帝都の中心地には『帝』が住まう宮廷があり、宮廷内には様々な組織がある。その中にある『兵部省』にある近衛隊に所属しているのが妙前高臣と相棒の朝倉直弥である。二人は表向きには帝を始めとした宮廷を守るという仕事だが、実際には帝の命により怪異を倒す役目である。近衛隊には彼らのような隊士が何人もいて、通称『怪異対策零隊』と呼ばれている。
怪異と戦う彼らの存在は公にはされていないが、警察も彼らのことは知っていて、協力を約束している。怪異の姿は普通の人間には見えない。公にしたところで人々を惑わせるだけだ。この国の長い歴史の中で、怪異と戦う者はそうやって表に出ない存在となっていった。
近衛隊の中にある日、驚きのニュースが舞い込んだ。それは妙前高臣が結婚したというものである。結婚どころか婚約者もいなかった彼が、既に入籍を済ませたという噂は、あっという間に近衛隊の中に広まった。
兵部省内の廊下を歩いていた朝倉直弥に、他の近衛隊士が興味津々と言った顔で話しかけてきた。
「なあ、朝倉。妙前の妻になった女は平民だというのは本当か?」
朝倉は足を止めることなく、歩きながら隊士をちらりと見る。
「そのようだよ」
「その女は千里眼を持つらしいが、その力は本物なんだろうな? 妙前は騙されているんじゃないのか?」
「宮廷が調査し、彼女の力を本物だと認めたと聞いているよ」
「だ、だが妙前家は何て言っている? 平民を妙前家に迎え入れるなど……」
「僕は知らないよ。高臣に直接聞いたらどうだ?」
縋るように追いかけて来る仲間の隊士を面倒臭そうにかわしながら、朝倉は廊下をずんずんと歩き、軽い足取りで階段を下りていく。
「妙前が答えないからお前に聞いているんじゃないか」
「とにかく、あいつが決めたことで入籍に問題はないと判断されたんだ。僕はこれから新妻を訪ねなきゃいけない。急いでいるからもう行くよ」
「新妻を訪ねる?」
「そうさ。僕達の仕事を理解してもらう為に、僕が教育係となって彼女に色々と教えてくれと高臣に頼まれてるのさ」
ポカンとする隊士を残し、朝倉は颯爽と去って行った。
♢♢♢
妙前家の一室で、薫は女中の春江から様々なことを学ぶ毎日である。結婚を承諾してから、実際に入籍を済ませるまでは二週間ほどかかった。その間、高臣はずっと彼の実家に泊まり、説得やら手続きやらしていたようである。
家には宮廷の役人が訪ねてきて。薫の千里眼が本物かどうか色々と調べられた。千里眼の調査だけかと思っていたら、何故か身体検査まで受けさせられ、薫は困惑したがこれも妙前高臣と結婚する為に必要な調査だと言われたら仕方がない。幸い薫は痩せてはいるが健康だったので、この点が問題になることはなかった。
薫の身元も調査された。実家は小さな食堂で薫は三人姉妹の末っ子。年の離れた姉が二人いて、二人とも結婚して実家を出ている。実家の商売は上手くいっていないものの、ただ貧しいというだけの庶民でしかない。つまり、普通なのだ。
普通でなかったのは薫の力だった。幼い頃、駄菓子屋でくじを引いて当たると菓子がもう一つもらえたのだが、薫がくじを引くと百発百中なので駄菓子屋の主人は薫にくじを引かせなくなった。友人達が面白がって、薫に目隠しをさせて書いた文字を当てさせると、これも百発百中だった。幼い頃は子供達の戯れだと思われて、周りの大人は相手にしなかったが、薫の力は成長しても変わらなかった。両親は薫を気味悪く思い、やがて薫の話に耳を傾けなくなった。薫は透視能力だけでなく、時々黒いものが見えるなどと言い出すこともあったので、両親にとって薫は薄気味の悪いことを言うおかしな娘として捉えられていた。
何故普通の家庭で育った薫に『千里眼』の力が宿ったのか、さすがにそこまでは判明しなかったが、調査の結果宮廷は薫と高臣の結婚に問題なしと判断した。華族の結婚は必ず宮廷の許可が必要なのだと知り、庶民とは違いやはり華族様は大変なのだと薫は思った。
(私、とんでもない人と結婚してしまったのかもしれない)
