薫は高臣と直弥に連れられ、黒塗りの自動車に乗った。自動車に乗るのは当然初めてである。運転手は直弥で、助手席に高臣が乗り、後ろの座席に薫が乗った。
自動車は夜の入り組んだ下町を縫うように駆け抜け、やがて広くて綺麗な道路に出る。ガス灯の灯りがいくつも流れていくのをぼんやりと眺めながら、薫は一体どこまで行くのだろうと考えていた。
永田の妻リエが夫の遺体を見て泣き叫ぶ声を背中に、薫は見世物小屋を後にした。永田の後始末は警察がやると高臣は話していた。こういうことは慣れているようで、警察も高臣の『使命』に協力しているようだった。リエのことは好きではなかったが、さすがに夫を亡くして泣いているあの声を聞くと、薫は気の毒に思った。見世物小屋は主人を失ったわけで、これから芸人達はどうするのだろうと思うと気分が重くなる。
薫の気持ちは置き去りに自動車は夜の街を抜け、流れるガス灯の灯りがやがてなくなり静かな住宅地に入ると、ある門の前でようやく車が止まった。
そこは妙前高臣の家だった。周囲をぐるりと塀で囲み、外から中の様子を覗くことができないようになっている。薫が想像する華族様のお屋敷にしては、広さはそれほどでもないように思えた。門から玄関までの距離も短く、庭もあまり広くない。だが屋敷は西洋風の洒落た造りで、黒塗りの自動車は他にも一台停まっていて、玄関には出迎えが待っている。明らかに庶民が暮らす家とは違う。
「お帰りなさいませ、高臣様」
「ただいま、春江。彼女が『一ノ倉薫』さんだ」
出迎えた春江は着物の上にエプロンをしていて、姿勢が良く上品な印象のある中年女性だった。薫はオドオドしながら春江に頭を下げる。
「一ノ倉薫と申します……」
「高臣様から事情は伺っております。私は高臣様のお世話をさせていただいております、女中の中尾春江と申します。ようこそいらっしゃいました」
春江は突然やってきた薫に慌てることもなく、淡々と挨拶を返した。春江の視線が全身に突き刺さっているのを感じ、薫は身を縮める。ろくに手入れもしない髪、やせ細った体を隠す古臭い着物、汚れた鼻緒の草履、どれもこの立派な屋敷に釣り合わない。
「春江、彼女に着替えの用意と……それと風呂に入れてやって欲しいんだが」
「既に用意してあります」
「さすがだな。では後のことはよろしく頼む」
「かしこまりました。それでは薫様、こちらにどうぞ」
春江は薫に家の中へ上がるよう促した。玄関で草履を脱ぎ、綺麗なスリッパに履き替える。廊下は艶のある板張りの床で、壁には西洋のランプが掛けられていてとても明るかった。
直弥は家には上がらずにそのまま自動車で自宅へと戻って行った。薫は初めて来た家でいきなり風呂に入れと言われ、戸惑いながらも春江の言う通りにした。風呂場には大きな浴槽があり、暖かいお湯が張られている。薫はいつも街の銭湯を利用していたので、個人の家で風呂に入るのは実家にいた時以来である。実家の風呂場は母屋の離れにある五右衛門風呂だったので、家の中に立派な風呂場があるだけでも驚きである。
(なんだか、とんでもないことになってしまった……)
浴槽につかりながら、ぼんやりと薫は今日一日のことを思い出していた。永田に「公開実験をやれ」と言われ、新聞社に連れて行かれた。言われた通りに壺の中に書かれた文字を透視することになったが、薫はわざと名前を間違えて書いた。
自分を見る大勢の記者達の視線を浴びながら、ふと薫は思った。ここで名前を間違えれば新聞社は『実験は大失敗』と記事にするだろう。千里眼の力が偽物だということが帝都中に広まり、もう金にならないと分かれば、永田は見世物小屋から自分を追い出すかもしれない。
両親から金で売られた薫は、見世物小屋にいるしかない人生だった。いくらで売られたか知らなかった薫は、事あるごとに永田から「お前を高い値段で買ったんだ。お前の親に支払った分は働いてもらうぞ」と脅されていた。だがもう見世物小屋に来て三年になる。両親に支払った分はもうとっくに稼いだはずだ。
実際に薫を買った値段は安いものだったが、薫がそれを知ることはなかった。
そして公開実験に来ていた「妙前高臣」という華族の男と出会った。高臣は「協力して欲しい」と言い、薫を迎えに来たのだ。自分が持つ『千里眼』という力がなんなのか、薫には分からない。自分だけに見える『怪異』と呼ばれる恐ろしいものは、自分にはどうにもできないものだと思っていたが、どうやら高臣には倒すことができるようだ。
