千里眼は闇を視る

 翌朝、薫は台所で朝食づくりのお手伝いをしていた。最近は少しずつ、春江に習いながら食事の作り方を教わっている。実家では食堂を手伝っていたし、見世物小屋で暮らしていた時も食事の用意をしていたので慣れてはいるものの、春江が作る丁寧で上品な料理には程遠い。おまけに妙前家ではガス火を使うので、初めてガスで調理するのを見た薫は使い方が分からず戸惑った。実家でも見世物小屋でも薪で調理をしていたので、何もかも勝手が違う。マッチを擦ってガスコンロに火をつけるのが怖かったが、最近ようやく慣れてきたところだ。
 今日は初めて薫が最初から最後まで米を炊いた。緊張しながら土鍋の蓋を開けると、ぶわっと熱い湯気が立ち昇る。それと同時にお米のいい香りが薫の食欲を刺激する。どうやら上手くお米が炊きあがったようで、薫はホッと胸を撫で下ろした。

 おかずの用意も出来上がり、ダイニングルームに向かった薫が二人分の食事を並べていると、高臣が部屋にやってきた。

「あ、おはようございます。高臣様」
「おはよう」

 高臣は昨夜遅くまで置屋にいて、置屋の主人といち華のことについて話していたようである。彼が帰宅したのはもう日も跨ごうとする時間であったが、今朝の彼は疲れも見せずいつも通りだ。
 薫も席に着き、一緒に朝食を取る。高臣がご飯を食べる様子を心配そうに見ていた薫は、彼がもくもくと食べ進めているのを見てホッとする。

「高臣様、ご飯のお味はいかがですか?」

 高臣は箸を止めると不思議そうな顔をした。

「……いつも通りだ」
「そうですか、よかったです」

 いつも通りと言うことは、美味しいと言うことだ。薫は春江から料理を習っていることを高臣に話していない。いつかもっと腕が上がってから、彼に話そうと思っている。そもそも華族の家では、妻はあまり料理をしないものらしい。だが薫は平民の出なので、華族の暮らしというものがそもそもよく分かっていない。勉強以外は特にやることもないし、じっとしているのも退屈なので、春江に頼み込んで料理を習うことにしたのだ。

 いつものように無言で食事をしていた高臣は、ふと手を止めると箸を置き、薫が箸を運ぶ様子をじっと見ていた。

「昨夜は、ご苦労だったな」

 ハッと顔を上げた薫は「……いいえ」と首を振り、高臣に合わせて箸を置いた。

「いち華についての話を、あなたにも話すべきだと思う。あの後置屋に行って主人と話した。いち華も意識を取り戻し、体調に問題がないのも確認した」
「それは良かったです」

 薫がホッとした顔をしているのを見た高臣は、話を続けた。

「いち華は置屋の芸者衆の中でも地味で、売れっ子とは言えない芸者だったそうだ。他の芸者ばかりが売れていく中で、いち華には焦りがあったんだろう」
「そう言えば……お二人で話されていた時に、いち華さんは『私を救って』と言っていましたね」

 高臣はゆっくりと頷いた。

「……そうだな。いち華本人にも話を聞いた。自分では芸者に向いていないと悩んでいたようだ。早くいい旦那を見つけて、芸者そのものを辞めたかったと話していた。他の芸者を羨むうちに、怪異に取り憑かれたのだろうな」

 高臣の話を聞きながら、薫は昨夜のことを思い出していた。華やかなお座敷で上品な食事とお酒が並ぶ中、着飾った美しい芸者達が座敷で舞う。まるで別世界のような所で、いち華は人知れず苦しんでいたのだろうか。

「いち華は怪異に取り憑かれてから、自分でも訳が分からないまま抑えきれない怒りを周囲にぶつけたと言っていた。彼女に取り憑いた怪異は、普段は姿を見せないように隠れているが、感情の動きに合わせて出て来ていた。今はまだいいが、自分で抑えきれなくなると完全に怪異に支配されるようになる。それが、永田の状態だったというわけだ」
「……だから、永田の怪異は目を凝らさなくても私の目で見えていたんですね」

 薫が永田に買われて見世物小屋に連れてこられた頃は、まだ黒い蛇のようなものは見えていなかった。なんとなく見世物小屋全体に嫌な雰囲気があるのは感じていたが、既に薫が来た頃から怪異はあの小屋にいたのだろうか。永田はやがて怪異に全て取り込まれ、薫の目に映るようになってしまった。薫は怪異が何なのか知らなかった。当時はただ永田に巻き付く黒い蛇の群れが恐ろしく、永田を怒らせると何をされるか分からないので大人しくするしかなかった。