実家の両親への報告は、妙前家が行うから薫の方から連絡は取るなと言い残し、役人は帰って行った。元々両親には金で売られた恨みがあるので、薫にとってはその方が有難い。千里眼を持つ薫を気味が悪いと言っていた両親は、薫を帝都で売り出したいとやってきた永田に二つ返事で承諾してしまった。実家の商売が上手くいっていなかった両親は、目先の金に飛びついた。薫が自分を売った両親のことをもう思い出したくもないと思うのは、当然のことだった。
日中は春江から華族について学ぶ毎日だった。国の成り立ちから始まり、帝と華族についても一から学ぶ。薫にとっては知らないことばかりで、勉強についていくだけで必死だ。
「薫様には帝都在住の全ての華族について、名前を覚えていただきますので」
「ぜ……全員ですか!?」
薫は目を丸くした。春江は優しい物腰だが、先生としてはとても厳しい。これも薫をどこに出しても恥ずかしくない人間にする為に、高臣に頼まれてやっていることだという。
(話が違うじゃない!)
机にうず高く積み上げられた沢山の書物を前に、薫は心の中で叫んだ。薫の役目は千里眼の力を使い、高臣の手伝いをすることだけのはずだ。契約結婚をすると決めたのは自分だが、その先に華族の妻としての役割が待っているとは思わなかった。よく考えればその通りなのだが、高臣と話した時はそこまで考える余裕がなかったのだ。やはり時間をかけて考えるべきだったと後悔しても、もう手遅れである。
「今はまだ結構ですが、いずれは高臣様のご両親とお会いする機会もございますし、華族との社交の場に出ていただくこともあります。その時に名前を覚えておけば、薫様が苦労することはないでしょう」
「そ、そうですね……分かりました」
春江にとってはあくまで薫の為にやっていることで、いじわるでやっているわけではないことは分かる。これは自分の為にもなることだから頑張らなければならない。この勉強会は長く続くことになりそうだと、薫は書物の山を見ながら思った。
春江の勉強会が終わったと思ったら、次は別の訪問者がやってきた。
「薫さん、先日もお会いしましたね。朝倉直弥です、どうぞよろしく」
「あ……その節はお世話になりました」
部屋を訪ねてきたのは朝倉直弥だった。先日会った時と同じ隊服を着ている彼は物腰柔らかな好青年といった雰囲気の男で、にこやかに微笑みながら薫に話しかける。
「まずは、ご結婚おめでとうございます。奥様に、僕達の役目について説明して欲しいと高臣から頼まれたもので」
「そうでしたか……わざわざすみません。どうぞお掛けください」
薫は部屋の中央に置かれたテーブルに直弥を案内した。先日会った時は直弥と殆ど話すこともないままだったのでどんな男か緊張していたが、どうやら高臣よりも話しやすいようで薫は思わずホッと頬を緩める。
「高臣とは仲良くやっていますか?」
「いえ……実はあの夜以外、あの人とは会っていないんです」
「会っていない? じゃあ、高臣とは一言も話していないってことですか?」
驚いた顔をしている直弥に、薫は気まずそうに頷く。高臣は翌日から実家に帰り、そのまま向こうに泊まっていて一度もこちらに帰ってきていない。
「そうですか……確かに両親の説得やら親戚筋への根回しやら、色々忙しいとは話していましたが……まさか新妻をほったらかしとは。全く、あいつの女嫌いにも困ったものだ」
「女嫌い?」
不思議そうな表情の薫に、直弥は含みのある笑みを返した。
「高臣は女性との付き合いが下手な男でしてね。少しは女に慣れた方がいいと言っているんですが、芸者を呼んでやっても不機嫌になって帰るような困った奴なんですよ。何を話せばいいか分からないだの、芸者の話はつまらないだの、文句ばっかりで」
「そういう方には見えませんでしたけど……」
薫は高臣と一度しか会っていないが、あの自信に満ちた振る舞いは、とても女が苦手には見えない。
「おや、そうでしたか? まあ高臣はもう二十六ですしね。こうして結婚もしたわけですし、いい加減女性に慣れてもらわないと。あ、今の話を僕がしていたってあいつに話さないでくださいね。高臣に知られたら凄く怒るんで」
