お飾り王太子妃は初恋泥棒の隣国の王と結ばれる

 王城の一室には、いつも静かな緊張が漂っていた。

「——ローナ様。……ローナ様」

 教師のぴしりとした声に、十歳のローナ・クラムはハッと顔を上げた。
 目の前の机には、びっしりと文字の並んだ外交史の書。朝から何時間も向き合っているそれを、理解できているかと問われれば正直怪しい。

「も、申し訳ありません……」

 まだ幼い声で謝り、背筋を伸ばす。
 王太子の婚約者である以上、眠気など言い訳にもならない。立派な妃になるために、礼儀作法、政治学、歴史、宗教、語学――王城に通い詰め、朝から晩まで学ぶ日々。
 それがローナの日常。

 昨夜も復習を終えたのは深夜だった。
 そのため、頭が上手く回らない。
 それでも己の役目を全うするために、周囲の期待に応えるために、休むわけにはいかない。

 ようやく午前中の授業が終わり、書物を抱えて部屋を出る。

 長い回廊を歩き、磨き上げられた石の階段を一段、二段――。下りたところで、ふっと視界が揺れた。

「あ……」

 足がもつれ、悲鳴を上げる間もなく、身体が前に投げ出される。

 そのまま階段を転げ落ち、床に叩きつけられるかと思ったが——衝撃は訪れなかった。

「っと。危ねぇな」

 低い声が耳元で響く。

 反射的に瞑っていた目を開けると、ローナの身体は誰かの腕にしっかりと抱き留められていた。

 どうやら離れた場所から駆けつけてくれたらしい。耳元で僅かに荒い息遣いが聞こえる。

 ローナははっとして顔を上げた。

 黒い髪。
 鋭い銀灰色(ぎんかいしょく)の瞳。

 見間違えるはずがない。

 隣国ウォーノックの若き王——ガイ・ウォーノックだった。

 何故彼がここにいるのかと思ったのはほんの一瞬。
 外交で今日から数日間、この国に滞在する予定なのだと思い出す。

「大丈夫かい? お嬢さん」

 距離が近い。
 近過ぎる。
 ローナの心臓が激しく跳ねる。

「も、申し訳ございません陛下!」

 慌てて身体を起こし、ガイの腕から離れた。

 とんでもない無礼を働いてしまった。
 心臓がばくばくと鳴り続けている。

「ローナよ、怪我はないか?」

 動揺を隠せずにいたところに、階段の下から声が飛んできた。

 視線を向ければ、この国——フィングルトンの王がこちらを見上げている。

「は……はい。大丈夫です」
 慌てて答える。

 するとその隣に立っていた少年がクスクスと笑った。

「はは。まったく、相変わらず鈍臭いなぁ、ローナは」

 どこか面白がるような声。
 マット・フィングルトン。
 この国の王太子であり——ローナの婚約者だ。

 普通ならば、婚約者が階段から落ちかけたのだ。少しくらい心配の言葉があってもよさそうなものだが。

 マットはただ口に手を当て、呆れたように笑っているだけだった。

 ローナは思わず視線を伏せる。
 ズキリと痛む胸中を、悟られぬように。

 そうしていると、ガイが顔を覗き込んできた。

「本当に大丈夫か? 顔色が悪いみたいだが」

 心配そうに眉を寄せる彼に、ローナは慌てて首を振る。

「そ、その……寝不足気味なだけですので。お気になさらず……」

 ばつが悪くなり、ガイから目を逸らす。
 自分の不摂生のせいで、隣国の王にまで気を遣わせてしまうなんて。
 申し訳なさで胸がきゅっと縮こまった。

 するとガイが、小さく息を吐いた。
「そうか。その歳でもう妃教育を受けているのか」
 感心したように呟き、そしてふっと柔らかく笑う。

「偉いな、クラム嬢は」

「え……?」
 思わず彼を見た。

「だが、あまり根を詰め過ぎるなよ?」
 銀灰色の瞳が、まっすぐこちらを見つめる。
「身体を壊したら元も子もない」
 それだけ言うと、ガイはくるりと背を向けた。

「それじゃあな」
 軽く手を振り、そのまま階段を下りていく。
 そして国王とマットとともにどこかへと行ってしまった。
 
 ローナはその場で立ち尽くす。

 ——……どうして。

 心臓が、妙に落ち着かない。

 ——どうして、あの人は。

 自分を褒めてくれたのだろう。

 これまで、そんな言葉をかけられた覚えはほとんどない。

「ウォーノック陛下、いつ見ても立派なお方だ」
「ああ本当に、とても十五歳とは思えない。ご両親が亡くなられて、さぞお辛いだろうに」
 近くにいた貴族達が、口々に声にする。

