帝都の下町にある見世物小屋は、簡単な造りのおんぼろなものだった。中では胡散臭い芸人達が芸を披露して金を稼いでいる。主人の永田博はあちこちから食うに困った者を連れてきて、小屋で芸をさせていた。そのどれもが偽物で、芸もいい加減なものばかりだ。目が見えるのに盲目の三味線弾きだと偽る女や、下手な手品を披露する男などだ。それでも安い金で楽しめる手軽な娯楽として、永田の見世物小屋はそれなりに客が入っていた。
インチキだらけの芸人達の中で、薫だけは他とどこか違っていた。薫は東北で生まれ育ち、そこで千里眼の能力があると噂になった。芸人達を連れて旅をしていた永田は、薫の噂を聞きつけ彼女に会いに行った。金に困っていた薫の両親は、二束三文の金で薫を永田に売った。その時、薫は十七になったばかりだった。
薫はそうして永田の見世物小屋に入り、日々舞台に立って千里眼を披露していた。封筒に入れた文字を透視するというものだが、毎回当てているうちに客の間で『あの千里眼は本物ではないか』と噂が広まった。その噂を聞きつけ、異能を研究する学者の樋口が見世物小屋にやってきた。樋口は薫を詳しく調べたいと永田に訴えたが、永田は「どうせなら新聞記者を呼んで実験の様子を見せよう」と言い出して新聞社に売り込んだ。こうして先の『千里眼公開実験』が行われることになったのである。
結局実験は失敗に終わったので、永田の機嫌はすこぶる悪かった。見世物小屋へ帰った後、永田は薫を裏の物置に閉じ込めた。この物置は芸人達に罰を与える時に永田が使う。窓もない、真っ暗な物置に閉じ込められた薫は、ただそこでじっと時が過ぎるのを待っていた。きっと夜が明けた頃、永田の妻、リエが物置を開けにやってくるだろう。
リエも嫌な女だった。どんよりとした目つきの女で、芸人達を気分次第でいじめていた。当然薫もリエには辛く当たられていた。特に薫は若くて顔立ちが整った女だったので、そういう意味でも薫が気に入らなかったのだろう。リエは常に薫を監視し、自分の夫が薫に手を出さないよう睨みをきかせていた。嫌味な女だが、薫を守る意味では皮肉にも役に立っていた。
薫はこのまま眠ってしまおうと考えていた。この物置に閉じ込められたのは一度や二度ではない。最初の頃は怖かったが、今ではもう慣れっこだ。それでもやっぱり、闇の中にいると何かが蠢くような感覚を味わうことがあって、心がざわざわとする。だから目を閉じて、眠りについてしまうのが一番いい。
(それに、闇の方が少しはまし。あの男の方がよほど怖いもの)
膝を抱えて座り、薫はぎゅっと目を閉じた。
♢♢♢
どれくらい時間が経っただろうか。急に外が騒がしくなり、薫は目を開けた。ドタドタと走り回る音、何やら怒鳴り声、女の悲鳴のようなもの。外で何かが起こっている。
(何?)
薫は集中し、目を凝らして物置の扉を見る。千里眼と言っても何でも見えるわけではない。見たいものの周囲がなんとなく分かるだけで、例えるならば望遠鏡で覗いたような感じだ。物置の向こう側には母屋があり、永田とリエの部屋がある。壁越しに見えたのは、床に転がり泣きわめくリエの姿と、誰かに殴りかかろうとしている永田の姿だ。
(誰?)
永田が揉めている相手は二人いた。二人とも軍人のような帽子を被り、マントで体を覆っていて顔や体つきは見えない。一人が永田を組み伏せると、もう一人が部屋を出ていく。
(……こっちに来る!)
その事実に気づいた薫はゾッとして、千里眼を使うのを止めて身構えた。軍人だとしたら永田が何かやったのだろうか。それとも軍人に扮した強盗だろうか。
突然、大きな音を立てて物置の引き戸がバタンと外側に倒れた。その勢いで埃が舞い、扉の向こうにいた男がマントで顔を覆う。薫は呆然と男を見上げた。月の光が男の背中に差し込み、男を淡く照らしている。
薫は、思わずその姿を見て「美しい」と思ってしまった。自分を襲いに来たかもしれないのに、その堂々とした立ち姿は少しの隙もなく、美しいとしか言えなかったのだ。
「一ノ倉薫。本物の『千里眼』を持つあなたに力を借りたい。僕と一緒に来てくれるか?」
男がようやく言葉を発したと思ったら、薫が思ってもいなかったことを口にした。
「あ……あなたは誰?」
薫は戸惑いながら、それだけを言うのがやっとだ。男は帽子を外して顔を見せた。その顔には見覚えがある。今日の千里眼実験で薫が名前を書いた男だ。名前は確か……。
「僕の名は妙前高臣。この名前に覚えがあるだろう? あなたは僕の名前を透視して、わざと間違えて名前を書いたな?」
「ど……どうしてそんなこと……」
「とにかく話は後だ。このまま見世物小屋であの醜い男に食い物にされるか、僕と一緒に来て僕の手伝いをするか。どちらか選べ」
選ぶ……? 自分の道を、自分で選ぶ?