直弥はいたずらっぽい笑顔で口元に指を当てた。薫は直弥の気さくな態度に思わずホッとする。新たな夫となった男とは一度も会えないし、家では缶詰状態で朝から晩まで華族について学ぶ日々で、人間らしいやり取りをしたのが随分久しぶりだと思ってしまったのだ。
「さて、お喋りはこのくらいにして早速僕達の仕事について説明しましょうか。僕達は『怪異対策零隊』と呼ばれていて、文字通り世の中に巣食う怪異を退治する役目があります。怪異は通常、人の目には見えません。怪異を見分けることができるのは『千里眼』を持つ者だけ。つまり、あなたのことです」
「あの……何故私は怪異が見えるんでしょうか?」
答えが返ってこないと分かっていても、薫は聞かずにはいられなかった。高臣が根回しをしてまで妻にしたかった薫は、よほど貴重な人材だということになる。薫の知る限り、ご先祖様に自分と同じ力を持つ者がいた話は聞いていない。
「うーん、僕に聞かれても分かりませんが、とにかく薫さんに千里眼があるのは間違いないんです。薫さんに伺いたいんですが、怪異は常に見えるものですか? それとも、普段は見えないとか」
「常に見えているか分からないですけど、嫌な気配を感じることもあれば、永田のようにはっきりとした形のものが見えることもあります」
「なるほど……全てが見えているわけではないんですね。ちなみにですけど、この家に怪異はいませんよね?」
「いません。とても清々しい空気です」
薫は笑いながら答えた。ホッとした様子の直弥は、殺風景な洋室を見回していた。この部屋は普段使われていない空き部屋で、薫が来てからは勉強室として使われている。飾り気のない寂しい部屋だが、薫はこの部屋に安らぎすら感じている。怪異がいない家というのは、たとえ暗闇でも怖くはないものだ。
「それは良かった。怪異を退治する家に怪異がいたら洒落にならないですからね……。あ、そうだ。ついでに薫さんにこれをお見せしておきましょう」
直弥は腰のベルトに下げられた刀身のない刀の柄を取り出すと、ゴトリと音を立ててテーブルの上に置いた。どうやら薫の想像よりも重さのある柄のようだ。刀の鍔には美しい装飾がされていて、それは帝の紋章だと分かった。
「綺麗な柄ですね」
「これは今上様から賜ったものです。僕達華族は今上様に誓いを立て、あのお方から力を授かります。薫さんが先日見た青い炎の刀は、今上様の祈りの力と言われています。怪異を倒すことができる、唯一にして絶対の手段です」
直弥は刀を持ち上げ、ぐっと柄に力をこめた。すると青い炎が現れ、それは真っすぐに伸びて美しい刀身となった。近くで見ると光が強いが、じっと見ていると引き込まれそうな美しさがある。
気高い。それが青い刀を間近で見た薫が感じた気持ちだった。
「この刀を賜り、怪異を倒す使命を負うのは僕を含め、近衛隊の中でもごく一部です。薫さんもじきに実感されるでしょうが、怪異と立ち向かうには『千里眼』を持つあなたのような方が絶対に必要です」
直弥は刺すような視線で薫を見た。彼らは本当に、薫の力を必要としているのだ。直弥の話では、千里眼を持つ者は近頃めっきり減っていて、怪異対策零隊の中で千里眼を持つ隊士はごくわずかだと言う。宮廷が薫と高臣の結婚を許可したのも、貴重な千里眼の力を取り込みたいという考えがあったからだろう。
直弥の話を真剣に聞いていた薫は、突然部屋の扉がバタンと大きく開いた音に驚いてそちらを見た。
「あれ、高臣。もう戻ったのか?」
その音で直弥も扉に目をやった。そこには高臣が仏頂面で立っていた。
怪異と戦う彼らの存在は公にはされていないが、警察も彼らのことは知っていて、協力を約束している。怪異の姿は普通の人間には見えない。公にしたところで人々を惑わせるだけだ。この国の長い歴史の中で、怪異と戦う者はそうやって表に出ない存在となっていった。
近衛隊の中にある日、驚きのニュースが舞い込んだ。それは妙前高臣が結婚したというものである。結婚どころか婚約者もいなかった彼が、既に入籍を済ませたという噂は、あっという間に近衛隊の中に広まった。
