「リヒトさん……」
上手く言葉が出ない。ぼくの信じた世界にヒビが入り、砕けてしまう。
幸せだった日々が完全に壊れてしまう前に、何も聞かなかったふりをして、いっそ目の前の彼を殺してしまおうか。
掘られたばかりのその穴に彼を埋められたなら、永遠に神さまとのまやかしの楽園を留められる気がした。
今彼を引き倒して、馬乗りになってその首を絞めたなら。 彼は驚いたようにして、一瞬ぼくの手首を掴むけれど、それでもそれ以上抵抗せず受け入れてくれるだろう。
ぼくにはわかる。彼に殺されることで救われる想像を、何度も何度もしたのだから。
きっと、首を絞められて尚、ぼくを殺さずに済んだと安堵する彼は、最期の時まで変わらず美しいのだろう。
そんな静かで美しい終わりを想像して、これまで過ごした日々を反芻し、ぼくは縋っていた理想に別れを告げる決意をする。
「……リヒトさんの罪、よくわかりました。話してくれて、ありがとうございます」
「ごめんね、ユウヒくん。こんな話、怖がらせたよね……。でも、言っただろう? 命が惜しければ、きみも僕みたいのには深入りしない方がいいって」
「それは……」
「それなのに、近付いてごめんね……。罪悪感に押し潰されそうだったきみが、僕に似ている気がして、つい……。決してきみを死なせたいわけじゃないんだよ」
目の前にいるのは、決して万能な神さまではない、弱い人間の彼。
初めて弱い部分を見て、その孤独に触れて、本来なら忌避すべき死の気配と罪を知った。
確かにぼくは、崇めていた理想を失った。けれど以前よりもずっと、彼を近しく感じられたのも事実だった。
思い返した愛しい日々はすべて、彼のついた嘘だったかもしれない。それでもぼくが受け取った優しさも嬉しさも、今でもあたたかくぼくの心を照らしてくれる。ぼくにとっては、それは確かに本物だった。
ぼくはそっと彼に手を伸ばし、その白い首ではなく、シャベルを握る手にそっと手を重ねる。
その手は記憶よりも小さくて、指先は少し震えていた。
「……リヒトさん。ぼくは、あなたの共犯者です……ぼくはあなたを裏切りません。絶対に」
「え……」
「もしまだ人を信じるのが怖いなら、ぼくだけを信じてください」
「ユウヒくん……でも」
「裏切る気はないですけど……もしそう感じさせたとしたら、その罰は受けますよ。ぼくは、あなたに殺されるなら本望ですから」
本来それを強く望んでいたけれど、今でも心の奥底ではそれを願っているけれど、ぼくはあくまで冗談めかして伝える。
リヒトさんは、無慈悲に命を奪ってくれる殺人鬼でも、許しをくれる神さまでもない。それでもぼくは、彼の隣に居たかった。
「どうして、そんな……」
死にたかった気持ちに蓋をして、ぼくは同じ気持ちを抱えているであろう孤独な彼の共犯者であることを願う。
「ぼくにとって死は許しです……だけどあなたがいるから、こんな世界でも生きたいと思える。あなたは、ぼくの光だから」
神さまじゃなくてもいい。完璧じゃなくたって構わない。
あの夏の日差しのような鮮烈さも、ランタンの明かりの包み込むような柔らかさも、窓から差し込む月明かりのような静かな美しさも、罪の色をしたステンドグラスのような彩りも、ぼくをまっすぐに見て優しく微笑む彼の眼差しも。
リヒトさんの傍で感じる光はいつだって、ぼくにとっての救いだった。
「……ふふ、そっか。ありがとう、ユウヒくん。……僕に、きみを殺させないでね」
リヒトさんは少しの沈黙の後、シャベルを握るのとは反対の手を、そっとぼくの手に重ねた。
そして顔を上げた彼は、ぼくが初めて見る、泣き笑いのような表情をしていた。
「はい、リヒトさん。……約束です」
ヒビ割れた理想の向こう、ようやく本心に触れられた気のする等身大の彼は、記憶の中よりも美しかった。
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