これからどうなるのか分からないが、自分の力の秘密を妙前高臣という男は知っている。その為には高臣を頼るしかない。
自動車は夜の入り組んだ下町を縫うように駆け抜け、やがて広くて綺麗な道路に出る。ガス灯の灯りがいくつも流れていくのをぼんやりと眺めながら、薫は一体どこまで行くのだろうと考えていた。
永田の妻リエが夫の遺体を見て泣き叫ぶ声を背中に、薫は見世物小屋を後にした。永田の後始末は警察がやると高臣は話していた。こういうことは慣れているようで、警察も高臣の『使命』に協力しているようだった。リエのことは好きではなかったが、さすがに夫を亡くして泣いているあの声を聞くと、薫は気の毒に思った。見世物小屋は主人を失ったわけで、これから芸人達はどうするのだろうと思うと気分が重くなる。
薫の気持ちは置き去りに自動車は夜の街を抜け、流れるガス灯の灯りがやがてなくなり静かな住宅地に入ると、ある門の前でようやく車が止まった。
そこは妙前高臣の家だった。周囲をぐるりと塀で囲み、外から中の様子を覗くことができないようになっている。薫が想像する華族様のお屋敷にしては、広さはそれほどでもないように思えた。門から玄関までの距離も短く、庭もあまり広くない。だが屋敷は西洋風の洒落た造りで、黒塗りの自動車は他にも一台停まっていて、玄関には出迎えが待っている。明らかに庶民が暮らす家とは違う。
「お帰りなさいませ、高臣様」
「ただいま、春江。彼女が『一ノ倉薫』さんだ」
出迎えた春江は着物の上にエプロンをしていて、姿勢が良く上品な印象のある中年女性だった。薫はオドオドしながら春江に頭を下げる。
「一ノ倉薫と申します……」
「高臣様から事情は伺っております。私は高臣様のお世話をさせていただいております、女中の中尾春江と申します。ようこそいらっしゃいました」
春江は突然やってきた薫に慌てることもなく、淡々と挨拶を返した。春江の視線が全身に突き刺さっているのを感じ、薫は身を縮める。ろくに手入れもしない髪、やせ細った体を隠す古臭い着物、汚れた鼻緒の草履、どれもこの立派な屋敷に釣り合わない。
「春江、彼女に着替えの用意と……それと風呂に入れてやって欲しいんだが」
「既に用意してあります」
「さすがだな。では後のことはよろしく頼む」
「かしこまりました。それでは薫様、こちらにどうぞ」
春江は薫に家の中へ上がるよう促した。玄関で草履を脱ぎ、綺麗なスリッパに履き替える。廊下は艶のある板張りの床で、壁には西洋のランプが掛けられていてとても明るかった。
直弥は家には上がらずにそのまま自動車で自宅へと戻って行った。薫は初めて来た家でいきなり風呂に入れと言われ、戸惑いながらも春江の言う通りにした。風呂場には大きな浴槽があり、暖かいお湯が張られている。薫はいつも街の銭湯を利用していたので、個人の家で風呂に入るのは実家にいた時以来である。実家の風呂場は母屋の離れにある五右衛門風呂だったので、家の中に立派な風呂場があるだけでも驚きである。
(なんだか、とんでもないことになってしまった……)
浴槽につかりながら、ぼんやりと薫は今日一日のことを思い出していた。永田に「公開実験をやれ」と言われ、新聞社に連れて行かれた。言われた通りに壺の中に書かれた文字を透視することになったが、薫はわざと名前を間違えて書いた。
自分を見る大勢の記者達の視線を浴びながら、ふと薫は思った。ここで名前を間違えれば新聞社は『実験は大失敗』と記事にするだろう。千里眼の力が偽物だということが帝都中に広まり、もう金にならないと分かれば、永田は見世物小屋から自分を追い出すかもしれない。
両親から金で売られた薫は、見世物小屋にいるしかない人生だった。いくらで売られたか知らなかった薫は、事あるごとに永田から「お前を高い値段で買ったんだ。お前の親に支払った分は働いてもらうぞ」と脅されていた。だがもう見世物小屋に来て三年になる。両親に支払った分はもうとっくに稼いだはずだ。
実際に薫を買った値段は安いものだったが、薫がそれを知ることはなかった。
そして公開実験に来ていた「妙前高臣」という華族の男と出会った。高臣は「協力して欲しい」と言い、薫を迎えに来たのだ。自分が持つ『千里眼』という力がなんなのか、薫には分からない。自分だけに見える『怪異』と呼ばれる恐ろしいものは、自分にはどうにもできないものだと思っていたが、どうやら高臣には倒すことができるようだ。
これからどうなるのか分からないが、自分の力の秘密を妙前高臣という男は知っている。その為には高臣を頼るしかない。