兵部省内の廊下を歩いていた朝倉直弥に、他の近衛隊士が興味津々と言った顔で話しかけてきた。
「なあ、朝倉。妙前の妻になった女は平民だというのは本当か?」
朝倉は足を止めることなく、歩きながら隊士をちらりと見る。
「そのようだよ」
「その女は千里眼を持つらしいが、その力は本物なんだろうな? 妙前は騙されているんじゃないのか?」
「宮廷が調査し、彼女の力を本物だと認めたと聞いているよ」
「だ、だが妙前家は何て言っている? 平民を妙前家に迎え入れるなど……」
「僕は知らないよ。高臣に直接聞いたらどうだ?」
縋るように追いかけて来る仲間の隊士を面倒臭そうにかわしながら、朝倉は廊下をずんずんと歩き、軽い足取りで階段を下りていく。
「妙前が答えないからお前に聞いているんじゃないか」
「とにかく、あいつが決めたことで入籍に問題はないと判断されたんだ。僕はこれから新妻を訪ねなきゃいけない。急いでいるからもう行くよ」
「新妻を訪ねる?」
「そうさ。僕達の仕事を理解してもらう為に、僕が教育係となって彼女に色々と教えてくれと高臣に頼まれてるのさ」
ポカンとする隊士を残し、朝倉は颯爽と去って行った。
♢♢♢
妙前家の一室で、薫は女中の春江から様々なことを学ぶ毎日である。結婚を承諾してから、実際に入籍を済ませるまでは二週間ほどかかった。その間、高臣はずっと彼の実家に泊まり、説得やら手続きやらしていたようである。
家には宮廷の役人が訪ねてきて。薫の千里眼が本物かどうか色々と調べられた。千里眼の調査だけかと思っていたら、何故か身体検査まで受けさせられ、薫は困惑したがこれも妙前高臣と結婚する為に必要な調査だと言われたら仕方がない。幸い薫は痩せてはいるが健康だったので、この点が問題になることはなかった。
薫の身元も調査された。実家は小さな食堂で薫は三人姉妹の末っ子。年の離れた姉が二人いて、二人とも結婚して実家を出ている。実家の商売は上手くいっていないものの、ただ貧しいというだけの庶民でしかない。つまり、普通なのだ。
普通でなかったのは薫の力だった。幼い頃、駄菓子屋でくじを引いて当たると菓子がもう一つもらえたのだが、薫がくじを引くと百発百中なので駄菓子屋の主人は薫にくじを引かせなくなった。友人達が面白がって、薫に目隠しをさせて書いた文字を当てさせると、これも百発百中だった。幼い頃は子供達の戯れだと思われて、周りの大人は相手にしなかったが、薫の力は成長しても変わらなかった。両親は薫を気味悪く思い、やがて薫の話に耳を傾けなくなった。薫は透視能力だけでなく、時々黒いものが見えるなどと言い出すこともあったので、両親にとって薫は薄気味の悪いことを言うおかしな娘として捉えられていた。
何故普通の家庭で育った薫に『千里眼』の力が宿ったのか、さすがにそこまでは判明しなかったが、調査の結果宮廷は薫と高臣の結婚に問題なしと判断した。華族の結婚は必ず宮廷の許可が必要なのだと知り、庶民とは違いやはり華族様は大変なのだと薫は思った。
(私、とんでもない人と結婚してしまったのかもしれない)
実家の両親への報告は、妙前家が行うから薫の方から連絡は取るなと言い残し、役人は帰って行った。元々両親には金で売られた恨みがあるので、薫にとってはその方が有難い。千里眼を持つ薫を気味が悪いと言っていた両親は、薫を帝都で売り出したいとやってきた永田に二つ返事で承諾してしまった。実家の商売が上手くいっていなかった両親は、目先の金に飛びついた。薫が自分を売った両親のことをもう思い出したくもないと思うのは、当然のことだった。
日中は春江から華族について学ぶ毎日だった。国の成り立ちから始まり、帝と華族についても一から学ぶ。薫にとっては知らないことばかりで、勉強についていくだけで必死だ。
「薫様には帝都在住の全ての華族について、名前を覚えていただきますので」
「ぜ……全員ですか!?」
薫は目を丸くした。春江は優しい物腰だが、先生としてはとても厳しい。これも薫をどこに出しても恥ずかしくない人間にする為に、高臣に頼まれてやっていることだという。
(話が違うじゃない!)