混乱状態の薫はすぐに答えない。その様子を見てため息をついた高臣の後ろから永田の怒鳴り声がした。
「おい、いくら華族様だからって俺の家を勝手に踏み荒らしていいと思ってるのか!」
永田は顔を腫らし、高臣を追ってきていた。そのすぐ後ろから高臣の仲間、直弥が息を切らせながら追いかけて来る。
薫は永田の顔を見た途端、急に顔を青ざめさせて永田から目を逸らした。薫の様子を見た高臣は、後ろを振り返ろうとした瞬間、永田に掴まれ勢いよく地面に投げられた。いくら永田でも、大人の男をいとも簡単に投げられるわけもない。永田の力は異常に強かった。
「薫さん。あなたの目には何が映っている?」
痛みに顔を歪め、体を起こしながら、高臣は薫に尋ねた。薫は怯えた顔で首を振るばかりだ。
「その男に何か取り憑いているだろう? 何が見えているか話せ」
高臣は怒気を含んだ声で再び薫に尋ねた。薫は体をビクッとさせ、とうとう口を開く。
「か、からだに……真っ黒な蛇のようなものが、沢山……」
「やはりな」
不敵な笑みを浮かべながら、高臣は立ち上がった。高臣の目には、ただの太った中年の男が立っているように見えるだけだ。だが薫の目には、永田の体に巻き付く複数の黒い蛇の姿が映っていた。蛇は幾重にも巻き付き、もうすぐ永田の体は黒い蛇で見えなくなってしまいそうなほどだ。
「高臣、まさかこいつは『怪異』に憑かれているのか? 通りで馬鹿力なわけだ……」
直弥は驚いたように呟く。彼にとっては予想外の出来事らしい。一方の高臣は平然とした顔のまま、マントを翻して腰のベルトに下げていた『刀身がない刀』を取り出した。それはとても奇妙なもので、本来なら鍔の先には刀身がなければならない。だが彼が持っているのは柄の部分だけの刀だ。
「今上様の命により、妙前高臣が怪異を斬る」
高臣は柄を胸の前で構えた。するとまた不思議なことが起こった。柄の先に青い炎で作られた刀身が現れたのだ。
「な……何だ、それは……」
永田は急に怯えたような表情を見せた。その一瞬の隙に、高臣は刀を振り下ろし、永田の体を斜めに斬りつけた。
薫は思わず目を逸らした。永田のうめき声がした後、どさりと地面に倒れる音がしてその後は静かになった。恐る恐る目を開けた薫の目に映ったのは、地面に仰向けで横たわる永田の姿と、青い炎が消えた柄を持って立つ高臣の姿だった。
「……死んだんですか?」
ぴくりとも動かない永田の姿を見ながら、薫は恐る恐る高臣に尋ねた。高臣は永田の前でしゃがみ、彼の首に指を当てた後、そっと永田の目を閉じさせた。
「そのようだ。ここまで『怪異』に蝕まれていては、取り除いても命を救えない。もっと早い段階なら救えたが……こいつが怪異に取り憑かれてから、相当長い時間が経っていたのだろうな。あなたが永田の怪異に気づいたのはいつ頃だ?」
「……私がここへ来てから間もなくのことです……二年は経っているかと……」
「なるほど。あなたは永田の怪異に気づき、この男が恐ろしくて逆らうことができなかった。違うか?」
「その通りです……」
どうしてこの人は何もかも知っているのだろう、と薫は驚きながら頷いた。薫の千里眼はただ遠くを見る力だけではない。普通の人には見えないものが、彼女だけには見えていた。人に話しても信じてもらえないので、この力のことは自分の中だけにしまっていた。自分だけが知る力のはずが、妙前高臣という男はそれを知っていて、しかもそれを退治する力まで持っている。
「詳しい話は後でするが、僕の使命はこのような『怪異』を退治すること。そして薫さん、あなたは怪異を見抜く『千里眼』の持ち主だ。あなたに力を借りたい。もう一度聞くが、僕と一緒に来てくれるか?」
高臣は物置の中でへたり込んでいる薫に手を差し出した。月の光に照らされ、彼が輝いているように見えた薫は、頷くと震える手を高臣に伸ばした。
インチキだらけの芸人達の中で、薫だけは他とどこか違っていた。薫は東北で生まれ育ち、そこで千里眼の能力があると噂になった。芸人達を連れて旅をしていた永田は、薫の噂を聞きつけ彼女に会いに行った。金に困っていた薫の両親は、二束三文の金で薫を永田に売った。その時、薫は十七になったばかりだった。
