半年後。
ウォーノック国、王都にある大公の邸で、ローナは家庭教師としての日々を過ごしていた。
「クラム先生、出来ました!」
元気な声が上がる。
教え子である少女が、得意げにノートを差し出してきた。
ガイの従妹——ルーシーだ。
長い髪を揺らしながら、期待に満ちた瞳でローナを見上げている。
ローナは微笑みながらノートを受け取り、丁寧に目を通した。
赤いペンで採点をする。
「満点です。とてもよく出来ましたね、ルーシー様」
優しい笑みを見せ褒めると、ルーシーはぱぁっと顔を輝かせた。
いつの間にか、すっかり懐かれている。
教えることは楽しかった。
知識を伝え、少しずつ成長していく姿を間近で見る。
それは、かつてフィングルトンの王城で過ごしていた頃には味わえなかった喜びだった。
穏やかで、温かな日々。
そんな生活の中で——。
時折、ガイがやって来る。
「よっ。邪魔するぞ」
軽い調子で声をかけながら、顔を出してくる。
執務の合間に立ち寄っているらしいので、長居はしない。
庭のテーブルでお茶を飲みながら、少しだけ言葉を交わす。
その日の出来事や、ルーシーの勉強の進み具合。
たわいもない世間話。
やがて「じゃあな」と手を振り、また仕事へ戻っていく。
ほんの短い時間。
けれど——。
そのひとときが、ローナにとっては一番、心が軽くなる時間だった。
ある日の午後のこと。
いつものように庭で茶を飲んでいると、ガイがふと口を開いた。
視線はカップに落としたまま、どこかそわそわとした様子で。
「なあ、たまには別の場所で茶を飲まないか? 王城とか……」
思いもしない誘いに、ローナは目を瞬かせる。
王太子妃であった頃ならいざ知らず、今は一介の家庭教師でしかない自分が、気軽に訪れて良い場所ではない。
しかしせっかくの彼からの誘い。
断るという選択肢はなかった。
「お邪魔でなければ……」
遠慮がちに答えると、ガイはすぐに頷いた。
「じゃあ、決まりだな」
口元が、嬉しそうに少し緩んでいる。
ピクニックを楽しみにしている子供のような表情だった。
それを見て、ローナの心がくすぐられる。
◇
そして数日後——。
ローナはガイに招かれ、ウォーノック城を訪れた。
案内されたのは、王城の奥にある庭園。
広々とした庭には、色とりどりの花が咲き誇っている。
整えられた芝生の上には白い石の小道が続き、中央には小さな噴水が涼やかな音を立てていた。
柔らかな陽光が降り注ぎ、風が花の香りを運んでくる。
まるで絵画の中のような庭園だった。
その一角に置かれたテーブルで、二人は向かい合って座っている。
湯気の立つ紅茶。
焼き菓子の甘い香り。
穏やかな午後の空気が流れていた。
「どうだ? うちの庭、なかなか悪くないだろ」
ガイが少し自慢げに言う。
「はい、とても素敵です」
ローナは紅茶のカップを持ったまま、素直な感想を述べた。
花々が風に揺れる様子を眺めながら、ふっと微笑む。
かつてフィングルトンにいた頃。
庭園を見ても、こんなふうに心が安らぐことはなかった。
けれど今は——。
向かいに座るガイを見て、ローナはそっとカップに口をつける。
温かな紅茶の香りが、胸いっぱいに広がった。
紅茶を飲みながら、二人はしばらく穏やかな時間を過ごしていた。
だが——。
ふと、ガイがカップを置く。
「……なあ、クラム嬢」
その声はどこか普段より低く、静かだった。
銀灰色の瞳が、まっすぐこちらを見つめている。
まるで覚悟を決めたような視線だった。
「俺の妃になってほしい」
「……え?」
一瞬、時が止まったかのようだった。
言葉の意味が頭に入ってこない。
まるで遠くで誰かが話しているようだ。
数秒遅れて、ようやく理解が追いつく。
理解した途端に、ローナは大きく目を見開いた。
「な……何故」
声が微かに震える。
意味は分かった。
けれど、現実として受け止めきれない。
ガイは真剣な眼差しのまま続けた。
「いつからかは分からない。——ただ、これだけは言える」
銀灰色の瞳は揺るがない。
「俺はお前のことが好きだ。だからどうか——俺の隣にいてほしい」
迷いのない、真っ直ぐな言葉。
本気なのだと嫌でも伝わってくる。
ローナの胸が強く締めつけられる。
心が震わずにはいられない。
まさか想い人から、こんな言葉をもらえるなんて。
だが、嬉しい気持ちと同時に、仄暗い感情も浮き上がっていた。
「私は……陛下とは釣り合いません」
声が小さくなる。
「私は離縁された身ですし……元王太子妃など、立場的にも扱いづらい存在です」
彼のことを思えば思うほど、そうとしか言えなかった。
「何言ってんだ」
けれど、すぐに否定の言葉が飛んでくる。
呆れたように、けれどどこか優しく。
「そんなもん、最初から気にしてない」
そして再び、真剣な表情になる。
「周囲にも、とやかく言わせたりしない。俺が好きなのはお前だ。だからどうか——」
胸がいっぱいになっていく。
視界がぼやけていく。
「そばにいろ……いてくれ」
その言葉で、ローナの瞳からとうとう涙が溢れた。
「はい……私も……」
拭っても拭っても止まらない。
「ずっと……あなたが……好きでした……」
ようやく言えた言葉——。
涙越しに見るガイは、少し照れたように、けれど確かに優しく笑っていた。
叶わないと思っていた初恋。
それが今。
静かに実を結んだのだった。
