ぼくの神さま。


「おはよー。ねぇねぇ、昨日のドラマ見た!?」
「あー見た見た、超よかったよね! 赤星くん、ビジュよすぎて顔面国宝だった」
「ほんとそれ! 青月くんも毎秒どの角度から見ても顔がいいし、銀河くんは筋肉ヤバかった……みんな違ってみんなメロ」
「それな……主題歌の入りも神だったし……あー、早く来週にならないかなぁ」

 学校についてからは、いつもと代わり映えしない、つまらない時間だった。
 推しのアイドルの話やドラマの話で盛り上がる女子たちに、怪獣みたいにぎゃーぎゃー大声で騒ぐ男子たち。ごく一部のおとなしい人たちさえ、狭い教室の中でみんなそれぞれの群れをなしていて、ぼくはどこにも属さずに、教室の片隅でぼんやりとそれを眺めていた。

「……くだらないな」

 やがて授業が始まると、たまに席の近いタクロウくんが消しカスや丸めたノートをぼくに投げてくるけれど、人目のあるところではそれ以上の意地悪をされることはない。
 うちと違って裕福な家庭の彼らは、来年私立受験だからと早くも世間体と内申点を気にしているのだろう。
 それならはなからイジメなんてしなければいいのに、本人たちはイジメではなくイジリだと宣うのだ。人目を気にしている時点で、悪いことだという自覚はあるはずなのに。
 彼らには、ぼくがあんなに抱いていた罪の意識の欠片も存在しないように思えた。そもそもまったく別の思考回路を持った人種なのだと改めて感じる。

 休み時間や放課後は、タクロウくんたちに目をつけられないようひっそりと過ごした。彼らはあれで外面がいいので、友達も多い。基本的には友達と遊んで騒いでいるのだが、退屈になると、思い出したようにぼくをストレス発散の道具にするのだ。
 授業中と違い、誰もいない場所に連れ出されては何をされるかわからないので、ぼくは彼らの気まぐれの被害に遭わないよう、いつも気を張って教室の片隅で空気になるしかなかった。
 時々教室に居るのが耐えられなくて、図書室や体育館に逃げてみるけれど、どこに行ってもぼくの居場所はやっぱりなかった。

「おいユウヒー、ちょっと付き合えよ」
「え……」
「あっちで一緒に遊ぼうぜ」

 今日は朝の絡みのせいか、タクロウくんたちの意識がぼくに向いていたらしい。昼休みになると、わざとらしく張り付けた笑みでこちらに向かってきたものだから、ぼくは咄嗟に立ち上がった。

「あ……ぼく、頭痛いからこれから保健室に行くんだ」

 そんな嘘をついて、その場から逃げ出す。きっと腹いせに授業中物を投げられるか、離れている間にこっそり机の中身を隠されるけれど、そっちの方がましだった。

「は……? なんだよあいつ。絶対仮病だろ。ちっ、うぜー」
「せっかくおれたちが遊んでやるって言ってんのになぁ。ま、いいや。雨宮クンとはまた今度たっぷり遊んでやろうぜ」
「そうだな」

 いつもなら、されるがままだった。嫌な目に遭うとわかりながらも、波風立てたくなくて大人しくついていった。
 特にここ最近は、ミーティアのことで全部自分が悪いモードだったから、与えられる痛みさえ当然のように受け入れていた。
 けれどぼくの罪はすべて、昨日の時点で埋められたのだ。いつも抱えていた自虐的な思考は薄れていた。
 それどころか、制服についた土も、ぼくを見下ろす笑みも、昨日のリヒトさんとの神聖な時間を不快なノイズで上書きされたのが、どうしても許せなかったのだ。
 理不尽なタクロウくんたちへの、怒りの感情。とっくにいろいろと諦めていたと思っていたのに、そんなものがまだ残っていたのだと自分でも驚く。

「……あ」

 逃げるように廊下に出て早足で歩いていると、不意にバキッという小さな音とともに、何かを踏みつけた感覚がした。
 立ち止まり、恐る恐る足を上げると、そこにはプラスチック製の、折り畳み式のオレンジ色の櫛が落ちていた。
 誰の物かもわからないそれは、ぼくの体重で無惨にも潰され、折り曲げ部分が割れてすっかり壊れてしまっていた。

「……っ!」

 反射的にそれを拾い上げたぼくは、誰にも見られないようにブレザーのポケットに壊れた櫛を隠し入れた。
 わざとではないものの、誰かの物を壊してしまったのだ。

 オレンジの、ラメの入った可愛らしい櫛。辺りをそっと見渡すけれど、櫛を探すような素振りをする持ち主らしき人は見当たらない。

 それからぼくは、浅くなった呼吸をなんとか整え、何にもなかったふりをして、その場を立ち去った。
 取り返しのつかないことをしてしまった時に、咄嗟に隠してしまうのはぼくの癖なのかもしれない。
 本当ならその場で声を上げ、持ち主を見つけて謝れたらいいのに、そんな勇気も持ち合わせていなかった。

 ぼくがタクロウくんたちから逃げたりしたから、櫛を踏んでしまった。ぼくがおとなしくしていれば、櫛は誰かが拾いに来たかもしれない。

 せっかく昨日、罪の眠りを許され穏やかになれたのに、ぼくの心の中は再び罪悪感でいっぱいになった。