薫はそうして永田の見世物小屋に入り、日々舞台に立って千里眼を披露していた。封筒に入れた文字を透視するというものだが、毎回当てているうちに客の間で『あの千里眼は本物ではないか』と噂が広まった。その噂を聞きつけ、異能を研究する学者の樋口が見世物小屋にやってきた。樋口は薫を詳しく調べたいと永田に訴えたが、永田は「どうせなら新聞記者を呼んで実験の様子を見せよう」と言い出して新聞社に売り込んだ。こうして先の『千里眼公開実験』が行われることになったのである。
結局実験は失敗に終わったので、永田の機嫌はすこぶる悪かった。見世物小屋へ帰った後、永田は薫を裏の物置に閉じ込めた。この物置は芸人達に罰を与える時に永田が使う。窓もない、真っ暗な物置に閉じ込められた薫は、ただそこでじっと時が過ぎるのを待っていた。きっと夜が明けた頃、永田の妻、リエが物置を開けにやってくるだろう。
リエも嫌な女だった。どんよりとした目つきの女で、芸人達を気分次第でいじめていた。当然薫もリエには辛く当たられていた。特に薫は若くて顔立ちが整った女だったので、そういう意味でも薫が気に入らなかったのだろう。リエは常に薫を監視し、自分の夫が薫に手を出さないよう睨みをきかせていた。嫌味な女だが、薫を守る意味では皮肉にも役に立っていた。
薫はこのまま眠ってしまおうと考えていた。この物置に閉じ込められたのは一度や二度ではない。最初の頃は怖かったが、今ではもう慣れっこだ。それでもやっぱり、闇の中にいると何かが蠢くような感覚を味わうことがあって、心がざわざわとする。だから目を閉じて、眠りについてしまうのが一番いい。
(それに、闇の方が少しはまし。あの男の方がよほど怖いもの)
膝を抱えて座り、薫はぎゅっと目を閉じた。
♢♢♢
どれくらい時間が経っただろうか。急に外が騒がしくなり、薫は目を開けた。ドタドタと走り回る音、何やら怒鳴り声、女の悲鳴のようなもの。外で何かが起こっている。
(何?)
薫は集中し、目を凝らして物置の扉を見る。千里眼と言っても何でも見えるわけではない。見たいものの周囲がなんとなく分かるだけで、例えるならば望遠鏡で覗いたような感じだ。物置の向こう側には母屋があり、永田とリエの部屋がある。壁越しに見えたのは、床に転がり泣きわめくリエの姿と、誰かに殴りかかろうとしている永田の姿だ。
(誰?)
永田が揉めている相手は二人いた。二人とも軍人のような帽子を被り、マントで体を覆っていて顔や体つきは見えない。一人が永田を組み伏せると、もう一人が部屋を出ていく。
(……こっちに来る!)
その事実に気づいた薫はゾッとして、千里眼を使うのを止めて身構えた。軍人だとしたら永田が何かやったのだろうか。それとも軍人に扮した強盗だろうか。
突然、大きな音を立てて物置の引き戸がバタンと外側に倒れた。その勢いで埃が舞い、扉の向こうにいた男がマントで顔を覆う。薫は呆然と男を見上げた。月の光が男の背中に差し込み、男を淡く照らしている。
薫は、思わずその姿を見て「美しい」と思ってしまった。自分を襲いに来たかもしれないのに、その堂々とした立ち姿は少しの隙もなく、美しいとしか言えなかったのだ。
「一ノ倉薫。本物の『千里眼』を持つあなたに力を借りたい。僕と一緒に来てくれるか?」
男がようやく言葉を発したと思ったら、薫が思ってもいなかったことを口にした。
「あ……あなたは誰?」
薫は戸惑いながら、それだけを言うのがやっとだ。男は帽子を外して顔を見せた。その顔には見覚えがある。今日の千里眼実験で薫が名前を書いた男だ。名前は確か……。
「僕の名は妙前高臣。この名前に覚えがあるだろう? あなたは僕の名前を透視して、わざと間違えて名前を書いたな?」
「ど……どうしてそんなこと……」
「とにかく話は後だ。このまま見世物小屋であの醜い男に食い物にされるか、僕と一緒に来て僕の手伝いをするか。どちらか選べ」
選ぶ……? 自分の道を、自分で選ぶ?
