放課後、国語教師と。

 それから数日、私は本当に一度も先生のクラスに行かなかった。
 放課後になれば、まっすぐ帰る。
 わざと遠回りをして、先生のクラスの前は通らないようにしていた。
 ――これでいい。
 そう思っていた。
 
 なのに。
 どこか、満たされなかった。
 友達と話していても、前みたいに笑えなかった。
 お弁当を食べていても、何故か味が感じられなかった。
 授業中、先生が話していても聞き流してしまう。
 何をしていても、どこか上の空だった。
 気づけば、無意識に考えてしまう。
 
 ――今、何してるのかな。
 ――他のクラスで授業中かな。
 
 考えないようにしようとするほど、頭の中に浮かんでくる。
 忘れようとしても、忘れられない。
 そんな自分が、嫌だった。

 ある日の昼休み、廊下を歩いていると、どこかから聞き慣れた声がした。
 その瞬間、足が止まる。
 聞き慣れた低音の声。
 間違えるはずがない。
 ――先生の声だ。
 
 振り向かなきゃいい。
 振り向いたら、また苦しくなってしまう。
 だから、そのまま歩けばいい。
 そう思ったのに。

 気づいたときには、立ち止まっていた。
 たった、それだけで胸が苦しくなる。
 会っていないだけで、こんなにも違うんだと、思い知らされた。
 ――会いたい。

 その気持ちが、抑えきれなくなっていた。

 やめるって、決めたはずなのに。
 もう会いに行かないって決めたのに。
 会いに行ってしまったら、もう戻れないって分かっているのに。

 気づけば、私は歩き出していた。
 向かう先は、決まっていた。

 先生のクラスの前。
 教室のドアの前で、足が止まる。
 中からは、楽し気な話し声が聞こえていた。
 ――やっぱり、やめようかな。

 そう思った、その時だった。
 ドアが開いた。
 中から出てきたのは、先生だった。
 目が合った。
 一瞬、時間が止まった気がした。

「……なんだ。」

 先生は、いつもと同じ調子で言った。

「久しぶりだな。」

 その一言で、胸の奥がじわりと熱くなった。
 たった、それだけなのに。
 それだけで、十分だった。

「……うん。」

 うまく言葉が出なかった。
 会いたかったはずなのに。
 いざ目の前にすると、何も言えなくなる。
 それでも、ここに来てよかったと思った。
 ――やっぱり、私は。

 先生に会いたかったんだ。

「最近、来なかったな。体調でも崩してたか?」

 先生は何気なく言った。
 その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。
 ただ、心配されただけなのに。
 それだけのことなのに、どうしてこんなに嬉しいんだろう。
 だけど、同時に少しだけ苦しくなった。
 きっと先生は、誰にでも同じように言うのに。
 私は、慌てて答えた。
 
「いや、最近忙しくて。」
 
 夏華と同じ嘘をついてしまった。
 本当のことなんて、言えるはずもなかった。

「まぁ、そうか。柚葉も、大変だな。」
「……そうですね。」
 
 先生は、それ以上のことは聞かなかった。
 だけど、その慰めの言葉が、私には辛かった。
 その優しさが、私の心を痛めつけてくる。
 これ以上好きになっちゃ駄目なのに。

「……今日はどうした。」

 先生が、少しだけ首を傾げながら聞いていた。
 その仕草すら、懐かしく愛おしく感じてしまった。

「いや……なんとなく。」

 本当に、それしか言えなかった。
 会いたかったから、なんて。
 言えるわけがない。

「……なんとなくか。」

 先生は小さく笑った。
 その表情を見た瞬間、胸がきゅっと締め付けられる。
 ――やっぱり、好きだ。

 改めて、そう思ってしまった。
 知らなければ、こんな風に苦しくなることもなかったのに。

「……じゃあな。」

 先生は、そう言って歩き出そうとした。
 その背中を見た瞬間。

「……先生。」
 
 思わず、呼び止めていた。
 自分でも驚いた。
 先生が振り返る。

「ん?」
 
 何か言わなきゃ。
 でも、言葉が出てこない。

「……なんでもないです。」

 結局、そう言うしかなかった。
 先生は少しだけ不思議そうな顔をして、

「そうか。」

 それだけ言って、今度こそ歩いていった。
 その背中が、どんどん遠ざかっていく。
 追いかけることは、できなかった。
 ただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
 ――やっぱり、だめだ。

 離れようとしても、離れられない。
 むしろ、会ってしまったことで、余計に強くなってしまった。
 さっきの先生の顔が、頭から離れない。
 声も、表情も、全部。
 何度も、何度も思い出してしまう。
 消そうとしても、勝手に浮かんでくる。
 まるで、忘れることを許されていないみたいだった。
 ――ああ、だめだ。
 
 この気持ちは、もう。

 簡単には消えてくれないみたいだった。