 だがローナには、その言葉はほとんど入ってこなかった。

 早鐘のように鳴り続ける心臓の音だけが、彼女の鼓膜を震わせていた。

 ◇

 それから数日後。

 行儀作法の授業は、ローナにとって最も苦手な時間だった。
 背筋の角度、指先の揃え方、カーテシーの深さ。少しでもずれれば、鋭い指摘が飛ぶ。

「王太子妃となるお方が、その程度では困ります」

 その言葉を、今日だけで何度聞いただろう。
 授業が終わった頃には、心臓がぎゅっと縮こまり、涙がこぼれそうになっていた。

 ——だめ、こんなところで泣いては……。

 次の勉強が始まるまでの、ほんの僅かな空き時間。
 ローナは人目を避けるように、足早に回廊を抜けた。

 向かう先は、地下書庫。

 王城の奥深くにあるそこは、滅多に人が訪れない。
 埃と古書の匂いに満ちた、静かな場所。幼い頃から、嫌なことがあるたびに、ローナはここへ逃げ込んでいた。

 燭台の蝋燭に火を灯す。
 揺れる炎を頼りに、石造りの階段を一段、また一段と下りていく。

 地下書庫に足を踏み入れた途端、ひんやりとした空気が肌を撫でた。

 天井まで届く高い書架が、迷路のように並んでいる。
 年代の分からない分厚い書物、革張りの背表紙、金文字の剥げた題名。
 ここでは時間そのものが、ゆっくりと眠っているようだった。

 ローナはほっと息をつく。

 ——少しだけ……休もう。

 そのときだった。

 微かな物音——。

 息を詰め、耳を澄ます。
 書架の向こうから、押し殺したような嗚咽が聞こえた。

「……え?」

 恐る恐る近付くと、薄暗がりの奥に人影が見えた。

 黒髪。
 見覚えのある背中。
 それが机に伏している。

「ウォーノック、陛下……?」

 声をかけると、その人影がびくりと肩を揺らした。

 上げた顔は、間違いない。
 隣国の王――ガイ・ウォーノック。

 彼は一瞬、目を見開くと、次いで困ったように笑った。

「なんだ、お嬢さんか。……いやー、参ったな。見られちまった」

 頭を掻き軽口を叩くが、瞳は少し充血しており、頬には涙の跡が残っていた。

 胸が締めつけられる。
「……お怪我を、されたのですか?」

「はは。いや、そんなんじゃねぇよ。……じゃあ、俺はこれで——」

 足早に出ていこうとするガイ。
 ローナは咄嗟に、彼の袖の端を掴んだ。
 驚いたようにガイがこちらを見る。
 ローナ自身も、無意識に行なった己の行動に驚愕していた。

 理由はおそらく——。
 このまま彼をこの場から立ち去らせるのは、あまりにも酷だと思ったから。
 ぎゅっと袖を掴む手に力を込め、意を決して口を開く。

「……泣きたいときは、泣いても……いいと思います」

 ガイの目が僅かに見開かれる。

「泣くことは、弱いことではありません。だから——」
 袖から手を離し、ハンカチを差し出す。

 しばらくの沈黙の後、ガイは小さく息を吐いた。

「……参ったな。本当に」

 直後、彼の目からぽろりと涙がこぼれ落ちる。
 (せき)を切ったように、次々と。

「……両親が死んでからな。たまに、こうなるんだよ」
 ハンカチを受け取ったあと、低く掠れた声で彼は話す。

「理由もなく、急に……涙が止まらなくなる。王が泣いてるなんて知れたら、周りが余計に心配するだろ? だから……こうして隠れてた」

 胸に突き刺さる言葉だった。
 心臓がドクンと跳ねる。
「ここでは、王様でなくても……いいと思います」
 勇気を振り絞って、一歩近付く。

「誰も、見ていませんから。——あ、お邪魔でしたら、私……出て行きます」

 自分がいたら泣きづらいだろうと、出口へ向かおうとしたが——。

 ふいに、ガイの手がこちらへ伸びる。

「……いてくれ」

 震えた声。
 ローナは思わず足を止める。

 大きな手がこちらの手を掴んで離さない。
 まるで、縋りつくように。

「ここにいてくれ」

 普段の彼からは想像もできないほど、か細い声だった。

「——はい」
 その手を振り払うなど、誰が出来るだろうか。

 こちらが小さく頷くと、ガイはその場に力が抜けたようにしゃがみ込んだ。

 広い肩が、微かに震えている。

 ローナは少し迷った後、そっと彼の背中に手を置いた。
 そして、子どもをあやすように優しく撫でる。
 何も言わずに。
 ただ、そこにいることだけを伝えるように。

 ——この方にも……こんな弱いところが……。

 心臓が、さらに強く疼く。
 助けてもらったときよりも、もっと深く、確かに。

 ——……ああ、私はこの方に————。

 恋をしている。

 そう結論付けた自分に、慌ててブレーキをかけた。

 自分には婚約者がいる。
 王太子妃としての未来が、既に決められている。

 ——だから、この気持ちは……。

 誰にも知られない場所に。
 誰にも許されない初恋として。
 大切に、しまっておこう。