混乱状態の薫はすぐに答えない。その様子を見てため息をついた高臣の後ろから永田の怒鳴り声がした。
「おい、いくら華族様だからって俺の家を勝手に踏み荒らしていいと思ってるのか!」
永田は顔を腫らし、高臣を追ってきていた。そのすぐ後ろから高臣の仲間、直弥が息を切らせながら追いかけて来る。
薫は永田の顔を見た途端、急に顔を青ざめさせて永田から目を逸らした。薫の様子を見た高臣は、後ろを振り返ろうとした瞬間、永田に掴まれ勢いよく地面に投げられた。いくら永田でも、大人の男をいとも簡単に投げられるわけもない。永田の力は異常に強かった。
「薫さん。あなたの目には何が映っている?」
痛みに顔を歪め、体を起こしながら、高臣は薫に尋ねた。薫は怯えた顔で首を振るばかりだ。
「その男に何か取り憑いているだろう? 何が見えているか話せ」
高臣は怒気を含んだ声で再び薫に尋ねた。薫は体をビクッとさせ、とうとう口を開く。
「か、からだに……真っ黒な蛇のようなものが、沢山……」
「やはりな」
不敵な笑みを浮かべながら、高臣は立ち上がった。高臣の目には、ただの太った中年の男が立っているように見えるだけだ。だが薫の目には、永田の体に巻き付く複数の黒い蛇の姿が映っていた。蛇は幾重にも巻き付き、もうすぐ永田の体は黒い蛇で見えなくなってしまいそうなほどだ。
「高臣、まさかこいつは『怪異』に憑かれているのか? 通りで馬鹿力なわけだ……」
直弥は驚いたように呟く。彼にとっては予想外の出来事らしい。一方の高臣は平然とした顔のまま、マントを翻して腰のベルトに下げていた『刀身がない刀』を取り出した。それはとても奇妙なもので、本来なら鍔の先には刀身がなければならない。だが彼が持っているのは柄の部分だけの刀だ。
「今上様の命により、妙前高臣が怪異を斬る」
高臣は柄を胸の前で構えた。するとまた不思議なことが起こった。柄の先に青い炎で作られた刀身が現れたのだ。
「な……何だ、それは……」
永田は急に怯えたような表情を見せた。その一瞬の隙に、高臣は刀を振り下ろし、永田の体を斜めに斬りつけた。
薫は思わず目を逸らした。永田のうめき声がした後、どさりと地面に倒れる音がしてその後は静かになった。恐る恐る目を開けた薫の目に映ったのは、地面に仰向けで横たわる永田の姿と、青い炎が消えた柄を持って立つ高臣の姿だった。
「……死んだんですか?」
ぴくりとも動かない永田の姿を見ながら、薫は恐る恐る高臣に尋ねた。高臣は永田の前でしゃがみ、彼の首に指を当てた後、そっと永田の目を閉じさせた。
「そのようだ。ここまで『怪異』に蝕まれていては、取り除いても命を救えない。もっと早い段階なら救えたが……こいつが怪異に取り憑かれてから、相当長い時間が経っていたのだろうな。あなたが永田の怪異に気づいたのはいつ頃だ?」
「……私がここへ来てから間もなくのことです……二年は経っているかと……」
「なるほど。あなたは永田の怪異に気づき、この男が恐ろしくて逆らうことができなかった。違うか?」
「その通りです……」
どうしてこの人は何もかも知っているのだろう、と薫は驚きながら頷いた。薫の千里眼はただ遠くを見る力だけではない。普通の人には見えないものが、彼女だけには見えていた。人に話しても信じてもらえないので、この力のことは自分の中だけにしまっていた。自分だけが知る力のはずが、妙前高臣という男はそれを知っていて、しかもそれを退治する力まで持っている。
「詳しい話は後でするが、僕の使命はこのような『怪異』を退治すること。そして薫さん、あなたは怪異を見抜く『千里眼』の持ち主だ。あなたに力を借りたい。もう一度聞くが、僕と一緒に来てくれるか?」
高臣は物置の中でへたり込んでいる薫に手を差し出した。月の光に照らされ、彼が輝いているように見えた薫は、頷くと震える手を高臣に伸ばした。