ウォーノック国、王都にある大公の邸で、ローナは家庭教師としての日々を過ごしていた。
「クラム先生、出来ました!」
元気な声が上がる。
教え子である少女が、得意げにノートを差し出してきた。
ガイの従妹——ルーシーだ。
長い髪を揺らしながら、期待に満ちた瞳でローナを見上げている。
ローナは微笑みながらノートを受け取り、丁寧に目を通した。
赤いペンで採点をする。
「満点です。とてもよく出来ましたね、ルーシー様」
優しい笑みを見せ褒めると、ルーシーはぱぁっと顔を輝かせた。
いつの間にか、すっかり懐かれている。
教えることは楽しかった。
知識を伝え、少しずつ成長していく姿を間近で見る。
それは、かつてフィングルトンの王城で過ごしていた頃には味わえなかった喜びだった。
穏やかで、温かな日々。
そんな生活の中で——。
時折、ガイがやって来る。
「よっ。邪魔するぞ」
軽い調子で声をかけながら、顔を出してくる。
執務の合間に立ち寄っているらしいので、長居はしない。
庭のテーブルでお茶を飲みながら、少しだけ言葉を交わす。
その日の出来事や、ルーシーの勉強の進み具合。
たわいもない世間話。
やがて「じゃあな」と手を振り、また仕事へ戻っていく。
ほんの短い時間。
けれど——。
そのひとときが、ローナにとっては一番、心が軽くなる時間だった。
ある日の午後のこと。
いつものように庭で茶を飲んでいると、ガイがふと口を開いた。
視線はカップに落としたまま、どこかそわそわとした様子で。
「なあ、たまには別の場所で茶を飲まないか? 王城とか……」
思いもしない誘いに、ローナは目を瞬かせる。
王太子妃であった頃ならいざ知らず、今は一介の家庭教師でしかない自分が、気軽に訪れて良い場所ではない。
しかしせっかくの彼からの誘い。
断るという選択肢はなかった。
「お邪魔でなければ……」
遠慮がちに答えると、ガイはすぐに頷いた。
「じゃあ、決まりだな」
口元が、嬉しそうに少し緩んでいる。
ピクニックを楽しみにしている子供のような表情だった。
それを見て、ローナの心がくすぐられる。
◇
そして数日後——。
ローナはガイに招かれ、ウォーノック城を訪れた。
案内されたのは、王城の奥にある庭園。
広々とした庭には、色とりどりの花が咲き誇っている。
整えられた芝生の上には白い石の小道が続き、中央には小さな噴水が涼やかな音を立てていた。
柔らかな陽光が降り注ぎ、風が花の香りを運んでくる。
まるで絵画の中のような庭園だった。
その一角に置かれたテーブルで、二人は向かい合って座っている。
湯気の立つ紅茶。
焼き菓子の甘い香り。
穏やかな午後の空気が流れていた。
「どうだ? うちの庭、なかなか悪くないだろ」
ガイが少し自慢げに言う。
「はい、とても素敵です」
ローナは紅茶のカップを持ったまま、素直な感想を述べた。
花々が風に揺れる様子を眺めながら、ふっと微笑む。
かつてフィングルトンにいた頃。
庭園を見ても、こんなふうに心が安らぐことはなかった。
けれど今は——。
向かいに座るガイを見て、ローナはそっとカップに口をつける。
温かな紅茶の香りが、胸いっぱいに広がった。
紅茶を飲みながら、二人はしばらく穏やかな時間を過ごしていた。
だが——。
ふと、ガイがカップを置く。
「……なあ、クラム嬢」
その声はどこか普段より低く、静かだった。
銀灰色の瞳が、まっすぐこちらを見つめている。
まるで覚悟を決めたような視線だった。
「俺の妃になってほしい」
「……え?」
一瞬、時が止まったかのようだった。
言葉の意味が頭に入ってこない。
まるで遠くで誰かが話しているようだ。
数秒遅れて、ようやく理解が追いつく。
理解した途端に、ローナは大きく目を見開いた。
「な……何故」
声が微かに震える。
意味は分かった。
けれど、現実として受け止めきれない。
ガイは真剣な眼差しのまま続けた。
「いつからかは分からない。——ただ、これだけは言える」
銀灰色の瞳は揺るがない。
「俺はお前のことが好きだ。だからどうか——俺の隣にいてほしい」
迷いのない、真っ直ぐな言葉。
本気なのだと嫌でも伝わってくる。
ローナの胸が強く締めつけられる。
心が震わずにはいられない。
まさか想い人から、こんな言葉をもらえるなんて。
だが、嬉しい気持ちと同時に、仄暗い感情も浮き上がっていた。
「私は……陛下とは釣り合いません」
声が小さくなる。
「私は離縁された身ですし……元王太子妃など、立場的にも扱いづらい存在です」
彼のことを思えば思うほど、そうとしか言えなかった。
「何言ってんだ」
けれど、すぐに否定の言葉が飛んでくる。
呆れたように、けれどどこか優しく。
「そんなもん、最初から気にしてない」
そして再び、真剣な表情になる。
「周囲にも、とやかく言わせたりしない。俺が好きなのはお前だ。だからどうか——」
胸がいっぱいになっていく。
視界がぼやけていく。
「そばにいろ……いてくれ」
その言葉で、ローナの瞳からとうとう涙が溢れた。
「はい……私も……」
拭っても拭っても止まらない。
「ずっと……あなたが……好きでした……」
ようやく言えた言葉——。
涙越しに見るガイは、少し照れたように、けれど確かに優しく笑っていた。
叶わないと思っていた初恋。
それが今。
静かに実を結んだのだった。