机にうず高く積み上げられた沢山の書物を前に、薫は心の中で叫んだ。薫の役目は千里眼の力を使い、高臣の手伝いをすることだけのはずだ。契約結婚をすると決めたのは自分だが、その先に華族の妻としての役割が待っているとは思わなかった。よく考えればその通りなのだが、高臣と話した時はそこまで考える余裕がなかったのだ。やはり時間をかけて考えるべきだったと後悔しても、もう手遅れである。
「今はまだ結構ですが、いずれは高臣様のご両親とお会いする機会もございますし、華族との社交の場に出ていただくこともあります。その時に名前を覚えておけば、薫様が苦労することはないでしょう」
「そ、そうですね……分かりました」
春江にとってはあくまで薫の為にやっていることで、いじわるでやっているわけではないことは分かる。これは自分の為にもなることだから頑張らなければならない。この勉強会は長く続くことになりそうだと、薫は書物の山を見ながら思った。
春江の勉強会が終わったと思ったら、次は別の訪問者がやってきた。
「薫さん、先日もお会いしましたね。朝倉直弥です、どうぞよろしく」
「あ……その節はお世話になりました」
部屋を訪ねてきたのは朝倉直弥だった。先日会った時と同じ隊服を着ている彼は物腰柔らかな好青年といった雰囲気の男で、にこやかに微笑みながら薫に話しかける。
「まずは、ご結婚おめでとうございます。奥様に、僕達の役目について説明して欲しいと高臣から頼まれたもので」
「そうでしたか……わざわざすみません。どうぞお掛けください」
薫は部屋の中央に置かれたテーブルに直弥を案内した。先日会った時は直弥と殆ど話すこともないままだったのでどんな男か緊張していたが、どうやら高臣よりも話しやすいようで薫は思わずホッと頬を緩める。
「高臣とは仲良くやっていますか?」
「いえ……実はあの夜以外、あの人とは会っていないんです」
「会っていない? じゃあ、高臣とは一言も話していないってことですか?」
驚いた顔をしている直弥に、薫は気まずそうに頷く。高臣は翌日から実家に帰り、そのまま向こうに泊まっていて一度もこちらに帰ってきていない。
「そうですか……確かに両親の説得やら親戚筋への根回しやら、色々忙しいとは話していましたが……まさか新妻をほったらかしとは。全く、あいつの女嫌いにも困ったものだ」
「女嫌い?」
不思議そうな表情の薫に、直弥は含みのある笑みを返した。
「高臣は女性との付き合いが下手な男でしてね。少しは女に慣れた方がいいと言っているんですが、芸者を呼んでやっても不機嫌になって帰るような困った奴なんですよ。何を話せばいいか分からないだの、芸者の話はつまらないだの、文句ばっかりで」
「そういう方には見えませんでしたけど……」
薫は高臣と一度しか会っていないが、あの自信に満ちた振る舞いは、とても女が苦手には見えない。
「おや、そうでしたか? まあ高臣はもう二十六ですしね。こうして結婚もしたわけですし、いい加減女性に慣れてもらわないと。あ、今の話を僕がしていたってあいつに話さないでくださいね。高臣に知られたら凄く怒るんで」
直弥はいたずらっぽい笑顔で口元に指を当てた。薫は直弥の気さくな態度に思わずホッとする。新たな夫となった男とは一度も会えないし、家では缶詰状態で朝から晩まで華族について学ぶ日々で、人間らしいやり取りをしたのが随分久しぶりだと思ってしまったのだ。