「永田のように、完全に怪異に乗っ取られた状態になってしまっては、怪異は倒せても人の命までは救えない。理想はいち華のように、救える状態で助けることなんだが……現実はそう上手くはいかないものだ」

 高臣は目を伏せ、ため息をつくと再び箸を手に取った。きっと高臣は、これまでも永田のように救えない人を多く見て来たのだろう。薫は動かなくなった永田の姿を思い出し、気分が重くなった。

「……とにかく、今回はいち華を救うことができた。あなたの千里眼のおかげで、いち華の怪異を見抜けた。あなたに感謝する」
「い……いえ、私は別に……」

 テーブルに目を落としたまま話す高臣を見ながら、薫は首を振った。高臣は不愛想で、感情を露わにしない男だ。そんな彼が薫に感謝を述べた。いい加減彼の性格に慣れてきた薫は、高臣の顔を見ながらほんの少し頬を緩めた。きっと、彼の気持ちに嘘はないのだろう。


♢♢♢


 高臣は兵部省の近衛隊に所属している隊士であるが、机に向かって報告書やら何やら書く仕事も多い。今日も机の上で、昨夜の怪異退治に関する報告書を書いていた。

「昨日の報告書かい? ご苦労様」
「ああ」

 直弥は手にお茶が入った湯呑を二つ持っていて、一つを高臣の机に置いた。

「いい加減似たような報告書を二つ書かされるのは、どうにかならないのか。手間がかかってしょうがない」
「ああ……兵部省(ひょうぶしょう)に報告するものと、宮内省に報告するものか。確かに面倒だけど、仕方ないね」

 愚痴を言う高臣を、苦笑いしながら見ていた直弥は自分のお茶をぐいっと飲む。怪異に関する報告は特殊で、何かあるたびに帝にも報告しなければならないのだが、帝は『本人から直接の報告』を望んでいるとのことで、結果二つの報告書を作成しなければならない。二度手間であるが、帝の言葉は絶対なのが宮廷で働く者の掟なのである。

「それにしても、薫さんとお前は未だにぎこちないね。久々に会ったけど、まだ他人行儀じゃないか」

 直弥は突然薫の話を始めた。高臣は腕をピクリとさせ、手を止めて直弥をじろりと睨む。

「別に。夫婦なんてあんなものだろう?」
「何言ってるんだ。どこの夫婦ももう少しこう……こなれた雰囲気になるものだよ。薫さんとは仲良くしているのか?」
「お前に話す必要はないね」

 ぷいと顔を逸らし、再び面倒な書類書きに戻った高臣に、直弥はニヤニヤしながら顔を寄せた。

「たまには二人で出かけてみたらどうだ? どうせ薫さんを家に閉じ込めて、どこへも連れて行ってないんだろ? かわいそうじゃないか。活動写真(映画)でも観に行ってみたら?」
「別に活動写真には興味がないよ」
「お前の興味はどうでもいいんだよ! 二人で気兼ねなく楽しむのが目的なんだから」
「僕達のことは放っておいてくれ。大丈夫だ」

 その場では素っ気なく返し、直弥を追い返した高臣だった。だが書類を書く手は何度も止まり、その度に高臣は何やら考え事をしていた。


♢♢♢


「――活動写真ですか?」

 その夜帰宅した高臣を出迎えた薫に、高臣は突然活動写真を観に行こうと誘って来た。

「嫌なら、いい」
「嫌だなんて、そんな! そういうわけではなくて、活動写真を観たことがないもので……ちょっと驚いただけです。もちろん、行きたいです」
「……ならば、次の休日でどうか?」
「はい、大丈夫です」

 高臣は薫の返事を聞き、安心したように小さく頷くと階段を上がって行った。

 薫はまさか高臣に一緒に出掛けようと誘われるとは思わず驚いたが、せっかくのお誘いを断る理由はない。それに二人で出かければ、このぎこちない夫婦関係も少しは進展するかもしれない。薫にとってもいい機会だ。

(でもこれって……ひょっとして逢引(デート)というやつかしら)

 恋愛小説などで度々出て来る言葉を思い出し、薫は急に落ち着かなくなった。男性と逢引などしたことのない薫は、どうすればいいのか分からない。

(落ち着いて。ひょっとしたら怪異に関することで出かけたいのかもしれないし……きっとそれよね。高臣様が何の目的もなく私を誘うはずがないもの)

 どことなく浮足立った気持ちを抑えるように、薫は自分に言い聞かせた。