようだ。
「まだこの芸者は怪異に喰われていなかったようだ。心配ない、じきに目を覚ますだろう」
「そ、そうなんですね。良かった……」
永田の怪異を斬った時は、命を救うことはできなかったが、いち華の命は助かったようだ。薫はぐったりと横たわるいち華を見ながら、ホッと胸を撫でおろす。
「直弥、芸者達を呼び戻してくれ。今夜はこのままお開きにしよう。僕は置屋の主人と話してくるから、二人は先に帰ってくれ」
「分かった」
直弥は慌ただしく座敷から出ていく。薫は未だ、これが現実だと信じられない思いで立っていた。足袋から伝わる畳の感触が、これはやはり夢ではないのだと自覚させた。ほんの少し前まで、古くて汚い見世物小屋で書かれた文字を当てるという見世物をして暮らしていた。透視能力を買われ、華族の男に契約結婚を持ち掛けられた。そして華族の妻となり、今は怪異を倒す為に薫の力が役立っている。
薫は全身に力が沸き上がるのを感じる。自分の力が誰かの役に立っている、そう気づいた薫は体が興奮で震えた。
(私は、誰かを助けることができるかもしれない……)
それが間接的なことだとしても、間違いなく薫の力はいち華を救ったのだ。それは薫が初めて感じた『自信』だった。
