千里眼は闇を視る

 風呂から上がった薫は、春江に案内されるままに応接間へ入った。天井から吊り下げられたシャンデリアはキラキラしていて、窓に掛けられた分厚いカーテンは見世物小屋にある形ばかりの緞帳よりも立派だ。壁際に置かれたテーブルランプの灯りは、柔らかなオレンジ色の光をぼんやりと放っている。部屋にある壁掛け時計の振り子がカチッ、カチッと心地よい音を立てていたので、薫は時計に目をやった。時計の針は既に午後十一時を回っていた。

「高臣様を呼んで参りますので、こちらでお待ちください」
「は……はい」

 促されるまま、薫は大きなソファに腰を下ろした。柔らかくてゆっくりと沈む感覚が珍しい。足元の絨毯も柔らかくて心地よい。ここは薫の知る場所とはまるで別世界だった。薫が暮らしていた見世物小屋は隙間だらけで、ネズミや虫がしょっちゅう入り込むし、畳はなんだかじっとりとしめっていて嫌な臭いがしていた。客を入れる場所だけはそれなりに綺麗にしていたが、裏は酷いものだった。永田夫婦が暮らす部屋だけは綺麗な畳を敷き、綿がたっぷりと入った布団があったが、薫や他の芸人達は数人で一つの部屋を使い、ボロボロの畳の上に布団とも呼べないような布の塊を敷いて眠る。

(それだけじゃない、あそこには『何か』がいたんだわ)

 妙前家に入って気がついた。ここには見世物小屋で常に感じていた嫌な気配がない。今思えば、それは永田に取り憑いていた怪異の気配だったのかもしれない。暗闇はいつも何かが蠢くような気配があり、どこもじめっとしていて薄暗く空気が重かった。古い建物だから仕方ないと薫は思っていたのだが、多分違ったのだ。

「待たせたね」

 考え事をしていた薫は、扉が開いて入って来た高臣の顔を見て驚き、慌てて立ちあがった。

「ああ、そのままでいいよ。お風呂はどうだった?」
「いいお風呂でした……ありがとうございました」

 薫の向かい側に腰かけた高臣は、軍服のような姿から着物に着替えていた。薫をじっと見た高臣は、安心したように頷く。

「少し顔色も良くなったようだな。では、早速だが僕の『使命』の話をしよう。先程僕が倒した『怪異』についてだが、僕はあれを肉眼で認識することができない」
「認識できない?」

 薫は首を傾げた。あの時、確かに高臣は怪異のことを知っていて、青い炎の刀で怪異を倒した。それなのに、高臣にはあれが見えていないとは不思議だ。

「君の持つ『千里眼』だが、あれは限られた者にしかない特別な力だ。人々はただの透視能力だと思っているが、そうではない。千里眼の力がないと、怪異を見抜くことができない。怪異は人の心に取り憑く悪だ。放っておけばどんどん人の命を吸い、大きくなる。怪異に取り憑かれた者は人に危害を与えるようになる。そしてやがて、取り憑かれた者は命を完全に奪われ、怪異に支配されてしまう。その前に怪異を倒す、それが僕の使命だ」

 薫は真剣な表情で高臣の話を聞いていた。彼の話が荒唐無稽なものとは思えない。実際に薫は高臣の力を目の当たりにしている。

今上(きんじょう)様……あなた達は『帝』と呼ぶお方だが、今上様を始めとする一族には『千里眼』の力がある。もちろん今上様ご自身にもそのお力がある。今上様はこの国を守る為、怪異を千里眼の力で見つけ、退治する使命があるのだ。だが、段々千里眼を持つ者が減って来た。僕の家、妙前家も今上様と繋がる家系だが、残念ながら僕は千里眼の力を持たずに生まれてきた」

 高臣は小さくため息をついた。その物憂げな顔を見ていると、薫は思わず引き込まれそうになり、慌てて高臣から目を逸らした。

「……僕には双子の弟がいてね。弟の高明(たかあき)には素晴らしい千里眼の力が備わっていた。僕達は二人で怪異を退治していた。怪異を見つけるのは高明、戦うのは僕。それで上手くいっていたんだが……残念ながら弟は病で亡くなってしまった」

