お飾り王太子妃は初恋泥棒の隣国の王と結ばれる

 それから八年の月日が流れ——。

 十八歳になったローナは、王太子マットの正妃となっていた。
 王太子妃となった今も、日々の過ごし方は大きく変わらない。

 朝から晩まで机に向かい、書簡の作成や書類の整理に追われる毎日。
 国内の貴族や他国の王族へ送る挨拶状、催しの礼状、外交上のやり取り——その多くを、ローナが一人でこなしていた。

 一方で、夫となったマットはというと。
 政務の途中で席を外し、そのまま城を出て行くこともしばしばあった。

 どこへ行っているのか。
 何度問いただしても、彼が答えることはない。

 ——……きっと、私が知らなくてもいいことなのだろう。

 そう思うことにして、ローナはそれ以上追及しないようにしていた。

 言いようのない空虚さを無視して。

 そんなある日のこと。
 回廊を歩いていたローナの耳に、ひそひそとした声が届く。
 近くにいた侍女達が、何かを噂しているようだった。

「ねぇ、聞いた? 王太子殿下、ローナ様と離縁なさるおつもりですって」
「なんでも、意中の伯爵令嬢を正妃にするためだとか」

 耳に入った途端——。
 頭が真っ白になった。
 思わず息を呑む。

 侍女たちに気付かれないよう、慌てて柱の陰へと身を隠した。
 心臓が激しく鳴り響く。

 ——そんな……そんなはず……。

 否定の言葉は自分でも驚くほど弱々しかった。
 ここ最近のマットの態度を思い返せば、完全に否定することなどできない。

 ローナはふらつく足取りで歩き出した。
 ずしりと重くなった身体を引きずるようにして、夫の元へ向かう。

 真意を確かめるために。



「殿下。今、聞いたのですが……離縁のお話は……」

 談話室で見つけたマットは、いつものようにだらしなくソファに腰掛けていた。

 マットは一瞬きょとんとした顔をした後、あっさりと頷く。

「ああ。本当だよ」

 ローナの足元がぐらりと揺れた。
 今にも倒れそうになる身体を、必死に踏みとどまる。

 そんなローナの様子など気にも留めず、マットは軽い調子で話し続けた。

「いやぁ、どう切り出そうかと思ってたんだけどさ」
 面倒事が片付いたと言わんばかりに笑う。

「手間が省けて良かったよ」
 マットは立ち上がると、軽く顎で出入り口の方を示した。
「ほら、ちょうどいい。紹介しておくよ」

 案内された客間には、一人の令嬢が立っていた。
 柔らかな金髪を揺らしながら、優雅に微笑んでいる。

 ベッシー・プラット。
 プラット伯爵家の娘だ。
 彼女の視線が、ゆっくりとローナへ向けられる。

 まるで、勝者が敗者を見下ろすかのように。

「彼女と結婚したいんだ。だから——離縁してほしい」

 あまりにもあっさりとした口調だった。
 まるで、不要になった書類の処分を告げるかのように。

 客間には静かな沈黙が落ちる。
 ローナは一度だけ、ゆっくりと息を吸った。

 胸がズキズキと痛む。
 けれど、それを表に出すわけにはいかない。

「……承知しました。謹んでお受けいたします」

 ローナはゆっくりとカーテシーをした。
 王太子妃としての、完璧な礼。
 もうすぐそうではなくなるけれど。

 マットは満足そうに頷いた。
「ありがとう。君ならそう言ってくれると信じてたよ。君は有能だ。離縁後も、相応の待遇は用意しよう」

 有能——。
 その言葉が、鋭く胸に突き刺さる。
 愛されていないことは分かっていた。
 けれどここまで明確に、自分が便利な駒としてしか見られていなかったとは。

「……ありがとうございます」
 それ以上の言葉は出てこなかった。

 マットはご機嫌な表情で、そのまま客間を出ていく。
 ベッシーも彼の腕にそっと手を添え、後に続いた。

 そのすれ違いざま。
 彼女がローナの耳元で、くすりと笑う。

「お気の毒様。殿下は最初から、あなたのことなんて女として見ていなかったのよ」

 甘い声で、毒を落とすように囁いてきた。
 そのまま二人は部屋を出ていく。
 扉が閉まる音がやけに大きく響いた。

 一人になった途端に、膝が震え出す。
 力が抜けそうになるのを、どうにか堪えた。
 この場で崩れ落ちるわけにはいかない。
 ローナはふらつく足で歩き出す。

 地下書庫へ。
 幼い頃から、何か嫌なことがあるたびに逃げ込んだ場所。

 燭台に火を灯し、地下へと続く階段を下りていく
 重い扉を押し開けると、慣れ親しんだ紙と埃の匂いが漂った。

「……っ」

 書庫へ辿り着いた瞬間に。
 抑えていた感情が決壊する。

 ローナは机に手をつき、そのまま俯いた。
 肩が震える。
 嗚咽を必死に噛み殺す。

 どれだけ努力しても。
 どれだけ役目を果たしても。

 ゴミのように捨てられる。
 胸がきりきりと痛む。

 ——私は……。
 一体なんのために——。

 涙が溢れて止まらない。
 するとここで、コツ、と近くで足音がした。

 ローナははっと顔を上げる。

 慌てて涙を拭い、周囲へ視線を巡らせた。
 薄暗い書架の向こうから声が落ちる。

「……相変わらず静かで落ち着く場所だな、ここ」

 低く落ち着いた声。
 その声を聞いた途端に、傷心中の心臓が大きく跳ねた。

 薄暗がりの向こうに、人影が見える。
 黒い髪。
 そして、灯りを反射する銀灰色の瞳。

 昔と変わらない色。
 けれど、あの頃とは姿が異なる。

 背は高くなり、肩幅も広くなった、紛れもない一人の男の姿だった。

「ウォーノック……陛下……?」
 思わず声が零れる。

 隣国の王、ガイ・ウォーノック。
 かつてこの地下書庫で涙を流していた人物。
 ローナの初恋の人。
 その彼が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。

「久しぶりだな、お嬢さん。——いや……今は王太子妃様、か?」

 懐かしむように目を細めながら。