お飾り王太子妃は初恋泥棒の隣国の王と結ばれる

 ウォーノック王城の執務室。
「ふぅ、これで最後だな」

 ガイは最後の書類に署名を入れると、軽く肩を回した。机の上に積まれていた書類の山は、いつの間にかすっかり片付いている。

 近くのデスクに座っていたローナも、ペンを置いてほっと息をついた。
 ここ数時間、二人は並んで仕事をしていたのだ。

「お疲れ様です、陛下」
「ああ、ローナもお疲れさん。休憩にするか」
「はい」

 ほどなくして侍女が紅茶を運んできた。
 二人はデスクを離れ、窓際のソファへ移動する。ローテーブルに置かれたティーカップから、湯気が柔らかく立ち上っていた。

 ローナはカップを手に取り、ひと口飲む。
 温かな香りが喉を通り、張り詰めていた緊張が少しほどけた。
 ガイも背もたれに体を預け、そしてどこか満足げに言った。

「お前が来てからというもの、仕事が早く終わって助かっている」
 カップを軽く揺らしながら続ける。
「書類の整理は早いし、要点もまとめてくれるしな。正直、文官たちより頼りになる」

 思いがけない言葉に、ローナは少し驚いた。
「そのような……。私はただ、出来ることをしているだけです」
 視線を落としながら答える。
「陛下のお役に立てて、大変光栄です」

 この国へ来てから、自分の力が誰かの役に立っていると実感できる。それが何より嬉しい。

 褒められ慣れていないので、素直に受け入れるには、まだ時間がかかるだろうが。

 再びガイへ視線を戻すと、何故が彼はむっとした顔をしていた。

 ——あれ……何か失言を……?

 内心で焦っていると、ガイが不意に身を近付けてきた。
 距離が一気に縮まる。

「二人きりのときは——」
 低い声がすぐ耳元で響いた。
「ガイと呼べと、言っただろう?」

 ローナの手がびくりと震え、紅茶を落としそうになる。
 頬が一気に熱を帯びる。

「も、申し訳ございません、陛——ガイ、様」

 ひどくか細い声。
 それでもガイは、満足そうに目を細めた。
 そして、いたずらが成功した子どものような顔で紅茶をひと口飲む。

 頬だけでなく全身が熱くなっていくのを感じ、ローナは彼から視線を逸らした。

 ガイとの婚約が決まって、もう半年。
 それなのにこうして距離を詰められると、いまだに胸が落ち着かなくなる。

「まだ慣れないのか?」
「はい……」

 ローナは困ったように笑った。
 するとガイはカップを置き、ふっと息をつく。

「まあ、無理にとは言わねぇけどな。ただ……お前に名前で呼ばれるの、結構好きなんだ」
 さらりと言われて、ローナの心臓がどくりと跳ねた。

「それは……」
 なんと返せばいいのか分からない。
 言葉が出ないまま、二人の間にしばらく沈黙が落ちる。

 やがてローナは、意を決したように息を吸った。
 そして、そっと身体をガイのほうへ近付ける。

「——ガイ様」

 耳元で、小さく名前を呼んだ。
 直後、ガイの目がぱっと見開かれる。
 そして段々と顔が赤くなっていった。

 想定外の反応に、ローナは目を瞬かせる。
 ガイは片手で口元を押さえ、こちらから視線を逸らす。

「まったく……お前には敵わないな」
 小さくため息をつき、照れくさそうに笑う彼。
 その様子を見て、ローナも思わずくすりと笑った。

 窓の外では、午後の光が庭園を優しく照らしている。
 穏やかな時間が流れていた。

「……今、とても幸せです」

 こちらの言葉に、ガイは嬉しそうに目を細める。
 そして何も言わないまま、もう一度紅茶を口に運んだ。