 高臣は俯き、寂しそうな顔で弟の話をした。高臣の年齢は分からないが、まだ二十代くらいだろうか。若くして双子の弟を亡くすとは、よほど辛いことだったに違いない。

「弟亡き後、僕には千里眼の目を持つ協力者がどうしても必要だった。さっきまで一緒にいたあの男は朝倉直弥と言ってね、僕の同僚でとても優秀だが、やはり彼にも千里眼はない。そこへ入って来たのが、新聞社で『千里眼公開実験』が行われるという話だ。千里眼を持つと言われるあなたに会いに、僕はあそこへ行った」
「そういうことだったんですね……」

 ようやく薫は言葉を発した。あの場に華族がいたことに周囲は驚いていたが、高臣は最初から薫の能力を確かめる為に来ていたのだ

「千里眼実験の前に、直弥に見世物小屋へ行ってもらい、あなたの力を見てもらった。あなたの力は恐らく本物だと直弥は話したよ」
「見世物小屋に来ていたんですか? あの人が……?」

 薫は驚いたが、それらしき男が来ていたかどうか彼女には分からない。見世物小屋では目隠しをした上で、封筒に書かれた文字を透視して見せるというのが決まりだ。薫が集中できないからというのが理由だが、そうすることによってこれはイカサマではないという証にもなるので、客の受けもいい。だから薫が客の顔を見ることは殆どないというわけである。

「直弥は人込みに紛れるのが上手な男だから、見ても気づかないだろう。千里眼実験では、あなたは僕の名前をわざと間違えたね? だが二文字は正解だった。あの場で咄嗟に別の名前を書こうとして、僕の名前に引っ張られたな?」
「そ……その通りです。あの場で私は緊張していて、ちょうどいい名前が出てこなかったんです。ですから咄嗟に」
「そうだろうと思ったよ」

 頷くと高臣は話を続けた。

「あなたにはこれから、僕の手伝いをしてもらいたい。今日からこの家で暮らしてもらい、怪異の情報が出たらすぐに出られるようにして欲しい」
「分かりました……お、お役に立てるか分かりませんが」

 薫の返事を聞いた高臣は、椅子に軽く座り直すとぐいっと身を乗り出した。

「さて、ここからが本題だ。独身の男女が一つ屋根の下で暮らすというのは、どうにも外聞が悪い。そこで提案なのだが、僕と結婚をして欲しいんだよ」

「……は?」

 薫は高臣から「結婚」という言葉を聞き、聞き違えたかと思い、ポカンとした。

「驚かないでくれ。これは『契約結婚』だと思って欲しい。さっきも話したが僕には千里眼の力がない。だが今上様の命により、怪異を退治する役目がある。その為には千里眼の目を持つあなたがどうしても必要だ。幸い僕は結婚をして家庭を持つことに何の魅力も感じていない。形の上だけでも夫婦であれば、二人で活動することに何の障害もない。色々考えた上で、最善の方法だと思う」
「あ、あの……私はただの平民です。妙前様のような方と結婚する資格がありませんが」

 焦った薫は首を振る。薫は東北で生まれ育った小さな食堂の娘で、当然ながらただの平民である。華族と平民が結ばれることは殆どないと言われる。平民でも事業で成功した家の娘なら結婚することもあるらしいが、どちらにせよ薫にとって華族は最も遠い存在である。

「高臣でいい。資格について心配は不要だ。怪異を倒す使命のある家では、千里眼を持つ者が最も重要視される。平民だろうと関係ない」
「そ……」

 何かを言いかけたが、次の言葉がうまく出てこない。どうやら高臣は本気で薫と契約結婚しようとしているようだ。他に好いた相手がいるわけではないし、これから行くあてがあるわけでもない。高臣の言い分も理解はできるが……。

「結婚を承諾してくれれば、この先のあなたの生活全てを保障する。これからこの家で暮らすことにはなるが、部屋は別々にするしあなたに干渉することもない。ここは僕が一人で暮らしている家だから、あなたが誰に気を使うこともない。結婚はあくまで書類上のものだと考えて欲しい」

 薫はじっと俯き、高臣の言葉を頭の中で整理した。応接間の中に沈黙の時間が流れ、壁掛け時計のカチッ、カチッという振り子が動く音だけが、やけに大きく響いた。

「……分かりました。このお話、お受けいたします」

 薫は顔を上げ、まっすぐに高臣を見て言いきった。どうせ先の見えない人生だ。この男が自分を利用したいというならそうすればいい。協力すれば薫はこの先飢えることもなく、安心して暮らせるのだ。
 それは薫にとって打算の結婚だった。高臣は薫の返答を聞き、口元を持ち上げて頷いた。高臣にとっても打算の結婚だったのは間違いない。

 こうして二人はひっそりと、出会ったその日に結婚を決めたのだった。