「さて、お喋りはこのくらいにして早速僕達の仕事について説明しましょうか。僕達は『怪異対策零隊』と呼ばれていて、文字通り世の中に巣食う怪異を退治する役目があります。怪異は通常、人の目には見えません。怪異を見分けることができるのは『千里眼』を持つ者だけ。つまり、あなたのことです」
「あの……何故私は怪異が見えるんでしょうか?」
答えが返ってこないと分かっていても、薫は聞かずにはいられなかった。高臣が根回しをしてまで妻にしたかった薫は、よほど貴重な人材だということになる。薫の知る限り、ご先祖様に自分と同じ力を持つ者がいた話は聞いていない。
「うーん、僕に聞かれても分かりませんが、とにかく薫さんに千里眼があるのは間違いないんです。薫さんに伺いたいんですが、怪異は常に見えるものですか? それとも、普段は見えないとか」
「常に見えているか分からないですけど、嫌な気配を感じることもあれば、永田のようにはっきりとした形のものが見えることもあります」
「なるほど……全てが見えているわけではないんですね。ちなみにですけど、この家に怪異はいませんよね?」
「いません。とても清々しい空気です」
薫は笑いながら答えた。ホッとした様子の直弥は、殺風景な洋室を見回していた。この部屋は普段使われていない空き部屋で、薫が来てからは勉強室として使われている。飾り気のない寂しい部屋だが、薫はこの部屋に安らぎすら感じている。怪異がいない家というのは、たとえ暗闇でも怖くはないものだ。
「それは良かった。怪異を退治する家に怪異がいたら洒落にならないですからね……。あ、そうだ。ついでに薫さんにこれをお見せしておきましょう」
直弥は腰のベルトに下げられた刀身のない刀の柄を取り出すと、ゴトリと音を立ててテーブルの上に置いた。どうやら薫の想像よりも重さのある柄のようだ。刀の鍔には美しい装飾がされていて、それは帝の紋章だと分かった。
「綺麗な柄ですね」
「これは今上様から賜ったものです。僕達華族は今上様に誓いを立て、あのお方から力を授かります。薫さんが先日見た青い炎の刀は、今上様の祈りの力と言われています。怪異を倒すことができる、唯一にして絶対の手段です」
直弥は刀を持ち上げ、ぐっと柄に力をこめた。すると青い炎が現れ、それは真っすぐに伸びて美しい刀身となった。近くで見ると光が強いが、じっと見ていると引き込まれそうな美しさがある。
気高い。それが青い刀を間近で見た薫が感じた気持ちだった。
「この刀を賜り、怪異を倒す使命を負うのは僕を含め、近衛隊の中でもごく一部です。薫さんもじきに実感されるでしょうが、怪異と立ち向かうには『千里眼』を持つあなたのような方が絶対に必要です」
直弥は刺すような視線で薫を見た。彼らは本当に、薫の力を必要としているのだ。直弥の話では、千里眼を持つ者は近頃めっきり減っていて、怪異対策零隊の中で千里眼を持つ隊士はごくわずかだと言う。宮廷が薫と高臣の結婚を許可したのも、貴重な千里眼の力を取り込みたいという考えがあったからだろう。
直弥の話を真剣に聞いていた薫は、突然部屋の扉がバタンと大きく開いた音に驚いてそちらを見た。
「あれ、高臣。もう戻ったのか?」
その音で直弥も扉に目をやった。そこには高臣が仏頂面で立っていた。
